chats
sequence | footnote
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| meta
dict |
---|---|---|
[
[
"旦那さん、お気に入りまして嬉しゅうございますわ。さあ、もうお一つ。",
"頂戴しよう。なお重ねて頂戴しよう。――時に姐さん、この上のお願いだがね、……どうだろう、この鶫を別に貰って、ここへ鍋に掛けて、煮ながら食べるというわけには行くまいか。――鶫はまだいくらもあるかい。",
"ええ、笊に三杯もございます。まだ台所の柱にも束にしてかかっております。",
"そいつは豪気だ。――少し余分に貰いたい、ここで煮るように……いいかい。",
"はい、そう申します。",
"ついでにお銚子を。火がいいから傍へ置くだけでも冷めはしない。……通いが遠くって気の毒だ。三本ばかり一時に持っておいで。……どうだい。岩見重太郎が註文をするようだろう。",
"おほほ。"
],
[
"どういたして、……まことに御馳走様。……番頭さんですか。",
"いえ、当家の料理人にございますが、至って不束でございまして。……それに、かような山家辺鄙で、一向お口に合いますものもございませんで。",
"とんでもないこと。",
"つきまして、……ただいま、女どもまでおっしゃりつけでございましたが、鶫を、貴方様、何か鍋でめしあがりたいというお言で、いかようにいたして差し上げましょうやら、右、女どももやっぱり田舎もののことでございますで、よくお言がのみ込めかねます。ゆえに失礼ではございますが、ちょいとお伺いに出ましてございますが。"
],
[
"串戯のようですが、全く三階まで。",
"どう仕りまして。",
"まあ、こちらへ――お忙しいんですか。",
"いえ、お膳は、もう差し上げました。それが、お客様も、貴方様のほか、お二組ぐらいよりございません。",
"では、まあこちらへ。――さあ、ずっと。",
"はッ、どうも。",
"失礼をするかも知れないが、まあ、一杯。ああ、――ちょうどお銚子が来た。女中さん、お酌をしてあげて下さい。",
"は、いえ、手前不調法で。",
"まあまあ一杯。――弱ったな、どうも、鶫を鍋でと言って、……その何ですよ。",
"旦那様、帳場でも、あの、そう申しておりますの。鶫は焼いてめしあがるのが一番おいしいんでございますって。",
"お膳にもつけて差し上げましたが、これを頭から、その脳味噌をするりとな、ひと噛りにめしあがりますのが、おいしいんでございまして、ええとんだ田舎流儀ではございますがな。",
"お料理番さん……私は決して、料理をとやこう言うたのではないのですよ。……弱ったな、どうも。実はね、あるその宴会の席で、その席に居た芸妓が、木曾の鶫の話をしたんです――大分酒が乱れて来て、何とか節というのが、あっちこっちではじまると、木曾節というのがこの時顕われて、――きいても可懐しい土地だから、うろ覚えに覚えているが、(木曾へ木曾へと積み出す米は)何とかっていうのでね……",
"さようで。"
],
[
"……(伊那や高遠の余り米)……と言うでございます、米、この女中の名でございます、お米。",
"あら、何だよ、伊作さん。"
],
[
"旦那さん、――この人は、家が伊那だもんでございますから。",
"はあ、勝頼様と同国ですな。",
"まあ、勝頼様は、こんな男ぶりじゃありませんが。",
"当り前よ。"
],
[
"それだもんですから、伊那の贔屓をしますの――木曾で唄うのは違いますが。――(伊那や高遠へ積み出す米は、みんな木曾路の余り米)――と言いますの。",
"さあ……それはどっちにしろ……その木曾へ、木曾へのきっかけに出た話なんですから、私たちも酔ってはいるし、それがあとの贄川だか、峠を越した先の藪原、福島、上松のあたりだか、よくは訊かなかったけれども、その芸妓が、客と一所に、鶫あみを掛けに木曾へ行ったという話をしたんです。……まだ夜の暗いうちに山道をずんずん上って、案内者の指揮の場所で、かすみを張って囮を揚げると、夜明け前、霧のしらじらに、向うの尾上を、ぱっとこちらの山の端へ渡る鶫の群れが、むらむらと来て、羽ばたきをして、かすみに掛かる。じわじわととって占めて、すぐに焚火で附け焼きにして、膏の熱いところを、ちゅッと吸って食べるんだが、そのおいしいこと、……と言って、話をしてね……",
"はあ、まったくで。",
"……ぶるぶる寒いから、煮燗で、一杯のみながら、息もつかずに、幾口か鶫を噛って、ああ、おいしいと一息して、焚火にしがみついたのが、すっと立つと、案内についた土地の猟師が二人、きゃッと言った――その何なんですよ、芸妓の口が血だらけになっていたんだとさ。生々とした半熟の小鳥の血です。……とこの話をしながら、うっかりしたようにその芸妓は手巾で口を圧えたんですがね……たらたらと赤いやつが沁みそうで、私は顔を見ましたよ。触ると撓いそうな痩せぎすな、すらりとした、若い女で。……聞いてもうまそうだが、これは凄かったろう、その時、東京で想像しても、嶮しいとも、高いとも、深いとも、峰谷の重なり合った木曾山中のしらしらあけです……暗い裾に焚火を搦めて、すっくりと立ち上がったという、自然、目の下の峰よりも高い処で、霧の中から綺麗な首が。",
"いや、旦那さん。",
"話は拙くっても、何となく不気味だね。その口が血だらけなんだ。",
"いや、いかにも。",
"ああ、よく無事だったな、と私が言うと、どうして? と訊くから、そういうのが、慌てる銃猟家だの、魔のさした猟師に、峰越しの笹原から狙い撃ちに二つ弾丸を食らうんです。……場所と言い……時刻と言い……昔から、夜待ち、あけ方の鳥あみには、魔がさして、怪しいことがあると言うが、まったくそれは魔がさしたんだ。だって、覿面に綺麗な鬼になったじゃあないか。……どうせそうよ、……私は鬼よ。――でも人に食われる方の……なぞと言いながら、でも可恐いわね、ぞっとする。と、また口を手巾で圧えていたのさ。"
],
[
"ええ。旦那、へい、どうも、いや、全く。――実際、危のうございますな。――そういう場合には、きっと怪我があるんでして……よく、その姐さんは御無事でした。この贄川の川上、御嶽口。美濃寄りの峡は、よけいに取れますが、その方の場所はどこでございますか存じません――芸妓衆は東京のどちらの方で。",
"なに、下町の方ですがね。",
"柳橋……"
],
[
"……あるいはその新橋とか申します……",
"いや、その真中ほどです……日本橋の方だけれど、宴会の席ばかりでの話ですよ。",
"お処が分かって差支えがございませんければ、参考のために、その場所を伺っておきたいくらいでございまして。……この、深山幽谷のことは、人間の智慧には及びません――"
],
[
"何か、この辺に変わったことでも。",
"……別にその、と云ってございません。しかし、流れに瀬がございますように、山にも淵がございますで、気をつけなければなりません。――ただいまさしあげました鶫は、これは、つい一両日続きまして、珍しく上の峠口で猟があったのでございます。",
"さあ、それなんですよ。"
],
[
"料理番さん。きみのお手際で膳につけておくんなすったのが、見てもうまそうに、香しく、脂の垂れそうなので、ふと思い出したのは、今の芸妓の口が血の一件でね。しかし私は坊さんでも、精進でも、何でもありません。望んでも結構なんだけれど、見たまえ。――窓の外は雨と、もみじで、霧が山を織っている。峰の中には、雪を頂いて、雲を貫いて聳えたのが見えるんです。――どんな拍子かで、ひょいと立ちでもした時口が血になって首が上へ出ると……野郎でこの面だから、その芸妓のような、凄く美しく、山の神の化身のようには見えまいがね。落ち残った柿だと思って、窓の外から烏が突つかないとも限らない、……ふと変な気がしたものだから。",
"お米さん――電燈がなぜか、遅いでないか。"
],
[
"いや、あとにする。",
"まあ、そんなにお腹がすいたんですの。",
"腹もすいたが、誰かお客が入っているから。",
"へい、……こっちの湯どのは、久しく使わなかったのですが、あの、そう言っては悪うございますけど、しばらくぶりで、お掃除かたがた旦那様に立てましたのでございますから、……あとで頂きますまでも、……あの、まだどなたも。",
"かまやしない。私はゆっくりでいいんだが、婦人の客のようだったぜ。",
"へい。"
],
[
"御亭主はどうしたい。",
"知りませんよ。",
"ぜひ、承りたいんだがね。"
],
[
"出るのかい……何か……あの、湯殿へ……まったく?",
"それがね、旦那、大笑いなんでございますよ。……どなたもいらっしゃらないと思って、申し上げましたのに、御婦人の方が入っておいでだって、旦那がおっしゃったと言うので、米ちゃん、大変な臆病なんですから。……久しくつかいません湯殿ですから、内のお上さんが、念のために、――",
"ああそうか、……私はまた、ちょっと出るのかと思ったよ。",
"大丈夫、湯どのへは出ませんけれど、そのかわりお座敷へはこんなのが、ね、貴方。",
"いや、結構。"
],
[
"どうぞ、お風呂へ。",
"大丈夫か。",
"ほほほほ。"
],
[
"お米さんか。",
"いいえ。"
],
[
"どっちです、白鷺かね、五位鷺かね。",
"ええ――どっちもでございますな。両方だろうと思うんでございますが。"
],
[
"不断のことではありませんが、……この、旦那、池の水の涸れるところを狙うんでございます。鯉も鮒も半分鰭を出して、あがきがつかないのでございますから。",
"怜悧な奴だね。",
"馬鹿な人間は困っちまいます――魚が可哀相でございますので……そうかと言って、夜一夜、立番をしてもおられません。旦那、お寒うございます。おしめなさいまし。……そちこち御註文の時刻でございますから、何か、不手際なものでも見繕って差し上げます。",
"都合がついたら、君が来て一杯、ゆっくりつき合ってくれないか。――私は夜ふかしは平気だから。一所に……ここで飲んでいたら、いくらか案山子になるだろう。……",
"――結構でございます。……もう台所は片附きました、追ッつけ伺います。――いたずらな餓鬼どもめ。"
],
[
"やあ、伊作さん。",
"おお、旦那。"
],
[
"よく御存じで。",
"二度まで、湯殿に点いていて、知っていますよ。",
"へい、湯殿に……湯殿に提灯を点けますようなことはございませんが、――それとも、へーい。"
],
[
"それから。",
"ちと変な気がいたしますが。――ええ、ざっとお支度済みで、二度めの湯上がりに薄化粧をなすった、めしものの藍鼠がお顔の影に藤色になって見えますまで、お色の白さったらありません、姿見の前で……"
],
[
"ちょっと、あの水口を留めて来ないか、身体の筋々へ沁み渡るようだ。",
"御同然でございまして……ええ、しかし、どうも。",
"一人じゃいけないかね。",
"貴方様は?",
"いや、なに、どうしたんだい、それから。",
"岩と岩に、土橋が架かりまして、向うに槐の大きいのが枯れて立ちます。それが危なかしく、水で揺れるように月影に見えました時、ジイと、私の持ちました提灯の蝋燭が煮えまして、ぼんやり灯を引きます。(暗くなると、巴が一つになって、人魂の黒いのが歩行くようね。)お艶様の言葉に――私、はッとして覗きますと、不注意にも、何にも、お綺麗さに、そわつきましたか、ともしかけが乏しくなって、かえの蝋燭が入れてございません。――おつき申してはおります、月夜だし、足許に差支えはございませんようなものの、当館の紋の提灯は、ちょっと土地では幅が利きます。あなたのおためにと思いまして、道はまだ半町足らず、つい一っ走りで、駈け戻りました。これが間違いでございました。"
],
[
"裏土塀から台所口へ、……まだ入りませんさきに、ドーンと天狗星の落ちたような音がしました。ドーンと谺を返しました。鉄砲でございます。",
"…………"
]
] | 底本:「現代日本文学館3 幸田露伴・泉鏡花」文藝春秋
1968(昭和43)年10月1日第1刷
底本の親本:「鏡花全集」岩波書店
初出:「苦楽」
1924(大正13)年5月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:真先芳秋
校正:鈴木厚司
2001年6月7日公開
2005年11月24日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
[
"ああ、何だい。",
"どうだね、おいしいかね。"
],
[
"旦那さんか、呼んだか。",
"ああ、呼んだよ。"
],
[
"どうにかしてくれ。――どこを探しても呼鈴はなし、手をたたいても聞えないし、――弱ったよ。",
"あれ。"
],
[
"こんな大い内で、手を敲いたって何が聞えるかね。電話があるでねえか、それでお帳場を呼びなさいよ。",
"どこにある。",
"そら、そこにあるがね、見えねえかね。"
],
[
"ああ、それかい。",
"これだあね。",
"私はまたほんとうの電話かと思っていた。",
"おお。"
],
[
"ほんとの電話ですがね。どこか間違ったとこでもあるのかよ。",
"いや、相済まん、……間違ったのは私の方だ。――成程これで呼ぶんだな。――分りました。",
"立派な仕掛だろがねえ。",
"立派な仕掛だ。",
"北国一だろ。"
],
[
"まあ、御飯をかえなさいよ。",
"ああ……御飯もいまかえようが……"
],
[
"……姐さん、ここの前を右へ出て、大な絵はがき屋だの、小料理屋だの、賑な処を通り抜けると、旧街道のようで、町家の揃った処がある。あれはどこへ行く道だね。",
"それはね、旦那さん、那谷から片山津の方へ行く道だよ。",
"そうか――そこの中ほどに、さきが古道具屋と、手前が桐油菅笠屋の間に、ちょっとした紙屋があるね。雑貨も商っている……あれは何と言う家だい。",
"白粉や香水も売っていて、鑵詰だの、石鹸箱はぴかぴかするけど、じめじめとした、陰気な、あれかあね。",
"全くだ、陰気な内だ。"
],
[
"治兵衛坊主の家ですだよ。",
"串戯ではない。紙屋で治兵衛は洒落ではないのか。",
"何、人が皆そう言うでね。本当の名だか何だか知らないけど、治兵衛坊主で直きと分るよ。旦那さん、知っていなさるのかね、あの家を。"
],
[
"おいおいどうしてくれるんだ――給仕にも何にもまだ膳が来ないではないか。",
"あッそうだ。"
],
[
"彼家に、嫁さんか、娘さんか、きれいな女が居るだろう。",
"北国一だ。あはははは。"
],
[
"押惚れたか。旦那さん。",
"驚かしなさんな。",
"吃驚しただろ、あの、別嬪に。……それだよ、それが小春さんだ。この土地の芸妓でね、それだで、雑貨店の若旦那を、治兵衛坊主と言うだてば。",
"成程、紙屋――あの雑貨店の亭主だな。",
"若い人だ、活きるわ、死ぬるわという評判ものだよ。",
"それで治兵衛……は分ったが、坊主とはどうした訳かね。",
"何、旦那さん、癇癪持の、嫉妬やきで、ほうずもねえ逆気性でね、おまけに、しつこい、いんしん不通だ。",
"何?……",
"隠元豆、田螺さあね。",
"分らない。",
"あれ、ははは、いんきん、たむしだてば。",
"乱暴だなあ。",
"この山代の湯ぐらいでは埒あかねえさ。脚気山中、かさ粟津の湯へ、七日湯治をしねえ事には半月十日寝られねえで、身体中掻毟って、目が引釣り上る若旦那でね。おまけに、それが小春さんに、金子も、店も田地までも打込んでね。一時は、三月ばかりも、家へ入れて、かみさんにしておいた事もあったがね。"
],
[
"そうか――先刻、買ものに寄った時、その芸妓は泣いていたよ。",
"あれ、小春さんが坊主の店に居ただかね。すいても嫌うても、気立の優しいお妓だから、内証で逢いに行っただろさ。――ほんに、もうお十夜だ――気むずかしい治兵衛の媼も、やかましい芸妓屋の親方たちも、ここ一日二日は講中で出入りがやがやしておるで、その隙に密と逢いに行ったでしょ。",
"お安くないのだな。",
"何、いとしゅうて泣いてるだか、しつこくて泣かされるだか、知れたものではないのだよ。",
"同じ事を……いとしい方にしておくがいい。"
],
[
"厭な事だ。",
"大層嫌うな。……その執拗い、嫉妬深いのに、口説かれたらお前はどうする。",
"横びんた撲りこくるだ。",
"これは驚いた。",
"北国一だ。山代の巴板額だよ。四斗八升の米俵、両手で二俵提げるだよ。",
"偉い!……その勢で、小春の味方をしておやり。",
"ああ、すべいよ、旦那さんが言わっしゃるなら。……",
"わざと……いささかだけれど御祝儀だ。"
],
[
"旦那さん、いつ帰るかね。",
"いや、深切は難有いが、いま来たばかりのものに、いつ出程かは少し酷かろう。",
"それでも、先刻来た時に、一晩泊だと言ったでねえかね。",
"まったくだ、明日は山中へ行くつもりだ。忙しい観光団さ。",
"緩り居なされば可いに――では、またじきに来なさいよ。"
],
[
"勿論来ようが、その時、姐さんは居なかろう。",
"あれ、何でえ?……",
"お嫁に行くから。"
],
[
"ううむ、行かねえ。",
"治兵衛坊主が、たって欲しいと言うそうだ。",
"馬鹿を言うもんでねえ。――治兵衛だろうが、忠兵衛だろうが、……一生嫁に行かねえで待ってるだよ。",
"じゃあ、いっそ、どこへも行かないで、いつまでもここに居ようか。私をお婿さんにしてくれれば。……",
"するともさ。",
"私は働きがないのだから、婿も養子だ。お前さん養ってくれるかい。",
"ああ、養うよ。朝から晩まですきな時に湯に入れて、御飯を食べさして、遊ばしておけばそれでよかろうがね。",
"勿体ないくらい、結構だな。",
"そのくらいなら……私が働く給金でして進ぜるだ。",
"ほんとかい。",
"それだがね、旦那さん。",
"御覧、それ、すぐに変替だ。",
"ううむ、ほんとうだ、が、こんな上段の室では遣切れねえだ。――裏座敷の四畳半か六畳で、ふしょうして下さんせ、お膳の御馳走も、こんなにはつかねえが、私が内証でどうともするだよ。"
],
[
"何と言うよ。",
"措きなさい、そんな事。"
],
[
"よ、ほんとに何と言うよ。",
"お光だ。"
],
[
"お光さんか、年紀は。",
"知らない。",
"まあ、幾歳だい。",
"顔だ。",
"何、",
"私の顔だよ、猿だてば。",
"すると、幾歳だっけな。",
"桃栗三年、三歳だよ、ははは。"
],
[
"おほほほほほほほ、あはははははは。",
"白痴奴、汝!"
],
[
"おお。",
"あ、あれ、先刻の旦那さん。"
],
[
"御免なすって、旦那さん、赤蜻蛉をつかまえようと遊ばした、貴方の、貴方の形が、余り……余り……おほほほほ。",
"いや、我ながら、思えば可笑しい。笑うのは当り前だ。が、気の毒だ。連の男は何という乱暴だ。",
"ええ、家ではかえって人目に立つッて、あの、おほほ、心中の相談をしに来た処だものですから、あはははは。"
],
[
"……ほんとに私、死なないでも大事ございませんわね。",
"死んで堪るものか、死ぬ方が間違ってるんだ。",
"でも、旦那さん、……義理も、人情も知らない女だ、薄情だと、言われようかと、そればかりが苦になりました。もう人が何と言いましょうと、旦那さんのお言ばかりで、どんなに、あの人から責められましても私はきっぱりと、心中なんか厭だと言います。お庇さまで助りました。またこれで親兄弟のいとしい顔も見られます。もう、この一年ばかりこのかたと言いますもの、朝に晩に泣いてばかり、生きた瀬はなかったのです。――その苦みも抜けました。貴方は神様です。仏様です。",
"いや、これが神様や仏様だと、赤蜻蛉の形をしているのだ。",
"おほほ。",
"ああ、ほんとに笑ったな――もう可し、決して死ぬんじゃないよ。",
"たとい間違っておりましても、貴方のお言ばかりで活きます。女の道に欠けたと言われ、薄情だ、売女だと言う人がありましても、……口に出しては言いませんけれど、心では、貴方のお言葉ゆえと、安心をいたします。",
"あえて構わない。この俺が、私と言うものが、死ぬなと言ったから死なないと、構わず言え。――言ったって決して構わん。",
"いいえ、勿体ない、お名ふだもおねだり申して頂きました。人には言いはしませんが、まあ、嬉しい。……嬉しゅうございますわ。――旦那さん。",
"…………",
"あの、それですけれど……安心をしましたせいですか、落胆して、力が抜けて。何ですか、余り身体にたわいがなくって、心細くなりました。おそばへ寄せて下さいまし……こんな時でございませんと、思い切って、お顔が見られないのでございますけど、それでも、やっぱり、暗くて見えはしませんわ。"
],
[
"あれ、はんけちを田圃道で落して来て、……",
"それも死神の風呂敷だったよ。",
"可恐いわ、旦那さん。"
],
[
"どうした、どうした。……おお、泣いているのか。――私は……",
"ああれ、旦那さん。"
],
[
"私、つい、つい、うっかりして、あのお恥かしくって泣くんですわ……ここには水がありません。",
"そうか。"
],
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"こっちへお出で、かけてやろう。さ。",
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"可いか、十分に……",
"あれ、どうしましょう、勿体ない、私は罰が当ります。"
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"この手水鉢は、実盛の首洗の池も同じだね。",
"ええ、縁起でもない、旦那さん。",
"ま、姦通め。ううむ、おどれ等。",
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"何が、犬にも牙がありゃ、牛にも角があるだあね。こんな人間の刃ものなんぞ、どうするかね。この馬鹿野郎。それでも私が来ねえと、大事なお客さんに怪我をさせる処だっけ。飛んでもねえ嫉妬野郎だ。大い声を出してお帳場を呼ぼうかね、旦那さん、どうするね。私が一つ横ずっぽう撲りこくってやろうかね。",
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"君は、誰を斬るつもりかね。",
"うむ、汝から先に……当前じゃい。うむ、放せ、口惜いわい。",
"迷惑をするじゃあないか。旅の客が湯治場の芸妓を呼んで遊んだが、それがどうした。",
"汝、俺の店まで、呼出しに、汝、逢曳にうせおって、姦通め。",
"血迷うな、誤解はどうでも構わないが、君は卑劣だよ。……使った金子に世の中が行詰って、自分で死ぬのは、間違いにしろ、勝手だが、死ぬのに一人死ねないで、未練にも相手の女を道づれにしようとして附絡うのは卑劣じゃあないか。――投出す生命に女の連を拵えようとするしみったれさはどうだ。出した祝儀に、利息を取るよりけちな男だ。君、可愛い女と一所に居る時は、蚤が一つ余計に女にたかっても、ああ、おれの身をかわりに吸え、可哀想だと思うが情だ。涼しい時に虫が鳴いても、かぜを引くなよ、寝冷をするなと念じてやるのが男じゃないか。――自分で死ぬほど、要らぬ生命を持っているなら、おなじ苦労をした女の、寿命のさきへ、鼻毛をよって、継足をしてやるが可い。このうつくしい、優しい女を殺そうとは何事だ。これ聞け。俺も、こんな口を利いたって、ちっとも偉い男ではない。お互に人間の中の虫だ。――虫だが、書物ばかり食っている、しみのような虫だから、失礼ながら君よりは、清潔だよ。それさえ……それでさえ、聞けよ。――心中の相談をしている時に、おやじが蜻蛉釣る形の可笑さに、道端へ笑い倒れる妙齢の気の若さ……今もだ……うっかり手水に行って、手を洗う水がないと言って、戸を開け得ない、きれいな女と感じた時は、娘のような可愛さに、唇の触ったばかりでも。"
],
[
"申訳のなさに五体が震える。何だ、その女に対して、隠元、田螺の分際で、薄汚い。いろも、亭主も、心中も、殺すも、活すもあるものか。――静にここを引揚げて、早く粟津の湯へ入れ――自分にも二つはあるまい、生命の養生をするが可い。",
"餓鬼めが、畜生!",
"おっと、どっこい。",
"うむ、放せ。",
"姐さん、放しておやり。",
"危え、旦那さん。",
"いや、私はまだその人に、殺されも、斬られもしそうな気はしない。お放し。",
"おお、もっともな、私がこの手を押えているで、どうする事も出来はしねえだ。",
"さあ、胸を出せ、袖を開けろ。私は指一つ圧えていない。婦人が起ってそこへ縋れば、話は別だ。桂清水とか言うので顔を洗って私も出直す――それ、それ、見たが可い。婦人は、どうだ、椅子の陰へ小さく隠れて、身を震わしているじゃあないか。――帰りたまえ。"
],
[
"二人とも覚えてけつかれ。",
"この野郎、どこから入った。ああ、――そうか。三畳の窓を潜って、小こい、庭境の隣家の塀から入ったな。争われぬもんだってば。……入った処から出て行くだからな。壁を摺って、窓を這って、あれ板塀にひッついた、とかげ野郎。"
],
[
"お光さん、私だ、榊だ、分りますか。",
"旦那さんか、旦那さんか。"
],
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"頂戴しました。――貰ったぞ。",
"旦那さん、顔が見たいが、もう見えんわ。",
"さ、さ、さ、これに縋らっしゃれ。"
],
[
"持たっしゃれ、縋らっしゃれ。ありがたい仏様が見えるぞい。",
"ああい、見えなくなった目でも、死ねば仏様が見られるかね。",
"おお、見られるとも、のう。ありがたや阿弥陀様。おありがたや親鸞様も、おありがたや蓮如様も、それ、この杖に蓮華の花が咲いたように、光って輝いて並んでじゃ。さあ、見さっしゃれ、拝まっさしゃれ。なま、なま、なま、なま、なま。",
"そんなものは見とうない。"
],
[
"私は死んでも、旦那さんの傍に居て、旦那さんの顔を見るんだよ。",
"勿体ないぞ。"
]
] | 底本:「泉鏡花集成7」ちくま文庫、筑摩書房
1995(平成7)年12月4日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第二十二巻」岩波書店
1940(昭和15)年11月20日第1刷発行
入力:門田裕志
校正:今井忠夫
2003年8月31日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "003544",
"作品名": "みさごの鮨",
"作品名読み": "みさごのすし",
"ソート用読み": "みさこのすし",
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"副題読み": "",
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"初出": "",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2003-09-10T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-18T00:00:00",
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"姓": "泉",
"名": "鏡花",
"姓読み": "いずみ",
"名読み": "きょうか",
"姓読みソート用": "いすみ",
"名読みソート用": "きようか",
"姓ローマ字": "Izumi",
"名ローマ字": "Kyoka",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1873-11-04",
"没年月日": "1939-09-07",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "泉鏡花集成7",
"底本出版社名1": "ちくま文庫、筑摩書房",
"底本初版発行年1": "1995(平成7)年12月4日",
"入力に使用した版1": "1995(平成7)年12月4日第1刷",
"校正に使用した版1": "",
"底本の親本名1": "鏡花全集 第二十二巻",
"底本の親本出版社名1": "岩波書店",
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} |
[
[
"馬鹿なことをお言ひでない。丁さん、こんなお前さん、ぺら〳〵した……",
"乾くと虎の皮に代る奴よ。"
],
[
"内職に洗ふんですわ。",
"所帶の苦勞まで饒舌りやがる、畜生め。"
],
[
"放して下さい、見られると惡いから。",
"助けてくれ。",
"まあ、私何うしたら可いでせう。……"
],
[
"とに角、家へおいでなさいまし。",
"助けてくれ。"
],
[
"誰だい、誰だい。",
"内の人よ。",
"呀、鬼か。"
],
[
"あれ、強盜が、私を、私を。",
"何が盜人です、私は情人ぢやありませんかね。"
]
] | 底本:「鏡花全集 巻二十七」岩波書店
1942(昭和17)年10月20日第1刷発行
1988(昭和63)年11月2日第3刷発行
※題名の下にあった年代の注を、最後に移しました。
※表題は底本では、「みつ柏《がしは》」とルビがついています。
入力:門田裕志
校正:川山隆
2011年8月14日作成
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "050785",
"作品名": "みつ柏",
"作品名読み": "みつがしわ",
"ソート用読み": "みつかしわ",
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"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "旧字旧仮名",
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"公開日": "2011-10-13T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-16T00:00:00",
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"姓読み": "いずみ",
"名読み": "きょうか",
"姓読みソート用": "いすみ",
"名読みソート用": "きようか",
"姓ローマ字": "Izumi",
"名ローマ字": "Kyoka",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1873-11-04",
"没年月日": "1939-09-07",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "鏡花全集 巻二十七",
"底本出版社名1": "岩波書店",
"底本初版発行年1": "1942(昭和17)年10月20日",
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} |
[
[
"おつかさんが呼んでるぢやないか。葉の中へ早くお入り――人間が居て可恐いよ。",
"人間は飛べませんよ、ちよツ、ちよツ、ちよツちよツ。",
"犬がくるぞ。",
"をぢちやんぢやあるまいし……"
],
[
"たんと山がありますが、たぬきや、きつねは。",
"じよ、じようだんばかり、直が安いたつて、化物屋敷……飛んでもない、はあ、えゝ、たぬき、きつね、そんなものは鯨が飮んでしまうた、はゝは。いかゞぢや、それで居て、二階で、臺所一切つき、洗面所も……"
]
] | 底本:「鏡花全集 巻二十七」岩波書店
1942(昭和17)年10月20日第1刷発行
1988(昭和63)年11月2日第3刷発行
初出:「東京朝日新聞 第一六二五六号~第一六二六一号」東京朝日新聞社
1931(昭和6)年8月2日~7日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「形」に対するルビの「かた」と「かたち」の混在は、底本の通りです。
※表題は底本では、「木菟《みゝづく》俗見《ぞくけん》」となっています。
※題名の下にあった年代の注を、最後に移しました。
入力:門田裕志
校正:岡村和彦
2017年10月30日作成
青空文庫作成ファイル:
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| {
"作品ID": "050790",
"作品名": "木菟俗見",
"作品名読み": "みみずくぞくけん",
"ソート用読み": "みみすくそくけん",
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"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「東京朝日新聞 第一六二五六号~第一六二六一号」東京朝日新聞社、1931(昭和6)年8月2日~7日",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "旧字旧仮名",
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"公開日": "2017-11-04T00:00:00",
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"名": "鏡花",
"姓読み": "いずみ",
"名読み": "きょうか",
"姓読みソート用": "いすみ",
"名読みソート用": "きようか",
"姓ローマ字": "Izumi",
"名ローマ字": "Kyoka",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1873-11-04",
"没年月日": "1939-09-07",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "鏡花全集 巻二十七",
"底本出版社名1": "岩波書店",
"底本初版発行年1": "1942(昭和17)年10月20日",
"入力に使用した版1": "1988(昭和63)年11月2日第3刷",
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"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"はい、はい、はい、何うぞ、お慈悲、お慈悲。",
"さあ、もう、おやすみなさいまし、ほゝほゝゝ。"
],
[
"やい、驢馬。",
"怠惰けるとお見舞申すぞ。"
]
] | 底本:「鏡花全集 巻二十七」岩波書店
1942(昭和17)年10月20日第1刷発行
1988(昭和63)年11月2日第3刷発行
※題名の下にあった年代の注を、最後に移しました。
※表題は底本では、「麥搗《むぎつき》」とルビがついています。
入力:門田裕志
校正:川山隆
2011年9月4日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "004597",
"作品名": "麦搗",
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"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "旧字旧仮名",
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"名": "鏡花",
"姓読み": "いずみ",
"名読み": "きょうか",
"姓読みソート用": "いすみ",
"名読みソート用": "きようか",
"姓ローマ字": "Izumi",
"名ローマ字": "Kyoka",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1873-11-04",
"没年月日": "1939-09-07",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "鏡花全集 巻二十七",
"底本出版社名1": "岩波書店",
"底本初版発行年1": "1942(昭和17)年10月20日",
"入力に使用した版1": "1988(昭和63)年11月2日第3刷",
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"XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"姉さん、お前さんは麓の村にでも住んでいる人なんか。",
"はい、二俣村でございます。",
"あああの、越中の蛎波へ通う街道で、此処に来る道の岐れる、目まぐるしいほど馬の通る、彼処だね。"
],
[
"しかし一体、医王というほど、此処で薬草が採れるのに、何故世間とは隔って、行通がないのだろう。",
"それは、あの承りますと、昔から御領主の御禁山で、滅多に人をお入れなさらなかった所為なんでございますって。御領主ばかりでもござんせん。結構な御薬の採れます場所は、また御守護の神々仏様も、出入をお止め遊ばすのでございましょうと存じます。"
],
[
"あのさようなら、貴方はお薬になる草を採りにおいでなさるのでござんすかい。",
"少々無理な願ですがね、身内に病人があって、とても医者の薬では治らんに極ったですから、この医王山でなくって外にない、私が心当の薬草を採りに来たんだが、何、姉さんは見懸けた処、花でも摘みに上るんですか。"
],
[
"私も其処へ行くつもりです。四季の花の一時に咲く、何という処でしょうな。",
"はい、美女ヶ原と申します。",
"びじょがはら?",
"あの、美しい女と書きますって。"
],
[
"その美女ヶ原までどのくらいあるね、日の暮れない中行かれるでしょうか。",
"否、こう桜が散って参りますから、直でございます。私も其処まで、お供いたしますが、今日こそ貴方のようなお連がございますけれど、平時は一人で参りますから、日一杯に里まで帰るのでございます。"
],
[
"一度あるです。",
"まあ。"
],
[
"大分草深くなりますな。",
"段々頂が近いんですよ。やがてこの生が人丈になって、私の姿が見えませんようになりますと、それを潜って出ます処が、もう花の原でございます。"
],
[
"貴女と二人で歩行いているように思うですがね。",
"それからどう遊ばした、まあお話しなさいまし。"
],
[
"美女ヶ原に今もその花がありましょうか。",
"どうも身に染むお話。どうぞ早く後をお聞せなさいまし、そしてその時、その花はござんしたか。",
"花は全くあったんですが、何時もそうやって美女ヶ原へお出の事だから、御存じはないでしょうか。",
"参りましたら、その姉さんがなすったように、一所にお探し申しましょう。",
"それでも私は月の出るのを待ちますつもり。その花籠にさえ一杯になったら、貴女は日一杯に帰るでしょう。",
"否、いつも一人で往復します時は、馴れて何とも思いませんでございましたけれども、憗じお連が出来て見ますと、もう寂しくって一人では帰られませんから、御一所にお帰りまでお待ち申しましょう。その代どうぞ花籠の方はお手伝い下さいましな。",
"そりゃ、いうまでもありません。",
"そしてまあ、どんな処にございましたえ。"
]
] | 底本:「鏡花短篇集」岩波文庫、岩波書店
1987(昭和62)年9月16日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第七卷」岩波書店
1942(昭和17)年7月初版発行
初出:「二六新報」
1903年(明治36年)5月16~30日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:砂場清隆
校正:門田裕志
2001年12月22日公開
2005年12月1日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "003312",
"作品名": "薬草取",
"作品名読み": "やくそうとり",
"ソート用読み": "やくそうとり",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「二六新報」1903(明治36年)5月16~30日",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2001-12-22T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-17T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card3312.html",
"人物ID": "000050",
"姓": "泉",
"名": "鏡花",
"姓読み": "いずみ",
"名読み": "きょうか",
"姓読みソート用": "いすみ",
"名読みソート用": "きようか",
"姓ローマ字": "Izumi",
"名ローマ字": "Kyoka",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1873-11-04",
"没年月日": "1939-09-07",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "鏡花短篇集",
"底本出版社名1": "岩波文庫、岩波書店",
"底本初版発行年1": "1987(昭和62)年9月16日",
"入力に使用した版1": "1987(昭和62)年9月16日第1刷",
"校正に使用した版1": "",
"底本の親本名1": "鏡花全集 巻七",
"底本の親本出版社名1": "岩波書店",
"底本の親本初版発行年1": "1942(昭和17)年7月",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "砂場清隆",
"校正者": "門田裕志",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/3312_ruby_20646.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2005-12-02T00:00:00",
"テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"テキストファイル文字集合": "JIS X 0208",
"テキストファイル修正回数": "1",
"XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/3312_20647.html",
"XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2005-12-02T00:00:00",
"XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"爺さん、いやたあ謂われねえ、むむ、もっともだ。聞きゃ一人息子が兵隊になってるというじゃねえか、おおかた戦争にも出るんだろう、そんなことなら黙っていないで、どしどし言い籠めて隙あ潰さした埋め合わせに、酒代でもふんだくってやればいいに",
"ええ、めっそうな、しかし申しわけのためばかりに、そのことも申しましたなれど、いっこうお肯き入れがござりませんので"
],
[
"ひどく寂しゅうございますから、もう一時前でもございましょうか",
"うん、そんなものかもしれない、ちっとも腕車が見えんからな",
"ようございますわね、もう近いんですもの"
],
[
"たいそうおみごとでございました",
"いや、おみごとばかりじゃあない、おまえはあれを見てなんと思った"
],
[
"どうだお香、あの縁女は美しいの、さすがは一生の大礼だ。あのまた白と紅との三枚襲で、と羞ずかしそうに坐った恰好というものは、ありゃ婦人が二度とないお晴れだな。縁女もさ、美しいは美しいが、おまえにゃ九目だ。婿もりっぱな男だが、あの巡査にゃ一段劣る。もしこれがおまえと巡査とであってみろ。さぞ目の覚むることだろう。なあ、お香、いつぞや巡査がおまえをくれろと申し込んで来たときに、おれさえアイと合点すりゃ、あべこべに人をうらやましがらせてやられるところよ。しかもおまえが(生命かけても)という男だもの、どんなにおめでたかったかもしれやアしない。しかしどうもそれ随意にならないのが浮き世ってな、よくしたものさ。おれという邪魔者がおって、小気味よく断わった。あいつもとんだ恥を掻いたな。はじめからできる相談か、できないことか、見当をつけて懸かればよいのに、何も、八田も目先の見えないやつだ。ばか巡査!",
"あれ伯父さん"
],
[
"え、お母さんが",
"むむ、亡くなった、おまえのお母さんには、おれが、すっかり惚れていたのだ",
"あら、まあ、伯父さん",
"うんや、驚くこたあない、また疑うにも及ばない。それを、そのお母さんを、おまえのお父さんに奪られたのだ。な、解ったか。もちろんおまえのお母さんは、おれがなんだということも知らず、弟もやっぱり知らない。おれもまた、口へ出したことはないが、心では、心では、実におりゃもう、お香、おまえはその思い遣りがあるだろう。巡査というものを知ってるから。婚礼の席に連なったときや、明け暮れそのなかのいいのを見ていたおれは、ええ、これ、どんな気がしたとおまえは思う"
],
[
"どうだ、解ったか。なんでも、少しでもおまえが失望の苦痛をよけいに思い知るようにする。そのうち巡査のことをちっとでも忘れると、それ今夜のように人の婚礼を見せびらかしたり、気の悪くなる談話をしたり、あらゆることをして苛めてやる",
"あれ、伯父さん、もう私は、もう、ど、どうぞ堪忍してくださいまし。お放しなすって、え、どうしょうねえ"
],
[
"お退き",
"え、どうするの"
],
[
"助けてやる",
"伯父さんを?",
"伯父でなくってだれが落ちた",
"でも、あなた"
],
[
"職務だ",
"だってあなた"
],
[
"おお、そしてまああなた、あなたはちっとも泳ぎを知らないじゃありませんか",
"職掌だ",
"それだって",
"いかん、だめだもう、僕も殺したいほどの老爺だが、職務だ! 断念ろ"
]
] | 底本:「高野聖」角川文庫、角川書店
1971(昭和46)年4月20日改版初版発行
1999(平成11)年2月10日改版40版発行
初出:「文芸倶楽部」
1895(明治28)年4月
入力:真先芳秋
校正:鈴木厚司
1999年9月10日公開
2005年12月4日修正
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"作品ID": "000897",
"作品名": "夜行巡査",
"作品名読み": "やこうじゅんさ",
"ソート用読み": "やこうしゆんさ",
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"初出": "「文芸倶楽部」1895(明治28)年4月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "1999-09-10T00:00:00",
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"名": "鏡花",
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"姓読みソート用": "いすみ",
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"姓ローマ字": "Izumi",
"名ローマ字": "Kyoka",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1873-11-04",
"没年月日": "1939-09-07",
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"底本名1": "高野聖",
"底本出版社名1": "角川文庫、角川書店",
"底本初版発行年1": "1971(昭和46)年4月20日改版初版",
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[
[
"あれ、親方さん。",
"ええ。",
"どうして、こんな処へ。ここをどこだとお思いなさいます。――畜生道、魔界だことを、ご存じないのでございますか。",
"やあ。",
"人間のもとの身では帰られませんよ、どんな事がありましても、ここで何かめしあがったり、それからお湯へ入ってはいけません。こういううちにも、早く、早くお遁げなさいまし、お遁げなさいまし。",
"やあ、お前さんは。",
"三年あとに、お宅に飼われました、駒ですよ、駒……猫ですよ。"
],
[
"お待たせいたしました。さあさあどうぞ。",
"へい、いえ、その。……",
"さあ。",
"へい、いえ、その。",
"さあ、まあ、どうなすったんでございますねえ。"
],
[
"草鞋をおぬぎになるより、さきへ一風呂。",
"さっぱりと、おしめしあそばせ。"
],
[
"追え、追え。",
"娑婆へ出た。"
],
[
"尼のに限っては、示現の灸じゃ。",
"――成程。",
"……昨宵も電話でのお話やが、何やら、ご病気そうなが、どんな容体や。",
"胃腸ですよ、いわゆる坐業で食っていますから、昨夜なぞは、きりきり疼んで。",
"いずれ、運動不足や、そりゃようないに。が、けど何でもない事や。肋膜、肺炎、腹膜炎、神経痛、胸の病、腹、手足の病気、重い、軽い、それに応じて、施術の法があって、近頃は医法の科学的にも、灸点を認めているのやが、その医法をも超越して、(時々むずかしい事をいいます。)気違が何や……癩でも治るがに。胃腸なぞはそりゃに、お茶の子じゃぞ。すぐに一灸で、けろりとする。……腹を出しなされ、は、は、は、これでもあんた、島田髷やて、昔馴染には。",
"ま、ま。",
"療治の用具もちゃんと揃えて持合わせておる、に。",
"まあ、まあ。",
"熱いと思うてかに、熱い……灸やから。は、は、は。微塵も、そりゃない。それこそ弘法様示現の術や、ただむずむずとするばかり。",
"まあ、しかし。",
"ただ、あんたのものを使うというては、火鉢の火を線香に取るばっかりや。"
],
[
"どうも、灸だけは……ですよ。",
"お嫌いかに。",
"嫌いにも、なにも。",
"好嫌いは言うておられんぞに、薬には。それやし、何せい、弘法様の……あんたお宗旨は。",
"ほっけです。",
"堅法華、それで頑固や。",
"いや、いやそんな事より、なくなった母親の遺言です、灸は……",
"その癖、すえられなさる様な事が沢山あるやろ、は、は、は。これでも昔は島田髷や。"
],
[
"冬というよ、お冬です。こりゃ親しい同県人だ。――お初に、といわないかね。",
"お初に。"
],
[
"小山じゃないか。",
"おお。",
"出ようよ、静に。"
],
[
"久しくお煩いだったそうですね。",
"ええ、四年越……",
"それはそれは、何よりご看病が大変でしたね。で、甚だ何ですが、おなくなりになすったのは、此家で。",
"はあ、あの病気の発りましたのは内だったんですけれど、こんな稼業でしょう、少しは身体を動かしてもいいと、お医師がおっしゃいましてから、すぐ川崎の方へ……あの、知合の家が広うございますもんですから、その離室のような処へ移しましたんですの。"
],
[
"菎蒻。",
"こんにゃく。"
],
[
"たとえばです。",
"お好きか、なんぼなと、内で間に合う、言いつけようでに。さ、もう、用意はしておったが、お燗の望みは熱いのか、ぬるいのか、何せい、程のいい処。……もう出来たろうに、何しとるぞ。"
],
[
"……聞いています。",
"その心中に、くどき、くどきや、唄があって、あわれなものやが、ご存じですやろ。",
"いや、いいえ知りませんよ。"
],
[
"お危うございますよ、敷石に高低がありますから。",
"つん踣っても構やしません。",
"あんなこと。",
"そうすれば、お縋り申す。",
"おほほ。",
"しかし、いいんですか。……失礼ですが、お冬さん……ですね。"
],
[
"……ほんとうにいいんですか、病気だっていうじゃありませんか。",
"ぶらぶらしてはいましたけれど、よもや、こんな処へなぞおいでなさりはしなかろうと思っておりましたのに、真実嬉しゅうございますわ。",
"私も嬉しいんです。"
],
[
"曳船を、柳町を思い出します。",
"ねえ、お久しい……二十……何年ぶりですか。私は口不重宝で、口に出しては何にもいえはいたしません。",
"何をです。",
"いいえ、いいんです。",
"おっしゃい、云って下さい、そうでないと、狸になって、あなたの傘を持った手に、もじゃ、もじゃ。",
"あれ。",
"触りやしない。触りやしないが、ぶら下りかねないというんです。いって下さいよ。",
"ただね、あつかましいんですけど、片時も忘れはしませんと申す事。",
"ご同然……",
"……",
"以上です。",
"……",
"お冬さん",
"……",
"口をおききなさらなければ毛だらけの手が。",
"それこそ、狸ちゃんでいらっしゃる。",
"ええ、狸。",
"私をおだましなさいます。",
"はぐらかしちゃ不可ないなあ、時に、路地を出ましたね。"
],
[
"構いませんか、こんな事をして歩行いていて。",
"里うちですもの、お互に廊下で行逢うもおなじですわ。"
],
[
"ところで、自動車の、あります処は。",
"手前どもの、つい傍だったんでございますけれど、少し廻道をしたんですよ。大それた……お連れ申して歩行いて済みません。もう直きそこにございますから。",
"そりゃ、そりゃ困る、直きそこじゃ困るんだ。是非大廻りに、堂々めぐり、五百羅漢、卍巴に廻って下さい。唐天竺か、いや違った、やまと、もろこしですか、いぎりす、あめりかか、そんな、まだるっこしいことはおいて、お願いです、二の橋か、一本松へ連れてって頂きたい。",
"いらっしゃる。"
],
[
"ほんとうに。",
"勿論、一緒に行って下さるんなら。ご迷惑?",
"いいえ、嬉しいんです。でも、まだお目にかかりませんけれど、奥様にお悪くはないでしょうか。",
"名所古跡を尋ねるのは、堂寺まいり同然です、構やしない。後生のためです、順礼に報謝のつもりで――ああ、そうだ亀井戸だ。――お酌というのが贅沢なら、あなたの手から煙草をのまないじゃ帰らない、いっそお宅へ引返すか。",
"それは、でもあの尼が、あなたのお座敷へ出ますのを喜びませんような様子が見えます。"
],
[
"や、お閻魔殿、ご機嫌よう。",
"一口にがアぶり、えヘッ、ヘッヘッ、頭から塩という処を……味噌にしますか。",
"味噌は、あやまる。からしにしてくれ、菎蒻だ。",
"掛声はありがたいが閻魔はひどうがす。旦那、辻の地蔵といわれます、石で刻んで、重味があっても、のっぺりと柔い。",
"なるほど。",
"はんぺんのような男で。",
"はんぺんは不可い、菎蒻だ。からしを。",
"ご酒は……酒はそれこそ、黒松の生一本です。",
"私は、何だったって、一本松だよ。"
],
[
"私は。……",
"しばらく、お見かけ申しません。",
"ご病気だった。それだもの、湯ざめをなさると不可い。猪口でなんぞ、硝子盃だ、硝子盃。しかし、一口いかがです。",
"では。わざと一つだけ。"
],
[
"ご勘定、いいんですよ。",
"よくはありません。",
"私におまかせなさいまし。",
"実はおまかせ申したいんです。溝へ打棄らないで、一本松へ。",
"はあ、それはご趣向。あとで、お駕籠でお迎いに参りましょう。",
"棺桶といえ、お閻魔殿。――ご馳走でした。……お冬さん、そこで、一本松までは遥々ですか。",
"ええ、ええ、遥々……ここから小石川柳町もっと、本所ほどもありましょうか、ほほほ――そこの(ぞうしき)から直ぐですわ。",
"そいつは、心中を済ましたあとです。",
"まあ、(ぞうしき)という町の名。",
"これは失礼。"
],
[
"交番がありますから、裏路地を。",
"的実、ごもっともです。",
"ね、暗うございますから、お気をつけなさいましよ。",
"おお、冷い。……おん手を給わる、……しかし冷いお手だ。"
],
[
"飛んでもない、私から見ると(二十一)だ。何でしたっけ、何だっけ……(年紀は二十一愛嬌盛り。)……",
"あれ、危い、路が悪いんですから、そんなにお離れなすっては濡れますよ。",
"心得た、(しゃんと袴の股立とりて。大小すらりと落しにさして。)……"
],
[
"いっそ脱ぎましょうか。",
"跣足になる……",
"ええ。",
"覚悟はいいんですか。",
"本望ですわ。",
"一本松へ着いてから。",
"ええ一本松へついてから。",
"一緒に草葉の蛍を見ましょう。",
"是非どうぞ。",
"そこまでは脱がせません、玉散る刃を抜く時に。"
],
[
"お燈明。",
"ええ、ねえ、ごらんなさい、この松には女の乳を供えるんです。",
"飛んでもない、あなたの乳なぞ。……妬ける、妬けます。"
],
[
"一口、めしあがりますか。",
"何の事です、それじゃ狒々の老耄か、仙人の化物になる。"
],
[
"何をするんだ。触っちゃ不可い。",
"触ったら嬉しかろ、難有いとおもいなされ、そりゃ犬猫に、お手々という処じゃがや。",
"犬猫、畜生とは何だ。口が過ぎよう。――間淵の妹。",
"うん、小山弥作――何で尼の口が過ぎる。畜生、というたが悪いと思うか。くろよ、くろよ、ぶちよ、ぶちよ、うふふ、うふふ。"
],
[
"この牡。",
"牡。"
],
[
"私も、わけをきいて、う、五寸の焼釘を、ここの肝へ刺されたぞ。――畜生になります――とお孝がいうた一言じゃ。",
"どうしたんです。お孝さんが何をいったんだ。",
"言うか、言おうか。",
"ええ、可厭な息を掛けるない、何だ。",
"聞くか、聞くか。また、聞かさいで、おかりょうか。おのれら二人は、いい事にして、もと友だちの、うつくしい女房、たかが待合の阿媽。やかれても、あぶられても、今は後家や、天下晴れ察度はあるまいみだらじゃが、神仏、天道、第一尼らが弘法様がお許しないぞ。これ、牡。",
"お黙んなさいよ。",
"うンや黙らん、牡、いや、これ小山直槙どの。あんたは過ぎた――何の年、何の月、何の日の、雨の降る夜に、友だちと三人づれ、赤坂の……何の待合で……酔倒れて…………一夜あかいた……覚えがあるでしょ……でしょ……でしょ。……その時の……若い芸妓を………誰やと思う。"
],
[
"ああ。",
"もうその声が畜生の呻唸じゃ、どうじゃ、牡、何と思う。牝、どうや。"
],
[
"これ、夫の妹、おつかわしめの尼に対して、その形は何じゃい、手をつけ、踞め、起きされ、起きされ、これ。",
"はい。"
],
[
"身を震わすの、身ぶるいするの、毛並を払ふの、雨のあとのや。",
"姨さん、殺して……殺して……",
"何、殺せじゃ、あははは、贅沢な。これ、犬ころしにはならぬぞ、弘法様のおつかわしめは。"
],
[
"お冬さん、死のう。",
"……嬉しい。",
"ただし、婆を打殺して。",
"あれ、あなた、私だけ、私は覚悟をしています。"
],
[
"助けて下さいまし、お尼さん、そうして、お灸は、どこへ。",
"魂は、胸三寸というわいの。",
"ええ。",
"鳩尾や、乳の間や。",
"……恥しい。",
"年でもあるまい。二十越した娘を育てたものが、何、恥しい。何、殿方に、ははは、こりゃ好いた人には娘のようじゃ。",
"夜もふけました、何事も明日にしてはいかがです。",
"滅相な、片時を争う。一寸のびても三寸の毛が生えようぞに。既に、一言を聞いた時、お孝には、もう施した。二人のためには手間は取られず、行方は知れぬ。こんな場席を、仏智力、法力をもって尋ねるのは勿体ない。よって、魔魅や、魔魅の目と導きで探って来たぞに、早う、なされんかに、お冬さん。",
"はい。",
"さ、お冬さん。",
"はい。",
"これ。",
"はい、でも。",
"ええ、うじうじして、畜生。",
"……お尼さん、助けて下さい。",
"それ、見され。"
],
[
"南無普賢大菩薩、文珠師利。……仕うる獅子も象も獣だ。灸は留めちまえ、お冬さん。畜生になろう、お互に。",
"おお、象よかろ、よかろ。手では短い、その、くにゃくにゃとした脚を片股もぎとって、美婦がった鼻へくッつけされ、さぞよかろ。",
"あ、あ。",
"その象結構だ、構うものか。",
"……いやです、あなたが獅子でも、象でも、私は女で、影にも添っていたいんです。"
]
] | 底本:「泉鏡花集成9」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年6月24日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第二十四卷」岩波書店
1940(昭和15)年6月30日第1刷発行
初出:「中央公論 第五十二年第十三號」
1937(昭和12)年12月
※訂正注記に際しては、底本の親本を参照しました。
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2012年9月18日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "048414",
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"初出": "「中央公論 第五十二年第十三號」1937(昭和12)年12月",
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"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2012-10-13T00:00:00",
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"名読み": "きょうか",
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} |
[
[
"そりゃある、その材料のあることはちょうど何だ、篠塚が小まさの浄瑠璃の中から哲理を発見するようなもんだ。",
"馬鹿をいえ。"
],
[
"竜田か。",
"誰か来ているかい。"
],
[
"き様も知ってるな、僕も聞いた。そうして成程と思ったが、考えて見ると蓋し神月の方が非なんじゃあないか。",
"何、そんなことがあるものか、新婚旅行に出掛けようとして、上野から汽車に乗込むと、まだ赤羽の声も掛らぬうち、山下の森の中で、光りものがした。神月は――おや、人魂が飛ぶ、――と何心なくいったんだ。谷中は近し、こりゃ感情だね。そうすると、あの嚊々め。"
],
[
"神月が人魂だといったのを聞いた時、あいつ愛嬌のない、鼻の隆い、目の強い、源氏物語の精霊のような、玉司子爵夫人竜子、語を換えて云えば神月の嚊々だ。君、そいつがねその権式高な、寂しい顔に冷かな笑を帯びてさ、文学士を軽蔑したもんだぜ、神月なるもの癪に障らざるを得んじゃあないか。",
"可し、婿さんは癪に障ったろう。癪に障ったろうが、また夫人その人の身になって、その時には限らぬが、すべて神月の性質と、行を見た時の夫人の失望を察せんけりゃ不可。もっとも余り物質的の名誉を重んずる夫人の性質も極端だが、それだけにまた儕輩に群を抜いて、上流の貴婦人に、師のごとく、姉のごとく、敬い尊ばれている名誉を思え、七歳の年紀から仏蘭西へ行って先方の学校で育ったんだ。"
],
[
"忘れたか、神月。",
"何を。",
"今の音を。室を煖める蒸気じゃあないか。"
],
[
"しかし竜田、アダムとイヴあって以来、世界に男女ただ二人ばかりではない。譬えば、神月とその美人と、",
"勿論、僕も居る、",
"それから俺よ、"
],
[
"俺だ。",
"や、",
"待ちねえ。"
],
[
"何だ、それは、",
"ええ、",
"下駄じゃあねえか、下駄じゃあねえか、串戯じゃあねえ、何を面啖ったか知らねえが、そいつを懐に入れるだけの隙が有りゃ、敵の向脛をかッぱらって遁げるゆとりはありそうなもんだぜ。何だい、出会したなあ、犬か、人間か。",
"喧嘩じゃあないんです。",
"辻斬か。",
"冗談をいっちゃあ可けません。"
],
[
"あれだな、評判の。ついまだ掛違いまして手前お目通は仕らねえが、源坊が下駄と来ちゃあ当時名高えもんだ。むむ、名高えもんだよ。",
"なに詰らない。",
"馬鹿あ言え。畳算より目の子算用を先に覚えようという今時の芸妓に、若干か自腹を切らせたなあ、大したもんだ、どれちょっと見せねえ、よ、ちょっと拝ませねえかよ。"
],
[
"頭、これですか。",
"その芸妓の達引いたやつよ。"
],
[
"俺だよ、へんちっとも珍しくねえ。",
"おお、頭。",
"用じゃあねえんだ。とっさん少しばかり店を貸してくんねえ、灯が欲しいでの。",
"何か、灯ッて、その燻ぶり返った釣洋燈のことかい。",
"そうよ。まあ、",
"御念にゃあ及ばねえこッた、内証の文でも読むか、",
"いんや、質札だ、構わっしゃるな。寒いから閉めてくんな。"
],
[
"おお、入れ黒子のしなびたの、この節あどんな寸法、いや、寸伯か寸伯か、ははは。",
"串戯じゃあない、ちょうど一くべ燻べた処だ、暖けえよ。"
],
[
"どうしたどころかい、近頃評判なもんだ。これで五丁町を踏鳴すんだぜ、お前も知ってるだろう、一昨年の仁和加に狒々退治の武者修行をした大坂家の抱妓な。",
"蝶吉さんかね。"
],
[
"頭、",
"ほい、これは。"
],
[
"遠慮をするなッて事よ、何もはにかもうッて年紀じゃあねえ。落語家の言種じゃあねえが、なぜ帰宅が遅いんだッて言われりゃあ、奴が留めますもんですから、なんてッたような度胸があるんじゃあねえか。",
"なにまた詰らないことを、"
],
[
"何だってね、",
"婆さん、もう一燻𤏋とやりゃどうだ。"
],
[
"頭、何ですから、急ぎますから、",
"跣足で駈出しねえ、跣足で。それが可いや、可恐しく路が悪いぜ。"
],
[
"穿いて行きますよ、よ、穿くんだから、頭失礼ですが、その。",
"穿かねえでさ、下駄は穿くに極ったもんだ。誰がまあ頂く奴があるもんか。だが、それ懐へ入れる奴は無えとも限らねえ、なあ、源坊。",
"私ゃちっと何だから、これから少し急ぐんですから、",
"どこへ急ぐんだ。どこへ、"
],
[
"発句の会、ああ、そうか。源、何、何とか云ったな、その戒名、いや俳名よ。待ちねえ、お前なんざあ俳名よりその戒名の方をつけるが可いぜ、おいらが一番下駄の火葬というのを遣って、先きへ引導を渡してやろう。",
"ひゃあ、",
"馬鹿め、跣足で失せやあがれ。"
],
[
"鎌倉山の大小名、和田北条をはじめとして、佐々木、梶原、千葉、三浦、当時一﨟別当の工藤などへは二三度入り、まぶな時にゃあ千と二千、少ねえ時でも百や二百、仕事をしねえ事あなかった。その替りにゃあ貧乏と、その名の高え曾我などじゃあ、盗んだ金を置いて来た、悪事はするが義理堅え、いわば野暮な盗人だが、知らねえ先あともかくも、こういう身性と聞いたらば、お主ゃあ厭になりやしねえか。",
"何で厭になるものかね、これもみんなその身の好々、お嬢さんといわれるのが、ちいさい時から私ゃ嫌い、油で固めた高髷より、つぶし島田に結いたい願い、御殿模様の文字入より、二の字繋ぎのどてらが着たく、御新造さんや奥さんと、いわれるよりも内の奴、内の人かといいたさに、親をば捨てて勘当うけ、お前の女房になった私、どんな事があろうとも、何で愛想が尽きようぞいな。"
],
[
"さあ、",
"おい。"
],
[
"蝶ちゃん、",
"はい、",
"お気を付けなさいよ。",
"才ちゃんかい。",
"お楽みだね。"
],
[
"畜生、私より先へ行くッて法があるかい。",
"おいで。"
],
[
"厭よ、厭よ、私は厭ですよ。そんなもの、打っちゃらかしておしまいなさいなねえ。",
"恐いな、どこかの姐さんが、打っちゃらかしておしまいなさいなねえッて言ってるよ。",
"焦れッたいねえ。"
],
[
"おや、おや、",
"言句ばかり言ってるさ、構わないでおくが可い。なあに汝が先へ来たって何も仔細はなかろうじゃないか。",
"そのことなんですか、まあ、飛んだ難かしいこと、トン!"
],
[
"おいで、おいで。さあ、",
"可いよ、おかみさんこっちへ。"
],
[
"何を、詰らない。",
"はい、はい。"
],
[
"私、厭、厭よ。",
"泣いてるんだよ、おや、ま、どうしたッてこッたろう。驚きますねえ、"
],
[
"厭です。",
"拗るもんじゃあありません、あの方が来ていらっしゃるのに、何が気に入らないで、じれてるんですよ、母様は知らないよ。"
],
[
"痛いよ、",
"嘘ばッかり、",
"厭よ。",
"何が厭なんですッてば、よ、焦れッたい人だ。ええ、"
],
[
"姐さん、",
"才ちゃんは疾に帰りました、居やあしませんよ。さあ、さあ、もう聞かなきゃこうして、",
"あれ。"
],
[
"何だね、その形は。",
"可くッてよ。",
"可かあない、かみさんが見ているよ。",
"可いのよ、ねえ、おかみさん、"
],
[
"頭痛がしてよ、頭痛が、天窓が痛いのに、酷いことねえ。",
"嘘を吐け、"
],
[
"止そう、見ッともないから、擽ると最後、きゃっきゃっいってその騒々しいといったらないもの。",
"おや、いつも擽るんだと見えますね、あなたは。"
],
[
"飲むさ。",
"いえ、頂きますまい、そんなことでごまかそうたって駄目ですよ。まあ、串戯は止して早く拵えさせますから、寝かしてお上げなさい、本当に酔ってるんですよ、全く苦しそうだわ。"
],
[
"直ぐ帰るんだから、何だよ。",
"ですから誰もあなたにお休みなさいとは申しません。"
],
[
"存じません。",
"存じないことがあるものか。",
"解らなくッてよ。"
],
[
"いかがでございましょう、頂く訳には参りませんか、どうです、蝶さん、ここに是非一番君のお酌をという、厄介な、心懸の悪いのが出来上ったんですが、悪うございますか。",
"はあ、随分宜しゅうございましょう。"
],
[
"結構な訳ね、宜しければ、どうぞこれへ、",
"おやおや唯今内の人におことづけをなさいました、蝶吉姐さんに酌をして欲しいと仰有いますのは、ちょいとお前さんかい。",
"私でございます。",
"おお、心懸の可い奴じゃ、宜しい。さあぐッとお飲み。余り酔わないように致せ、これ、女房がまた心配をするそうじゃからな。",
"畏りましたが、一向さようなものはございませぬ。",
"なくても今に出来ます。その心懸なればきっと出来るから、さよう心得るじゃぞ。",
"はい。"
],
[
"何だ、馬鹿々々しい。",
"コヤ、巡査に向って何だ、馬鹿々々しい、き様は失敬な奴じゃな。",
"可加減にしておけよ、面倒臭い。"
],
[
"ついちっとばかり忙しかったもんだから、病気とは聞いていたけれど。",
"精出して勉強をしていたんですか。"
],
[
"そう、生意気だねえ。",
"失礼な、人が勉強してるというのに、生意気だということがあるものか。",
"あなたや、馬車に乗ろうと、いうんじゃあなし、詰らなくッてよ。また煩いでもすると悪いもの。",
"だって怠けてちゃあ食べられませんから、"
],
[
"どうぞ宜しく、",
"ええ、それはもうね。"
],
[
"厭よ、やくのかい、貴方気に懸けるような対手じゃあなくッてよう、初心らしいことをいって、可笑しいわねえ。",
"何しろ、全くか。"
],
[
"貴方、誰に聞いて来て、ようどこから知れたのよ。",
"なに少しばかり気になることを途で聞いたもんだから、つい、",
"もっとまだその上に知ってるんですか、"
],
[
"悪く思ってくれちゃあ困るよ、僕はね、知ってる通、遊ぶのはお前がはじめてだ。商売だから嘘を吐くもんだと思っていたんだけれども、お前が見ッともない、たというそにでも好いたとか、何とかいって、そうして好いた真似をして見せる分には、好かれた者に違いはないのだから、好かれたんだと思っておいでなされば可い。いやに疑るのは見っともない、男らしくもない、とそういうから、成程そうだと、自分極で、好かれてると思ってる。ああ、ずっと惚れられたんだと思って、これでも色男に成済しているんだ。だから、何も洗い立をして、どうの、こうのと、詮議立をするんじゃあないけれども、今来る途中で、松の鮨が、妙なことをいって当っ擦ったよ。",
"厭だ!"
],
[
"よう、何を鬱ぐのよ、私のことなんですか、不可くッて、",
"可いも悪いもお前、"
],
[
"体はもうすっかり良いのかい、",
"ええ、",
"お前は駄々ッ子で、鼻ッ端が強くって、威勢よく暴れるけれど、その実大の弱虫なんだから心配だよ、この頃は内で姐さんと喧嘩はしないか。"
],
[
"あなた、",
"どうしたの、",
"後生だから顔を見ないで下さいな。"
],
[
"いや、まず、はははは、時に何は、君の落ッこちはどうしたんでげす、お座敷かね。",
"何ちっと、遠方だそうです。"
],
[
"これは!",
"いや、師匠、串戯は止してさ、蝶吉が帰りさえすりゃ、是非その御一統が一杯ありつこうという寸法があるんでさ。ごくごく吝嗇に行った処で、鰻か鳥ね、中な処が岡政で小ざっぱり、但しぐっと発奮んで伊予紋となろうも知れず、私ゃ鮨屋だ! 甘いものは本人が行けず、いずれそこいらだ、まあ、待っていたまえ。",
"確に、",
"ええ、確りだ。"
],
[
"さてどっちです、こうなると待遠しい。",
"八丁堀だそうだ。",
"成程御遠方だ。幾時頃から、"
],
[
"はあ、",
"ねえ、おい、富ちゃん。"
],
[
"確かい。",
"きっとでございますって。"
],
[
"誰だい、",
"蝶吉姐さんだよ、誰だたあ何のこッた。"
],
[
"成程竝べて置けば雛一対というのだが、身分には段があるね。学士と謂やあお前さん、大したもんでげしょう。その上に華族の婿様だというじゃあありませんか、幾ら若い同志で惚れ合ったって、お前さん、その身分で芸妓に懸り合って屋敷も出たッてえから、世の中にゃべら棒もあったもんだ。それだから円輔も大学へ入る処をさらりと止して、落語家となったような訳だと、思ったんでげすが、いや、世の中へ顔出しも出来なくなった処で、子を堕したと聞いて、すっぱり縁を切ったなあさすがに豪いや、へん、猪口の受取りようを知らねえような二才でも、学問をした奴あ要が利かあ、大したもんだね、して見ると蝶さんが惚れたのも男振ばかりじゃあないと見える、縒が戻りそうでもありませんかい。",
"どうして、ちっとでも脈がある内に鬱ぐような女じゃあないんだ、きゃッきゃッて騒があね。",
"成程、して見るとこちとら一味徒党。色情事に孕むなあ野暮の骨頂だ、ぽてと来るとお座がさめる、蟇の食傷じゃあねえが、お産の時は腸がぶら下りまさ、口でいってさえ粋でねえね、芸妓が孕んで可いものか悪いものか、まず音羽屋に聞いてもらいたいなんてッて、あの女が、他愛のない処へ付け込んで、おひゃり上げて、一服承知させた連中、残らず、こりゃ怨まれそうなこッてげす。何を目当に、御馳走なんぞ、へん下らない。"
],
[
"師匠心配したもうなッてえのに、疑り深いな。",
"だってあの御気色を御覧じろ、きっとあれだ、違えねえね、八丁堀で花札が走った上に、怨み重なる支那と来ちゃあ、こりゃ奢られッこなし。",
"勿論僕の、その御相伴なんだよ。",
"へ、君だってあんまり、奢られる風じゃありますまいぜ。",
"ずッと有る、有るね、そこあ憚りながら源ちゃん方寸にありさ。"
],
[
"何、姐さん。",
"あのね、私は今夜塩梅が悪いから、どこから懸って来てもお座敷は皆断って下さいな、そして姐さんがお帰りだったら済みませんがお先へ臥りましたッてね。",
"はい。",
"可いかい。"
],
[
"痛いのかと思うとそうでもなしに、むず痒い、頼ない、もので圧えつけると動気が跳る様で切なくッて可けません。熟としていれば倒れそうになるんですもの、それを紛らそうといつになく、声を出して読み出したんですが、自分で凄くなるように、仰有れば成程良い声というんでしょうか。",
"なかなか、幽冥に通じて、餓鬼畜生まで耳を傾けて微妙の音楽を聞くという音調だ、妙なことがあるものでございますな、そして、やはりお心持は。"
],
[
"まあさ、ちょいとおいでなさいていこッた、こッたの性なら下まで来いだよ。",
"富ちゃん、富ちゃんてば。"
],
[
"まあおいでなさいっていうのに、何ですぜ、ちょいと、大変なこった、お蝶さん、神月の旦那から、",
"ええ、"
],
[
"旦那から、もし小包郵便が来たんですぜ。",
"ええ。"
],
[
"御存じの筈ですが、神月さんといやあお前さん、",
"可いよ。"
],
[
"気が疾いな、どうも、師匠出してやりたまえ。",
"まずお受取を頂戴いたしたいような訳で。",
"すッかり負けて来たんですからたんとはなくッてよ。"
],
[
"まあ、師匠。",
"じゃあちょいと升どん。"
],
[
"何でげしょう。",
"何だか、",
"そうさね。",
"一番あてッこで、丁と出たらまた頂戴は、どうでげすえ。"
],
[
"私沢山だ。",
"何もお前さんそんなにつんとすることはないじゃありませんか、頬を膨らしてさ。",
"一生懸命でおいで遊ばす、さあ、耐らない。ほれ、",
"それ笑った。"
],
[
"雲井の印紙を引剥がして、張り付けて、筆で消印を押したお手際なんざあ、",
"どんなもんだい。",
"いや、御馳走様でございますよ。"
],
[
"待ちゃあがれ。",
"ええ、",
"悪戯をしたなあ、源の野郎、手前だな。"
],
[
"あい、私さ、",
"何、",
"突立って、何だ。",
"坐ったらどうおしだい。",
"おやおや、この女は、目が上ってるよ、水でもぶッかけておやんなね。"
],
[
"畜生!",
"生意気な、文句をいうなら借金を突いて懸るこッた、分が何だい、憚ンながら大金が懸ってますよ。そうさ、また仲之町でお育ち遊ばしたあなただから、分外なお金子を貸した訳さ。しッ越もない癖に、情人なんぞ拵えて、何だい、孕むなんて不景気な、そんな体は難産と極ってるから、血だらけになって死なないようにとお慈悲で堕してやったんだ。商売にも障ります、こっちゃ何も慰に置くお前じゃあない、お姫様も可い加減にしておくが可いや、狂気。朝から晩まで人形いじくりをし通されて耐るもんか、外の妓にも障るんです、五人六人と雑魚寝をする二階にあんなもの出放しにしておかれちゃあ邪魔にもなるね。面も生ッ白いし、芸も出来て、ちったあ売れるからと大目に見て、我ままをさしておきゃあ附け上って、何だと、畜生。もう一度いって見ろ、言わなきゃあ言わしてやろうか、"
],
[
"私、",
"どこへ行くか、あッ貴様は。"
],
[
"名を言え、番地はどこか。",
"…………"
],
[
"家は、",
"下宿して、"
],
[
"名を言おう。",
"何い。"
]
] | 底本:「泉鏡花集成3」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年1月24日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第五卷」岩波書店
1940(昭和15)年3月30日
初出:「湯島詣」春陽堂
1899(明治32)年11月23日
※「鮓《すし》」と「鮨《すし》」、「飜」と「翻」の混在は、底本通りです。
※底本の編者による脚注は省略しました。
入力:門田裕志
校正:砂場清隆
2018年10月24日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"折角だがね、まずそれを聞くのじゃなかったよ。",
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],
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"土地繁昌の基で、それはお目出度い。時に、その小川の温泉までは、どのくらいの道だろう。",
"ははあ、これからいらっしゃるのでござりますか。それならば、山道三里半、車夫などにお尋ねになりますれば、五里半、六里などと申しますが、それは丁場の代価で、本当に訳はないのでござりまする。",
"ふむ、三里半だな可し。そして何かい柏屋と云う温泉宿は在るかね。",
"柏屋! ええもう小川で一等の旅籠屋、畳もこのごろ入換えて、障子もこのごろ張換えて、お湯もどんどん沸いております。"
],
[
"へへへ、好い婦人が居りますぜ。",
"何を言っているんだ。",
"へへへ、お湯をさして参りましょうか。",
"お茶もたんと頂いたよ。"
],
[
"いらっしゃいまし。",
"お早いお着。",
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],
[
"姉さん、新らしく尋ねるまでもないが、ここはたしか柏屋だね。",
"はい、さようでございますよ。",
"柏屋だとするとその何、姉さんが一人ある筈だね。",
"皆で四人。",
"四人? 成程四人かね。",
"お喜代さん、お美津さん、お雪さんに私でございます。",
"何、お雪さんと云うのが居る?"
],
[
"そうだ、お前さんの名は何と云う。",
"そうだは御挨拶でございますこと、私は名も何もございませんよ。",
"いいえさ、何と云うのだ。",
"お雪さんにお聞きなさいまし、貴方は御存じでいらっしゃるんだよ、可憎しゅうございますねえ、でもあのお気の毒さまでございますこと、お雪さんは貴方、久しい間病気で臥っておりますが。",
"何、病気だい、",
"はあ、ぶらぶら病なんでございますが、このごろはまた気候が変りましたので、めっきりお弱んなすったようで、取乱しておりますけれど、貴方御用ならばちょいとお呼び申してみましょうか。",
"いえ、何、それにゃ及ばないよ。",
"あのう、きっと参りましょうよ、外ならぬ貴方様の事でございますもの。",
"どうでしょうか、此方様にも御存じはなしさ、ただ好い女だって途中で聞いて来たもんだから、どうぞ悪しからず。",
"どう致しまして、憚様。"
],
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"何と云うのだね、お前さんは。",
"手前は柏屋でございます。"
],
[
"それじゃ柏屋の姉さん、一つ申上げることにしよう。",
"まあお酌を致しましょう。私だって可いじゃありませんか、あれさ。",
"いや全く。お雪さんでも、酒はもう可かんのだよ。",
"それじゃ御飯をおつけ申しましょう、ですがお給仕となるとなおの事、誰かにおさせなさりとうございましょうね。",
"何、それにゃ及ばんから、御贔屓分に盛を可く、ね。",
"いえ、道中筋で盛の可いのは、御家来衆に限りますとさ、殿様は軽くたんと換えて召食りまし。はい、御膳。",
"洒落かい、いよ柏屋の姉さん、本当に名を聞かせておくれよ。",
"手前は柏屋でございます。",
"お前の名を問うのだよ。",
"手前は柏屋でございます。"
],
[
"色々お世話だった。お蔭で心持好く手足を伸すよ、姐さんお前ももう休んでおくれ。",
"はい、難有うございます、それでは。"
],
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"いや、幸い暴風雨にも逢わず、海上も無事で、汽車に間違もなかった。道中の胡麻の灰などは難有い御代の事、それでなくっても、見込まれるような金子も持たずさ、足も達者で一日に八里や十里の道は、団子を噛って野々宮高砂というのだから、ついぞまあこれが可恐しいという目に逢った事はないんだよ。",
"いえ、そんな事ではないのでございます。狸が化けたり、狐が化けたり、大入道が出ましたなんて、いうような、その事でございます。",
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"どうも行届きませんで、御粗末様でございます。",
"いや色々、さあずッとこちらへ、何か女中が御病気だそうで、お前さんも、何かと御心配でありましょう。"
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"さあさあ早くその中へ、お床は別々でも、お前さん何だよ御婚礼の晩は、女が先へ寝るものだよ、まあさ、御遠慮を申さないで、同じ東京のお方じゃないか、裏の山から見えるなんて、噂ばかりの日本橋のお話でも聞いて、ぐっと気をお引立てなさいなね。水道の水を召食ッていらっしゃれば、お色艶もそれ、お前さんのあの方に、ねえ旦那。",
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],
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"まあまあお前さん方。",
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"旦那笑談ではございませんよ、失礼な。お客様御免下さいまし。"
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"姉さん、さぞ心細いだろうね、お察し申す。",
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"うむ、東京だ、これでも江戸ッ児だよ。",
"あの、そう伺いますばかりでも、私は故郷の人に逢いましたようで、お可懐しいのでござりますよ。",
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"久しくそんなに致しております内、ちょうどこの十日ばかり前の真夜中の事でございます。寐られません目をぱちぱちして、瞶めておりました壁の表へ、絵に描いたように、茫然、可恐しく脊の高い、お神さんの姿が顕れまして、私が夢かと思って、熟と瞶めております中、跫音もせず壁から抜け出して、枕頭へ立ちましたが、面長で険のある、鼻の高い、凄いほど好い年増なんでございますよ。それが貴方、着物も顔も手足も、稲光を浴びたように、蒼然で判然と見えました。",
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"そうとも、全くだ。大丈夫だよ、なあにそんなに気に懸ける事はない、ほんのちょいと気を取直すばかりで、そんな可怪しいものは西の海へさらりださ。",
"はい、難有う存じます、あのう、お蔭様で安心を致しましたせいか、少々眠くなって参ったようでざいますわ。"
],
[
"さあさあ、寐るが可い、寐るが可い。何でも気を休めるが一番だよ、今夜は附いているから安心をおし。",
"はい。"
],
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"あのう、壁の方を向いておりますと、やはりあすこから抜け出して来ますようで、怖くってなりませんから、どうぞお顔の方に向かしておいて下さいましな。",
"うむ、可いとも。",
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"あのう、極が悪うございますよ。"
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"いえ、何、存じております。",
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[
"ええ、お雪さんが、どんな様子で。",
"実は今夜本を見て起きていると、たった今だ、しきりにお頼み申しますと言う女の声、誰に用があって来たのか知らぬが、この雨の中をさぞ困るだろうと、僕が下りて行って開けてやったが、見るとお雪じゃないか。小宮山さんと一所だと言う、体は雨に濡れてびっしょり絞るよう、話は後からと早速ここへ連れて来たが、あの姿で坐っていた、畳もまだ湿っているだろうよ。"
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"篠田、色々話はあるが、何も彼も明日出直して来よう、それまでまあ君心を鎮めて待ってくれ。それじゃ託り物を渡したぜ。",
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"いえ、託り物は渡したんだぜ。",
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"今受取ったそれさ。"
]
] | 底本:「泉鏡花集成2」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年4月24日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第五卷」岩波書店
1940(昭和15)年3月30日発行
入力:門田裕志
校正:土屋隆
2007年2月18日作成
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"私は、逆上るからなお堪りません。",
"陽気のせいですね。",
"いや、お前さんのためさ。",
"そんな事をおっしゃると、もっと傍へ。"
],
[
"可塩梅に霽りました。……ちと、お熱過ぎはいたしませんか。",
"いいえ、結構。",
"もし、貴女。"
],
[
"更めて、一杯、お知己に差上げましょう。",
"極が悪うござんすね。",
"何の。そうしたお前さんか。"
],
[
"失礼ですが、お住所は?",
"は、提灯よ。"
],
[
"いいえ、提灯なの。",
"へい、提灯町。"
],
[
"そうじゃありません。私の家は提灯なんです。",
"どこの? 提灯?",
"観音様の階段の上の、あの、大な提灯の中が私の家です。"
],
[
"お名は。",
"私? 名ですか。娘……",
"娘子さん。――成程違いない、で、お年紀は?",
"年は、婆さん。",
"年は婆さん、お名は娘、住所は提灯の中でおいでなさる。……はてな、いや、分りました……が、お商売は。"
]
] | 底本:「泉鏡花集成4」ちくま文庫、筑摩書房
1995(平成7)年10月24日第1刷発行
2004(平成16)年3月20日第2刷発行
入力:土屋隆
校正:門田裕志
2005年11月24日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "001176",
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"作品名読み": "ようじゅつ",
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[
[
"誰ぢや、何ものぢや。",
"うゝ。"
],
[
"関東の武家のやうに見受けますが、何うなさつた。――此処は、まことに恐多い御場所。……いはれなう、其方たちの来る処ではないほどに、よう気を鎮めて、心を落着けて、可いかえ。咎も被せまい、罪にもせまい。妾が心で見免さうから、可いかえ、柔順しく御殿を出や。あれを左へ突当つて、ずツと右へ廻つてお庭に出や。お裏門の錠はまだ下りては居ぬ。可いかえ。",
"うゝ。",
"分つたな。",
"うーむ。"
],
[
"うゝ、うゝむ。",
"あゝ、御番の衆、見苦しい、お目触りに、成ります。……括るなら、其の刀を。――何事も情が卿様の思召。……乱心ものゆゑ穏便に、許して、見免して遣つてたも。"
],
[
"御身は京都の返りだな。",
"然れば、虚空を通り掛りぢや。――御坊によう似たものが、不思議な振舞をするに依つて、大杉に足を踏留めて、葉越に試みに声を掛けたが、疑ひもない御坊と視て、拙道、胆を冷したぞ。はて、時ならぬ、何のための水悪戯ぢや。悪戯は仔細ないが、羽ぶしの怪我で、湖に墜ちて、溺れたのではないかと思うた。",
"はゝ。"
],
[
"然れば、此ぢや。……浜松の本陣から引攫うて持つて参つて、約束通り、京極、比野大納言殿の御館へ、然も、念入りに、十二間のお廊下へドタリと遣つた。",
"おゝ御館では、藤の局が、我折れ、かよわい、女性の御身。剰へ唯一人にて、すつきりとしたすゞしき取計ひを遊ばしたな。",
"ほゝう。"
],
[
"最早知つたか。",
"洛中の是沙汰。関東一円、奥州まで、愚僧が一山へも立処に響いた。いづれも、京方の御為に大慶に存ぜられる。此とても、お行者のお手柄だ、はて敏捷い。",
"やあ、如何な。すばやいは御坊ぢやが。"
],
[
"御坊が落した、試みのものは何ぢや。",
"屑屋だ。",
"はて、屑屋とな。",
"紙屑買――即ち此だ。"
],
[
"ふむ、……其処で肝要な、江戸城の趣は如何であつたな。",
"いや以ての外の騒動だ。外濠から竜が湧いても、天守へ雷が転がつても、太鼓櫓の下へ屑屋が溢れたほどではあるまいと思ふ。又、此の屑屋が興がつた男で、鉄砲笊を担いだまゝ、落ちた処を俯向いて、篦鷺のやうに、竹の箸で其処等を突つきながら、胡乱々々する。……此を高櫓から蟻が葛籠を背負つたやうに、小さく真下に覗いた、係りの役人の吃驚さよ。陽の面の蝕んだやうに目が眩んで、折からであつた、八つの太鼓を、ドーン、ドーン。"
],
[
"謀叛人が降つて湧いて、二の丸へ取詰めたやうな騒動だ。将軍の住居は大奥まで湧上つた。長袴は辷る、上下は蹴躓く、茶坊主は転ぶ、女中は泣く。追取刀、槍、薙刀。そのうち騎馬で乗出した。何と、紙屑買一人を、鉄砲づくめ、槍襖で捕へたが、見ものであつたよ。――国持諸侯が虱と合戦をするやうだ。",
"真か、それは?",
"云ふにや及ぶ。",
"あゝ幕府の運命は、それであらかた知れた。――",
"む、大納言殿御館では、大刀を抜いた武士を、手弱女の手一つにて、黒髪一筋乱さずに、もみぢの廊下を毛虫の如く撮出す。",
"征夷大将軍の江戸城に於ては、紙屑買唯一人を、老中はじめ合戦の混乱ぢや。",
"京都の御ため。"
],
[
"小虫、微貝の臣等……",
"欣幸、慶福。",
"謹んで、万歳を祝し奉る。"
],
[
"おゝ、其の武士は、部役のほかに、仔細あつて、些と灸を用ゐたのぢや。",
"道理こそ、……此は暑からう。待て〳〵、お行者。灸と言へば、煙草が一吹し吹したい。丁ど、あの岨道に蛍ほどのものが見える。猟師が出たな。火縄らしい。借りるぞよ。来い。"
],
[
"うゝ、うゝ。",
"あつ。"
],
[
"お行者。",
"其の武士は、小堀伝十郎と申す――陪臣なれど、それとても千石を食むのぢや。主人の殿は松平大島守と言ふ……",
"西国方の諸侯だな。",
"されば御譜代。将軍家に、流も源も深い若年寄ぢや。……何と御坊。……今度、其の若年寄に、便宜あつて、京都比野大納言殿より、(江戸隅田川の都鳥が見たい、一羽首尾ようして送られよ。)と云ふお頼みがあつたと思へ。――御坊の羽黒、拙道の秋葉に於いても、旦那たちがこの度の一儀を思ひ立たれて、拙道等使に立つたも此のためぢや。申さずとも、御坊は承知と存ずるが。",
"はあ、然うか、いや知らぬ、愚僧早走り、早合点の癖で、用だけ聞いて、して来いな、とお先ばしりに飛出たばかりで、一向に仔細は知らぬ。が、扨は、根ざす処があるのであつたか。"
],
[
"気障な奴だ。",
"むゝ、先づ聞けよ。――評定は評定なれど、此を発議したは今時の博士、秦四書頭と言ふ親仁ぢや。",
"あの、親仁。……予て大島守に取入ると聞いた。成程、其辺の催しだな。積つても知れる。老耄儒者めが、家に引込んで、溝端へ、桐の苗でも植ゑ、孫娘の嫁入道具の算段なりとして居れば済むものを――いや、何時の世にも当代におもねるものは、当代の学者だな。",
"塩辛い……"
],
[
"其処でぢや……松平大島守、邸は山ぢやが、別荘が本所大川べりにあるに依り、かた〴〵大島守か都鳥を射て取る事に成つた。……此の殿、聊かものの道理を弁へてゐながら、心得違ひな事は、諸事万端、おありがたや関東の御威光がりでな。――一年、比野大納言、まだお年若で、京都御名代として、日光の社参に下られたを饗応して、帰洛を品川へ送るのに、資治卿の装束が、藤色なる水干の裾を曳き、群鵆を白く染出だせる浮紋で、風折烏帽子に紫の懸緒を着けたに負けない気で、此大島守は、紺染の鎧直垂の下に、白き菊綴なして、上には紫の陣羽織。胸をこはぜ掛にて、後へ折開いた衣紋着ぢや。小袖と言ふのは、此れこそ見よがしで、嘗て将軍家より拝領の、黄なる地の綾に、雲形を萌葱で織出し、白糸を以て葵の紋着。",
"うふ。"
],
[
"何と御坊。――資治卿が胴袖に三尺もしめぬものを、大島守其の装で、馬に騎つて、資治卿の駕籠と、演戯がかりで向合つて、どんなものだ、とニタリとした事がある。",
"気障な奴だ。"
],
[
"かの隅田川に、唯一羽なる都鳥があつて、雪なす翼は、朱鷺色の影を水脚に引いて、すら〳〵と大島守の輝いて立つ袖の影に入るばかり、水岸へ寄つて来た。",
"はて、それはな?",
"誰も知るまい。――大島守の邸に、今年二十になる(白妙。)と言つて、白拍子の舞の手だれの腰元が一人あるわ――一年……資治卿を饗応の時、酒宴の興に、此の女が一さし舞つた。――ぢやが、新曲とあつて、其の今様は、大島守の作る処ぢや。",
"迷惑々々。"
],
[
"時に、……時にお行者。矢を貫いた都鳥は何とした。",
"それぢや。……桜の枝に掛つて、射貫れたとともに、白妙は胸を痛めて、どつと……息も絶々の床に着いた。",
"南無三宝。",
"あはれと思し、峰、山、嶽の、姫たち、貴夫人たち、届かぬまでもとて、目下御介抱遊ばさるる。",
"珍重。"
],
[
"都鳥もし蘇生らず、白妙なきものと成らば、大島守を其のまゝに差置かぬぞ、と確と申せ。いや〳〵待て、必ず誓つて人には洩すな。――拙道の手に働かせたれば、最早や汝は差許す。小堀伝十郎、確とせい、伝十郎。",
"はつ。"
],
[
"思ひ懸けず、恁る処で行逢うた、互の便宜ぢや。双方、彼等を取替へて、御坊は羽黒へ帰りついでに、其の武士を釣つて行く、拙道は一翼、京へ伸して、其の屑屋を連れ参つて、大仏前の餅を食はさうよ――御坊の厚意は無にせまい。",
"よい、よい、名案。",
"参れ。……屑屋。"
],
[
"お慈悲、お慈悲でござります、お助け下さいまし。",
"これ、身は損なはぬ。ほね休めに、京見物をさして遣るのぢや。",
"女房、女房がござります。児がござります。――何として、箱根から京まで宙が飛べませう。江戸へ帰りたう存じます。……お武家様、助けて下せえ……"
],
[
"可厭なものは連れては参らぬ。いや、お行者御覧の通りだ。御苦労には及ぶまい。――屑屋、法衣の袖を取れ、確と取れ、江戸へ帰すぞ。",
"えゝ、滅相な、お慈悲、慈悲でござります。山を越えて参ります。歩行いて帰ります。",
"歩行けるかな。",
"這ひます、這ひます、這ひまして帰ります。地を這ひまして帰ります。其の方が、どれほどお情か分りませぬ。",
"はゝ、気まゝにするが可い、――然らば入交つて、……武士、武士、愚僧に縋れ。",
"恐れながら、恐れながら拙者とても、片時も早く、もとの人間に成りまして、人間らしく、相成りたう存じます。峠を越えて戻ります。",
"心のまゝぢや。――御坊。"
],
[
"お行者。",
"少時、少時何うぞ。"
],
[
"仔細ない。久能山辺に於ては、森の中から、時々、(興津鯛が食べたい、燈籠の油がこぼれるぞよ。)なぞと声の聞える事を、此辺でもまざ〳〵と信じて居る。――関所に立向つて、大音に(権現が通る。)と呼ばはれ、速に門を開く。",
"恐れ……恐多い事――承りまするも恐多い。陪臣の分を仕つて、御先祖様お名をかたります如き、血反吐を吐いて即死をします。"
],
[
"臆病もの。……可し。",
"計らひ取らせう。"
],
[
"権現ぢや。",
"罷通るぞ!"
],
[
"何だ。",
"お袂に縋りませいでは、一足も歩行かれませぬ。",
"ちよつ。参れ。",
"お武家様、お武家様。",
"黙つて参れよ。"
]
] | 底本:「日本幻想文学集成1 泉鏡花」国書刊行会
1991(平成3)年3月25日初版第1刷発行
1995(平成7)年10月9日初版第5刷発行
底本の親本:「泉鏡花全集」岩波書店
1940(昭和15)年発行
初出:「新小説」
1922(大正11)年1月
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:川山隆
2009年5月10日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "048401",
"作品名": "妖魔の辻占",
"作品名読み": "ようまのつじうら",
"ソート用読み": "ようまのつしうら",
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"原題": "",
"初出": "「新小説」1922(大正11)年1月",
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"公開日": "2009-06-04T00:00:00",
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"名": "鏡花",
"姓読み": "いずみ",
"名読み": "きょうか",
"姓読みソート用": "いすみ",
"名読みソート用": "きようか",
"姓ローマ字": "Izumi",
"名ローマ字": "Kyoka",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1873-11-04",
"没年月日": "1939-09-07",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "日本幻想文学集成1 泉鏡花",
"底本出版社名1": "国書刊行会",
"底本初版発行年1": "1991(平成3)年3月25日",
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} |
[
[
"何だねえ。",
"才ちゃんや。"
],
[
"そうだっけ。まあ、可いやね。",
"可かない事よ……私は困っちまう。",
"何だねえ、高慢な。",
"高慢じゃないわ。そして、先生と云うものよ。",
"誰をさ。",
"皆さんをさ、先生とか、あの、貴方とか、そうじゃなくって。誰方も身分のある方なのよ。",
"そうかねえ。",
"そうかじゃありませんよ。才ちゃんてば。……それをさ、民さんだの、お前はんだのって……私は聞いていてはらはらするわ、お気を注けなさいなね。",
"ああ、そうだね、"
],
[
"ええ、何か出ましたかな。",
"まさか、"
],
[
"覚えていらっしゃいよ。",
"お喧しゅう……"
],
[
"いいえ。",
"何です。",
"やっぱり通り魔の類でしょうな。"
],
[
"近所の若い妓どもです……御存じの立旦形が一人、今夜来ます筈でしたが、急用で伊勢へ参って欠席しました。階下で担いだんでしょう。密と覗きに……",
"道理こそ。",
"(あら可厭だ)は酷いな。"
],
[
"ももんがあ! はッはッはッ。",
"失礼、只今は、"
],
[
"いいえ。そして……ちとお遊びなさいませ。",
"はい、あの、後にどうぞ。"
],
[
"三輪ちゃんの年紀は二十かって?",
"あら、可厭だ。",
"三つ!"
],
[
"なぜですか。",
"新橋、柳橋と見えるでしょう。",
"あら、可厭だ。",
"四つ、"
],
[
"いいえ、内の猫は、この間死にました。",
"死んだ?",
"ええ、どこの猫でしょう……近所のは、皆たま(猫の名)のお友達で、私は声を知ってるんですけれど……可厭な声ね。きっと野良猫よ。"
],
[
"消そうか、",
"大人気ないが面白い。"
],
[
"……そうだね、今夜、と極まった事も無いけれど、この頃にさ、そういう家がありやしないかい。",
"嬰児が生れる許?",
"そうさ、",
"この近所、……そうね。"
],
[
"無いわ、ちっと離れていては悪くって、江戸町辺。",
"そこらにあるかい。"
],
[
"ちょいと、階下へ行って、才ちゃんに聞いて来ましょうか。",
"…………",
"ええ、兄さん、"
],
[
"私、聞いて来ましょう、先生。",
"何、可い、それには及ばんのだよ。……いいえ、少しね、心当りな事があるもんだから、そらね。"
],
[
"向うに、暗く明の点いた家が一軒あるだろう……近所は皆閉っていて。",
"はあ、お医者様のならび、あすこは寮よ……",
"そうだ、公園近だね。あすこへ時々客では無い、町内の人らしいのが、引過ぎになってもちょいちょい出たり入ったりするから、少しその心当りの事もあるし、……何も夜中の人出入りが、お産とは極らないけれど、その事でね。もしかすると、そうではあるまいか、と思ったからさ。何だか余り合点み過ぎたようで妙だったね。"
],
[
"でもね、当りましたわ、先生、やっぱり病人があるのよ。それでもって、寝ないでいるの、お通夜をして……",
"お通夜?"
],
[
"ああ、そうよ。私は昨夜も、お通夜だってそう言って、才ちゃんに叱られました。……その夜伽なのよ。",
"病人は……女郎衆かい。",
"そうじゃないの。"
],
[
"誰の身代りだな、情人のか。",
"あら、情人なら兄さんですわ、"
],
[
"まあ、",
"ねえ……"
],
[
"佐川さん、",
"は、"
],
[
"その……近所のお産のありそうな処は無いかって、何か、そういったような事から。",
"ええ、"
],
[
"樹の根が崩れた、じとじと湿っぽい、赤土の色が蚯蚓でも団ったように見えた、そこにね。",
"ええ"
],
[
"まったくだわねえ。",
"いや、"
],
[
"煙管?",
"ああ、",
"上げましょう。……"
],
[
"ああ、吃驚した。",
"ト今度は、その音に、ずッと引着けられて、廓中の暗い処、暗い処へ、連れて歩行くか、と思うばかり。"
],
[
"茶番さ。",
"まあ!"
],
[
"居ないの、",
"まあ、お待ち、"
]
] | 底本:「泉鏡花集成4」ちくま文庫、筑摩書房
1995(平成7)年10月24日第1刷発行
2004(平成16)年3月20日第2刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第十三卷」岩波書店
1941(昭和16)年6月30日発行
※誤植の確認には底本の親本を参照しました。
入力:土屋隆
校正:門田裕志
2006年6月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "001179",
"作品名": "吉原新話",
"作品名読み": "よしわらしんわ",
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"作品著作権フラグ": "なし",
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"姓": "泉",
"名": "鏡花",
"姓読み": "いずみ",
"名読み": "きょうか",
"姓読みソート用": "いすみ",
"名読みソート用": "きようか",
"姓ローマ字": "Izumi",
"名ローマ字": "Kyoka",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1873-11-04",
"没年月日": "1939-09-07",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "泉鏡花集成4",
"底本出版社名1": "ちくま文庫、筑摩書房",
"底本初版発行年1": "1995(平成7)年10月24日",
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"校正に使用した版1": "1995(平成7)年10月24日第1刷",
"底本の親本名1": "鏡花全集 第十三卷",
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[
[
"うゝん、帰りやしない。",
"帰らないわ。"
],
[
"父さんは帰らないけれどね、いつものね、鰻が居るんだよ。",
"えゝ、え。",
"大きな長い、お鰻よ。",
"こんなだぜ、おつかあ。",
"あれ、およし、魚尺は取るもんぢやない――何処にさ……そして?"
],
[
"台所の手桶に居る。",
"誰が持つて来たの、――魚屋さん?……え、坊や。",
"うゝん、誰だか知らない。手桶の中に充満になつて、のたくつてるから、それだから、遁げると不可いから蓋をしたんだ。",
"あの、二人で石をのつけたの、……お石塔のやうな。",
"何だねえ、まあ、お前たちは……"
],
[
"行つてお見よ。",
"お見なちやいよ。",
"あゝ、見るから、見るからね、さあ一所においで。",
"私たちは、父さんを待つてるよ。",
"出て見まちよう。"
],
[
"おつかあ、鰻を見ても触つちや不可いよ。",
"触るとなくなりますよ。"
]
] | 底本:「集成 日本の釣り文学 第九巻 釣り話 魚話」作品社
1996(平成8)年10月10日第1刷発行
底本の親本:「サンデー毎日」毎日新聞社
1924(大正13)年10月発行
初出:「新小説」春陽堂
1911(明治44)年
※初出時の表題は、「鰻」です。
※ルビを新仮名遣いとする扱いは、底本通りにしました。
入力:門田裕志
校正:土屋隆
2006年11月15日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "046566",
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[
[
"うゝん、歸りやしない。",
"歸らないわ。"
],
[
"父さんは歸らないけれどね、いつものね、鰻が居るんだよ。",
"えゝ、え、",
"大きな長い、お鰻よ。",
"こんなだぜ、おつかあ。",
"あれ、およし、魚尺は取るもんぢやない――何處にさ……そして?"
],
[
"臺所の手桶に居る。",
"誰が持つて來たの、――魚屋さん?……え、坊や。",
"うゝん、誰だか知らない。手桶の中に充滿になつて、のたくつてるから、それだから、遁げると不可いから蓋をしたんだ。",
"あの、二人で石をのつけたの、……お石塔のやうな。",
"何だねえ、まあ、お前たちは……"
],
[
"行つてお見よ。",
"お見なちやいよ。",
"あゝ、見るから、見るからね、さあ一所においで。",
"私たちは、父さんを待つてるよ。",
"出て見まちよう、"
],
[
"おつかあ、鰻を見ても觸つちや不可いよ。",
"觸るとなくなりますよ。"
]
] | 底本:「鏡花全集 巻十四」岩波書店
1942(昭和17)年3月10日第1刷発行
1987(昭和62)年10月2日第3刷発行
初出:「新小説」春陽堂
1911(明治44)年
※初出時の表題は、「鰻」です。
入力:門田裕志
校正:土屋隆
2006年11月15日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "004575",
"作品名": "夜釣",
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"ソート用読み": "よつり",
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"初出": "「新小説」春陽堂、1911(明治44)年",
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"生年月日": "1873-11-04",
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[
[
"こんなのは珍らしゅうござんすぞね、奥さん、乳の出る事は鯉のようなものではのうてね、これ第一や。今夜から、流れて走るぞね。",
"質屋が駆落をしやしまいし。"
],
[
"幾干なの。",
"さあ、掛値は言わんぞね。これで……さあ――"
],
[
"何にするの?",
"まさか独楽にしやしない、食べるんだね。やあ久いもんだなあ。"
],
[
"東京にはこいつが少いかして、めったにお目に掛らないんです。いつか絵本を見るとね、灯を点した栄螺だの、兜を着た鯛だの、少し猥せつな蛸だのが居る中に、黄螺の女房といってね、くるくると巻いた裾を貝から長々と曳いて、青い衣服で脱出した円髷が乱れかかって、その癖、色白で、ふっくりとした中年増が描いてあったが、さも旨そうに見えたのさ。",
"可厭な兄さん。",
"いや、お客様に御馳走するのだよ。",
"御馳走ですな。",
"ちょっと……そのだらしのない年増の別嬪を十ウばかりお出しなさい。"
],
[
"ですがね。",
"大丈夫……間違いはありません。紅屋です。",
"先生は、紅屋の鑑定家なのかなあ。まるで違ってる。これは細露地を一つ取違えた……",
"ははは、大丈夫。いらっしゃい。――あすこに紅屋の息子さんが坐っているから確なものです。"
],
[
"さあ、おいでなさい、何にしろ驚いた。",
"……唯今、お迎いに出ます処で。……どうもね、小路の入口に、妙なお上りさんがお二人と思いましたよ。"
],
[
"可恐しくハイカラになったなあ、ここはどこなんだろう。",
"小父さん、正に御親類の紅屋です、ははは。",
"いいえさ、この菊のある処だよ、土間が広くなってさっぱり分らないね、見当が。",
"菊のありますね、その下は台所の井戸ですよ。吃驚して、ははは。大丈夫、危険はありません。父が手造りでしてね、屋根で育てたんですが、少々得意でしてね、その枝の撓った、糸咲の大輪なんぞは、大分御自慢でしてね、人様に見せたいんだが、置どころが外にありませんから。"
],
[
"お楽みですな。",
"何の……あんた。",
"姉さんは?"
],
[
"……ええ、台所に――お、ちょっと。",
"いらっしゃいまし。"
],
[
"ははあ、お火鉢の方は、先祖代々だけれど、――この蒲団は新規だな。床に和合神の掛ものと。",
"その菊は――お手製の、ただ匁と……"
],
[
"おお、障子が新しくなって、襖が替った、畳も入かわって――いや、天井の隙間まで紙が貼れました。あすこから、風が吹込んで、障子の破れから霰が飛込む、畳のけばが、枯尾花のように吹かれるのがお定りだったがな、まるで他家へ行ったようだ。",
"それでもやっぱり、私の内さ、兄さん……"
],
[
"親代々、まだ続いて達者でいます。余りかわったかわったと云うんなら、あれを一つ御馳走してあげましょうか。娘の時、私の額の疵を、緋目高だと云ったお礼を兼ねてね。",
"串戯じゃあない……"
],
[
"……明後日が舞台ですってね。……じゃあ打合せやなにかで、宿で大勢待ってるんでしょうね。",
"大丈夫……"
],
[
"……ありました、ありましたがね。",
"いいえね、……この春ごろでしたよ、ふいと店へ見えてね、兄さんの所番地はッて聞いたんですの。何でも十何年ぶりとかで、この土地へ帰って来ましたってね……永い間、北海道も、何とかッて、ずッと奥の炭坑の方に居たんですってさ。",
"僕は返事を出しません。"
],
[
"そうですか。",
"で、どんな様子をして……いや、聞くまい、薄情らしくって、姉さんに恥かしい。",
"私は何とも思いはしません。",
"畑下ッてどんな処です。村かしら。",
"いいえ、町ですよ、ずッとはずれの方ですけれど、……じゃあ逢いませんか。",
"さあ、どうしようかと思って――槙村さん、聞かない振で居て下さいよ。",
"ちょっと、失礼しようかね。"
],
[
"飛んでもない、いずれ先生には更めてお話ししますがね――そこでだ、姉さん。",
"兄さん、構わないじゃありませんか、どっちだって、逢ったって……逢わなくッたって……",
"さあ、そのどっちだってで実は弱った。"
],
[
"今度来るにも、ずッと途中から気になっているんですよ。――新聞なんか見ようって柄じゃあないから、今度の事も知りやしますまい。湯屋、髪結所のうわさにだって、桜が咲いた歌舞伎の方と違って、能じゃあ松風の音ぐらいなものですからね。それとも聞き知って、いまここへ訪ねて来たって、居ないと言えば、それまでだし、……職業が職業だから、そこへ掛けては他人数で隔てが出来ます。楽屋口で断るのも仔細ないけれど、そうかって、実はね、逢いたくないことはないんですよ。",
"じゃお逢いなさいな、どうしてさ。",
"ところが眷属大人数です。第一亭主がありましょう。亭主から、亭主の兄弟、その甥だ、その姪だ、またその兄だ、娘だ、兄の児だ、弟の嫁だッて、うじゃうじゃしている……こっちが何ものだか職業も氏素性も分らなけりゃ、先方様も同然なんだから、何しろ、人の女房で見りゃ、その亭主に御承知を願わなけりゃならない……",
"それは、兄さん、仔細はないじゃありませんか。",
"さあ、ところがね、義理にも、お目に掛ろうなぞと来た日には――"
],
[
"博徒でも破戸漢でも、喧嘩に対手は択ばないけれど、親類附合は大嫌いだ。",
"ああだもの。",
"いささか過激になったがね。……手紙の様子じゃあ、総領の娘というのが、此地で縁着いたそうだから、その新婦か、またその新郎なんのッてのが、悪く新聞でも読んでいて――(お風説はかねて)なぞと出て来られた日にゃ大変だ。",
"じゃあ、兄さんの、好きになさい。"
],
[
"お久さんだけ、一人だけよ、一人だけなら逢っても可いんでしょう、どう?",
"さあ、そう、うまく行くか知らん。……内証で呼出したりなんかして、どんな三百代言が引搦まろうも知れないからね、此地は人気が悪いんだから。",
"分りました。"
],
[
"兄さん、お久さんは家へ来ます。時間は極めておかないけれど。……",
"早業だなあ、町はずれだというのに、もう行って来たんですか、迅いこと、まるで女天狗だ。"
],
[
"で、亭主は居なかったかね。",
"居ましたとも、居たって構やあしない。……逢いたくないものは逢いたくないんだから。",
"遣附けましたな、いや外交家だ。辣腕辣腕。"
],
[
"他には、誰も……",
"その縁着いた娘さんが帰っていますよ。トラホームで弱ってるんですって。"
],
[
"よく、来たね。",
"ええ、私今日は、接待員よ、御珍客様の。",
"うむ、沢山あの先生にお酌をしてあげておくれ。――これで安心したよ。……やくざな小父さんなんぞと違って、先生だからね。学校出の令夫人だ、第一義理がある。何しろ、故郷は美人系だッてんで、無理に誘って来たんだけれど、まだ一向別嬪にお目にかからないので、申訳のなかった処なんだよ。お前さんの顔を見て、ほんとうに安心した。――いかがです、槙村先生。",
"串戯じゃあない、串戯ですよ。いやまったくです。"
],
[
"水、水。",
"ほッ。"
],
[
"嫁さん、嫁さん。",
"はい。"
],
[
"あの一番上の枝に草鞋が一足ぶら下っていたんですよ。いつか私が来た時に、五月ですね。土地子だが気がつかなかった。どうしたんだって聞くと、裏の家へ背戸口から入った炭屋の穿かえたのが、雪が解けて、引掛ったんじゃあない……乗ってるんだって――",
"お目に掛けたいようですわ。"
],
[
"お達者でねえ……",
"いや、一向どうも。"
],
[
"先生、あの、ちょっとお一口。",
"これはどうも、",
"お酌は拙ですよ。旦那が気が利かないから、下戸の処へ、おまけにただ匁の妓なんですから。"
],
[
"……思ったより、あんさんは若いこと。",
"うむ、何、いやどうも何だ、さっぱりだ。",
"一度お逢いした時から、もう二十四年か五年になりますね。",
"そうかなあ。……何しろ、何が何だか分が解らないんだからな、お互に。",
"いつも、ほんに、おたよりをしたいしたいと思っても、私は自分では手紙がかけず、震災のあった時なんかも、遠い北海道の果に居て、どれほどお案じした事やら、それでも、まあ、御無事でねえ。",
"わずかに命のあるばかりさ。",
"それでも、まあお互に息災で居れば、こうやって顔を見られますぞね。ほんとうに逢いとうてねえ、何年も何年も毎晩夢に見ぬ事はないのです。その夢にかって、はっきりした顔は分らんほど遠々しゅうて、……この春も、やっとお処が知れて、たよりをしたけれど……"
],
[
"それはお忙しい事は知れているけれど。",
"大して忙しい事もないんだがね。名も顔も知らない御亭主のある細君の許へは、うっかり返事は出せないよ。誰も別に悪戯をするとも思わないけれど、第一代筆だろう。きみだか何だか分りやしない。何人に断って、俺の妻と手紙の遣取をする。一応主人たるべきものに挨拶をしろ! 遣兼ねやしない……地方は煩いからな。",
"煩いぐらいで……こんなに私が思うているものを、それに、そんな、そんな内の人ではないのです。",
"そりゃ何より結構だ。……そうかい、いやに曲けてもいず、きみに邪慳でもないのだね。",
"ただ……困ってはいるけれどね、――何にしたかて、兄妹ですもの。"
],
[
"何だか、縁づいた総領の娘が、病気で帰っているんだって……",
"ええ、縁があって、一昨年十七で遣りましたがね、厄かねえ、秋のはじめから目を煩ろうて、ちょっと治らんもんですから、診てもらうと、トラホームやッて、……それでねえ。――あんさん煙管を貸してたあせ……今朝から御飯も欲しゅうない、気がせいてね、忘れて来た。",
"喫みたまえ。……そうだ、煙草を喫るんだっけな。",
"女だてらやけれど、工場で覚えました……十四の時から稼ぎに遣られてねえ。",
"その時分だっけな、一度ちょっと夢のように逢ったのは――",
"いんね、十七でいまの家へ一度縁づいたけれど、姑さんが余り非道で、厳しゅうて、身体に生疵が絶えんほどでね、とても辛抱がならいで、また糸繰の方へ遁げていた時でしたわ。",
"ああ、じゃあ、それからまた縒が戻った次第だな。",
"お腹に嬰児が居たもんでねえ、いろいろ考えては見たけれど、またお姑に苛められに……",
"で、子供たちは幾人だい。",
"えへ。"
],
[
"十一人や。",
"産みやがったなあ! その身体で……",
"仕方がないもの。",
"御亭主は幾つだ。",
"六十五や。",
"恐るべく壮だなあ。",
"それでね、六人とられてしもうて、いま五人だけですがね、ほんにね、お産の苦みと、十月の悩みと、死んで行くものの介抱と、お葬式の涙ばかりで暮すぞね。……ほんにね、北海道に十六年居る間でも、一人を負ぶして、二人の手を曳いて、一人を前に歩行かせて、雪や氷の川端へ何度行った事やらね。因果と業や。私みたいに不幸なものはないぞね、藁の上から他人の手にかかって、それでもう八歳というのに、村の地主へ守児の奉公や。柿の樹の下や、廐の蔭で、日に何度泣いたやら。――それでもね、十ウの時、はじめて両親はあかの他人じゃ、赤子の時に村へ貰われて来た、と聞かされた時ほど、悲しかった事はなかったぞね。実の親の家に居れば、何が何でも、この兄さんの……妹や。",
"恐縮だよ。",
"実のねえ、両親の顔も声も知らんのやけれど、自分で児を持って覚えがあるぞね、たとえ、どんな辛い思をしようと、食べるものは食べいでも、どんなに嬉しいか、楽しいか。",
"恐縮だよ。",
"ほんに、他人に育てられてみん事には、その辛さは分らんぞね。",
"恐縮だよ。",
"それを、それを、まだ碌に目もあかん藁の上から、……町の結構な畳の上から、百姓の土間へ転がされて……"
],
[
"幾歳だい。",
"二十一や。",
"迅い奴だな、商売は。",
"蒔絵の方ぞね。",
"結構じゃあないか。",
"それや処がね。まだ見習いで、十分にのうてねえ、くらしはお姑さんが、おもに取仕切ってやもんですから、あんさん、それは酷いぞね――半月おきには、下駄の歯入れや、使いまわしも激しいし……それさえ内へ強請りに来るがね。(母さん十日お湯へ入りません、お湯銭たあせ、)と内証で来る。湯の具までもねえ、すれ切や、(母さん、……洗いがえ買うてたあせ、)とソッと来るし……",
"情ねえ事を云う。"
],
[
"情ないどころではないのですぞ。そのあげくがトラホームや、療治は長びくし、うち中へうつるいうて、今度返されて来たですがね、病院へ遣ろうにも、それでのうてさえ、内も楽どころではない処へ。",
"もん句は亭主に言えよ、亭主に。"
],
[
"それを言うたかてねえ、出来るようなら可いのですけれどもねえ。",
"きみの亭主にだよ、娘の事だ。――いや婿にだよ、誰がそんな事を知るもんか。",
"そう、もぎどうに言わいでも。"
],
[
"私にかて、私にかて――生れてから、まだただ一日も、一日どころか一度でも、親身の優い言葉ひとつ聞いた事のない私に――こんなに思いに思うて、やっと逢ったのに、",
"抱いたって擦ったって何にもならない――現金でなくっちゃあ、きみたちは駄目なんじゃあないか。",
"あれ、あんなまたもぎどうな。",
"さあさあ、茶碗の一つぐらい引くり覆ったって構わない。威勢よく、威勢よく!……さあよ。"
],
[
"兄さん――さあ、お久さん……こちらへ。……",
"それでねえ、――金銭をどうと云うではないけれどね、亭主をはじめてに、娘のその婿もね、そりゃ謡が好きなのですぞ。……息子もねえ、一人は鉄葉屋の方を、一人は建具屋の弟子になっているのですが、どっちも謡が大すきや。二人ともねえ、好きやぐらいか、あんさんのお弟子にもなりたいとねえ……血統は争われぬもんじゃぞね。"
],
[
"婿も……やっぱり、自然と繋がる縁やよって、あんさんにお逢いして、謡やら、舞とかいうものやら。",
"べらぼうめ、"
],
[
"お前のその蝦蛄の乾もののようになった、両手の指を、交る交る這って舐めろと言え。……いずれ剣劇や活動写真が好きだろう。能役者になる前に、なぜ、鉄鎚や鑿を持って斬込んで、姉を苛めるその姑婆を打のめさないんだい。――必ず御無用だよ。そういうかたがたを御紹介とか、何とか、に相成るのは。",
"あんさんは酔ってですね。"
],
[
"お悦さん――姉さん――私の言う事は間違ってるだろうか。",
"槙村先生にお聞きなさい。"
],
[
"邪慳かしら、薄情か知らん、たとえば、甲羅酒のように聞こえますか。それとも雪代さんの顔……",
"可厭だ、小父さん。",
"いや、天人だよ、大したものです。茨蟹のようか、それとも、舞台で……明日着ける……羽衣の面のようか、と云うんだよ。",
"どっちでも可いから、何しろ、まあお食んなさいよ。",
"名言だなあ。"
],
[
"お母さんなのよ。――困るわね。",
"真に迫りましたよ。"
],
[
"だって、兄さんが嗅ぐんだもの。",
"天人からはじまって、地獄、餓鬼、畜生だ。――浅間しさも浅間しい、が、人間何よりも餌食だね。私も餌食さえふんだんなら、何も畜生が歯を剥くように、建具屋の甥や、妹の娘の婿か、その蒔絵屋なんか罵しりやしない。謡も舞も、内に転がしといて見せも聞かせもしようがね。"
],
[
"ニャーゴ!",
"こいつは不可い。",
"お、小父さんお客様。"
],
[
"広袖を出しておくれ、……二階だよ。",
"まあ、小父さん、お寒そうね。"
],
[
"似合いましたなあ、ははあ、先生。",
"それでは御出席になれますまい。",
"いや、諸君は、何を言う。"
],
[
"最早、こうなれば八郎討死です。",
"何。",
"そのかわり、明日は羽衣を着て化けて出ます。",
"何だ!",
"ああ、その菊の下は井戸ですよ。"
],
[
"何を食べてる。",
"篠鰈よ。",
"ああ、"
],
[
"東京の柳鰈か――すらりと細い……食ってるものも華奢だなあ。少しおくれ、毮ってだよ。",
"可厭な、先生。",
"何が先生だい、さあ、毮って。"
],
[
"……ござんせんね。",
"ありません。"
],
[
"御免なさい、",
"へい、これは。"
],
[
"お昼ごろ、連の人と頂きました花瓶なんですがね、可なり大きさのあるこわれものですから、お店で、すぐ荷造りをして頂くか、それとも一旦、宿の方までお受取りしようか、……とにかく、もう一度うかがう事になっていました……",
"はあ、いえ、それでございますがな。まあ、御新造さん、お掛けなすって。旦那もどうぞ。いらっしゃいましたよ、つい今しがた、前刻の旦那が。",
"来ましたって!"
],
[
"たった一度だったが、姉さんと一所に歩行いた――",
"ほんとうね、……夢のようだけれど、植木屋の花の中から見た所かしら、そして月夜のようだよ。"
],
[
"ちょっと欲いなあ。",
"欲いの?",
"うむ。",
"欲いものはお買いなさいよ。",
"値がどうも。",
"聞いてみましょうか。……私もちっと持っている。",
"串戯じゃあない。まだ給金も受取らないし、手が出せないと極りが悪いや。",
"八さんは、それだから可厭さ、聞くだけ聞くのに、何構うもんですかね。"
],
[
"どうでした。",
"幾干らだと思う。――お思いなすって、槙村先生。",
"さあ。",
"分らない。",
"五百円。",
"ええ。",
"……モ、七百円もするんですが、うしろにちょっと疵があります、緋目高一疋ほど。ほほほ、ですから、ただそれだけで――百円という処を……だわね、……もっとも諸侯道具ですって、それをお負け申して……九十円。"
],
[
"おいでなさい。――御退屈でしょうが、お席が出来たようです。あの人の事だから、今の連中と一所には決してしません。",
"そんな事なぞ。……私は楽みにしている。今日の天人の手は白いでしょう。"
],
[
"急病だ。",
"早打肩(脳貧血)だ。",
"恋の怨みだ。",
"薄情の報だ。"
],
[
"御免なさい、先生。――八郎さんに逢うまでは何にも聞かずに下さいましよ。",
"?……他国ものです、方角が分りませんから、何事も貴女次第です。"
],
[
"何にも言わないかわり、私は飲みますよ。",
"沢山めしあがれ、……あとで、また御馳走を。"
],
[
"そんな服装で、花瓶を持って、一体どっちの方へ行ったでしょうね。",
"ええ、大橋の方へ、するするとな。はあ……"
],
[
"湯呑を一つ貸して下さい、お茶碗でも。",
"はあはあ。"
],
[
"ちょっと……ああ、番頭さん、お店の方もお聞きなさい。私ね、この頃人に聞いたんですがね。お店の仕来りで、あの饅頭だの、羊羹だの、餅菓子だのを組合せて、婚礼や、お産の祝儀事に註文さきへお配りなさいます。",
"へい、へい。",
"あの、能の葛桶のような形で、青貝じらしの蒔絵で、三巴の定紋附の古い組重が沢山ありますね。私たちが豆府や剥身を買うように、なんでもなく使っていらっしゃるようだけれど、塗といい、蒔絵といい、形といい、大した美術品とやらなんですとさ。",
"へーい、成程。",
"仏蘭西のパリイの何とかって貴族の邸の応接室で、ヴァイオリンですか、楽器をのせる台になっているんですって。",
"へーい、成程。",
"提灯を一つ貸して下さいな。",
"へーい、成程。",
"そこの道具屋さんで借りれば可かったのに、ついうっかりしたもんだから。",
"へへい、成程。――どちら様で。",
"別院傍の紅屋の家内ですがね、どちらだって構わないじゃありませんか。"
],
[
"や、それを放すんですか。",
"ええ、一柳亭のですがね、する事は先へして、あとで掛け合った方が捗取りますから。"
],
[
"大な鰻が居ますか、居ますか、鯰。",
"お退き、お退き――"
],
[
"ほら、扉も少し開いていますわ。――先生ね、あなたね、少し離れた処で、密と様子を見ていて下さい。……後生ですから。",
"お指図通り。"
],
[
"兄さん、兄さん――",
"うーむ。",
"あんまりつい通りな返事だことね、うーむなんて。",
"うむ、だって。",
"もうちっと驚かなくっちゃあ。……いきなり、お能の舞台から墓所じゃアありませんか。そこへ私が暗中に出たんだもの。",
"何だか来そうな気がしていた処だからね。",
"ええ、私もここに兄さんが居そうな気がしたんですよ。兄さん、御堪忍ね。あれ、煙草を喫んでるんですね。",
"墓を手探りで、こう冷い青苔を捜したらね、燐寸があったよ。――今朝忘れたものらしい。それに附木まであるんだ。ああ、何より、先生はどうした、槙村さんは。"
],
[
"どこで。",
"一柳亭で。",
"また一柳かい。いや、それにしても可羨しいな。魂を入かえたいくらいなもんだ。――もっとも、魂はどこへ飛んだか、当分解らないから、第一その在処を探してかからなけりゃならないけれどね。",
"だから、お墓所へ来ているじゃありませんか。",
"まあ、そんなものか。――ああ、それにしても羨しい。",
"串戯はよして、ほんとうに兄さん、堪忍してね。",
"何をさ。",
"だって、あんな処で、兄さんを打ったりなんか。",
"いや、その事なら、かえって礼をいう。……当然のことのようだ。何だか、妹の事なり、何なり、誰かに引撲かれそうな気がしてならなかったからね。――一体、女形の面裡からものが見えるッて事はないのに、駢指が真向うへ立ったんだ。",
"さあ、その事ですよ。(余計な身寄は駢指のようなものだ。血も肉も一つ身体になって溶け合うのは、可愛い恋しい人ばかりだ。)ッて。……あら、煙草を喫んでるから、ちらちら顔が見えて、いくら私でも極りが悪い。",
"何、構うもんか、全くそれに違いないんだ。",
"兄さん、きっとそう。",
"確かだ。",
"そんなら、なぜ、お久さんが真向うへ立ったって、なぜ、打たれそうな気がしたりなんかするんです。――それはきっと世間体で、妹や、その親類の、有象無象に冷くっては人に済まない、と思うからでしょう。",
"世間なんかどうでも可い。人間同志だからね。しかし舞台じゃ天人になってるから。"
],
[
"私は信じるよ。",
"信じますね、……確かですね――そうすりゃ、私かって、内の亭主は駢指です。"
],
[
"お待ち、お待ち。――それは芸の上の話だよ。うぞう、むぞうに集られると、能役者じゃいられない、謡の師匠で、出稽古に信玄袋を持って廻らなけりゃならないというんだよ。",
"舞台だけの役者だって、私は、兄さんの羽衣とかの天人の顔を見ているより、青めりんすを引撲くか、駢指の講釈を聞く方がどんなに嬉しいか知れやしない。あすこで、あの羽衣の姿で、面で、雲から降りたそのままで、何千かの見物に、あの講釈をしたら、どんなにかいい心持だろうのに――だのに、青めりんすは引撲かないし、じれったくって、自烈たくって堪らない処へ、また余り姿容が天人になっておいでだから、これなり、ふッとどこかへ行ってしまいはしないだろうかと、夢中で血迷って、留めようとして、ハッと思うと、舞台の邪魔をした私だから、私まで、駢指だと兄さんが言いそうで、かっと口惜くもなるし、癪にも障ったし、したもんだから、つい打ったりなんかして。",
"いや、もっともだ。芸に達して、天人になり澄ましていれば、羽衣さえ取返せば、人間なんぞにかかわりはないのだけれど、まだどうも未熟でね、雑念が交るから、正面を切って伎の上でもきっぱりと行り切れないんだ。第一、はじめ、私は不意にお母さんが出て来たかと思ったよ。お久に対する処置ぶりが間違ってでもいるために。――ちょうど桟敷のあの辺で、お母さんに抱かれて能を見た事を覚えているから。はっと思ってそれが姉さんと気がついた時は、私は、斬られるかと思った……すぱっと出刃庖丁でさ。……舞台へ倒れた時は、鮒になったと思ったよ。鮒より金魚だ。赤地の錦で、鏡板の松を藻に泳ぐ。……いや、もっと小さい。緋丁斑魚だ。緋丁斑魚結構。――おお、肴は出来た。姉さん、姉さん、いいものを持っているんだね。",
"どこでも構わず、息つぎに、逢った処で、飲ませようと思ってさ。",
"頂こう――茶碗がない。",
"まさか、廚裏へも、ね。",
"飛んでもない、いまは落人だ。――ああ、好いものがある。別嬪の従妹の骨瓶です。かりに小鼓と名づけるか。この烏胴で遣つけよう、不可いかな。",
"ああ、好きになさい。思った事をしないでどうするもんですか、毒になったって留めやしない。",
"その勢で――と燗はどうだろう、落葉を集めて。",
"すぐに間に合いますよ。",
"さきへ、一口遣つけてと。……ふーッ、さて、こう度胸の据った処で、一分別遣ッつけよう。私のこんな了簡じゃ、舞台に立てば引撲かれるし、謡の出稽古はしたくなし、……実は、みっしり考えようと思ってね、この墓所へ逃込んだんだが。",
"よく、楽屋で騒ぎませんでしたね。",
"騒ぐ間がありゃしない。また騒いだ処で、玄人の連中は、いずれ東京へ出れば世話になろうと思うから、そっとして置いたのさ。そこは流儀の御威光です。",
"何がまた口惜くって、あの花瓶を打欠いたんです。"
],
[
"覚えていますよ。",
"袋で持つと、プンと臭い。蒸臭てる、と言ったら、洗って食えと言った。癪に障って、打ちまけたら、お前さん、食べたより嬉しいと言ったぜ。",
"ええ、覚えていますよ。",
"場所が場所だし、念ばらしに一斉に打まけたんだよ。",
"その事ですよ。何だって思うままにするが可いんです。",
"難有い、うむそこで、分別も燗もつきそうだが、墓の前で、これは火燗だ。徳利を灰に突込むのさえ、三昧燗というものを、骨瓶の酒は何だろう、まだちっとも通らないが、ああ、旨い。",
"少し強く焚くと、灰が立って入るもの。",
"婦だなあ、お悦さんも。この場合に、灰が飛込むなんぞどうするものか。しかしお志は頂戴する、婦は優しいな。"
],
[
"ふーッ、いい酒だ。これで暮すも一生だ。車力は出来ず、屑は買えず、――姉さん、死人焼の人足の口はあるまいか、死骸を焼く。",
"ありますよ。",
"…………?",
"市営なんのって贅沢なのは間に合わないけれどね、村へ行くと谷内谷内という処の尼寺の尼さんが懇意ですがね。その谷戸の野三昧なら今からでも。――小屋に爺さんが一人だから。兄さんが火箸を突込めば私が火吹竹を吹く。……二人で吹きおこしたって構わない。"
],
[
"ちっとも構やしない、火葬場ですもの。……寝酒ぐらいはいつでも飲ませる。",
"面白い。いや、真剣だ。――天人にはまだ修業が足りない。地獄、餓鬼、畜生、三途が相当だ。早い処が、舞台で、伯竜の手から、羽衣を返された時、博覧会の饅頭の香気がした……地獄、餓鬼、畜生、お悦さん。",
"ええ、そうして、強くなって、他が羽衣を奪ろうとしたら、めそめそ泣かないで、引ぱたかなくっちゃあ……",
"二人は雌雄の鬼だが……可いかい。",
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"家は?",
"駢指を切るんです。",
"世間は?",
"青めりんすを打撲くんです。",
"――姉さん、尼さんは懇意かね。",
"小屋の爺さんとも。",
"行こう。",
"行きましょう。",
"槙村の知らないうちに――何しろ、さしあたり行く処は、――どこにもない。",
"あれ。",
"え。",
"来た、来た、来た、また来た、煩い、煩いッてば、チョッ福助。"
],
[
"あれえ、火事。",
"飛べ、獅子。"
],
[
"お悦さん……",
"…………"
],
[
"兄さん、口で云う事はほんとうに行らなくっては可厭ですよ。",
"勿論――しかしお悦さん……酒はこぼれやしまいね。"
],
[
"……先生、学校でも、教師も生徒も知ってるんですよ、先生の来た事を。僕、お話をききたかったんだけれど、この姉なんぞが邪魔にしおって……",
"邪魔にはしませんよ。",
"何いってやんでえ! おかめ。",
"ああ、もう出ます――先生、くれぐれも八郎さんが言ってでした。……ほかにお見せ申すものはありませんが、是非、白山を見て下さいって。",
"先生、一番近いんじゃあ、布村って駅を出て、約千五百メエトルばかり行くと、はじめて真白な巓が見えますから。――いえ、谷内谷内は方角が違うんです。"
],
[
"君、握手しよう――姉さんは、よその奥さんだから。",
"まあ、可厭ですこと……"
]
] | 底本:「泉鏡花集成8」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年5月23日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第二十三卷」岩波書店
1942(昭和17)年6月22日第1刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2011年5月7日作成
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"四ツ谺。",
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"さうさう七ツ谺。",
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] | 底本:「鏡花短篇集」岩波文庫、岩波書店
1987(昭和62)年9月16日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第三卷」岩波書店
1941(昭和16)年12月
初出:「文芸倶楽部」
1896(明治29)年11月
入力:砂場清隆
校正:松永正敏
2000年8月30日公開
2005年12月1日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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] | 底本:「泉鏡花集成3」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年1月24日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第三卷」岩波書店
1941(昭和16)年12月
初出:「文芸倶楽部」
1896(明治29)年11月
入力:日根敏晶
校正:門田裕志
2016年9月9日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"おじさん――その提灯……",
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"ほほほ、そんな掛声が出るようでは、おじさん。",
"何、くたびれやしない。くたびれたといったって、こんな、提灯の一つぐらい。……もっとも持重りがしたり、邪魔になるようなら、ちょっと、ここいらの薄の穂へ引掛けて置いても差支えはないんだがね。",
"それはね、誰も居ない、人通りの少い処だし、お寺ですもの。そこに置いといたって、人がどうもしはしませんけれど。……持ちましょうというのに持たさないで、おじさん、自分の手で…",
"自分の手で。",
"あんな、知らない顔をして、自分の手からお手向けなさりたいのでしょう。ここへ置いて行っては、お志が通らないではありませんか、悪いわ。",
"お叱言で恐入るがね、自分から手向けるって、一体誰だい。",
"それは誰方だか、ほほほ。"
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"ありがとう……提灯の柄のお力添に、片手を縋って、一方に洋杖だ。こいつがまた素人が拾った櫂のようで、うまく調子が取れないで、だらしなく袖へ掻込んだ処は情ない、まるで両杖の形だな。",
"いやですよ。",
"意気地はない、が、止むを得ない。お言葉に従って一休みして行こうか。ちょうどお誂え、苔滑……というと冷いが、日当りで暖い所がある。さてと、ご苦労を掛けた提灯を、これへ置くか。樹下石上というと豪勢だが、こうした処は、地蔵盆に筵を敷いて鉦をカンカンと敲く、はっち坊主そのままだね。",
"そんなに、せっかちに腰を掛けてさ、泥がつきますよ。",
"構わない。破れ麻だよ。たかが墨染にて候だよ。",
"墨染でも、喜撰でも、所作舞台ではありません、よごれますわ。",
"どうも、これは。きれいなその手巾で。",
"散っているもみじの方が、きれいです、払っては澄まないような、こんな手巾。",
"何色というんだい。お志で、石へ月影まで映して来た。ああ、いい景色だ。いつもここは、といううちにも、今日はまた格別です。あいかわらず、海も見える、城も見える。"
],
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"旅の人だか何だか、草鞋も穿かないで、今時そんな、見たばかりで分りますか。それだし、この土地では、まだ半季勘定がございます。……でなくってもさ、当寺へお参りをする時、ゆきかえり通るんですもの。あの提灯屋さん、母に手を曳かれた時分から馴染です。……いやね、そんな空お世辞をいって、沢山。……おじさんお参りをするのに極りが悪いもんだから、おだてごかしに、はぐらかして。",
"待った、待った。――お京さん――お米坊、お前さんのお母さんの名だ。",
"はじめまして伺います、ほほほ。",
"ご挨拶、恐入った。が、何々院――信女でなく、ごめんを被ろう。その、お母さんの墓へお参りをするのに、何だって、私がきまりが悪いんだろう。第一そのために来たんじゃないか。",
"……それはご遠慮は申しませんの。母の許へお参りをして下さいますのは分っていますけれどもね、そのさきに――誰かさん――",
"誰かさん、誰かさん……分らない。米ちゃん、一体その誰かさんは?",
"母が、いつもそういっていましたわ。おじさんは、(極りわるがり屋)という(長い屋)さんだから。",
"どうせ、長屋住居だよ。",
"ごめんなさい、そんなんじゃありません。だからっても、何も私に――それとも、思い出さない、忘れたのなら、それはひどいわ、あんまりだわ。誰かさんに、悪いわ、済まないわ、薄情よ。",
"しばらく、しばらく、まあ、待っておくれ。これは思いも寄らない。唐突の儀を承る。弱ったな、何だろう、といっちゃなお悪いかな、誰だろう。",
"ほんとに忘れたんですか。それで可いんですか。嘘でしょう。それだとあんまりじゃありませんか。いっそちゃんと言いますよ、私から。――そういっても釣出しにかかって私の方が極りが悪いかも知れませんけれども。……おじさん、おじさんが、むかし心中をしようとした、婦人のかた。",
"…………"
],
[
"返事をしましょうか。",
"願おうかね。",
"はい、おほほ。"
],
[
"かぞえ年……",
"ああ、そうか。",
"おじさんの家の焼けた年、お産間近に、お母さんが、あの、火事場へ飛出したもんですから、そのせいですって……私には痣が。"
],
[
"見えやしない、なにもないじゃないか、どこなのだね。",
"知らない。",
"まあさ。",
"乳の少し傍のところ。"
],
[
"……さて、これだが、手向けるとか、供えるとか、お米坊のいう――誰かさんは――",
"ええ、そうなの。"
],
[
"お米坊、そんな、こんな、お母さんに聞いていたのかね。",
"ええ、お嫁に行ってから、あと……"
],
[
"ああ、柘榴寺――真成寺。",
"ちょっとごめんなさい。私も端の方へ、少し休んで。……いいえ、構うもんですか。落葉といっても錦のようで、勿体ないほどですわ。あの柘榴の花の散った中へ、鬼子母神様の雲だといって、草履を脱いで坐ったのも、つい近頃のようですもの。お母さんにつれられて。白い雲、青い雲、紫の雲は何様でしょう。鬼子母神様は紅い雲のように思われますね。"
],
[
"柘榴寺、ね、おじさん、あすこの寺内に、初代元祖、友禅の墓がありましょう。一頃は訪う人どころか、苔の下に土も枯れ、水も涸いていたんですが、近年他国の人たちが方々から尋ねて来て、世評が高いもんですから、記念碑が新しく建ちましてね、名所のようになりました。それでね、ここのお寺でも、新規に、初路さんの、やっぱり記念碑を建てる事になったんです。",
"ははあ、和尚さん、娑婆気だな、人寄せに、黒枠で……と身を投げた人だから、薄彩色水絵具の立看板。",
"黙って。……いいえ、お上人よりか、檀家の有志、県の観光会の表向きの仕事なんです。お寺は地所を貸すんです。",
"葬った土とは別なんだね。",
"ええ、それで、糸塚、糸巻塚、どっちにしようかっていってるところ。",
"どっちにしろ、友禅の(染)に対する(糸)なんだろう。",
"そんな、ただ思いつき、趣向ですか、そんなんじゃありません。あの方、はんけちの工場へ通って、縫取をしていらしってさ、それが原因で、あんな事になったんですもの。糸も紅糸からですわ。",
"糸も紅糸……はんけちの工場へ通って、縫取をして、それが原因?……",
"まあ、何にも、ご存じない。",
"怪我にも心中だなどという、そういっちゃ、しかし済まないけれども、何にも知らない。おなじ写真を並んで取っても、大勢の中だと、いつとなく、生別れ、死別れ、年が経つと、それっきりになる事もあるからね。"
],
[
"まあ、そうですか、いうのもお可哀相。あの方、それは、おくらしに賃仕事をなすったでしょう。けれど、もと、千五百石のお邸の女﨟さん。",
"おお、ざっとお姫様だ。ああ、惜しい事をした。あの晩一緒に死んでおけば、今頃はうまれかわって、小いろの一つも持った果報な男になったろう。……糸も、紅糸は聞いても床しい。",
"それどころじゃありません。その糸から起った事です。千五百石の女﨟ですが、初路さん、お妾腹だったんですって。それでも一粒種、いい月日の下に、生れなすったんですけれど、廃藩以来、ほどなく、お邸は退転、御両親も皆あの世。お部屋方の遠縁へ引取られなさいましたのが、いま、お話のありました箔屋なのです。時節がら、箔屋さんも暮しが安易でないために、工場通いをなさいました。お邸育ちのお慰みから、縮緬細工もお上手だし、お針は利きます。すぐ第一等の女工さんでごく上等のものばかり、はんけちと云って、薄色もありましょうが、おもに白絹へ、蝶花を綺麗に刺繍をするんですが、いい品は、国産の誉れの一つで、内地より、外国へ高級品で出たんですって。",
"なるほど。"
],
[
"だって、平民だって、人の前で。",
"いいえ。",
"ええ、どうせ私は平民の子ですから。"
],
[
"……もう晩いんでしょう、今日は一つも見えませんわ。前の月の命日に参詣をしました時、山門を出て……あら、このいい日和にむら雨かと思いました。赤蜻蛉の羽がまるで銀の雨の降るように見えたんです。",
"一ツずつかね。",
"ひとツずつ?",
"ニツずつではなかったかい。",
"さあ、それはどうですか、ちょっと私気がつきません。"
],
[
"…………",
"もう、出来かかっているんです。図取は新聞にも出ていました。台石の上へ、見事な白い石で大きな糸枠を据えるんです。刻んだ糸を巻いて、丹で染めるんだっていうんですわ。"
],
[
"おばけの……蜻蛉?……おじさん。",
"何、そんなものの居よう筈はない。"
],
[
"蜻蛉だあ。",
"幽霊蜻蛉ですだアい。"
],
[
"何だい、今のは、あれは。",
"久助って、寺爺やです。卵塔場で働いていて、休みのお茶のついでに、私をからかったんでしょう。子供だと思っている。おじさんがいらっしゃるのに、見さかいがない。馬鹿だよ。",
"若いお前さんと、一緒にからかわれたのは嬉しいがね、威かすにしても、寺で幽霊をいう奴があるものか。それも蜻蛉の幽霊。",
"蛇や、蝮でさえなければ、蜥蜴が化けたって、そんなに可恐いもんですか。",
"居るかい。",
"時々。",
"居るだろうな。",
"でも、この時節。",
"よし、私だって驚かない。しかし、何だろう、ああ、そうか。おはぐろとんぼ、黒とんぼ。また、何とかいったっけ。漆のような真黒な羽のひらひらする、繊く青い、たしか河原蜻蛉とも云ったと思うが、あの事じゃないかね。",
"黒いのは精霊蜻蛉ともいいますわ。幽霊だなんのって、あの爺い。"
],
[
"――おばけの蜻蛉、おじさん。",
"――何そんなものの居よう筈はない。"
],
[
"ごめんなせえましよ、お客様。……ご機嫌よくこうやってござらっしゃる処を見ると、間違えごともなかったの、何も、別条はなかっただね。",
"ところが、おっさん、少々別条があるんですよ。きみたちの仕事を、ちょっと無駄にしたぜ。一杯買おう、これです、ぶつぶつに縄を切払った。",
"はい、これは、はあ、いい事をさっせえて下さりました。",
"何だか、あべこべのような挨拶だな。",
"いんね、全くいい事をなさせえました。",
"いい事をなさいましたじゃないわ、おいたわしいじゃないの、女﨟さんがさ。",
"ご新姐、それがね、いや、この、からげ縄、畜生。"
],
[
"いい塩梅に、幽霊蜻蛉、消えただかな。",
"一体何だね、それは。",
"もの、それがでござりますよ、お客様、この、はい、石塔を動かすにつきましてだ。",
"いずれ、あの糸塚とかいうのについての事だろうが、何かね、掘返してお骨でも。",
"いや、それはなりましねえ。記念碑発起押っぽだての、帽子、靴、洋服、袴、髯の生えた、ご連中さ、そのつもりであったれど、寺の和尚様、承知さっしゃりましねえだ。ものこれ、三十年経ったとこそいえ、若い女﨟が埋ってるだ。それに、久しい無縁墓だで、ことわりいう檀家もなしの、立合ってくれる人の見分もないで、と一論判あった上で、土には触らねえ事になったでがす。",
"そうあるべき処だよ。",
"ところで、はい、あのさ、石彫の大え糸枠の上へ、がっしりと、立派なお堂を据えて戸をあけたてしますだね、その中へこの……"
],
[
"ああ、擽ったい。",
"何でがすい。"
],
[
"それじゃ、私たち差出た事は、叱言なしに済むんだね。",
"ほってもねえ、いい人扶けして下せえましたよ。時に、はい、和尚様帰って、逢わっせえても、万々沙汰なしに頼みますだ。"
],
[
"おじい、もういいか、大丈夫かよ。",
"うむ、見せえ、大智識さ五十年の香染の袈裟より利益があっての、その、嫁菜の縮緬の裡で、幽霊はもう消滅だ。",
"幽霊も大袈裟だがよ、悪く、蜻蛉に祟られると、瘧を病むというから可恐えです。縄をかけたら、また祟って出やしねえかな。"
],
[
"そういう口で、何で包むもの持って来ねえ。糸塚さ、女﨟様、素で括ったお祟りだ、これ、敷松葉の数寄屋の庭の牡丹に雪囲いをすると思えさ。",
"よし、おれが行く。"
],
[
"このままでかね、勿体至極もねえ。",
"かまいませんわ。",
"構わねえたって、これ、縛るとなると。",
"うつくしいお方が、見てる前で、むざとなあ。"
],
[
"出来た、見事々々。お米坊、机にそうやった処は、赤絵の紫式部だね。",
"知らない、おっかさんにいいつけて叱らせてあげるから。",
"失礼。"
],
[
"着ますわ。",
"きられるかい、墓のを、そのまま。",
"おかわいそうな方のですもの、これ、荵摺ですよ。"
],
[
"肩をこっちへ。",
"まあ、おじさん。",
"おっかさんの名代だ、娘に着せるのに仔細ない。",
"はい、……どうぞ。"
]
] | 底本:「泉鏡花集成9」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年6月24日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第二十四巻」岩波書店
1940(昭和15)年6月30日第1刷発行
※「切燈籠」と「切籠燈」の混在は、底本と底本の親本の通りなので、そのままとしました。
入力:門田裕志
校正:多羅尾伴内
2003年9月3日作成
2008年10月5日修正
青空文庫作成ファイル:
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[
[
"御主人は?",
"……冷藏庫に、紅茶があるだらう……なんか言つて、呆れつ了ひますわ。"
],
[
"ながれ星だ。",
"いや、火の粉だ。"
],
[
"はぐれては不可い。",
"荷を棄てても手を取るやうに。"
],
[
"泉さんですか。",
"はい。",
"荷もつを持つて上げませう。"
],
[
"お邪魔をいたします。",
"いゝえ、お互樣。",
"御無事で。",
"あなたも御無事で。"
],
[
"……泊つて行けよ、泊つて行けよ。",
"可厭よ、可厭よ、可厭よう。"
]
] | 底本:「鏡花全集 巻二十七」岩波書店
1942(昭和17)年10月20日第1刷発行
1988(昭和63)年11月2日第3刷発行
※題名の下にあった年代の注を、最後に移しました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※表題は底本では、「露宿《ろしゆく》」とルビがついています。
入力:門田裕志
校正:川山隆
2011年8月14日作成
青空文庫作成ファイル:
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[
[
"それ、狐がいる。",
"いやですよ。"
],
[
"まあ、姉ちゃん。",
"どうも、ありがとう。"
],
[
"マッチをあげますか。",
"先ず一服だ。"
],
[
"大分上ったな。",
"帰りますか。",
"一奮発、向うへ廻ろうか。その道は、修善寺の裏山へ抜けられる。"
],
[
"まあ、おんなじような、いつかの鼓草のと……",
"少し違うぜ、春のが、山姫のおつかわしめだと、向うへ出たのは山の神の落子らしいよ、柄ゆきが――最も今度の方はお前には縁がある。"
],
[
"第一、大すきな柿を食べています。ごらんなさい。小さい方が。",
"どッちでも構わないが、その柿々をいうな、というのに――柿々というたびに、宿のかみさんから庭の柿のお見舞が来るので、ひやひやする。",
"春時分は、筍が掘って見たい筍が掘って見たいと、御主人を驚かして、お惣菜にありつくのは誰さ。……ああ、おいしそうだ、頬辺から、菓汁が垂れているじゃありませんか。"
]
] | 底本:「鏡花短篇集」岩波文庫、岩波書店
1987(昭和62)年9月16日第1刷発行
2001(平成13)年2月5日第21刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第二十七巻」岩波書店
1942(昭和17)年10月初版発行
初出:「大阪朝日新聞」
1933(昭和8)年2月5日
入力:門田裕志
校正:米田進、鈴木厚司
2003年3月31日作成
青空文庫作成ファイル:
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[
[
"ほうい、兎かと思った。吃驚すら。",
"何だ、人間か。"
],
[
"よう、合の子だな",
"目が黒い、髪も黒いぞ。",
"フム。",
"神巫のような娘ッ児だ。"
],
[
"なあ、姉え、此方にも一ツ遣ろうか、はは、正直に黙っていら。",
"あの児、こっちへ来や、ちょっと来ねえ、好い相談があるが、どうだ。"
],
[
"何だ何だ、蜜柑を遣る。かう死んだ小児でも思い出したか、詰らねえ後生気を起しやがるな、打棄っておけというに、やい。",
"うんにゃ、後生気どころじゃねえ、ここ一番という娑婆ッ気だ、伝九。"
],
[
"な。",
"そうか、うう、そうか、面白かんべい、へへへへへへ、おい、姉え。",
"待ちねえ待ちねえ、待ちねえよ。"
],
[
"あい、私。",
"お前だお前だ、お前に限ることだ、なあ、雲平おじい。",
"まあ、姉え、ちょっと来ねえよ。"
],
[
"だから神巫見たようだというのよ。",
"己らまた、柱暦の絵に描いた、倭武尊様かと思った奴さ。"
],
[
"時に姉え、お前、どこだ。",
"熱海なの。",
"は、御花主場だ、あんまり見かけねえ。",
"車夫さんは小田原?"
],
[
"図星々々。",
"その図星だ、一番きゅうと極めてえもんだ。"
],
[
"成程、可わえ、それじゃ水心ありの方だの、こう、姉え、そしてお前どこへ行く。",
"小田原。",
"何が小田原、",
"相談は極ってら。"
],
[
"ええ、姉え、ちくとんべい、お前にの。",
"己達が頼みてえ事があるんだ。",
"素直に肯かねえじゃ不可えぞ。"
],
[
"頼みッて?",
"おう、姉え、お前の胸にあるものだ。",
"ここへ打ちまけて見せてくんろ。"
],
[
"こう姉え、知ってるか、ちょうどお関所にかかるこの道の岐れる処は、ここン処だ。つい今年の三月、熱海へ奉公に出ておった、お前ぐれえな新造がの、親里の吉浜へ、雛の節句に帰るッて、晩方通りかかっての、絞殺された処だぜ、なあ、おじい。",
"そうよ、恐ねえ処よの、何でもいうことを肯かねえじゃあ。"
],
[
"でもその全く、へい、洒落に違いはござりやせんので、なあ、おじい。",
"此奴が申し上げる通りでござりやす。"
],
[
"旦那、これがその申上げた洒落というんで、実は、おじいの思いつきでござりやしてね。",
"へい、",
"苞からポンと出た処勝負、ものは何でも構わねえ、身ぐるみ賭けると、おじいが丁で、私が半。"
],
[
"むっとしやした。そこで旦那が、御覧じやした通りの体裁、や、抜けつ潜りつ、こやの軽いのにゃ飽倦ッちゃって、二人とも大汗になって、トド打掴え、掛けたのを外しにかかると、俯向けに倒れながら、まだ抵抗う気だ。二人が手とその娘の手先と、胸で指相撲のような騒ぎの処へ、旦那が割込んで来なすったんでね。",
"なあ、おじい。",
"そうよ。"
],
[
"函根の大地獄が火を噴いて、蘆の湖が並木にでもなるようなことがあったら、もう一度、焚火で秋刀魚の乾物を焚いて、往来へ張った網に、一升徳利をぶら下げようと思わねえこともねえんでね。",
"たかが、今時のお前さん。"
],
[
"私等の氏神様だ。",
"へへへへ、南無大明神でいらっしゃる。そこで、ひょこひょこ、それかように、"
],
[
"怪我はせんか、どこも痛みはしないかな。",
"はい。"
],
[
"どこも何ともないのよ。",
"その手は。"
],
[
"二人とも強いんですもの、乱暴ッちゃありゃしない。",
"いや、お前の方が乱暴だ。道理こそ、人殺とも、盗人とも、助けてくれとも泣かないで、争っていたっけが、お前、それじゃ、取組み合う気で懸ったのか。",
"はあ、喧嘩したんです。私、喰いついてやったり、引掻いたり、一生懸命だったんです。でも負けたわ。"
],
[
"当前だな、途方もない。",
"でも、そうしないと、無理に、あの、その苞を。"
],
[
"じゃ、あの、見せろッていいましたら、出しても可くって? 貴下。",
"可かろうとも。",
"神様に見せない前に。"
],
[
"神様に。",
"ええ。"
],
[
"分ったか。",
"はい。"
],
[
"佳い娘、佳い娘。",
"じゃ貴下。",
"むむ。",
"もしか、あの、今度のような事がありましたら、出して見せても可くってね。",
"可いともさ。",
"なに、それでは貴下のおっしゃることは、神様の心とおんなじなの。",
"同一だとも!"
],
[
"じゃあ、気をつけて行くんだよ。",
"貴下は熱海へいらっしゃるの。",
"ああ、そうさ。",
"今の人車だと訳はありはしませんのねえ。歩行いて行っては大変ですわ。",
"お前こそ、女の足で随分じゃないか。",
"いいえ、車なんか危なっかしくッて不可ません。ずんずん駈け出して行って来るの、何とも思いはしませんよ。",
"私も実は人車はあやまる。屋根は低いのに揺れると来て、この前頭痛で懲々したから、今度は歩行くつもりで、今朝小田原からたって来たが、陽気は暖かだし、海端の景色は可し、結句暢気で可い心持だ。しかし私は片道だが、お前は向うで泊るのかい。",
"あの、おつかいをして、直ぐに今日帰るんです。",
"ざっと行きかえり十四五里、しかもこの山路を、何だか私は、自分の使いにでも遣るようで、気の毒でならんのだ。"
],
[
"しかし、神ごとだというんだから、今の雲助とは訳が違って、金銭ずくでは仕方がない、じゃ、これで別れるよ。",
"…………"
],
[
"番頭さん?",
"へい。"
],
[
"まあ、閉めて此方へお入りなさい。",
"それでは御免を蒙りまして、や、こりゃ、お火が足しのうなりました。"
],
[
"旦那様はお風呂でござりますか、お塩梅はいかがでいらっしゃいます。",
"どうもね、こう寒いと直に障ってなりません。つい今しがた蒸湯へおいでなさいました。大方今夜は一晩でしょう、咳が酷くって、寝られないで困りますよ。"
],
[
"だッたの、なんのとおっしゃって、熱海中引くりかえるような大事、今にも十国峠が、崩れて来るか、湯の海になるかという、豪い事でござりました。貴女様、夫人は。",
"私はどうもしやしなかったよ。",
"何か早や夢のよう、この世のことか、前世のことか、それとも小児の時のことでござりましょうか。先刻の今が、まるで五十年昔あった、火事か大洪水、それとも乱国、戦国時分かと思われますような、厭な、変な、凄いような、そうかと申すと、おかしいような、不思議なような、さればといって、また現在目の前にちらついておりますような、妙な心持でござりまして、いや、もう、この大地震は忘れましても、道具の、出たり引込んだり一件は、向後いくつになりましても、決して忘れますことではござりません、と申しあげます内も、ぞッといたしまして、どうもこの、"
],
[
"おめでとう。",
"へいッ。"
],
[
"ええも、それは貴女様、ほんとうの事でござりますとも。",
"真暗な森の中の破れたお堂に、神主は留守だといって、その鼻と口と一所にだぶだぶと突出した大顔の、小さな人……何だか気味が悪いことね。"
],
[
"全く変でござりますよ。",
"内じゃお客様が多いから、離れた処で、二室借りておくけれど、こんな時はお隣が空室だと寂いのね。ほほほほほ、"
],
[
"お水を?",
"あの、お床の中で、",
"床の中で?"
],
[
"おや。",
"…………",
"紫の鉛筆で、私の座敷の目星いものを取っておいで、と書いたわねえ。",
"あの、その人は、この家の二階に泊っていたんです。",
"そうだってね。",
"そしてどこよりか、念にかけていたんですって。でも貴女が、ちっともお騒ぎなさいませんから、此室で仕事が出来なくッて、それで、あの尋常の方なら可いけれど、恐いお役人様なんで、手が出せなかったようで口惜いからッて、これを私に書きましたの。",
"そのために来たのかい。まあ、"
],
[
"何と思って、ええ、厭だっていわれなかったかい。",
"…………あの、あの方がいったんですから。家来は大勢居ましたけれど、誰も手出しが出来ないんですって。",
"そうねえ。"
],
[
"大勢居て?",
"はい、十四五人。",
"何、そうして魚見岬の下だって。",
"あの、大な巌だの、小な巌だの、すくすくして、浪の打ちます処に、黒くなって、皆、あの、目を光らかして、五百羅漢みたように、腰かけているんです。"
],
[
"じゃ、お前が、あの方という人はえ?",
"あの方は、一番高い尖がった巌の上に、真暗な中に、黒い外套にくるまって、足を投げ出して、皆の取って来たものを指環だの、黄金時計だの、お金子だの、一人々々、数をいいますのを、黙って聞いておりました。"
],
[
"でも何、先刻私を威したのは、あれはお前が考えたの。",
"いいえ、ここへ来ましょうと、巌を下ります時に、暗がりから、誰だか教えてくれたんです。",
"何といって、さあ。"
],
[
"対手は婦人だ、それに、お百度を踏もうという信心者だから、遣損なったら、威すと可い。遁げるだけは仔細はないッて、",
"あれ、そんなことまで知っているのかねえ。",
"はい、そしてあの、十二時を過ぎてから、お百度をなさいますから、その隙にッて、いいましたんです。でも、来て、あの姿見の向うの流しの硝子戸から覗きますと、映りましたのは私ばッかりで、奥様はお座敷にも廊下にも見えなさいませんから、この間と思って、飛込んだんでございますわ。",
"であの、そこへ集っただけで皆?",
"いいえ、仕事をするとすぐに。"
],
[
"三島へ遁げるのもありますし、峠を越して函嶺へ行ったのもございますし、湯河原を出て吉浜、もうその時分は、お関所辺で、ゆっくり紙幣を勘定しているものもあろうし、峠の棄石へ腰をかけて、盗んだ時計で、時間を見ているのもあるだろうッて、浪の音の合間々々に、皆が話していたんです。",
"大概どのくらいな仕事だとか、その人はいっちゃいなかったの。",
"内端に積りまして一万円ばかりですって。",
"大変なこッたねえ、それから、何、お鶴さん、その人の名は何というの。いいえ、大丈夫、私の命がなくなっても、とお百度を拝んでいる、観音様の御名にかけて、きっと人にはいわないから。",
"万綱っていうんです。",
"ああ、そうでしょう。それからその手下の衆の名は知らないかい。"
],
[
"あらためて私の許を、皆にひきあわせて、おかみさんにするんですって。",
"おかみさんに、お、お前それが嬉いの。"
],
[
"じゃあ、お前、盗賊が好なの、悪いこととは思わないの。",
"いいえ、盗賊することも、する人もいけませんけれど、だって、あの方なんですもの。そしてもう、もう私、おかみさんになりました。"
],
[
"もう他に、他にお嫁入する処はないんですって。",
"誰が、誰がそういいます。",
"おじいさん。",
"おじいさん、お前には御両親、おとっさんもおっかさんもないのだってね、おじいさんは何なの、その人が盗賊だってことを知らないのかい。",
"はじめは存じませんでした。はじめての晩、内へ泊りに見えました時は、どこのかお邸の、若様だとそう思っていたんですって。",
"まあ、泊りに行ったのかねえ、ここに、書いてあるのがそうだね。"
],
[
"いいえ、大丈夫、寅の刻までは海獺を極めて、ここに寝ていたって警察なんぞ、と六尺坊主がいったんです。",
"その方は、",
"え。",
"お前のその方は何てったの。"
]
] | 底本:「泉鏡花集成2」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年4月24日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第九卷」岩波書店
1942(昭和17)年3月30日発行
初出:「新小説 第十年第一卷」
1905(明治38)年1月
※底本の編者による脚注は省略しました。
入力:門田裕志
校正:染川隆俊
2020年8月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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"ばあや、あれなあに。",
"おや子の こじきです。まずしいので さんけいの 人に ものを もらって たべているのです。",
"そうじゃあないの、ばあや、千菊は あの おんなの こじきは あの 子どもの なんじゃと きいているのだよ。",
"あれは、お母さんと 子どもです。",
"ふうーん。"
],
[
"こじきにも お母さまが あるの、ばあや。",
"はい。こじきにも お母さまが いますよ、千菊さま。",
"ふしぎだ なあ。"
],
[
"そんなひまが あったら ちと べんきょうなさい。むかし、すがわらのみちざね と いう えらいかたは、七つのとき りっぱな うたを おつくりに なりました。千菊さまも、おうたでも おつくりなさい。",
"うたを つくるより、雪なげの ほうが、おもしろいわい。",
"いけません。大きくなって、ごてんに あがっても、うたが つくれないようでは はじを かきます。"
],
[
"そんな うたなら、いくらでも つくれらあ。",
"まあ、千菊さまに できますかしら。",
"できるよ。ばあや、おどろくな。"
],
[
"おしょうさまが わたしたちに かくれて、まいにち こっそり 水あめを なめて いるよ。",
"みずあめ――あまいだろうなあ。なめたいなあ。",
"どこに あるの。",
"おしょうさまの いまの とだなの うえに、ほら、かべつちいろの かめが あるだろう。あの なかに あるんだよ。",
"ほんとに みたのかい。"
],
[
"だれか いって おしょうさまに たのんで こいよ。",
"おこられるよ。いやだよ。"
],
[
"おしょうさま、みずあめを なめさせて ください。",
"なんじゃと。",
"たなの うえの かべつちいろの つぼの なかにある みずあめを、すこしずつで いいですから わたしたちに なめさせて ください。"
],
[
"たれが そんな ことを いった。",
"みたものが あります。おしょうさま、大人の おしょうさま ばかり なめて、子どもの わたしたちに なめさせない なんて、おしょうさま ずるいや。",
"うん、そうか。ゆうべ しょうじに あなを あけたのは おまえじゃな。",
"わたしでは ありませんが、たしかに おしょうさまが みずあめを なめているのを みたものが あります。",
"うん、そうか。"
],
[
"そうか。くださるか。",
"みんな いこう。"
],
[
"いいか。あれは ちゅうふうの くすりじゃ。ちゅうふうという びょうきは 子どもには かからぬ、わしの ような ろうじんにだけ ある びょうきじゃ。いいか、よく きけ。あの くすりは、ろうじんの ちゅうふうには よく きくが、子どもが なめたら いのちが なくなる。まちがっても あの くすりを なめたりするでは ないぞ。",
"へんな ことに なった もんだなあ。",
"わかったか――わかったな。",
"はい。",
"わかったら、でて いって よろしい。"
],
[
"なに、ちゃわんを わったと……。",
"そうです。おしょうさまの おるすの あいだに おへやを そうじして おこうと おもって、おちゃわんを わりました。おしょうさま、ああ、わたしは しにたい、しにたい。"
],
[
"ちがいます。うそでは ありません。",
"そうか。"
],
[
"いいや、しゅうけん。はじめに うそを ついたのは わしじゃ。わるいのは この わしじゃ。",
"いいえ、わたしが わるうございました。",
"いや、わるいのは わしじゃ。"
],
[
"この はりがみが みえないのですか、じくさいさん。",
"ははあ、これは しゅうけんぼうずかい。はりがみは よみましたよ。"
],
[
"よんだなら、なぜ はいってきた。",
"小ぞうさん、どうして かわを きたものが はいって いけないのかね。",
"おてらに けだものの かわを きて くると けがれます。これは ほとけさまの おしえです。かえって ください。",
"はっはっは……小ぞうさん、あんたは、りこうものだと ききましたが、やっぱり まぬけですね。",
"どこが まぬけです。",
"では、ききますが、てらにも じこくを しらせる たいこが ありましょう。たいこは けだものの かわを はって あるでしょう。わたしも けものの かわを きて いますから、たいこの ように、ずっと おくまで とおりますよ。はい、ごめんなさい。"
],
[
"おしょうさま、まんなかを わたって いきましょう。",
"だって、はしを わたっては いけない、と かいてあるでは ないか。",
"だから、まんなかを わたるのです、おしょうさま。この たてふだには、わざと はしを かんじで かかないで、はしと かなで かいて あります。これが なぞを とく かぎですよ、おしょうさま。"
],
[
"いいえ。わたしは このとおり 二つの めが ちゃんと そろって いますから、たてふだは よく みてきました。",
"なに、みてきた。――では、なぜ はしを わたってきましたか。",
"いいえ。はしの ほうを わたっては いけないと かいて ありましたから、まんなかを わたって きました。じくさいさん、この はしは はしの ほうが くさって いるんですか。そうでしたら、あぶないから はやく なおしておいて ください。"
],
[
"さあ、しゅうけんさん、ごちそうばかり ながめて いないで はやく こたえて ください。",
"ははあ、そんなこと わけも ありません。"
],
[
"くるしゅうない。あたまを あげい。",
"はい。"
],
[
"しゅうけん、おまえは なかなか とんちの よい 小ぞうじゃと きくが、どうじゃ、おまえの よこに ある その びょうぶに かいて ある トラは、まるで いきて いるようじゃろう。",
"はい。おおせの とおりで ございます。",
"ところが、そのトラが まいばん そのびょうぶから ぬけだして、いたずらを するので ほとほと こまるのじゃ。ついては そのほう ただちに そのトラを しばって わしの もとに つれてまいれ。"
],
[
"ただちに めしとるのじゃぞ。",
"はい、わけが ありません。"
],
[
"しょうぐんさま、おなわを おかしください。",
"おお、たれか しうゅけんに なわを かしてやれ。"
],
[
"はい、おいだして くだされば しゅうけん ただちに しばります。はやく ごけらいに いいつけて おいだしてください。",
"う、う、うむ。"
],
[
"こりゃ、しゅうけん、おいしいか。",
"はい、わたくしは くいしんぼうですから、おいしくて たまりません。",
"ほう。では、一つ きくが、しゅっけは にくや さかなを たべても いいのかな。わしは、しゅっけは なまぐさものは たべないものだ、と きいていたが……。",
"はッ!"
],
[
"しょうぐんさまも たべて おいでですね。",
"おお。わしは さむらいじゃ。にくも さかなも たべる。",
"でも、しょうぐんさまも あたまを ぼうずに して いらっしゃいますね。",
"そうだ。わしも ぶつもんに はいったのじゃ。",
"そうすると やはり ぼうさんの なかまいりを したのでしょう。",
"その とおりじゃ。",
"おなじ ぼうさんなら しょうぐんさまも さかなや にくを たべては いけないのでは ないでしょうか。",
"うむ、うむ……わしは しかし ほんとうの ぼうさんではない。",
"なまぐさぼうず ですか。なまぐさぼうずなら いたしかた ありません。"
],
[
"いいえ、ちがいます。",
"へいきで なまぐさを たべる ところを みると、なまぐさぼうず だろう。",
"いいえ、わたしのは ちがいます。",
"どう ちごう。",
"にんげんの のどには、しょくどうと きどうと ございます。",
"ほう、二つ あるか。",
"このみちは、とうかいどうと かまくらかいどう みたいな ものです。"
],
[
"かいどうならば、もちやも とおれば、さかなやも とおります。とうふやも にくやも とおります。",
"かいどうなら とおるじゃろうな。",
"はい。それで、わたしの かいどうを ただいま さかなやと にくやと とうふやが とおった わけで、けっして にくや さかなが ひとりで とおった わけでは ございません。",
"ははあ、小ぞう うまく にげたな。"
],
[
"いや、むやみ やたらには おとおし できません。",
"なぜじゃ。",
"おそれながら もうしあげます。ただいまは よのなかも しずかでは ありますが、まだまだ かたなを さした とうぞくも おれば、しょうぐんさまに 手むかい しようと ねらっている ものも あるかも しれません。さかなやや にくやや とうふやは そんな わるい ことを しませんが、かたなを さした ぶしは、いちいち しらべないと とおす ことは できません。"
],
[
"どうしたのですか、おばあさん。",
"はい、はい。じつは けさ はやく おじいさんが なくなったのです。どうぞ いんどうを わたして いただけないでしょうか。もしも おねがいが できれば、ほとけも うかばれます。",
"でも、おばあさん、それでしたら あなたの だんなでらに おねがい したら よくは ありませんか。",
"それが だめなので ございます。わたしの いえは おじいさんの ながわずらいで、一もんの おかねもありません。けさ おてらに いんどうを わたして ください とたのみに いきましたら、おてらさんでは、わたしが おふせを だせないことを しっていて、きて くれません。どうぞ おねがいします。"
],
[
"はい、口で ふきけしました。",
"それは、いけません。口は いろいろな ものを たべるところです。口の なかは きたなく なっています。その口で、おとうみょうを ふきけしては、ほとけの ばちが あたります。おまえも もう、まるまるの 子どもでは、ありません。そのくらいの ことは おぼえて おきなさい。",
"…………"
],
[
"では、おしょうさま、おきょうも 口で よんでは なりませぬか?",
"なぜじゃ。",
"ただいまの おはなしですと、口は きたないから おとうみょうを ふきけしては いけないと おっしゃいましたが、その きたない 口で、とうとい おきょうを よんでは、なおさら ほとけの ばちが あたりは しないか、と しんぱいです。",
"うむ、なるほど……。"
],
[
"なかなか あつい日が つづきます。こんなときは、とんちもんどう でもして あつさを しのぐに かぎります。どうぞ、おししょうさまと いっしょに あそびに きてください。そのかわり、ごちそうは たくさん ようい しておきます。",
"おしょうさま、じくさいさんから こんな てがみが きましたよ。"
],
[
"ついては しゅうけん、おまえに おりいって 話したいことが あるのだがね。",
"はい、なんでしょうか?",
"じつは ね、しゅうけん、わしは もう おまえに おしえる ことが、なんにも なくなったのだ。わしの もっている がくもんは、みんな のこらず おまえに おしえつくして しまったのじゃ。このうえは たれか わしより えらい かたに おまえを おたのみして、おまえに もっと もっと がくもんを ふかめて もらいたいのじゃ。",
"はい。",
"十三ねんも いっしょに いた おまえと、いまさら わかれるのは わしも つらい ことじゃが、おまえの がくもんの ためには これも いたしかた ないことじゃ。",
"はい。",
"ついては、ここに さいごんじの おしょうに てがみが かいてある。さいごんじの おしょうは てんかに かくれない がくもんの ふかい おしょうじゃ。この てがみをもって、これから すぐ さいごんじに いきなさい。さいごんじの おしょうには もう よく 話してある。",
"はい、おししょうさま、ありがとうございます。"
],
[
"はい、しゅうけんと もうします。よろしく おねがい いたします。",
"おまえは 大へん けんか こうろん、とんちもんどうが すきだそうだが、ほんとか?",
"いや、おしょうさま、わたしは けんかも こうろんも すきでは ありません。",
"なに、すきでない。それじゃあ おんなみたいに よわむしか?",
"でも ありません。",
"では、けんか こうろんは すきじゃろ?",
"ほんとは すきですが、しない ことにして おります。"
],
[
"おまえは いま けんか こうろんは せぬ、と いったな。",
"はい、もうしました。",
"では、ひとに つばや たんを はきかけられても、けんかを せぬか。",
"はい、おしぬぐって じっと だまり、おこらない しゅぎょうを したいと おもいます。",
"ほう、それでよい。それが おまえに、ほんとうに できるか?",
"はい、できます。できる ように しゅぎょう いたします。",
"そうだ。こちらが ただしいのに、つばや たんを はきかける ような やつは、いわば、ハエみたいなものじゃ。にんげんでは ない。そんな やつを あいてに けんか こうろん すれば、こちらが ばかに なる。",
"はい。",
"では、あいてが ぽかりと あたまを なぐって きたら、どうする。",
"がまん します。",
"いや、ただ がまんする だけでは いけない。そんな やつには、いくらでも なぐらせて やるがいい。わけの わからん やつがなぐった ときは、じぶんの あたまを あたまと おもうな。石だと おもえ。",
"石だと おもうのですか?"
],
[
"そうじゃ。わしの あたまは 石じゃ。おまえの 手は さぞ いたかったろうと あいてを ながめ、あいてを あわれんで やるのじゃ。",
"はい。"
],
[
"おまえは なかなか できている。どうじゃ、わしの ところで しんぼう できそうか。",
"いたします。",
"それでは 今日から そうじゅん と 名前を かえろ。"
],
[
"はい。こめびつは どこに ありますか?",
"だいどころに ある はずじゃ。"
],
[
"おしょうさま、おこめが ありません。",
"ないなら、どこからか さがして こい。"
],
[
"そうだよ。十にんの うちの 八にんまでは 下とうの 二だ。",
"あんこくじの おしょうさまは どのくらいでしょう。"
],
[
"そうだね。まず、中とう かね。",
"よしみつ公は 下とうの 二ですね。",
"まだ、下とうの 二にも いかないよ。",
"おしょうさまは どのくらい ですか?",
"おれか。おれは 上とうに はいりかけて いる ところだ。おまえも ぼうずに なったからには、上とうの上に ならなくては いけないよ。",
"はい!"
],
[
"二十一さいに なりました。",
"もう、ひとりだち しても いい ころだな。わしは もうおまえに なにも おしえる ことが なくなったよ。",
"おししょうさまの ごおんは けっして わすれません。"
],
[
"お母さま、わたしは びわこの ほとりに しゅぎょうに いきます。しばらく おわかれに まいりました。",
"びわこの どこに いく つもりじゃ。",
"かそうさまの おでしに して いただきたいと おもいます。"
],
[
"いいえ。",
"それでは むずかしいのじゃないか。かそうさまは めったに でしを とらぬと もうします。",
"でしに してくださらなければ、いおりの まえに ざぜんを くんで、しんでも うごかぬ かくごです。",
"そうですか。それほどの けっしんが あるなら、かそうさまも きっと でしに してくださるでしょう。"
],
[
"はい。",
"京で しゅぎょう したと いうが、だれの もとで まなんだ。",
"さいごんじの おしょうさまに 四ねんかん まなびました。",
"そうか。さいごんじの おしょうに ついたか。さいごんじの おしょうも おしいことを したな。",
"はい。",
"さいごんじの おしょうも がんこ だったが、わしは もっと がんこじゃ。おまえは うわさに きいておろう。",
"はい、ぞんじて おります。",
"しんぼう できるか?",
"どんな しんぼうでも いたします。",
"そうか。ゆきの なかは さむい。それでは、いおりの なかに はいろう。",
"はッ! ありがとう ございます。"
],
[
"はい、ゆめの ように すぎました。",
"わしは おまえに わしの がくもんの すべてを おしえた。また おまえの こころは どんなに わるい ぼうずと まじわっても、もはや けっして けがれる ことの ない、ふかい ところに たっした。もう おまえは この いおりを そつぎょうして いいぞ。",
"はい。みな おしょうさまの ごおんで ございます。",
"ついては、おまえに さしょうを あたえたい。"
],
[
"おしょうさま、ありがとうございます。でも、わたしは ごじたい いたします。",
"いらぬか?"
],
[
"はい……。",
"一休よ。おまえは わしの あとを ついで、大とくじの じゅうしょくに なって もらわねばならぬ。それには この さしょうが いるのじゃ。"
],
[
"あの ぼうずが へんな ことを いいやがったんだよ。",
"けしからん ぼうずだな。"
],
[
"これは たびの ぼうさん、どちらから おいでか?",
"うん、あちらから きた。",
"いや、うまれた ところは どこかと きいているのだ。",
"ははは、ききかたが まちがって いる。ぼうずには うまれた 土地が ないものじゃ。むりに いえば てんじくからか。"
],
[
"ここは きよき どうじょうじゃ。こじきぼうずなどの くる ところではない。なにか ほしければ だいどころに まわれ。",
"なるほど。"
],
[
"せっかくだが、ここは ぶげいの どうじょうだ。こじきぼうずに めぐむ ものなど ない。はらが へったら めしやに いけ。",
"なにか ほしかったら、かってぐちに まわれと いったぞ。"
],
[
"なんじゃ、そうぞうしい。",
"せんせい、こじきぼうずが めしを くわせろ、と いっています。せんせいの ことを てんぐと いっています。",
"だいどころに とおして、めしを くわしてやれ。"
],
[
"ぼうさん、こちらに きて ください。",
"それは かたじけない。"
],
[
"ちょっと ことわって おくが、わしは まずいものは きらいじゃ。たんと おいしいものを もって まいれ。",
"ぼうさん、そこは ちがいます。だいどころに きて ください。",
"いや、ここの ほうが よい。"
],
[
"せんせい、こじきぼうずが せんせいの ざぶとんに すわって、いばって います。",
"そうか。"
],
[
"これこれ、どうじょうには どうじょうの れいぎがある。かってなことを しては いかん。",
"もんくを いう まえに ごちそうを たのむ。"
],
[
"あまり かってな ことを すると、すてては おかんぞ。",
"どう なさろうと いうのじゃ。"
],
[
"おや、ぼうさんは けんじゅつを なさるか?",
"いや、いたさぬ。",
"では、その木刀は なんの ために おもちじゃ。",
"よのなかの にせものに みせる ためじゃ。",
"にせもの?",
"そう。よのなかには この 木刀の ような にせものが たくさんいる。こうして こしに さして いると、かたなのように みえるが、木刀は かたなの にせものじゃ。",
"わしを にせものだと いうのか?",
"おまえも そう おもうだろう。",
"くそぼうずッ!"
],
[
"ぼうさま、あなたは かねがね れんにょ上人から うけたまわって おります 一休さまでは ござりませぬか?",
"ほう、そなたは れんにょの しんじゃか?",
"はい、この あたりの ものは、みな れんにょ上人の しんじゃに ござります。"
],
[
"そうか、れんにょの しんじゃなのに、きさまが はなつまみもの とは、わけが わからぬ。",
"もうしわけ ありません。",
"うでを みがくだけでは だめじゃ。こころを みがけ。",
"はい、目が さめました。"
],
[
"一休さま、おねがいが ござります。",
"なんじゃな。",
"この どうじょうの どの 木刀でも よろしゅうございますから、一休さまの 木刀と とりかえて いただきとう ございます。",
"こんな ものを なんに いたす。",
"ぶつぜんに かざって、まいにち おがみ、こころを みがきます。",
"そうか。それは よい こころがけじゃ。"
],
[
"これこれ、あの おぼうさんは、この あついのに かさも もたずに おきのどくな ようす、たれか かさを 一つ おぼうさんに あたえよ。",
"はっ。"
],
[
"なんじゃ。",
"おぼうさん、たとえ おぼうさんとは いえ、ひとの ざしきに はいるのに、かさを かぶったままとは、ちと しつれいでござろう。かさを とって おはいりください。"
],
[
"ははは……よく きかれる ことじゃが、わしは とちゅうに ぶらぶら、と こたえることに して いる。",
"とちゅうに ぶらぶら とは、どう いう ことですか。",
"それがな、ゆうれいと いう やつは、ひとの こころの もちかたで、でたり でなかったりする。だから、でると いえば でる。でないと いえば、でない。つまり とちゅうで ぶらぶら……"
],
[
"いやな ぼうずだな。",
"この おめでたい お正月に、しゃれこうべを もちあるく なんて、なんて ぼうずだろう。"
],
[
"あなたは よくの ないかただと おもって いましたが、あんがい よくが ふかいのですね。",
"まあ、いいよ。しんざえもん、みておれ。"
],
[
"なん百にんでも いいから、おまえの しって いる こじきを みんな あつめて くれ。",
"なんですか、一休さん。",
"うえむら ないきの そうしきじゃ。"
],
[
"あれは かねもちだから、うんと かねを もらって やるのだ。",
"それは おもしろいですね。では、さっそく あつめましょう。"
],
[
"とんでも ございません。しゃっきんが たまって、みせを やって いけなくなりました。",
"それは きのどくじゃ。しゃっきんは どの くらいか?",
"百りょうで ございます。みせを うると、その百りょうが かえせます。",
"ほう、百りょうかな。"
],
[
"いい ことが ある。どうじゃな みえいどうさん、わしを おまえさんがたの ようしに して くださらんか。二人が いなかに かえっても いちもんなしでは こまるじゃろう。わたしが その しゃっきんを かえして あげよう。",
"と、とんでもない。あなたさまの ような かたを わたしどもの ような ものの ようしだ なんて。"
],
[
"みえいどうさん、ふでと すずりを かして ください。",
"どうなさります。",
"いいから かしてください。"
],
[
"しょうち して います。いま 大とくじの じゅうしょくに なるような とくの たかい かたは、あなたの ほかにありません。",
"もったいない ことです。"
]
] | 底本:「一休さん」日本書房
1954(昭和29)年11月1日発行
※「いたずらっ子」と「いたずらッ子」、「しゅうおんあん」と「しょうおんあん」、「だれ」と「たれ」の混在は、底本通りです。
※本文はほぼ単語ごとに全角空白を挿入していますが、単語の切れ目が行末の時は次の行頭に全角空白を入れていません。本文の他の個所を参照して、適宜判断して全角空白を挿入しました。
入力:sogo
校正:The Creative CAT
2021年5月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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| {
"作品ID": "060426",
"作品名": "一休さん",
"作品名読み": "いっきゅうさん",
"ソート用読み": "いつきゆうさん",
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"分類番号": "NDC K913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2021-06-25T00:00:00",
"最終更新日": "2021-05-29T00:00:00",
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"姓": "五十公野",
"名": "清一",
"姓読み": "いずみの",
"名読み": "せいいち",
"姓読みソート用": "いすみの",
"名読みソート用": "せいいち",
"姓ローマ字": "Izumino",
"名ローマ字": "Seiichi",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1902-02-26",
"没年月日": "1966-06-25",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "一休さん",
"底本出版社名1": "日本書房",
"底本初版発行年1": "1954(昭和29)年11月1日",
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} |
[
[
"こらこら、奴! それはだれの馬だ",
"佐々木殿の馬でございます",
"佐々木は三郎か、四郎か",
"四郎高綱殿"
],
[
"四郎待て!",
"おう、源太か、かけ違つてしばらく逢わなかつたが相変わらず元気そうだな",
"あいさつはあとまわしだ。おぬし生食をいつたいどうして手に入れた",
"ふ、ふむ。これは少々いわくがある",
"いわくとは何だ",
"実はこうだ。我らもかねてから生食はのどから手が出るほど欲しかつたのだ。ところが、一足さきにおぬしがおねだりをして断られたという話を聞いた。お気にいりの源太にさえお許しがなかつたとすれば、我らごときがいかほどお願い申してみたところで所詮むだなことは知れている。といつてこのたびの合戦にしかるべき馬も召し連れず、おめおめ人に手がらを奪われるのは口惜しい。ええままよ! 御勘気をこうむらばこうむれ。手がらの一つも立ててのちにお詫びの申しようもあろうと腹を決め、出陣の夜のどさくさにまぎれて――",
"盗んでのけたか?",
"うむ、盗んでのけた!",
"はははは、なあんだ。そんなことなら我らが一足さきに盗めばよかつた。ははははは――"
]
] | 底本:「新装版 伊丹万作全集2」筑摩書房
1961(昭和36)年8月20日初版発行
1982(昭和57)年6月25日3版発行
初出:「新映画」
1944(昭和19)年6月号
入力:鈴木厚司
校正:土屋隆
2007年7月25日作成
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "043637",
"作品名": "余裕のことなど",
"作品名読み": "よゆうのことなど",
"ソート用読み": "よゆうのことなと",
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"初出": "「新映画」1944(昭和19)年6月号",
"分類番号": "NDC 914",
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"公開日": "2007-08-29T00:00:00",
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"姓": "伊丹",
"名": "万作",
"姓読み": "いたみ",
"名読み": "まんさく",
"姓読みソート用": "いたみ",
"名読みソート用": "まんさく",
"姓ローマ字": "Itami",
"名ローマ字": "Mansaku",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1900-01-02",
"没年月日": "1946-09-21",
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"底本出版社名1": "筑摩書房",
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} |
[
[
"どこに居た、今まで",
"ニユーギニヤだよ、お前はどこで負けたことを聞いた",
"北海道の帯広だよ、近いからな、直ぐ帰つて来た",
"ほー、そりや、得したなあ"
],
[
"初世ちや、待つているよ",
"う――なんだつて"
],
[
"そりや、女ツてやつはな、いやな奴だからつて、必ずしもいやな顔は見せないさ、自分を誰にでも好かれる女だと思いこみたいのが、女の本性だからな",
"そうかな"
],
[
"幸助のことですか、幸助ならば、先に本家から頼まれています",
"本家ツて――どこの",
"あなたの家の――"
],
[
"十俵出すという話でしたよ",
"えツ――十俵"
],
[
"貰うにしたつて、戦地に行つてるもの、どうにもならないよ",
"行つてるままでいいツていうのだよ"
],
[
"どこの家だ、それは",
"杉淵の清五郎の姉娘だ",
"えツ――清五郎"
],
[
"呉れるというなら、貰いもするが、ほんとかよ、ほんとに呉れるツてか",
"誰がわざ〳〵冗談を言いに来るかよ、ほかの家には行かないが、佐太郎さんになら行くとこういう話だ、はツは"
],
[
"俺の家に来るつもりなら、戦地に出かける前にそう言えばよかつたろう",
"まさか",
"口で言わなくてもさ",
"しましたよ"
],
[
"嘘言え",
"本当ですよ",
"いつ――どこで",
"わからないつて――この人は――そら、草刈に行つたとき百合の花をやつたでしよう"
]
] | 底本:「賣春婦」村山書店
1956(昭和31)年11月10日発行
入力:大野晋
校正:仙酔ゑびす
2009年11月24日作成
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "050633",
"作品名": "押しかけ女房",
"作品名読み": "おしかけにょうぼう",
"ソート用読み": "おしかけにようほう",
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"姓": "伊藤",
"名": "永之介",
"姓読み": "いとう",
"名読み": "えいのすけ",
"姓読みソート用": "いとう",
"名読みソート用": "えいのすけ",
"姓ローマ字": "Ito",
"名ローマ字": "Einosuke",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1903-11-21",
"没年月日": "1959-07-26",
"人物著作権フラグ": "なし",
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"底本出版社名1": "村山書店",
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} |
[
[
"これはこれはまことにはや。",
"ずいぶん久しぶりだったねい。"
],
[
"ここにこんな人がいようとは思わねいもんだからははははは。",
"産土様があんまり変わってしまったから……",
"きょう来ましたか、どうしてまた今じぶん急にはあ。"
]
] | 底本:「野菊の墓」アイドル・ブックス、ポプラ社
1971(昭和46)年4月5日初版
1977(昭和52)年3月30日11版
初出:「文章世界 第八卷第六號」
1913(大正2)年5月1日
※表題は底本では、「落穂《おちぼ》」となっています。
※底本の編者による語注は省略しました。
入力:高瀬竜一
校正:noriko saito
2015年5月24日作成
2015年7月31日修正
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "056526",
"作品名": "落穂",
"作品名読み": "おちぼ",
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"初出": "「文章世界 第八卷第六號」1913(大正2)年5月1日",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2015-07-30T00:00:00",
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"名": "左千夫",
"姓読み": "いとう",
"名読み": "さちお",
"姓読みソート用": "いとう",
"名読みソート用": "さちお",
"姓ローマ字": "Ito",
"名ローマ字": "Sachio",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1864-09-18",
"没年月日": "1913-07-30",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "野菊の墓",
"底本出版社名1": "アイドル・ブックス、ポプラ社",
"底本初版発行年1": "1971(昭和46)年4月5日",
"入力に使用した版1": "1977(昭和52)年3月30日11版",
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"入力者": "高瀬竜一",
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[
[
"じいさん、ここから見ると舟津はじつにえい景色だね!",
"ヘイ、お富士山はあれ、あっこに秦皮の森があります。ちょうどあっこらにめいます。ヘイ。こっから東の方角でございます。ヘイ。あの村木立ちでございます。ヘイ、そのさきに寺がめいます、森の上からお堂の屋根がめいましょう。法華のお寺でございます。あっこはもう勝山でござります、ヘイ",
"じいさん、どうだろう雨にはなるまいか",
"ヘイ晴れるとえいけしきでござります、残念じゃなあ、お富士山がちょっとでもめいるとえいが",
"じいさん、雨はだいじょぶだろうか",
"ヘイヘイ、耳がすこし遠いのでござります。ヘイあの西山の上がすこし明るうござりますで、たいていだいじょうぶでござりましょう。ヘイ、わしこの辺のことよう心得てますが、耳が遠うござりますので、じゅうぶんご案内ができないが残念でござります、ヘイ",
"鵜島へは何里あるかい",
"ヘイ、この海がはば一里、長さ三里でござります。そのちょうどまんなかに島があります。舟津から一里あまりでござります"
],
[
"あそこはなんという所かい",
"ヘイ、あっこはお石でござります。あれでもよっぽどな一村でござります。鵜島はあのまえになります、ヘイ。あれ、いま鳥がひとつ低う飛んでましょう。そんさきにぽうっとした、あれが鵜でござります。まだ小一里でござりましょう"
],
[
"じいさん、この湖水の水は黒いねー、どうもほかの水とちがうじゃないか",
"ヘイ、この海は澄んでも底がめいませんでござります。ヘイ、鯉も鮒もおります"
],
[
"そりゃ聞きたい、早く聞かしてくれ",
"へい、そりゃ大むかしのことだったそうでござります。なんでもなん千年というむかし、甲斐と駿河の境さ、大山荒れがはじまったが、ごんごんごうごう暗やみの奥で鳴りだしたそうでござります。そうすると、そこら一面石の嵐でござりまして、大石小石の雨がやめどなく降ったそうでござります。五十日のあいだというもの夜とも昼ともあなたわかんねいくらいで、もうこの世が泥海になるのだって、みんな死ぬ覚悟でいましたところ、五十日めごろから出鳴りがしずかになると、夜のあけたように空が晴れたら、このお富士山ができていたというこっでござります"
],
[
"おもしろい、おもしろい、もっとさきを話して聞かせろ。爺さん、ほんとにおもしろいよ",
"そいからあなた、十里四方もあった甲斐の海が原になっていました。それで富士川もできました。それから富士山のまわりところどころへ湖水がのこりました。お富士さまのあれで出口がふさがったもんだから、むかしの甲斐の海の水がのこったのでござります。ここの湖水はみんな、はいる水はあってもでる口はないのでござります。だからこの水は大むかしからの水で甲斐の海のままに変わらない水でござります。先生さまにこんなうそっこばなしを申しあげてすみませんが……",
"どうして、ほんとにおもしろかったよ。それがほんとの話だよ"
]
] | 底本:「野菊の墓他六篇」新学社文庫、新学社
1968(昭和43)年6月15日発行
1982(昭和57)年6月1日重版
入力:大野晋
校正:小林繁雄
2006年7月18日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "001198",
"作品名": "河口湖",
"作品名読み": "かわぐちこ",
"ソート用読み": "かわくちこ",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "",
"分類番号": "NDC 914 915",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2006-08-16T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-18T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000058/card1198.html",
"人物ID": "000058",
"姓": "伊藤",
"名": "左千夫",
"姓読み": "いとう",
"名読み": "さちお",
"姓読みソート用": "いとう",
"名読みソート用": "さちお",
"姓ローマ字": "Ito",
"名ローマ字": "Sachio",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1864-09-18",
"没年月日": "1913-07-30",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "野菊の墓他六篇",
"底本出版社名1": "新学社文庫、新学社",
"底本初版発行年1": "1968(昭和43)年6月15日",
"入力に使用した版1": "1982(昭和57)年6月1日重版",
"校正に使用した版1": "1969(昭和44)年6月15日第2刷",
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[
[
"ねいあなた、まだ起きないですか",
"ウム起きる、どうしたんだ"
],
[
"もうかい……",
"はァ……"
],
[
"人の着物借りてまでも行きたかない。わたい",
"そんなら着物を持ってる蒼生子がひとり行くことにしておくか"
],
[
"こう間の悪いことばかり続くというのはどういうもんでしょう。そういうとあなたはすぐ笑ってしまいますけど、家の方角でも悪いのじゃないでしょうか",
"そんなことがあるもんか、間のよい時と間の悪い時はどこの家にもあることだ"
],
[
"今に見ろ、このやっかい者に親も姉妹も使い回されるのだ",
"それだから、なおやっかい者でさあね"
]
] | 底本:「野菊の墓他六篇」新学社文庫、新学社
1968(昭和43)年6月15日発行
1982(昭和57)年6月1日重版
入力:大野晋
校正:小林繁雄
2006年7月18日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
[
"お父さんあれ家だろう。あたいおぼえてるよ",
"あたいだって知ってら、うれしいなァ"
],
[
"お父さん、あら稲の穂が出てるよ。お父さん早い稲だねィ",
"うん早稲だからだよ",
"わせってなにお父さん",
"早稲というのは早く穂の出る稲のことです",
"あァちゃんおりてみようか",
"いけないよ、家へ行ってからでも見にこられるからあとにしなさい",
"ふたりで見にきようねィ、あァちゃん"
],
[
"まあ出しぬけに、どこかへでも来たのかい。まあどうしようか、すまないけど少し待って下さいよ。この桑をやってしまうから",
"いや別にどこへ来たというのでもないです。お祖父さんの墓参をかねて、九十九里へいってみようと思って……",
"ああそうかい、なるほどそういえばだれかからそんな噂を聞いたっけ"
],
[
"秋蚕ですか、たくさん飼ったんですか",
"あァに少しばかりさ。こんなに年をとっててよせばよかったに、隣でも向こうでもやるというもんだから、つい欲が出てね。あたってみたところがいくらにもなりゃしないが、それでもいくらか楽しみになるから……",
"なァにできるならやるがえいさ。じっとしていたんじゃ、だいいち体のためにもよくないから",
"そんなつもりでやるにやっても、あんまり骨が折れるとばかばかしくてねィ。せっかく来てくれてもこのさまではねィ、妾ゃまた盆にくるだろうと思ってました",
"百姓家だものこのさまでけっこうですよ。何も心配することはありゃしないさ",
"そりゃそうだけれどねィ"
],
[
"そんなに花をたくさんとっちゃいかんじゃないか",
"えいやね、東京では花だってかってにゃとれないだろう。いくらとってもえいよ、とればあとからいくらでも生えるから。たァちゃんにあァちゃんだったっけね。ううん九つに十……はァそんなになるかい",
"お前たちその花の名を知ってるかい",
"知らない……お父さん。なんというお花",
"うんまるい赤いのが千日草。そっちのが浦島草"
],
[
"菓子もいらない。そんなにこの花がえいのかい。田舎の子どもと違って、東京の子どもは別だわな",
"なにおんなじさ。ずいぶん家ではあばれるのさ"
],
[
"くるならくると一言いうてよこせば何とかしようもあったに。ほんとにしようがないなこれでは。養蚕さえやられねば、まさかこんなでもないだが。まァこのざまを見てくっだいま",
"何のしようがいるもんですか。多分忙しいんだろうから、実は今夜も泊まらずに、すぐ片貝へと思ったけれど、それもあんまりかと思ってね……",
"そうともまた、いくら忙しいたって、一晩も話さないでどうするかい。……きょうはまたなんというえい日だろうか。子どもたちがあァして庭に騒いで遊んでると、ようよう人間の家らしい気分がする。お前はほんとに楽しみだろうね。あんなかわいいのをふたりもつれて遊びあるいてさ",
"いや姉さんふたりきりならえいがね、六人も七人もときては、楽しみも楽しみだが、厄介も厄介ですぜ"
],
[
"子どもってまァほんとにかわいいものね、子どものうれしがって遊ぶのを見てるときばかり、所帯の苦労もわが身の老いぼけたのも、まったく忘れてしまうから、なんでも子どものあるのがいちばんからだの薬になると思うよ。けっして厄介だなどと思うもんでない",
"まったく姉さんのいうことがほんとうです、そりゃそうと孫はどうしました",
"あァ秋蚕が終えると帰ってくるつもり。こりゃまァ話ばかりしててもどもなんね。お前まァ着物でも脱いだいよ。お……婆やも帰った、家でも帰ったようだ"
],
[
"ぼんにくるだろうといってたんだ。あァそうか片貝へ……このごろはだいぶ東京から海水浴にくるそうだ",
"片貝の河村から、ぜひ一度海水浴に来てくれなどといってきたから、ついその気になってやって来たんです",
"それゃよかった。何しろこんな体たらくで、うちではしょうがねいけど、婆が欲張って秋蚕なんか始めやがってよわっちまァ",
"えいさ、それもやっぱり楽しみの一つだから",
"うんそうだ亀公のとこん鯰があったようだった、どれちょっとおれ見てきべい"
],
[
"お前はどういう気でにわかにお光が所へ行く気になったえ",
"どういう気もないです。お光さんから東京からもきてくれんければ、こちらからも東京へいって寄れないからなぞというてきたからです",
"そんならえいけれどね。お前にあれをもらってくれまいかって話のあったとき、少しのことで話はまとまらなかったものの、お前もあれをほしかったことは、向こうでもよく知っているから、東京の噂はよく出たそうだよ。それにあれもいまだに子どもがないから、今でもときどき気もみしてるそうだ。身上はなかなかえいそうだけれど、あれもやっぱりかわいそうさ。お前にそうして子どもをつれてゆかれたら、どんな気がするか",
"そんなこと考えると少しおかしいけれど、それはひとむかし前のことだから、ただ親類のつもりで交際すればえいさ"
],
[
"お父さんわたいお祖父さん知ってるよ、腰のまがった人ねい",
"一昨年お祖父さんが家へきたときに、大きい銀貨一つずつもらったのをおぼえてるわ",
"お父さん、お祖父さんどうして死んだの",
"年をとったからだよ",
"年をとるとお父さんだれでも死ぬのかい",
"お父さん、お祖母さんもここにいるの",
"そうだ"
],
[
"お父さんすぐ九十九里へいこうよう",
"さあお父さんてば早くいこうよう"
],
[
"私は子どもさえあれば何がなくてもよいと思います。それゃ男の方は子がないとて平気でいられましょうけれど、女はそうはゆきませんよ",
"あなたはそんなことでいまだに気もみをしているのですか。河村さんはあんな結構人ですもの、心配することはないじゃありませんか",
"あなたのご承知のとおりで、里へ帰ってもだれとて相談相手になる人はなし、母に話したところで、ただ年寄りに心配させるばかりだし、あなたがおいでになったからこのごろ少し家にいますが、つねは一晩でも早くやすむようなことはないのですよ。親類の人は妾でも置いたらなどいうくらいでしょう。一日とて安心して日を暮らす日はありませんもの。こんなに不安心にやせるような思いでいるならば、いっそひとりになったほうがと思いますの。東京では女ひとりの所帯はたいへん気安いとかいいますから……"
],
[
"まァかわいらしいこと、やっぱりこんなかわいい子の親はしあわせですわ",
"よいあんばに小雨になった、さァ出掛けましょう"
]
] | 底本:「野菊の墓他六篇」新学社文庫、新学社
1968(昭和43)年6月15日発行
1982(昭和57)年6月1日重版
入力:大野晋
校正:小林繁雄
2006年7月18日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
[
"誰れかに貰ってきたのかい",
"あんがそうだもんでん、ぶっちめて捕ったんだい",
"ほんとうに",
"ほんとうさまだ",
"ううんお前に捕られる田雀もいるのかねい",
"姉さんこりで五つになった。机の引出しさ三つ取ってあらあ、こりで五つだ姉さん、お母さんに拵えてやるとえいや"
],
[
"お前早かったない、寒かったっぺい、炬燵で一あたりあたれま",
"ああにお祖母さん、帰りにゃね風が凪げたかっね、寒いどこでなかったえ",
"ほんに風が凪げたない。お母も寝入ってるよ。あれではあ、えいだっぺいよ",
"そらあ、えかった。そりじゃお祖母さん薬は、後にしようかねい"
],
[
"あれ、忘れただよ、国、にしがには毛をむしれねえかい",
"あ、毛をむしるだけならおれにもできら"
],
[
"こんなに晩くなってお父さん寒かったべい",
"ああに寒かあなかった。鰯網が出たからね。それを待っててこんなにおそくなった。そらその菰に三升ばかり背黒鰯があらあ。みんなは、はあ飯くっちゃっぺいなあ",
"ああ、たべっちゃった。お父さんにだけ少し拵えてあげますべい"
],
[
"もうずいぶん晩いだろう……今から搗かないだってどうにかなんねいかい。明日の朝の分だけあるなら明日のことにしたらどうだい",
"あァにぞうさねいよお父さん、今夜一臼搗いて置かねけりゃ、明日の仕事の都合が大へん悪いからね。お父さんはくたぶれたでしょう、かまわないで寝て下さい"
]
] | 底本:「伊藤左千夫集」房総文芸選集、あさひふれんど千葉
1990(平成2)年8月10日初版第1刷発行
初出:「文章世界 第四卷第二號」
1909(明治42)年2月1日発行
※誤植を疑った箇所を、初出の表記にそって、あらためました。
入力:高瀬竜一
校正:きりんの手紙
2019年4月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "056532",
"作品名": "新万葉物語",
"作品名読み": "しんまんようものがたり",
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[
[
"うん雨は少し降るだろうけれどね大風は吹きゃしないだろうよ。そっだから大丈夫だよ",
"新聞にそう書いてあるの……",
"うん",
"そらえいこった"
]
] | 底本:「日本掌編小説秀作選 上 雪・月篇」光文社文庫、光文社
1987(昭和62)年12月20日初版1刷発行
初出:「ホトヽギス 第十四卷第一號」
1910(明治43)年10月1日
※表題は底本では、「大雨《たいう》の前日」となっています。
入力:高瀬竜一
校正:noriko saito
2016年7月9日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "057415",
"作品名": "大雨の前日",
"作品名読み": "たいうのぜんじつ",
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"初出": "「ホトヽギス 第十四卷第一號」1910(明治43)年10月1日",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
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"姓読み": "いとう",
"名読み": "さちお",
"姓読みソート用": "いとう",
"名読みソート用": "さちお",
"姓ローマ字": "Ito",
"名ローマ字": "Sachio",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1864-09-18",
"没年月日": "1913-07-30",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "日本掌編小説秀作選 上 雪・月篇",
"底本出版社名1": "光文社文庫、光文社",
"底本初版発行年1": "1987(昭和62)年12月20日",
"入力に使用した版1": "1987(昭和62)年12月20日初版1刷",
"校正に使用した版1": "1987(昭和62)年12月20日初版1刷",
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"底本の親本出版社名1": "",
"底本の親本初版発行年1": "",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "高瀬竜一",
"校正者": "noriko saito",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000058/files/57415_ruby_59518.zip",
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} |
[
[
"源四郎……源四郎……雨がひどくなったじゃねいか、もうやめにしたらどうだい",
"ハッ",
"源四郎や",
"ハッ"
],
[
"どうもほん降りになりましたね、おとっさん",
"うむ、せっかくの祭りも雨だない。えいやい休みだから"
],
[
"おじいさん、どうぞ柿をむいてやってください。もう暗くなったからね、おじいさんのそばにいるのだよ",
"おおまあや、この降るのにおまえどこに遊んでおった。さあおじいさんとこへきな。あしたあ祭りだからな、みんなのじゃまになっちゃいけねい。いまに甘酒もできるぞ。うむ、柿のほうがえいか、よしよし"
],
[
"ごめんください",
"ごめんください",
"ハイ"
],
[
"おまえさんがたはどちらからでございますか",
"ハイ",
"ハイ"
],
[
"わたくしどもは、その大富村からでましてございますが、ご親類の善右衛門さんのおばさんが、けさそのなくなりましたものでございますから、告げ人にでましたしだいでございます。ハイ一統からよろしくとのことで……",
"あ、さようでございましたか。それはそれは遠方のところをご苦労さまで……それはあのなくなったは気違いのことでしょうな",
"さようでございます。善右衛門さんからよろしくと申しましてございます",
"まことにはやご苦労さまに存じます。あの気違いも長ながとご迷惑をかけましたが、それでわたしも安心いたしました。まずどうぞおかけくださいまし"
],
[
"それはほんとうのことでしょうね。それはほんとうでしょうね。わたしもそれを聞いて安心しました",
"人ひとりなくなったのを、けっこうというはずはないが、まあ、ああして終わりますれば、ハイ定命はいたしかたないとして、まずけっこうでござります、ハイ",
"まあ暗くなったこと。かってなことばかり申して、あかりもださずに、なんという無調法でしょう"
],
[
"こら、なにをするんだ",
"なにもしやしません。お酒をいただいてるんです",
"酒を飲むんだって、そんな乱暴に飲んでどうする",
"あんまりです、あんまりです"
],
[
"おとうさん、もう心配しないでください。となりへいかんでもようございます。わたし、しばらく休ませてもらえばようございます",
"そうか、そんならおまえのすきにしてくれや。それじゃ松や、おかあさんはね、すこし休むちから、さあ甘甘にしようよ"
]
] | 底本:「野菊の墓」ジュニア版日本文学名作選、偕成社
1964(昭和39)年10月1刷
1984(昭和59)年10月44刷
初出:「ホトヽギス 第十二卷第三號」
1908(明治41)年12月1日
※表題は底本では、「告《つ》げ人《びと》」となっています。
※底本巻末の編者による語注は省略しました。
入力:高瀬竜一
校正:岡村和彦
2016年7月9日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "056539",
"作品名": "告げ人",
"作品名読み": "つげびと",
"ソート用読み": "つけひと",
"副題": "",
"副題読み": "",
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"初出": "「ホトヽギス 第十二卷第三號」1908(明治41)年12月1日",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2016-08-18T00:00:00",
"最終更新日": "2016-07-11T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000058/card56539.html",
"人物ID": "000058",
"姓": "伊藤",
"名": "左千夫",
"姓読み": "いとう",
"名読み": "さちお",
"姓読みソート用": "いとう",
"名読みソート用": "さちお",
"姓ローマ字": "Ito",
"名ローマ字": "Sachio",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1864-09-18",
"没年月日": "1913-07-30",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "野菊の墓",
"底本出版社名1": "ジュニア版日本文学名作選、偕成社",
"底本初版発行年1": "1964(昭和39)年10月",
"入力に使用した版1": "1984(昭和59)年10月44刷",
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"入力者": "高瀬竜一",
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} |
[
[
"そんなにお母さんはげしく起こさねたってすぐ起きますよ",
"すぐ起きますもねいもんだ。今時分までねてるもんがどこにある。困ったもんだな。そんなことでどこさ婿にいったって勤まりゃしねいや",
"また始まった。婿にいけば、婿にいった気にならあね",
"よけいな返答をこくわ"
],
[
"そうかしら、なんだか知らないけど、ばかに腰が痛いや。ばかばかしいな百姓は",
"百姓がばかばかしいて、百姓の子が百姓しねいでどうするつもりかい。あの藤吉や五郎助を見なさい。百姓なんどつまらないって飛び出したはよいけど、あのざまを見なさい"
],
[
"このあまっこめ、早く飯をくわせる工夫でもしろ……",
"稲刈りにもまれて、からだが痛いからって、わしおこったってしようがないや、ハハハハハハ",
"ばかア手前に用はねい……"
],
[
"省さんはわたしに負けたらわたしに何をくれます……",
"おまえにおれが負けたら、お前のすきなもの何でもやる",
"きっとですよ",
"大丈夫だよ、負ける気づかいがないから"
],
[
"省さん、今日はきっと負かしてやります",
"ばかいえ、手前なんかに片手だって負けっこなしだ",
"そっだらかけっこにせよう",
"うん、やろ"
],
[
"はま……だれかおれを呼んだら、便所にいるってそういえよ",
"いや裏の畑に立ってるってそういってやらア",
"このあまめ"
],
[
"省作お前は鎌をとぐんだ。朝前のうちに四挺だけといでしまっておかねじゃなんねい。さっきあんなに呼ばったに、どこにいたんだい。なんだ腹の工合がわるい、……みっちりして仕事に掛かれば、大抵のことはなおってしまう。この忙しいところで朝っぱらからぶらぶらしていてどうなるか",
"省作の便所は時によると長くて困るよ。仕事の習い始めは、随分つらいもんだけど、それやだれでもだから仕方がないさ。来年はだれにも負けなくなるさ"
],
[
"餅よりは鮓にするさ。こないだ餅を一度やったもの、今度は鮓でなけりゃ。なア省作お前も鮓仲間になってよ",
"わたしはどっちでも……",
"省作お前そんなこと言っちゃいけない。兄さんと満蔵はいつでも餅ときまってるから、お前は鮓になってもらわんけりゃ困る。わたしとおはまが鮓で餅の方も二人だから、省作が鮓となればこっちが三人で多勢だから鮓ときまるから……"
],
[
"おれがおはまに負けたら何でも買ってやるけれど、お前がおれに負けたらどうする",
"わたしも負けたら何かきっとあげるから、省さんの方からきめておいてください",
"そうさなア、おれが負けたら、皹の膏薬をおまえにやろう",
"あらア人をばかにして、……そんならわたしが負けたら一文膏薬を省さんにあげべい。ハハハハ"
],
[
"おとよさん、家ではおかげで明後日刈り上げになります。隣ではいつ……",
"わたしとこでもあさって……",
"家ではね、餅だというのを、ようよう鮓にすることになりました。おとよさんとこは何",
"わたしとこでは餅だそうです。わたし餅はきらい",
"それじゃおとよさん、明後日は家へおいでなさいよ",
"それだら省さんがお隣へ餅をたべにいっておとよさんが家へ鮓をたべにくるとえいや"
],
[
"兄さん今日は何をしますか",
"うん仕方がない、繩でもなえ",
"兄さんは何をしますか、繩をなうならいっしょに藁を湿しましょう",
"うんおれは俵を編む、はま公にも繩をなわせろ"
],
[
"どうか一人仲間入りさしてください。おや、おはまさんも繩ない……こりゃありがたい。わたしはまたせめておはまさんの姿の見えるところで繩ないがしたくてきたのに……",
"あア政さん、ここへはいんなさい。さアはま公、おまえがよくて来たつんだから……",
"あらアいやな"
],
[
"おとよさんは本当にかわいそうだよ。一体おとよさんがあの清六の所にいるのが不思議でならないよ。あんまり悪口いうようだけど、清六はちとのろ過ぎるさ。親父だってお袋だってざま見さい。あれで清六が博打も打つからさ。おとよさんもかわいそうだ。身上もおとよさんの里から見ると半分しかないそうだし。なにおとよさんはとても隣にいやしまい",
"お前そんなことをいったって、どこがよくているのかしれるもんじゃない。あの働きもののおとよさんが、いてくれさえすれば困るような事はないから"
],
[
"おとよさんがいなくなったらわたしゃどうしよう",
"おとよさんはいなくなりゃしないよ。なにがいなくなるもんか。ただ話だわ",
"そうかしら"
],
[
"おらアおとよさん大好きさ。あの人は村の若い女のよい手本だ。おとよさんは仕事姿がえいからそれがえいのだ。おらアもう長着で羽織など引っ掛けてぶらぶらするのは大きらいだ。染めぬいた紺の絣に友禅の帯などを惜しげもなくしめてきりっと締まった、あの姿で手のさえるような仕事ぶり、ほんとに見ていても気が晴々する。なんでも人は仕事が大事なのだから、若いものは仕事に見えするのはえいこった。休日などにべたくさ造りちらかすのはおらア大きらい。はま公もおとよさん好きだっけなア。まねろまねろ。仕事もおとよさんのように達者でなけゃだめだなア",
"や、これや旦那はえいことをいわっしゃった。おはまさんは何でも旦那に帯でも着物でもどしどし買ってもらうんだよ"
],
[
"おとよさアが省作さアに惚れてる",
"さアいよいよおもしれい。どういう証拠を見た、満蔵さん。省作さんもこうなっちゃおごんなけりゃなんねいな"
],
[
"満蔵",
"はあ",
"お前、今おとよさんの事を言ったねい",
"はあ"
],
[
"お前どんなことを見たかしんねいが、おとよさんはお前隣の嫁だろ。家の省作だってこれから売る体じゃないか。戯言に事欠いて、人の体さ疵のつくような事いうもんじゃない。わしが頼むからこれからそんな事はいわないでくろ",
"はア"
],
[
"ねい満蔵、ちょっとでもそんなうわさを立てられると、おとよさんのため、また省作のため、本当に困ったことになるからね。忘れてもそんなことを言うてくれるな。えいか",
"はア"
],
[
"はま公、芋の残りはないか。芋がたべたい",
"ありますよ",
"それじゃとってくろ"
],
[
"となりの旦那あ、湯があきましたよ",
"はあえ――"
],
[
"今晩は、お湯をもらいに出ました",
"まア省作さんですかい。ちとお上がんさい。今大話があるとこです"
],
[
"そら金公の嬶がさ、昨日大狂言をやったちでねいか",
"どこで、金公と夫婦げんかか、珍しくもねいや",
"ところが昨日のはよっぽどおもしろかったてよ",
"あの津辺の定公ち親分の寺でね。落合の藪の中でさ、大博打ができたんだよ。よせばえいのん金公も仲間になったのさ。それをだれが教えたか嬶に教えたから、嬶がそれ火のようになってあばれこんだとさ",
"うん博打場へかえ",
"そうよ、嬶のおこるのも無理はねいだよ、婆さん。今年は豊作というにさ。作得米を上げたら扶持とも小遣いともで二俵しかねいというに、酒を飲んだり博打まで仲間んなるだもの、嬶に無理はないだよ",
"そらまアえいけど、それからどうしたのさ",
"嬶がね。眼真暗で飛び込んでさ。こん生畜生め、暮れの飯米もねいのに、博打ぶちたあ何事たって、どなったまではよかったけど、そら眼真暗だから親父と思ってしがみついたのがその親分の定公であったとさ。そのうちに親父は外へ逃げてしまった。みんなして、おっかまア静かにしろって押えられて、見ると他人だから、嬶もそれ大まごつきさ。それでも婆さん、親分と名のつくものは感心だよ。いやおっかアに無理はねい。金公が悪い。金公金公、金公どうしたっていうもんだから、金公もきまり悪く元の所へ戻ってくると、その始末で、いやはよっぽどの見もんであったとよ",
"そりゃおかしかったなア"
],
[
"それからまだおかしい事があるさ。金公もそのままのめのめと嬶と二人で帰られめい。金公が定親分にちょっとあやまってね、それから嬶の頭を二つくらしたら、嬶の方は何が飛んだかなというような面をしていて、かえって親分が、何だ金公、おれの前で嬶を打つち法はあんめいってどなられて、二人がすごすご出てきたとこが変なもんであったちよ",
"うんそうか。それでも昨日の日暮れおれが寄ったら、刈り上げで餅をついたから食っていかねいかって、二人がうんやなやでやってたよ",
"うん、あん嬶いつもそうさ。やっぱり似たもの夫婦だよ。アハハハハハ"
],
[
"お湯がぬるくありませんか",
"ええ",
"少し燃しましょう"
],
[
"省作さん、流しましょうか",
"ええ",
"省作さんちょっと手ぬぐいを貸してくださいな"
],
[
"湯がぬるかないか。釜の下を見て上げてくれ",
"はい"
]
] | 底本:「野菊の墓」集英社文庫、集英社
1977(昭和52)年9月20日第1刷発行
1981(昭和56)年7月30日第6刷発行
初出:「ホトトギス」
1908(明治41)年2月号
入力:網迫、大野晋
校正:林 幸雄、富田倫生
2008年10月19日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品名読み": "となりのよめ",
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[
[
"奈々ちゃんはね、あなた、きのうから覚えてわたい、わたいっていいますよ",
"そうか、うむ"
],
[
"おんちゃんごはんおあがんなさいって",
"おはんなさいははははは"
],
[
"お父さん金魚が死んだよ、水鉢の金魚が",
"おんちゃん金魚がへんだ。金魚がへんだよおんちゃん",
"へんだ、おっちゃんへんだ"
],
[
"きんご、おっちゃんきんご、おっちゃんきんご",
"もう金魚へにゃしないねい。ねいおんちゃん、へにゃしないねい"
],
[
"奈々子は泣いたか",
"まだ泣かない、お父さんまだ医者も来ない"
],
[
"これが奈々ちゃんの着物だね",
"あァ"
]
] | 底本:「野菊の墓」集英社文庫、集英社
1977(昭和52)年9月20日第1刷発行
1981(昭和56)年6月15日第4刷発行
入力:大野晋
校正:大西敦子
2000年6月2日公開
2005年11月26日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "000625",
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"没年月日": "1913-07-30",
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"底本名1": "野菊の墓",
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} |
[
[
"政夫さん、なに……",
"何でもないけど民さんは近頃へんだからさ。僕なんかすっかり嫌いになったようだもの"
],
[
"政夫さんはあんまりだわ。私がいつ政夫さんに隔てをしました……",
"何さ、この頃民さんは、すっかり変っちまって、僕なんかに用はないらしいからよ。それだって民さんに不足を云う訣ではないよ"
],
[
"お増がまた何とか云いますよ",
"二人共お母さんに云いつかって来たのだから、お増なんか何と云ったって、かまやしないさ"
],
[
"民さん、もうきたかい。この天気のよいことどうです。ほんとに心持のよい朝だねイ",
"ほんとに天気がよくて嬉しいわ。このまア銀杏の葉の綺麗なこと。さア出掛けましょう"
],
[
"民さんはそんなに戻ってきないッたって僕が行くものを……",
"まア政夫さんは何をしていたの。私びッくりして……まア綺麗な野菊、政夫さん、私に半分おくれッたら、私ほんとうに野菊が好き",
"僕はもとから野菊がだい好き。民さんも野菊が好き……",
"私なんでも野菊の生れ返りよ。野菊の花を見ると身振いの出るほど好もしいの。どうしてこんなかと、自分でも思う位",
"民さんはそんなに野菊が好き……道理でどうやら民さんは野菊のような人だ"
],
[
"政夫さん……私野菊の様だってどうしてですか",
"さアどうしてということはないけど、民さんは何がなし野菊の様な風だからさ",
"それで政夫さんは野菊が好きだって……",
"僕大好きさ"
],
[
"民さんはさっき何を考えてあんなに脇見もしないで歩いていたの",
"わたし何も考えていやしません",
"民さんはそりゃ嘘だよ。何か考えごとでもしなくてあんな風をする訣はないさ。どんなことを考えていたのか知らないけれど、隠さないだってよいじゃないか",
"政夫さん、済まない。私さっきほんとに考事していました。私つくづく考えて情なくなったの。わたしはどうして政夫さんよか年が多いんでしょう。私は十七だと言うんだもの、ほんとに情なくなるわ……",
"民さんは何のこと言うんだろう。先に生れたから年が多い、十七年育ったから十七になったのじゃないか。十七だから何で情ないのですか。僕だって、さ来年になれば十七歳さ。民さんはほんとに妙なことを云う人だ"
],
[
"政夫さん、もう半分道来ましてしょうか。大長柵へは一里に遠いッて云いましたねイ",
"そうです、一里半には近いそうだが、もう半分の余来ましたろうよ。少し休みましょうか",
"わたし休まなくとも、ようございますが、早速お母さんの罰があたって、薄の葉でこんなに手を切りました。ちょいとこれで結わえて下さいな"
],
[
"そうですねイ、わたし何だか夢の様な気がするの。今朝家を出る時はほんとに極りが悪くて……嫂さんには変な眼つきで視られる、お増には冷かされる、私はのぼせてしまいました。政夫さんは平気でいるから憎らしかったわ",
"僕だって平気なもんですか。村の奴らに逢うのがいやだから、僕は一足先に出て銀杏の下で民さんを待っていたんでさア。それはそうと、民さん、今日はほんとに面白く遊ぼうね。僕は来月は学校へ行くんだし、今月とて十五日しかないし、二人でしみじみ話の出来る様なことはこれから先はむずかしい。あわれッぽいこと云うようだけど、二人の中も今日だけかしらと思うのよ。ねイ民さん……",
"そりゃア政夫さん、私は道々そればかり考えて来ました。私がさっきほんとに情なくなってと言ったら、政夫さんは笑っておしまいなしたけど……"
],
[
"や政夫さん。コンチャどうも結構なお天気ですな。今日は御夫婦で棉採りかな。洒落れてますね。アハハハハハ",
"オウ常さん、今日は駄賃かな。大変早く御精が出ますね",
"ハア吾々なんざア駄賃取りでもして適に一盃やるより外に楽しみもないんですからな。民子さん、いやに見せつけますね。余り罪ですぜ。アハハハハハ"
],
[
"馬鹿野郎、実に厭なやつだ。さア民さん、始めましょう。ほんとに民さん、元気をお直しよ。そんなにくよくよおしでないよ。僕は学校へ行ったて千葉だもの、盆正月の外にも来ようと思えば土曜の晩かけて日曜に来られるさ……",
"ほんとに済みません。泣面などして。あの常さんて男、何といういやな人でしょう"
],
[
"民さん、僕は水を汲んで来ますから、留守番を頼みます。帰りに『えびづる』や『あけび』をうんと土産に採って来ます",
"私は一人で居るのはいやだ。政夫さん、一所に連れてって下さい。さっきの様な人にでも来られたら大変ですもの",
"だって民さん、向うの山を一つ越して先ですよ、清水のある所は。道という様な道もなくて、それこそ茨や薄で足が疵だらけになりますよ。水がなくちゃ弁当が食べられないから、困ったなア、民さん、待っていられるでしょう",
"政夫さん、後生だから連れて行って下さい。あなたが歩ける道なら私にも歩けます。一人でここにいるのはわたしゃどうしても……",
"民さんは山へ来たら大変だだッ児になりましたネー。それじゃ一所に行きましょう"
],
[
"民さん、ここまでくれば、清水はあすこに見えます。これから僕が一人で行ってくるからここに待って居なさい。僕が見えて居たら居られるでしょう",
"ほんとに政夫さんの御厄介ですね……そんなにだだを言っては済まないから、ここで待ちましょう。あらア野葡萄があった"
],
[
"民さん、僕は一寸『アックリ』を掘ってゆくから、この『あけび』と『えびづる』を持って行って下さい",
"『アックリ』てなにい。あらア春蘭じゃありませんか",
"民さんは町場もんですから、春蘭などと品のよいこと仰しゃるのです。矢切の百姓なんぞは『アックリ』と申しましてね、皸の薬に致します。ハハハハ",
"あらア口の悪いこと。政夫さんは、きょうはほんとに口が悪くなったよ"
],
[
"なアにこれはお増にやるのさ。お増はもうとうに皸を切らしているでしょう。この間も湯に這入る時にお増が火を焚きにきて非常に皸を痛がっているから、その内に僕が山へ行ったら『アックリ』を採ってきてやると言ったのさ",
"まアあなたは親切な人ですことね……お増は蔭日向のない憎気のない女ですから、私も仲好くしていたんですが、この頃は何となし私に突き当る様な事ばかし言って、何でもわたしを憎んでいますよ",
"アハハハ、それはお増どんが焼餅をやくのでさ。つまらんことにもすぐ焼餅を焼くのは、女の癖さ。僕がそら『アックリ』を採っていってお増にやると云えば、民さんがすぐに、まアあなたは親切な人とか何とか云うのと同じ訣さ",
"この人はいつのまにこんなに口がわるくなったのでしょう。何を言っても政夫さんにはかないやしない。いくら私だってお増が根も底もない焼もちだ位は承知していますよ……",
"実はお増も不憫な女よ。両親があんなことになりさえせねば、奉公人とまでなるのではない。親父は戦争で死ぬ、お袋はこれを嘆いたがもとでの病死、一人の兄がはずれものという訣で、とうとうあの始末。国家のために死んだ人の娘だもの、民さん、いたわってやらねばならない。あれでも民さん、あなたをば大変ほめているよ。意地曲りの嫂にこきつかわれるのだから一層かわいそうでさ",
"そりゃ政夫さん私もそう思って居ますさ。お母さんもよくそうおっしゃいました。つまらないものですけど何とかかとか分けてやってますが、また政夫さんの様に情深くされると……"
],
[
"民さん、なんです、そんなにひとりで笑って",
"政夫さんはりんどうの様な人だ",
"どうして",
"さアどうしてということはないけど、政夫さんは何がなし竜胆の様な風だからさ"
],
[
"民さん、くたぶれたでしょう。どうせおそくなったんですから、この景色のよい所で少し休んで行きましょう",
"こんなにおそくなるなら、今少し急げばよかったに。家の人達にきっと何とか言われる。政夫さん、私はそれが心配になるわ",
"今更心配しても追つかないから、まア少し休みましょう。こんなに景色のよいことは滅多にありません。そんなに人に申訣のない様な悪いことはしないもの、民さん、心配することはないよ"
],
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"何というえい景色でしょう。政夫さん歌とか俳句とかいうものをやったら、こんなときに面白いことが云えるでしょうね。私ら様な無筆でもこんな時には心配も何も忘れますもの。政夫さん、あなた歌をおやんなさいよ",
"僕は実は少しやっているけど、むずかしくて容易に出来ないのさ。山畑の蕎麦の花に月がよくて、こおろぎが鳴くなどは実にえいですなア。民さん、これから二人で歌をやりましょうか"
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"政夫さん……あなた先になって下さい。私極りわるくてしょうがないわ",
"よしとそれじゃ僕が先になろう"
],
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"お母さん、どうかしましたか",
"あア政夫、よく早く帰ってくれた。今私も起きるからお前御飯前なら御飯を済ましてしまえ"
],
[
"政夫、堪忍してくれ……民子は死んでしまった……私が殺した様なものだ……",
"そりゃいつです。どうして民さんは死んだんです"
],
[
"なんだって民子は、政夫さんということをば一言も言わなかったのだろう……",
"それほどに思い合ってる仲と知ったらあんなに勧めはせぬものを",
"うすうすは知れて居たのだに、この人の胸も聞いて見ず、民子もあれほどいやがったものを……いくら若いからとてあんまりであった……可哀相に……"
],
[
"民さんと私と深い間とおっしゃっても、民さんと私とはどうもしやしません",
"いイえ、あなたと民子がどうしたと申すではないのです。もとからあなたと民子は非常な仲好しでしたから、それが判らなかったんです。それに民子はあの通りの内気な児でしたから、あなたの事は一言も口に出さない。それはまるきり知らなかったとは申されません。それですからお詫びを申す様な訣……"
]
] | 底本:「日本文学全集別巻1 現代名作集」河出書房
1969(昭和44)年
初出:「ホトトギス」
1906(明治39)年1月
入力:kaku
校正:伊藤時也
1999年1月6日公開
2013年7月25日修正
青空文庫作成ファイル:
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[
[
"ねいあなた、人なみでないっち話ではあったけれど、よほど人なみでないようですねい、主人からものをいわれても、なるべくは返事もしたくないというふうですからねえ、あれでどうでしょうかねえ",
"うむ、変人だと承知でおいてみるのだから、いまからこぼすのはまだ早い、とにかく十日か二十日も使ってみんことにはわかりゃせんじゃないか",
"そりゃそうですけれど",
"えいさ、変人のなりがわかりさえすりゃ、その変人なりに使ってやる道があるだろう"
],
[
"花前は保証人があるでしょうか、なんでも大島の若衆の話では、親類も身内もないひとりものだということですから、保証人はないかもしれませんよ",
"うむ",
"金銭に関係しないから、そのほうはなんですけれど、病気にでもかかったらこまりゃしませんかねえ",
"そうさな、保証人のあるにましたことはないが……じゃちょっと花前をよんでみろ"
],
[
"花前、おまえ保証人はあるかね",
"ありません"
],
[
"まあえいや、そんなことあとの話にしよう、えいや花前",
"保証人がなくていけなければ帰ります",
"いや、帰られてはこまる、えいから花前やってくれや、じゃこうしよう、おれが保証人になることにしよう、だからやってくれや"
],
[
"わし、この気ちがいに打たれました、なぐり返そうと思っても、ひとりではとてもこの野郎にかないません、五郎さんがおさえてくれなきゃ……わし、こんな気ちがいといっしょにいるのはいやですから、ひまをいただきます",
"この若いものが、牛をたたいたから打ちました",
"わし、牛を打ったのではありません……"
]
] | 底本:「野菊の墓」ジュニア版日本文学名作選、偕成社
1964(昭和39)年10月1刷
1984(昭和59)年10月44刷
初出:「ホトヽギス 第十三卷第一號」
1909(明治42)年10月1日
※表題は底本では、「箸《はし》」となっています。
※「兼吉」に対するルビの「かねきち」と「けんきち」の混在は、底本通りです。
※底本巻末の編者による語注は省略しました。
入力:高瀬竜一
校正:岡村和彦
2016年9月2日作成
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "056561",
"作品名": "箸",
"作品名読み": "はし",
"ソート用読み": "はし",
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"初出": "「ホトヽギス 第十三卷第一號」1909(明治42)年10月1日",
"分類番号": "NDC 913",
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"名": "左千夫",
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"没年月日": "1913-07-30",
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} |
[
[
"此の辺が四ッ谷町でござりますが",
"そうか、おれも実は二度ばかり来た家だがな、こう夜深に暗くては、一寸も判らん。なんでも板塀の高い家で、岡村という瓦斯燈が門先きに出てる筈だ"
],
[
"やア馬鹿に遅かったな、僕は七時の汽車に来る事と思っていた",
"そうでしょう、僕もこんなに遅くなるつもりではなかったがな、いやどうも深更に驚かして済まないなア……",
"まアあがり給え"
],
[
"君夕飯はどうかな。用意して置いたんだが、君があまりに遅いから……",
"ウン僕はやってきた。汽車弁当で夕飯は済してきた",
"そうか、それじゃ君一寸風呂に這入り給え。後でゆっくり茶でも入れよう、オイ其粽を出しておくれ"
],
[
"近頃君も煙草をやるのか、君は煙草をやらぬ様に思っていた",
"ウンやるんじゃない板面なのさ。そりゃそうと君も次が又出来たそうね、然も男子じゃ目出たいじゃないか",
"や有難う。あの時は又念入りの御手紙ありがとう",
"人間の変化は早いものなア。人の生涯も或階段へ踏みかけると、躊躇なく進行するから驚くよ。しかし其時々の現状を楽しんで進んで行くんだな。順当な進行を遂げる人は幸福だ",
"進行を遂げるならよいけれど、児が殖えたばかりでは進行とも云えんからつまらんさ。しかし子供は慥に可愛いな。子供が出来ると成程心持も変る。今度のは男だから親父が一人で悦んでるよ",
"一昨年来た時には、君も新婚当時で、夢現という時代であったが、子供二人持っての夫婦は又別種の趣があろう",
"オイ未だか"
],
[
"矢代君やり給え。余り美味くはないけれど、長岡特製の粽だと云って貰ったのだ",
"拵えようが違うのか、僕はこういうもの大好きだ。大いに頂戴しよう",
"余所のは米の粉を練ってそれを程よく笹に包むのだけれど、是は米を直ぐに笹に包んで蒸すのだから、笹をとるとこんな風に、東京のお萩と云ったようだよ",
"ウム面白いな、こりゃうまい。粽という名からして僕は好きなのだ、食って美味いと云うより、見たばかりでもう何となくなつかしい。第一言い伝えの話が非常に詩的だし、期節はすがすがしい若葉の時だし、拵えようと云い、見た風と云い、素朴の人の心其のままじゃないか。淡泊な味に湯だった笹の香を嗅ぐ心持は何とも云えない愉快だ",
"そりゃ東京者の云うことだろう。田舎に生活してる者には珍らしくはないよ",
"そうでないさ、東京者にこの趣味なんぞが解るもんか",
"田舎者にだって、君が感じてる様な趣味は解らしない。何にしろ君そんなによくば沢山やってくれ給え",
"野趣というがえいか、仙味とでも云うか。何んだかこう世俗を離れて極めて自然な感じがするじゃないか。菖蒲湯に這入って粽を食った時は、僕はいつでも此日本と云う国が嬉しくて堪らなくなるな"
],
[
"君の様にそう頭から嬉しがって終えば何んでも面白くなるもんだが、矢代君粽の趣味など嬉しがるのは、要するに時代おくれじゃないか",
"ハハハハこりゃ少し恐れ入るな。意外な所で、然も意外な小言を聞いたもんだ。岡村君、時代におくれるとか先んずるとか云って騒いでるのは、自覚も定見もない青臭い手合の云うことだよ",
"青臭いか知らんが、新しい本少しなり読んでると、粽の趣味なんか解らないぜ",
"そうだ、智識じゃ趣味は解らんのだから、新しい本を読んだとて粽の趣味が解らんのは当り前さ"
],
[
"いや御馳走になって悪口いうなどは、ちと乱暴過ぎるかな。アハハハ",
"折角でもないが、君に取って置いたんだから、褒めて食ってくれれば満足だ。沢山あるからそうよろしけば、盛にやってくれ給え"
],
[
"夜更にとんだ御厄介ですなア。君一向蚊は居らん様じゃないか。東京から見るとここは余程涼しいなア",
"ウン今夜は少し涼しい。これでも蚊帳なしという訳にはいかんよ。戸を締めると出るからな"
],
[
"君此靄厓は一寸えいなア",
"ウン親父が五六日前に買ったのだ、何でも得意がっていたよ",
"未だ拝見しないものがあったら、君二三点見せ給えな",
"ウンあんまり振るったのもないけれど二つ三つ見せよか"
]
] | 底本:「野菊の墓」新潮文庫、新潮社
1955(昭和30)年10月25日発行
1993(平成5)年6月5日第97刷
初出:「ホトトギス」
1908(明治41)年9月
入力:大野晋
校正:大西敦子
2000年6月19日公開
2011年1月9日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "000371",
"作品名": "浜菊",
"作品名読み": "はまぎく",
"ソート用読み": "はまきく",
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"原題": "",
"初出": "「ホトトギス」1908(明治41)年9月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
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"姓": "伊藤",
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"姓読み": "いとう",
"名読み": "さちお",
"姓読みソート用": "いとう",
"名読みソート用": "さちお",
"姓ローマ字": "Ito",
"名ローマ字": "Sachio",
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} |
[
[
"おれが今見てあげるけど、お前なにか着替も持って来なかったかい",
"そうさ、また男が風呂敷包みなんか持って歩けますかい",
"困ったなあ"
],
[
"おッ母さん、茶でも入れべい。とんだことした、菓子買ってくればよかった",
"お前、茶どころではないよ"
],
[
"おッ母さんに心配かけてすまねいけど、おッ母さん、とてもしようがねんですよ。あんだっていやにあてこすりばかり言って、つまらん事にも目口を立てて小言を言うんです。近頃はあいつまでが時々いやなそぶりをするんです。わたしもう癪に障っちゃったから",
"困ったなあ、だれが一番悪くあたるかい。おつねも何とか言うのかい",
"女親です、女親がそりゃひどいことを言うんです。つねのやつは何とも口には言わないけれど、この頃失敬なふうをすることがあるんです。おッ母さん、わたしもう何がなんでもいやだ",
"おッ母さんもね、内々心配していただよ。ひどいことを言うって、どんなこと言うのかい。それで男親は悪い顔もしないかい",
"どんなことって、ばかばかしいこってす。おとっさんの方は別に悪くもしないです",
"ウムそれではひどいこっちはおとよさんの事かい、ウム",
"はあ",
"ほんとに困った人だよ。実はお前がよくないんだ。それでは全く知れっちまたんだな。おッ母さんはそればかり心配でなんなかっただ。どうせいつか知れずにはいないけど、少しなずんでから知れてくれればどうにか治まりがつくべいと思ってたに、今知れてみると向うで厭気がさすのも無理はない"
],
[
"別に面白く暮す工夫て、お前どんな工夫があるかえ。お前心得違いをしてはならないよ。深田にいさえすればどうもこうも心配はいらないじゃないか。厭と思うのも心のとりよう一つじゃねいか。それでお前は今日どういって出てきました",
"別にむずかしいこと言やしません。家へいってちょっと持ってくるものがあるからって、あやつにそう言って来たまでです",
"そうか、そんなら仔細はないじゃないか。おらまたお前が追い出されて来ましたというから、物言いでもしてきた事と思ったのだ。そんなら仔細はない、今夜にも帰ってくろ。お前の心さえとりなおせば向うではきっと仔細はないのだよ。なあ省作、今お前に戻ってこられるとそっちこちに面倒が多い事は、お前も重々承知してるじゃねいか"
],
[
"おッ母さんがそれほど言うなら、とにかく明日は帰ってみようけれど、なんだかわたしの気が変になって、厭な心持ちでいたんだから、それで向うでも少し気まずくなったわけだとすると、わたしは心をとりなおしたにしろ、向うで心をなおしてくんねば、しようがないでしょう",
"そりゃおまえ、そんな事はないよ。もともと懇望されていったお前だもの、お前がその気になりさえすりゃ、わけなしだわ"
],
[
"おばあさんただいま",
"おばあさんただいま"
],
[
"おばあさん、一銭おくれ",
"おばあさん、おれにも"
],
[
"なんだいべらぼう、ほめるんやらくさすんやら、お気の毒さま、手がとどかないや。省さんほんとに憎いや、もねいもんだ",
"そんなに言うない。おはまさんなんかかわいそうな所があるんだアな、同病相憐むというんじゃねいか、ハヽヽヽヽヽ",
"あん畜生、ほんとにぶちのめしてやりたいな",
"だれを",
"あの野郎をさ",
"あの野郎じゃわからねいや",
"ばかに下等になってきたあな、よせよせ"
],
[
"おらも婿だが、昔から譬にいう通り、婿ちもんはいやなもんよ。それに省作君などはおとよさんという人があるんだもの、清公に聞かれちゃ悪いが、百俵付けがなんだい、深田に田地が百俵付けあったってそれがなんだ。婿一人の小遣い銭にできやしまいし、おつねさんに百俵付けを括りつけたって、体一つのおとよさんと比べて、とても天秤にはならないや。一万円がほしいか、おとよさんがほしいかといや、おいら一秒間も考えないで……",
"おとよさんほしいというか、嬶にいいつけてやるど、やあいやあい"
],
[
"ウム省作起きたか",
"あ、おッ母さん、もう働くよ",
"ウムどうぞま、そうしてくろや。お前に浮かぬ顔して引っ込んでいられると、おらな寿命が縮まるようだったわ"
],
[
"省作、今夜はお前も一杯やれい。おらこれでもお前に同情してるど、ウム人間はな、どんな事があっても元気をおとしちゃいけない、なんでも人間の事は元気一つのもんだよ",
"兄さん、これでわたしだって元気があります",
"アハヽヽヽヽヽそうか、よし一杯つげ"
],
[
"寒いことねい",
"待ったでしょう"
],
[
"おとよここへきてくれ、おとよ",
"ハア"
],
[
"おとよ、お前どうかしたのかい、たいへん顔色が悪い",
"ええどうもしやしません",
"そうかい、そんならえいけど"
],
[
"とよ黙っててはわかんね。三日たてば承知するかと言うんだ。なアおとよ、わが娘ながらお前はよく物の解る女だ。こうして、おれたちが心配するのも、皆お前のためを思うての事だど",
"おとッつさんの思し召しはありがたく思いますが、一度わたしは懲りていますから、今度こそわが身の一大事と思います。どうぞ三日の間考えさしてください。承知するともしないともこの三日の間にわたしの料簡を定めますから"
],
[
"おとよはおとッつさんの気に入りっ子だから、おとッつさんの言うことなら聞きそうなものだがな",
"お前こんな話の中でそんなこと言うもんじゃねいよ",
"とよは一体おれの言うことに逆らったことはないのに、それにこの上ないえい嫁の口だと思うのに、あんなふうだから、そりゃ省作の関係からきてるに違いない。お前女親でいながら、少しも気がつかんということがあるもんか",
"だってお前さん、省作が深田を出たといってからまだ一月ぐらいにしかならないでしょう。それですからまさかその間にそんな事があろうとは思いませんから",
"おッ母さん、人の噂では省作が深田を出たのはおとよのためだと言いますよ",
"ほんとにそうかしら",
"実にいまいましいやつだ。婿にももらえず嫁にもやれずという男なんどに情を立ててどうするつもりでいやがるんだろ、そんなばかではなかったに。惜しい縁談だがな、断わっちまう、明日早速断わる。それにしてもあんなやつ、外聞悪くて家にゃ置けない、早速どっかへやっちまえ、いまいましい",
"だってお前さん、まだはっきりいやだと言ったんじゃなし、明日じゅうに挨拶すればえいですから、なおよくあれが胸も聞いてみましょう。それに省作との関係もです、嫁にやるやらぬは別としても糺さずにおかれません",
"なあにだめだだめだ、あの様子では……人間もばかになればなるものだ、つくづく呆れっちまった。どういうもんかな、世間の手前もよし、あれの仕合せにもなるし、向うでは懇望なのだから、残念だなあ"
],
[
"だから今一応も二応も言い聞かせてみてくださいな",
"おとよの仕合せだと言っても、おとよがそれを仕合せだと思わないで、たって厭だと言うなら、そりゃしようがないでしょう",
"だれの目にも仕合せだと思うに、それをいわれもなく、両親の意に背くような、そんな我儘はさせられないよ",
"させられないたって、おッ母さんしようがないよ",
"佐介、ばかいいをするな、おまえなどまでもそんな事いうようだから、こんな事にもなるのだ",
"わが身の一大事だから少し考えさせてくださいと言うのを、なんでもかでもすぐ承知しろと言うのはちっとひどいでしょう",
"それでは佐介、きさまもとよを斎藤へやるのは不同意か",
"不同意ではありませんけれど、そんなに厭だと言うならと思うんです。おとよの肩を持って言うんじゃありません。おとッつさんのは言い出すとすぐ片意地になるから困る",
"なに……なにが片意地なもんか。とよのやつの厭だと言うにゃいわくがあるからだ、厭だとは言わせられないんだ",
"佐介、もうおよしよ、これでは相談にはなりゃしない。ねいおまえさん、お千代がよくあれの胸を聞くはずですから、この話は明日にしてください。湯がさめてしまった、佐介、茶にしろよ"
],
[
"そんならお前のすきにするがえいや",
"ウム立派に剛情を張りとおせ。そりゃつらいところもあろう、けれども両親が理を分けての親切、少しは考えようもありそうなもんだ、理も非もなくどこまでも、我儘をとおそうという料簡か、よしそんなら親の方にもまた料簡がある"
],
[
"省さん、暢気なふうをして何をそんなに見てるのさ",
"何さ立派なお堂があんまり荒れてるから",
"まあ暢気な人ねい、二人がさっきからここへきてるのに、ぼんやりして寺なんか見ていて、二人の事なんか忘れっちゃっていたんだよ"
],
[
"それではもうおとよさん安心だわ。これからはおとッつさん一人だけですから、うちでどうにか話するでしょう。今日はほんとに愉快であったわねい",
"ほんとにお千代さん、おとッつさんをいつまでああして怒らしておくのは、わたしは何ほどつらいかしれないわ。おとッつさんの言う事にちっとも御無理はないんだから、どうにかしておとッつさんの機嫌を直したい、わたしは……",
"そりゃ私だっておとよさんの苦心は充分察してるのさ"
],
[
"お千代さん、おとよさんは少し元のおとよさんと違ってきたね",
"どう違うの",
"元はもっと、きっぱりとしていて、今のように苦労性でなかったよ。近頃はばかに気が弱くなった、おとよさんは"
],
[
"それも省さんがあんまりおとよさんに苦労さしたからさ",
"そんな事はねい、私はいつでもおとよさんの言いなりだもの",
"まあ憎らしい、あんなこといって",
"そんなら省さん、なで深田へ養子にいった"
],
[
"それもおとよさんが行けって言ったからさ",
"もうやめだやめだ、こんなこといってると、鴨に笑われる。おとよさん省さん、さあさあ蛇王様へ詣ってきましょう"
],
[
"省さん、蛇王様はなで皹の神様でしょうか",
"なでだか神様のこたあ私にゃわかんねい",
"それじゃ蛇王様は皹の事ばかり拝む神様かしら",
"そりゃ神様だもの、拝めば何でも御利益があるさ",
"なんでも手足がなおれば、足袋なり手袋なりこしらえて上げるんだそうよ、ねい省さん",
"さっきの爺さんはたいへん御利益があるっていったねい"
],
[
"おとよさんちょっとえい景色ねい、おりて見ましょうか、向うの方からこっちを見たら、またきっと面白いよ",
"そうですねい、わたしもそう思うわ、早くおりて見ましょう、日のくれないうちに"
],
[
"出花を入れ替えてまいりました、さあどうぞ……",
"あ、今おりて湖水のまわりを廻ってくる",
"お二人でいらっしゃいますの……そりゃまあ"
],
[
"お羨ましいことねい",
"アハヽヽヽヽ今日はそれでも、羨ましいなどといわれる身になったかな"
],
[
"どっちからいこうか",
"どっちからでもおんなしでしょうが、日に向いては省さんいけないでしょう",
"そうそう、それじゃ西手からにしよう"
],
[
"おとよさん面白かったねい、こんなふうな心持ちで遊んだのは、ほんとに久しぶりだ",
"ほんとに省さんわたしもそうだわ、今夜はなんだか、世間が広くなったような気がするのねい",
"そうさ、今まではお互いに自分で自分をもてあつかっていたんだもの、それを今は自分の事は考えないで、何が面白いの、かにが面白いのって、世間の物を面白がってるんだもの。あ、宿であかしが点いた、おとよさん急ごう"
],
[
"時に土屋さん、今朝佐介さんからあらまし聞いたんだが、一体おとよさんをどうする気かね",
"どうもしやしない、親不孝な子を持って世間へ顔出しもできなくなったから、少し小言が長引いたまでだ。いや薊さん、どうもあなたに面目次第もない",
"土屋さんあなたは、よく理屈を言う人だから、薊も今夜は少し理屈を言おう。私は全体理屈は嫌いだが、相手が、理屈屋だから仕方がねい。おッ母さんどうぞお酌を……私は今夜は話がつかねば喧嘩しても帰らねいつもりだからまあゆっくり話すべい"
],
[
"土屋さん、あなたが私に対して面目次第もないというのが、どうも私には解んねい。斎藤との縁談を断わったのが、なぜ面目ないのか、私は斎藤から頼まれて媒妁人となったのだから、この縁談は実はまとめたかった。それでも当の本人が厭だというなら、もうそれまでの話だ。断わるに不思議はない、そこに不面目もへちまもない",
"いや薊、ただ斎藤へ断わっただけなら、決して面目ないとは思わない。ないしょ事の淫奔がとおって、立派な親の考えがとおせんから面目がない。あなたも知ってのとおり、あいつは親不孝な子ではなかったのだがの",
"少し待ってください。あなたは無造作に浮奔だの親不孝だと言うが、そこがおれにゃ、やっぱり解んねい。おとよさんがなで親不孝だ、おとよさんは今でも親孝行な人だ、私がそういうばかりではない、世間でもそういってる。私の思うにゃあなたがかえって子に不孝だ",
"どこまでも我儘をとおして親のいうことに逆らうやつが親不孝でないだろか",
"親のいうことすなわち自分のいうことを、間違いないものと目安をきめてかかるのがそもそも大間違いのもとだ。親のいうことにゃ、どこまでも逆らってならぬとは、孔子さまでもいっていないようだ。いくら親だからとて、その子の体まで親の料簡次第にしようというは無理じゃねいか、まして男女間の事は親の威光でも強いられないものと、神代の昔から、百里隔てて立ち話のできる今日でも変らぬ自然の掟だ",
"なによ、それが淫奔事でなけりゃ、それでもえいさ。淫奔をしておって我儘をとおすのだから不埒なのだ",
"まだあんな事を言ってる、理屈をいう人に似合わず解らない老人だ。それだからあなたは子に不孝な人だというのだ。生きとし生けるもの子をかばわぬものはない、あなたにはわが子をかばうという料簡がないだなあ",
"そんな事はない",
"ないったって、現にやってるじゃねいか。わが子をよく見ようとはしないで、悪く悪くと見てる、いわば自分の片意地な料簡から、おとよさんを強いて淫奔ものにしてしまおうとしてる、何という意地の悪い人だろう"
],
[
"そりゃ土屋さん、男女の関係ちは見ようによれば、みんな淫奔だよ、淫奔であるもないもただ精神の一つにあるだよ。表面の事なんかどうでもえいや、つまらん事から無造作に料簡を動かして、出たり引っこんだりするのか淫奔の親方だよ。それから見るとおとよさんなんかは、こうと思い定めた人のために、どこまでも情を立てて、親に棄てられてもとまで覚悟してるんだから、実際妻にも話して感心していますよ",
"飛んでもない間違いだ"
],
[
"薊さん、ほんとに家のおとよは今ではかわいそうですよ。どうかおとッつさんの機嫌を直したいとばかりいってます",
"ねいおッ母さん、小手の家では必ず省作に身上を持たせるといってるそうだから、ここは早く綺麗に向うへくれるのさ。おッ母さんには御異存はないですな",
"はア、うちで承知さえすれば……",
"土屋さん、もう理屈は考えないで、私に任せてください。若夫婦はもちろんおッ母さんも御異存はない、すると老人一人で故障をいうことになる、そりゃよくない、さあ綺麗に任してください"
],
[
"どうです、まだ任せられませんか、もう理屈は尽きてるから、理屈は抜きにして、それでも親の掟に協わない子だから捨てるというなら、この薊に拾わしてください。さあ土屋さん、何とかいうてください",
"いや薊さん、それほどいうなら任せよう。たしかに任せるから、親の顔に対して少し筋道を立ててもらいたい",
"困ったなあ、どんな筋道か知らねいが、真の親子の間で、そんなむずかしい事をいわないで、どうぞ土屋さん、何にもなしに綺麗に任せてください。おとよさんにあやまらせろというなら、どのようにもあやまらしょう",
"どうか旦那、もう堪忍してやってください",
"てめいが何を知る、黙ってろ"
],
[
"どうでも土屋さん、もうえい加減にうんといってください。一体筋道とはどういう事です",
"筋道は筋道さ、親の顔が立ちさえすればえい。親の理屈を丸つぶしにして、子の我儘をとおすことは……"
],
[
"ばかに怒ったな",
"おらも喧嘩に来たんじゃねいから、帰られるようにして帰せ"
],
[
"あなたのおとッつさんが、いくらやかましくいっても、二人を分けることはできないさ。いよいよ聞かなけりゃ、おとよさんを盗んじまうまでだ。大きな人間ばかりは騙り取っても盗み取っても罪にならないからなあ",
"や、親父もちょっと片意地の弦がはずれちまえばあとはやっぱりいさくさなしさ。なんでもこんごろはおかしいほどおとよと話がもてるちこったハヽヽヽヽ"
],
[
"おとよさん、私は何かはまにやりたいが、何がよかろう",
"そうですねい……そうそう時計をおやんなさい",
"なるほど私は東京へゆけば時計はいらない、これは小形だから女の持つにもえい"
]
] | 底本:「野菊の墓」集英社文庫、集英社
1991(平成3)年6月25日第1刷
2007(平成19)年3月25日第4刷
初出:「ホトトギス」
1908(明治41)年4月号
入力:林 幸雄
校正:川山隆
ファイル作成:
2008年10月19日作成
青空文庫作成ファイル:
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"作品名": "春の潮",
"作品名読み": "はるのうしお",
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"初出": "「ホトトギス」1908(明治41)年4月号",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2008-11-08T00:00:00",
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"名読み": "さちお",
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} |
[
[
"おとっさん水が少し引いたよ",
"ウンそうか",
"あの垣根の竹が今朝はまだ出なかったの……それが今はあんなに出てしまって五分ばかり下が透いたから、なんでも一寸五分くらいは引いたよ",
"なるほどそうだ、よいあんばいだ。天気にはなるし、少しずつでも水が引けば寝ても寝心がいい",
"さっきおとっさんおもしろかったよ。ネイおっかさん、ほんとにおかしかったわ、大きな鰻、惜しい事しちゃったの、ネイおっかさん……",
"お妙さん、鰻がどうした",
"鰻ネ、大きい鰻がね、おとっさん、あの垣根の杭のわきへ口を出してパクパク水を飲んでいるのさ。それからどうして捕ろうかって、みんなが相談してもしようがないの。それからおふじが米ざるを持ち出して出かけたら、おふじが降りるとすぐ鰻はひっこんでしまったの。ネイおふじ、網ならどうかして捕れたんだよ",
"そうか、そりゃ惜しいことをしたなア、蒲焼にしたら定めて五人でたべ切れない大きいものであったろう。おとっさんに早くそう言えばよかったハヽヽヽ",
"おとっさんうそでないよ、ネイおふじ、ほんとネイ、おっかさんも見ていたんだよ"
],
[
"もうランプをつけましょうか",
"まだよかろう",
"それでもよほど暗くなってきましたから",
"どうせ何ができるでなし、そんなに早く明かしをつける必要もないじゃないか"
],
[
"コリャ思ったより深い、随分ひどいなア",
"半四郎さん、どうも御苦労さま、とんだ御厄介でございます。そこらあぶのうございますからお気をつけなすって……",
"やア今日は君が来てくれたか、どうです随分深いでしょう。上げ縁は浮いてしまったし、ゆか板もところどころ抜けてるから、君うっかり歩くと落ちるよ、なかなかあぶないぜ",
"コリャ剣呑だ、なにもう大丈夫、表のガラス一枚破りましたよ、車へ載せて来ましたからつい梶棒をガラス戸へ突き当ててしまったんです",
"なアにようございますよ、ガラスの一枚ばかりあなた……",
"随分御困難ですなア",
"いやありがとう、まアこんな始末さ。それでもおかげさまで飢えと寒さとの憂いがないだけ、まず結構な方です。君、人間もこれだけ装飾をはがれるとよほど奇怪なものですぞ。この上に寒さに迫られ飢えに追われたら全く動物以下じゃな",
"そうですなア向島が一番ひどいそうです。綾瀬川の土手がきれたというんですからたまりませんや。今夜はまた少し増して来ましょう。明朝の引き潮にゃいよいよ水もほんとに引き始めるでしょう"
]
] | 底本:「野菊の墓 他四篇」岩波文庫、岩波書店
1951(昭和26)年10月5日第1刷発行
1970(昭和45)年1月16日第24刷改版発行
2007(平成19)年5月23日第49刷発行
初出:「ホトヽギス 第十一卷第二號」
1907(明治40)年11月1日発行
※表題は底本では、「水籠《みずごもり》」となっています。
入力:高瀬竜一
校正:岡村和彦
2019年8月30日作成
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"作品名": "水籠",
"作品名読み": "みずごもり",
"ソート用読み": "みすこもり",
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"初出": "「ホトヽギス 第十一卷第二號」1907(明治40)年11月1日",
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"底本名1": "野菊の墓 他四篇",
"底本出版社名1": "岩波文庫、岩波書店",
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[
[
"ねい伯父さん何か上げたくもあり、そばに居て話したくもありで、何だか自分が自分でないようだ、蕎麦饂飩でもねいし、鰌の卵とじ位ではと思っても、ほんに伯父さん何にも上げるもんがねいです",
"何にもいらねいっち事よ、朝っぱら不意に来た客に何がいるかい"
],
[
"利助どんも大分に評判がえいからおれもすっかり安心してるよ、もう狂れ出すような事あんめいね",
"そうですよ伯父さん、わたしも一頃は余程迷ったから、伯父さんに心配させましたが、去年の春頃から大へん真面目になりましてね、今年などは身上もちっとは残りそうですよ、金で残らなくてもあの、小牛二つ育てあげればって、此節は伯父さん、一朝に二かつぎ位草を刈りますよ、今の了簡でいってくれればえいと思いますがね",
"実の処おれは、それを聞きたさに今日も寄ったのだ、そういう話を聞くのがおれには何よりの御馳走だ、うんお前も仕合せになった"
]
] | 底本:「野菊の墓」新潮文庫、新潮社
1955(昭和30)年10月25日発行
1985(昭和60)年6月10日85刷改版
1993(平成5)年6月5日97刷
入力:大野晋
校正:高橋真也
1999年2月13日公開
2005年11月27日修正
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "000544",
"作品名": "姪子",
"作品名読み": "めいご",
"ソート用読み": "めいこ",
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"初出": "「アララギ」1909(明治42)年9月",
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"文字遣い種別": "新字新仮名",
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"公開日": "1999-02-13T00:00:00",
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"姓": "伊藤",
"名": "左千夫",
"姓読み": "いとう",
"名読み": "さちお",
"姓読みソート用": "いとう",
"名読みソート用": "さちお",
"姓ローマ字": "Ito",
"名ローマ字": "Sachio",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1864-09-18",
"没年月日": "1913-07-30",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "野菊の墓",
"底本出版社名1": "新潮文庫・新潮社",
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[
[
"えらい風になった、君ほこりがひどかったろう。",
"えいたいへんな風でした。"
],
[
"よく早く来られた、僕はどうかと思ってな。",
"少し迷ったんですが、お手紙を見て急に元気づいて出てきました。"
],
[
"君、ほこりを浴びたろう。ちょっと洗い場で汗を流しちゃどうか、ちょうど湯がわいてるよ。",
"えい風があんまり吹きますから。",
"そうか、そんな事はせんがいいかな。"
],
[
"僕はときどき鹿児島でくったんです。",
"ハハそれじゃ遼東の豕であったか、やっぱりこんなに大きくて。",
"えいこんなにゃ大きかない、こりゃでかいもんだ。"
],
[
"君なんの事でも、急いちゃいかんよ。学問はなおさらの事だ。蚕が桑を食うのを見たまえ、食うだけ食ってしまえば上がらなけりゃならんじゃないか。社会の人間を働かせようとするはよいが、人間も働くだけ働けば蚕のように上がらなければなるまい。だから人間はゆっくり働くくふうが肝要だよ。",
"けれども学問は働く準備ですからな、僕等は準備中に終えるのかも知れないですもの。",
"いや準備も働きのうちだ。だから働きを楽しむとともに準備を楽しむの心得がなくてはいかん。考えようでかえって準備のほうがおもしろい。花見を見たまえ、本幕の花見よりも出かけるまでの準備がおもしろいくらいのものだ。ここが君大事なところだ。準備を楽しむという考えがあると、準備ばかりでおしまいになってもはなはだしい失望がない。だから学問は楽しみつつやるべきものだ。また楽しいものにきまってる。人間は手足を動かしても一種の興味を感じ得らるるものだ、いわんや心を動かして興味のないということがあるものか、昔は修業に出ることを遊学というたよ。学問を楽しむの意味が現われてるでないか、だから君、楽しみつつゆっくり学問するんだよ。準備ばかりでおしまいになってもはなはだしい後悔のないように準備を楽しむのさ。",
"僕は非常に愉快だ、嗚呼愉快だ。僕はきっと、愉快にやります。僕はとかくに、人がうらやましく見えてしかたがなかった。人をうらやむ心が起こると自分が悲しくなるのです。もう僕は人をうらやまない、きっと楽しく学問をやる。"
],
[
"君どうした、僕は寝てる事と思って来たよ。出歩かれるくらいならまずよかった。",
"え、熱が出まして二日寝ていたんです。今医者へ行ったんです。",
"医者はなんといいます。",
"なにたいした事はない、熱がなけりゃ学校へ行ってもいい。少しは肺尖が悪いばかりだ、力を落とすことはないといいます。",
"………そりゃよかった。まあ無理をせんことだ。"
],
[
"ある和尚に君の事を話したらば、維摩経を見ろといわれ、借りてきて見てるがわからんよ。",
"病気の事が書いてあるんですか。",
"そうです、なんなら君、持ってって見たまえ。",
"えい。",
"そりゃそうと君どうです。",
"え、別に悪くもありませんが、よくもありません。僕はもうからだを病気に任せました。学問をやるもやらぬも病気次第です。で、あんまり考えない事にしました。",
"こりゃおもしろそうで、やっぱりいけない。考えない事にしたといっても、病気に支配されては考えないわけにゆくまい。",
"なぜですか。",
"なぜって君の精神と君の病気と交渉のある間は、考えまいとて考えないわけにゆく者じゃない。",
"実際僕にはなにもかもわからなくなってしまいました。今まで考えていた事はみな表面ばかりの浅薄な考えばかりでした。病気のために学問をやめるも、病気のために自分のいっさいの希望が空になっても自分ひとりならば、そんなに悲しくも思わないですが、親兄弟の関係を考えると情けなくなってきます。",
"君はやはりいつわりをいってるからいけない。君はやっぱり命が惜しいのだ。浅薄な希望に執着があるのだ。命の惜しいのをはじるような考えからいつわりが出るのだ。人間命の惜しいのは当たり前だ。ただ命は惜しんでもしかたがないから考えねばならない。親兄弟の関係といっても、自分が安心しないで親兄弟に安心させられるはずがない。親兄弟の関係を思うならば、まず第一に自分が安心するくふうを考えろ。"
],
[
"病気を忘れればえいですな。",
"そうです。人間は自己を忘れたところに真生命があるのだ。君にしてはその病を忘れたところに君の生命があるのだ。いわんや君は文学という君の天地を持ってるではないか。",
"わかりました。"
]
] | 底本:「野菊の墓」アイドル・ブックス、ポプラ社
1971(昭和46)年4月5日初版
1977(昭和52)年3月30日11版
初出:「新小説 第十四卷第一號」
1909(明治42)年1月1日発行
※表題は底本では、「廃《や》める」となっています。
※初出時の署名は「左千夫」です。
※誤植を疑った箇所を、初出誌を底本にした「左千夫全集 第二卷」岩波書店、1976(昭和51)年11月25日発行の表記にそって、あらためました。
※本文末の編者による(注)は省略しました。
入力:高瀬竜一
校正:芝裕久
2020年8月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "056540",
"作品名": "廃める",
"作品名読み": "やめる",
"ソート用読み": "やめる",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「新小説 第十四卷第一號」1909(明治42)年1月1日",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2020-09-18T00:00:00",
"最終更新日": "2020-08-28T00:00:00",
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"人物ID": "000058",
"姓": "伊藤",
"名": "左千夫",
"姓読み": "いとう",
"名読み": "さちお",
"姓読みソート用": "いとう",
"名読みソート用": "さちお",
"姓ローマ字": "Ito",
"名ローマ字": "Sachio",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1864-09-18",
"没年月日": "1913-07-30",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "野菊の墓",
"底本出版社名1": "アイドル・ブックス、ポプラ社",
"底本初版発行年1": "1971(昭和46)年4月5日",
"入力に使用した版1": "1977(昭和52)年3月30日11版",
"校正に使用した版1": "1977(昭和52)年3月30日11版",
"底本の親本名1": "",
"底本の親本出版社名1": "",
"底本の親本初版発行年1": "",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "高瀬竜一",
"校正者": "芝裕久",
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"テキストファイル最終更新日": "2020-08-28T00:00:00",
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} |
[
[
"おとうさん、おとうさん",
"とんちゃん、とんちゃん"
],
[
"これはせっかくのご出陣ですが、じつはそのちょっと東京へいってくるつもりで……はなはだ残念だが……",
"いやそりゃ残念ですな、日帰りですか",
"今夜は帰れません",
"それじゃきょうじゅうに東京へいけばえい。二、三席勝負してからでかけても遅くはない。うまくいって逃げようたってそうはいかない"
],
[
"芳輔のやつ帰ったな、芳輔……芳輔",
"きょうはほんとに、なまやさしいことではあなたいけませんよ",
"こら芳輔"
],
[
"芳輔……おまえはいま家へきしなに小川さんに会ったろ",
"知りません",
"そうか、小川さんはおまえの保証人だぞ、学校からおまえのことについて、二度も三度も話があったというて、きょうはおまえのことについていろいろの話をしていかれた。いま帰ったばかりだがきさまといき会うはずだが、いやそりゃどうでもよいが、きさまはいくつになる"
],
[
"自分の子の年を人に聞かねたって……",
"こら芳輔、そりゃなんのことです。おとうさんに対して失礼な",
"だっておとうさんはつまらないことを聞くから……",
"だまれこの野郎……"
],
[
"芳輔、きさまはなにもかもおぼえがあるだろう。きょう小川さんの話を聞くと、小川さんはおまえのために三度も学校へよばれたそうだぞ。きのうは校長まででてきて、いま一度芳輔の両親にも話し、本人にもさとしてくれ。こんど不都合があればすぐ退校を命ずるからという話であったそうな。どんな不都合を働いた。儀一はあのとおりものにならない。あとはきさまひとりをたよりに思ってれば、この始末だ、警察からまで、きさまのためには注意を受けてる。夜遊びといえばなにほどいってもやめない。朝は五へんも六ぺんもおこされる。学校の成績がわるいのもあたりまえのことだ。十五になったら十六になったらと思ってみてれば、年をとるほどわるくなる。おかあさんを見ろ、きさまのことを心配してあのとおりやせてるわ。もうそのくらいの年になったらば、両親の苦心もすこしはわかりそうなものだ",
"おかあさんはもとからやせてら……"
],
[
"増山さん(となりの主人)いやはやまことに面目もないしだいで、なんとも申しあげようもありません",
"いやお察し申しあげます、いかにもそりゃ……まことにお気のどくな、しかし糟谷さんあまり無分別なことをやってしまっては取りかえしがつきませんよ、奥さんはよほど興奮していらっしゃるから、しばらくお寝かしもうしたがよろしいでしょう",
"どうも面目ありません"
]
] | 底本:「野菊の墓」ジュニア版日本文学名作選、偕成社
1964(昭和39)年10月1刷
1984(昭和59)年10月44刷
初出:「中央公論」反省社
1909(明治42)年3月1日
※表題は底本では、「老獣医《ろうじゅうい》」となっています。
※三女に対する「礼」と「礼子」、長男に対する「義一」と「儀一」の混在は、底本通りです。
※底本巻末の編者による語注は省略しました。
入力:高瀬竜一
校正:岡村和彦
2016年6月10日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "056569",
"作品名": "老獣医",
"作品名読み": "ろうじゅうい",
"ソート用読み": "ろうしゆうい",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「中央公論」反省社、1909(明治42)年3月1日",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2016-09-18T00:00:00",
"最終更新日": "2016-06-10T00:00:00",
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"人物ID": "000058",
"姓": "伊藤",
"名": "左千夫",
"姓読み": "いとう",
"名読み": "さちお",
"姓読みソート用": "いとう",
"名読みソート用": "さちお",
"姓ローマ字": "Ito",
"名ローマ字": "Sachio",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1864-09-18",
"没年月日": "1913-07-30",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "野菊の墓",
"底本出版社名1": "ジュニア版日本文学名作選、偕成社",
"底本初版発行年1": "1964(昭和39)年10月",
"入力に使用した版1": "1984(昭和59)年10月44刷",
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} |
[
[
"どうして?",
"どうしてって、火鉢の中にペッペッと唾を吐いたり、ワザと泥足で縁側を歩いたり、そういう意固地な真似ばかりするんですもの。くだらないことだから気にしずにいようと思うのですけれど、あの人のやり方はどこか不自然な処があっていやですもの。無邪気でやるのなら、私そんなに気になりはしないと思いますわ。",
"うん、まあそんな処もあるね。だが、他の先生とちがって、Yは僕等のこんな生活でも時々はやはり癪に障るんだよ。やっぱり階級的反感さ。まあできるだけそんなことは気にしないことだね。",
"ええ、気にしたって仕様はありませんけれどね。でも、時々は本当に腹が立ちますよ。癪に障るっていっても、あの人だって、ここに来てずいぶんいい気持そうな顔をしているんじゃありませんか。"
],
[
"この辺の様子が、夜でちっとも分らなかったろう? 明日の朝もっとよく見て行くことにして泊ろうか。大分おそくもあるようだ。",
"ええ。"
],
[
"余計な指図? お前さん達は、現に尾行をしながら尾行の原則を知らないのかい。尾行の方法を知らないのかい?",
"余計はことをいわなくてもいい。"
],
[
"何っ! もう一ぺんいって見ろ! 何が余計なことだ。貴様等は他人の迷惑になるように尾行しろといいつけられたか。",
"迷惑だろうが迷惑であるまいが、此方は職務でやっているんだ。"
],
[
"俺のような無学な者にまけるもんだから、奴よっぽど癪にさわったんだね。ある時来ていうには、『お前は、誰も彼も平等で、他人の命令なんかで人間が動いちゃいけないといったな、命令をする奴なんぞがあるのは間違いだといったなあ。だがねえ、たとえば人間の体というものは、頭だの体だの、手だの足だの、また体の中にはいろいろな機関がはいっている。そのいろんな部分がどうして働いてゆくかといえば、脳の中に中枢というものがあって、その命令で動いているんだ。この世の中だって、やっばりそれと同じだよ。命令中枢がなくちゃ、動かないんだ』とこういいやがるんだ。成程なあ、俺あそんな体のことなんか知らねえから返事に詰まっちゃったんだ。すると坊主の奴、『どうだ、それに違いないだろう』ってぬかしやがる。俺あ口惜しいけれど、黙ってたんだ。すると『よく考えて見ろ、お前のいうことは確かに間違ってる』って行っちまいやがった。",
"さあ口惜しくてならねえ。こうなりゃ仕事もくそもあるもんか。俺はそれから半日、夜まで考えてやっと考えついたんだ。それから今度坊主が来た時に俺はいってやった。『俺のいうことは間違ってやしねえ。俺は無学で人間の体がどういう風に働くか知らねえが、うんと歩いてくたびれ切った時にゃ、いくら歩こうと思ったって、足が前に出やしねえ。手が痛い時にゃ動かそうと思ったって動かねえや。またいくら食おうと思って食ったって、口までは食ったって胃袋が戻しちまうぜ。それでも何でもかんでも頭のいう通りになるのかね。それからまたよしんば、方々で頭のいうこと聞いて働くにした処でだね、その命令を聞く奴がいなきゃどうするんだい? 足があっての、手があっての、なあ、働くものあっての中枢とかいうもんじゃないか。中枢とかいう奴のおのれ一人の力じゃないじゃねえか。なら、どこもここも五分々々じゃねえか。俺は間違っちゃいねえと思う』っていってやったんだ。するとね、今度は坊主の奴が黙ってしまいやがって、それから何んにもいわなかった。"
],
[
"感心ね。よく、でも、そんな理屈が考え出せてねえ。",
"そりゃもう口惜しいから一生懸命さ。どうです、間違っちゃいないでしょう。"
],
[
"ああ帰った。Yの奴、Mが帰ろうというと、『三月だというのに筍の顔なんか見て帰れるかい。俺あ御馳走になって帰るんだ』といっていたから、今日は君は招待された客じゃないのだ、御馳走することはできないから帰れって帰してやった。",
"困った人ね。"
]
] | 底本:「伊藤野枝全集 上」學藝書林
1970(昭和45)年3月31日第1刷発行
1986(昭和61)年11月25日第4刷発行
初出:「女性改造 第二巻第十一号」
1923(大正12)年11月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:林 幸雄
校正:ペガサス
2002年11月8日作成
2012年1月7日修正
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "003577",
"作品名": "ある男の堕落",
"作品名読み": "あるおとこのだらく",
"ソート用読み": "あるおとこのたらく",
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"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「女性改造 第二巻第十一号」1923(大正12)年11月",
"分類番号": "NDC 913",
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"名読み": "のえ",
"姓読みソート用": "いとう",
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"姓ローマ字": "Ito",
"名ローマ字": "Noe",
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"底本名1": "伊藤野枝全集 上",
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} |
[
[
"そんなことを云つて誤魔化さうとするのでせう? 本当は忘れて来たのでせう",
"いゝえ、本当に泊つたのです",
"そんなら何故昨日その用意をしておかなかつたのです",
"でも先生、昨日は泊るつもりではなかったのです",
"一体何処に泊つたのです",
"波多江に",
"波多江? 波多江の何処です",
"私はよく知りませんがYとか云ふ家です",
"Y? フフン、H先生の処へ行つたんですね",
"えゝ",
"H先生と一緒に泊つたのですか",
"いゝえ、H先生は学校に、K先生と私丈けがYに"
],
[
"えゝ、波多江のYと云ふ家に泊りました",
"其処はお料理家ださうですね",
"さうですか、私は何にも知りませんけれど夜になつてK先生と一緒に泊りにゆきました、そんなことはすこしも知りません",
"さうでせうね、ですけれどS先生は大変いけないつて云つてゐらつしやいますよ。それはお家のお許しもなかつたのでせう?",
"えゝ、だつてK先生と一緒にかへる筈でしたけれどあのあらしでかへれませんでしたから仕方なしに泊りました。今日うちにはK先生がよくわけを話して下さることになつてゐます",
"さうですか、けれどもS先生はおうちのおゆるしもないのにそんな家に泊つたと云ふことは大変いけないと云つてらつしやいます。それにあすこが料理屋だと云ふことを知らない筈はないからきつと知らないなどゝうそをつくだらうと云つてゐらつしやいますよ"
],
[
"あなたの云ふのはうそではないかもしれないけれども父母の許もうけずに他へ泊るなどといふことは大変わるいことです。お父さんやお母さんがどんなに御心配なさるかもしれません。第一さういふ遠い処に学校のかへりにあそびにゆくと云ふのがまちがひです",
"でも先生、何時でも行くんです。そしてK先生と一所に何時でもかへりますから家ではよく承知してゐるのです。昨日もあすこに行つたことは家でも知つてゐますから、あんなあらしになつてとてもかへれなかつたと云ふことは家の人にもわかつてゐますし、K先生もおかへりになつてはゐませんから。――",
"まあお待ちなさい。あなたは一体つゝしみをしらない。私がまだ話して了はないうちに何を云ふのです、私はあなたの先生ですぞ"
],
[
"女はもう少し女らしくするものです。第一もうあなた位の年になれば遊ぶことよりも少しでも家の手伝ひでもすることを考へなくてはならない。昨日のことは仕方がなかつたとしてももしもあなたがもつと女らしい、心がけのいゝ人ならあんな処に遊びに出かけることもないだらうしそうすればあんな間違ひはおこらない。第一不意にさうして心配をかけることもないし学科にさしさはりの出来るやうなこともないし、常々うちの手伝ひでもしてゐれば家の為めにもどの位なるかしれない。それにあなたは何だつてHさんの学校へなどあそびにゆくのです。あなたはあすこの学校へ何の関係があります。関係もない処に遊びに行つて泊るなどゝ実にけしからん事です。あなたはどんなに悪い事をしたのか分つてゐますか?",
"私は何にも悪いことは一つもしません、悪いことなんか一つもしません"
],
[
"此の間の日曜にSさんに会つたら、Tさんが波多江のYに野枝さんがあなたと一緒にとまつたと云ふことについて大変怒つて、本当に、野枝さんが可愛さうなやうでした。おまけに、校長に迄訓戒をさせるんですもの何にも別にわるいことはないぢやありませんか、野枝さんは、K先生と泊つたと云つてゐるのにH先生と泊つたのでうそをついてゐるのだとさういつてらつしやるのですよと云ふので、私はそれはちがひます、僕はあの晩はC君と一緒に学校にとまりました。Kさんと野枝さんがYにとまつたのです。と云つたら、さうでせうね私は屹度さうなんだと云ひますのにね、きかないんですものMさんと相談して校長の処にそんなつまらないことを持ち込んでゆくのですもの本当に可愛さうぢやありませんか、それに丁度とまつた翌日は私の図画があることになつてゐましたのにね野枝さんは用意してゐなかつたので私に大変すまないから放つておいてくれなんてTさんは云ふのですよ、あんな優しさうな顔してゐながら本当にえらい事を仰云ひます。可愛さうに野枝さんは二日ばかり学校に来なかつたんですよ、あんまりTさんは下らないことに迄干渉しすぎますなんてしきりにT先生の悪口を云つてゐたよ、私は別に何とも云はなかつたけれど先生ひとりで怒つてゐた。何つて云つて叱かられたの",
"嘘! 嘘つきね、S先生は!"
]
] | 底本:「定本 伊藤野枝全集 第二巻 評論・随筆・書簡1――『青鞜』の時代」學藝書林
2000(平成12)年5月31日初版発行
底本の親本:「青鞜 第五巻第五号」
1915(大正4)年5月1日
初出:「青鞜 第五巻第五号」
1915(大正4)年5月1日
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
入力:門田裕志
校正:雪森
2014年11月14日作成
青空文庫作成ファイル:
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| {
"作品ID": "056235",
"作品名": "嘘言と云ふことに就いての追想",
"作品名読み": "きょげんということについてのついそう",
"ソート用読み": "きよけんということについてのついそう",
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"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「青鞜 第五巻第五号」1915(大正4)年5月1日",
"分類番号": "NDC 914",
"文字遣い種別": "新字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2014-12-26T00:00:00",
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"人物ID": "000416",
"姓": "伊藤",
"名": "野枝",
"姓読み": "いとう",
"名読み": "のえ",
"姓読みソート用": "いとう",
"名読みソート用": "のえ",
"姓ローマ字": "Ito",
"名ローマ字": "Noe",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1895-01-21",
"没年月日": "1923-09-16",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "定本 伊藤野枝全集 第二巻 評論・随筆・書簡1――『青鞜』の時代",
"底本出版社名1": "學藝書林",
"底本初版発行年1": "2000(平成12)年5月31日",
"入力に使用した版1": "2000(平成12)年5月31日初版",
"校正に使用した版1": "2000(平成12)年5月31日初版",
"底本の親本名1": "青鞜 第五巻第五号",
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"底本の親本初版発行年1": "1915(大正4)年5月1日",
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"テキストファイル最終更新日": "2014-11-14T00:00:00",
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} |
[
[
"まあそう、だけどどうして黙ってなんか出てきたの、どんな事情で。さしつかえがないのなら話してね、私の所へなんかいつまでいてもいいことよ、いつまでもいらっしゃい、あなたがあきるまで――でも本当にどうして出てきたの",
"いずれ話してよ、でも今夜は御免なさいね、ずいぶん長い話なんですもの",
"そう、それじゃ今にゆっくり聞きましょう、あなたのいたいだけいらっしゃい。ほんとに心配しなくてもいいわ",
"ありがとう。安心したわ、ほんとにうれしい"
],
[
"郵便! 藤井登志という人いますか",
"ハイ"
]
] | 底本:「伊藤野枝全集 上」學藝書林
1970(昭和45)年3月31日第1刷発行
1986(昭和61)年11月25日第4刷発行
※「結婚した」は底本では、改行1字下げとなっています。
入力:林 幸雄
校正:UMEKI Yoshimi
2002年11月9日作成
青空文庫作成ファイル:
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| {
"作品ID": "003616",
"作品名": "出奔",
"作品名読み": "しゅっぽん",
"ソート用読み": "しゆつほん",
"副題": "",
"副題読み": "",
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"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2002-11-18T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-17T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000416/card3616.html",
"人物ID": "000416",
"姓": "伊藤",
"名": "野枝",
"姓読み": "いとう",
"名読み": "のえ",
"姓読みソート用": "いとう",
"名読みソート用": "のえ",
"姓ローマ字": "Ito",
"名ローマ字": "Noe",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1895-01-21",
"没年月日": "1923-09-16",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "伊藤野枝全集 上",
"底本出版社名1": "學藝書林",
"底本初版発行年1": "1970(昭和45)年3月31日",
"入力に使用した版1": "1986(昭和61)年11月25日第4刷発行",
"校正に使用した版1": "",
"底本の親本名1": "",
"底本の親本出版社名1": "",
"底本の親本初版発行年1": "",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "林幸雄",
"校正者": "UMEKI Yoshimi",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000416/files/3616_txt_7589.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2002-11-09T00:00:00",
"テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"テキストファイル文字集合": "JIS X 0208",
"テキストファイル修正回数": "0",
"XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000416/files/3616_7590.html",
"XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2002-11-09T00:00:00",
"XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"おかしいわね、堤防なんてないじゃありませんか。どうしたんでしょう?",
"変だねえ、もう大分来たんだが。",
"先刻の橋番の男は堤防にのぼるとすっかり見晴せますなんていってたけれど、そんな高い堤防があるんでしょうか?"
],
[
"さあ、谷中村といっても、残っている家はいくらもありませんし、それも、皆飛び飛びに離れていますからな、何という人をおたずねです?",
"Sという人ですが――",
"Sさん、ははあ、どうも私には分りませんが――"
],
[
"まだ、余程ありましょうか?",
"さよう、大分ありますな。"
],
[
"谷中へは、誰を尋ねてお出でなさるんです?",
"Sという人ですが――",
"ああ、そうですか、Sなら知っております。私も、すぐ傍を通ってゆきますから、ご案内しましょう。"
],
[
"谷中へは、何御用でお出でです?",
"別に用というわけではありませんが、じつはここに残っている人達がいよいよ今日限りで立ち退かされるという話を聞いたもんですから、どんな様子かと思って――",
"ははあ、今日かぎりで、そうですか、まあいつか一度は、どうせ逐い払われるには極まったことですからね。"
],
[
"堤防を切られて水に浸っているのだといいますね。",
"なあに、家のある処はみんな地面がずっと他よりは高くなっていますから、少々の水なら決して浸るような事はありませんよ。Sの家の地面なんかは、他の家から見るとまた一段と高くなっていますから、他は少々浸っても大丈夫なくらいです。お出でになれば分ります。"
],
[
"あ、あの堤防だ、橋番の奴、すぐそこのような事をいったが、ずいぶんあるね。でもよかった、こういう道じゃ、うまくあんな男にぶつかったからいいようなものの、それでないと困るね。",
"でも、よくうまく知った人に遇ったものね、本当に助かったわ。"
],
[
"谷中の人達の住んでいる処まではまだよほどあるのですか?",
"そうですね、この土手をずっとゆくのです。一里か一里半もありますかね。"
],
[
"こうして見ると広い土地だね、荒れていることもずいぶん荒れてるけれど、これで人が住んでいた村のあとだとはちょっと思えないね。",
"本当にね。ずいぶんひどい荒れ方だわ。こんなにもなるものですかねえ。",
"ああ、なるだろうね、もうずいぶん長い間の事だから。しかし、こんなにひどくなっていようとは思わなかったね。なんでも、ここは実にいい土地だったんだそうだよ。田でも畑でも肥料などは施らなくても、普通より多く収穫があるくらいだった、というからね。ごらん、そら、そこらの土を見たって、真黒ないい土らしいじゃないか。",
"そういえばそうね。"
],
[
"今じゃみんな忘れたような顔をしているけれど、その時分には大変だったさ。それに何の問題でもそうだが、あの問題もやはりいろんな人間のためにずいぶん利用されたもんだ。あのTという爺さんがまた非常に人が好いんだよ。それにもう死ぬ少し前なんかにはすっかり耄碌して意気地がなくなって、僕なんか会ってても厭になっちゃったがね。少し同情するようなことをいう人があるとすっかり信じてしまうんだよ。それでずいぶんいい加減に担がれたんだろう。",
"そうですってね。でも、死ぬ時には村の人にそういってたじゃありませんか。誰も他をあてにしちゃいけないって。しまいにはこりたんでしょうね。",
"そりゃそうだろう。",
"だけど、人間の同情なんてものは、全く長続きはしないものなのね。もっとも各自に自分の生活の方が忙しいから仕方はないけれど。でも、この土地だって、そのくらいにみんなの同情が集まっている時に、何とか思い切った方法をとっていれば、どうにか途はついたのかもしれないのね。",
"ああ、これでやはり時機というものは大切なもんだよ。ここだってむしろ旗をたてて騒いだ時に、その勢でもっと思い切って一気にやってしまわなかったのは嘘だよ。こう長引いちゃ、どうしたって、こういう最後になることは解り切っているのだからね。"
],
[
"え、実は谷中村までちょっと行ってきたいと思うのです。",
"谷中村って何処なんです。",
"ご存じありませんか、栃木ですがね。例の鉱毒問題のあの谷中ですよ。",
"へえ、私ちっとも知りませんわ、その鉱毒問題というのも――",
"ああそうでしょうね、あなたはまだ若いんだから。"
],
[
"T翁という名前くらいはご存じでしょう?",
"ええ、知ってますわ。",
"あの人が熱心に奔走した事件なんです。その事件で問題になった土地なんです。",
"ああそうですか。"
],
[
"その村に、何かあったのですか?",
"実はその村の人たちが水浸りになって死にそうなんです。水責めに遇っているのですよ。",
"え、どうしてですか?",
"話が少しあとさきになりますが、谷中村というものは、今日ではもうないことになっているんです。旧谷中村は全部堤防で囲まれた貯水池になっているんです。いいかげんな話では解らないでしょうけれど。"
],
[
"その土地収用法というのはいったい何です?",
"そういう法律があるんです。政府で、どうしても必要な土地であるのを、買収に応じないものがあれば、その収用法によって、立ち退きを強制することが出来るのです。",
"へえ、そんな法律があるんですか。でも家を毀すなんて、乱暴じゃありませんか。もっとも、それが一番有効な方法じゃあるでしょうけれど、あんまりですね。"
],
[
"今となっちゃ、もういよいよ動く訳にはゆかないようになっているんでしょう。一つはまあそうした行きがかりの上から意地にもなっていますし、もう一つは、最初は手をつけるはずでなかった買収費も、つい困って手をつけた人もあるらしいので、他へ移るとしても必要な金に困るようなことになったりして。処が、この頃にまた提防を切ったんだそうです。そこからは、この三月時分の水源の山の雪がとけて川の水嵩がましてくると、どんどん水がはいってきて、とても今のようにして住んでいることはできないんだそうです。当局者は、そうでもすれば、どうしても他へゆかなければならなくなって立ち退くだろうという考えらしいのですがね。残っている村民は、たとえその水の中に溺れても立ち退かないと決心しているそうです。Sというその村の青年が、今度出て来たのもその様子を訴えに来たような訳なのです。",
"ずいぶんひどいことをしていじめるのですね。じゃ今だって水に浸っているようなものなんですね。その上に水を入れられちゃ堪ったものじゃありませんわ。そして、そのことは世間じゃ、ちっとも知らないんですか?",
"ずっと前には鉱毒問題から続いて、収用法適用で家を毀されるようになった時分までは、ずいぶん世間でも騒ぎましたし、一生懸命になった人もありましたけれど、何しろ、もう三十年も前から続いた事ですからねえ、大抵の人には忘れられているのです。"
],
[
"ではもう、どうにも手の出しようはないというのですね。本当に採って見る何の手段もないのでしょうか?",
"まあそうですね、もうこの場合になってはちょっとどうすることもできませんね。"
],
[
"何って先刻からのことですよ。",
"なんだ、まだあんなことを考えているのかい。あんなことをいくら考えたってどうなるもんか。それよりもっと自分のことで考えなきゃならないことがうんとあらあ。",
"そんなことは、私だって知っていますよ。だけど他人のことだからといって、考えずにゃいられないから考えているんです。"
],
[
"他人の事だからといって、決して余計な考えごとじゃない、と私は思いますよ。みんな同じ生きる権利を持って生れた人間ですもの。私たちが、自分の生活をできるだけよくしよう、下らない圧迫や不公平をなるべく受けないように、と想って努力している以上は、他の人だって同じようにつまらない目には遇うまいとしているに違いないんですからね。自分自身だけのことをいっても、そんなに自分ばかりに没頭のできるはずはありませんよ。自分が受けて困る不公平なら、他人だって、やはり困るんですもの。",
"そりゃそうさ。だが、今の世の中では誰だって満足に生活している者はありゃしないんだ。皆それぞれに自分の生活について苦しんでいるんだ。それに他人のことまで気にしていた日には、切りはありゃしないじゃないか。そりゃずいぶん可愛想な目に遇ってる者もあるさ。しかし、そんな酷い目に遇っている奴等は、意気地がないからそういう目に遇うんだと思えば間違いはない。いつでも愚痴をいってる奴にかぎって弱いのと同じだ。自分がしっかりしていて、不当なものだと思えばどんどん拒みさえすればそれでいいんだ。世の中のいろんなことが正しいとか正しくないとかそんなことがとても一々考えられるものじゃない。要するに、みんなが各々に自覚をしさえすればいいんだ。今日の話の谷中の人達だって、もう家を毀されたときから、とても自分達の力で叶わないことは知れ切っているんじゃないか。少しばかりの人数でいくら頑張ったってどうなるものか。そんな解り切ったことにいつまでも取りついているのは愚だよ。いわば自分自身であがきのとれない深みにはいったようなもんじゃないか。",
"そんなことが解れば苦労はしませんよ。それが解る人は買収に応じてとうに、もっと上手な世渡りを考えて村を出ています。何もしらないから苦しむんです。一番正直な人が一番最後まで苦しむことになっているのでしょう? それを考えると、私は何よりも可愛想で仕方がないんです。",
"可愛想は可愛想でも、そんなのは何にも解らない馬鹿なんだ。自分で生きてゆくことのできない人間なんだ。どんなに正直でもなんでも、自分で自分を死地におとしていながらどこまでも他人の同情にすがることを考えているようなものは卑劣だよ。僕はそんなものに向って同情する気にはとてもなれない。"
],
[
"どうしたい?",
"まだかしら、ずいぶん遠いんですね。",
"もうじきだよ。くたびれたのかい。もっとしっかりお歩きよ。足をひきずるから歩けないんだ。今から疲れてどうする?",
"だって私こんなに遠いとは思わなかったんですもの、こんな処、とても私達だけで来たんじゃ解りませんね。あの人が通りかかったので、本当に助かったわ。",
"ああ、これじゃちょっと分らないね。どうだい、一人でこんなに歩けるかい。今日は僕こないで、町子ひとりをよこすんだったなあ、その方がきっとよかったよ。"
],
[
"あら、道がないじゃありませんか。こんな処から行けやしないでしょう?",
"ここから行くのさ、ここからでなくてどこから行くんだい?",
"他に道があるんですよ、きっと。だってここからじゃ、裸足にならなくちゃ行かれないじゃありませんか。",
"あたりまえさ、下駄でなんか歩けるものか。",
"だって、いくら何んだって道がないはずはないわ。",
"ここが道だよ。ここでなくて他にどこにある?",
"向うの方にあるかもしれないわ。"
],
[
"同じだよ、どこからだって。こんな沼の中に道なんかあるもんか、ぐずぐずいってると置いてくよ。ぜいたくいわないで裸足になってお出で。",
"いやあね、道がないなんて、冷たくってやりきれやしないわ。",
"ここでそんなこといったって仕様があるもんか、何しに来たんだ? それともここまで来て、このまま帰るのか?"
],
[
"どう行ったらいいかなあ。",
"そうね、うっかり歩くとひどい目に会いますからね。"
],
[
"私共がここに残りましたのも、最初は村を再興するというつもりであったのですが、何分長い間のことではありますし、工事もずんずん進んで、この通り立派な貯水池になってしまい、その間には当局の人もいろいろに変わりますし、ここを収用する方針についても、県の方で、だんだんに都合のいい決議がありましたり、どうしても、もう私共少数の力ではかなわないのです。しかし、そういってここを立ち退いては、もう私共は全くどうすることもできないのです。収用当時とは地価ももうずいぶん違ってますし、その収用当時の地価としても満足に払ってくれないのですから、そのくらいの金では、今日ではいくらの土地も手に入りませんのです。何んだか慾にからんででもいるようですが、実際その金で手に入る土地くらいではとても食べてはゆけないのですから、何とかその方法がつくまでは動けませんのです。此処にまあこうしていれば、不自由しながらも、ああして少しずつ地面も残っておりますし、まあ食うくらいのことには困りませんから、余儀なくこうしておりますような訳で、立ち退くには困らないだけのことはして貰いたいと思っております。",
"もちろんそのくらいの要求をするのは当然でしょう。じゃ、また当分のびますかな。",
"そうです。まあ一と月や二た月では極まるまいと思います。どうせそれに今播いている麦の収穫が済むまでは動けませんし。",
"そうでしょう。で、堤防を切るとか切ったとかいうのはどの辺です、その方の心配はないのですか?",
"今、丁度三ヶ所切れております。ついこの間、すぐこの先の方を切られましたので、水がはいってきて、麦も一度播いたのを、また播き直している処です。"
],
[
"あの主人は大分しっかりした人らしいのね。だけど後から来たおじいさんは、本当に意気地のない様子をしていたじゃありませんか。",
"ああ、もうあんなになっちゃ駄目だね。もっとももう長い間ああした生活をしてきているのだし、意気地のなくなるのも無理はないが――あそこの主人みたいなのは残っている連中の内でも少ないんだろう。皆、もう大抵はあのじいさん見たいのばかりなんだよ、きっと。残っているといっても、他へ行っちゃ食えないから、仕方なしにああしているんだからな。",
"でも、それも惨めな訳ね、あんな中にああしていなきゃ困るのだなんて。今度は、お上だって、いよいよ立ち退かせるには、せめてあの人達の要求は容れなくちゃあんまり可愛想ね。たくさんの戸数でもないんだから、何とかできないことはないのでしょうね。",
"もちろんできないことはないよ。少し押強く主張すれば、何でもないことだ。だが、残った連中は、他の者からは、すっかり馬鹿にされているんだね。来るときに初めて道を聞いた男だって、そらあの婆さんだって、そうだったろう! 一緒に行った男なんかもあれで、Sの家を馬鹿にしてるんだよ、Sを批難したりなんかしてたじゃないか。",
"そうね、あの男なんか、こんな土地を見たって別に何の感じもなさそうね。ああなれば本当に呑気なものだわ。",
"そりゃそうさ、みんながいつまでも、そう同じ感じを持っていた日にゃ面倒だよ。大部分の人間は、異った生活をすれば、直ぐその生活に同化してしまうことができるんで、世の中はまだ無事なんだよ。",
"そういえばそうね。",
"どうだね。少しは重荷が下りたような気がするかい? もっとあそこでいろんなことを聞くのかと思ったら、何にも聞かなかったね。でも、ただこうして来ただけで、余程いろんなことが分ったろう? Sがいればもっと委しくいろんなことがわかったのだろうけれど、この景色だけでも来た甲斐はあるね。",
"沢山だわ。この景色だの、彼のうちの模様だの、それだけで、もう何にも聞かなくてもいいような気になっちゃったの。",
"これで、町子ひとりだと、もっとよかったんだね。",
"沢山ですったら、これだけでも沢山すぎるくらいなのに。"
]
] | 底本:「伊藤野枝全集 上」學藝書林
1970(昭和45)年3月31日第1刷発行
1986(昭和61)年11月25日第4刷発行
初出:「文明批判 第一巻第一号、第二号」
1918(大正7)年1月、2月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:林 幸雄
校正:ペガサス
2002年11月8日作成
2011年2月18日修正
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"どうかしたの、真青な顔だ、気分でも悪い?",
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"え、まあどうにかつまづきもなくおかげさまで卒業までに漕ぎつけました。いやしかしどうもずいぶん骨が折れましたよ――",
"そうでしょう、しかしもう大丈夫ですよ御安心が出来ますね、本当に結構でした"
]
] | 底本:「伊藤野枝全集 上」學藝書林
1970(昭和45)年3月31日第1刷発行
1986(昭和61)年11月25日第4刷発行
入力:林 幸雄
校正:UMEKI Yoshimi
2002年11月9日作成
青空文庫作成ファイル:
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"森田さんつて誰よう",
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] | 底本:「定本 伊藤野枝全集 第二巻 評論・随筆・書簡1――『青鞜』の時代」學藝書林
2000(平成12)年5月31日初版発行
底本の親本:「中央公論 第三一年第四号」
1916(大正5)年4月1日
初出:「中央公論 第三一年第四号」
1916(大正5)年4月1日
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
入力:酒井裕二
校正:Juki
2017年11月24日作成
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "057154",
"作品名": "妾の会つた男の人人",
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"底本名1": "定本 伊藤野枝全集 第二巻 評論・随筆・書簡1――『青鞜』の時代",
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"ぢやあM通りなのか。",
"さうです。さうです。巴里も世智がらい土地だけれど、ル・タン社もそれ以上に世智がらいですからね。編集長が私に各社を出し抜いて単独会見をやれと云ふのですよ。特別賞金をかけてね。そこで僕も考へましたよ。よし、最善を尽せとね。こゝにあなたの親友の紹介状があります。拳闘家のジョルジュのですよ。僕は重量挙げのルイも馳けまはつてさがしましたよ。しかしやつは今刑務所でした。みんな同じ町の生れですね。踊り子のアンナも御存じでせう。"
],
[
"復路十キロの運河のところです。",
"すると僕がすばらしい日本人に追ひついたところだな。",
"さうです。あのヤマダは足を痛めたやうですね。僕たちは快速艇のうへから声をからして応援しましたよ。生粋のパリ訛が耳に入りませんでしたか。",
"さう、聞えたやうに思つたな。美しい運河だつたな。",
"僕たちの声がよく水面に響きましたらう。",
"あの辺で涼しいそよ風を横から受けて、僕は急に元気を取り戻したんだ。――ところで君は何を聞きたいのだね。競走の経過はもう共同会見で話したが。",
"さうです。よく知つてゐます。そんなものぢやないのです。僕の欲しいのは特種なんです。",
"特種といふと。",
"あなたのロマンチックな生ひ立ちなんですよ。沙漠の少年がやがてオラムピアの勝者になる、といふ筋なんですよ。奇抜で色彩的なやつなんです。ジャン・コクトオの文章のやうなやつです。僕は本当は作家志望なんです。",
"生ひ立ちの記か。――砂と蠅のなかで育つた男に幼い日のロマンはないよ。",
"困りましたな。ムッシュウ・エルアフイはアルジェリイの何処のお生れなんですか。",
"ビスクラといふ小さな、小さな村だよ。チュニスから三百哩もある所だよ。",
"あのビスクラですか。",
"君はなんで又、名も無い村を覚えてゐるんだね。",
"或る小説で読んだのです。",
"なるほど。――その本は有名な本ぢやないかね。",
"いまのフランスの若い者はみな読んでゐますよ。",
"その作者は大変偉い方になつて居られるのではないかね。",
"フランスの誇ですよ。フランスのニーチェですよ。教会では悪魔のやうに云はれてゐるけれど。――しかしあなたこそ、運動選手のくせになぜ作家のことなぞを知つてゐるんですか。",
"僕はその人の若い時を知つてゐるんだ。――もしもその人が、君の考へてゐる人と同じならばね。――その人はわれ〳〵部落に長い間滞在してゐたんだ。その人はわれ〳〵土人の子供たちの偶像だつたのだ。"
],
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"この私を思ひ出したのは、オラムピック準備委員会の委員をしてをられた外務省のS氏でした。Sさんは昔チュニス本隊付の大尉だつたのです。こんなわけで、私は勤務先きのマレシェルブ通りの自動車店からコロンブ競技場へ練習に引き出されたのです。",
"私にはお註文のやうな生ひ立ちのロマンスもありませんな。さきほどお話ししたやうに、砂と蠅のなかに育つたのですから。それに、特別に運動が好きになつた動機といふものもありませんよ。もと〳〵アルジェリイの人には静かな生活といふものはないのですから。たゞ私は小馬のやうに足が強かつた。それで白人の使ひ走りで小使銭をかせいでゐた。それだけです。――ですから、このやうな単調な話よりも、さつきの作家の先生との因縁話でもしませうか。――君にそれが何かお役に立てばよいが。――もう十二三年も前になりますか――"
],
[
"ムッシュウ・エルアフイ。お宅には何かジッド先生の記念品がありますか。",
"さやう、今では二つしか残つてゐませんな。一つは先生が私にくれた小刀です。もう一つは先生の奥さんが母に下さつた手鏡で、これはなか〳〵凝つた品物です。モザイク模様のなかに、主がペテロにお与へになつた言葉が彫り込んであるのです。『汝今こそ好む処を歩めども、老いたらん後は手を伸べん』といふ句です。……"
],
[
"先生はまたお身体がおわるいのですか。",
"さうではないのですけれど、主人は今度ソヴィエト連邦へ招待されてゐるのです。ソヴィエトは謎の国だと言ひますし、それに、あまり健康によい所ではなささうですから、博士に御相談をするところなのです。"
]
] | 底本:「現代日本文學大系 62」筑摩書房
1973(昭和48)年4月24日初版第1刷発行
1987(昭和62)年9月15日初版第12刷発行
初出:「中央公論」
1929(昭和4)年1月
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2010年12月5日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "052219",
"作品名": "亜剌比亜人エルアフイ",
"作品名読み": "あらびあじんエルアフイ",
"ソート用読み": "あらひあしんえるあふい",
"副題": "",
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"原題": "",
"初出": "「中央公論」1929(昭和4)年1月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2011-01-01T00:00:00",
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"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001543/card52219.html",
"人物ID": "001543",
"姓": "犬養",
"名": "健",
"姓読み": "いぬかい",
"名読み": "たける",
"姓読みソート用": "いぬかい",
"名読みソート用": "たける",
"姓ローマ字": "Inukai",
"名ローマ字": "Takeru",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1896-07-28",
"没年月日": "1960-08-28",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "現代日本文學大系 62",
"底本出版社名1": "筑摩書房",
"底本初版発行年1": "1973(昭和48)年4月24日",
"入力に使用した版1": "1987(昭和62)年9月15日初版第12刷",
"校正に使用した版1": "1987(昭和62)年9月15日初版第12刷",
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} |
[
[
"君がよく遊びに行つてゐた頃に、水兵服か何か着て部屋の入口までやつて来た、あの男の子だよ",
"さうだつてねえ。……この間はじめて教はつて、驚いたよ"
],
[
"なぜ",
"なぜつて君、生活から趣味からすつかり姉さんに圧倒されてしまつてゐるんだからね。まだ結婚しないでゐるといふのも、未亡人が淋しがる点もそれはあるかも知れないが、まあ姉さんのお眼鏡で話を探してゐるからだよ。全く大事なお人形さ。……さう思つて見るせゐか、あの鶴子さんといふ人は何となく、綺麗なわりにパツとしない人だなあ"
],
[
"信一様でいらつしやいました",
"信一? どうしたのだらう",
"何か御気分が悪いとかで、学校から先生のやうなお方が附いておいでになりました"
]
] | 底本:「現代日本文學大系 62 牧野信一 稻垣足穗 十一谷義三郎 犬養健 中河與一 今東光集」筑摩書房
1973(昭和48)年4月24日初版第1刷発行
1987(昭和62)年9月15日初版第12刷発行
初出:「改造」
1923(大正12)年4月
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2021年6月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "052220",
"作品名": "朧夜",
"作品名読み": "おぼろよ",
"ソート用読み": "おほろよ",
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"初出": "「改造」1923(大正12)年4月",
"分類番号": "NDC 913",
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"名": "健",
"姓読み": "いぬかい",
"名読み": "たける",
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[
[
"どうでせうか……。今日一寸逢つて話したいと思ふのですが",
"以ての外だ。今は絶対の安静が必要だと、つい先日も手紙で云つたばかりぢやありませんか"
]
] | 底本:「現代日本文學大系 62 牧野信一 稻垣足穗 十一谷義三郎 犬養健 中河與一 今東光集」筑摩書房
1973(昭和48)年4月24日初版第1刷発行
1987(昭和62)年9月15日初版第12刷発行
初出:「新小説」
1923(大正12)年1月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2019年7月30日作成
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "052221",
"作品名": "愚かな父",
"作品名読み": "おろかなちち",
"ソート用読み": "おろかなちち",
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"初出": "「新小説」1923(大正12)年1月",
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"底本名1": "現代日本文學大系 62 牧野信一 稻垣足穗 十一谷義三郎 犬養健 中河與一 今東光集",
"底本出版社名1": "筑摩書房",
"底本初版発行年1": "1973(昭和48)年4月24日",
"入力に使用した版1": "1987(昭和62)年9月15日初版第12刷",
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} |
[
[
"参つて居ります。おや。X―新聞が一所に入つて居りますわ。",
"他の家と間違へたのかな。"
],
[
"押し売りかも知れないわ。ね、Aさん。",
"左様かも知れません。この頃かういふ事が流行ださうですから。"
]
] | 底本:「現代日本文學大系 62」筑摩書房
1973(昭和48)年4月24日初版第1刷発行
1987(昭和62)年9月15日初版第12刷発行
初出:「新潮」
1923(大正12)年1月
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2010年12月5日作成
青空文庫作成ファイル:
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| {
"作品ID": "052222",
"作品名": "姉弟と新聞配達",
"作品名読み": "していとしんぶんはいたつ",
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"初出": "「新潮」1923(大正12)年1月",
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"名": "健",
"姓読み": "いぬかい",
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"姓読みソート用": "いぬかい",
"名読みソート用": "たける",
"姓ローマ字": "Inukai",
"名ローマ字": "Takeru",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1896-07-28",
"没年月日": "1960-08-28",
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"底本名1": "現代日本文學大系 62",
"底本出版社名1": "筑摩書房",
"底本初版発行年1": "1973(昭和48)年4月24日",
"入力に使用した版1": "1987(昭和62)年9月15日初版第12刷",
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"底本の親本初版発行年2": "",
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} |
[
[
"畸人だが学問はなか〳〵あるらしい。同治年間の進士だといふから張之洞や趙爾巽や陳宝琛を知つてゐる訳だ。第一革命に働いた人だが、清末の役人をしてゐる頃に、緑林(馬賊)時代の張作霖になにか恩恵をほどこしたとか云ふので、今でも大元帥府の酒宴なぞに時々招かれるが、気の向いた時でないと応じない。著述をしたり新聞に匿名で時論を書いたりするほかは、読書と絵と酒とに隠れてゐる。隠れてゐると云へばいかにも閑雅なやうだけれども、曾老人のはこの三つのどれにも熱狂してゐる。細君はずつと前に死んだやうだが、面白いのは独り息子が広東の学校で修業したばかりに、今では国民革命軍の少壮士官になつてゐるのだ。しかし、時偶人がこの事を揶揄すると老人の返答がいゝ。つまり、一国の正義なぞといふものは古稀の老人の生きてゐる間には変らない方が嘘だ。俺も清末に同じ事をやつて来た。あいつはあいつで大いにやるがいゝ。とそんな意味の事を酔つて高飛車に云ふのだ。それを張の副官のやうな男の面前でもやるのだから一寸乱暴ぢやないか。息子がよほど可愛くて仕方がないのだらう。",
"最初僕はこの老人をモノマニアの傾向があるのではないかと思つた。といふのは、われ〳〵は四川生れの或る退役軍人の家で出逢つたのだ。くはしく云へば、退役軍人のひつそりした正房の壁にかゝつてゐる画幅の前で出逢つたのだ。あるじが北京官界の空気を厭つて、故郷の四川省に帰つて新らしい事業をやるといふので、所蔵品をこつそり――友人にだけこつそり知らせて売り物に出してゐた。そこへ、うちの副社長がまた北京特有の書画熱病に罹つてゐる最中で、この知らせを受けたのだ。夏の暑い日だつた。われ〳〵が入つて行つた時には、曾老人は既に背中を丸くして大きい団扇を動かしながら、掛け物の掛つてゐる壁の方を向いてゐた。われ〳〵と老人のほかには、戸口に離れて立つてゐるこの家の童僕しかゐない。といふ訳は、主人は用足しに出てゐて一時間ほど不在だつたのだ。家具をあらかた片付けてしまつたせゐかどことなく荒廃して、焼けつくやうな照り返しが部屋の中までとゞくほどに中庭の雑草の繁茂してゐる趣は、いかにも所蔵品を売り払つて出発する人の家らしい。その床の上でわれ〳〵の西洋靴の音は、博物館のなかのそれのやうに大きく響いたものだ。"
],
[
"翌日その家のあるじが僕から話を聞くと、身体を反らせて大笑した。とんだ用心を受けたものだ。あれは無頓着な装はしてゐるが張帥の先輩にあたる曾鉄誠だと。すると別の日に、或る要人の宴会で僕はまた偶然にも曾老人に出会つてしまつた。われ〳〵は燈の下で主人役から紹介された。曾鉄誠先生ですと。――僕は先日気の毒な振舞をしてしまつたといふ後悔から、そのひと晩副社長をうまく放つて置いて老人に附き纏つた。食後の客間では同じ長椅子に腰かけて、同じ絨氈の模様を踏んで、老人のために茶や煙草を僕から受け次いだりした。われ〳〵はすぐに親しくなつた。四川に新らしい生活を求めて行つたあの身軽なあるじの噂をした。しかし、一層親しくなつたのは別の事からだ。",
"郵便の頼りにならない時世で、僕はたび〳〵伝令の役をそつと務めてやつたよ。江蘇の戦線にゐる息子や南京にゐる嫁からの便りを。…………"
],
[
"いや御安心なさい。お父さんは、書物なぞ一か八かの食事にはならないと仰有います。お父さんは高潔な方です。道を求めてゐる方です。石だの竹だの雲だのを友達にして、生命を肯定して居られる方です",
"何ですつて――御免下さい――わたくしには解りませんわ"
]
] | 底本:「現代日本文學大系 62 牧野信一 稻垣足穗 十一谷義三郎 犬養健 中河與一 今東光集」筑摩書房
1973(昭和48)年4月24日初版第1刷発行
1987(昭和62)年9月15日初版第12刷発行
初出:「文芸春秋」
1928(昭和3)年10月
※「侍僕《ボオイ》」と「僕《ボオイ》」の混在は、底本通りです。
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2021年7月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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| {
"作品ID": "052218",
"作品名": "南京六月祭",
"作品名読み": "なんきんろくがつさい",
"ソート用読み": "なんきんろくかつさい",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「文芸春秋」1928(昭和3)年10月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2021-08-28T00:00:00",
"最終更新日": "2021-07-27T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001543/card52218.html",
"人物ID": "001543",
"姓": "犬養",
"名": "健",
"姓読み": "いぬかい",
"名読み": "たける",
"姓読みソート用": "いぬかい",
"名読みソート用": "たける",
"姓ローマ字": "Inukai",
"名ローマ字": "Takeru",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1896-07-28",
"没年月日": "1960-08-28",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "現代日本文學大系 62 牧野信一 稻垣足穗 十一谷義三郎 犬養健 中河與一 今東光集",
"底本出版社名1": "筑摩書房",
"底本初版発行年1": "1973(昭和48)年4月24日",
"入力に使用した版1": "1987(昭和62)年9月15日初版第12刷発行",
"校正に使用した版1": "1987(昭和62)年9月15日初版第12刷発行",
"底本の親本名1": "",
"底本の親本出版社名1": "",
"底本の親本初版発行年1": "",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "門田裕志",
"校正者": "noriko saito",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001543/files/52218_ruby_73852.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2021-07-27T00:00:00",
"テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"テキストファイル文字集合": "JIS X 0208",
"テキストファイル修正回数": "0",
"XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001543/files/52218_73888.html",
"XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2021-07-27T00:00:00",
"XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"酔っ払っていたんだねえか。",
"いや、この二三日酒はやらねえ様子だっけな。昨日もなんだか訳の分らねえことしゃべくりながら人に行き逢っても挨拶もしねえで、そこら歩いていたっけから。"
],
[
"うむ、酔っ払ってそんなこと言っていたことがあったっけな、どこの牛の骨だか分らねえような他人に、この屋敷手つけられるなんて、自分の手足伐られるようだとか何とか、大変な見幕でいきまいていたっけで。",
"でも、権利あるめえから、伐られたって文句の持って行きどころがあんめえ。",
"それはそうだけんど、これで自分の生れた家となれば、たとい権利はなくても、眼の前で大きな木を伐っとばされれば、誰だっていい気持はしめえで。",
"半五郎も困ってやっだんだっぺけんど、少しひでえやな。"
],
[
"そこは人情でな、たとい厄介な奴がころげ込んで来ているとは思っても、爺様と相談づくでやるとか、いくらかの金を分けてやるとかすれば、あんなことにもならずに済んだんだっぺがな。",
"どうしてどうして、そんなことする半五郎なもんか、家の前の柿だってもぎらせまいと、始終見張っていたんだそうだから。",
"それに、芸者をしている娘っちのも、最近、旦那が出来て、どこか、浅草とかに囲われているんだちけど。",
"それじゃ、月々の十五円も問題だってわけかな、これからは。",
"まア、自然そうなっぺな。いくら旦那だって、これで毎月十五円ずつ、妾が送るのをいい顔して見てもいめえしな。",
"結局、金だな。金せえあれば、人間これ発狂もくそもあるもんか。金がねえから気がちがったり、自殺したりするんだよ。"
],
[
"飲んだんだあるめえか。さっき郵便屋が書留だなんて爺さまへ渡していたっけから。",
"久しぶりで娘から金が来たか。",
"そうらしかったな。",
"でも、あの顔は飲んだ顔じゃなかったぞ。",
"本当にキの字だとすると、これ近所のものが大変だな。"
]
] | 底本:「犬田卯短編集二」筑波書林
1982(昭和57)年2月15日第1刷発行
入力:林 幸雄
校正:松永正敏
2007年12月8日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "047139",
"作品名": "一老人",
"作品名読み": "いちろうじん",
"ソート用読み": "いちろうしん",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2008-01-05T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-21T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001289/card47139.html",
"人物ID": "001289",
"姓": "犬田",
"名": "卯",
"姓読み": "いぬた",
"名読み": "しげる",
"姓読みソート用": "いぬた",
"名読みソート用": "しける",
"姓ローマ字": "Inuta",
"名ローマ字": "Shigeru",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1891-08-23",
"没年月日": "1957-07-21",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "犬田卯短編集二",
"底本出版社名1": "筑波書林",
"底本初版発行年1": "1982(昭和57)年2月15日",
"入力に使用した版1": "1982((昭和57)年2月15日第1刷",
"校正に使用した版1": " ",
"底本の親本名1": "",
"底本の親本出版社名1": "",
"底本の親本初版発行年1": "",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "林幸雄",
"校正者": "松永正敏",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001289/files/47139_ruby_29256.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2008-01-02T00:00:00",
"テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"テキストファイル文字集合": "JIS X 0208",
"テキストファイル修正回数": "0",
"XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001289/files/47139_29255.html",
"XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2008-01-02T00:00:00",
"XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"煙草がなくちゃア頭がぼんやりして仕事も出来っかい。",
"どうせぼんやりした頭だねえのか、はア招ばれるのは分っていたんだから、一日二日煙草やめてでも用意して置かねえっちう法あっか。早く何とかしてこしらえて来てくろ。"
],
[
"いま考えていっとこだ。",
"いい加減はア考えついてもよさそうだねえか。あれから何ぷく煙草すったと思うんだ。",
"この煙草は安ものだから、いくら喫んでも頭がすっきりしてこねえ。",
"でれ助親爺め、仕事は半人前も出来ねえくせに、口ばかりは二人前も達者だ。五十銭三十銭の村の交際も出来ねえような能なし畜生ならはア、出て行け! さっさとこの家から出て失せろ……"
],
[
"それからお艶ら写真もお父へ送ってやったなんて、一枚残っていたっけ。人絹ものだが、でも立派なお祝の支度をして、ちゃんと帯を立矢にしめて、そりゃ可愛かったわ。豊さんもあれ見たらうれしかっぺで……女の子って可愛もんだな、ほんとに俺も一人ほしかっけ……野郎らばかりで、ぞろぞろ飯ばかりかっ食らいやがって……",
"出来ねえ限りもあんめえで……まアだ。",
"あら、この親爺め、はア、酔っ払って……駄目だよ、折詰へ手つけては……あしたの朝、餓鬼奴らに見せて喜ばせんだから……こんな旨いものめったに見られねえんだから……一口ずつでもいいから食わなけりゃ、餓鬼奴らも可哀そうだわ。お父は酒せえありゃ何も要るめえ。"
],
[
"ああ、寒む……どら、俺げも一杯くんな。自分でばかりいい気になって飲んでいねえで。",
"ああ、五十日ぶりの酒だ。腹の虫奴ん畜生がびっくりしてぐうぐう哮えてしようねえ。",
"俺の腹も一人前の顔してぐうなんて、鳴ったよ。ああ、じりじりと浸みて、頬ぺたまでぽかぽかした。俺らはア、この勢いで寝べ。"
]
] | 底本:「犬田卯短編集二」筑波書林
1982(昭和57)年2月15日第1刷発行
入力:林 幸雄
校正:松永正敏
2007年12月8日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫《http://www.aozora.gr.jp/》で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
[
"蟇口失くしたのか。",
"無えんだけどな、どこを探しても……まさか途中で落したはずもあるめえと思うんだけど。",
"おいや、それでは持ったつもりで持たなかったかな。"
],
[
"お通がさっき蟇口失くしてなイ――",
"まア、いくら位入っていたんじゃ。",
"ちっとばかりはちっとばかりだが……",
"まア、それでもなア……どの辺で失くしたんだっぺ。"
],
[
"当るか当らねえか、それは分らねえが、ひょっとして当るかも知れねえからよ、それが八卦だねえの。",
"あたらなかったら、ただ銭うっちゃるようなもんだしな。",
"それではお前のいいようにするさ。でも、一文なしではしようあるめえから、とにかく何に使うばって、その銭はとっておけな。",
"駐在所へだけは届けておこうかな。"
],
[
"でも、悪い日だなんて言われると、怖くなって何も出来なくて困ることもあるんだねえかしら。",
"そんな人は九星にとっつかれている人で、九星の吉凶というのはそんな意味だねえよ。悪日というのは気をつけろっちうことなんだから。"
],
[
"あの、いくらですぺね。",
"あ、それは、なアに、思召しでいいんだよ。何もこれ、商売ではねえんだから。",
"ではこれだけでいいかしら。",
"なアに、半分でいいから。"
],
[
"そうよ、世界にたった一人しか、なア。",
"誰よ、そのばかは。",
"俺よ……十五円もすっぽろっちまって、何が花見だってわけだ。",
"あれ、まだ出て来ねえの。",
"出るもんか、出たくらいなら今日ら、鼻天狗で、すしでもカツ丼でもお前らの好きなもの奢ってやら。"
],
[
"お通姉にも似合わねえ、そんな愚痴、……今日は俺さまが奢るから、さア、早く支度しろ。",
"売れ残りら三人で来た、あれ、見ろ……なんてひやかされるばかしだから、俺、やだ、お前ら二人で早く行け。",
"みものだわよ、どれを取っても十銭均一、なんて正札ぶら下げて行くのも。"
],
[
"有る、有る……",
"有っても銭がないとくらア、ばかだな、この人は。",
"可哀そうなはこの子でござい、か。",
"兄貴から取っ剥がすさ。",
"なアんで、そんなこと……そんなこと出来るくらいなら、はア、俺だって十円や十五円なくしたって、何でくよくよするもんか。",
"俺話して出させっか。"
],
[
"でも、あの兄さん、いい人があるんだから俺らことなんか鼻汁も……の方なんだから、駄目の皮。",
"そうでもあるめえで……"
],
[
"ああ、やだやだ、俺ら止めた、売れ残りなんて言われてやアになっちまった。こちとらみてえで……本当に、このぶすのお民は、時々そんなとっペつもねえこと言うんだから。",
"だって売れ残りだねえか、売れ残っているんだもの。"
]
] | 底本:「犬田卯短編集二」筑波書林
1982(昭和57)年2月15日第1刷発行
入力:林 幸雄
校正:松永正敏
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[
[
"その、元金というのは、あれ、なんですよ、あの『荒蕪地』――村長さんが払下げてよこした……",
"ああ、あれか……あの時は君らも随分ぶうぶう言って、俺を悪党扱いにしたっけが、今では見ろ、あのために後藤新平閣下の計画どおりに、実に立派な大東京になったから。いまでは世界第三位の大都市さ。さすがに閣下は先見の明があったよ。実にえらかった。総理大臣にはならなかったが、総理以上の総理の貫録はあった人物だ。あの人の大計画を成就させたについて、俺どももこれ、ちょっぴり功労があったかと思うと、東京サ行って、まるで西洋みてえな丸の内なんちうところドレエブしてみろ、いい気持なもんだぜ。"
],
[
"でも、あれですね、村長さん。俺ら、川の水ながれるところまで高い金を出して買わされて、その金で東京おっ立ててみても、これ……。それに、あれです、いくらあの川ンとこを測量してみて『買い上げ』てくれと請願しても、村長さんはちっとも、てんではア取りあげてくんなかったし……",
"冗談いってら、あれは君、ちゃアんと俺は村長の職務引き渡しすっとき、後任へ話しておいたぜ。あれをまだ実行せんのかい、怪しからん奴じゃ。事務怠慢にもほどがある。",
"俺はもう請願するたびに面白くねえ思いするばかりだから、あっさり諦めてますがね。",
"うむ、まアそれもそうだな。人間、なんでも諦めが肝心だって、古人も教えているからな。",
"でも、村長さん、あの時の五十円が、いつか二百円になってますぜ。",
"放っておけば当然……だが君、そう言っちゃなんだが、あの頃出来た君の娘も、いつか十七八になってやしねえのか。"
],
[
"ばかッ、そういうまねは、流れ者か、碌でなしのすることで、れっきとした先祖代々からの百姓のすることだねえど。この青瓢箪。",
"でもそんなことを言ったって、馬にゃ換えられめえ。",
"ばかッ……",
"俺、お美津にきいて見ッから。"
],
[
"ばかッ、聞いてみなくたっていい。",
"清作さんら家の、おみさも行くというし、あれも、たしか、うちのお美津と……",
"いいから、そんなこと、つべこべ……"
]
] | 底本:「犬田卯短編集二」筑波書林
1982(昭和57)年2月15日第1刷発行
入力:林 幸雄
校正:松永正敏
2007年12月8日作成
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"作品ID": "047143",
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"姓読み": "いぬた",
"名読み": "しげる",
"姓読みソート用": "いぬた",
"名読みソート用": "しける",
"姓ローマ字": "Inuta",
"名ローマ字": "Shigeru",
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[
[
"名村長ちうから村がよくなるのかと思ったら、どうしてどうして貧乏するばかりだ。全くあれは生命取りの瘤だっぺよ。",
"誰か奴をやっつけてくれるものが出ないことには、俺たちはいまにすっからかんに搾られてしまう……"
],
[
"改革もへっちゃぶれも、もう出来るもんか。県連の方から融通受けた金の利子さえ払えなくて、毎期、俺たちのような下っ端の、文句のいえねえ人間の、僅かばかりの借りをいじめて、執行だ、なんだって……それでようやく一時のがれやっているけんど、いまにそれが利かなくなったら清算と来べえ。そしたら見ろっちだから、理事様らの身代百あわせたって足りやしねえから……組合員の田地田畑根こそぎ浚っても、まだまだ足りねえから……",
"どうしてまたそんなことに――"
],
[
"それで奴、どうしても俺の前へ出て来ねえ。呼ぶとますますそっぽ向いてからに、畜生。",
"そんなこと言って村長、それからあとでもてっちまって、今朝おそくなったんだねえのか。"
],
[
"なんだね、今日は……",
"例の、それ、陳情さ――また、畜生、東京行だ。毎日々々、いやんなっちまう。"
],
[
"でも、あの顔で陳情されたら、たいがいの大臣、次官も参っちまアべ。",
"気勢だけでか。",
"さてト、俺もそれではこれから陳情に出かけるかな、これ、顔はちっとも利かねえが。",
"俺も陳情だ――催促の来ねえうちあすこからよ。"
],
[
"そうよな、でも、どうせ、俺なんか酒はあんまりやらんし、瘤のエロ話も若干ぞっとせんからな。",
"ぞっとするようなことも若干いうんだよ、あれで……"
],
[
"ほう……どれ、揃ったら一部見せろ。――早くみんな来ねえかな。重大な今日の会議をいったい何と思っているのかな。",
"昨夜、みんな遅かったようだから、今日はどうかな――"
],
[
"昨夜……? 昨夜、連中、何かあったのか。",
"瘤の家で……みんなで大体、これ下ごしらえしたんだ、下ごしらえといっても、もうこれで決ったようなもんだっぺ……"
],
[
"おい、君は何かい、昨夜か、一昨夜か知らねえが、こぶの家へ集まったか。",
"ひまちにか――",
"何か知らねえが、予算会議はこぶの私邸であったらしい。",
"へえ、俺は知らんね。日まちにちょっと顔を出したが、――沢屋がわざわざ招びに来たもんだから……",
"へえ、沢屋の野郎が、招びに……",
"君のところへは。",
"来たっけが、別に招ばなかったな。",
"いや、あれが、つまり、その……らしい。",
"畜生、ひとを馬鹿にしてらア――"
],
[
"村長、今日も、またお出かけですか。",
"ああ、重大な用事があって……いや、どうも身体が二つあっても足りはせん。",
"予算の討議は――",
"明日にでもやろう。"
],
[
"どういう根拠……といって別に……",
"棍拠がない。では単に反対するために反対するのか……",
"いや、根拠がないというわけではないが。",
"では、それを言って見たまえ。",
"つまり……その……村民の生活程度というものは……",
"それが根拠か。君は村民が一年間にどれだけの酒を飲み、煙草をふかすか知っているか。この村に何軒の酒屋があって、何石の酒が売れるか知っているか。"
],
[
"さア、そいつはまだ……",
"何がまだだ……そいつも知らぬくせに、何が村民の生活だ。"
],
[
"君らにそんなことを言われなくたって、節約すべきものは全部節約している。",
"しかし……",
"何がしかしだ。この予算に一銭でも無駄があるか。乏しい歳入に対してこれ以上の節約だとかなんだとかが、いったいどうして出来る。",
"出来ないことはないと思う。",
"ないと思う……思ったって出来ないものは出来ない。出来るというんなら、どれ、どこで出来るか、一つ一つ、具体的に説明して見ろ。"
],
[
"何を……って君、瘤の野郎をぐうの音も出させまいと凹ませたっち話よ。――いや、どうして、この村広しといえども、あの男の前へ出ては口ひとつきけるものいねえんだから、情けねえありさまよ。そこを君が、堂々と正眼に構えて太刀を合せたんだから……",
"つまらねえこというな。",
"つまらねえこと……馬鹿な、何がつまらねえことだ。俺ら聞いて、すうっと胸が風通しよくなったようだっけ、本当によ。――あんな君、瘤のような人間、駄目だよ。これからは、はア、時代おくれだよ。若い連中で村政改革やっちまわなくちゃア……"
],
[
"まず、ちょっと待ってくれ。",
"何か用かな。",
"これは……と、あれだあるめえな、俺ンとこ……いや、借りのあるもの全部へも、やはり同じように催告が行ってるのかな。",
"さア、どうかな。そいつは、俺には……",
"だって君は、事務やっていて……",
"事務は事務でも、俺のような下ッ端のものには……まア、おかせぎ。"
],
[
"ひゃア……酒ときては、はア匂いでもかなわねえ。",
"ダンボ(旦那)は何だい、今夜ら……町の方さ大急ぎで出かけてゆくようだっけが。",
"なんだかよ、俺ア知らねえ。――この頃、旦那ら、出かけてばかりいらア、瘤の代理ばかり仰せつかっで……"
],
[
"俺ら知らねえ。",
"知らねえ……よく見てみろ。なんでも出来かかっているっちう話だから。",
"そんなことあるめえ。",
"だってよ、さっきも、どこへ行くか……ッて聞いたら、なアに……医者だ、なんて、頣を外套でかくして行けんからよ。",
"瘤なんどばかり殖えて、この村も始末にいけねえとよ、はア、……"
]
] | 底本:「犬田卯短編集 一」筑波書林
1982(昭和57)年2月15日第1刷発行
入力:林 幸雄
校正:松永正敏
2007年12月8日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "047144",
"作品名": "瘤",
"作品名読み": "こぶ",
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"分類番号": "NDC 913",
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"人物ID": "001289",
"姓": "犬田",
"名": "卯",
"姓読み": "いぬた",
"名読み": "しげる",
"姓読みソート用": "いぬた",
"名読みソート用": "しける",
"姓ローマ字": "Inuta",
"名ローマ字": "Shigeru",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1891-08-23",
"没年月日": "1957-07-21",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "犬田卯短編集 一",
"底本出版社名1": "筑波書林",
"底本初版発行年1": "1982(昭和57)年2月15日",
"入力に使用した版1": "1982(昭和57)年2月15日第1刷",
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"底本の親本出版社名2": "",
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"入力者": "林幸雄",
"校正者": "松永正敏",
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"XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001289/files/47144_29118.html",
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} |
[
[
"俺に股引こしらえてくれねえからだ。こんなひとのものなんど……",
"ひとのものでも自分のものでも、この野郎、それ本当の木綿ものなんだど。きょう日、スフの股引なんど、汝らに穿かせたら半日で裂らしちまァわ。"
],
[
"だって、ひでえやい。いいから、あとで見るッちだから……",
"そんなことで喧嘩するんでねえ、この野郎ら。――勝は早く泥を掻け。"
],
[
"おっ母さん、早く、容れもの――俺のぼて笊――ぼて笊、早く。",
"どこだか、ぼて笊。――馬鹿野郎、そんなもの捕ったって、旨くもありもしねえ。"
],
[
"捕えたよ、おっ母さん、早く……",
"馬鹿だな。そんなことしていねえで、この野郎、早くかかねえと泥たまってしようがあっか、こらっ、勝。"
],
[
"それ、何時頃だか。",
"十時か十一時頃――"
],
[
"飲まねえもの、――袋から出して飲ませべと思っても、ぽき出してしまって。",
"仕様ねえ餓鬼だな。――何か食わせやしなかったのか、李でも。",
"食わせっかい、俺ら、なんにも。"
],
[
"農学博士がか。",
"うむ、まァその博士なら、これで、無肥料で増産ちう一挙両得の方法も教えてくれべえからよ。",
"それもそうだっぺけんど、これで人間の方の温度も計る必要があっぺで。みんな、はア、肥料肥料で逆せ上っていっからよ。いい加減のところで血圧下げてもらアねえと、村中みんな脳溢血だなんて……",
"ところがどうも、その血圧、上るばって下りっこねえ。どうだ、今の電話きいてみろ。"
],
[
"それが、どうも――明日にならなけりゃ分らないと県の方では言っているんで……",
"明日、明日って、随分その手食ったな。まるで何かのようだぜ、組合も。",
"いや、君らはそんな冗談言っていっけんど、みろ、これで、県の方だって、組合の方だって、ここんとこ不眠不休で心配しているんだから。はア、組合長ら、昨日から寝こんじまった位だから――県庁へ行く、農林省へ行く、肥料会社まで行って見る。全くお百度踏んで、それでも何ともならねえんだ。農林省の方では、とにかく早場地方が第一だというわけで、出来るそばからそっちの方へ廻送しているらしいんだし、そこに百叺でも五十叺でもいいから、こっちへ取ろうという始末なんだから、これで、並大抵のことでは……"
],
[
"おう、君か――君こそ何だい今頃。",
"俺か――俺は商売さ。"
],
[
"組合さお百度踏んでも肥料は来めえ。",
"組合長が県や政府や会社へお百度踏んでも駄目だっちだから、こちとらがいくら、それ……"
],
[
"田か――田なんか俺ら植えねえつもりだ。今年は、はア、草っ葉に一任と決めた。",
"でも、それでは『増産』という政府の命令にふれべえ。",
"仕方ねえな。これ……",
"少し位なら、俺、都合つけるぜ。実はこないだからその方で、こうして歩いてるんだ。俺のような始末の悪いとんぴくれんでも、これで非常時となりゃ、いくらかまさか国家のお役に立たなくちゃア、なア。"
],
[
"やみなもんか。公定で俺らやるんだ。",
"だって君、公定の配給肥料は産組でしか……",
"それはこの村での話、政府の方針としては産組に半々位に分けて配給させる方針でやっているんだぜ。",
"そうかな。……それはまア、どうでもいいが、早いとこ、何があるんだか、化成か魚糟か大豆か……",
"化成は切れっちまったが、魚糟配合があるんだ。",
"それは……山十か。誰が一体、持っているんだ。",
"君、そんなことはどうでもいい。俺と君との間の商取引だねえか。肥料は俺が持っているのさ――ひとのものなんか君、泥棒じゃあるめえし。",
"うむ、とにかく現物さえあるんなら、何も問題ではねえが……で、一叺いくらなんだ。"
],
[
"君は何叺要るんだか、それによって俺の方はいくらでも都合する。",
"俺は、まア、差しあたり二十もあれば……",
"二十か、よし、都合つける。――明日でよかっぺ。",
"それはいいが、……しかし、その値段は、少し、どうかなんねえかい。",
"公定だよ、君、これを破れば、俺はやみであげられるんだぜ。",
"そんな、それは君だけの公定だっぺ。",
"そんなこと言うんなら、俺ら止めた。――破談だ。村中のものがほしがって、はア、金つん出して待っている者さえあるんだ。君にやらなくたっていくらでも売れるんだから――いい具合に君とここで逢ったもんだから、俺、話したばかりなんだ。"
],
[
"赤玉飲ませたのか、あれほど言ったのに、……飲ませりゃ、こんなにならないうち癒ってしまアんだ。",
"だってお母さんは……いくら飲ませたって、げっげっ……と吐いてしまうんだもの、しようあっかい。",
"しょうある、この馬鹿阿女――十三四にもなって赤ん坊の守も出来ねえなんてあるか。"
],
[
"なアに、おさよをやるからいいんですよ。この忙しいのに、わざわざ行ってもらわなくても……",
"でも、俺、はア、仕事から上って来たんだから……",
"でも、いいんですよ。やるときはおさよをやるから。"
],
[
"塚屋から買ったんならどうしたか。",
"どうしたもこうしたもあるもんか。あのインチキ野郎、山十の倉庫から十年も二十年も前の、下敷きになっていた利きもしねえ腐れ肥料持ち出して来て、そいつを新しい叺につめかえて、倍にも三倍にも売っているんだちけが、まさか、俺家のお父ら、天宝銭でも八文銭でもねえちけから、そんな、塚屋らに引っかかったわけではあるめえと思ってよ。"
],
[
"どこで借りようと、誰に借りようと、お前らに心配かけねえから……",
"心配かけねえ?",
"かけねえとも――",
"ふん、そんな、はア、水臭えこと抜かしやがるんなら、さっさと俺家出てもらアべ、婿の分際も弁えねえで、心配かけねえとは何事だ。自分勝手に、婿なんどに身上引っかき廻されて、それでこの俺が、黙っていられっかっちんだ。これで俺ら、人に後指さされるようなこと、まあだした覚えはねえんだと。このでれ助親父。"
],
[
"由次と勝は田植、さア子は今日は、出征家族の奉仕労働とかで、どうしても学校さいかなくてえなんねえなんて行っちまアし、おッちうらはその辺で遊んでいんだっぺ。",
"俺いなくて田植大変だっぺ。"
],
[
"東京の方は外米だちけか。まずくてひどかっペ。",
"うむ、ひでえや、ぽそくさで、味も何もねえ。",
"ふでもどうだか、こっちの死米の麦飯と較べると、まアだ、外米の方がよくねえか。",
"うむ、どんなもんだかよ。",
"今年は、はア、洪水浸しの米ばかり残っていて、まアだ食いきれねえでいんだよ。いくら団子にしても、へな餅にしても、鶏や牛にやってもやりきれねえ。でもようやくあれだ、と一俵半くらいになった。そのあとに、合格米が三俵、まア、どうやら残っていっから、田植だけはこれで出来べえと思っているんだ。"
],
[
"とにかくどうなっか、先生が一度相談したいから、休日にかえって来ないかと言って手紙くれたからよ、それで俺、まア、とにかく、帰って来て見たんだ。",
"そうか、先生が……でも、あれだで、一度行ったら、はア、なかなか来れねえんだから、よっく、お父とも相談して、それから、決めるんなら決めなくては駄目だで。"
],
[
"お父ら、暢気もんだから……米の調べあるっちのに、どうするつもりなんだ。",
"どうするっちたって、どうもこうもあるもんか。――無えものは無え、有るものは有る、横からでも縦からでも調べた方がいいやな。こちとらのような足りねえ者には、政府の方で心配して、何俵でも廻してよこすんだっペからよ。",
"そんな無責任な親父だ。そんで、どうしてこの一家、立派に、ひとから嗤われねえように張って行けるんだ。あすこの家にはたった一俵しかなかったとよ、なんて世間に言われるの、黙って聞いていられんのか、この間抜け親父奴。"
],
[
"はい、あの、六俵半……不合格も合せれば、ざっと七俵はございます。",
"え、四俵――"
],
[
"どれとどれだね。",
"これと、これと、これ……これ……"
]
] | 底本:「犬田卯短編集 一」筑波書林
1982(昭和57)年2月15日第1刷発行
入力:林 幸雄
校正:松永正敏
2007年12月8日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"僕は全体、上流社会が嫌いでしてね。",
"いや、何といっても平民階級の中にいた方が、気がおけませんよ。"
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"おいS、俺の家へ、いま男爵閣下がお見えになったんだ。いっしょに飲もう。",
"へえ、珍客だな、しかし何という男爵様なんだい。",
"伊田見っていうんだ。",
"ニセじゃないかね。よくそんな奴が田舎を荒し廻るからね。",
"うむ、じつはどうも怪しいから、お前を呼びに来たんだ。",
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],
[
"じゃ、どうぞよろしく。",
"承知しました。"
],
[
"君、どうだね。ひとつ満州へ勇飛しないかね。",
"いや、大いに勇飛したいと考えていたんですがね。",
"じゃ、僕のところで高給を出そうよ。それからね、僕は、実に、その君の高潔なる犠牲的精神と、現代、農村青年のみが持っている本当の真面目さに惚れ込んだよ。それでだね、どうだね、折入って話したいことがあるんだが……"
],
[
"百円札が入っていたかも知れないのにな。……それはとにかく、気狂いかね。",
"いや、気は人並み以上に確かですよ。議論をはじめたとなると滔々として政治問題、社会問題、人生問題、なんでもやるんですからね。"
],
[
"何か蒔くつもりでしょうよ。籾俵を食いつくしてしまったんですね、きっと。子供らのように、まさか、手あたり次第、ひとのものを取るわけにも行かないでしょうからね。",
"ニヒリズムの破産ですかね。"
],
[
"それがよ、雨上りの泥道だっけが、ンでも、どこにもそれらしい跡がねえんだちけから、全く偉いものよ。",
"しかし、よく盗まれたのだけは解ったな。",
"うむ、やはり二三日分らなかったな……"
],
[
"まさか。",
"なんでも妹と二人で関西の方へ行っちまったとか……"
],
[
"家財道具みんな売り払ったばかりでなく、畑作まで処分して出かけたッち話だね。",
"でも、嫁さんは……昨日もいたようだが……",
"なんでも留守させて、その間に、二人でみんな運び出したって話だね。夜中に、この坂の下へトラック来たの見た人があるちけから……"
]
] | 底本:「犬田卯短編集二」筑波書林
1982(昭和57)年2月15日第1刷発行
入力:林 幸雄
校正:松永正敏
2007年12月8日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"渡れ圭太!",
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"下駄で渡れ!",
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"さあ、早く!"
],
[
"これくらい渡れないで日本男子だアねえぞ! やあい、貴様はチャンコロか露助か、この臆病奴!",
"渡れなけりゃ、今日一日そこに突っ立っているんだ、いいか。俺がついて番しててやる!"
],
[
"こら、臆病奴!",
"野郎、突き落せ!",
"突き落せ!"
],
[
"あら、そこからも血が……",
"大丈夫! これくらい……"
],
[
"堅くしとかないと駄目よ、あんた。頭がぐらぐらしべえ。あんた突き落されたの?",
"いや、ただ落ちたんだよ。"
],
[
"こいつ、学校出来ると思って生意気なんだ。……学校ぐれえ出来たって何だっちだ。",
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],
[
"綾子と貴様は、なんだ?",
"なんでもないさ!"
]
] | 底本:「犬田卯短編集 一」筑波書林
1982(昭和57)年2月15日第1刷発行
入力:林 幸雄
校正:松永正敏
2007年12月8日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"この頃物語り風の物をお書きになつていらつしやると云ふ事を聞きました。拜見出來る日を樂しんで居ります。",
"徒然のあまりに昔の心持を整理して物語り風に書き纒めて見ようと思ふのですが、私はやはり物語を書く人ではありませんでした。どうも思ふやうに纒まりませんので……。"
]
] | 底本:「信濃詩情」明日香書房
1946(昭和21)年12月15日発行
入力:林 幸雄
校正:富田倫生
2012年5月7日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"姓ローマ字": "Imai",
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"没年月日": "1948-07-15",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "信濃詩情",
"底本出版社名1": "明日香書房",
"底本初版発行年1": "1946(昭和21)年12月15日",
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[
[
"まア、一杯どうどす?――うちの人は、いつも、あないなことばかり云うとります。どうぞ、しかってやってお呉れやす。",
"まア、こういう人間は云いたいだけ云わして置きゃア済むんですよ。"
],
[
"まだ女房にしかられる様な阿房やない。",
"そやさかい、岩田はんに頼んどるのやおまへんか?",
"女郎どもは、まア、あッちゃへ行とれ。",
"はい、はい。"
],
[
"岩田君、君、今、盲進は戦争の食い物やて云うたけど、もう一歩進めて云うたら、死が戦争の喰い物や。人間は死ぬ時にならんと真面目になれんのや。それで死んでしもたら、もう、何もないのや。つまらん命やないか? ただくたばりそこねた者が帰って来て、その味が甘かったとか、辛かったとか云うて、えらそうに吹聴するのや、僕等は丸で耻さらしに帰って来たんも同然やないか?",
"そう云やア、僕等は一言も口嘴をさしはさむ権利はない、さ",
"まァ、死にそこねた身になって見給え。それも、大将とか、大佐とかいうものなら、立派な金鵄勲章をひけらかして、威張って澄ましてもおられよけど、ただの岡見伍長ではないか? こないな意気地なしになって、世の中に生きながらえとるくらいなら、いッそ、あの時、六カ月間も生死不明にしられた仲間に這入って、支那犬の腹わたになっとる方がましであった。それにしても、思い出す度にぞッとするのは、敵の砲弾でもない、光弾の光でもない、速射砲の音でもない、実に、僕の隊附きの軍曹大石という人が、戦線の間を平気で往来した姿や。これが、今でも、幽霊の様に、また神さまの様に、僕の心に見えとるんや。",
"何か意味のありそうな話じゃないか?",
"詳しうすれば長なろけれど、大石という人はもとから忠実で、柔順で、少し内気な質であったと思い給え。現役であったにも拘らず、第○聨隊最初の出征に加わらなかったんに落胆しとったんやけど、おとなしいものやさかい、何も云わんで、留守番役をつとめとった。それが予備軍のくり出される時にも居残りになったんで、自分は上官に信用がないもんやさかいこうなんのやて、急にやけになり、常は大して飲まん酒を無茶苦茶に飲んだやろ、赤うなって僕のうちへやって来たことがある。僕などは、『召集されないかて心配もなく、また召集されるような様子になったら、その前からアメリカへでも飛んで行きたいんを、わが身から進んでそないに力んだかて阿房らしいやないか? て』冷かしてやったんけど大した意気込みで不平を云うとって、取り合わん。『こないなことなら、いッそ、割腹して見せてやる』とか、『鉄砲腹をやってやる』とか、なかなか当るべからざる勢いであったんや。然し、いよいよ僕等までが召集されることになって、高須大佐のもとに後備歩兵聨隊が組織され、それが出征する時、待ちかまえとった大石軍曹も、ようよう附いてくことが出来る様になったんで、その喜びと云うたら、並み大抵ではなかった。どうせ、無事に帰るつもりは無いて、細君を離縁する云い出し、自分の云うことを承知せんなら、露助と見て血祭りにする云うて、剣を抜いて追いまわしたんや。"
],
[
"気違いになったのだ、な?",
"気違い云うたら、戦争しとる時は皆気違いや。君の云い方に拠れば、戦争というものは気違いが死を喰うのか、死が気違いを喰うのか分らん。ずどん云う大砲の音を初めて聴いた時は、こおうてこおうて堪らんのやけど、度重なれば、神経が鈍になると云うか、過敏となるて云うか、それが聴えんと、寂しうて、寂しうてならん。敵は五六千メートルも隔ってるのに、目の前へでも来とる様に見えて、大砲の弾丸があたまの上で破裂しても、よそごとの様に思われ、向うの手にかかって死ぬくらいなら、こッちゃから死ぬまで戦ってやる云う一念に、皆血まなこになっとるんや。かすり傷ぐらい受けたて、その血が流れとるのを自分は知らんのやし、他人も亦それが見えんのも尤もや。強い弾丸が当って、初めて気が付くんや。それに就いて面白い話がある。僕のではない、他の中隊の一卒で、からだは、大けかったけど、智慧がまわりかねた奴であったさかい、いつも人に馬鹿にされとったんが『伏せ』の命令で発砲した時、急に飛び起きて片足立ちになり、『あ、やられた! もう、死ぬ! 死ぬ!』て泣き出し、またばッたり倒れたさかい、どないにやられたかて、同隊の軍曹が調べてやると、足の上を鳥渡敵弾にかすられたんであった。軍曹はその卒の背中をたたいて、『しっかりせい! こんな傷ならしばっとけばええ。』――",
"随分滑稽な奴じゃないか?",
"それが、さ、岩田君、跡になれば滑稽やが、その場にのぞんでは、極真面目なもんや。戦争の火は人間の心を焼き清めて、一生懸命の塊りにして呉れる。然し、こおうなればどこまでもこわいものやさかい、その方でまた気違いになるんもある。どッちゃにせい、気違いや。大石軍曹などは一番ええ、一番えらい方の気違いや。"
],
[
"あいつの云う通り、僕は厭世気違いやも知れんけど、僕のは女房の器量がようて(奥でくすッと笑う声がした)、子供がかしこうて、金がたんとあって、寝ておられさえすれば直る気違いや。弾丸の雨にさらされとる気違いは、たとえ一時の状態とは云うても、そうは行かん。",
"それで、君の負傷するまでには、たびたび戦ったのか、ね?",
"いや、僕の隊は最初の戦争に全滅してしもたんや。――さて、これからが話の本文に這入るのやて――"
],
[
"僕も随分やってるよ。――それよりか、話の続きを聴こうじゃないか?",
"それで、僕等の後備歩兵第○聨隊が、高須大佐に導かれて金州半島に上陸すると、直ぐ鳳凰山を目がけて急行した。その第五中隊第一小隊に、僕は伍長として、大石軍曹と共に、属しておったんや。進行中に、大石軍曹は何とのうそわそわして、ただ、まえの方へ、まえの方へと浮き足になるんで、或時、上官から、大石、しッかりせい。貴様は今からそんなざまじゃア、大砲の音を聴いて直ぐくたばッてしまうやろ云われた時、赤うなって腹を立て、そないに弱いものなら、初めから出征は望みません、これでも武士の片端やさかい、その場にのぞんで見て貰いましょ。――それからと云うものずうッと腹が立っとったんやろ、無言で鳳凰山まで行進した。もう、何でも早う戦場にのぞみとうてのぞみとうて堪えられなんだやろ。心では、おうかた、大砲の音を聴いとったんやろ。僕は、あの時成る程離縁問題が出た筈やと思た。",
"成る程、これからがいよいよ人の気が狂い出すという幕だ、な。"
],
[
"鳥渡聴くが、光弾の破裂した時はどんなものだ?",
"三四尺の火尾を曳いて弓形に登り、わが散兵線上に数個破裂した時などは、青白い光が広がって昼の様であった。それに照らされては、隠れる陰がない。おまけに、そこから敵の砲塁までは小川もなく、樹木もなく、あった畑の黍は、敵が旅順要塞に退却の際、みな刈り取ってしもたんや。一歩踏み出せば、もう、直ぐ敵弾の餌食は覚悟せにゃならん。聨隊長はこの進軍に反対であったんやけど、止むを得ん上官の意志であったんやさかい、まア、半分焼けを起して進んで来たんや。全滅は覚悟であった。目的はピー砲台じゃ、その他の命令は出さんから、この川を出るが最後、個々の行動を取って進めという命令が、敵に悟られん様に、聨隊長からひそかに、口渡しで、僕等に伝えられ、僕等は今更電気に打たれた様に顫たんやが、その日の午後七時頃、いざと一同川を飛び出すと、生憎諸方から赤い尾を曳いて光弾があがり、花火の様にぱッと弾けたかと思う間ものう、ぱらぱらと速射砲の弾雨を浴びせかけられた。それからていうもの、君、敵塁の方から速射砲発射の音がぽとぽと、ぽとぽとと聴える様になる。頭上では、また砲弾が破裂する。何のことはない、野砲、速射砲の破裂と光弾の光とがつづけざまにやって来るんやもの、かみ鳴りと稲妻とが一時に落ちる様や、僕等は、もう、夢中やった。午後九時頃には、わが聨隊の兵は全く乱れてしもて、各々その中隊にはおらなかった。心易いものと心易いものが、お互いに死出の友を求めて組みし合い、抱き合うばかりにして突進した。今から思て見ると、よく、まア、あないな勇気が出たことや。後について来ると思たものが足音を絶つ、並んどったものが見えん様になる、前に進むものが倒れてしまう。自分は自分で、楯とするものがない。",
"そこになると、もう、僕等の到底想像出来ないことだ。",
"実際、君、そうや。"
],
[
"それが果して気違いであったなら、随分しッかりした気狂いじゃアないか?",
"無論気狂いにも種類があるもんと見にゃならん。――僕はそれから夜通し何も知らなかったんや。再び気が付いて見たら、前夜川から突進した道筋をずッと右に離れたとこに独立家屋があった。その附近の畑の掘れたなかに倒れとった。夜のあけ方であったんやけど、まだ薄暗かった。あたまを挙げてあたりを見ると、独り兵の這いさがるんかと思た黒い影があるやないか? 自分もあの様にして這いさがろ思てよく見ると、うわさに聴いた支那犬やないか? 戦争の過ぎた跡へかけ付けて、なま臭い人肉を喰う狼見た様な犬がうろ付いとる間で、腰、膝の立たんわが身が一夜をその害からのがれたんは、まだ死をいそぐんではなかろて、勇気――これが僕にはほんまの勇気やろ――を出して後方にさがった。独立家屋のあたりには、衛生隊が死傷者を収容する様子は見えなんだ。進んだ時も夢中であったんやが、さがる時も一生懸命――敵に見付かったらという怖さに、たッた独りぽッちの背中に各種の大砲小銃が四方八方からねらいを向けとる様な気がして、ひどう神経過敏になった耳元で、僕の手足が這うとる音がした。のぼせ切っておったんや。刈り取られた黍畑や赤はげの小山を超えて、およそ二千メートル後方の仮繃帯場へついた時は、ほッと一息したまま、また正気を失てしもた。そこからまた一千メートル程のとこに第○師団第二野戦病院があって、そこへ転送され、二十四日には長嶺子定立病院にあった。その間に僕の左の腕が無うなっとった。寝台の上に仰向けになったまま、『おや腕が』と気付いたんやが、その時第一に僕の目に見えたんは大石軍曹の姿であった。この人をしかった上官にも見せてやりたかったんやが、『その場にのぞんで見て貰いましょ』と僕の心を威嚇して急に戦争の修羅場が浮んできた。僕はぞッとして蒲団を被ろうとしたが手が一方よりほか出なかった。びっくりした看護婦が、どうしたんや問うたにも答えもせず、右の手を出してそッと左の肩に当って見たら二三のとこで腕が木の株の様に切れて、繃帯をしてあった。――この腕だ。"
],
[
"して、大石のからだはあったんか?",
"あったとも、君――後で収容当時の様子を聴いて見ると、僕等が飛び出した川からピー堡塁に至る間に、『伏せ』の構えで死んどるもんもあったり、土中に埋って片手や片足を出しとるもんもあったり、からだが離ればなれになっとるんもあった。何れも、腹を出しとったんはあばらが白骨になっとる。腹を土につけとったんは黒い乾物見た様になっとる。中には倒れないで坐ったまま、白骨になっとったんもある。之を見た収容者は男泣きに泣いたそうや。大石軍曹はて云うたら、僕がやられたところよりも遙かさきの大きな岩の上に剣さきを以て敵陣を指したまま高須聨隊長が倒れとった、その岩よりもそッとさきに進んだところで、敵の第一防禦の塹壕内に死んどったんが、大石軍曹と同じ名の軍曹であったそうや。"
],
[
"君と久し振りで会って、愉快に飲んだし、思いもよらない君の戦話を聴いたし、もう、何にも不満足はない。休ませて貰おう。",
"それでは二階へ行こか?"
]
] | 底本:「日本プロレタリア文学大系(序)」三一書房
1955(昭和30)年3月31日初版発行
1961(昭和36)年6月20日第2刷
入力:Nana ohbe
校正:林 幸雄
2001年12月27日公開
2012年9月13日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
[
"どうせ習らっても、馬鹿だから、分るもんか?",
"なぜ?",
"こないだも大ざらいがあって、義太夫を語ったら、熊谷の次郎直実というのを熊谷の太郎と言うて笑われたんだ――あ、あれがうちの芸著です、寝坊の親玉"
],
[
"これはわたしのだ。さッき井戸端へ水を飲みに行った時、落したんだろう",
"あの狐に取られんで、まア、よかった",
"可哀そうに、そんなことを言って――何という名か、ね?",
"吉弥と言います"
],
[
"なアに、僕は遠慮がないから――",
"まア、おはいりなさって下さい"
],
[
"どうせ、丁寧に教えてあげる暇はないのだから、お礼を言われるまでのことはないのです",
"この暑いのに、よう精が出ます、な、朝から晩まで勉強をなさって?",
"そうやっていなければ喰えないんですから",
"御常談を――それでも、先生はほかの人と違って、遊びながらお仕事が出来るので結構でございます",
"貧乏ひまなしの譬えになりましょう",
"どう致しまして、先生――おい、お君、先生にお茶をあげないか?"
],
[
"僕こそお礼を言いに来たのかも知れません",
"かも知れませんでは、お礼になりますまい!",
"いや、どうも――それでは、ありがとうござります"
],
[
"それでは、いッそだまっておれば儲かったのに",
"ほんとに、あたい、そうしたらよかった",
"あいにく銅貨が二、三銭と来たら、いかに吉弥さんでも驚くだろう",
"この子はなかなか欲張りですよ",
"あら、叔母さん、そんなことはないわ"
],
[
"叔母さん、どう?",
"今のところでは、口がかかっておらない",
"じゃア、僕がけさのお礼として玉をつけましょう"
],
[
"お前の生れはどこ?",
"東京",
"東京はどこ?",
"浅草",
"浅草はどこ?",
"あなたはしつッこいのね、千束町よ",
"あ、あの溝溜のような池があるところだろう?",
"おあいにくさま、あんな池はとっくにうまってしまいましたよ",
"じゃア、うまった跡にぐらつく安借家が出来た、その二軒目だろう?"
],
[
"お前は全体いくつだ?",
"二十五",
"うそだ、少くとも二十七だろう?",
"じゃア、そうしておいて!",
"お父さんはあるの?",
"あります",
"何をしている?",
"下駄屋",
"おッ母さんは?",
"芸者の桂庵",
"兄さんは?",
"勧工場の店番",
"姉さんは?",
"ないの",
"妹は?",
"芸者を引かされるはず",
"どこにつとめているの?",
"大宮",
"引かされてどうするの?",
"その人の奥さん",
"なアに、妾だろう",
"妾なんか、つまりませんわ"
],
[
"田村先生、お早う",
"お前かい?"
],
[
"厭な人、ね",
"厭なら来ないがいい、さ",
"それでも、来たの――あたし、あなたのような人が好きよ。商売人?",
"ああ、商売人",
"どんな商売?",
"本書き商売",
"そんな商売がありますもんか?",
"まア、ない、ね"
],
[
"全体どうしてお前はこんなところにぐずついてるんだ?",
"東京へ帰りたいの",
"帰りたきゃア早く帰ったらいいじゃアないか?",
"おッ母さんにそう言ってやった、わ、迎えに来なきゃア死んじまうッて",
"おそろしいこッた。しかしそんなことで、びくつくおッ母さんじゃアあるまい",
"おッ母さんはそりゃアそりゃア可愛がるのよ",
"独りでうぬぼれてやアがる。誰がお前のような者を可愛がるもんか? 一体お前は何が出来るのだ?",
"何でも出来る、わ",
"第一、三味線は下手だし、歌もまずいし、ここから聴いていても、ただきゃアきゃア騒いでるばかりだ",
"ほんとうは、三味線はきらい、踊りが好きだったの"
],
[
"お前が踊りを好きなら、役者になったらどうだ?",
"あたい、賛成だ、わ。甲州にいた時、朋輩と一緒に五郎、十郎をやったの"
],
[
"お前が役者になる気なら、僕が十分周旋してやらア",
"どこへ、本郷座? 東京座? 新富座?",
"どこでもいいや、ね、それは僕の胸にあるんだ",
"あたい、役者になれば、妹もなりたがるにきまってる。それに、あたいの子――",
"え、お前の子供があるんか?",
"もとの旦那に出来た娘なの",
"いくつ?",
"十二",
"意気地なしのお前が子までおッつけられたんだろう?",
"そうじゃアない、わ。青森の人で、手が切れてからも、一年に一度ぐらいは出て来て、子供の食い扶持ぐらいはよこす、わ。――それが面白い子よ。五つ六つの時から踊りが上手なんで、料理屋や待合から借りに来るの。『はい、今晩は』ッて、澄ましてお客さんの座敷へはいって来て、踊りがすむと、『姉さん、御祝儀は』ッて催促するの。小癪な子よ。芝居は好きだから、あたいよく仕込んでやる、わ"
],
[
"きょうは今から吉弥さんを呼んで、十分飲みますぞ",
"毎度御ひいきは有難うございますけれど、先生はそうお遊びなさってもよろしゅうございますか?",
"なアに、かまいませんとも",
"しかし、まだ奥さんにはお目にかかりませんけれど、おうちでは独りでご心配なさっておられますよ。それがお可哀そうで",
"かかアは何も知ってませんや",
"いいえ、先生のようなお気質では、つれ添う身になったら大抵想像がつきますもの",
"よしんば、知れたッてかまいません",
"先生はそれでもよろしかろうが、私どもがそばにいて、奥さんにすみません"
],
[
"おこってるの?",
"………",
"ええ、おこッているの?",
"………",
"あたい知らないわ!"
],
[
"どうだい、僕もまた一つ蕎麦をふるまってもらおうじゃアないか?",
"あら、もう、知ってるの?",
"へん、そんなことを知らないような馬鹿じゃアねい。役者になりたいからよろしく頼むなんどと白ばッくれて、一方じゃア、どん百姓か、肥取りかも知れねいへッぽこ旦つくと乳くり合っていやアがる",
"そりゃア、あんまり可哀そうだ、わ。あの人がいなけりゃア、東京へ帰れないじゃアないか、ね",
"どうして、さ?",
"じゃア、誰れが受け出してくれるの? あなた?",
"おれのはお前が女優になってからの問題だ。受け出すのは、心配なくおッ母さんが来て始末をつけると言ったじゃアないか?",
"だから、おッ母さんが来ると言ってるのでしょう――"
],
[
"あんな者に受け出されて、やッぱし、こんなしみッたれた田舎にくすぶってしまうのだろうよ",
"おおきにお世話だ、あなたよりもさきに東京へ帰りますよ",
"帰って、どうするんだ?",
"お嫁に行きますとも",
"誰れが貴さまのような者を貰ってくれよう?",
"憚りながら、これでも衣物をこさえて待っていてくれるものがありますよ",
"それじゃア、青木が可哀そうだ",
"可哀そうも何もあったもんか? あいつもこれまでに大分金をつぎ込んだ男だから、なかなか思い切れるはずはない、さ",
"どんなに馬鹿だッて、そんなのろまな男はなかろうよ",
"どうせ、おかみさんがやかましくッて、あたいをここには置いとけないのだから、たまに向うから東京へ出て来るだけのことだろう、さ"
],
[
"お嫁に行って、妾になって、まだその上に女優を欲張ろうとは、お前も随分ふてい奴、さ",
"そうとも、さ、こんなにふとったからだだもの、かせげるだけかせぐん、さ、ね"
],
[
"人質に取ってやったの",
"おッ母さんの手紙がばれたんだろう――?",
"いいえ、ゆうべこれ(と、鼻をゆびさしながら)に負けたんで、現金がないと、さ"
],
[
"本統よ、そんなにうそがつける男じゃアないの",
"のろけていやがれ、おめえはよッぽどうすのろ芸者だ。――どれ、見せろ"
],
[
"ああ、ああ、もう、死んじまいたくなった。いつおッ母さんがお金を持って来てくれるのか、もう一度手紙を出そうかしら?",
"いい旦那がついているのに、持って来るはずはない、さ",
"でも、何とやらで、いつはずれるか知れたものじゃアない",
"それがいけなけりゃア、また例のお若い人に就くがいいや、ね",
"それがいけなけりゃア――あなた?",
"馬鹿ア言え。そんな腑ぬけな田村先生じゃアねえ。――おれは受け合っておくが、お前のように気の多い奴は、結局ここを去ることが出来ずにすむんだ"
],
[
"そりゃア、叔母さんの言うのももっともです、しかし、まア、男が惚れ込んだ以上は、そうしてやりたくなるんでしょうから――",
"吉弥も馬鹿です。男にはのろいし、金使いにはしまりがない。あちらに十銭、こちらに一円、うちで渡す物はどうするのか、方々からいつもその尻がうちへまわって来ます"
],
[
"お父さんの考えはどうでしょう?",
"私どものは、なアに、もう、どうでもいいので、始終私が家のことをやきもき致していまして、心配こそ掛けることはございましても、一つとして頼みにならないのでございますよ。私は、もう、独りで、うちのことやら、子供のことやらをあくせくしているのでございます",
"そりゃア、大抵なことじゃアないでしょう。――吉弥さんも少しおッ母さんを安心させなきゃア――"
],
[
"おッ母さんだッて、いろんな用があるよ。お前の妹だッて、また公園で出なけりゃアならなくなったし、そうそうお前のことばかりにかまけてはいられないよ。半玉の時じゃアあるまいし、高が五十円か百円の身受け相談ぐらい、相対ずくでも方がつくだろうじゃアないか? お前よりも妹の方がよほど気が利いてるよ",
"じゃア、勝手にしゃアがれ",
"あれですもの、先生、ほんとに困ります。これから先生に十分仕込んでいただかなければ、まるでお役に立ちませんよ",
"なァに、役者になるには年が行き過ぎているくらいなのですから、いよいよ決心してやるなら、自分でも考えが出るでしょう"
],
[
"お父さんにもお目にかかっておきたいから、夕飯を向うのうなぎ屋へ御案内致しましょうか? おッ母さんも一緒に来て下さい",
"それは何よりの好物です。――ところで、先生、私はこれでもなかなか苦労が絶えないんでございますよ。娘からお聴きでもございましょうが、芸者の桂庵という仕事は、並み大抵の人には出来ません。二百円、三百円、五百円の代物が二割、三割になるんですから、実入りは悪くもないんですが、あッちこッちへ駆けまわって買い込んだ物を注文主へつれて行くと、あれは善くないから取りかえてくれろの、これは悪くもないがもッと安くしてくれろのと、間に立つものは毎日気の休まる時がございません。それが田舎行きとなると、幾度も往復しなけりゃアならないことがございます。今度だッてもこの子の代りを約束しに来たんですよ、それでなければ、どうして、このせちがらい世の中で、ぼんやり出て来られますものですか?"
],
[
"それが、ねえ、先生、商売ですもの",
"そりゃア、御もっともで",
"で、御承知でしょうが、青木という人の話もあって、きょう、もう、じきに来て、いよいよの決着が分るんでございますが、それが定まらないと、第一、この子のからだが抜けませんから、ねえ"
],
[
"おッ母さんは、ほんとに、どうする気だよ?",
"どうするか分りゃアしない",
"田村先生とは実際関係がないか?",
"また、しつッこい!――あったら、どうするよ?",
"それじゃア、青木が可哀そうじゃアないか?",
"可哀そうでも、可哀そうでなくッても、さ、あなたのお腹はいためませんよ",
"ほんとに役者になるのか?",
"なるとも、さ",
"なったッて、お前、じきに役に立たないッて、棄てられるに定まってるよ。その時アまたお前の厭な芸者にでもなるよりほかアなかろうぜ",
"そりゃア、あたいも考えてまさア、ね",
"そのくらいなら、初めから思いきって、おれの言う通りになってくれよ"
],
[
"どういう人にだ?",
"区役所のお役人よ――衣物など拵えて、待っているの"
],
[
"どうせ、二、三十円の月給取りだろうが、そんな者の嬶アになってどうするんだ?",
"お前さんのような借金持ちよりゃアいい、わ",
"馬鹿ァ言え!",
"子供の時から知ってる人で、前からあたいを貰いたいッて言ってたの――月給は四十円でも、お父さんの家がいいんだから――",
"家はいいかも知れないが、月給のことはうそだろうぜ――しかしだ、そうなりゃア、おれたちアみな恨みッこなしだ"
],
[
"じゃア、もう、帰って頂戴よ、何度も言う通り、貰いがかかっているんだから",
"帰すなら、帰すようにするがいい",
"どうしたらいいのよ?",
"こうするんだ",
"いたいじゃアないか?"
],
[
"もう、先生、よろしゅうございますよ。うちのは二、三杯頂戴すると、あの通りになるんですもの",
"しかし、まだいいでしょう――?"
],
[
"ああ、もう、こういうところで、こうして、お花でも引いていたら申し分はないが――",
"お父さんはじきあれだから困るんです。お花だけでも、先生、私の心配は絶えないんですよ",
"そう言ったッて、ほかにおれの楽しみはないからしようがない、さ"
],
[
"ああ、来たよ",
"相談は定まって?",
"うまく行かないの、さ"
],
[
"そう無気になったッてしようがない、わ、ね。おッ母さんだッて、抜かりはないが、向うがまだ険呑がっていりゃア、考えるのも当り前だア、ね",
"何が当り前だア、ね? 初めから引かしてやると言うんで、毎月、毎月妾のようにされても、なりたけお金を使わせまいと、わずかしか小遣いも貰わなかったんだろうじゃないか? 人を馬鹿にしゃアがったら、承知アしない、わ。あのがらくた店へ怒鳴り込んでやる!",
"そう、目の色まで変えないで、さ――先生の前じゃアないか、ね。実は、ね、半分だけあす渡すと言うんだよ",
"半分ぐらいしようがないよ、しみッたれな!",
"それがこうなんだよ、お前を引かせる以上は青木さん独りを思っていてもらいたい――",
"そんなおたんちんじゃアないよ"
],
[
"先生にゃア関係がないと言ってあるのに",
"いいえ、この方は大丈夫だが、ね、それ――",
"田島だッて、もう、とっくに手を切ッたって言ってあるよ"
],
[
"聴いてたどころか、隣りの座敷で見ていたも同前だい!",
"あたい、何も田島さんを好いてやしない、わ",
"もう、好く好かないの問題じゃアない、病気がうつる問題だよ",
"そんな物アとっくに直ってる、わ",
"分るもんか? 貴様の口のはたも、どこの馬の骨か分りもしない奴の毒を受けた結果だぞ"
],
[
"また青木だろう?",
"いいえ、これから行くの"
],
[
"それがつらいのか?",
"どうしても、疑わしいッて聴かないんだもの、癪にさわったから、みんな言っちまった――『あなたのお世話にゃならない』て",
"それでいいじゃアないか?",
"じゃア、向うがこれからのお世話は断わると言うんだが、いいの?",
"いいとも",
"跡の始末はあなたがつけてくれて?"
],
[
"なアに、こうなったら、私が引き受けてやりまさア",
"済まないこッてございますけれど――吉弥が悪いのだ、向うをおこらさないで、そッとしておけばいいのに",
"向うからほじくり出すのだから、しようがない、わ"
],
[
"馬鹿野郎! 人の前でのろけを書きゃアがった、な",
"のろけじゃアないことよ、御無沙汰しているから、お詫びの手紙だ、わ",
"『母より承わり、うれしく』だ――当て名を書け、当て名を! 隠したッて知れてらア"
],
[
"東京へ帰ると、すぐまた浮気をするんだろう?",
"馬鹿ア言え。お前のために、随分腹を痛めていらア"
],
[
"長くここへ来ているの?",
"いいえ、去年の九月に",
"はやるの?",
"ええ、どこででもきイちゃんきイちゃんて言ってくれてよ"
],
[
"学校ははいったの?",
"いいえ",
"新聞は読めて?",
"仮名をひろって読みます、わ",
"それで役者になれるの?",
"そりゃアどうだか分りませんが、朋輩同志で舞台へ出たことはあるのよ"
],
[
"知らないはずはない。おれの家をあずかっていながらどんな鍵でもぞんざいにしておくはずはない",
"実は大事にしまってあることはしまってありますが、お千代が渡してくれるなと言っていましたから――",
"千代は私の家内です、そんな言い分は立ちません"
],
[
"男が一旦やろうと言ったもんだ!",
"わけなくやったのではない!",
"さんざん人をおもちゃにしゃアがって――貰った物ア返しゃアしない!",
"何だ、この薄情女め!"
],
[
"くれたもんを取り返しに来たの",
"あまりだますから、おこったんだろう?",
"だまされるもんが悪いのよ"
],
[
"おッ母さんは?",
"赤坂へ行って、いないの",
"いつ帰りました?",
"きのう"
],
[
"さァ、絶体だ",
"出る、出る!",
"助平だ、ねえ――?",
"降りてやらア",
"行けばいいのに――赤だよ",
"そりゃ来た!",
"こん畜生!"
],
[
"吉弥だッてそうでさア、ね、小遣いを立てかえてあるし、髢だッて、早速髷に結うのにないと言うので、借してあるから、持って来るはずだ、わ",
"目くらになっちゃア来られない、さ"
],
[
"どこへ行くんだ?",
"散歩だ",
"遠いところまで来たもんだ、な",
"なアに、意味もなく来たんだ"
],
[
"滑稽だ、ねえ?",
"実に滑稽だ"
]
] | 底本:「日本の文学 8 田山花袋 岩野泡鳴 近松秋江」中央公論社
1970(昭和45)年5月5日初版発行
入力:久保あきら
校正:松永正敏
2000年11月11日公開
2006年1月24日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "001207",
"作品名": "耽溺",
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"分類番号": "NDC 913",
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"名読み": "ほうめい",
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"名読みソート用": "ほうめい",
"姓ローマ字": "Iwano",
"名ローマ字": "Homei",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1873-01-20",
"没年月日": "1920-05-09",
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"底本名1": "日本の文学 8 田山花袋 岩野泡鳴 近松秋江",
"底本出版社名1": "中央公論社",
"底本初版発行年1": "1970(昭和45)年5月5日",
"入力に使用した版1": "1970(昭和45)年5月5日初版",
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"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "久保あきら",
"校正者": "松永正敏",
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} |
[
[
"どうして――あれでなかなか亭主にゃア可愛がられておりますからたまりませんや!",
"へい――?"
],
[
"なかなか暑いじゃアございませんか? この分じゃア、この梅雨は乾梅雨でげしょうか、な? 困ります、な",
"そりゃア、雨が降れば寄席の客あしも減じようから、な",
"お客の足なら、摺り小木にもなれでさア。わたくしはちッとばかり人の地面を借りて野菜を作っております。困るのアそれが、雨が降るべき時に降らないとうまく行きませんから、な"
],
[
"誰れのです?",
"久米氏の虎です、五月の文章世界に出た"
],
[
"君はいつも理想主義者的に物を言う人だが、いかにその反対のげんじつ主義者だッて、それはけっして否定しちゃアいません",
"それなら、安心ですが――",
"ただ君の言うようなことにばかり僕らは停止してはいない"
],
[
"だから、さ、外国にはもッと大仕掛けに猿の言葉まで研究してみた人もある",
"わたくしも英語でも学んでおりますと、やってみますが――",
"しかし、猿は英語を使わない"
],
[
"動機と申しますと――?",
"まア、言ってみれば、初まりの思いつき、さ"
],
[
"先生、飴というものはなかなか儲かるものでげして、わずか五銭のもと手でその時三十銭から四十銭にはなりました",
"そんなにいい儲け口を止めてしまったのには?",
"そりゃア、わたくしの道楽が嵩じましたのです、な。わたくしには物の啼き声を真似るのが持ち前に備わってたとでも申すのでしょうか? 何でも真似ます。いや、すべて啼く物で真似ができなけりゃア、できるまで研究いたします。お客さまのうちにはよく螢を啼けとか、疝気の虫を啼けとかいう註文が出ますが、それはわたくし以上の天才にもおそらくできますまい。わたくしとしては、今じゃア、猫の喧嘩や虫、鳥の啼き声では平凡になって、飛行器や自動車の真似もしなけりゃア追ッつきません"
],
[
"いや、いかに商売でも、四角張っていくらで来てくれるかと出られちゃア、もう、なに、くそッ、勝手にしろという気になります、な。寄附なら寄附でようごぜいますし、出せるならまた黙って身分相当に出せばいいでしょう",
"そんな旧式なことアだめだよ。それよりゃア初めから何円以上でなけりゃア招かれない、そして貴族なら貴族のように平民よりもずッと高く出せと、前もって請求する方が今時はかえって見識だろう",
"しかし金銭のことを申すときたなくなりますから、な",
"それが今の芸人どもの旧臭味、さ!",
"どうせ今の芸人にゃア新らしい真似などはできません。奇麗に出てこなけりゃア、おそらく、たいていぴッたり断りましょう。ある時など、わたくしがはだかで鍬を運んでますていと、畑のところまで○○子爵からのお使いがあって、いつ、何時からという約束になりましたが、いくらやればいいのだと聴かれたので断然止めてしまいました。芸人は意気で生きてますから、な――その代り、気が進めば、ただでも行ってやります"
],
[
"………",
"では、皆さん、わたくしはこれで失礼いたします"
]
] | 底本:「日本文学全集13 岩野泡鳴集」集英社
1969(昭和44)年4月12日発行
初出:「大阪毎日新聞」
1918(大正7)年9月~10月
入力:岡本ゆみ子
校正:荒木恵一
2015年3月8日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"生年月日": "1873-01-20",
"没年月日": "1920-05-09",
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"底本名1": "日本文学全集13 岩野泡鳴集",
"底本出版社名1": "集英社",
"底本初版発行年1": "1969(昭和44)年4月12日",
"入力に使用した版1": "1969(昭和44)年4月12日",
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[
[
"お千代さん、どうしましよう、ね、こんなハガキが來ましたよ。",
"下手な字、ね。どんな女?",
"わたしはあんまり好かないの。",
"いくつ位?",
"前にうちにゐた時が十七八だから、もう、二十一二でしようよ。",
"どこへ行つてたの?",
"矢板學校へ裁縫を習ひに。",
"まア、いいぢやアありませんか、來させたツて?",
"お千代さんがさう受け合へば構はないやうなものの――でも、ねえ、お父アんの代が變つてゐるし、わたしがそんなことに口を出して、もしどんなことがあるまいものでもないから――。",
"おツ母さんはお父アんが亡くなられてから急に心配家になつたの、ね、何も商賣だから、かまはないぢやアありませんか?",
"でも、ね――片づいたものがまた出て來るのは、どうせいいことではないだらうし、若し義雄さんにでも引ツかかりができたら――",
"まさか、そんなことが――"
],
[
"でも、主人だから、主人のやうに、ね――",
"それは違つてゐます――わたしはこの家の戸主には成つたが、下宿屋はこの表面上の妻たる千代の仕事です。わたしは矢ツ張り元の通り詩人、小説家、評論家で、また○○商業學校の英語教師です。"
],
[
"ゐ付く値うちがないのです、こんな家には。",
"お父アんの家でも――?",
"さう、さ――お父アんの跡を繼いだのは、わたし自身のからだと精神であつて――こんな家や妻子は、自分にそぐはなければ、棄ててもいいんだ。"
],
[
"ふん、棄てるとも――もう、おれは精神的には棄ててるんだ。",
"何とでもお云ひなさい――人を表面上の妻だなんて!",
"お前の命令などア受けないと云つてるだらう――おれの心に反感をいだかせるものは皆おれの愛を遠ざかつて行くのだ。愛のないところにやア、おれの家もない。"
],
[
"そりやア、歳が歳ですもの――それに、六人も子を産ませられて、三人を育てあげた女ですもの――子に苦勞してゐるだけ子が可愛いのは當り前でしよう。",
"お前は子の爲めに夫を忘れてゐるのだ。",
"いいえ、忘れてはゐません。",
"おぼえてゐるのは、おれの昔だ。"
],
[
"ぢやア、よく云つて聽かせて下さい、な。",
"いくら聽かせても、お前には分らないのだが、――教育がないからと云ふのではない。お前は相當の教育は受けたのだが、その道學者的教育の性質が却つて邪魔をするのだ――。"
],
[
"わたしだツて、自分から愛してゐます、わ。",
"ところが、その問題だ――段々年を取るに從つて男女の情愛は表面に見えなくなるとしても、愛してゐると云ふ言葉だけで、實際はそんな氣色もないのでは困る。男は世故に長けて來ると共に段々情愛を深めて行くものだが、今の四十以上の女は皆當り前のやうに男に對する心を全く子供に向けてしまう。",
"でも、子供は所天の物でしようが――"
],
[
"それが――でも――滿足に拂へたことがないぢやアありませんか?",
"そりやア、然しお前の帳面が矢ツ張り合つてゐないよりやア、まだしもましだ。"
],
[
"諭鶴も、あんな總領息子ぢやア仕方がありません、ね――あなたと同樣、わが儘一方で。",
"おれは親不孝であつたから、自分の子供から孝行をして貰はうとは飽くまで思はないのだ。"
],
[
"あなたも段々ぢぢイじみて來た癖に。",
"そりやア上ツつらのことで――精神は反對に若々しくなつて來た、さ。",
"七つさがりの雨は止まないと云ふのがそのことなら、ねえ――"
],
[
"貴樣のやうな出來そこなひは、兩親へ行つて産み直して貰へ。",
"手前のやうな鈍物は、舌でも喰ひ切つて死んでしまへ。"
],
[
"煙草を飮んでゐても叱りませんか?",
"酒に醉ツ拂つてゐてもいいんですか?",
"藝者を連れてゐてもかまひませんか?"
],
[
"大阪から行きます。午後の十時頃に大阪を出發しますと、加太、和歌山などは夜のうちに通つて明くる日のお晝頃着きます。",
"何かあるとこ?",
"温泉があります。",
"ぢやア、いいとこでしよう?",
"その邊では、まづ、よろしい都會ぢやと云ふても、大したところではないのです。"
],
[
"さア、どうですか? 神戸や大阪からは隨分來るやうですが――",
"ふむ、隨分來るの――ふむ、さう?"
],
[
"まア、明日からでも探して見ましよう――神田にも國の人が來てをりますので。",
"國の人が來てゐるのなら、大丈夫ですよ。"
],
[
"はア、それは――",
"若し奉公の口がない、うちの勘定も拂へないといふやうなことがあると――"
],
[
"義雄などに相談もあつたものですか?",
"でも、ねえ、あるじはあるじですもの。",
"あんな人に――あるじらしくもない――相談も何も入りますものか?"
],
[
"あなたも、船や汽車でゆられて來て、疲れてゐるでしようから、早くわたしの部屋へ行つて、横にでもおなりなさい。",
"さう疲れてもをりません。",
"だツて、どうせあなたのゐるところときまつたのですから――",
"左樣ですか? では――",
"馨! ちよいとお出でよ。"
],
[
"大きくなつたでしよう、馨は?",
"はア、さうです、な。",
"兄さんよりも、大きいのですよ――からだばかり立派になつて。",
"結構です。",
"勉強をしないで困るのですよ――兄さんの方は、それでも、し出すと、夜ぢうでもしてゐるやうですが――",
"僕だつて、する時アしてゐる、さ。",
"だッて、今から色氣づいたりして、ね。"
],
[
"なんぼ若いツたツても、あんな意地の惡さうな、のツそりした女ぢやア――",
"ぢやア、手めへは何だ――鬼子母神のお化け見たやうなざまをしやアがつて――おれの女房なら、女房らしくなれ!",
"あなたも亭主らしくおなりなさいよ。",
"馬鹿をいふな――貴樣のやうなとげ〳〵しい婆々アに、もう誰れが構つてゐよう? どんな見難い女でも、まだしもしとやかで、若けりやアいい。",
"だから、好きなのをお貰ひなさいと云つてるぢやアありませんか?",
"何んだ! それで濟むと思ふか? 苟くもおれが貴樣達を補助してゐる以上は、おれは貴樣達の主人だ。主人が學校から歸つて來ても――",
"へえ、學校でしたの? わたしは、また、もう試驗も濟んだんだから、どこかほかへ――",
"特別な用があつたらどうする――氣の毒だから點數調べの手傳ひをしてやつたのだから仕方がないのだ! 學校ばかまなど穿いて、誰れがほかへ行く?",
"そりやア、氣が付きませんでした。",
"何、ぢやア、貴樣達アおれが學校から歸つた時でなきやア、茶を一つ持つて來ないのか?",
"そんな因業なわけぢやアありません、わ――欲しけりやア御遠慮なく手を叩いて下すつたらいいぢやアありませんか?",
"手を叩くのア家のものが知らない時だ――歸つたのを知つてゐながら、お歸んなさいとも、何とも云はず――",
"それは惡うございましたが――",
"惡かつたでは、もう遲いのだ――茶を持つて來い、茶を!"
],
[
"さア、行つてもいい、ね。",
"夏中は相變らず不景氣で金が這入らねいで閉口だ。",
"僕などアおやぢの病死以來ぴイ〳〵してゐるのだ。",
"まア飯を喰つてから玉突でもやる、さ。"
],
[
"どこへ行かう?",
"さア――",
"君ア養精軒はまだいやだらうし――",
"行つたところで構やアしないが、久し振りで永夢軒へ行つて見ようか?",
"それもよからう。"
],
[
"それにやアいろ〳〵込み入つたわけもあると云ふことだから――",
"あんな者のいふことが信用できますか?",
"さう一概にも、ねえ――まだ若いから氣の付かないこともあり勝ちでしようが。",
"おツ母さんも、義雄の味方になつて、ただ若いのがいい方なのですか?"
],
[
"もう、二十一にもなつて、茶碗のころげたのを一つ直せないやうぢやア、末がおそろしいでしようよ。",
"まア、でも、今の女の子は横着になつてゐるから――",
"うちの富美などは、あんな者にさせたくないものです。",
"そりやア、お前さんの育て方一つで、ねえ――"
],
[
"うむ、やつてる、やつてる!",
"うまい手つきだよ。"
],
[
"そりやア、もう、わたしに構はず――",
"でも、相談して見なけりやア――"
],
[
"えい――神田の方とかも、ただいいところがある、あると云ふだけで、そんなことを云つては向ふの男がただ女を面白半分に引き寄せてゐるばかりのやうだし――",
"それがあの女に分らないのか?",
"さあ、そこまでは――",
"女の方が却つてそんな男からなにかおびき出さうとしてゐるのぢやアないか?"
],
[
"下女ぢやア、氣が進まないらしいのです、わ――でも、お前さんに強く云はれたから、その日から自分で方々の口入れ屋を尋ねてまはつたさうだが――よささうだと思つて目見えに行つて見れば、朝鮮人のうちの小間使ひであつたり――十圓にもなるからと聽いて見れば、お目かけの口であつたり――若いものはまだ迷ふばかりです、わ。",
"なま意氣に、下女と云やア飯炊きばかりだと思つて、人の云ふことを氣に止めないから仕やうがない、さ。"
],
[
"どうです、まだいい口は見附かりませんか?",
"はア、まだ――どこぞよろしいところを、どうぞ――",
"いいところツて、僕の心當りと云ふのは、こないだもちよツとお話した下女の口ですがね。",
"そこでもよろしう御座ります。"
],
[
"然し、僕のおツ母さんにでもしやべつたら行けませんよ。",
"こんなことが云へますものですか?",
"ぢやア、ね、かうしましよう――僕は直ぐ晝飯を濟ませて、新橋ステーションの二等待合室に行つてるから、あなたも成るべく早く入らツしやい。鎌倉へでも行つて、ゆツくりあとの相談は致しましよう。",
"では、さう致します。"
],
[
"ほかにも借りてる人があるのですか?",
"なアに、まだ無いし、一ついい部屋があるから。",
"では結構でしよう。"
],
[
"ぢやア、もうあと戻りをして、ステーシヨンの近所にあつた丁字屋とか、香――何――園とか云つたやうなところへ這入らうか?",
"さうしましよう。"
],
[
"こんなところへ止まるくらゐなら、いツそ鎌倉まで行かう、さ。",
"そして繪ハガキでも買ひましよう。"
],
[
"なぜ別れたの?",
"見込みがありませんもの。",
"そりやア可哀さうぢやアないか、一旦一緒になつて置いて?",
"でも、兄が無理に別れさせましたものですから。",
"兄さんと云ふのは何をしてゐるの?",
"醫者です。",
"あ、それか、あなたが前に一緒にうちへ來てゐたのア?",
"‥‥",
"あなたも隨分あばれ者であつたツて、ね?"
],
[
"あれぢやア、面白くない、ね",
"はア――",
"別な部屋にして貰はうか?",
"どちらでも。"
],
[
"あすは、また圓覺寺を見がてら、その寺内の庵を借りてゐる友人を尋ねて見ましよう。",
"‥‥",
"それから、ね、あなたが谷町へ引き移るとしても、うちのものに知れては困るのだから、表面は――僕の友人で琴の師匠をしてゐるものがある――そこのをんな學僕になつて行くとして置きましよう――どうせ、あなたも琴は習つて置いてもよからうから――"
],
[
"また買つてやる、さ。",
"本統?",
"さう、さ。"
],
[
"ぢやア、あたい損したの?",
"損と云やア損だらう、さ。"
],
[
"それでいい、さ。",
"けれど、僕も困つたよ。"
],
[
"琴をおやりなさい。琴を。",
"へい――",
"そりやア、もう、そのつもりで來てゐるのだから、あすからちやんと教へてやつて呉れ給へ。これは裁縫、裁縫と云つてるが、そんなことは田舍にゐての思ひ付きで、もし琴で一本立ちになれるなら、それでもいいぢやアないかと、僕も話してゐるのだ。",
"そりや、やれんことはない。",
"然し、これの天分があるか、ないか、調べて見なけりやア分らないから、そこは手ほどきを君にまかせたいのだ。",
"君の説に據れば、藝術には天分は入らん、努力ばかりぢやないか?"
],
[
"あんな奴に何で遠慮してやるものか? 人の顏をじろ〳〵見て、さ。",
"そりやア、初めてのことだから、さ。",
"初めてだツていけ好かない!"
],
[
"けふはお前にも飮ませるぞ。",
"あたい、そんなからい物などいやだ。",
"からい物か――一度期にぐいと飮めばいいのだ。",
"でも、醉ふたらどうする?"
],
[
"へい――どこで習つた?",
"お父さんと北海道に行つてた時、さ。――小學校の往き戻りに徒らする男の子があつたから、つかまへて一間ほどほうり投げてやつたら、あたまから雪の中へ突きささつて、をかしかつた。"
],
[
"思ふものにやア思はせて置く、さ。",
"あたいが詰らん!"
],
[
"ある! ある! 妻子と別居すると言ふて、別居もしやせんし、あたいを學校にやつてやると云ふて、ちツともその手續をして呉れせん。",
"そりやア、まだ夏期休暇中ぢやアないか!",
"休暇中から手をまはして置けばえい。",
"大丈夫――そんな心配はすな。"
],
[
"でも、ねえ――",
"違ふ、違ふ!"
],
[
"あの男のことを云ふと、なぜ、さう躍起になるのだ?",
"下らないことを云ふから、さ――燒き餅など、人が聽いたら、見ツともない。",
"ぢやア矢ツ張り、おれのいふことは聽かないで、夜おそくまで話し込んでゐるつもりか?"
],
[
"どこが似てゐるの?",
"‥‥",
"云つて御覽、どこが、さ?",
"どこでもえい!"
],
[
"ぢやア、痩ツこけたところがか?",
"そりや、少し痩せてた、さ。",
"あのきよと〳〵した目玉もか?",
"違ふ!",
"ぢやア、あの高い鼻は?",
"知らん!",
"あのこけた頬は?",
"知らん!"
],
[
"何も、惚れてやせんぢやないか?",
"さうか? ぢやア、まア、似たところが嬉しかつたと云ふだけか?",
"へん、お前の知つたことかい?"
],
[
"もう、夜があけかける、ね。",
"それだから、いやになつちやう――おそくまでも、晝間中でも、勉強するのはえいが、あたいを喜ばせて呉れようとせんのぢやもの。",
"然し、可愛がつてゐるぢやアないか?",
"それが嘘としか見えん。",
"そんなことはない、さ、"
],
[
"へえ――",
"冷かすんなら、いや!",
"冷かしやアしないよ、お云ひ。",
"鼻と顏の樣子が誰れかにそツくり、さ。",
"なるほど――さう云ふ男をお前は好きなのか?"
],
[
"まア、お待ち――それで、なぜ別れたの?",
"燒き餅燒きで、人をぶツたり、蹴ツたりするから、さ。",
"そりやア、ひどい、ね。",
"それに、どすぢや云ふので、兄が籍を入れることを承知しなかつた。",
"どすツて?",
"らい病のことを紀州ではさう云ふてる。"
],
[
"あたいからくツ附いたんぢやない。",
"向ふからでも、つまり、おんなじこと、さ。",
"でも、あたいが兄のとこから學校へかよてた時、兄の友達だから時々遊びに來てた人ぢや。",
"然しお前と一つの學校を教へてゐたのだらう?",
"さう、さ――一度、ほかのものがみな留守の時に來て、寫眞帳など見せたら、あたいのを一枚拔いて持つて行つたことがある。"
],
[
"分るものか――然し、父は承知したのか?",
"父は承知したけれど、兄が許して呉れなんだ。",
"それで、とう〳〵待ち遠しくなつたのか?"
],
[
"兄は兄としても、第一、小學校でやかましかつただらう?",
"だから、あたいが辭職して、その人と家を持つた、さ。",
"どんなところに?",
"人の二階であつたけれど、町はづれの海の見えるとこで、なか〳〵景色がよかつた。",
"そこで乳くり合つてゐたのだ、な――それにしても、二年間も一緒にゐてどうして別れた?",
"兄が承知しないと云ふてるぢやないか?",
"どんなに戸主が頑固だツて、本人同志が好き合つてゐたらいいぢやアないか?",
"では、自分が田邊のやうなとこへ行つて御覽。小學教員などをして、あんなとこに一生暮す氣になるか?"
],
[
"それで、歸つて來いと云つては來ないか?",
"一度來た、さ。",
"いつ?"
],
[
"でも、あの女は、もう一生、小學教員のおかみさん、さ――あたいはこれでもどんなえい人の夫人になるかも知れん。",
"おれの夫人なら、いいぢアないか?"
],
[
"あんな短い保養で、どんな病氣だツて直るものか、ね?",
"でも、いのちが惜しかつたら、どうする?"
],
[
"ひどいことはすな!",
"あたいだツて、痛かつた。"
],
[
"ぢやア、ね、早く車を一臺呼んで下さい。",
"へい、かしこまりました。"
],
[
"然し、少しひどくはないか、ね?",
"ひどいも、ひどく無いも、僕の決心一つでやつてゐることですから――",
"さう云つてしまへば、僕も別にそれ以上の忠告を與へる餘地もないが――君の細君に知られたら、僕が面目ないわけだから――"
],
[
"ぢやア、おれの歸るまで一緒にゐて呉れたらよかつたのに。",
"‥‥",
"實際、寂しかつたよ――手紙もよこさないで、さ。"
],
[
"早く歸らうと思つたツて、金が來なかつたら仕方がない――おれの手紙は讀んだらう?",
"うん。",
"それで初めておれの心が分つたのか?"
],
[
"本郷へは行きやアしまい、ね?",
"本郷ツて――?",
"黒ん坊、さ。",
"まだそんなこと疑つてるの?",
"さうだらう、さ。"
],
[
"でも、ここの奴等はみな氣に喰はん。",
"お政さんの手助けにしようと云ふだけのこと、さ。",
"それで自分の顏が立つか――あたいをここの下女にさせて置いて?",
"だから、おれもそれとなく斷わつたぢやアないか?",
"人間らしいのはまだしも潔さんだけだ。",
"若い男なら、いいのだらう?"
],
[
"あなたのお留守に來た手紙はそのたんびに附け紙をして送つた筈ですが、きのふけふに來たのはそれだけです。それから、その名刺の西洋人が尋ねて來て、いつ頃になつたら歸ると聽いてました。",
"また飜譯でも頼みに來たの、さ。",
"歸つたら、直ぐハガキでも出すからと云つて置きましたから、あなたから知らせておやりなさいよ。"
],
[
"どうかしたのか?",
"痛いの。",
"どこが?",
"‥‥"
],
[
"ぢやア、手療治の道もないことはない、さ。",
"そんなことで直るもんか?",
"全體、いつから痛い?",
"けさから、さ。",
"ひどくか?",
"さうでもないけれど――",
"兎に角、醫者に見せて、早く直す方がいいよ――おれの經驗で見ても、つらいものだから。"
],
[
"自分は醫者へ連れて行かうとしないぢやないか?",
"醫者へ行くつもりかい?",
"行かなくつて、どうする? 一ときでも後れたら、それだけあたいの損だ。",
"そりやア、損どころぢやアない――行くなら、おれがついてツてやるよ。"
],
[
"そりやア、それでもよからうよ。",
"‥‥"
],
[
"世話するものなんぞ入らん! 裁判所へ出てでも、お前から無理に治療代を取つてやる!",
"そんなことはしなくツても、おれが直るやうにしてやる、さ。",
"分るもんか?"
],
[
"‥‥",
"そこの駄菓子屋の娘が丁度あいつが這入るところへ出くわしたさうです――藥り瓶を提げて、いやな顏をしてイたさうだから、きツとあなたのが、案の定、移つたんでしよう――?",
"お前の身代りだと思やア、恨みツこはない筈だ。"
],
[
"宿料ツて――",
"あいつが喰ひつぶして行つた分です。"
],
[
"そんなものア、もう、とツくに取つてしまつた。",
"そんなら、こツちへ渡して下さいな。",
"何も、お前に渡す必要はない――おれが直ぐ使つてしまつた。"
],
[
"よせと云やアよせ! 芝居に出る惡婆々アの稽古でもあるめいし。",
"惡婆々アでも、もとはお好きであつたのでしよう――?"
],
[
"どうです、わたしを一つ役者にしたら?",
"‥‥",
"正直な役者になりますよ。",
"‥‥",
"正直な――忠實な――あなたの思ふ通り働らく――さう云ふのがあなたの前から欲しがつてる女優でしよう? 受け出して貰つたら、直ぐ逃げて行く薄情ものでもなければ、講習生に目見えに行つて、それツ切り歸らないしろ物でもありません、わ。"
],
[
"氣ちがひ!",
"でも、あなたはまた清水をおしまひには女優にする氣でしよう?"
],
[
"分りますとも――わたしにやア、ね、正直の神さまが附いてゐますから、どんなことでも、人が云つて呉れます。云つてくれなけりやア、また、このわたしの心の目に見えます。",
"それが既に氣ちがひの證據だ。",
"何の證據でも、わたしはあなたのやうなお人よしぢやア御座いませんから、ね。"
],
[
"そのつらを見ろ!",
"あなたこそ自分の顏を御覽なさい――今に、あの女は――",
"手めへは、な、あの女、あの女とばかり云ふが、おれはお前の考へてるほど清水に夢中ぢやアないのだ。"
],
[
"馬鹿! 呪ひが早く利くとでも思ふのだらう。",
"さうですとも――あの女の運命がきまつてしまうんです!",
"ふん、同時にまた手めへの死が來るのだぞ、そんな馬鹿な眞似をしちやア。",
"わたしには神さまが附いてゐて、守つて下さいます!",
"よし、それならそれでいいから、おれは意地にも清水をかばつて見せよう。呪ふなら、もツと、しツかり呪へ! 丑滿どきに隣りの寺のあのおほ檜の木の天邊へでも登つて、ハイカラの藁人形を釘打ちにするがいい。さうしてその天邊からころがり落ちてくたばつて呉れりやア、あツちの女にもさぞ利き目が早からう。さうして二人とも同時に死んで呉れりやア、お前には離婚の手續きをしないで濟むし、清水からも手切れ金や療治代を取られないで方が付くし、おれにやア一擧兩得の策だ。"
],
[
"もう何度も聽いた!",
"ぢやア、馨さんを引ツかけようとしたのを知つてますか――あなたの弟御さまですよ?",
"そんなことがあるものか?",
"それだから、あなたは駄目だと云ふんです――馨さんが現在さう云ふんですもの。"
],
[
"馬鹿を云ふな。たツた二圓や二圓五十錢のことでぶツつぶれるやうな商賣は、預けてない筈だ。",
"それはさうでしようけれど――",
"全體、お前とおれとは、な、お前の口調で云やア、同じ星のもとで生れてゐないのだ。迅くに離婚してゐた筈だが、ただ可哀さうだと思ひ〳〵して今までつづいたのア、云つて見りやア、おれのお慈悲だ。",
"いいえ、違ひます――わたしが附いてゐなけりやア、あなたのやうな向ふ見ずは立つて行かれなかつたんです!",
"お前はよく向ふ見ず、向ふ見ずといふが、ね、おれの向ふ見ずは、いつもいつて聽かせる通り、一般人のやうな無自覺ではない。",
"自覺したものが下らない女などに夢中になれますか?",
"だから、人のやうな夢中ぢやアないのだ――身づから許して自己の光輝ある力を暗黒界のどん底までも擴張するので――",
"それがあなたの發展とかいふのでしようが、ね――いいえ、そんなことを云ふやうになつたのは、あなたはここ四五年前からですよ。わたしを茅ヶ崎の海岸などへおツぽり出して置いて、さ、僅か十五圓や二十圓のお金で子供の二人や三人もの世話までさせ、御自分は鳴潮さんや大野さんと勝手な眞似をしてイたぢやアありませんか? わたしが歸つて來てからでも、獨歩や秋夢のやうな惡友と交際して、隱し女を持つて見たり、濱町遊びを覺えたりしたんです。"
],
[
"違ふ!",
"めかけです!"
],
[
"しみツたれ! おれの使つたものア斷じて返さない!",
"ぢやア、今度取れた分から先月の補助を出して下さいますか?",
"やるべき時アやる!",
"それが當てはづれになるから、毎月不足が嵩むんです。",
"何でもいいから、手めへは畜生のやうに子供を可愛がつて、おとなしく下宿屋のかみさんでゐりやいいんだ――もう、用はないから、歸れ! 歸れ!"
],
[
"無論、その通りです。",
"どちらにもよくないから。",
"それやア實際です。"
],
[
"僕は考へと實際とを人のやうに別けて置くことが出來ないのです。この二つが僕といふ自我の氣分で合致してゐるのが僕の生活です。實は、迷ひもない、その代り悟りもない。",
"だから、君はいつもいら〳〵してをる。"
],
[
"然し氣分のいら〳〵するのは、たとへば陽炎が春の野のおもてにちら〳〵のぼるのと同樣で――そのちら〳〵よりほかにかげろふの實質がないやうに、このいら〳〵を除いては、近代的な人間、即ち、宇宙の本體も現象もあつたものぢやアないのです。實質を攫み得ないものは空理に安んじてゐるのです。さうして空理は生命のない死物です。",
"君はただ佛教のいはゆる色即是空の理を大膽に實行してゐるに過ぎない。",
"いや、それだけのことぢやアまだ滿足な説明にはなりません。"
],
[
"そんな下らない迷信はやめろ!",
"それでも、當るから不思議でしよう?",
"詰らないことアよせ!"
],
[
"こんなことがあつては、僕が君の細君に濟まないからと云ふことは、これまでにも、度々君に話してゐた通りだが――",
"いや、分りました。そんなお話しはこれまでにまだなかつたとしても――"
],
[
"ふん、どこへ行つたツて、貴さまなどをあばれ込ませないのはおんなじことだぞ!",
"わたしはここへもあばれ込みはしませんよ、人聽きの惡い!",
"あばれ込んだも同然だ。",
"いいえ、違ひます!"
],
[
"ぢやア、左樣なら――今月はきツとお金を間違ひないやうに、ね。",
"くどい!",
"どこへ隱れたツて、分りますよ。",
"ふん、分らないところへ隱れてやらア。"
],
[
"‥‥",
"野呂間! 意久地なし!",
"‥‥",
"かかアの前ぢや、何とも云へんぢやないか?",
"あれでもかい?",
"さう、さ。――では、離縁の離の字でも云ふたか?",
"云つて、何の役に立つ?",
"役に立たんでかい? めかけ、めかけと云はれて、こツちは人聽きが惡いぢやないか?",
"惡くツたツて、仕やうがない、さ。",
"仕やうのないことがあるもんか?",
"仕やうがない。",
"ないことはない!"
],
[
"ふん! それにやア、藥りを渡してある。醫者にも行かしてある。",
"それが少しも利かんぢやないか?",
"さうやき〳〵するから、さ。"
],
[
"さう、さ――お前が病氣になつてからと云ふものはな。",
"それに、何で直らん?――では、注入を日に二回に増して見ましようと云ふて、さうやつても、矢ツ張りもとの通りだ。も一度温泉に行かんなら、もツとえい病院へやつて呉れ!"
],
[
"あたいが逃げたら、どうする?",
"へん! 丁度仕合はせ、さ――面倒がなくなつて。"
],
[
"然し時間が惜しいのだ。",
"時間が惜しけりやア、ここで勉強したらえいぢやないか!",
"議論なんかになると、參考書がなければ書けない。",
"では、それも持つて來たらどう?"
],
[
"どうだか、へん、分るもんか?",
"それが分らないやうな女ぢやア、色をとこなど持つ資格はない。",
"色をとこぢやない。"
],
[
"わたし、醉つてふら〳〵する、わ。",
"わたしもよ。",
"倒れちやアあぶないです。"
],
[
"仕事に興が乘つてゐたから――",
"こんなにいつも遲くなるんなら、いツそ來ん方がえい。けさも、下の人が迷惑だとおこつてゐた。",
"ぢやア、間貸しをしないがいい。"
],
[
"でも、ね、借りた以上は、その部屋のぬしが遲く出ようが、歸らうが、明け閉てして呉れる義務がある。",
"清水さんが見に來て貸したんで、田村さんに貸したんぢやないツて、めんどくさがつてるぢやないか?",
"そんなら、立て寄せて置いて呉れりやアいい。",
"それも無用心だ云ふてる。",
"何も取られるやうなものもないぢやアないか?",
"箒木一つでも惜しい、さ――それに、下のかみさんはあたいよりえい衣物を持つてる。こないだ、それを自慢さうに出して見せた。",
"羨ましかつたのだらう?",
"そりやさう、さ――自分が買うて呉れんぢやないか?",
"まア、さう云ふな。おれも今考へてゐることがあるから、それがきまつて一と儲けすりやア、何も好きな物を買つてやらア、ね。"
],
[
"君のこの學校に於ける運命もいよ〳〵きまつたやうだ。教授もうまく、生徒にも人望があるからと、どう辯護して見ても駄目であつた――君は校長並びに學監の男爵閣下に受けが惡い。",
"そりやア承知の上だが――すると、僕から辭表を出さうか?",
"まア、それは待ち給へ、僕が時機を見て、また君に注意するから。默つてそツとして置きやア、來年の二三月頃まではいいだらう。",
"僕は、もう、どツちでもいいよ――今度また新しい論文集を出すから、前のと同じやうに惡く注意されるにきまつてるから。",
"それも君の主義から來るのだから、まア、いい、さ――兎に角、何か別な口を見付けて置き給へ、僕も心がけては置くが――",
"今度ア、もう、僕、教師なら大學程度のでなけりやアいやだ――うるさいから。私立のでもいいから、あつたら頼む――が、僕は、それに、全く別な事業をやるかも知れないので――然しこれも商業學校などを教へてゐたおかげだとも思つてゐるのだ。"
],
[
"どこへ行く?",
"一週間ばかり前橋へ行つて來ます。"
],
[
"ああ、今、そこで會ひました。",
"さう――兄さんがおこりやアしないかツて、心配してイましたよ。"
],
[
"ええ、さうですよ。あの人が來いツて、つれてツたの。",
"嬉しさうに、いそ〳〵して、さ、丸で男めかけがお約束にでも出かけるやうなざまであつた。",
"ほ、ほ! 可哀さうに――着たツ切りでも困るだらうと思つたから、寢卷きと不斷着を持たせてやつたのです、わ。"
],
[
"下らないことアよせ――そんなことよりやア、もう、あの重吉が歸つて來さうなものだ、ね、樺太から。",
"あんなものア歸つて來たツて、職工も同然ぢやア御座いませんか――事業の資本なんか持つてませんよ。",
"知れ切ツてらア。",
"あの子だツて、お父アんがゐなさつたからこそ尋ねても來たんでしようが、あなただけでは親類にも人望がありません。人に笑はれるやうな行ひをしたり、出來さうもない事業なんか計畫して見たり、さ。",
"手めへの知つたことぢやアない!",
"でも、ね、おツ母さんも亦越後の娘の方へ行くと云つてますよ。"
],
[
"産れた時の泣き聲を聽いてだ。",
"どう違ひます?",
"活きる奴のは悲痛だ――死ぬ奴のはぼけてる。",
"でも、富美子と諭鶴のは當らないぢやアありませんか? それに、里にやつてあつた赤ん坊だツて、取り返してからも丈夫に太つてますもの。"
],
[
"そりやア、人間は誰れでもおしまひにやアどうせ死にます、わ。",
"ぼけて來りやア死ぬ、悲痛な間は活きる。",
"わたしはまた別な風に考へて見ました、わ、それが例の星ですの。",
"よせ、下らない。"
]
] | 底本:「泡鳴五部作 上巻」新潮文庫、新潮社
1955(昭和30)年7月25日発行
1994(平成6)年1月15日3刷
初出:「大阪新報」
1911(明治44)年12月16日~1912(明治45)年3月25日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、次の箇所では、大振りにつくっています。
「この一二ヶ月でも分りましたから」
※「付」と「附」、「だッて」と「だツて」、「ステーション」と「ステーシヨン」の混在は、底本通りです。
入力:沢津橋正一、富田倫生、富田晶子
校正:雪森
2016年4月22日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "001206",
"作品名": "泡鳴五部作",
"作品名読み": "ほうめいごぶさく",
"ソート用読み": "ほうめいこふさく",
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"副題読み": "01 はってん",
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"初出": "「大阪新報」1911(明治44)年12月16日~1912(明治45)年3月25日",
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[
"おい、あの婆アさんが靈感を得て來たやうだぜ。",
"れいかんツて――?",
"云つて見りやア、まア、神さまのお告げを感づく力、さ。",
"そんな阿呆らしいことツて、ない。",
"けれど、ね、さうでも云はなけりやア、お前達のやうな者にやア分らない。――どうせ、神なんて、耶蘇教で云ふやうな存在としてはあるものぢやアない。從つて、神のお告げなどもないのだから、さう云つたところで、人間がその奧ぶかいところに持つてる一種の不思議な力だ。",
"そんなものがあるものか?",
"ないとも限らない――ぢやア、ね、お前は原田の家族にでもここにゐることをしやべつたのか?",
"あたい、しやべりやせん――云うてもえいおもたけれど、自分のうちへ知れたら困るとおもつて。",
"でも、あいつは、もう、知つてるぞ、森のある近所と云ふだけのことは。",
"森なら、どこにでもある。"
],
[
"うなされてゐたよ。",
"さう――夢を見て、苦しかつた。"
],
[
"熱の方は大分えいやうになつた。依つて、あすからでも、また牛込の病院へゆこか?",
"無理をしても惡いが、なア――おれも然し痔の方は少し辛抱出來るやうになつたから、また耳の療治にせツせとかよはうかと思つてるのだ。",
"こんな二人までも苦しい目に會ふのはをかしい――あたいの寫眞が一つ我善坊に置いてあるから、自分の寫眞と一つにして、あいつがそれを五寸釘でも打つてやせんだろか?"
],
[
"よしんば、そんなことをしたところで、お前とあいつとの間に無線電信でもかかつてゐなけりやア、通じる筈がない、さ。",
"でも、さうして人を呪ひ殺した奴が田邊に一人あつた。",
"そりやア、自分を呪つてると云ふことを傳へぎきでもしたから、神經に負けて、われとわが身を殺したの、さ。",
"でも、自分はあいつに靈感が出て來たと云うたぢやないか?",
"それはちよツとさう思つただけで――きツとそれだとは思つてゐない。",
"でも、若し感づいて、ここへやつて來たらどうする?",
"今まで來なけりやア、もう、大丈夫分りツこはないの、さ。"
],
[
"何が?",
"あいつが、さ。"
],
[
"また喧嘩したのだらう?",
"喧嘩などしやせん。",
"ぢやア、あがらなかつたのか?",
"さう、さ。"
],
[
"どいつも、こいつも仕やうのない女どもだ、なア。",
"でも、皆がをかしな人だ、目ばかりきよと〳〵させて、聽きたくもないことをわざ〳〵しやべりに來て、と云うてゐた。",
"お前も云つたのぢやアないか?"
],
[
"原田かどこかで云つてもらやア、當るのは當り前だ。",
"いいえ、そんなことア――あすこへは云つてなかつたぢやアありませんか?",
"ぢやア、麹町で聽いたのだらうよ。",
"あの方だツて、知りやアしません。",
"貴樣が口どめされてるの、さ。",
"あんなこと! あなたは餘つぽど疑りツぽいの、ねえ。"
],
[
"さうなら、さうとして置け――だが、今囘も葬式に宗教上の儀式は使はせないぞ。",
"そんなことア御勝手におしなさい――また、さう云ふだらうと思つてたんですから。"
],
[
"死んだものなんか、掃き溜めへはふり投げて置いてもいい位のものだ。",
"どうせあなたが死ぬ、死ぬと云つてたから、あの子もその通り死んだのでせうし、うちには誰れも人情にあつい人がゐないのだから――あなたは色をんなのところばかりへ入り浸りになつてるし。馨さんは馨さんで、人の頼んだこともして呉れないで、勉強もしずに、どこかほつき歩いてばかりゐるし。おツ母さんはおツ母さんで、まだお父アさんの一周忌も來ないうちに、娘の方へ逃げて行つた癖に、よこした手紙には、五尺も雪が降るところで寒いから、また歸りたい! も、ないものだ。"
],
[
"殘念だ、ねえ、もう、これツ切りかと思ふと――",
"お氣の毒でした、わ、ね。"
],
[
"下宿人に金を立て換へるときまつてやアしない!",
"あなたは御自分のうちの商賣を御存じないのですよ。",
"商賣はお前が勝手にしてゐるのだ、おれは別におれの仕事がある!",
"ぢやア、あんな目かけなどに夢中にならないで、せツせとその仕事をすればいいでせう――下宿屋は、ね、亡くなられたお父アさんが、やめてしまふのも惜しいからわたしにしろとおツしやつたのですよ!",
"だから、勝手にするがいい、さ。おれは兎に角、今、音樂會に行く金が入るんだ。"
],
[
"知れたことだ、今度の樺太の事業の爲めにやア、家どころか、家族やおれ自身をも犧牲にするかも知れないんだ。",
"あの女におだてられてでせう――",
"手めえにおれの心が分るものか?",
"分つてますとも!",
"ぐづ〳〵云はないで、出せ!",
"樺太の事業だつて、成功するか、しないか、分るものぢやアない――きのふだツて、二百圓よこせの電報が來たのを屆けたのに、どうするんだらう?",
"どうするも、かうするも、おれの考へだ。"
],
[
"狂つてるぢやアありませんか? ちツともうちにゐつかないで――",
"おりやア手前をいやなんだ!",
"いやでもなんでも、家内は家内ぢやアありませんか?",
"だから、早く自決しろと云ふんだ!"
],
[
"また、やつて來て人に恥ぢをかかすのぢや。",
"もう、決してをどり込まないと誓はせてあるのだから。",
"分るもんか、あの氣違ひが!",
"來たら、蹴倒すだけのこと、さ。"
],
[
"毒が這入つてるかも知れへん。",
"まさか――"
],
[
"あの子面白い子だ――あたいも何かたべたい、なア",
"ぢやア、またあすこのあんころかい?"
],
[
"東京にやア、人は多くゐるから、ね。",
"でも、きのふ、あの加集に似た人が通つた。",
"お前あいつを好きだ、ね――?"
],
[
"おれも嫌ひだが、ね、小學時代の友人でもあるし、いろんな口聽きとして役に立つやうだから――",
"そりや自分の勝手やないか――あたい知らん!"
],
[
"どうだ、女優になつて見ちやア?",
"そんなもの、いやぢや!",
"何も顏を赤くしないだツていいぢやアないか?――三枚目ぐらゐのところぢやア、牛耳が取れるかも知れないぜ。",
"三枚目たら――?"
],
[
"お前の決心一つ、さ。",
"決心したツて、成れないこともある。"
],
[
"あいつア馬鹿だぜ――少し足りないぜ。",
"それやア、君のやうに藝者や苦勞人ばかり見て來た目にやア、ね――ありやアまだほんの田舍ものだ。土のにほひが拔けてないのだ。"
],
[
"ぢやア、下のお婆アさんに先づ三味線でも習つてゐるがいい、さ。",
"そんなら、早う頼んでくれたらえいぢやないか?"
],
[
"ぢやア、頼む。",
"然し金のことだから、君も十分に責任を負うて呉れんと――",
"そりや、無論、約束する期限までにやア――"
],
[
"まだ聲を出せないのか?",
"出せば出せるだらうが、下の婆アさんを半分馬鹿にしてゐるから、いけないの、さ。"
],
[
"よく夫婦喧嘩をすると云ふぢやないか?",
"そりやア、また、出來心からだらう、さ。",
"君等と反對だぜ、女が五十で、男が三十四では。",
"僕はさう年を取つてやしないぢやアないか?",
"いや、さ、年の割り合ひがよ――あいつは二十二ぢやさうぢやないか?"
],
[
"‥‥",
"あたいに、こなひだから、いやらしいことばツかり云うて!"
],
[
"兎に角、君が行つて何とかこの場だけは無事に濟ませて呉れ給へ。",
"何でも君の細君を一先づ外へ出して、なだめるんだ、ねえ。",
"ぢやア、頼む!"
],
[
"仕やうのない奴ぢやアないか?",
"それもいいとして、さ、一方も亦大膽ぢやアないか? 見ツともなく袂を握られながら、どうせ來たのだから、わたしもおしまひまでゐませうツて。"
],
[
"どうもあなたに濟まないことがあつてはと思つて――どうだ、大野君、幹事の權利であの二人を追ひ出して貰はうか?",
"それにも及ばない、さ、おしまひまで聽きたいと云つてるし、僕からもこの場では必らず間違ひをするなと云つてあるから。",
"云つたツて、氣違ひが分りやアしない。",
"心配するにやア及ぶまい、あの樣子ぢやア、一方が惡く云やア、圖々しいから、無事に受けてるよ。"
],
[
"そんな誤解をされちやア、僕は實に迷惑します。",
"誤解ぢやアない、實際ではありませんか?",
"馬鹿なことを!",
"馬鹿とは何だ?"
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"そりやア間違ひです――實は、ちよツとした事件の爲めに――",
"まア、君云はないでも濟むことは云はないでもいいんだ――野暮くさい誤解を解きやア。"
],
[
"おれは決して醉つてをらん!",
"醉つてないかも知れないが、飮んでるのは事實でせう、顏に現はれてるから。",
"おれだツて、茶の代りに酒ぐらゐは飮む。",
"飮むのは御勝手ですが、それが爲めに云ひがかりを云はれちやア――",
"何が云ひがかりだ?",
"實際、僕がこの友人に對してすまないことになるのですから。",
"風俗壞亂だ――兎に角、警察署まで行つて貰はう。"
],
[
"もう、あなたがついて來るにやア及びますまい。",
"何だ、警察まで來なけりやならん。"
],
[
"だから、ね、早く田村さんと別れるやうにおしなさい――どうせ、いつか、棄てられるにきまつてますから。",
"‥‥"
],
[
"おれが貴さまを追ツ拂ふやうに大野君に頼んだのだ!",
"おほきなお世話です――かうしてつかまへてる以上は、うちまで引ツ張つて行つて處分を付けます。警察へでも、どこへでも突き出してやる!",
"あなたも少しお考へなさいよ、田村さんの――",
"考へた上のことですから、ね!"
],
[
"あいつが獨り勝手な横暴なことを云やアがるから!",
"ぢやア、わたしはあなたの家庭をおいとま致します。",
"勝手にしやアがれ!",
"そんなことを云ふなよ、君。"
],
[
"僕のワイフは、實際、飯田町へ歸つたのか、なア?",
"大丈夫、君の方へまはつて行つたの、さ――どいつも、こいつも、おどかしやアがつて!",
"わたしは一生懸命です、おどかすの、おどかさないのなど云ふさわぎぢやアありません!",
"默れ! 人をさわがせたぢやアないか?"
],
[
"‥‥",
"それこそ馬鹿げ切つてる!"
],
[
"不都合極まる女だから、千代子をけふ限り引き取つて行くやうにして下さい!",
"義雄さんはいつもさう云ふことをおツしやいます、が、ね、子供があるのにそんなことは出來ますまい?",
"子供などアどうでもいいんです――そんな呑氣なことぢやアありません!",
"またどう云ふことがあつたのか、聽かないぢやア分りませんが、ね――"
],
[
"さうおツしやると、あなたに濟まないやうですが、ね――この娘がこの頃何だかいら〳〵してゐるのは、云つて見れば、まア、病氣なんですから、ね。",
"そんな氣違ひ病人は、母として、直ぐ引き取つて行かなけりやアなりますまい!",
"そんなことも出來ません、わ。",
"出來ますとも! 巣鴨へでも、どこへでも、つれてゆきさへすりやアいいのです――あとの始末はゆツくりお母さんとわたしとで出來ることです。"
],
[
"何かと云やア子供、子供と云ふ! それよりも自分自身のことをもツと忠實に考へて見ろ! 今の女の心持ちも知りやアがらんで!",
"ぢやア、あんな清水鳥のやうなものが今樣美人ですか?",
"清水などア本統の問題ぢやアない! 人のことなどにやア口出ししないで、手前のざまを見ろ!",
"どうせ、あなたの云ふ若々しいものにやア、今更らなれません、さ。",
"手前は、お母さんと同樣、ずツと時代に後れたうじ蟲だから、さう思へ!",
"これでも、武士の――",
"またか、よせ!――武士の娘だらうが、なからうが、活き活きした女の精神が死んでゐらア!"
],
[
"わたしもあなたの御厄介にはなつてゐますが、ね、まさか、そんな物ぢやアないつもりですよ。",
"どうせ分らないのだ! 分らないものがゐるところにやア、おれの家もないのだ――勝手にしろ!"
],
[
"では、病氣を直ぐ直せ!",
"そりやア、仕かたがないと諦める、さ、これまで隨分金をかけてもまだ直らないんだからね。",
"誰れがもとぢや――お前の外にありやせん!",
"今更らそんなことア云つても駄目だ――お前の好きなやうにするがいい!",
"でも、ええ氣になつて、引ツ張られて往たぢやないか?",
"いい氣でもなかつたの、さ。"
],
[
"親さへ生きてて呉れたら、あたいもこんなことになりやアせん。",
"無論だらうが、ね、それでも本人の心がしツかりしてイないと――"
],
[
"あなたの奧さんも隨分、ねえ――?",
"あいつア、もう仕やうがないのです。"
],
[
"さうか――こなひだの連勝をどうして呉れるのだ?",
"また、今度だ。"
],
[
"もう、醉つてるのか?",
"例の、ね、書き割りの監督に行つてたの、さ――いつまで寒いと云ふのだらう?",
"君と一緒に濱町で目がさめると、意外のおほ雪であつたのも、こんな時候であつたよ。"
],
[
"どこへいらせられますか、奧さんは?",
"‥‥",
"どうせ、めかけの口か、さうでなけりやア、下らない電話交換手ぐらゐの話にきまつてらア、ね。"
],
[
"情ないことを云ふなよ、僕はもツと〳〵新らしい生活をやりたいんだ。",
"それも君の説だから惡い事もなからうが――まア、あんなへたなラシヤメンじみた女はペケペケ!",
"だから、どうせ兩方ともやめ、さ。"
],
[
"あの婆アさんは話好ツきヤぜ。",
"さうだらう、亭主がいつも遲くでなけりやア仕事から歸らないから、その間は獨りでぽつねんとしてゐるんだ。",
"田村さんは清水さんにばかりくツついてて、一向下りて來ませんと云うてたぜ。",
"まさか、そんなお相手も出來ないぢやアないか?――そして、君にお鳥を貰へと云はなかつたか、ね?"
],
[
"誰れに聽いた?",
"清水にも、我善坊でも。"
],
[
"二三度行つて見たが、いつも留守でまだ會へん。",
"ぢやア、その方をもツと熱心にやつて呉れたらいいのに。"
],
[
"わたしを何だと思つてるんだよ!",
"‥‥",
"假りのおめかけや、たまに旦那に來て貰ふ圍ひ者ぢやアないよ!",
"‥‥",
"お前の女房だ位は分らない野郎でもあるまい!",
"分つてらア、な。",
"それに何だツて、うちを明けるのだよ?"
],
[
"仲間のつき合ひだから、仕かたがねい、さ。",
"つき合ひ、つき合ひツて、幾度あるのか、ね? そんなつき合ひは斷つてしまひなさいと云つたぢやアないか? 碌にかせぎもしないで!",
"うへの先生でもやつてることだア、な。",
"先生がお手本なら、直ぐ、けふ限り、わたしが斷つてしまふよ。",
"斷るなら、斷るがいいが、ね。",
"生意氣をお云ひでない!"
],
[
"何が生意氣でい――これでも貴さまを年中喰はせてやつてらア!",
"喰はせるだけなら、ね、犬でも喰はせるよ! 米の御飯が南京米になり、南京米が麥になり――",
"何だ、この婆々ア! 見ツともねいことを云やアがつて!",
"なぐるなら、なぐつて見ろ! 働きもない癖に!"
],
[
"婆々ア女郎め!",
"殺してやるから、さう思へ!"
],
[
"あなたはいいとしても、わたしのうちで困ります、わ。",
"あなた、聽えませんか?"
],
[
"二階でせう。",
"へい――"
],
[
"どうしたんです、ね、あなた!",
"‥‥",
"子供達が云ふことを聽かないで、仕やうがないぢやア御座いませんか?",
"‥‥",
"聽えないのですか?",
"‥‥",
"つんぼですか?"
],
[
"たとひかた〳〵の耳はまだ直らないとしても、一方は聽えるでせう?",
"‥‥",
"返事をおしなさい! 子供が――",
"默れ! 子供は、ほんの、かこつけで、貴さま自身がだらう?"
],
[
"して、子供のことぐらゐを處分出來ない女だから、馬鹿なんだ!",
"さうは行きませんよ――",
"よせ!",
"父親があるのに留守ばかりぢやア――"
],
[
"‥‥",
"自業自得で因業な病氣にかかつて、さ、入らないおかねまでつかはせたんですよ!――その衣物だツで、拵へて貰つたんだらう!――あすこに掛つてる白い首卷きだツて、買つて貰つたんだらう! 圍ひ者氣取りで、三味線など彈いて!",
"‥‥",
"さア、わたしの出るところへお出なさい!"
],
[
"そんなことを、奧さん、云ふものぢやアありませんよ。あなたも恥ぢなら、旦那さんにも恥ぢでせう?",
"恥ぢも何もかまふものですか?",
"さう無茶苦茶になつちやア、あなた――まア、下へ來て、氣を落ち付けなさいよ、旦那さんや清水さんには、わたしからまたよく申しますから。"
],
[
"おれに定連を頼むは、眞ツ平だぜ。",
"ええぢやないか、二百圓が出さへすりや?"
],
[
"無論、僕の事業費に追加が必要なのですから。",
"それは加集君からよくうかがつてゐますし、君の事業の有望なのも分つてますが――この急場さへ切りぬけたら、あとはどうでもええと云ふやうな――",
"そんな無責任はしません!",
"無論、君のことだから――然し信用貸しですから、念の爲めに申して置くのです。"
],
[
"然し僕は君の兄さんの文學には反對で、よく攻撃の矢も向けたが――それに關係を及ぼして貰つちやア困りますが、ね――",
"第一、兄とは別に關係のない金ですから――",
"さうなら實に結構です。"
],
[
"どこへいらしツたんでせう、ね?",
"さア――",
"もう、お歸りなさいませんでは、ねえ――",
"さア――",
"女おひとりぢやア、この頃ア物騷ですから。",
"なアに、あいつのことだから、また引ツかきむしるなんかして――"
],
[
"さう、さ!",
"ぢやア、なぜ兄から盜んで來てゐると云ふそのアヒサンで死なない――もう、棄てたのか?",
"あれはもツと大事な場合でなけりやア――",
"二度も三度も死ねる氣かい――うそを云つてらア。"
],
[
"今夜はどうだ、ね?",
"あんまりいいこともねい――もう、締めても――",
"まだ清水さんが歸らないんだよ。",
"へい――珍らしいことだ、なア。"
],
[
"では、これと下で見たセルとにしよか?",
"ぢやア、さうしなよ。"
],
[
"また馬肉かい?",
"うん――うまいぢやないか?"
],
[
"おこつてるツて?",
"丸ツ切り、あいつア氣違ひぢや、なア。",
"おこつたツて、仕かたがないぢやアないか?",
"おれに、お前のやうなものは仲へ立つて貰はん云やがつたぜ。",
"ぢやア、どうすると云ふのだ?",
"直接に話を付ける云うた――おれのうちに隱れてるに違ひない云うて、こはい顏でにらみ腐つた。",
"ここを知る筈アなからう――?",
"無論だ――自分で自分のからだをひツかいたり、君の雜誌を引裂いたり、あのざまを君に見せたかつたよ。",
"うツちやつて置く、さ。"
],
[
"いツそのこと、あいつのからだもたたき毀れたら、肩拔けがすらア、ね。",
"きつう、おこつてるんぢやで――おツそろしいぞ、あいつのことだから――‐鼻にえらい皺を寄せて、きのふも殺す云うてたから、なア。"
],
[
"ゆうべ初めて分つたのですが、ね、あんなおそろしい方は、もう、眞ツ平です、わ――燒けになつていつこの家へ火付けをされないものでも無いのですから、ねえ――わたしも夜おそくまでたツた獨りでゐるものですもの、いざと云ふ場合にやア、女一人でどうすることも出來ません、わ、ね。",
"まさか、そんなことも――",
"いいえ、あなた、どうして――清水さんもまだあなたに未練があるやうですが、あなたもまだ思ひ切れないでせう?",
"僕は、もう、大丈夫ですよ。",
"尤もそれが奧さんの爲めです、わ、ね――清水さんのやうな方は、あなたもさん〴〵もて遊んだのでせう、あの、加集さんにくツ付けておやんなさいよ、大した代物でもないぢやアありませんか、ね?",
"どうとも勝手にさせますとも!"
],
[
"何に使ふのだらう、ね?",
"さア――旦那も、どうです、今一つ發展しちやア?"
],
[
"どうだい、鶴田君は至急運ばせて呉れないか、ねえ?",
"さう迫いても仕やうがありやへん――外へ融通してあるのが、今月末に返る云うてるのやさかい、なア。",
"ぢやア、そツちで少し都合が惡いから、今一ヶ月待つて呉れいとでも云つて來られりやア鶴田君もそれツ切りだらう――?",
"そんなことは無い筈ぢや――それよりや、君の方が九月一杯に返せんと、僕までが面目ないで。"
],
[
"行かうとも!",
"では、早う行かんとかち合ふで――けふの午後二時頃に移つて行く筈ぢや。",
"どこだい?",
"八丁堀の電車通りの裏手ぢや。"
],
[
"わざ〳〵ひどい所を探したものだ、ねえ。",
"でも、安いよつて、なア――いくらだと思ふ?",
"いくらだツて、もう、おれア――"
],
[
"さうだらう、ね――そして氷の方もあなたのうちで――?",
"へい――",
"おい、一つやろか?"
],
[
"そりやア、お前が分らないから、さ。",
"そツちが分らないのぢや――誰れが、いつまでも、めかけなどになつてゐるもんか?",
"さうして、何かい、加集の足かけなどになつたのか?"
],
[
"二人の間には、第一、出齒庖丁が這入つた。",
"‥‥",
"それから、加集が這入つた。"
],
[
"惡くツたツて仕方が無い、さ、――君が、わざ〳〵こんなところを見付けてやつたのだから。",
"そんなことまで僕も氣が付きやせん、さ。"
],
[
"そりやア、さうだがね、今となつちやア、もう、取り消されたのだ。僕自身でこれと僕との間は、切れるなり、またくツ付くなりする、さ。",
"でも、まだ君は取り消してない。"
],
[
"如何に友人間でも、君はおれを馬鹿にしてるよ――僕だツて、一日をほかのことで奔走すりや、それだけ金になるからだを、君の爲めだおもて、この二三日棒に振つてるやないか?",
"然し君はその報酬は得てゐると思ふが、どうだ?"
],
[
"さう云はれると、僕も――然し君の爲めに手を切らせる一つの手段としては!",
"いいや、そんなことは、今更ら意味もない申しわけだ。僕は、だから、何も君のこの二三日のことを責めるのぢやアない!",
"然し――",
"それとも、友人間のことを金にする氣かい?"
],
[
"‥‥",
"僕は豫め云つて置くが、あの女もまたこれまで通りにするか、それとも矢ツ張り手を切るか、それは君にもあの女にも受け合はれないのだ。が、あいつの處分はどツちとも僕自身がすることにきめたのだ。"
],
[
"これまでの僕ほどでは、もう、いかないよ――今のさし迫つた問題は、あの女を生かすか殺すかの問題だ。君が本氣で獨り者だから、少くとも、一生愛してやるか、僕が本氣な同情でかたをつけてやるか? 如何に馬鹿だツて、あいつも、もう、そこまで突き詰めてゐる樣子だから、ね。",
"そんなことを君に受け合ふ必要はない!",
"君は途中から逃げようと云ふのだらう――?"
],
[
"‥‥",
"返事しろ!",
"‥‥",
"どうしてもしないと云ふのなら、今一つ聽くが、ね、お前は一時おれに來るつもりか、または加集に行く氣か、どツちだ?",
"‥‥",
"顫へてゐるのは、自分のしたことを後悔してゐるのかい? それとも、おれを恐ろしいのかい?",
"‥‥"
],
[
"車を呼べ、車を!",
"車なんか來ませんよ!",
"なんだと!",
"あなたはちつとも御存じないのですが、ね、呼びに行ツたツて、向うが、お前さんのとこは信用が出來ないからツて、ね――"
],
[
"ありやア、醤油入れでした。",
"それに、大層吐きましたから、な――多分、酒を飮み過ぎたのだらうツて、醫者は下劑をかけて歸りました。"
],
[
"なアに、失敗と云ふわけでもないのでせう、ね、ただ僕がまだあの子に愛情が殘つてゐて思ひ切れなかつたのが惡いのでした。",
"それもさうでせうが、な、女なんかいくらもありまさア――わたしのうちのでも、抛り出しさへすりやア、直ぐあとが二人も三人も待つてまさア。"
],
[
"道樂の爲めに、好きでこんな商賣をしてゐますんで――",
"百面相ツて、どう云ふことをするのです?"
],
[
"さうだ、死にさへすりやア、おれが加集をも呼び付けて、墓地の奔走をさせ、おれも尋常に見送つてやつたのだが、ね、死にそくなつちやアまた問題が起るぞ。",
"起るも起らんも無い――あいつは、あたいが、わざと、世話が出けるか云うて念を押してやつたら、返事が出けなかつたさかい、追ひ返してやつた。"
],
[
"可愛がつてなど貰はんでもええ!",
"うん、さう諦めてゐさへすりやア、おれはまた一肌拔いで、お前の處分を付けてやつてから出發するよ。"
],
[
"さうだ――君自身がその權利を、けさ、抛棄したのだ!",
"おれだツて、若しやとおもてやつて來たのぢや、人情は持つてらア――この二三日、大事な時間を棒にふらせやがつて!",
"口錢が欲しけりやア金でやる――友人呼ばはりするな!"
],
[
"貴さまのやうな奴が、ね、自分の色女をおしまひにやア賣り飛ばすのだぞ!",
"賣り飛ばされるやうな女ぢや!"
],
[
"お前も、どこかそんないい口を見付けろよ。",
"あたい、そんなことせんでもええ!",
"獨りで立つて行けるかい?",
"その學校さへ卒業すりや――",
"あやしいもの、さ、ね。"
]
] | 底本:「泡鳴五部作 上巻」新潮文庫、新潮社
1955(昭和30)年7月25日発行
1994(平成6)年1月15日3刷
初出:「中央公論」中央公論社
1914(大正3)年6月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「ポケット」と「ポケツト」の混在は、底本通りです。
入力:富田晶子
校正:雪森
2016年9月9日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "051870",
"作品名": "泡鳴五部作",
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"初出": "「中央公論」中央公論社、1914(大正3)年6月",
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[
[
"そんなに安いものなら、僕も少し買つて置きたい、ね、食後に二つ三つづつ喰ふのに――",
"もう、遲い――これをやり給へ、澤山あるのだから――暫らく立つと、また捨て賣りの時期が來る。買ひに行くのはその時にし給へ、それまで君がゐることになるなら。",
"どうせ、僕、今も細君に話したことだが、暫らく御厄介になるよ、迷惑はかけないつもりだから。",
"そんな心配には及ばないが、君さへよければ、いつまででもゐて呉れ紿へ――その代り、何のおかまひも出來ないのを承知して置いて貰はなけりやア――",
"かまつて貰つては却つて僕が困る――今の場合、僕は大道で乞食をしさへしなければいいのだ。"
],
[
"小樽の人で、樺太の鰊取り――",
"鰊取りなど、當てになりませんよ。"
],
[
"どうして?",
"どうしても、かうしてもない――事業が持ち直る樣子なら、僕は例の、君にも話したお鳥をつれて、再びあちらへ渡り、マオカで越年しながら、東京の或新聞に長篇の小説を書いて送りたいのだし――"
],
[
"つまらないぢやアないか?",
"つまるも、詰らないもないことだ――今僕はどの面をさげて東京の友人等に會はれよう?",
"友人も友人だらうが、細君が困つてやアしないか?",
"今も云つた通り、家を處分して、困らんだけの方針をつけるやうに命令してゐるのだから、それ以上に僕は責任がないのだ"
],
[
"どうして?――寒いところは厭だ、厭だと不斷云つてゐるのに?",
"石油が入らないから――"
],
[
"色女と暮しながら、原稿を書いたり、讀書したりするにやアいい、ね。",
"君の嫌ひな子供ばかり出來て困るだらうよ。",
"そりやア、また別なこと、さ。"
],
[
"どう思ふとは?",
"女に就いて、さ――?"
],
[
"早く出し給へ、――早く。",
"出すのはわけアないが、金主の方が先づしぶり出して――五千圓出せば、三千圓を初號にかけ、その殘りを二號にまはさうとしたら、さう行かないうちに風向きが變つた――金主が山で一大失敗をやつたのぢや。"
],
[
"そんなかねがあるのか?",
"ない、さ。",
"それぢやア駄目、さ。",
"無論、駄目の話だが――"
],
[
"ゐられるなら、當分ゐたいと思ふのだ。樺太を研究したから、北海道をもついでに研究したいと思ふし、また、出來るなら、何かやるべき事業をも思ひつきたい。",
"やり給へ、北海道は新開地だけに、僕等の樣なあんこにでも仕事をさして呉れる。内地とは違つて、なか〳〵面白いよ。――君はどんな感じがする、ね?",
"何だか、外國じみた感じがする。然し、どことなく、なつかしくなつて來た、僕には。",
"さうだらう。僕は北海道が故郷も同前ぢやから、なつかしさも君のとは違ふだらうけれど、内地と變つて、萬事が大きい。第一、石狩原野や十勝原野の樣な廣漠たる風景はなからうし、諸方の炭山事業も規模のああ大きいのは他にすくなからうし、住んでをる人間その物が片田舍のどん百姓でもなか〳〵馬鹿にならん。君の著書などをも讀んでをるものは、隨分、あちらこちらにあつて、全體に讀書力が進んでをる。それぢやから、僕の雜誌も出さへすれば隨分見込みがあるのぢや。",
"兎に角、滯在してゐるうちに、どうかして、北海道を旅行して見なければ――",
"まはつて見給へ。有馬君は餘り出たことがない樣ぢやが、北海道を知るには、十勝原野を見なければならん。それも秋がよい。四方八方の紅葉した以平高原の如きは、天下無雙ぢやから、な。"
],
[
"君の政治的目的も着々はかどつて行くだらうよ。",
"僕はこの頃ます〳〵歌人としての狹い世界がいやになつた。氷峰とはあの歌讀みではないかなど云つて、僕を實際に知らない人間は僕の實業雜誌主筆たる信用を輕んずる向きがまだあるのぢや。――然し、北海道なるものを適切に歌つた短歌はおそらく僕のが初めだらう。○○氏の如きがゐ坐わつてをつて北海道を歌つたのなどと來ては、實にお話にならん――槲の木一つの形容でも、その葉が實際にどう光るかといふことを知つてをらん。",
"そりやア實際だらう、さ。"
],
[
"それもよからう。出版元がただで廣告出來るんだから。",
"それよりも君が一人でも未見の友人のふえる方がよからう。"
],
[
"それもありがたいことは有難いが、それよりやア僕を一度その十勝原野の樣な廣いところの眞ン中へつれて行つて、獨りで思ふ存分寢たり、起きたりさせて貰ひたい、ね――あんまり、樺太で精神を勞したから、その餘波だらう、考へると、この現在でもあたまや胸が、――もう、からだ全體だが、――煮えくり返つた跡の樣に氣が遠くなるのをおぼえる。",
"そりやア神經衰弱だらう。僕等も新聞記者時代には、よくそんなことがあつた。社が貧乏の爲め退社するものが多くなり、社長兼主筆は燒け酒ばかり飮んでをるのを、僕ばかりで一面も二面も三面も書いたんだ。溜つたもんぢやない。一晩の徹夜で、頬ツぽねが神居古潭の巖石の樣に出たと云はれた。"
],
[
"それよりやア、まア、僕のところへ來て遊んでゐ給へ、君さへかまはんなら。有馬君は妻子があるけれど、僕は獨身者ぢやから、遠慮はない。",
"さう頼みたい、ね。"
],
[
"そんなことア易いことだ。",
"易いと云うても、どうせ雜誌が雜誌ぢやから、文學物は向かないから、先づさし當り、『田村義雄は何故に蟹の鑵詰製造家となりしや、』こんな問題で、一つ書いて貰ひたい。",
"書くとも、さ、自分が自分を思ひ切り投げ出して、而も自分の根柢を離れてゐさへしなけりやア、如何におほびらに自分のことを善惡共に語つても、決して恥ぢることアないんだから――第一人稱が乃ち第三人稱、主觀的が乃ち客觀的、破壞が直ちに建設だ。",
"僕の樣な俗物にはよく分らんが、君の小説描寫論はさう云うた樣な議論ぢや、なア。",
"さうよ。君やア讀んでゐたのか?",
"新聞紙上のはよく讀んでをつたぞ。"
],
[
"それくらゐのことがまとまらないでは、昔の北劍も老いたり焉ぢやから、なア。",
"おれだツて、か、可愛さうに、それくらゐの、う、腕はあるとも。",
"まア、しツかりやつて呉れ給へ。",
"道會議員に打つて出ないかと勸めるものがあるのだよ――おれの地盤は充分堅いからと云うて。",
"やつて見りやアどうぢや?",
"然し道會ぐらゐに出るつもりなら、お、おれだツて、今までぐづつきやアしなかつた、さ。",
"議長になツたツて、知れたもんぢやから、なア。"
],
[
"僕は新聞記者の浪人だが、い、行つてもよい。",
"實は、ゆうべ、田村君が來たと分つてから、巖本君に會つたので、同君に奔走して貰ふことを頼んだ――メールで奔走しないと、來んものが多からうと思うて。",
"それもさうだ。"
],
[
"計畫と云うて、別にないぢやないか? きのふ云うたことだけは僕が引き受けるから、その跡を君がやつて呉れたらよいのぢや。",
"それは分つてるが、第一、いつまで御滯在やら――",
"田村君は暫くをるから、この土曜日がよからう。",
"日はそれとして、場所だ。"
],
[
"あなたの御滯在中を幸ひに、一つ自然主義の説明をして貰ひたいと思ひます。",
"説明と云つて――僕が新聞や雜誌で書いたのと別に違ひませんよ。"
],
[
"そりやア、おれの書いた論説でも、明る日讀んで見ると、何のことか自分でちよツと分らんことがたまにはある。",
"そんなもん、さ。讀む人が自分で發明するより仕やうがない。",
"僕も書物だけはいろんな人のを買つてある。然し、どうも、いそがしいので、讀むひまがない。",
"北海メールの編輯はつらいから、なア。",
"實際だよ――僕もいつまでもやつてをる氣はない。"
],
[
"何を買つて來たんぢや?",
"燒きもろこし、さ。",
"好きなのか?"
],
[
"それでも、前に來た時、あなたはゐませんでした。",
"あの時は、わたし、山へ歸つてをりましたから、お母さんが代りに來てた時でせう。"
],
[
"兄さんは、もう、出たの?",
"出たのよ、直き歸ると云うて。",
"ゆうべはどこへ行つたの?",
"お客さんと一緒にお女郎買ひ。"
],
[
"その代り、ゆうべだけは夢を見なかつたでせう?",
"矢ツ張り、見たのよ。島田さんとわたしとが何か面白いお話をしてたら、大きな、堅い物があたまの上へ落ちて來るんでせう――それが火の出る樣にがんとわたしのあたまに當つたかと思うたら、目が覺めたの。",
"ぢやア、またお父さんに蹴られたの、ね。",
"わたし、恥かしくもあるし、つらくもあるし、どうしようと思ふのよ。けさ、起きたら、直ぐお父さんが、いつもの通り、『色氣違ひめ、またうはことを云やアがつた』て叱るんでせう――",
"お父さんの足もとにあたまが行く樣な寢かたをしてをるから、行けないのだ、わ。",
"仕やうがないんですもの、それは――家が狹いんだから。",
"では、夢でのお話はおよしなさい。",
"わたしだツて、さうしたいことはありません、わ。けれども、夢に見るんですもの。",
"毎晩、癖になつたの、ね。",
"さう、ね。",
"わたしなら、いやアだ。",
"わたしもいやです、わ。",
"お鈴さんがそれをいやになつたら、兄さんをいやになるわけ、ね。",
"兄さんは好きよ、好きだから夢にまで見るんでせう。",
"色きちがひ、ね、あなたは?",
"あら、いやアだ、お君さん、兄さんにそんなこと云うたらいやよ。",
"云うてやる、云うてやる。",
"いやアよ、いやアよ。後生だから、そんなことは――",
"兄さんだツて、嬉しがるだらう。",
"後生だからよ。"
],
[
"靜かにおしなさい、お客さんに聽えるよ。",
"え? ゐるの?",
"寢てゐるの。",
"聽えやしなかつたでせうか?"
],
[
"あれはお隣りの娘さんです。",
"お鈴さんといふの?",
"ええ。",
"氷峰君に大層惚れてゐるんだ、ね。"
],
[
"いくつ?",
"わたしに一つ下。",
"では、十九? 十八?",
"そこらあたりでせう。",
"太つてゐるの? 痩せてゐるの?",
"太つてをります、わ。",
"美人?"
],
[
"誰がそれを見たの?",
"うちのお母さんが――その時、お母さんもついてをつたので、寢たふりをしてお鈴さんの樣子を見てをつたのだ、て。"
],
[
"誰れに聽いた?",
"今、その二人で祕密談をしてゐるのを、ここで寢てゐて聽いたの、さ――隣りのが君の夢ばかり見て、またおやぢさんにあたまを蹴られたと云ふぜ。",
"あいつにも困るのぢや、丸で色氣違ひの樣になつてゐやアがる。親の方から交渉があつたが、それとなく逃げてゐるの、さ――どんなに野暮臭くても、脊が低くても、別嬪ならまだしもぢやが――僕は當分君の樣にかつゑてはをらんぞ。お君は妹にしてあるが、實は僕が育てられた兄の兒で、兄はどうせ一緒に育つたのだから、夫婦になれと命令するが、僕はいやなんぢや。叔父と姪の間だから、無論、あやしい關係はない。"
],
[
"また十勝の女のお自慢か?",
"それもさうぢやが――"
],
[
"どうして?",
"でも、二晩もつづけて遊びに行くから――けふ、社員が云ツつけてをりましたよ。"
],
[
"まア、今月一杯はあちらにゐるらしい。",
"當てにせずに待つ、さ。"
],
[
"樺太といふところはどんなところでせう?",
"いいところですよ。",
"一度行つて見たい、わ。",
"ぢやア、僕と一緒に行つて呉れますか?"
],
[
"君がまだこちらにゐるとア夢にも知らなかつた。もう、かれこれ十四五年だらう――どうだ、地位はいい加減進んだらう?",
"なアに、まだ一部の掛り長だ、俸給と手當を入れて、月小百圓ばかりだ。",
"まア、それでもいい、さ――しツかりやり給へ。",
"いつまでも、こんなこツちやアやり切れないよ。"
],
[
"今夜、こツちでとまるか、ね?",
"島田君が芝居へ行つた留守だから、こツちへ歸つて來るよ。"
],
[
"ゆうべ、隣りのと行つたのぢや。はねは十一時頃であつたが、途中できやつがすね出したんで、あツちへ行つたり、こつちへ行つたり、さ――歸ると云つて見たり、歸らんと云つて見たり――どこかへちよツとつれ込めばよかつたらうが、僕はまだそこまで決心してをらぬから、他日若し拒絶する樣なことがある場合の邪魔を殘しても困るで、なア――人通りのない街をただぶら附いて、一時頃に歸つたのぢや。",
"然しさうじらして置いて、いよ〳〵本物の色氣違ひにでもなつたら、可哀さうぢやアないか?",
"大丈夫、さ。お君の件もさうぢやが、年頃の女といふ奴ア、思ひつめると、死ぬほど熱心にもならう。然し、また、獨り手にさめて行く時があるものぢや。思はれたが最後、それを待つてをるより外に、逃げる道はなからうと僕は思つとる。たとへば、お君は今大分さめて來た時で、お鈴は今熱した絶頂に達してをる時ぢや。",
"さう云ふ風にあしらつて行けるなら、君もなか〳〵えらいよ。"
],
[
"何の用だらう?",
"何か未墾地のことに就いてだ、君が牧草培養の話をしてをつたからと云うて。",
"ぢやア、これから行つて來よう――實は、ゆうべ、鐵道に出てゐる舊友に會つたら、牧草地に適する賣り物があるといふ件もあるから。"
],
[
"そんな婆アさんらしい、ね。",
"おやぢがあつても、別に女と住んでをつて、自分を相手にして呉れないから、獨りで浮氣をしようと云ふのだらう。"
],
[
"それに、雜誌はこの通り刷り上つても、これを受け取る金があすまでに出來るか、どうか分らん。僕もよわつた、なア。",
"然し雜誌の方は社長がどうかするだらう、さ。",
"それにしても、僕の入用があるのぢや。今、頻りに人を持つて呼び出しに來る女があるから、あす逢うてやつて、それから二三百出させようかと思うてをる。",
"男めかけに行くのかい?"
],
[
"立派なものだが、賣れて呉れないと困る、ね。",
"それは僕に充分考へがある、さ。――初號を出したら、直ぐ新聞記者がはへ披露會をやるが、君にも來て貰ふぞ。",
"そりやアありがたい、ね。"
],
[
"野郎同志では仕やうがない、なア。",
"然し、あの婆アさんぢやア溜るまいよ。"
],
[
"醉ひました、なア。",
"わたくしもこんなに醉つたことはないの。",
"もツと飮まうか?"
],
[
"えい〳〵、燒きますとも――その代り、また芝居でもおごつて貰はねば、な。",
"おごりますとも、さ――芝居だけ?",
"いいや、芝居に、あづま壽司に、西洋料理に、丸井の呉服に――"
],
[
"何か、もツと身のあるものなら、結構だ。",
"さうだ、なア。"
],
[
"だツて、あなたはおもしろい人だ、わ――隣りのこの花さんのお客までが吹き出してをりました、わ。",
"吹き出すものは吹き出させて置くがいいぢやアないか? まさか出來物ぢやあるまいし、膏藥を張るわけにやア行くまい。",
"わたし、あなたの樣な人が好きよ。"
],
[
"どう返事をしたのだ?",
"車屋に持たせて來たのぢやが、僕は無論ほかに女がある、貴孃にその中へ這入られては邪魔だ。僕から要求した金も、他で工面するから、入らないと書いてやつた。女といふ奴はいやなもんぢや、もう、燒いて來たのぢや。",
"そりやア當り前だらう、一度でも關係しちやア。",
"然し、僕の要求は少しも果さないで、そんな勝手なことが云へる筈ぢやない。",
"それもさうだらうが、君の思ひ切りがいいのにも感心すらア。",
"君に感心して貰つても、一向金は出來ぬ。",
"然し向うの身になつて見給へ、な。",
"あれだツて、娘ぢやと云うてをるけれど、何物ぢやか分るものか!",
"さう考へりやア一言もない、さ――女郎を君が胡魔化すのと同じだから。",
"それも、僕が本當に惚れたのなら、別、さ。"
],
[
"ぢやア、おれは來てやらないでもよかつたのだ。",
"何ぼでも、お客が多い方がいいぢやないの?",
"然しさう多けりやア、また、おれとばかりしツぽりといふわけにやア行くまい?",
"だから、明けて置いたとお思ひよ。",
"親切だ、ねえ、この子は。",
"親切ですとも、あなたには。――今晩は、もう、店へ出ないの。"
],
[
"然しさう云つて呼びに來たら、矢ツ張りお客に出るぢやアないか?",
"いえ、出ません、わ、今晩に限り――病氣だと云うて。――實際、けふはいそがしかつたもの。"
],
[
"こツちこそよろしくです、わ。――高見さんは?",
"けふは會はないから知らない。",
"ひどいの、ね、あなたばかり來て。"
],
[
"はい〳〵。",
"あなたのやうな呑氣な人のお話は面白いから、また聽かして頂戴よ。"
],
[
"仕やうがないから、おれも仕やうがない、さ。",
"では、歸ると云ふの?",
"ああ、歸れと云ふなら、歸る、さ。",
"誰れも歸れとは云はないぢやありませんか?",
"ああ、誰れも歸れと云はない、さ。"
]
] | 底本:「泡鳴五部作 下巻」新潮文庫、新潮社
1955(昭和30)年7月25日発行
1994(平成6)年1月15日3刷
初出:「放浪」東雲堂
1910(明治43)年7月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、「三名の番屋が三ヶ所に」以外は大振りにつくっています。
入力:富田晶子
校正:雪森
2016年9月9日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "051867",
"作品名": "泡鳴五部作",
"作品名読み": "ほうめいごぶさく",
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"初出": "「放浪」東雲堂、1910(明治43)年7月",
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"けさから、さう云つて置いたぢやアないか?",
"それならさうと承知してをりますと、番頭の方ではお待ち申す手筈に致して置きますが――敷島さんが何ともお話がなかつたので――"
],
[
"來たのぢやアない、歸るのだ!",
"どうして?"
],
[
"生憎で、それは仕かたがないとして、さ。",
"實際、仕方がなかつたのぢやアない――承知してゐながら、部屋を塞げたんだ。"
],
[
"晝間からよ。",
"晝間から? ぢやア、お前がさツき云つたのとは違ふ。",
"どうして、さ?"
],
[
"お前に取つちやア、客が一人でも殖えさへすりやア本望だらう――僕はそんなことを云ふんぢやアない。",
"わたしが濟まんことをしたのが惡かつたの、ね、許して頂戴。――直き來るから、おとなしくして――"
],
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"ぢやア、もう、どちらでもいい――うるさい!",
"うるさいのはあなたの方でせう――?"
],
[
"どうかしましたか?",
"何を?",
"先刻はほかのお客と喧嘩らしかつたので――",
"ああ、あれか?――何でもなかつた。"
],
[
"とん、とん〳〵。",
"ちやん、ちや〳〵ちやん。",
"は、どん〳〵。",
"こりや〳〵。"
],
[
"いや、けふは直ぐ島田と一緒に歸る。",
"さう急がんでも――ぢやア、これツ切りだと云ふの?",
"或はさうかも知れない。"
],
[
"樺太の方は全く駄目ですか?",
"うん、先づ駄目と斷念してゐるから、何か一つ北海道でやりたいのだ。",
"君のいつか話した牧草培養でもやり給へ――僕の名義で出願した百萬坪が許可されたら、その半分は僕が貰ふつもりだから、君にも分けてやらう。"
],
[
"全體、どう云ふ話なんだ?",
"なアに、今度道會議員の遠藤長之助君が、土木勸業調査員として、膽振、日高、天鹽、後志、渡島などを巡廻するので、丁度場合がいいから、うちの社長が遠藤君に説き勸めて、君に隨行を頼むことにしたんだ。君も、不服はなからう――費用は、すべて、遠藤君が道廳から受け取る分から出るんだ。",
"そりやア、好都合になつた、ね。",
"然し、北海道を囘るには、馬でなければ行かんので、君が馬に乘れるか、どうだらうツて心配して居つたぞ。",
"馬と云つて、どうせ驛遞馬だらうから大した心配にやア及ばない、さ。",
"乘れるか?",
"乘つて見せる、さ。僕も子供の時乘つた切りだが、樺太にまた行くとすりやア、どうしても馬の稽古をして置かなけりやアならないと思つてゐるところだから――",
"ぢやア、あす、遠藤君に會つて見給へ――それに、和服では馬の上が寒いから、洋服をどうか都合すると云うてをつたから。",
"では、あす、會はう――ところで、今夜、とめて貰へないか?"
],
[
"‥‥",
"おれに二千五百圓足らずもつぎ込ませて置いて、まだ雇ひ人根性でをるのか?",
"‥‥",
"返事せい、氷峰! おれはお前の兄から頼まれて、お前の爲めに出してやつたのぢや。",
"然し雇ひ人扱ひをすれば、雇ひ人ぢや。",
"さうひねくれるものぢやないぞ。誰れがこんな事業に澤山なお金を無條件で出すものがある? お前の爲めならばこそぢや。",
"そんなら、その樣にやらせて呉れりやよからうぢやないか? 僕を信じないで、會計を置いたのはまだしも惡いことはない。然しその會計がかういふ仕事に不慣れな爲め出て來る疑ひを、直ぐ僕が不都合でもしとる樣に思ひ取るのは、社長として、間違ひぢやと思はれる。",
"おれも何も知らないのぢやから、會計にもよく分る樣にお前が云うて聽かすがえい。",
"いくら云うても分らなければ仕かたがない、さ――今の樣なことを云うて、僕につツかかつて來るのは失敬ぢや。少くとも、僕は社長に次いで、主幹といふ名義になつてをるのぢや。",
"そりや會計も、主幹の云ふことが分らんのに直ぐおれのところへ苦情を持ち込むのは惡い。"
],
[
"無論、さうして貰はねば困る。新聞や雜誌の事業は山の鑛夫を使ふ樣には行かんものぢや。然し、社長、ここ、少くとも百圓の手金を打たねば、印刷屋が原稿を組み出さんぢやないか?",
"だから、おれがそれだけは工面してやると云うとるぢやないか?"
],
[
"それぢやから、新らしい事業はうか〳〵してをられん――直ぐ他人が嗅ぎつけてしまふから。",
"本當だ、ねえ。",
"あれも、然し、おれが相手にせなんだので、困つてをるだらう。",
"そりやア、どうだか分らない。"
],
[
"これはどこにあつたのだ?",
"夜店で買つたのだ。",
"おもしろさうだから、旅行から歸つたら、貸して貰ふよ。",
"それもいいが、君がそんな考へだとは氣がつかなかつたから、一つ僕等の組織してゐる神主等の會で演説して貰ひたい、ね。君も知つてる通り、僕は國學院出の學校教師だけに、今でも神主には交際がある。",
"それはやめ給へ、演説をやるのはいいが、僕の思想には激烈な點もあるから、君の迷惑を引き起しても氣の毒だから。"
],
[
"どうだ、似合ふか?",
"さうだ、なア、まア、二十圓の判任官ぢや。"
],
[
"何のことだ、ねえ?",
"パン、ペン、ペンシル、ポンビキ、ペラ〳〵ペラ!",
"丸で毛唐人の樣だ。",
"ブラボー、ベラボー、ぶんぶく茶釜。",
"およしよ、はんか臭い!"
],
[
"おれはそんな下らないことアしないよ。本當のことを云つてるんだ。",
"わたしがこの曲輪ばかりに押し籠められて、世間へ出られないのをいいことにして、何とでもうそは云へる、さ。",
"お前はよツぽど疑ぐりツぽい女だ。それでなけりやア、よツぽどうぬ惚れ屋だ。おれは、まだ、そんなことでお前を喜ばせるほど、浮氣な修業はしてゐない。",
"それでも、また、一と晩ぐらゐ、高砂樓の花ちやんのところへでも行つて、歸つて來るんだらう?",
"馬鹿云ふな――こないだだつて、實際、岩見澤まで行つて來たんだ。",
"では、繪ハガキでもよこしやアえいのに――",
"そんな暇がなかつたぢやアないか――一と晩とまつて、その明くる日の晩にやア、ここへ來たではないか?",
"だから、をかしいと云ふの、さ、長く行つてる樣なことを云うて、直ぐまた來るんだもの。",
"來たら、惡いのか?",
"惡いのではない、さ――うそ云うて、ちよツとほかへ氣を拔きに行くのだらう、さ。",
"女郎ぢやアあるまいし、ね。"
],
[
"さう、さ。そして、汽車の利くところでないから、馬乘りばかまの代りにこの洋服が出來たのだ。",
"わたし、寂しいよ。",
"しをらしさうなことを云ふな――お茶を引くぞ。"
],
[
"早くも遲くも、用があつて行くのだから、それが濟み次第だ。",
"ぢやア、ハガキでも、手紙でも、よこしなさいよ。",
"うん――そして、左近さんにも、お前にも、繪ハガキがあつたら送つてやる、さ。"
],
[
"ゆうべ、うちのが早くお知らせするがいいと申し、井桁樓とかへ電話をかけに行きましたが、そんな人は來てをらんと云うたさうです。",
"行つてたことは行つてたのですが、僕の名を本當におぼえてゐなかつたのでせう。",
"それで、島田さんや、巖本さんのところをたづね囘つたさうです。"
],
[
"何にしてもお出でになるのでせう――?",
"然し迎へには行けないから、獨りで來いといふ電報を途中の驛まで打ちませう。",
"それで屆きますか?",
"列車が分りさへすれば、本名を云つて屆くでせう。",
"けれども、その列車が――?"
],
[
"あなたのお留守にお出でになると、どう致しませう?",
"濟まないが、僕の歸るまであなたのうちへ頼みます――蒲團は借りさせて。"
],
[
"ゆうべ、實は、東京から電報が來て、こちらへ出向くから青森まで迎へに來いとあつたのです。然しこの場合、獨りで札幌まで來させるより仕方がないので、さう電報を打つつもりです。",
"岩見澤で乘り換へですから、あすこで打つのがいいでせう。――さうより仕方が御座いません、なア、今、あなたに拔けられちやア困りますから――"
],
[
"送るにも、金がなかつたのだ。",
"それは、不自由なこともあつただらうが、賤業婦などに入れあげる金はあつても、わたしの方の約束は履行しないのですか?"
],
[
"そして、加集は御無事か?",
"あんな奴ア見るのもいやだ!"
],
[
"第一、旅費はどうしたのだ?",
"兄の友達が來てゐたので、その人に借りて來たの――それは、直ぐ兄から返して貰つたから、心配は入らない。",
"兄にはどう云つて置いた?",
"どうも云やせん――自分の親の家へ自分が歸るのだもの、當り前のことだ。それを姉は、他人だから、何とか、かとかけちな厭みを云ふので、兄はかげで、あんなことを云はれても、さう心配しないでをれと云うて呉れた。あの東京で質に這入つてゐる衣物がないので、どうしたと聽くから、預けて來たと云うて置いた。母のかたみだから、大事にせいツて――それから、下駄を買うて呉れた。",
"實際のことが知れたら、なか〳〵そんなあまいことぢやアないぞ。",
"その時は、お前もそのままにはして置きやせん、さ。",
"兄がおれを殺せるか?",
"妹の爲めだもの、殺す氣なら、どうしてでも殺す、さ。"
],
[
"さう憎いのか?",
"憎いとも――病氣を直さないと、殺してしまふぞ。",
"然しおれが死んだら、お前の藥り代が出まい?",
"どうせ、こちらが死んでしまふお伴にするのだ。",
"よして呉れよ、そんなお伴は――さうして、今までどこにゐた?",
"いろんなことをしたのよ、お前が金を送つて呉れないから、道具などは賣つてしもたし、――喰ふにも困つて、電話交換局なら口があると云うて呉れた人もあつたが、それでは寫眞が習へんし、――人仕事をして見たり、下女をして見たり――",
"どこの下女よ?",
"先生のところの。",
"寫眞學校のか?",
"うん。",
"くどかなかつたか?"
],
[
"それでもいいぢやないか?",
"お前で凝りたから、ね。",
"凝りたら、なぜ來た?",
"ぢやア、病氣には誰れがした?",
"初めはおれだらうが、あとは知らない、さ。"
],
[
"お前こそ大きな聲だ。――生徒の方にもあつたらう?",
"ああ。",
"それと浮れ歩いてゐたのだらう?",
"そんなことはない、寫生の時は先生も一緒に行くから。",
"行かないで、生徒が勝手な寫生の時もあらア。"
],
[
"それぢやア、どうしても、浦河からさきは本道路はつきません、な――よし、つけたところで、幌泉までの狹い道でよいのでせう。日高から十勝の聯絡は、あの猿留の難道が厄介物だから、矢ツ張り、浦河支廳の計畫線通り、あれをよけて通すより仕かたがない。",
"そりやアさうでせう――あすこをまはる必要はないでせうから。",
"無論です、な――時に、十勝原野の紅葉はどうでした?",
"全盛でした――もう、神居古潭に來た時は遲過ぎたです。",
"さうでせう、北海道の秋は短いものだ。",
"そして、次の旅行はどうなりました?",
"道會は一週間で終るのだが、それが濟むと、或會社の依頼で北見、天鹽の國境にある山林を見に行きます――さう、かうしてゐると、もう、雪が降り出しますから、なア――"
],
[
"濟みませんが、それでは、出來ますまで――",
"なアに、御心配には及びません。"
],
[
"どこです?",
"矢張り、天鹽で、何とかナイといふ川添ひの未墾地です。",
"何坪ばかり?",
"二百三十萬坪ほど。",
"ざツと七百七十町歩――面白いでせう、それに關する書類があるでせうから、見せて貰ひたいものです。",
"それは、あなたも御存知でせう、物集北劍君、あの人の手にありますから、けふにも取り寄せませう。",
"物集君は今どこにゐます?",
"大通り七丁目の角です――",
"ああ、まだあすこにをりますか? 何をしてをります?",
"今では、遊び半分に、自分の本籍地の村落の合併問題に運動してやつてゐた筈です。それに、元の北辰新報の殘務整理がある樣です。ゆうべ歸つてから、まだ會ひません。"
],
[
"いつ歸つた?",
"ゆうべだ。"
],
[
"實は、遠藤さんからのお話があつたので來たのですが、どうです、あの件は見込みをつけて、やつて呉れられますか?",
"見込みがあるから、お目にもかかりたいと云うて置いた。"
],
[
"無論、御方針のつくことなら、御相談したいのです。",
"實は、わたしもいろんなことをやつて見て、失敗つづきなのぢやから、さういふ突飛なことで一儲け恢復をしたいと思うてをるので――"
],
[
"何囘にも切つてやれることぢやから、先づ、買ひ占めに一萬圓と見て、あとは船ぢや――汽船は金がかかるし、まア、うまく相談がつけば、帆前ぢやが――",
"無論、帆前船ならいいでせう――然しそれも費用がかかり過ぎると云ふなら、少し大きな和船で間に合ひます。"
],
[
"なアに、僕は心配したのだ。遠藤君にも會つて聽いて見ると、帶廣までに君の爲めばかりに小百圓もかかつたから、またさう使はれたら困ると云うて、社が早く呼び返せと云ふので、あの電報を打つたの、さ",
"社としては、初めの二十圓しかまだ出してゐないぢやないか? それに、僕はただ一囘幌泉で遊んだ切り、何も無駄な使ひ方はしなかつたぞ。",
"それはさうだらうけれど――",
"無論、君のせゐぢやアないが、餘りメール社がけちだ、人のふところを目あてばかりにして、さ。――然しさう分れば、それでいいが、實を云ふと、君が帶廣へ二日間も返電をよこさないので、癪にさはつたから、原稿を中止しようとも思つたのだ。",
"まア、さう云はずに、僕の心配も思つて呉れ給へ。それに、社長が歸れば、また何とか考へもあらうから――",
"然し、そりやア當てにならないよ。ここの社長が歸つて來れば、僕も會つて置くことは置くが、餘り勢力もなく、またけちだから、社が却つて持てないのだと云ふではないか?",
"そりや、事務の方がけちなのだ。考へても見給へ、二三年間に二度も燒けて、兎に角、これだけの新築が出來たのではないか? 月々の發行部數で云へば、優に毎月儲けてをるのだが、負債を返してをるのだ。",
"そんなことアどうでもいい、さ――然し、僕は僕自身の旅行中にやつて來たことだけを、君にしろ、社にしろ、正當に認めて呉れたら、それだけで先づ滿足だ――東京の一文士――僕は文士と云ふ名詞を嫌ひだが――それが、社や道廳や人の金で、諸方を喰ひつぶしてまはつたと思はれるのは御免だから、ねえ――",
"そんなことはない――君の行つた跡、行つた跡へ新聞を無代配布もしたし、世間でも評判がえい樣だ。留守中の社長代理も面白いと讃めてをつたぞ。",
"讃められるのが僕の目的ぢやアない――僕は、貧乏な社が僕に盡しただけの金錢と勞力に相當した働らきをしたと、認められればいいのだ。"
],
[
"月寒にゐたらしい――",
"分らない、なア――"
],
[
"さう惡く思はれると、困るが、ねえ――",
"惡く思ふのではない、さ、はツきりした區別は立てて置く必要がある。無論、友人としての間がらは金で勘定は出來ないが、僕に對する有形的な關係は、僕も都合がよくなり次第埋め合せをつけるつもりであつたから。"
],
[
"然し、もう、よささうではないか?",
"もう直き退院が出來るが、大將は遊んでばかりをつて、僕にまかせ切りで困る。今、釧路へ行つてるが、あすぐらゐここへ來る筈だ、――會ひ給へ。"
],
[
"然し勢力が出て來たには相違ない。うちの雜誌の影響に違ひない、週刊や旬刊の雜誌體の新聞は、北星でも、北海新聞でも、みなつぶれてしまつたから――",
"ぢやア、北星の呑牛君はどうしてゐる?",
"あれは表面は休刊ぢやが、呑牛は道會の議長つき書記に旱變りして、羽織袴でこつ〳〵かよつてるよ。――それに、北海新聞の廢刊が面白いではないか? あの雪影がやつて來て、廢刊の辭をみなに書いて呉れと云ふから、呑牛と僕とで『廢刊を祝す』と書いてやつた。それをそツくり載せる奴ぢやから、人に馬鹿者にされるの、さ。",
"寛大なのだらう。",
"なアに、あいつは嬶アを女郎に賣り飛ばして、お多福の樣なハイカラ記者にくツついてをつたらえいのぢや。",
"可哀さうに!"
],
[
"何ぢや?",
"なに、はんか臭いこと、さ――僕が今でも新聞を持つてをつたら、いい種だが、なア。"
],
[
"感心に奮發してゐたよ、宿屋などでもなか〳〵持ててゐた。",
"あれは、兎に角、今度の地盤を固めて置く必要があるから、どこへ行つても、ぬかりのない人物だ。"
],
[
"實は、遠藤の紹介でけふ會ひに行つたのだ。",
"そりやア、あいつより見れば、遠藤はずツと眞面目だ。"
],
[
"相變らず、お前の左りの耳の下には引ツつりだこがある、ね。",
"大きにお世話です――これは梅毒からではない、ニキビのかたまりだと云つてあるのに! あなた、本當に歸るの?"
],
[
"おれは、もう、まはされても、何でもそんなことには搆はない、さ。",
"それだけ、あなたの心が冷えたのでせう?"
],
[
"お前が責任を負へば、何でもないぢやアないか?",
"責任を負ふと云へば、わたしの衣物を質屋へでも持つて行かせるより仕やうがない――それにしても、もう、遲いから駄目ですもの。",
"行かして見ればいい、さ。",
"もう、十一時を過ぎました。質屋は十一時までしか明いてをりません。",
"ぢやア、今夜に限らない、とまつてゐるのだから、夜が明けてからでいい",
"そんなことが出來ますか、わたしとして? 何ぼ好きな男の爲めとしても、朋輩から笑はれます。",
"笑はれたツていいぢやアないか!",
"あなたはいいか知れませんが、わたしの稼業の爲めにはなりません。"
],
[
"ぢやア、もう、來ないと云ふの?",
"縁――と云つても、金だらう――があつたら、また來らア。",
"では、また通り一遍のお客として、ね?",
"その方がお前を苦しめないでよからう。",
"あなたの爲めに隨分苦勞したのに――",
"うまく云つてらア、この馬鹿!",
"また!――馬鹿はおよしなさいよ。",
"馬鹿だから、馬鹿だ。",
"どうせ、女郎などしてゐるものは馬鹿、さ"
],
[
"そして、その結果は?",
"その結果は、矢ツ張り、お前が女郎で、おれが通り一遍のお客さ。"
],
[
"あなたはお客?",
"お前は女郎、さ。"
],
[
"苦勞しただけ損であつた。",
"然し損の仕直しは、もう、仕ない方がよからう――?",
"兎に角、あなたがさきへ冷えたのだから、あなたのお言葉に據れば、あなたがさきへ死んだの、ね。",
"おれには、お前がさきへ死んだのだ。",
"うそです、わ。",
"なアに、うそはお前の本職、さ。"
],
[
"さう、さ、おれに對する愛情のない血は、おれには死人の水だ。",
"情があつても、あなたが受けなければ仕やうがない、さ",
"受けられる樣に仕ないぢやアないか?",
"どうせ、女郎ですから、ね。",
"そして、おれはお客だから。"
],
[
"縁があつたら、また寄つて頂戴。",
"然しお前は、もう、死んだのだ。",
"その代り、生れ變つてをるか知れません。"
],
[
"うちの大將にも困つてしまふ。人が父を失つて心配してゐるにも拘らず、自分は勝手に飮みつぶれてゐて、一向、ことを運ばして呉れないのだ。",
"どこにゐるのだ?",
"幾代で流連してゐるらしい。そして、釧路までもつれて行つた妾は、別に宿屋へ置いてあるらしい。無駄なことにはぱツぱと金を使ひながら、僕の大事件を少しも思つて呉れない。實に困るよ。",
"いつ立つ、ね?",
"實は、けふにも立ちたいが、頼んだ金があすの朝でなければ出來ない。それに、大將が、あす、或事業の相談で登別温泉まで行くので、そこまでまはつて呉れと云ふし。室蘭線へまはつて、そんなことをしてゐれば、青森を出るのが、どうしても、あさつての晩になる。",
"そりやア、困るだらうが、主人のことだから、仕やうがなからう。",
"今夜も、飮みがてらやつて來いと云つて來たが、僕はいやだ――父が死んだと云ふのに、酒など飮んでゐられるかい?"
],
[
"かういふ次第で、君の頼みを話す樣な眞面目な時がなかつたから、汽車に乘つてから話すよ。",
"ぢやア、ぬかりなく頼む――僕も小樽の宅の方へ手紙をやつて置くから。"
],
[
"二三日で、そしたら、少しやつて來給へ。",
"いづれ伺ひます――僕も、もう、歸京したくなつてるのですから。"
]
] | 底本:「泡鳴五部作 下巻」新潮文庫、新潮社
1955(昭和30)年7月25日発行
1994(平成6)年1月15日3刷
初出:「毎日電報」
1911(明治44)年1月1日~3月1日
「東京日々新聞」
1911(明治44)年3月2日~3月16日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、次の箇所では、大振りにつくっています。
「五六ヶ月」
※「じッと」と「じツと」の混在は、底本通りです。
入力:富田晶子
校正:雪森
2016年9月9日作成
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "051868",
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"副題読み": "04 だんきょう",
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"もう、質屋へは入れないよ。",
"分るもんか。"
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[
"みなに何と云はう? 兄さんだと云うて置こか?",
"そんな嘘を云つたツて、人には直ぐ分るよ。",
"どう分るの?",
"亭主でなければ、色男、さ。"
],
[
"年寄りの旦那さん――西洋人なら、いくらもあらア。",
"毛唐人ぢやあるまいし、いやアなこツた。――それとも、お前が田中子爵の樣に金持ちなら――",
"さうすりやア、どうせ、お前ばかりではない、五人でも、六人でも、意張つて女を持つかも知れない。",
"若く生れ變つてお出でよ。",
"その時ア、寫眞屋さんなどは女房にしない、さ。",
"誰れもお前の女房にして呉れとは云うてをらん。今、少しで仕あがるところを惜しいのだけれど――",
"さう、さ、仕上がる頃には、寫眞學校のハイカラ生徒とくツついてゐたのにと云ふんだらう?",
"御心配には及びませんよ。獨りで寫眞屋を開業して、若い人を喰はしてやらア、ね。",
"それがお前の理想か?",
"へん、お前の無理想とか、屁理想とか云ふのとは違ひます。"
],
[
"お前だツて、東京ぢやア、まだ田舍ツぺいだ。",
"そんなら、あたいが通ると、東京の人が年寄りでも見かへるのはどうしたわけだ?"
],
[
"ここの娘は實際自分自身の處分をしてイらア、ね。",
"あたいだツて、寫眞の方を卒業すれば、そんなことは出來る!"
],
[
"おこつたのも尤も、さ。",
"うちへ歸つたら、もう、來てをつて、大いにふて腐りやアがつた。"
],
[
"然しあいつは、實際、娘であつたか、喰はせ物であつたか、分りやアせん。",
"今、どうしてゐるだらうか、ね?",
"北海道には、あんな素姓の分らぬ女がすくなくない、さ――當てにならん。"
],
[
"それもさうぢや。",
"然し、この頃、北海メールに對して、進歩派の機關新聞が出る計畫があるよ――主筆を僕の方に持つて來さうだから、條件さへよけりやアやつてやらうと思つてをる。",
"あれも、然し、まだ當てにならん。",
"そりやアさうとも――お互ひにかうごろついてをつて、なか〳〵いい儲けもないものだ、なア。",
"僕も實際閉口ぢや。君の北星などを社會の上からは踏みつぶしたわけになつた北海實業雜誌も、こんな風で倒れてしまへば、結局、僕等仲間の恥辱、さ。"
],
[
"本當だらうか?",
"誤聞ぢやアないか?",
"まだ分らん、なア。"
],
[
"敵も十分うまくやつたものだ。",
"そりや、もう、前から計畫してをつたのだらうから、なア。",
"然し暗殺ぐらゐは覺悟の前であつたらう――公も出發前に、それに似た言を吐いた、さ",
"飽くまで好運なおやじめ、死ぬにまでもいい役割であつた!"
],
[
"有馬の樣なしみツたれが何を云つたツて、かまやアしない!",
"そのしみツたれに厄介をかけてをつたぢやないか?",
"厄介をかけたのぢやアない、供物を獻じさせてゐたのだ。",
"へツ、神さんぢやあるまいし。",
"何だ、神ぢやアない? 馬鹿を云へ! おれは神も同前だ! 宇宙の帝王だ! 宇宙その物だ! それが分らない樣な女なら、おれの女房でない! 妾でもない、色女でもない! 無資格、無價値の色氣違ひめ、下らない男にだまされてばかりゐやアがつて、いよ〳〵實際になりやア、棄てられてばかりゐやアがる!",
"お前もわたしを棄てたのだから、その下らない男だらう?",
"何だと! 貴さまはどうせ不具も同樣だ! 片輪だ!",
"片輪なら、誰れがした? お前ぢやないか? 早う直せ!"
],
[
"馬鹿で、無學だから、仕やうがない、さ――偉人の本體とその神經末梢との區別がつかないのだ。",
"末梢とは何のこと、さ?",
"寫眞屋や肺病患者、さ。"
],
[
"大氣焔も、小氣焔もない、さ――ただ當り前のこと、さ。",
"君としては當り前かも知れんが、聽いたものには非常なことであつたさうだぞ。",
"そりやア、さうだらう、さ――僕の説は僕自身の發明であつて、他に何ぴとも思ひ當らなかつたことを説いてゐるから。"
],
[
"僕は刹那主義を以つて日本國を背負つてゐるの、さ。",
"鑵詰事業や文藝で國家が背負へるか?"
],
[
"馬鹿だ、ねえ、お前は――さツきもおれを氣違ひなど云ふから、その罰で、人の思ひ違ひを本氣でさう信ずる樣なことにもなるのだ。",
"然しさきほどは少し變であつたよ。",
"そりやア、少し、おれが演説から激してゐたから、のぼせてゐたのかも知れない。"
],
[
"大丈夫でしよう――さう心配するにやア及ぶまい。",
"さうでしようか?",
"おれをまだ氣違ひだと思つてる、ね――馬鹿!",
"でも、目の色までこの頃は變な色だ。",
"これは、ね、實は、あの女郎の恨みかも知れない。"
],
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"然し、あいつとも別れた。お前とも亦別れるのだらうが、心配するな――お前の病氣だけは直してやる。",
"早う直して貰はんでは困るぢやないか、――この雪が降り出さうとする時節にもなつて――若しこの旅で二人とも病氣にでもなつたら?",
"二人が病氣になれば、どうせ、その結果はどツちからも無理心中、さ。"
],
[
"無論、送る筈はない。",
"送らないで、そのお小言が何の役に立ちます?",
"然し遠藤から君は隨分金を出させたさうだ。",
"それはあの人に別れてからの費用にでしよう? それなら帶廣に至るまでに殆ど必然的に入るだけで――その報告は天聲君にもしてあります。",
"おれはまだ聽かん。",
"聽かないで、勝手氣儘な想像はおよしなさい! 而もそれを以つて人を責める樣な口調はどうしたのです?",
"まア、さうおこらんでもえいぢやないか?",
"おこりますとも、あなたの出かたがどうも面白くない!――それに、全體、あなたの社が人のふんどしで相撲を取らうと云ふ樣なやり方です。",
"社が仲に這入らんければ、旅行も出來なかつただらう?",
"それは結構です、然し僕のあれだけの――またここ三四日つづきます――原稿に對して、あなたの社で何ほど出したと云ふのです?"
],
[
"そりやア、社が直接に出したのは少い、さ――然し――",
"御覽なさい! 社以外で出たのはすべて遠藤氏と僕との關係です。あなたは紹介者だけであつて、それに對する僕の謝禮はメールに原稿を書いたので十二分に濟んでゐます。",
"だから、その點は君に禮を云つたぢやないか?",
"禮を云ふだけならかまひません。然しさう横柄に出るなら、さし引き、それが消滅したと同樣です。",
"然しさう横柄に出たわけでは――",
"いや、お待ちなさい! あなたの態度は地方のへツぽこ記者に對する態度でしよう? 地方の記者ならそれで濟みましようが、僕は決して許しません――侮辱も亦甚しいです!"
],
[
"兎に角、もう、分つたから、その話はよさう。",
"僕も歸ります。"
],
[
"なアに、持ち物を賣りツ放す、さ。",
"僕も氷峰君と何とか相談して見よう。"
],
[
"たとへば、どんな樣に?",
"たとへば、生死の巷に立つて、膽力が鍛へる。",
"馬ア鹿な! そんなことを、わざ〳〵三十棒のもとで鍛へて貰はなければならない樣な人間では駄目だ。",
"あの先生は、然し、打つ樣なことはしないので有名ださうだ。",
"打たないでも、形式は同じだらう――自己催眠がやれると云ふばかりで、而もそれが肝心の内容を空虚にしてしまふものだから、死物になるも同樣、さ。死物の膽力とか、不動心とか云ふのは、ただ物に感じない無神經の虚飾に過ぎない。",
"禪は無論神經の刺戟を離れて、純粹の觀念を凝らすものだ。",
"それが既に間違つてゐる。觀念とは、プラトンの所謂イデーを初めとして、全く消極的なもので、矢ツ張り、人の無飾活動を殺す形式の範圍になる。僕等は神經を鋭敏にと働かすべきで、それを離れて現象も、實體も、活動も、自我もないとするのだ。",
"然し無我といふことが禪には大切だ。"
],
[
"さういふことが禪にもあるよ。君は物を云ひ切つてしまへば、却つて物の全體が現はれないから、舊來の和歌なるものが駄目だと云つた。",
"さう、さ。",
"ところが、禪でも、暗示といふことを云ふよ。説明してしまへば何でもなくなると。",
"そりやア、今云ふ内容がないからのこと、さ。僕等が暗示とか、表象、乃ち、シムボルとか云ふのは、發想と共に生きてゐる。ただその發想が、以心傳心など云つて、胡麻化しの消極的寓意手段ではない。乃ち、禪の樣な無神經、もしくは脱神經の假空的暗示でなく、大膽で赤裸々の人格實現が發想その物で、それが直ちに人世全體の暗示になつてゐるべきものだ。",
"然し禪にも内容がないとは云へまい?",
"ぢやア、どんなものがある? 隻手の聲など云つて、徒らにヰト、頓智を弄してゐるに過ぎない。",
"頓智ではない、さ。",
"そんなら、それにどう云ふ工風を凝らした?",
"それは云はないことになつてゐる。云へば、ただ人の冷笑を買ふだけだから、ただ自分で自分の工風にしなければならないぞと云ふのだ――さうなると、師に對する一種の信仰の樣なもので、信じないものにはつまらなくなるのだ。",
"信不信によつて、つまる、つまらないぢやア、もう、語るに足らない、さ。木石も神と思つて信じたら、病氣も直るといふのと同樣、矢ッ張り、催眠術、よく云つて、自己催眠にしか當らないことになる。暗示も、膽力鍛錬も、そんなもののお世話になる必要がない。僕等は自己催眠など云ふ手段によつて消極的な、外向的な、死滅的な宇宙を觀ずるのではない、立ちどころに、現實の自己の覺醒、自己の滿足、自己の充實、自己の發展を内觀するのである。",
"さう云つてしまへば、さうだらうが――"
],
[
"さうぢやアないが――",
"矢ツ張り、隻手の聲で、祕密だと云ふのか?"
],
[
"かう云ふ珍らしい掘り出し物を人に見せないで、祕藏するつもりか?",
"一概にさうでもないが、――これが君には立派な材料にならうが、人から見ると、僕が教育家として、こんな物をこツそり讀んでゐると思はれないでもないから。",
"これが讀破出來りやア、教育家としても、君はえらい筈だ――スプリングピクチユアでも、正直に云ふと、教育家は見て置く必要がある。",
"世間はさう思はないから、ね。",
"そんなことを心配するから、人は何も出來ないのだ。新主義を主張するだけ、僕は大膽に古人の説をも採否するつもりだ。",
"君はそれでよからう――兎に角、濟んだら直ぐ返してくれ給へ。",
"よし、心配するにやア及ばんよ。"
],
[
"ぢやア、死ぬ、さ――火葬ぐらゐの世話はしてやらア。",
"お前などに世話してもろたら、たましひまでも穢れる。",
"穢れるなら、もう、穢れてゐらア、ね。"
],
[
"うるさい、ねえ――いツそのこと、お前の望み通り、お前の形まで死んでしまつた方がいい――面倒くさいから。",
"面倒くさいものに誰れがした?",
"おれと加集と、それから、ひよツとすると、寫眞の先生と、その學校のハイカラ生徒と――",
"違ふ! 違ふ! そんな呑氣なことではない!",
"呑氣なのアお前、さ。"
],
[
"慢性になつたら、なか〳〵直らないもの、さ――氣長に治療するに限るよ",
"自分ばかり直つたので、人のことはちツとも思ひやつて呉れないんだもの。",
"いくら思ひやつてゐても、直る時が來なけりやア直りやアしない。",
"金さへあれば、勝手に直して見せる、さ。"
],
[
"然し、金の出來る見込みがあるの?",
"心配するにやア及ばないよ――病院の方はまだ新らしく拂ひ込む日は來ないだらう?",
"來たら、困るぢやないか?"
],
[
"歸つてしまへば、自分ばかりはよからう、さ――",
"そんなことはない、直ぐお前の入院料のあとを心配しなければならないから。",
"へん! そんな人の氣休めになることを云うて、――離れてしもたら、えい氣になつて、それツ切りになるのだらう?",
"さう思つてゐたら、間違ひはないだらうよ。"
],
[
"ぢやア、歸るまい。その代り、おれは何もしないで、遊んでゐよう。",
"それも許さん、金を拵へて來い! 金を拵へて來い!",
"どこでよ?",
"島田なり、どこなりで。",
"あるもんですか?",
"ぢやア、どうするの?"
],
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"だから、歸るといふの?",
"うん、歸るかも知れない。",
"歸つたら、もう、駄目ぢやないか、あたいのことなど思やしない!",
"ぢやア、一緒に歸る、さ。"
],
[
"ぢやア、どうしたらいいんだ!",
"ここにをつて、工面すりやえい、――東京へ行たら、また病院にも這入れないにきまつてる。",
"さうともきまらない、さ。",
"では、直ぐ大學病院へ入れて呉れるか?"
],
[
"今夜に限つて、どうしてさう泣くの、さ?",
"それでも、つらいぢやないか? 人が苦しい目をしてをるのに、ちツとも思つて呉れないのぢやもの!",
"入院さしてある以上に思ひ樣がない。",
"それでも、今、あの有馬のおやぢが病院へ來て、あたいを應接室へ呼び出し、下らんことを云ふぢやないか? いやになつてしまふ!"
],
[
"とても、見込みのない男だから、早く手を切れと、さ。",
"切れるなら、直ぐにも切らうよ。"
],
[
"泥棒を見て繩を綯ふことをしてをるのぢや――間に合はんぢやないか?",
"間に合はないと云つてぐづ〳〵してゐりやア、なほ間に合はない、さ。"
],
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"起き給へ、君、女郎買ひに行かう。",
"この雪に僕はいやだ。"
],
[
"急には行くまいが、誰れが何ぼ、彼れがいくらといふことを島田君のうちで書いてをつたよ。僕にも出せと云うてをつた。",
"僕も、そんなことをやつて貰はなければならなくなるとは、北海道に於ける新聞記者のなれの果て見た樣ぢやないか?",
"然し、この場合、止むを得まいからと、鳥田君が云うてをつた。",
"無論、僕の爲めにやつて呉れることなら、僕はことわりもしないが――",
"君は知らんつもりでをつたらえい、さ。僕等がうまくやるから――"
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"男の友達だらう?",
"女、さ、國からこなひだ出て來たばかりの。"
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"とても出せん――金の出どこがない。",
"川崎は、もう、駄目なのか?",
"駄目ぢや、なア――社長はこの頃禿げ安に周旋さした方の口から矢の如く催促を受けてをる。そんな筈ぢやなかつたと云うて、周旋者の禿げ安を探しまわつてをる。あのおやぢはまた自分が社長に返すべき金があるので、捕へられない樣に逃げてをる。――面白い芝居、さ。社長も苦しからうが、僕も苦しいよ。氷峰が大奮發の――實際、今囘のが僕のありたけの智慧をしぼり出したのぢやと見られても止むを得ない――事業をやつて、一二號でつぶれたと世間から云はれちや、たとへ金は殘つたとしても、僕の將來に大不利益ぢや。況んやこのぴい〳〵ではないか? この十五日にはとても間に合はんから、いツそ來年元旦の發行に變へて、十二月中に大準備をして、新年號から大發展としようかとも思うてをる。",
"早く別な金主を見つけたらどうだ?",
"さうも思はんぢやないが、その先決問題として、今の社長と關係を絶つ時機を見てをるのぢや。僕を信じて資本を出すものがあるとしても、それが社長の左右するところとなつてしまふ樣ではつまらんから、なア。",
"無論だ。",
"時に、どうぢや――北海道の雪には面喰らつただらう?"
],
[
"何か分らんが、然し僕は矢ツ張り常識家を以つて任ずる、なア――第一、僕は君のやうな堅苦しい、無餘裕の努力家にはなれん。𧘕𧘔を着けて、眈溺するんぢやから、なア。",
"いや、常識家が勝手にそれを𧘕𧘔と見るのであつて、――𧘕𧘔がその人の常用であつたらどうする?",
"あたまはちよん髷と來るか、な?"
],
[
"馬鹿を云ひ給ふな。常識家こそ、ちよん髷をつけてゐるべき筈が、僅かにそれを切り去つた外形をよそほつてゐるに過ぎない。",
"然し、兎に角、君は何と云つても、根本は保守家であることが分つたよ。"
],
[
"僕もさう思つてゐる、さ――なアに、貰はないでも、安く買つてやる、さ。",
"買うては引き合はん、どうせ、直ぐ賣り飛ばすんぢやから。",
"その時の氣分が許すなら、直接に百姓になつてもいい、さ。",
"君に肥桶が持てるか?"
],
[
"はア――。",
"賑やかでしよう?",
"大して賑やかでもありません――東京から見ると、札幌は丸で田舍です、ねえ。",
"あなたは東京を見ていらツしやるから、いいの、ね。"
],
[
"第一、有馬君がある。",
"いや、あれは可哀さうだ。",
"それから、天聲君。",
"あれも、今、子供が出來たりして困つてるだらう。",
"僕も、無論、今の場合、君も知つてる通りぢやから、なア――大したことは出來ん。"
],
[
"もう、別れようか?",
"ぢやァ、歸らう。",
"どうぞ、ねえ、あんまり大きな聲で笑はない樣に――。"
],
[
"身代りになつたのだらう、さ――また買へばいい。",
"金がないのに、買へやせんぢやないか?",
"そんなこともないだらう。"
],
[
"いや、あの時はあいつがゐたから云ふのに困つたのだ――都合によると、こツそり、自分だけかへらうかと思つてゐたから。",
"然し、まア、かう急になると、僕等の方ではとてもまとまりかねるから、先づ呑牛君に頼むのが早道だぞ。呑牛君は或道會議員から少し出させてもえいと云うてをつた。",
"兎に角、さうでもして、頼まうよ。"
],
[
"ぼ、僕も、東京へ、ゆ、行くよ――ら、來年から、しゆ、出版屋をやるかも知れん。",
"それも面白からう。",
"その時――君にも――世話にならう――ところで、き、君、君は歡迎會のあとで直ぐ、か、歸れば花であつたが、なア",
"僕もさう思つたが、僕は歡迎されたツて、實はありがたくもなかつたのだ――寧ろ、北海道で苦しめられても、何か一つ仕事を發見したかつたのだ。殘念だから、また出直すかも知れない、さ。"
],
[
"來やうが遲かつたの、ねえ――うちでは、早く來さうなものだと云つてゐたんですよ。",
"實は、濟みませんが、忘れてゐたのです。",
"薄情、ねえ――メール新聞では毎日の樣に拜見してゐましたが、どうして來ないのか知らんと思つてゐました。",
"濟みませんでした。",
"いつ旅行からお歸りでした?",
"もう、半月も前に――。",
"さうでしたか? 尋ねて行つて見ようかとも云つてゐたんですが、まだお留守ではとも思つて――まア、おあがんなさい。"
],
[
"いくら機嫌ばかり取つても、滿足しなければ仕やうがない、わ。",
"僕等を滿足させるだけの、つまり、深刻な女がゐないのでしよう。"
],
[
"あの人も困ります、ねえ、ああ評判が惡くツては。",
"なアに、あれが本色で、もとは僞善者であつたのかも知れない、さ。",
"奧さんがなくなつてからですもの"
],
[
"そしていつ歸るの?",
"今晩の六時出發です。"
],
[
"いえ、それには及びません、お子供もあるのですから。",
"それでも、氣は氣ですから、ねえ。",
"では、御隨意にして下さい。然し雪が降るかも知れませんから、遠方をわざ〳〵御見送りにも及びませんよ。",
"兎に角、行けたら、行きますから――。",
"また、今度お目にかかります。"
],
[
"早く來ようとおもても、あの有馬のおやぢがまた下らんことを云うて――しかづめらしく、分り切つたことをくど〳〵云うてたの。",
"そりやア、お前だけを時間に後れさせようとしたのだらうよ。"
],
[
"どうして、さ?",
"田村が自分の忠告を容れないのだから、東京の細君に對しても申しわけがない。もう友人でないと、さ。",
"ぢやア、ほうつて置く、さ。",
"あんな無謀な氣儘者は北海道の雪に凍え死ぬくらゐの目に逢うて見なければ、直らんと、さ。"
],
[
"貴樣アボーイぢやアないか? 汽車中を取り締つて行く役目でありながら、こんな無禮を見のがして置くと云ふんか?",
"さう云ふわけでは御座いませんが――"
],
[
"おれも醉つてゐるのだ!",
"それは、あなたはお酒にお醉ひになつてをられますので――。",
"おれも寢るのだ。ゆうべから眠らなかつたんだ。",
"それは、あなたの御勝手に、お眠りなさりませんでしたので――。"
],
[
"どうか、只今のは御勘辨を――時々、あアいふお客さんがあつて困ります。途中で三等から乘り變へたんで御座いますが、まだ切符を切り變へませんので、わけを話して、もとへ直つてもらふことに致しましたから――。",
"それは氣の毒でした、ね。"
],
[
"二等から天降つて來た醉ツ拂ひだ。",
"なアに、三等から切りかへて貰はうとしてことわられたんださうだ。",
"そんなに醉つてるとも見えぬが――。",
"酒樽の樣にふてい奴だ。",
"可哀さうに、眠いんだらうよ。"
],
[
"おれの室へ來て、頻りに演説してゐたよ。",
"へんてこなおやツぢや――二等客になつて威張つて見ようとしたのだろて、皆が笑つてゐた。"
],
[
"それでも駄目なら駄目とするが、兎に角、頼むから相談して見て呉れ給へ。",
"では、まア、して見ますが――",
"この場合、君が僕に思ひ出されたのを災難と見て、ね。"
],
[
"出發の時に俄かにおほ雪となつたのがいけなかつたのだが、青森に來ると地上が僅かしか白くなつてなかつたし、ここぢやアまだのやうだ、ね。",
"ええ、盛岡ではまだ雪は積みません。けさ、ちよツとちら〳〵しましたけれど。",
"ところで、どうだおやぢさんの目かけ狂ひは? もう、いい加減に納まつたか、ね?",
"ええ――まだ――",
"そんなおやぢの子には却つてしツかりしたのが出る筈だが――"
],
[
"ぢやア、君もやり出したのか? よくない、ね。けれども、やるならやるで、十分の責任を飽くまで自分で持つ覺悟でなけりやアいけないぜ。おやぢがやるのはやるだけの資格があるからだが、子供が何の責任も持てないでおやぢの眞似をして、おやぢへすべての厄介を持つて行くのは、意久地のないことだから、ね。",
"それは先生が○○學校でも先生を御自分で辯解したお言葉でした。",
"よくおぼえてる、ね。――酒飮みや藝者買ひを公然やつてた僕にやアそれ以上の教訓はなかつた。やつても僞善になるし、また教訓として無駄だから、ね。",
"尤もだと思ひました。"
],
[
"さうでもありませんが――",
"僕はまた君を小僧同樣に思つて、僕が僕の女房と今に取りかへようかと考へてた女のところへ君をお伴につれてツたこともあるが、おぼえてますか?",
"下谷でしよう?",
"さうだ、さうだ! あれは、然し、僕と別に實際の關係などアなかつた。暫らく或る夜學校で英語を教へてやつただけだが、さう斯うしてゐるうちに、よそへかた付いてしまつたよ。",
"先生に關する逸話は今でもよく新聞で拜見します。",
"なアに、あんなのにやア半分はうそがあるのだ。"
],
[
"あんなへなちよこが目かけを持つなんて洒落過ぎてる。",
"そんなことがあるものか?"
],
[
"あいつがやつて來るだらうか?",
"來ないでどうするんだ?",
"でも、金がでけんで逃げてたら――?"
],
[
"まるでお前の恥さらしぢやないか?",
"おればかりぢやアない、お前にも恥さらし、さ。",
"では、なんでそんなことにした?",
"お前の爲め、さ。お前の汽車賃をもおれが使へば、丁度眞ツ直ぐに東京までおれは歸れた勘定だが――こんなところの病院などへ寄り道しないで、ね。",
"お前が惡いのやないか――もとはと云へば?",
"さうだ。だから、ね、おれまでもお前と一緒に恥ぢをさらしてゐるんだ。",
"汽車賃さへなかつた癖に、大きな顏して!",
"何が大きな顏だい――お前の見ツともないその顏ぢやアあるまいし?"
],
[
"無論、それでおれの方の荷も輕くなつたの、さ。",
"でも、約束通り、病氣が直るまでは世話せにやならん。",
"それ位のことは何でもない、さ。",
"何でもない云ふけれど、今の今でも、金がでけんぢやないか?。"
],
[
"ぢやア、お前は矢ツ張り美人のつもりかい?",
"知らん! そんなこと聽かんでもえい!"
],
[
"來てから話を聽かうと書いてあるから、ね。",
"では、でけたら直ぐ送つておくれよ。"
],
[
"違ふ!――でも、あの人、をつて?",
"ゐなかつた。十里ばかりさきの驛へ行つて留守だツた。",
"いつ歸るの?",
"あすにも歸るだらう。",
"歸つたら、あたい獨りでも來て呉れるだろか?"
],
[
"親を親とも思はせてない子だ――どいつにも、こいつにも!",
"あなたがよくないからですよ。",
"馬鹿を云へ! 手めへの云つて聽かせかたが惡いんだ!"
],
[
"向ふもさぞびツくりするでしようよ――わるだくみがばれてしまつて。",
"手めへは何も云ふ資格がないんだ! 早く出させろ!"
]
] | 底本:「泡鳴五部作 下巻」新潮文庫、新潮社
1955(昭和30)年7月25日発行
1994(平成6)年1月15日3刷
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「氣が付いた」と「氣が附いた」、「ぢやァ」と「ぢやア」、「矢ッ張り」と「矢ツ張り」の混在は、底本通りです。
入力:富田晶子
校正:雪森
2016年12月16日作成
2020年4月7日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"誰だつたと云ふのかい。",
"まあ、聞いて下さい。あなたの、その尊い口にも唾の涌くやうな話なのです。あの鍛冶屋町を知つてゐるでせう。",
"うん。まだお上のお役をしてゐた時、あそこで日の入を見てゐたことが度々あるよ。ひどく寂しい所だ。",
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"さうだとも。肉は弱いもので。",
"肉がですか。何も肉が、外のあらゆる物に比べて、特別に悪いと云ふ訳でもありますまい。",
"己はそんな問題に就いてお前と議論したくはないよ。",
"さうでせうとも。御尤です。そこで兎に角鍛冶屋町を尼さん達が大勢通るのです。朝も昼も晩も通るのです。それが皆フランスを話します。どれもどれもまづさ加減の競争をしてゐるやうなフランスですね。丁度其頃わたしはヘツケル先生と手紙の取遣をしてゐました。ヘツケル先生は御存じでせう。",
"あのダアヰニストのヘツケルぢやないのかい。",
"無論さうです。ダアヰニストですとも。わたしはこんな事を問ひに遣つてゐました。若し人間と猩々と交合させたら、其間に子が出来て、それが生存するだらうかと。まあ、兄いさん、黙つて聞いてゐて下さい。それが生存するだらうかと云ふ事と、それからそれが生存したら、人間と猩々とが同一の祖先を有すると云ふ一番明瞭な証拠ではあるまいかと云ふ事と、この二つを問ひに遣つたのです。わたしはひどく此問題に熱中してゐたものですから、往来を誰が通らうと、大抵そんな事は構はずにゐました。わたしは鍛冶屋町の道傍に腰を掛けて、そんな問題に就いて沈思してゐました。或日の事、丁度エナのヘツケル先生の所から手紙が来て、こんな事が云つてありました。さう云ふ試験を実行するには、随分困難な事情もあらうと思ふが、それは問題外として、よしや其試験が出来て生存するに堪へる子が生れたとしても、先生自己の意見では、それで問題の核心に肉薄し得たものとは認められないと云ふのですね。其点はわたし先生と大いに所見を殊にしてゐたのです。わたしは。"
],
[
"いゝえ。大違です。なんなら内で先生の手紙を見せて上げませう。",
"でも、人間と猩々とが。",
"いいえ。さう大した懸隔はないのです。それよりかもつと。",
"それは褻涜と云ふものだ。",
"さうでせうか。わたしなんぞは敢て自ら其任に当つても好い積です。",
"もう馬鹿な事をよせよ。",
"でも、あなたはお分かりにならないか知れませんが、一体科学が。",
"もうよせ。己は其問題をさう敷衍して見たくはないのだ。",
"そんならよします。兎に角わたしはさう云ふ事を考へて、あの芝生の広場から最初に曲つた角の小家の辺で、日なたぼつこりをしてゐました。もう尼さん達が幾組もわたしの前を通り過ぎました。併しわたしは只何やらはつきりしない、黒い物が、砂の上を音もせずにすべつて行つたとしか感ぜなかつたのです。すると突然或声が耳に入つて、わたしは沈思の中から醒覚しました。其詞は、『それからシリアのアンチオツフス王の所を出て、地中海の岸に沿うて、今一度』と云つたのです。何も其詞には変つた事はなかつたのですが、其声がわたしの胸にこたへたのです。まあ、なんと云ふ声でせう。いかにも打ち明けたやうな、子供らしい、無邪気な、まあ、五月頃の山毛欅の木の緑の中で、鳥が歌ふやうな声なのですね。わたしが目を挙げて見ると、尼さんが二人前を通つてゐるのです。一人は若くて、一人は年を取つてゐます。年を取つた方はわたしの知つた顔です。色が蒼くて、太つて、眉毛が一本もなくつて、小さい、鋭い、茶いろな目をしてゐるのです。若い方は、それまでつひぞ見たことのなかつた顔です。なんとも云へない、可哀らしい顔なのですね。ところがわたしがさう気が附いた時には、もう二人はわたしの掛けたベンチの傍を通り過ぎて、わたしに背を向けて歩いてゐます。実は、兄いさん、わたし今少しで口笛を吹く所でした。さうしたらわたしの方を振り返つて見る筈でしたからね。併しわたしは吹きませんでした。一体わたしはなんでも思つた事を、すぐに実行すると云ふ事はないのです。いつでも決断を段々に積み貯へて行くと云ふ風なのです。其代には時期が来ると、それが一頓に爆発します。"
],
[
"それですか。歓喜の声です。偉大な感情を表現するには、原始的声音を以てする外ありません。余計な事を言ふやうですが、これもダアヰニスムの明証の一つです。兄いさん。想像して見て下さい。尼さんの被る白い帽子の間から、なんとも云へない、可哀らしい顔が出てゐるのです。長い、黒い睫毛が、柔い、琥珀色をした頬の上に垂れてゐます。それは一旦挙げた上瞼を、すぐに又垂れたからです。それに其唇と云つたら。",
"お前なんとか詞を掛けたのかい。",
"いいえ。わたしは只其唇を見詰めてゐました。",
"どんなだつたのだい。",
"ええ。野茨の実です。二粒の野茨の実です。真つ赤に、ふつくりと熟して、キスをせずにはゐられないやうなのです。その旨さうな事と云つたら。"
],
[
"無論です。実際わたしも其日の午後には長椅子の上に横になつてゐて、克己の修行をしました。所がどうもああした欲望の起つた時は、実際それを満足させるより外には策はありません。しかもなる丈早く満足させるですね。どうせそれまでは気の落ち着くことはないのですから。",
"所がお前欲望にもいろいろあるからな。若し自殺したいと云ふ欲望でも起つたとすると。",
"それですか。それもわたしは度々経験したのですが。",
"したのだがどうだ。",
"したのですが、失敗しました。わたしは鴉片を二度飲みました。しかも二度目には初の量の三倍を飲みましたが、それでも足りなかつたと見えます。",
"そんな事を。",
"まあ、聞いて下さい。二度目の時は可笑しうございましたよ。たしか十四時間眠つて、跡で十二時間吐き続けました。往来で女の物を売る声がしても、小僧が口笛を吹いても、家の中で誰かゞ戸をひどく締めても、わたしはすぐにそれに感じて吐いたのです。そのうちわたしの上の部屋に住んでゐる学生が、あのピツコロと云ふ小さい横笛を吹き始めました。するとわたしは止所なしに吐きました。なんでも三十分ばかり倒れてゐて、笛の調子につれて吐いたのです。ぴいひよろひよろと吐いたのです。大ぶ話が横道に這入りましたが。",
"いや。もう己は其上の事を聞きたくないのだ。",
"でも聞いて下さらなくては、わたしが好かつたか悪かつたか分らないぢやありませんか。そこでわたしはキスをしようと思つたのです。心を落ち着かせるにはキスをせずには置かれないと思つたのです。そこで例の長椅子の上で工夫したのですね。或日の事、その二人の尼さん達がお城の所の曲角を遣つて来る時、わたしは道の砂の上に時計を落して置きました。すると年を取つたのが見付けて拾ひました。わたしはそこへ駆け付けて、長々とフランス語で礼を言ひました。其間傍にゐる若いのは、ちつともわたしの方を見ません。一度も見ません。多分アンチオツフス王の事をでも考へて立つてゐたのでせう。そこでわたしもどうもその若いのに詞を掛けるわけには行かなかつたのです。わたしは只柔い頬つぺたを見たり、睫を見たり、特別に念入に口を見たりしてゐました。そのうちわたしは気の違つたやうな心持になりました。そこで暇乞をしようと思ふと、どうした拍子か、わたしのステツキが股の間に插まつたので、わたしは二人の尼さんの前でマズルカを踊るやうな足取をしました。年を取つたのは口を幅広くして微笑する。若いのの口の角にも、ちよいと可笑しがるやうな皺が出来たのです。わたしは好い徴候だと思ひました。兎に角地中海の波に全く沈没してゐるわけでもないことが分かつたからですね。そのうち二人が礼をして往つてしまひました。"
],
[
"まあ、そんなに急いで笑はないで下さい。まだ話はおしまひではありませんからね。わたしは其日に帰る時、心に誓つたのです。三十日間パンと水とで生きてゐても好いから、どうしてもあの唇にキスをしなくてはならないと誓つたのです。",
"併し。",
"まあ、黙つて聞いて下さい。話は是からです。なんでも三四日立つてからの午頃でした。わたしはいつものベンチに掛けて、お城の方角を見詰めてゐました。わたしは其日に二人がきつと来ると云ふことを知つてゐました。来たらきつとキスをすると云ふ事も知つてゐました。雨が少し降つて来たので、わたしは外套の襟を立てて、帽子を目深に被つてゐました。なんでもアメリカの森の中でジヤグアルが物を覗つてゐるのはこんな按排だらうと、わたしは思ひました。その時刻には散歩に出る人なんぞは殆無いのです。わたしは震えながら腰を掛けてゐました。帰られる身の上なら帰りたい位でした。",
"帰れば好かつたのだ。",
"でも帰れば又初から遣り直すことになつたのです。",
"併し。",
"まあ、聞いて下さい。突然わたしはぎくりとしました。曲角に黒い姿が二つ見えたのです。一人が蝙蝠傘を斜に連の人の前に差し掛けてゐます。傘を持つてゐたのは、年を取つた尼さんでした。二人は真つ直にわたしの方へ向いて来ます。わたしは木の背後にでも躱れてゐて、そこから飛び付かうか、木の枝にでも昇つてゐて、そこから飛び降りようかと思ひながら、其儘ぢつとしてすわつてゐました。すると例の人の顔が段々近くなつて来ます。柔い、むく毛の生えた頬や、包ましげな目が見えます。それから口が見えます。しまひには只唇ばかりが見えます。其唇は丁度アルバトロス鳥を引き寄せる燈明台のやうなものです。そのうちとうとうわたしのまん前に来ました。わたしはゆつくり立ち上がりました。そして。"
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[
"そしてわたしは大股に年を取つた尼さんの前を通り過ぎて、若い尼さんの頭を両手の間に挾みました。わたしは今もその黒い面紗を押さへたわたしの指と、びつくりした、大きい、青い目とを見るやうです。わたしは自分の口を尼さんの口の所へ、俯向くやうにして持つて往つて、キスをしました。キスをしました。気の狂つたやうにキスをしました。尼さんはとうとうわたしに抱かれてしまひました。わたしはそれをベンチへ抱へて往つて、傍に掛けさせて、いつまでもキスをしました。兄いさん。とうとう尼さんが返報に向うからもわたしにキスをしたのです。尼さんの熱い薔薇の唇がわたしのを捜すのですね。あんなキスはわたし跡にも先にも受けたことがありません。わたしは邪魔がないと、其儘夜まで掛けてゐたのです。所が生憎。",
"誰か来たのかい。",
"いいえ。さうぢやないのですが、何遍となく同じ詞を、わたしの耳の傍で繰り返すものがあつたのです。わたしは頭を挙げて其方を見ました。見れば年を取つた方の尼さんが、丁度ソドムでのロトの妻のやうに、振り上げた手に蝙蝠傘を持つて、凝り固まつたやうに立つてゐて、しやがれた声で繰り返すのです。Mon dieu, mon dieu, que faites―vous donc, monsieur? que faites, faites, fai―aites―vous donc? わたしは又自分の抱いてゐる女を見ました。蒼い顔と瞑つた目とを見ました。併し妙な事にはキスをしない前程美しくはありませんでした。それから、えゝ、それでおしまひでした。わたしは逃げ出しました。"
]
] | 底本:「鴎外選集 第14巻」岩波書店
1979(昭和54)年12月19日第1刷発行
初出:「我等 一ノ一」
1914(大正3)年1月1日
入力:tatsuki
校正:はやしだかずこ
2000年6月8日公開
2016年2月1日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "000193",
"作品名": "尼",
"作品名読み": "あま",
"ソート用読み": "あま",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "DAT FLEESCH",
"初出": "「我等 一ノ一」1914(大正3)年1月1日",
"分類番号": "NDC 949",
"文字遣い種別": "新字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2000-06-08T00:00:00",
"最終更新日": "2016-02-01T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000017/card193.html",
"人物ID": "000017",
"姓": "ウィード",
"名": "グスターフ",
"姓読み": "ウィード",
"名読み": "グスターフ",
"姓読みソート用": "ういいと",
"名読みソート用": "くすたあふ",
"姓ローマ字": "Wied",
"名ローマ字": "Gustav",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1858",
"没年月日": "1914",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "鴎外選集 第14巻",
"底本出版社名1": "岩波書店",
"底本初版発行年1": "1979(昭和54)年12月19日",
"入力に使用した版1": "1979(昭和54)年12月19日第1刷",
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"入力者": "tatsuki",
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"XHTML/HTMLファイル修正回数": "2"
} |
[
[
"ボヂルや、ボヂルや。わたしのボアがないよ。ボアはどうしたの。",
"こゝにございます。お嬢様、こゝに。",
"手袋は。",
"あなた隠しにお入れ遊ばしました。"
],
[
"もう直ぐですよ、お父うさん。ボヂルや、手袋をおくれよ。あの色の明るい方だよ。",
"あら、お嬢様、あなたお手に持つて入らつしやるではございませんか。"
],
[
"まあ、なんといふ好いお天気でせう。",
"お天気は好いが、早くおし、早くおし。",
"あら、薔薇が綺麗ですこと。御覧なさいよ。",
"遅くなるよ。"
],
[
"わたしあの薔薇を持つて行つてよ。ヰクトルや。走つて行つて、あれを沢山切つてお出。",
"遅くなるよ。",
"だつてをばさんに薔薇を上げなくては。花も持たないで行つては、をばさんがなんと仰やるか知れないわ。ヰクトルや。もう一本お切りよ。もう一本。沢山切るのだよ。"
],
[
"何をするのだい。まだ薔薇を持つて来させるのか。",
"好いから、お父う様、あなたはそこに入らつしやいよ。",
"それでもお前はまるで薔薇に埋まつてしまふぢやないか。",
"わたし埋まりたいのだわ。"
],
[
"これをねえ、わたしの体の周囲へ振り蒔いておくれ。それから幌の上にもね。",
"それではお嬢様、あんまり。",
"それならお父う様、蒔いて下さい。",
"なんだ。そんな馬鹿げた事を、己まで一しよになつてして溜まるものか。",
"そんならわたし自分でするわ。"
],
[
"だつて立派ぢやありませんか。",
"なんだ。まるで仮装舞踏に行くやうだ。町のものが呆れるだらう。"
],
[
"どれ、お午のテエブルに載せる薔薇を切つて参りませう。",
"どうも甘やかして育てたもんだから困る。",
"さやうでございますね。旦那様は随分お可哀がり遊ばします。",
"いゝや。お前が甘やかすのだ。",
"さあ。それはさうでございますが、旦那様、あなたが廃せと仰やれば、致しません。(間)。薔薇を切つて参りませうか。"
],
[
"うん。出してあるな。",
"最初に鶉を上げる事になつてゐます。お嬢様のお好な。",
"ふん。そんなに甘やかしてどうするのだ。",
"でもあなたが廃せと仰やれば致しません。"
],
[
"それからな、シヤンパンは氷で冷さなくてはな。",
"それはさうでございますとも。"
]
] | 底本:「鴎外選集 第14巻」岩波書店
1979(昭和54)年12月19日第1刷発行
初出:「女子文壇 七ノ八」
1911(明治44)年7月1日
※表題は底本では、「薔薇《ばら》」となっています。
入力:tatsuki
校正:小林繁雄
2000年5月1日公開
2016年2月1日修正
青空文庫作成ファイル:
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| {
"作品ID": "000224",
"作品名": "薔薇",
"作品名読み": "ばら",
"ソート用読み": "はら",
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"副題読み": "",
"原題": "ROSEN",
"初出": "「女子文壇 七ノ八」1911(明治44)年7月1日",
"分類番号": "NDC 949",
"文字遣い種別": "新字旧仮名",
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"名": "グスターフ",
"姓読み": "ウィード",
"名読み": "グスターフ",
"姓読みソート用": "ういいと",
"名読みソート用": "くすたあふ",
"姓ローマ字": "Wied",
"名ローマ字": "Gustav",
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"生年月日": "1858",
"没年月日": "1914",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "鴎外選集 第14巻",
"底本出版社名1": "岩波書店",
"底本初版発行年1": "1979(昭和54)年12月19日",
"入力に使用した版1": "1979(昭和54)年12月19日第1刷",
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} |
[
[
"先生、こないなふうに描こうと思うとりますがどないどっしゃろ?",
"ふん、こうしたらよかろ"
],
[
"絵を出さしてやるさかいきばって描きなさい",
"この子、絵筋がええさかい、きばって描かそか……"
]
] | 底本:「青眉抄・青眉抄拾遺」講談社
1976(昭和51)年11月10日初版発行
1977(昭和52)年5月31日第2刷
入力:川山隆
校正:鈴木厚司
2008年3月22日作成
青空文庫作成ファイル:
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| {
"作品ID": "047330",
"作品名": "最初の出品画",
"作品名読み": "さいしょのしゅっぴんが",
"ソート用読み": "さいしよのしゆつひんか",
"副題": "――四季美人図――",
"副題読み": "――しきびじんず――",
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"分類番号": "NDC 721",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
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"姓": "上村",
"名": "松園",
"姓読み": "うえむら",
"名読み": "しょうえん",
"姓読みソート用": "うえむら",
"名読みソート用": "しようえん",
"姓ローマ字": "Uemura",
"名ローマ字": "Shoen",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1875-04-23",
"没年月日": "1949-08-27",
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"底本初版発行年1": "1976(昭和51)年11月10日",
"入力に使用した版1": "1977(昭和52)年5月31日第2刷",
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} |
[
[
"その線の力がたらぬ",
"ここは絵具をぬれ"
]
] | 底本:「青眉抄・青眉抄拾遺」講談社
1976(昭和51)年11月10日発行
入力:鈴木厚司
校正:川山隆
2007年4月24日作成
青空文庫作成ファイル:
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| {
"作品ID": "046527",
"作品名": "三人の師",
"作品名読み": "さんにんのし",
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"分類番号": "NDC 721",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
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"姓読み": "うえむら",
"名読み": "しょうえん",
"姓読みソート用": "うえむら",
"名読みソート用": "しようえん",
"姓ローマ字": "Uemura",
"名ローマ字": "Shoen",
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"生年月日": "1875-04-23",
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} |
[
[
"まあおはいりやす",
"それではちょっと休ませてもらいまっさ"
],
[
"大したものどすな",
"どないして書かはったのどす"
],
[
"私の父は、一丁先にある豆粒が見えるほど目が達者なのです。それで目の前の米粒は西瓜ぐらいに見えるのだそうで、これにいろは四十八文字をかきこむくらい朝めし前です",
"たいしたものどすな",
"そんな目ってあるもんどすかな"
],
[
"こりゃ美事どすな",
"いろはよりも大したもんどす"
]
] | 底本:「青眉抄・青眉抄拾遺」講談社
1976(昭和51)年11月10日初版発行
1977(昭和52)年5月31日第2刷
入力:川山隆
校正:鈴木厚司
2008年3月22日作成
青空文庫作成ファイル:
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| {
"作品ID": "047326",
"作品名": "棲霞軒雑記",
"作品名読み": "せいかけんざっき",
"ソート用読み": "せいかけんさつき",
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"分類番号": "NDC 721",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
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"公開日": "2008-04-24T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-21T00:00:00",
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"姓": "上村",
"名": "松園",
"姓読み": "うえむら",
"名読み": "しょうえん",
"姓読みソート用": "うえむら",
"名読みソート用": "しようえん",
"姓ローマ字": "Uemura",
"名ローマ字": "Shoen",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1875-04-23",
"没年月日": "1949-08-27",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "青眉抄・青眉抄拾遺",
"底本出版社名1": "講談社",
"底本初版発行年1": "1976(昭和51)年11月10日",
"入力に使用した版1": "1977(昭和52)年5月31日第2刷",
"校正に使用した版1": "1976(昭和51)年11月10日",
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"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
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"テキストファイル最終更新日": "2008-03-22T00:00:00",
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} |
[
[
"子供二人つかまえて女手ひとつで商売もうまく行くまい。姉のほうは奉公にでも出して世帯を小さくしたらどうか",
"もう一ぺん養子をもろうたら――"
],
[
"お母さん行って参ります",
"お母さん帰って参りました"
]
] | 底本:「日本の名随筆 別巻84 女心」作品社
1998(平成10)年2月25日初版発行
底本の親本:「青眉抄」三彩新社
1986(昭和61)年5月
入力:門田裕志
校正:林幸雄
2003年5月17日作成
青空文庫作成ファイル:
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| {
"作品ID": "004886",
"作品名": "母への追慕",
"作品名読み": "ははへのついぼ",
"ソート用読み": "ははへのついほ",
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"分類番号": "NDC 721",
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"作品著作権フラグ": "なし",
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"姓": "上村",
"名": "松園",
"姓読み": "うえむら",
"名読み": "しょうえん",
"姓読みソート用": "うえむら",
"名読みソート用": "しようえん",
"姓ローマ字": "Uemura",
"名ローマ字": "Shoen",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1875-04-23",
"没年月日": "1949-08-27",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "日本の名随筆 別巻84 女心",
"底本出版社名1": "作品社",
"底本初版発行年1": "1998(平成10)年2月25日",
"入力に使用した版1": "1998(平成10)年2月25日第1刷",
"校正に使用した版1": "",
"底本の親本名1": "青眉抄",
"底本の親本出版社名1": "三彩新社",
"底本の親本初版発行年1": "1986(昭和61)年5月",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "門田裕志",
"校正者": "林幸雄",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000355/files/4886_txt_9739.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2003-05-17T00:00:00",
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"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"あら不思議や何やらんあなたにあって物音のきこえ候。あれは何にて候ぞ",
"あれは里人の砧擣つ音にて候",
"げにや我が身の憂きままに、古事の思ひ出でられて候ぞや。唐に蘇武といひし人、胡国とやらんに捨て置かれしに、故郷に留め置きし妻や子、夜寒の寝覚を思ひやり、高楼に上つて砧を擣つ。志の末通りけるか、万里の外なる蘇武が旅寝に故郷の砧きこえしとなり。妾も思ひ慰むと、とてもさみしきくれはとり、綾の衣を砧にうちて心慰まばやと思ひ候",
"いや砧などは賤しきものゝ業にてこそ候へ、さりながら御心慰めん為にて候はゞ、砧をこしらへてまゐらせ候べし"
]
] | 底本:「青眉抄・青眉抄拾遺」講談社
1976(昭和51)年11月10日初版発行
1977(昭和52)年5月31日第2刷
入力:川山隆
校正:鈴木厚司
2008年4月5日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "047312",
"作品名": "謡曲と画題",
"作品名読み": "ようきょくとがだい",
"ソート用読み": "ようきよくとかたい",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "",
"分類番号": "NDC 721 773",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2008-05-04T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-21T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000355/card47312.html",
"人物ID": "000355",
"姓": "上村",
"名": "松園",
"姓読み": "うえむら",
"名読み": "しょうえん",
"姓読みソート用": "うえむら",
"名読みソート用": "しようえん",
"姓ローマ字": "Uemura",
"名ローマ字": "Shoen",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1875-04-23",
"没年月日": "1949-08-27",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "青眉抄・青眉抄拾遺",
"底本出版社名1": "講談社",
"底本初版発行年1": "1976(昭和51)年11月10日",
"入力に使用した版1": "1977(昭和52)年5月31日第2刷",
"校正に使用した版1": "1976(昭和51)年11月10日",
"底本の親本名1": "",
"底本の親本出版社名1": "",
"底本の親本初版発行年1": "",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "川山隆",
"校正者": "鈴木厚司",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000355/files/47312_ruby_29691.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2008-04-05T00:00:00",
"テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"テキストファイル文字集合": "JIS X 0208",
"テキストファイル修正回数": "0",
"XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000355/files/47312_30888.html",
"XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2008-04-05T00:00:00",
"XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"お食事のよういができました",
"ありがとう"
],
[
"ブランブルハースト駅に、荷物をおいてきたんだが、どうやったら取りよせられるね?",
"おや、それはおこまりでしょう。さあ、この雪では……それに、こんな田舎ですからね。たのむといって、すぐに、人手がいいあんばいにございませんわね"
],
[
"きょうじゅうには、むりでございますよ",
"あすになるか? なんとか早く、とどけさせる方法はないものかな? 馬車ならいってこられそうなものだが……"
],
[
"それがむりなんですよ。このうら山には、とてもけわしい場所がありますんでね、馬車なんか通れやしませんよ。去年でしたか、馬車がひっくりかえりましてね、お客さんと馬車屋が死にました。とんだ災難で、まあ、こんな日には、おやめになったほうがようござんすね",
"なるほど、災難って、そういったもんかね"
],
[
"テッディさん、いいところへきてくださったわ、ちょうど、お客部屋の時計を見てもらいたいと思っていたのよ。あのへやの時計ときたら、動くのは、ちゃんとまちがいなく動くし、時間だって、元気よく打つんだけど、針だけがいつも六時を指したきりなのよ。どうしたのかしら?",
"へんだねえ、ちょっくら、見てみましょう"
],
[
"だんなさま、時計屋が時計をなおしにまいりましたので、ちょっと……",
"時計をなおすのかい? いいだろう――"
],
[
"おっと、待ってくれたまえ、ブランブルハースト駅にある、ぼくの荷物をとりよせるようにたのんでくれたかね",
"配達屋にたのんでおきましたから、あすの朝早くとどきます",
"あすの朝……こん夜のうちに、とってくるわけにはゆかないかね",
"ええ、だめでございますよ"
],
[
"さようでございましょうとも、で、駅にございますお荷物の中に、実験道具をおいれになっていらっしゃるのでございますか?",
"そうなんだ。全部はいっているんだ"
],
[
"そのうえ、けがのために視力がすっかりよわってしまってね。ときどき痛みだすと、何時間も暗がりの中で、じっとしていなければならないんだ。痛みの起こったときのつらさときたら、まったくたえられないほどなんだよ。そんなときに、だれかに部屋にはいってこられると、とてもいやなんでね。だから、きみもよく心えていてもらって、ぼくの部屋へ他人をいれないでくれたまえ。しずかに休んでいたいんだからね",
"わかりました。よく気をつけますわ。そんなひどいおけがを、どうしてなさいましたの?"
],
[
"ホール、おめえのとこには、へんな客がとまっているな",
"なんだって?"
],
[
"あれはおめえ、よくねえやつかもしれねえぞ。じぶんでは科学者だなんて言ってるが……どうだか、わかったものじゃねえ。あいつは、変装してるのかもしれないぜ。どこかで悪事を働いて、それをかくすために、ああいうかっこうをして、なるべく人を近よせないでおくつもりかもしれないね",
"うちのやつは知ってるのかね?"
],
[
"そう言うもんかね",
"あたりまえだよ。しかし、おかみさんは、一週間のけい約をむすんでしまったんだ。いまさら、あいつがどんな悪者だったとしても、一週間のあいだは追いだすことはできないんだ。あすになると、あいつのいう実験道具とやらが、どっさりはこびこまれるらしいぜ。なんの実験をするつもりだかわからないがね",
"ふうん"
],
[
"用心したほうがいいぜ。おれのおばさんもね、ヘイスティングズでやはり宿屋をやっているがね。見なれぬ客がえらく大きなりっぱなかばんをさげてきたのをみて、すっかり信用してしまったのさ。ところがそのかばんは中がからっぼで、それに気づいたときは、たくさんの宿料をふみたおされて、逃げられたあとだったんだ。おめえたちも、怪しい客には、よくよく気をつけたほうがいいぜ",
"ありがとう、ヘンフリイ。こいつはどうも、うちのやつにちょっくら、言ってきかせなくてはなるまい。これから大いそぎで帰ろう"
],
[
"ごくろうさま",
"きょうは、きのうの雪のために、道がひどいぬかるみになっていて、えらい難儀でしたよ"
],
[
"ホール、あのお客さまにけがはなかっただろうかね?",
"ひどくかみつかれなさったようだったけど、おれ、ちょっと、部屋へいって、ようすをうかがってこよう"
],
[
"そうだよ、われわれがここに立っていても、こいつはかみつかないのにさ",
"だけど、もとはって言えば、フィアレンサイドがこんなろくでなしの犬をかっているのが、大さわぎをおこすもとなんだよ"
],
[
"おまえさん、どうしたの? なにかあったのかい?",
"いいや、なんでもねえ"
],
[
"この部屋に用があったら、ノックをしてからはいってもらいたいね",
"ノックはいたしましたわ。なんどもなんども。でも、だんなさまが、お気づきにならなかったんですよ",
"それはしたかもしれんさ。しかしだね。この実験は一分もはやく完成させなくてはならんのだ。じゃまがはいるとひどくめいわくするんだ。ドアがあく音がするだけでも気がちってこまる。いちど言ったことは、かならず守ってもらいたいね"
],
[
"わかりました。それでしたら、お部屋に鍵をおかけになったらいかがですか?",
"なるほど、そうだったな。では、これからは鍵をかけることにしよう"
],
[
"それはおそれいります。どのくらいお掃除代をいただけましょうか?",
"一シリングでいいだろう?",
"けっこうですわ",
"では一シリングとつけておきなさい。勘定をするときにいっしょに払うから",
"ありがとうございます。ではどうぞ、お食事をなさってくださいませ"
],
[
"おれはこの年になるまで、あんな変なやろうは見たことがねえよ。おれの犬が、あいつの足をがぶりとやったとき、おれはたしかに見たんだよ。あの男の足はまっ黒なんだ",
"ほんとうかい? 人間の足がまっ黒だなんてことがあるものかなあ",
"おれの言うことをうたぐるのかい? おれはちゃんと見たんだぜ。ズボンのさけ目と手袋のやぶれたところから、はっきり黒ん坊のようにまっ黒な肌がみえたんだ。おめえなんか、どう思っていたかしらねえがね"
],
[
"だとすると、おかしいじゃないか? あいつの鼻はちゃんと白いんだぞ",
"そうだよ。おめえの言うとおり、やつの鼻は白いんだ。だからさ、おれが考えるのに、たぶんあいつの体はあちこち色がちがうんだろう。白いところと黒いところがあってさ。まだらになってるだろうよ。だもんで、やつは恥ずかしがって、あんなにえり巻やオーバーをしっかり身につけて、かくしてるんだよ",
"まるでシマ馬みたいじゃないか。白と黒のまだらだなんて、はっはっは",
"はっはっはっはっ"
],
[
"うん、ろうそくだってともっている。だれかがこの部屋にいたことはたしかだよ",
"こんなおかしなことって、あるものでしょうか?"
],
[
"おや、サルサ根の液のはいったびんを持ってくるのをわすれたよ。ちょいとおまえさん、大いそぎでとってきておくれよ",
"よしきた"
],
[
"なにをねぼけたことを言ってるのさ。しっかりおしよ",
"ねぼけてなんかいねえよ。客は部屋にいねえし、玄関のかんぬきははずれているんだ。が、やつの服は部屋にほうりだしてあるんだが。とすると、はだかででかけたのかな?",
"おまえさん、それはほんとの話かい?",
"ほんとうとも……信じないなら、おまえ、じぶんの目でみてみな"
],
[
"おまえさん、ちょっときてごらんよ。まだ夜あけ前だってのに、このベッドは起きてから一時間もたってるように、すっかりつめたくなってるんだよ",
"どれどれ"
],
[
"ゆうれいだわ、きっとそうだ。そうでなければ、いすやズボンが、まるで生き物のようにとび歩くはずがないわ。ホール、すぐに玄関のかぎをかけてちょうだい。あの男が帰ってきても中へ入れないように、早く、早く",
"ジャニイ、気をしずめなさい。ほら、これをぐっとひと口のんでごらん。ずっと気分がしずまるから"
],
[
"へんだ、へんだと思っていたんだけど……やっぱりあの男はわるい魔法をつかうんだわ。おっかさんの代からのだいじな家具に、悪霊をふきこんだんだわ。でなければ、いつもおっかさんが腰かけていた、あのなつかしいいすが、わたしに飛びかかってくるはずがないわ",
"さあ、ジャニイ、もうひと口飲みなよ。おまえはえらくこうふんしてるよ"
],
[
"なにを言ってるんだ。だれが勘定だといった。ぼくはまだ朝食もくってないんだぜ。なぜ、ぼくの食事の支度をしてくれないんだ。ベルをならしても知らんぷりだ。ぼくは仙人じゃないぞ。飯もくわずに生きていられるか",
"おやおや、お食事のさいそくでございますか? では、わたくしにもさいそくさせてくださいませ。お勘定をしていただきたいんです",
"三日まえに言っただろう。まだ金を送ってこないんだよ",
"あたしは二日まえに、ちゃんと申したはずですわ。これいじょうお金を送ってくるのなんか待っていられないんです。あなたさまは朝の食事がほんのすこしおくれたからって、がみがみとお叱りになりますが、あたしどもはもう、五日もお勘定をまっておりますよ",
"な、なにを言うんだ。人をぺこぺこの空きっ腹にさせておいて……け、けしからん。じつにけしからん",
"けしからんのは、そちらですよ。食事のさいそくをなさるくらいなら、さっさとお勘定をはらってからにしていただきたいですね。わたしのほうが、よっぽどさいそくしたいですよ"
],
[
"まあ、そう腹をたてないでくれたまえ。じつは、ないと思った金が、おもいがけなくポケットの中にすこしばかり残っていたんだ",
"ええっ!"
],
[
"頭がねえそうだよ。ほんとにねえんだ。帽子をとって、ほうたいをはずしたら、その下にあるはずの頭がなかったってんだ",
"ばかを言え。そんなことがあるはずがねえよ",
"ほんとだってば、おや、巡査のジャッファーズがきたよ。化けものをつかまえにきたんだ"
],
[
"頭があろうがなかろうが、わしはやつをつかまえなければならん",
"そうです、そうです。お巡りさん、さあ、つかめえてくだせえ"
],
[
"やめさせろ! 服をみんなぬがさせると、たいへんなことになるぞ! すっかり見えなくなって、つかまえられなくなるんだ",
"そうだ、そうだ、いまのうちにつかまえてしまえ!"
],
[
"気をつけろ、ドアをしめろ。外へださないようにして、なんでもいいから、手にさわったものはみんなつかまえて、なぐりつけろ!",
"ほら、いた!",
"いや、こっちだ!"
],
[
"おい、おれをなぐるとはけしからんぞ!",
"おまえをなぐったんじゃないんだよ。あいつはふわふわ浮いてたんでなぐりつけたんだが、やつめ、うまくかわしやがったらしいな。そのはずみでおまえさんをかすったんだ"
],
[
"そうなんですよ。どっちもいただきものですがね。いままでのやつは水がはいるんです。あっしは、いつも靴はこのへんでいただいておるんですよ。このあたりの人たちは、おうようで情ぶかいですよ",
"ばかを言え、このへんのやつらはみんないやなやつらばかりだ!",
"そうですかね。だが、わたしはそう思いませんね。この靴だっていただきましたしね"
],
[
"おやおや、おや? おれはよっぱらったのかな? それとも……",
"こわがらなくてもいいよ。おれはちゃんといるんだから",
"ひゃあ! だんな、どこにいらっしゃるんですか、こわがるなって言われたって、こわくなりますよ",
"こわがらなくてもいいと言ってるじゃないか、おちつけよ。おまえにおれの姿がみえなくても、いることは、ちゃんとここにいるんだから"
],
[
"助けてくれ! おれはどうかしてしまったよ。空から声がふってくるなんて、ただごとじゃねえや",
"おちつけ、おれは化けものじゃないよ。それに、おまえが気がちがったんでもない。おれのいうことを信用しろ。でないと、石をぶつけるぞ",
"だって、だんな、どこにおいでなんです?"
],
[
"おれの姿がおまえに見えないからって、おれは怪しい人間ではないんだ。ただわけがあっておれの姿は空気とおなじで、すきとおっていてだれにも見えないんだ",
"えっ、おれのことをからかわないでくだせえよ。いくらおれがこじきだからって、ばかにしてもらいますまい。すきとおって姿のない人間なんて、いるわけがありませんよ",
"ところがいるんだよ。いま、おれの体にさわらせてやるからな"
],
[
"こいつはおもしれえや、だんなはほんとにいたんですね。だが体がすきとおってしまったなんて、ずいぶんふしぎですねえ。だんなの腹の中には、なにもはいってないんですか? パンだのチーズだの食べれば、腹の中に見えるでしょう",
"それはそうだよ、消化してしまうまでは見えてるよ",
"なるほど、しかし、どうしてそんなふしぎな体になりなさったのですかね?",
"それにはながい話があるんだ。しかし、そんなことをおまえに話してきかせたって、わかりはしないよ。それよりおれがこうしておまえのあとをつけてきたのは、話したいことがあるからなんだよ",
"おれにたのみたいことですって……いったい、それはなんですね?"
],
[
"じつは、おれははだかなので、いろいろのことでこまりきっているんだ。大いそぎで着る物を手にいれてもらいたいんだよ。それから寝る所とな――ほかにもいろいろやってもらいたいことはあるが、とりあえずそれだけを、おまえの力でぜひなんとかしてくれ",
"着る物を手にいれろとおっしゃるんですか、なんだか、あっしは頭がぐらぐらしてきたようだ。すこし落ちついて、ゆっくりと考えさせてくだせえ。だれひとりいない丘からいきなり声がして、なんにも見えねえのに、さぐればたしかにだんながいらっしゃる。体がすきとおっているんだそうだが……そしてこんどは着物とねる所を手にいれろとおっしゃる。あっしは、すっかりめんくらってしまいましたよ",
"いまさら、ぐずぐず言うな。透明人間のわしが、おまえをえらんだんだ。おれのために働いてくれ。そうすればお礼はたっぷりやるよ。わかったな"
],
[
"おい、さっさと歩け。なにを考えてるんだ。また、さっきのようにおれをまいて逃げようというのかい? こんど逃げてみろ、ただではおかないからな",
"逃げようなんて、そんなことは考えてませんよ。あっ、そんなに肩をつっつかねえでくだせえ。おいら、いまに傷だらけになってしまいますぜ"
],
[
"いいか、こんど逃げようとしたら、殺してやるからな",
"とんでもねえ。おいら、あんたをまいて逃げようなどとは、これっぽっちだって考えていませんよ。ただ、どこでまがったらいいかわからなくて、あのまがり角へはいりこんじまったんですよ。あっしはこのへんの道はちっとも知らねえんです。そんなおそろしいことを言わねえでくだせえ"
],
[
"なあ、トーマス、アイピング村のばか者どもが、考えなしの大さわぎをおっぱじめやがったおかげで、おれの姿が透明で着物を身につけさえしなければ、だれにも姿をみられなくなるってことを、みんなに知られてしまったんだ。いまいましいじゃないか。そこで問題はこれから先どうするかってことだ。どうせ、やつらはおれを追いまわすにきまってるだろうし……なにかいい考えはないか",
"だんな、あっしにいい考えなんてあるはずがないですよ"
],
[
"だんな、だんなはあっしをなんに使おうとおっしゃるんで……はじめは旅館からだんなの荷物をもちだす手伝いをしてくれとおっしゃった。それがすむと、あっしの役目はおわったはずなのに、やはりあっしをはなしてはくださらねえで、こうして荷物をかかえてだんなのいくほうへつれてゆきなさる。いったい、どういうお気もちなんでごぜえますか?",
"つべこべいうな、おまえみたいなやつでもおれにはいり用なんだ。それに、いまにわしが仕事をやりはじめれば、どうしてもおまえの手伝いがいるようになるのだ",
"なにをおやりなさるのかしらねえが、あっしはとても、だんなの役には立ちましねえ。だいいち、じまんではねえが、力はないし、そのうえ、心臓もよわいんです。せいぜい、さっきぐらいのことしかやれねえですよ。度胸はねえし、びくびくしながら手伝ったところで、あんまり役にもたたねえでしょう",
"力がないのはこまるな、見かけだおしなのか……まあいいさ、それに、なにもびくびくすることはないんだ。おれはだいそれたことをたくらんでいるわけじゃないし、おれがいつもくっついててやるから、おれのいうとおりにやればいいんだ"
],
[
"だんながいくらこわがらなくてもいいとおっしゃっても、あっしはうす気味わるくて死にてえくらいでさあ。いってえ、どんなことをあっしにしろとおっしゃるんで……あっしだって、いやならいやとおことわりできる権利があるんですがね",
"だまれ! だまれ、だまれ。だまっておれのいいつけどおりにしていればいいんだ。おまえは利口な人間じゃないし、あまり役に立ちそうもないが、おれのいいつけどおりにやりさえすれば、おれはいつもおまえを守っていてやろう"
],
[
"暑くもなし寒くもなし、じつに気もちのいい朝だ。あなたは、どちらからおいでなさったね",
"遠くからですよ",
"ははあ、おやっ、そこにおいていなさるのは本ですかい?"
],
[
"おれは、本なんてものはなん年間も読んだことがねえが、ずいぶんめずらしいことを書いたのがあるそうだね。その本にもかわったことが書いてあるかね",
"そりゃあそうでさ"
],
[
"しかし、けさの新聞には、本にまけないほどめずらしいことがのってるぜ",
"そうですかね",
"なんだ、おめえ、まだ新聞を読んでいないのかい? 姿の見えねえ人間ってのが、あらわれたそうで、でかでかと書きまくってあるよ"
],
[
"透明人間ですって、いったいどこにそいつがあらわれたんですね。オーストラリアか、アメリカですかい?",
"ばかを言いたまえ、そんな遠くの話ではないんだ。この土地にあらわれたんだ",
"えっ!"
],
[
"はっはっは、この辺といってもこのベンチのまわりじゃねえよ。この近くの村にだよ",
"ああ、そうですか、で、その透明人間はなにをしようってんですかね?",
"あばれたいだけあばれたってことだ。なにしろ体が見えねえんだから、どんなことだってやれるさ。だれもつかまえることも、とめることもできないからね。昔、おとぎ話にあったのが、ほんとのことになったんだね",
"そうですか、あっしはこの四日間、新聞ってやつを見たことがねえんでしてね",
"透明人間がはじめて暴れだしたのは、アイピング村がはじまりだそうだ",
"それで……",
"その人間はどういう男なのか、アイピング村にくるまではどこに住んでいたのか、どんなことをしていたのか、さっぱりわかっていないそうだ。ほら、この新聞をみてみたまえ、アイピング村の怪事件って書いてあるだろう",
"なるほど、それではやはり、ほんとうの話なんですね。信じられねえようだが……",
"そいつは、はじめ黒馬旅館にとまっていたんだそうだ。頭にほうたいをまいて服をきこんでいたから、だれひとり透明人間だなんて気づかなかったそうだ"
],
[
"だが、ついに化けの皮のはがれるときがきたんだ。アイピング村の連中は、そいつが透明人間とわかったので、大格闘をやってつかまえようとしたが、なにしろ相手の姿はみえないんだ。いたずらにさわぎまわるばかりで、とうとう逃げられたということだ。",
"へえ、ふしぎな話ですな。で、アイピング村であばれてから、透明人間はどこへいったのでしょうね",
"さあ、たしかなことではないらしいが、ポート・ストウ方面へむかったようすだって書いてあるぜ。おれたちのいるこの村へ、透明人間なんていうおかしなやつにやってこられるのは、ありかたくないね",
"まったくですよ。なにしろ姿がみえないんですからね"
],
[
"あっしはぐうぜんなことから、あなたのいまおっしゃった透明人間を知っているんですよ",
"えっ? おまえが知ってるというのかい?",
"へえ、そうなんですよ。わしがやっと知りあったときのことを聞いてくだせえ。が、びっくらしねえでくだせえよ。たいへんかわったことなんだから",
"そりゃあそうだろうよ。いいよ、びっくりしねえから話してきかせなよ",
"あっしは、透明人間のようにおそろしいやつに、いままで会った……"
],
[
"おい、どうしたんだい? 透明人間のことを話すと言ったじゃないか?",
"うそでさ。いっぱいかついだだけですよ"
],
[
"新聞にだってのっているんだ。透明人間はたしかにいるんだ。なんだ、透明人間を知ってるなんて言って、人をかつぐ気だったのか? しかし、きさまがやつのことをしらなくても、透明人間はいるんだぞ",
"新聞だって、でたらめを書くこともありますよ。あっしは、このうそをつきはじめたやつを知ってるんですよ。やつの口から透明人間なんていうでたらめが話されて、ほうぼうへひろまっていったんですよ"
],
[
"だが、新聞にのっているし……りっぱな人たちが証人になってるしな",
"うそですよ。うそですよ。だれがなんと言ったってうそにきまってますよ。ばかばかしい、透明人間なんてものが、いまの世の中にいるはずがないじゃありませんか"
],
[
"それほどはっきりうそとわかっているなら、なんだってはじめにうそだと言わねえんだ",
"なにっ!"
],
[
"いいや、透明人間じゃない。だが、おなじようにへんなふしぎなことなんだ",
"ふしぎなこと? まあいいから落ちつきなよ。コーヒーをごちそうするから、ゆっくり話したらどうだい"
],
[
"おどろいたの、なんのって、きょうのようにおどろいたことは、いままで一度だってありはしねえよ、あにきだってその場にいあわせたら、きっと目の玉がひっくりかえるほどおどろくにちがいないよ",
"おれがおどろくか、おどろかないか、そんなことはいいけど、その話というのはどんなことなんだい? おまえはかんじんのことはちっとも話してねえぜ",
"うん、それだよ。おれが朝はやくセント・マイクル小路を歩いていたんだ。まだ時間が早かったので、街はしいんとしていて、通っている人は、おれのずっと先を歩いている年よりきりで、ほかに人かげは前にも後にも見えなかった。おれはこんど乗っていく船や、ゆく先の港のことを考えて歩いていた。その時、どういうきっかけだったかわからないが、ひょいとよこの壁に目をやった",
"うん、それで……",
"そのとたんに、おどろいたねえ。ひとにぎりの金貨が、壁にそって空中をふわふわととんでいるんだ。それを見たときのびっくりしたこと……おれは思わずなんども目をこすったよ。が、なん度見なおしても、ほんものの金貨だ。かなりの早さで飛んでいくんだ。じっと見つめているうちに、すこしおどろきがおさまると、欲がむらむらっと起こったんだ",
"その金貨を、じぶんのものにしようとしたのかい?"
],
[
"おはずかしいが、そうなんだ。あたりに人はいない、金貨は持主がいるようではなし、ちょうど手のとどくところをとんでいるんだ。おれは、一枚や二枚ちょうだいしたって、たいして悪くはあるまいと考えたので、ひょいと手をのばして、その金貨をつかもうとした",
"うまくつかめたのか?",
"いいや、手をのばしたとたん、いきなり強い力でなぐり倒されて、その場にばったりとたおれてしまった。ひどく腰をうってのびてしまったが、かろうじて痛みをこらえて立ちあがったときには、金貨はちょうちょうが舞うように、ふわふわとマイクル小路のかどを消えていったんだ",
"おまえ、夢でも見ていたのじゃないか? ゆうべ、ぐっすり眠ったのかい?"
],
[
"いやになるなあ、あにきまでがそんなことを言うのですかい? おれの腰は、その時すごい力でなぐり倒されて、いやっというほど地面にうちつけたので、いまでもずきんずきん痛んでますよ。おれだってさっきまで、金貨が空中をふわふわ飛ぶなんてことがあるとは思ってませんでしたよ。だけど、はっきりじぶんの目でみたんです。これよりたしかなことはありませんよ。おれは金貨がマイクル小路のかどに消えてゆくまで、じっと見ていて、その足であにきのところへかけつけてきたんだよ",
"そうか、では、まんざらうそでもなさそうだし、おまえが寝ぼけていたわけでもないんだね。とすると、ずいぶんふしぎな気味のわるい話じゃないか",
"そうなんだよ。おれも金貨が見えてる間は無我むちゅうだったが、金貨が消えてしまったとたん、ぞっとしたね。がたがたとふるえてきて、どうしてもとまらねえんだ。このごろは変なことばかり続くじゃないか。透明人間だなんて恐ろしいやつのことを、新聞がでかでか書きたてたと思うと、金貨が空中をとびまわる。おれはなんとなくおそろしくてしかたがないよ"
],
[
"おい、なんだか、おおぜいの人が駈けていくぜ",
"どれどれ、ほんとうだ。火事かもしれねえな"
],
[
"やつが追ってくるんだ。あっしのあとを追って……助けてくだせえ。透明人間に追われているんです",
"透明人間がくるって……そいつはたいへんだ。おいっ! ドアを閉めろ、ドアを閉めろ!"
],
[
"あっしをかくしてくだせえ。どこかおくのほうの鍵のかかる部屋にかくしてもらいてえんです。やつがあっしを追っかけてくるんです。あいつはどんなところへでもはいってきますよ。あっしのことを殺そうと思っているんです",
"どんなやつかしらないが、ここまでくれば大丈夫だよ。ドアはしめたし、そちらに警官もいらっしゃるんだ"
],
[
"透明人間だ! はやくどこかへかくしてくだせえ。こんどみつかれば、きっと殺されてしまうんだ。おお、神さま!",
"この中へはいったらいいだろう"
],
[
"とんでもない、そいつはこまるよ、きみ。そんなものをふりまわして、相手が運わるく死んでみたまえ、殺人罪になってしまうよ",
"へっへっへ、そんなことは心えていますよ。やつを殺してしまうようなへまはやりませんよ。足をねらいますよ。おれは足をねらう名人なんだよ。さあ、かんぬきをはずしなさい"
],
[
"家じゅうのドアは、みんなしめてありますかい? 透明人間のやつは、きっとぐるっとまわって、開いてるドアをさがしてみますぜ。悪魔のように、ぬけめのねえやつですからね",
"そいつはたいへんだ。うち口のドアはあけたまんまだ。ちょっとわたしはいってくる。こちらはおまえさんたちにたのみますぜ"
],
[
"庭の木戸も通用口のドアも、みんなしめるのをわすれていたんだ。そのうえ、庭の木戸はあけっぱなしになっていたんだが……",
"透明人間が、そこからはいりこんだんじゃないか?"
],
[
"調理場にお手伝いが二人いたが、だれもはいってきたけはいはなかったそうだ",
"しかし、ゆだんはならないぞ!"
],
[
"つかまえたぞ! みんなこい! ここにやつがいるぞ!",
"いたぞ! 透明人間がいたぞ"
],
[
"いまのベルは、郵便配達だったのかね?",
"いいえ、だんなさま。それがおかしいのでございますよ。ベルはたしかになりましたのに、玄関にはだれもいないのです。おおかた、子どものいたずらでございましょう",
"子どものいたずらか"
],
[
"え?",
"おどろいてるな。ぼくはグリッフィンなんだよ。ほら大学で同級だったグリッフィンだよ。おぼえてるだろう",
"グリッフィンだって……なにをばかなことを……この化けものめ!"
],
[
"しずかにしろ! ケンプ、話せばわかることなんだ、話をきいてくれ",
"なにを、このやろう、このばけものめ。話もなにもあるものか、ふんづかまえてやるぞ",
"だまれ、おれがおまえなんかにつかまるものか……"
],
[
"ずいぶんきばつな話だが、話をきけばあるいはわかるかもしれん。話してみたまえ。それにきみの言うように、わしの目には、きみの姿は見えないが、たしかに体はあるらしいな。わしの手がたしかにさわったし、きみの腕がわしをなげとばしたからな",
"そうなんだ、そうなんだ。たしかにぼくは頭もある手足もあるんだ……。おそろしい化けものなんぞじゃないんだ。ただ研究の結果でこんなことになってしまったんだ",
"研究の結果だって? 研究の結果できみが透明人間になったというのかい?",
"そうだよ",
"信じられないね。だいいち、透明人間がグリッフィンだと言ったところで、たしかにかれだという証拠はないわけだ。顔をみることもできんし……もっとも声はグリッフィンらしいが",
"きみ、まだそんなことを言うのかい……ぼくはまちがいなくグリッフィンだよ。ゆっくり話せば疑いははれるよ。信じてくれたまえ、ケンプ!",
"では、話してみたまえ",
"話そう、が、そのまえにすまないがウィスキーと食事と着る物がほしいんだよ。じつはけがをしているので、傷はいたむし疲れきっているんだよ",
"食べ物に着物だって……すこし待ちたまえ、なにかあるだろう。が、家のものをさわがしたくないから、まにあわせだよ"
],
[
"これでまにあうかね?",
"けっこうだよ。それにズボン下とくつした、そしてスリッパがあれば申し分ないが……"
],
[
"いま持ってくるよ。だが、こんなきちがいじみたことにであうのは、生まれてはじめてだよ。ぼくは催眠術にかかっているのかな?",
"ばかなことを言いたまえ、ぼくは催眠術なんぞやらないよ"
],
[
"なるほど、見えないよ。で、傷をしているといったが、どこを傷つけられたんだね",
"傷はたいしたことはないんだ"
],
[
"ああ、うまい、それにしてもぼくがほうたいをさがしてまよいこんだのが、きみの家だったとはふしぎだな。ぼくは運がよかったよ。こん夜は泊めてもらいたいね。ひさしぶりにゆっくり眠りたいんだ。ベッドを血でよごしてすまなかったね。体は透明になっていても、血だけはかたまると見えてくるんだよ……。そのためにさっきも、あやうくつかまるところを、きみの所ににげこんでたすかったんだ",
"また、どうしてピストルでうちあいなんかやったんだね",
"ばかなやつが、ぼくの金を盗もうとしたんだ。そいつはぼくがなかまにしようと思ってた男だのに……",
"そいつも透明なのかい?",
"いいや、かれはふつうの人間だよ。あいつはぼくを恐れてびくびくしていたくせに、ぼくをうらぎろうとしたんだ。あいつめ、こんど会ったらぶち殺してやる。ちくしょうめ!"
],
[
"ぼくは武器をつかったりなんかしなかったんだ。それだのに、やつらはおれにむかって、つづけざまにピストルをうつんだ。たいていのやつらはぼくをこわがって、ぼくを追っぱらおうとして乱暴するんだよ",
"なるほど、が、きみがそんな体になったいきさつを、話してきかせてほしいな",
"それはゆっくり話すよ。そのまえに、たばこがほしいんだが"
],
[
"いいか、朝食を二人まえ用意して、ここまでもってきなさい。そしてわしが呼ぶまで、二階へかってにくることはならんよ。わかったな",
"はい"
],
[
"どうしたのだ? なにか気にいらないことでもあるのかい?",
"なに、頭の傷がすこしばかりいたみだしたので、気分がすぐれないんだ。いやな気もちがするんだ"
],
[
"きみのことが、すっかり新聞にのっているよ。世間は透明人間のうわさでもちきりらしい。ただ、ぼくの家にきみがしのびこんでいることは知らないがね",
"うるさいやつらだ! なぜぼくを、しずかにしておいてはくれないんだろう",
"それはむりだよ。世の中は、物わかりのいいやつばかりでできてやしないんだ。そいつらは、どこまでもきみをつかまえようとさわぐだろうね。そこで、これからどうするかね? むろん、ぼくはできるかぎりの手伝いはするよ。だが、きみはいったい、どうしたいと思ってるのかね"
],
[
"かんたんなことなんだ。きみだって説明をきけば、なーんだ、と思うよ。奇跡がおこったのでも、なんでもないさ",
"きみには、かんたんかもしれないが、ほかの者にとっては、奇跡とおなじくらいふしぎなことだよ",
"はっはっは"
],
[
"さて、それではなにから話そうかな。ぼくが、はじめ医学を勉強していたことは、きみも知っているとおりだ。その後、ふとしたことから医学を研究することをよして、物理学にうつったんだ。ことに光の反射とか屈折とかが、ぼくの興味をとらえてしまったんだ",
"昔からきみは、そういうことを研究するのがすきだったじゃないか",
"そうだよ。しかも、この研究は人があまりやっていないので、いくらでも研究することが残されているのが、若いぼくには、たまらない魅力だったのだ。まだ二十二才のわかい科学者だったぼくには、これに一生をささげて、いつかは世間のやつどもを、あっといわせるような研究をやりとげようと決心したんだ"
],
[
"それからのぼくの頭には、研究のことよりほかは、なにもなかったね。寝てもさめても考えるのは、研究のことばかり――六ヵ月ほどたったとき、はっと思いついたことがあったのだ",
"どんなことだ",
"きみも知っているとおり、物が見えるということは、光が物にあたったとき反射するか、そのまま吸収されてしまうか、または光がおれまがる具合によって、いろいろな色とか、形とかが、それぞれの姿をもって目にみえるので――光のこの三つの働きがなかったら、われわれは物をみることができないわけだ",
"そうだ",
"たとえば、われわれが赤い布をみるとするね。赤くみえるのは、太陽の光線のなかで赤い色のところだけを布が反射して、あとの色はみんな吸いこんでしまうからなんだ。また光をぜんぶ反射してしまえば、白くきらきらとかがやいてみえるだろう。そしてふつうのうすいガラスが、光のすくないうす暗いところなどでは見にくいわけは、光をほとんど吸収しないし、はねかえすことも、おれまがる度合もすくないからなんだ"
],
[
"そうだ。しかし、人間はガラスとちがうからな!",
"そんなことはない。人間はガラスとおなじように透明だよ",
"そんなむちゃな話はないよ",
"むちゃな話ではないんだ。りっぱにすじみちのとおっている話だよ。人間だって血液の赤い色と毛髪の色などをとりのぞけば、体じゅうが無色で透明になってしまうんだ。ガラスとたいしてちがわないよ"
],
[
"ぼくがこれを考えついたのは、ロンドンを去ってチェジルストウにいたときだ。今から六年ほど前のことになるがね。その時のぼくの先生のオリバー教授というのは、じつに根性のまがった男で、学者のくせに学問や実験に身を入れないで、世間のひょうばんや名声ばかりに気をとられているのだ。だから、ぼくはだれにも秘密で、研究をすすめていくことにしたのだ",
"だれの手もかりないで、きみひとりでかい?",
"そうだ。ぼくは研究が完成したそのとき、ぱっと世間に発表して、一夜で天下に名をとどろかせてやろうと考えたんだ。研究はおもうとおりに進んだ。そのうち、思いもかけない大発見をしたのだ。これはぼくの手がらではないんだ。ぐうぜんなことで、おもいがけないたまものが、さずかったというわけだ",
"ずいぶん大げさなんだね。いったい、どんな大発見なんだい?",
"きみ、おどろいてはいけないよ。ぼくは血を無色にすることができるということを見つけたんだよ。血を無色にすることができれば、人間を透明にすることができる、というわけだ。人間の体の血液を透明にしてしまえば、体じゅうが透明になるわけだからな。そうなれば、ぼく自身、透明になることはわけないというわけさ。もちろん、そのために体に害があってはなんにもならないが、その点は自信があったのだ",
"な、なんだって……なんということを考えだしたのだ。おそろしい人だね、きみは",
"おどろくのもむりはないよ。それを発見したぼく自身、しばらくの間は、ぼうぜんとしていたくらいだからね。ぼくはその夜のことを、いまでも、はっきりとおぼえているよ――。研究室にいるのはぼくひとりで、ひっそりとしずまりかえっていた。ぼくはじぶんのこの発見にすっかり興奮してしまい、じっとしていられなくなった。窓をおしひらいて、夜空にしずかにまたたいている星をみあげ、いくどか、おれも透明になれるんだぞと、くりかえしてつぶやいた。それでいくらか落ちつきをとりもどしたんだよ",
"そうだろうね。その気もちは、ぼくにもわかるようだが……",
"ねえ、きみ、考えてみたまえ。すがたを消して思いのままをやるのは、人間の昔からのあこがれだったじゃないか。おとぎ話のなかの魔法使いとおなじになれるんだ。こんなすてきなことがあるだろうか。それをぼくがやりとげたんだ"
],
[
"これで、ながい間、ばかな主任教授に見はられながら、苦心したかいがあったと思ったね。田舎の大学で頭のさえない学生をあいてに心にそまない授業をして、毎日をみじめにすごしてきたぼくが、これはどの成功をしようとは、だれも考えなかったろう。しかし、この研究をかんぜんなものにするために、それからさらに三年の年月、むがむちゅうで研究をつづけたんだ。ところが三年たってみると、この研究を完成させるには、どうしても金がたりないということに気づいたんだ",
"金が……",
"そうだ"
],
[
"金がなければ、ぼくの研究をつづけることはできない。やむをえず、おやじの金を盗んでしまったんだ……",
"おとうさんの金を盗んだって……きみが?",
"うん、ところがそのお金は、おやじのものではなかったんだ――。そして……おやじはそのために自殺をしてしまったんだ"
],
[
"きみ、つかれたのかい? 顔いろがさえないようだ",
"いや、なんでもない。さあ、つづけたまえ。それからどうなったんだ",
"そのときすでに研究は、九分どおりできあがっていたんだ。その大体のことは、浮浪者がもち逃げしたノートに、暗号をつかって書いてある。あいつめ、おれのノートを取りやがって……どんなことをしてもとりかえしてやるぞ。うらぎったやつには、思いしらせてやる!"
],
[
"研究のほうのことをきかせてくれたまえ。そしてどうなったんだい?",
"ついに待ちのぞんでいた日がきたんだ。その日の実験には白い羊毛を使ってみたんだ。実験はうまくいって、白い羊毛がじっと息をころしてみつめているぼくの目のまえで、けむりのように色がしだいにうすくなり、やがて、すーっと消えていってしまったんだ。その光景は、なんともいいようのないくらい、ぶきみなものだったよ",
"それで……",
"白い羊毛がすっかり消えて、ぼくの目に見えなくなったときには、まるで信じられない気がしたよ。ぼくはそっと、羊毛をおいたあたりをさわってみた。すると、どうだ! やはり羊毛はまえとおなじ場所に、ちゃんとあるんだ。そのときのぼくの気もちといったら、うれしいような、気味のわるいような、変な気もちだったよ"
],
[
"つぎの研究には、ねこをつかったんだ",
"生きてるねこをかい?",
"もちろんさ。そのねこは階下にすむ、ひとり者の老婆のかわいがっているねこなんだ。ぼくは血のいろをうすめる薬やらそのほかの薬やらを、苦心してそのねこにのませたんだ。そして薬で、ねこを眠らせておいた。ねこがつぎに目をさましたときには、羊毛とおなじように、けむりのようにきえていたんだ",
"ねこが透明になってしまったって……?",
"そうだ。もっともすこし失敗したところもあって、うまく消えうせてはしまわなかったがね。うまくいかなかったところは、ひとみと爪だ。ねこは薬をのませると同時に、ひもでしばって逃げださぬようにしておいたんだ。そのうちに気をとりもどして、起きあがったときには、からだはかんぜんに消え、ふたつのほそい目と爪だけが、部屋のなかにゆうれいのように浮いていたんだ",
"ぶきみな話だ! それに、ねこがかわいそうじゃないか"
],
[
"持主の老婆が、ねこを探しにきて、『わたしのねこが、こちらにきているでしょう。たしかになき声がしていましたよ』と、がなりたて、部屋の中をじろじろとのぞきこんだが、ねこはクロロフォルムでねむらせてあったので、見つかるはずはない。うさんくさそうになんどもながめまわしてから、やっとひきあげていったよ。おかしかったねえ",
"透明になってしまったねこは、その後、どうしたんだね",
"さあ、どうしたかね。透明になると、ひどくあつかいにくくてね。つかまえようとしてもつかまえることができない。そして、にゃあにゃあ、なきつづけているので、とうとう、うるさくなって、窓をあけてそとへ追いだしてやったよ",
"すると透明ねこは、いまでもどこかをさまよっているというわけだね",
"生きていればね。だが、おそらく死んでいるだろう。目に見えないねこに、えさをやる人もいないだろうからね",
"そうか、かわいそうに……"
],
[
"四年の間、あけてもくれても、ただ研究を完成させることだけを考えてくらしていたが、もともとわずかばかりしかなかった金は、ほとんど使いはたしてしまい、体もくたくたにつかれきると、なにをするのもいやになってしまった。ぼんやりと丘にのぼって子どもたちがあそんでいるのをながめていたが、そのうち、ぼくの体が透明になって人目につかなくなったら、こんなみじめな境遇からぬけだし、いろいろときばつな、ゆかいなことができるのではないかと、考えたんだ",
"それできみは、体を透明にするおそろしい仕事にとりかかったのかね?",
"そうなんだ。ぼくは下宿にかえると、さっそく薬の調合にかかったんだ。そこへ前からぼくのことをうさんくさい目でみていた下宿のおやじが、文句を言いにきたんだ。おやじは部屋じゅうをじろじろながめまわして、『あんたはいったいこの部屋で、どんな仕事をしているんですかね、へんなにおいがしたり、夜っぴてガス・エンジンがうなったり……おかげで下宿じゅうの人間が、おちおち暮らすこともできないではありませんか。人には言えねえ怪しげな研究でもやっているんじゃありませんか……とんだめいわくをかけられたら、たまったものじゃありませんからな』と、くどくどといつまでもいいつづけるので、ぼくはとうとうかんしゃくを起こして、『うるさい! でていけっ!』と、どなってやったんだ",
"らんぼうだね!",
"しかたがないさ。おやじは、ぼくにどなられると、かんかんになっておこりだした。ぼくはついにがまんしきれなくなって、おやじのえり首をつかむと、ドアのそとへ力いっぱいなげだしてやったよ。これでぼくは、この下宿からもでてゆかねばならないことになってしまったんだ"
],
[
"夜ふけになったとき、薬のために、ぼくはたまらないほど気もちがわるくなってしまった。いすにぼんやりと腰かけていると、だれかがドアを力いっぱいたたくんだ。ぼくは動く気がしないので、ながいあいだ放っておいたが、どうしてもノックをやめないんだ。たまりかねてドアをあけると、下宿のおやじが立っていて、なまいきな態度で一枚の紙きれをさしだしたが、ひょいとぼくの顔をみると、目玉がとびでるほどおどろいて、紙きれをその場にほうりだして、ころがるように逃げていったよ",
"どうしたというのだい? そのおやじは……",
"ぼくも鏡をみるまでは、わけがわからなかったんだ。が、おやじが逃げだしてから、鏡をみて、やっと、やつのふるえあがったわけがわかったよ。ぼくの顔がまっ白にかわっていたんだ。すきとおるほど白くね",
"白く?………",
"そうだ。予期したようにね。それから夜あけまでの苦しみは、ぼくも予期しなかったことなんだ。皮膚はもえるように熱くなり、体じゅうが、かっかっとほてって、その苦しさときたら、いまにも気絶して、それっきり死んでしまうかと、たびたび思ったほどだった。歯をくいしばってがまんしたが、うめき声はひとりでに高くなり、ついにぼくは気絶してしまったんだ"
],
[
"こんど気がついたときは夜あけだったよ。はげしい苦しみはやんでいたが、ひどい疲れでくたくたになっていた。明けがたの光が窓からさしこんだとき、ぼくはじぶんの手をみて、おどろきとよろこびといっしょになった、言いようのない声をあげたんだ。なぜって――両手がくもりガラスのような色になってたんだ。そして、じっと見つめているうちに、両手はどんどん透きとおって、夜がすっかり明けきったころには、まったく透明になってしまったんだ",
"両手といっしょに、体じゅうも透明になったのかい?",
"もちろんだ。一番さいごまで色が残っていたのは爪だったね。じぶんで決心してやったことだが、こうして成功して全身が透明になってしまうと、さすがのぼくも、たいへんなことをやったなと、心おだやかでなかった。もう一度ベッドにもぐりこんで、昼ちかくまでゆっくり眠って元気をとりもどすと、研究に使った機械や道具を二度ともとにできないように、めちゃめちゃにしておき、ここからでていくじゅんびに取りかかった。",
"なぜ機械をこわしたんだい?",
"ほかの者に、ぼくの研究をかぎつけられないためさ。そこへまた夜のあけるのをまちかねた下宿のおやじが、くっ強な若者を二人もつれて、『化けものやろうめ、きょうこそは、なにがなんでも追いだしてやるからな。腕づくでも追っぱらう気なんだ』といきまきながら、ドアをおしやぶってはいってきた。ぼくは、入れちがいにそとへでていったよ。もちろん、やつらはすこしも気づかなかった。部屋のなかにぼくの姿がみえないので大さわぎをしていたよ"
],
[
"やつらがぼくの部屋をひっかきまわしてさわいでる間に、ぼくは、おやじの部屋にもぐりこんでようすを見ていたんだ。さわぎはだんだん大きくなって、下宿の人間はひとり残らず、そのうえ出入りの商人たちまでがぼくの部屋にはいりこんで、実験の機械や薬品をいじりはじめたんだ",
"それで……",
"ぼくはそのようすを見ながら、ふと、『こいつらのように無学なやつどもがさわいでいる間はよいが、そのうちに学問のあるやつがこれを見にきて、ぼくの研究をかぎつけるようなことになるかもしれない』と考えたんだ",
"だってきみは、機械をこわしておいたんだろう?",
"そうだ。だが、それで安心はしていられないよ。そこで永久にぼくの研究を秘密にしておく方法を考えだしたんだ",
"どんな方法だい? そんなことができるのかい……",
"完全な方法だよ。ぼくは、ぼくの部屋でさわいでいた連中がすっかりひきあげると、そっと、おやじの部屋から、ぼくの部屋にひきかえして、そのへんにある書類や紙くずを山とつみあげ、マッチをすって、火をつけてやった。燃えあがるのをみて、その上にふとんやいすをつみかさね、さいごにゴム管をひっぱって、ガスをふきださせたんだ。ガスはすぐに燃えあがり、たちまち、ふとんもいすもめらめらと火をふきだした。ぼくは、そこまで見とどけると、そっと玄関から、街へしのびでていったよ。いやな下宿におさらばしてね",
"それじゃあ、きみは、放火してきたというのかい?",
"そうさ。それよりほかに、ぼくの研究を永久に秘密にしておける方法があるかね? ないだろう"
],
[
"街へふみだしてみて、ぼくははじめて透明になったことをゆかいに思ったよ。ぼくがうしろから、通行人の帽子をはじきとばしたり、肩をぽんとたたいたら、そいつはどんなにおどろいた顔をするだろうかと思うと、まったく考えただけで、ふきだすほどうきうきしてきたんだ。ぼくは街をあちこちと気ままに歩いていった。ところが、夕方ちかくなると、ぼくはすっかり弱ってしまった。よくはれたあたたかい日だったが、一月になったばかりだもの、まっぱだかではたまったものではないよ。ぼくは歩きながら、がたがたふるえどおしだった",
"はっはっはっ、いくら透明人間になっても、人間はやはり人間だよ。ま冬にはだかでいられるものか"
],
[
"笑いごとじゃないよ。日がかたむきかけてくるにつれて、寒さはいっそうひどくなった。ちょうどブルームズベリイ広場をぬけようとしていたときだ。ぼくは大きなくしゃみをひとつした。まわりにいた人たちが、いっせいにふしぎそうにあたりを見まわした。とたんに、近よってきた白い犬が、ぼくをかぎつけたのか、わんわんとほえたててとびかかってきたんだ",
"透明になっていても、犬にはわかったのだろうか?",
"犬にはわかるらしいね。かぎつけるんだ。いまいましい話だが、それからぼくはラッセル広場まで犬に追われて、力のかぎり走りつづけたよ。ラッセル広場には、まだ人だかりがしていた。犬からのがれてほっとしたのもつかのま、また、つぎの災難がふりかかってきたんだ",
"つぎの災難っていうのは、どんなことだったのだい?"
],
[
"それで、どうした?",
"そのうち、子どもの声で、やじ馬がぞろぞろと集まってきだした。こうなっては逃げるよりほかはない。足あとがつこうが、そんなことにかまっていられなくなって、ぼくは、すぐそばでまごまごしている若い男をつきとばすと、いちもくさんにかけだした。やじ馬たちはわけもわからず、ただ足あとをたよりにわいわいと追っかけてきたんだ",
"とんだ災難にあったものだな",
"まったくだ。なんども街かどをまがって、めくらめっぽう逃げていくうちに、足のうらのぬれていたのが乾いてきて、足あとがはっきりつかなくなってきた。しめたと思って、物かげにかくれ、足のどろをすっかりはらい落として、ゆっくりと休み場所をさがして歩きだしたんだ。追っかけてきたやつらは、うすくなって、ついに消えてしまった足あとをさがして、その辺をうろうろしていたよ",
"やれやれ、透明になっても、いいことばかりじゃないね",
"それはそうだ。だが、もちろん、すてきなことだってあるからね。かけまわっているうちに体はぽかぽかあたたまってきたが、すっかり風邪をひいたらしく、しきりにくしゃみがでるのには閉口したよ。落ちついてみると、ぼくの下宿のある街にきてたんだ"
],
[
"おそらく、きみには想像もつかないことだろう。透明でいるために服をきないでいると、食べ物を口に入れることができないんだ。なぜって、考えてみたまえ……ぼくがはだかのままでパンをたべるとするね。パンはぼくの口にはいったときから、のどをとおり、胃にとどき消化してしまうまで、人の目にさらされてしまうのだ。体の中にはいった食べ物がそのまま空中に浮いてみえるなんて、考えただけでもぞっとすることだろう。ぼくはそんなことになるのはいやだ。が、そうすれば、ぼくはいくら腹がすいていても、パンひとかけ口にすることができなくなるんだ",
"なるほど、そこまではぼくも考えつかなかったよ。そうすると、透明になるのも考えものだね",
"もちろん、こまることもあればいいこともある。けれども新しい生活にふみだしたいじょうは、いやでもやりぬくほかはないんだ。いまとなっては身をよせる家もなければ、たよりにする人もない。働いて金をもうけ、その金で楽しくくらすなどということは、夢にも思えない身の上になってしまったんだ"
],
[
"それできみは、それからどうしたんだい?",
"どうするといって、ぼくは道のまん中につっ立ったまま、どうしていいかわからなくなってしまったんだよ。雪ははげしく降りだし、寒さと空腹はたまらなくぼくをせめたてるんだ。ぼくはただ雪の中からのがれて、屋根の下でゆっくりとやすんで、腹いっぱい食べたいと、そればかり考えていたよ",
"そうだろうね。で、それから……",
"そのうえ、これこそ思いもかけなかったことだが、雪の中にじっとしていると、体に雪がつもって、たちまち、ぼくの体のりんかくがぼーっと浮かびあがってくるんだ。これにはまったくへいこうしたね。ぼくは身をきるような北風が、雪といっしょに吹きつけてくる道を、あてどもなくさまよいつづけたんだ",
"なぜどこかの家の物おきへでも、もぐりこんで、雪の中を歩きまわることからだけでもまぬがれなかったんだ。食べ物にありつくことはできなくても、寒さだけはいくらかしのぎやすいのではないか?",
"ぼくだって、それは考えたんだ。ところがロンドンじゅうの家という家は一軒のこらずドアをしめ、鍵をかけているので、いくらぼくが透明人間でも、もぐりこむすきさえなかったんだ。だがぼくはそのとき、ふいにすばらしいことを考えついたんだよ"
],
[
"デパートのなかにもぐりこめば、ぼくのほしい物はなんでも手にはいる。それにデパートならはいるにもでるにも、なんの苦労もないし、どうして早くこのことに気がつかなかったかと思ったね。ぼくはすぐ、ぞろぞろとひっきりなしに客が出入りしているデパートにもぐりこみ、閉店するのをまっていたんだ。やがて店がしまって店員たちがでていってしまった。店の品物はすっかり片づけられ、灯はけされて、あれほどにぎわっていたデパートも、しーんとなってしまった。ぼくはうす暗くなった店の中をわがもの顔で歩きまわって、下着やくつ下などの売場から、ふかふかしてあたたかそうな下着やくつ下をとりだして身につけた",
"ほっとしたろう",
"きみの言うとおりだよ。服装をすっかりととのえおわり、体があたたまってくると、こんどは地下室の食堂におりていって、そこに残っていた肉やパンやチーズを、いやというほどつめこんだんだ。おまけにおいしい果物や菓子まで食べられるのだから、まるで天国のようだったよ。体もあたたまり、腹ごしらえもできると、にわかに眠くなったんだ。さっそくふとんの売場のふかふかした羽根ぶとんの山の上によこになり、めずらしくのびのびとした気分でねむりに落ちていったのだ",
"まるでおとぎ話にでもでてきそうな話じゃないか……",
"ここまではよかったんだ。だが、朝になるとおもしろくないことがもちあがったんだ。目がさめたときには、すっかり夜があけ、明るい太陽がさしこんでいて、出勤してきた店員の話し声や掃除をする音がきこえていた。あわててしまったぼくは羽根ぶとんの山をすべりおりて、どこから逃げたらいいかと、あたりを見まわしたとたん、羽根ぶとんの山が音をたててくずれおちたんだ。あっと思ったぼくは、思わず横っとびにかけだすと、目ざとい店員のひとりが、大声で、『あっ、首のない人間がいるぞ! あやしいやつだっ!』とさけんだんだ",
"そりゃあ、きみ、店員だって、さぞやびっくりしたろうさ"
],
[
"ここでつかまってはたいへんだと思ったので、死にものぐるいで逃げまわったんだ。逃げるにつれて、きれいにかざられてあった花びんがぶつかりあってくずれ落ちる、電気スタンドがころがる、おもちゃの山がくずれる、さいごに食堂をかけぬけて、ベッドの売場から洋服ダンスのならんでいるところへ逃げこんで、そのかげで、着ているものをすっかりぬぎすてて、もとの透明な姿になって、追手につかまるのをまぬがれたんだ",
"やれやれ、苦労をするではないか……"
],
[
"けっきょく、うえをしのいで、たっぷり眠れたというだけだったのだね。それでもいいではないか……",
"ちっともよくないよ。ぼくが一番のぞんでいるのは、服を手にいれることなんだ。服を身につけ、帽子をかぶり、マスクでもつければ、どうやら人前をごまかして、暮らしていけるのではないかと思ったんだ。ぼくはついにロンドンのはずれのうすぎたない横町にある古着屋にしのびこんで、ほしい物を手に入れ、できればお金もついでに手にいれることにしたんだ",
"金も手に入れるというのか?",
"そうだ。この古着屋でも、いくども見つかりそうになって、ひやひやしたよ。おやじというのは、かわった男で、おそろしく耳がするどくて、ぼくのかすかな足音をききつけ、『どうもおかしい、だれかこの家にしのびこんでるにちがいない』と、ひとり言をいうと、ピストルを片手に家中をぐるぐるまわりはじめたんだ。おかげでぼくは古着の山を目のまえにみながら、どうすることもできなかったのだ"
],
[
"いやな男だったよ。うたがい深くておく病で、しまいには家じゅうのドアにも窓にも、かぎをかけはじめたんだ。ぼくがどこからも逃げることができないようにしておいて、ピストルで射ちとろうとしたんだ。ぼくはそれを知ると、かっとなってしまった。こんなやつに射たれてたまるものか、ぼくは階段をおりかけていたおやじのうしろにせまると、いきなり、古いすをふりあげて、やつの頭をちからまかせになぐりつけてやった",
"頭をなぐったって! なんてらんぼうなことをするんだ。古着屋はきみになぐられるようなことをなにもしていないよ……考えてみたまえ",
"らんぼうする気はなかったんだ。ただ、ぼくはその古着屋で服をきて、すがたをととのえなくては、こまるんだ。それだのにおやじは、ぼくを追いまわして、ピストルで射つつもりなんだから……。ぼくは追いつめられて、心ならずも乱暴をはたらいたというわけなんだ。おやじは物もいわずに、その場にたおれたので、手もとにあった古着でぐるぐるまきにしばりあげ、さるぐつわをかませた。そして、ぼくは手ばやく服を身につけ、だいどころにいって、たらふくパンとチーズをたべ、コーヒーをのんでから、帽子をまぶかにかぶり、マスクをつけた。ちょっと見たぐらいでは、透明人間だと気づかれないように身じたくをととのえて、ゆうゆうとその古着屋をでてきた",
"で、きみはおやじをそのまま、ほうりっぱなしにしてかい?"
],
[
"いや、人目の多いロンドンでは、やはりうまくいかなかったよ。食事をしようと思えば、どうしても透明なぼくの顔を給仕人や、客の目にさらさないかぎり、肉のひときれも口にいれられないんだ。透明人間なんて、ほんとうに情ないものだよ。人目をおそれて、いつもびくびくしながら暮らさなくてはならないんだからね",
"で、アイピング村へは、どうしていったのだい?",
"研究をつづけたくていったんだよ",
"研究をつづけるためにだって? だってきみの研究は完成して、望みどおり透明になったじゃないか……",
"しかし、きみ、考えてくれたまえ。体が透明になったおかげで、ぼくはほかの人間が持つことのできない力をもつことができるようになった。だが、そのかわり、ぼくは何もかも失ってしまったんだ。科学者として名をあげてみても、ぼくの姿がみえないのでは、どうにもしようがないだろう。あたたかい家庭をつくって楽しく暮らすことも、友だちとゆかいに話しあうことも、永久にできなくなったのだ。ぼくはたったひとりぽっちで暮らすほかはなくなったのだ。ただ、たったひとつの望みは、もとの体にかえることができる薬を発見したいということなんだ。その研究のために、しずかなアイピング村へいったわけだよ",
"なるほど、そんなわけだったのか……"
],
[
"うん。ぼくがここにきたのは、国外にのがれたかったからさ。はだかで暮らすのには、イギリスはまだ、寒すぎるよ。洋服をきればすぐ人にあやしまれて、追いまわされるし、ぼくは、もっと暖かい地方へいってしまいたいと思って、この港町へきたのだ",
"それで?",
"ここからは、フランス行きの便船がでる。フランスへわたり、汽車でスペインへいって、そこからアフリカのアルジェリアへいくつもりだ。アルジェリアなら、姿をけしてはだかで暮らしても、いっこう寒くはないだろうからね",
"アフリカにいくのか?",
"そうだ。ぼくの秘密がしれてしまったからには、もう、どうしようもない……。ところが、それには、ぼくひとりではやれないのだ。ぼくが荷物をもって歩くわけにはいかない。そうすると、このまえの金貨が空中をとぶような騒ぎになって、すぐ、大さわぎになってしまうんだ。そこで、あの浮浪者をやとったんだが、だいじな研究ノートと金をもって、にげてしまった",
"浮浪者は警察にいるよ",
"えっ、あいつが……"
],
[
"なにも聞こえないが……",
"いや、二階へあがってくる足音だ",
"気のせいだよ"
],
[
"あいつは気がくるっている。このまま逃がしておいたら、どんなひどいことをしでかすか、わかりませんよ。けさも、これまでにやってきたことを、得意になって話すんですからね。あきれたもんです。署長! あの男はもう、かなりたくさんの人を傷つけています。これからもっと暴れまわって、町や村のひとたちを恐れさせてやるんだと話していました",
"かならず逮捕してみせます"
],
[
"大至急、警官の非常召集をおこなって、この町から透明人間がにげだせないようにすることです",
"こころえています。さっそく召集して、道という道に見はりを立てて、あの怪物がにげられないようにしましょう",
"汽車や船に乗って、逃げられないように、駅や港にも見はりをつけてほしいですな。あの男は、かけがえのない物と考えているノートを取りもどすまでは、この町をはなれないと思います。その浮浪者のトーマスは、警察に保護してあるんでしょうな",
"ぬかりはありませんよ、博士! そのノートのことも",
"透明人間をつかまえるには、食物をあたえないことです。ねむらせないことです。この二つのことを実行することです",
"なるほど"
],
[
"たべものは手のとどかないところにしまっておき、透明人間が家の中にはいれないように、町じゅうの家が、戸や窓にカギをかけておくことです",
"さっそく署へもどって、作戦を立てるとしましょう"
],
[
"やつは食物をのみおろすと、消化するまでは体の中のものが見えるので、しばらくは、どこかに隠れてやすまねばならんのです。ここが、こちらのねらいです。それと、犬をですな……犬を、できるだけたくさん、かり集めることです",
"ほほオ、透明人間は犬には見えますかな",
"見えないことは、われわれ人間とおなじですが、犬はにおいで嗅ぎつけるんです。これは透明人間が、犬にかみつかれて弱ったと、じぶんで話してたことですから、まちがいありません",
"名案ですな。ハルステッド刑務所の看守たちが知ってる男に、警察犬を飼っておる男がいるそうですから、さっそく手配しましょう"
],
[
"透明人間のもう一つの弱いところは、凶器を持ってあるけないことです。鉄棒とかナイフとか、太いステッキのような物は、手ごろの武器……つまり凶器になりますが、あの男がこれらの物を手にして歩くと、鉄棒やナイフが宙を浮いてうごくことになるので、すぐ気づかれてしまいます。ですから、やつが凶器を持ってあるく心配はありませんが、凶器につかわれそうな物は、どの家でも、かくしておくように知らせてもらいたいのです",
"ごもっともな意見です。その方針で、かならず逮捕してみせます"
],
[
"もう一つ、だいじなことがあります",
"なんです?",
"ガラスの破片を道路にまきちらすのです。透明人間は、はだかで、はだしで歩いていますから、これは効きめがありますよ。すこし残酷なやりかたですが、そんなことは言っておられませんので",
"スポーツマンシップに欠けるようですが、お考えどおり、ガラスの破片をよういさせましょう。目に見えない怪物に、あばれられては大変ですからな",
"あの男は、むかしのグリッフィンとは人が変わってしまった。けだものになって、気がくるっているのです"
],
[
"あなたをねらって、ここへ……",
"かならずきますよ。もう、そのへんをうろついてるかも知れません"
],
[
"あれは?",
"透明人間だ。ピストルを持っている。残りのたまは二発……署長は射たれた"
]
] | 底本:「透明人間」ポプラ社文庫、ポプラ社
1982(昭和57)年7月第1刷
1984(昭和59)年9月第5刷
入力:京都大学電子テクスト研究会入力班(大石尺)
校正:京都大学電子テクスト研究会校正班(大久保ゆう)
2010年7月31日作成
2013年1月21日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "050346",
"作品名": "透明人間",
"作品名読み": "とうめいにんげん",
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"分類番号": "NDC K933",
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"公開日": "2010-08-22T00:00:00",
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"姓読みソート用": "うえるす",
"名読みソート用": "はあはあとしよおし",
"姓ローマ字": "Wells",
"名ローマ字": "Herbert George",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1866-09-21",
"没年月日": "1946-08-13",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "透明人間",
"底本出版社名1": "ポプラ社文庫、ポプラ社",
"底本初版発行年1": "1982(昭和57)年7月",
"入力に使用した版1": "1984(昭和59)年9月第5刷",
"校正に使用した版1": "1984(昭和59)年9月第5刷",
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"底本の親本初版発行年1": "",
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"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "京都大学電子テクスト研究会入力班",
"校正者": "京都大学電子テクスト研究会校正班",
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"XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS",
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"XHTML/HTMLファイル修正回数": "5"
} |
[
[
"壁が少し落ちたが、大した被害はない。だが、吃驚した。家が潰れるかと思った。",
"下町はヒドかろうナ。安政ほどじゃなかろうが二十七年のよりはタシカに大きい。これで先ず当分は目茶苦茶だ。"
],
[
"夜警は大変ですワネ。家から椅子を持って参りましょうか。イクラもありますから。",
"イエ、家にも持ってくればあるんですが、面倒だもんですから。"
]
] | 底本:「新編 思い出す人々」岩波文庫、岩波書店
1994(平成6)年2月16日第1刷発行
2008(平成20)年7月10日第3刷発行
底本の親本:「思ひ出す人々」春秋社
1925(大正14)年6月初版発行
初出:「読売新聞」
1923(大正12)年10月2日~6日、8日
※初出時の表題は「此頃の大杉の思い出」です。
入力:川山隆
校正:門田裕志
2014年7月16日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "049568",
"作品名": "最後の大杉",
"作品名読み": "さいごのおおすぎ",
"ソート用読み": "さいこのおおすき",
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"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「読売新聞」1923(大正12)年10月2日~6日、8日",
"分類番号": "NDC 910",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2014-08-06T00:00:00",
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"名": "魯庵",
"姓読み": "うちだ",
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"姓ローマ字": "Uchida",
"名ローマ字": "Roan",
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"生年月日": "1868-04-27",
"没年月日": "1929-06-29",
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"底本出版社名1": "岩波文庫、岩波書店",
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"入力に使用した版1": "2008(平成20)年7月10日第3刷",
"校正に使用した版1": "2008(平成20)年7月10日第3刷",
"底本の親本名1": "思ひ出す人々",
"底本の親本出版社名1": "春秋社",
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} |
[
[
"二、三日前に来て近々故郷へ帰るといってました。",
"その他に一身上の咄は何もしなかったかい?",
"イイヤ、何にも。"
],
[
"Yも平気でしたか?",
"イヤ、Yは小さくなって悄れ返っていた。アレは誘惑されたんだ、オモチャにされたんだ。"
],
[
"そんな不名誉な話は無論する気遣いはありませんが、シカシ妙だと思いましたよ、二、三日前に来た時急に国へ帰るってましたから。",
"それは君、島田が帰らせるんだよ。島田には実に感服したよ。Yがオイオイ声を出して泣いて詫まった時にダネ。人間てものは誰でも誤って邪路に踏迷う事があるが、心から悔悛めれば罪は奇麗に拭い去られると懇々説諭して、俺はお前に顔へ泥を塗られたからって一端の過失のために前途にドンナ光明が待ってるかも解らないお前の一生を葬ってしまいたくない。なお更これから先きも手許に置いて面倒を見てやりたいが、それでは世間が承知しない。俺は決してお前を憎むのではないが暫らく余焔の冷めるまで故郷へ帰って謹慎していてもらいたいといって、旅費その他の纏まった手当をくれた。その外に、修養のための書籍を二、三十冊わざわざ自分で買って来てYの退先きへ届けてくれたそうだ。普通の常識では豪いか馬鹿かちょっと判断が出来ないが、左に右く島田は普通の人間の出来ない事をするよ――"
]
] | 底本:「新編 思い出す人々」岩波文庫、岩波書店
1994(平成6)年2月16日第1刷発行
2008(平成20)年7月10日第3刷
底本の親本:「思ひ出す人々」春秋社
1925(大正14)年6月初版発行
初出:「読売新聞」
1923(大正12)年11月30日~12月6日号
入力:川山隆
校正:門田裕志
2011年5月29日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "049570",
"作品名": "三十年前の島田沼南",
"作品名読み": "さんじゅうねんまえのしまだしょうなん",
"ソート用読み": "さんしゆうねんまえのしまたしようなん",
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"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「読売新聞」1923(大正12)年11月30日~12月6日号",
"分類番号": "NDC 910",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2011-07-26T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-16T00:00:00",
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"名": "魯庵",
"姓読み": "うちだ",
"名読み": "ろあん",
"姓読みソート用": "うちた",
"名読みソート用": "ろあん",
"姓ローマ字": "Uchida",
"名ローマ字": "Roan",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1868-04-27",
"没年月日": "1929-06-29",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "新編 思い出す人々",
"底本出版社名1": "岩波文庫、岩波書店",
"底本初版発行年1": "1994(平成6)年2月16日",
"入力に使用した版1": "2008(平成20)年7月10日第3刷",
"校正に使用した版1": "2007(平成19)年7月10日第3刷",
"底本の親本名1": "思ひ出す人々",
"底本の親本出版社名1": "春秋社",
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"底本の親本初版発行年2": "",
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} |
[
[
"はッはッ、減らず口を叩きくさる。汝の懸賞小説も久しいもんぢや。一度当選つたといふ事ぢやが、俺と交際つてからは猶だ当選らんぞ。第一小説が上手になつたら奈何するのぢや。文士ぢやの詩人ぢやの大家ぢやの云ふが女の生れ損ひぢや、幇間の成り損ひぢや、芸人の出来損ひぢや。苟くも気骨のある丈夫の風上に置くもんぢやないぞ。汝も尚だ隠居して腐つて了ふ齢ぢやなし。王侯将相何ぞ種あらんや。平民から一躍して大臣の印綬を握む事の出来る今日ぢやぞ。なア亀井、筆なんぞは折つぺしッて焼いて了へ。恋ぢやの人情ぢやのと腐つた女郎の言草は止めて了つて、平凡小説を捻くる間に少と政治運動をやつて見い。",
"はッはッ、僕は大に君と説が異う。君は小説を能く知らんから一と口に戯作と言消して了うが、小説は科学と共に併行して人生の運命を……"
],
[
"汝は自慢ばかりしおるが一度も当選つた事は無いぞ。併し当選つた処で奈何する、一年に二度や三度、十円や十五円の懸賞小説が取れたッて飯は食へんぞ。",
"勿論僕は筆で飯を喰ふ考は無い。",
"筆で飯を喰ふ考は無い? ふゥむ、夫ぢやア汝は一生涯新聞配達をする気か。跣足で号外を飛んで売つた処で一夜の豪遊の足にならぬヮ。",
"僕は豪遊なんぞしたくない。斯うして新聞配達をしながら傍ら文学を研究してゐるが、志す所は一生に一度不朽の大作を残したいのだ。飯喰の種は新聞配達でも人力車夫でも立ちん坊でも何でも厭はないのだ。",
"吝な野郎ぢやナ。一生に一度の大作を残して書籍館に御厄介を掛けて奈何する気ぢや。五体満足な男一匹が女や腰抜の所為をして筆屋の御奉公をして腐れ死をして了つては国家に対する義務が済むまい。なッ亀井。俺の忠告に従つて文学三昧も好い加減に止めにして政治運動をやつて見い。奈何ぢや、牛飼君の許から大に我々有為の青年の士を養うと云ふて遣したが、汝、行つて見る気は無いか。牛飼君は士を待するの道を知りおる。殊に今度の次の内閣には国務大臣にならるゝ筈ぢやから牛飼君の客となるは将に大いに驥足を伸ぶべき道ぢや。",
"僕は政治家は嫌ひぢや。"
],
[
"呀〳〵ッ!",
"機一髪を仕損じたが、区々たる俗吏は丈夫の望む処で無い。官を棄つる事弊履の如しで……",
"尚だ官に就かんのぢやないか。",
"能く交ぜ返す奴ぢや。小説家志願だけに口の減らぬ男ぢやナ。併し汝が瘠肱を張つて力んでも小説家ぢやア銭が儲からんぞ。",
"政治家でも銭が儲からんぞ。",
"馬鹿を云へ。衆議院議員は追付け歳費三千円になる、大臣の年俸は一万二千円になる筈ぢや。",
"其時は小説の原稿料が一部一万円位になる。",
"懸賞小説は矢張十円ぢやらう。",
"壮士の日当は一円だ。",
"はッはッはッ、新聞配達が何云ひくさる……",
"ごろつき壮士が……。",
"何ぢやと……。"
]
] | 底本:「日本の名随筆85 貧」作品社
1989(平成元)年11月25日第1刷発行
1991(平成3)年9月1日第3刷発行
底本の親本:「社会・百面相」岩波文庫、岩波書店
1953(昭和28)年2月
入力:渡邉 つよし
校正:門田 裕志
2001年9月20日公開
2006年7月5日修正
青空文庫作成ファイル:
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| {
"作品ID": "003223",
"作品名": "貧書生",
"作品名読み": "ひんしょせい",
"ソート用読み": "ひんしよせい",
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"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字旧仮名",
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"最終更新日": "2014-09-17T00:00:00",
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"名": "魯庵",
"姓読み": "うちだ",
"名読み": "ろあん",
"姓読みソート用": "うちた",
"名読みソート用": "ろあん",
"姓ローマ字": "Uchida",
"名ローマ字": "Roan",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1868-04-27",
"没年月日": "1929-06-29",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "日本の名随筆85 貧",
"底本出版社名1": "作品社",
"底本初版発行年1": "1989(平成元)年11月25日",
"入力に使用した版1": "1991(平成3)年9月1日第3刷",
"校正に使用した版1": "",
"底本の親本名1": "社会・百面相",
"底本の親本出版社名1": "岩波文庫、岩波書店",
"底本の親本初版発行年1": "1953(昭和28)年2月",
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"テキストファイル最終更新日": "2006-07-05T00:00:00",
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[
[
"白石先生の『折焚柴の記』を読みて坐ろに感ずる所あり、先生が若かりし日、人のさかしらに仕を罷めて浪人の身となりさがりたる時、老いたる父母を養ひかねて心苦しく思ふを人も哀れと見て、あるいは富家の女婿になれと勧められ、あるいは医を学びて生業を求めよといさめらる、並々の人ならましかば、老いたる父母の貧しうくらすを看過しがたしとて志も挫け気の衰ふるにつけ、我に便よき説をも案じ出して、かかる折なほ独善の道を守らば弥々道に背かんなど自らも思ひ人にもいひて節を折るべきに、さはなくてあくまでも道を守りてその節を渝へず、父なる人も並々の武士にはあらで却りてこれを嬉しと思ひたり、アアこの父にしてこの子あり、新井父子の如きは今の世には得がたし、われ顧みてうら恥かしく思ふ。",
"ああ我が気力は衰へたる哉、学校を出でしより以来一日として心の霽るる事なければ楽しとおもひたることもなし、今の我が身の上をひしひしと思ひつむる時、生きてかかる憂目見んより死してこの苦を免かるる方はるかに勝るべしなど思ひたるは幾度もありたれど、その頃はまだ気力衰へたれど澌滅するには到らざりしをもて、筆を執りて文を草することも出来しなり、されどこのごろは筆を執るも慵くてただおもひくづをれてのみくらす、誠にはかなきことにこそあれ。",
"反訳叢書は本月うちに発兌せんといひしを如何にせしやらん、今においてその事なし、この雑誌には余も頼まれて露文を反訳せしにより、その飜訳料をもて本月の費用にあてんと思ひをりしに今は空だのめとなりしか、人事齟齬多し、覚えず一歎を発す。",
"この頃は新聞紙を読みて、何某は剛毅なり薄志弱行の徒は慚死すべしなどいふ所に到れば何となく我を誹りたるやうにおもはれて、さまざまに言訳めきたる事を思ふなり、かくまでに零落したる乎。"
]
] | 底本:「新編 思い出す人々」岩波文庫、岩波書店
1994(平成6)年2月16日第1刷発行
2008(平成20)年7月10日第3刷
底本の親本:「思ひ出す人々」春秋社
1925(大正14)年6月初版発行
初出:「二葉亭四迷」
1909(明治42)年8月1日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:川山隆
校正:門田裕志
2011年5月29日作成
青空文庫作成ファイル:
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| {
"作品ID": "049573",
"作品名": "二葉亭四迷の一生",
"作品名読み": "ふたばていしめいのいっしょう",
"ソート用読み": "ふたはていしめいのいつしよう",
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"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「二葉亭四迷」1909(明治42)年8月1日号",
"分類番号": "NDC 910",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2011-07-20T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-16T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000165/card49573.html",
"人物ID": "000165",
"姓": "内田",
"名": "魯庵",
"姓読み": "うちだ",
"名読み": "ろあん",
"姓読みソート用": "うちた",
"名読みソート用": "ろあん",
"姓ローマ字": "Uchida",
"名ローマ字": "Roan",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1868-04-27",
"没年月日": "1929-06-29",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "新編 思い出す人々",
"底本出版社名1": "岩波文庫、岩波書店",
"底本初版発行年1": "1994(平成6)年2月16日",
"入力に使用した版1": "2008(平成20)年7月10日第3刷",
"校正に使用した版1": "2007(平成19)年7月10日第3刷",
"底本の親本名1": "思ひ出す人々",
"底本の親本出版社名1": "春秋社",
"底本の親本初版発行年1": "1925(大正14)年6月発行",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "川山隆",
"校正者": "門田裕志",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000165/files/49573_ruby_43406.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2011-05-29T00:00:00",
"テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"テキストファイル文字集合": "JIS X 0208",
"テキストファイル修正回数": "0",
"XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000165/files/49573_43499.html",
"XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2011-05-29T00:00:00",
"XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"この世を棄てんとおもひたる人にあらねばこの世の真の価値は知るべからず。",
"気の欝したる時は外出せば少しは紛るる事もあるべしと思へどもわざと引籠りて求めて煩悶するがかへつて心地よきやうにも覚ゆ。"
]
] | 底本:「新編 思い出す人々」岩波文庫、岩波書店
1994(平成6)年2月16日第1刷発行
2008(平成20)年7月10日第3刷
底本の親本:「思ひ出す人々」春秋社
1925(大正14)年6月初版発行
初出:「きのふけふ」
1916(大正5)年3月5日
入力:川山隆
校正:門田裕志
2011年5月29日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "049440",
"作品名": "二葉亭余談",
"作品名読み": "ふたばていよだん",
"ソート用読み": "ふたはていよたん",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「きのふけふ」1916(大正5)年3月5日",
"分類番号": "NDC 910",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2011-07-20T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-16T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000165/card49440.html",
"人物ID": "000165",
"姓": "内田",
"名": "魯庵",
"姓読み": "うちだ",
"名読み": "ろあん",
"姓読みソート用": "うちた",
"名読みソート用": "ろあん",
"姓ローマ字": "Uchida",
"名ローマ字": "Roan",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1868-04-27",
"没年月日": "1929-06-29",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "新編 思い出す人々",
"底本出版社名1": "岩波文庫、岩波書店",
"底本初版発行年1": "1994(平成6)年2月16日",
"入力に使用した版1": "2008(平成20)年7月10日第3刷",
"校正に使用した版1": "2007(平成19)年7月10日第3刷",
"底本の親本名1": "思ひ出す人々",
"底本の親本出版社名1": "春秋社",
"底本の親本初版発行年1": "1925(大正14)年6月",
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"底本の親本名2": "",
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"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "川山隆",
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} |
[
[
"田賣らうにも、値が下がつてるし、第一けふ日は不景氣で買ひ手があろまい。",
"百姓は割に合はん仕事やちうことは、よう分かつてるが、そいでも地價がズン〳〵騰るさかい、知らん間に身代が三層倍にも五層倍にもなつたアるちうて、みな喜んではつたが、かう不景氣ではそれもあきまへんなア。"
]
] | 底本:「鱧の皮 他五篇」岩波文庫、岩波書店
1952(昭和27)年11月5日第1刷発行
2009(平成21)年2月19日第4刷発行
※底本における表題「解説」に、底本名を補い、作品名を「「鱧の皮 他五篇」解説」としました。
入力:川山隆
校正:門田裕志
2011年11月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "053057",
"作品名": "「鱧の皮 他五篇」解説",
"作品名読み": "「はものかわ ほかごへん」かいせつ",
"ソート用読み": "はものかわほかこへんかいせつ",
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"分類番号": "NDC 913 914",
"文字遣い種別": "旧字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2012-01-04T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-16T00:00:00",
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"姓": "宇野",
"名": "浩二",
"姓読み": "うの",
"名読み": "こうじ",
"姓読みソート用": "うの",
"名読みソート用": "こうし",
"姓ローマ字": "Uno",
"名ローマ字": "Koji",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1891-07-26",
"没年月日": "1961-09-21",
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"底本名1": "鱧の皮 他五篇",
"底本出版社名1": "岩波文庫、岩波書店",
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[
[
"もちろん、もう書けもしないけれども",
"帰りたいだろうな。お前も"
],
[
"敵さん、はやくのぼって来ないかな。待ち遠いよ",
"いさましく斬死にするつもりかい"
],
[
"出撃の時刻はいつか、そう聞いてこいと、しつこく言われますので――",
"出撃?"
],
[
"二見は昨夜ねむったのか?",
"あの薬はあまり利かなかったようです"
]
] | 底本:「戦後短篇小説選 1」岩波書店
2000(平成12)年1月17日第1刷発行
初出:「世界」
1948(昭和23)年10月号
入力:hitsuji
校正:noriko saito
2020年6月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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| {
"作品ID": "059356",
"作品名": "赤い駱駝",
"作品名読み": "あかいらくだ",
"ソート用読み": "あかいらくた",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「世界」1948(昭和23)年10月号",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2020-07-19T00:00:00",
"最終更新日": "2020-06-29T00:00:00",
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"姓": "梅崎",
"名": "春生",
"姓読み": "うめざき",
"名読み": "はるお",
"姓読みソート用": "うめさき",
"名読みソート用": "はるお",
"姓ローマ字": "Umezaki",
"名ローマ字": "Haruo",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1915-02-15",
"没年月日": "1965-07-19",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "戦後短篇小説選 1",
"底本出版社名1": "岩波書店",
"底本初版発行年1": "2000(平成12)年1月17日",
"入力に使用した版1": "2000(平成12)年1月17日第1刷",
"校正に使用した版1": "2000(平成12)年1月17日第1刷",
"底本の親本名1": "",
"底本の親本出版社名1": "",
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"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
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"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "hitsuji",
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"テキストファイル最終更新日": "2020-06-27T00:00:00",
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} |
[
[
"ほんとに団長そっくりね",
"まったくね。あのだんだら模様のジャケツの色なんかもね"
],
[
"あの人の奥さんも、ひょっとすると、サーカス娘だったかも知れないわね",
"あ、そうだ。きっとそうよ。こないだあそこの独木橋を、調子をつけてひょいひょいと渡ったわよ",
"ふん。じゃ綱渡りの要領というわけね"
],
[
"いや、失礼、失礼。べつに君の肴に、ケチをつけるつもりじゃなかったんだ",
"僕だって、ケチをつけられたとは、思っていないよ、猿沢君"
],
[
"お久美ちゃん。お銚子をどうぞもう一本",
"はい"
],
[
"それじゃ彼女も、二者択一というわけだ",
"それでさっきのメチルのことは――"
],
[
"あなた、独身なの?",
"ああ、そうだよ",
"不便でしょうね、ひとりだと"
],
[
"どちらが早いか、どうして判るんだ",
"こちらは半年前からだぞ。それに僕は真剣なのだ。君のは浮気に過ぎんじゃないか"
],
[
"どんな条件だ?",
"君たちが結婚するとき、僕を仲人に立てること。それがひとつだ",
"ふん。まだあるのか?",
"そうさ。僕の『すみれ』の借金を、君が全部払ってくれるということ。まあそれだけだな"
],
[
"借金の方は、大丈夫払って呉れるだろうな",
"払ってやる。その代りあそこには、もう足踏みするなよ"
],
[
"なぜひとごとじゃないの。あなたが払うとでも言うの?",
"実はそうなんだ",
"どういうわけなの、それは"
],
[
"どうも近頃、肩が凝ってねえ",
"揉んで呉れる人がいなくなって、気の毒だね"
],
[
"蟹江さんも、奥さんがなくなってから、すこし変ね。なんだか気味が悪いわ",
"そうだね。元からちょいと変な男だったが、この頃はとくに妙だね",
"あんまりガッカリしたので、頭のねじが狂ったんじゃないかしら。時々突拍子もないことを言い出したりしてさ",
"あのぎろぎろした眼付が、第一おかしいね。しばらく相手にしないがいいかも知れないな",
"だって向うからやって来るんですもの",
"だからサービスを悪くするんだな。あの男はすこし甘えているよ。世の中はそんな甘くないことを教えた方がいいと思うね"
],
[
"あっ、そうか。じゃ君は将棋は指せるだろう",
"そりゃ指せるさ。そう言えば、君とはまだ指したことがないな。ひとつ指してみたいもんだねえ。でもねえ――"
],
[
"金は、すこし高いよ。百十五円ぐらいかな",
"そりゃあ高いなあ。ちょっと高すぎるよ",
"でもそんな相場なんだよ",
"それじゃ訊ねるけれど、角なんかは?",
"角は百四十円で、飛車は、そうだねえ、百六十五円だ。王様は、これは持駒じゃないが、もし売るとすれば、二百五十円ぐらいに負けとこう",
"なに。二百五十円?"
]
] | 底本:「ボロ家の春秋」講談社文芸文庫、講談社
2000(平成12)年1月10日第1刷発行
底本の親本:「梅崎春生全集 第3巻」新潮社
1967(昭和42)年1月10日発行
初出:「群像」講談社
1952(昭和27)年1月
入力:kompass
校正:酒井裕二
2016年3月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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| {
"作品ID": "056772",
"作品名": "Sの背中",
"作品名読み": "えすのせなか",
"ソート用読み": "えすのせなか",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「群像」講談社、1952(昭和27)年1月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2016-04-27T00:00:00",
"最終更新日": "2016-03-04T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001798/card56772.html",
"人物ID": "001798",
"姓": "梅崎",
"名": "春生",
"姓読み": "うめざき",
"名読み": "はるお",
"姓読みソート用": "うめさき",
"名読みソート用": "はるお",
"姓ローマ字": "Umezaki",
"名ローマ字": "Haruo",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1915-02-15",
"没年月日": "1965-07-19",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "ボロ家の春秋",
"底本出版社名1": "講談社文芸文庫、講談社",
"底本初版発行年1": "2000(平成12)年1月10日",
"入力に使用した版1": "2000(平成12)年1月10日第1刷",
"校正に使用した版1": "2015(平成27)年5月8日第4刷",
"底本の親本名1": "梅崎春生全集 第3巻",
"底本の親本出版社名1": "新潮社",
"底本の親本初版発行年1": "1967(昭和42)年1月10日",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "kompass",
"校正者": "酒井裕二",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001798/files/56772_ruby_58723.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2016-03-04T00:00:00",
"テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"テキストファイル文字集合": "JIS X 0208",
"テキストファイル修正回数": "0",
"XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001798/files/56772_58761.html",
"XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2016-03-04T00:00:00",
"XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"そんなに黄色かねえ",
"黄色かねえって、まるで夏蜜柑だよ"
],
[
"手術時間はどの位かかるのです?",
"三十分位で済みますよ",
"頭蓋骨の穴はそのままにしておくのですか",
"いえ。やっぱりふさぎます。ドリルで骨を削るでしょう。その破片や粉末が血と一緒になって、こねられて、粘土みたいになっているんです。そいつを丸めて、穴に押しこんでおくと、ひとりでにふさがっていますよ"
],
[
"蜆の味噌汁をのむといいんだよ。三度三度ね",
"そんなことでなおるかね。身体のあちこちがとても痒いんだ",
"脂肪分はいけないよ。澱粉をたくさん摂るんだ。そして肝臓にグリコーゲンを貯えるようにするといいんだね",
"いろんなことを知っているんだね。やっぱり雑誌記者などやっていると、いろんなことを覚えるんだな",
"商売で覚えるんじゃないよ。おれも昔、黄疸をやったことがあるんだよ"
],
[
"三元の友人で、今度のことについてあやまりに来たんだ、と言ったら、なかなか愛想がよくてね、うまい具合に行きそうだと思ったんだが、示談書をかいてくれと切りだしたら、とたんに硬い顔になってね、厭だと言うんだ",
"示談書とはっきり言ったの?",
"いや、その犯罪は憎んでいるが、その本人を憎んでいるわけじゃない、ということを、一筆かいて呉れと言ったんだ"
],
[
"いや。わざわざそんなところに行ったりして、大変だっただろう",
"だって、可哀そうだからね",
"可哀そうって、誰が?"
],
[
"そりゃそうかも知れん",
"その点から言えば、僕たちはひどく僭越なことをやってるとも思うんだよ。三元のことだけに限らず、どんなことにもね。僭越というより、何かしら実質もなにも無い、へなへなしたようなやり方ばかりで、生きているような気がするよ、おれは"
],
[
"こればっかりが楽しみでね。もうこれ一羽になってしまった",
"勝負に出すのですか、これも",
"ええ。近いうちに千葉でやるんでね、それに出そうと思ってはいるんですよ"
],
[
"勝てばいいんですがね。金にもなるんでね。金のことはどうでもいいと思うんだけれど、貧乏したらやはり金も欲しいしね。今まとまって欲しいんですよ",
"勝つでしょう。こんないい体格だから",
"体格じゃ、こいつはきまりませんのでね"
],
[
"コヨコヨ",
"コヨコヨ"
],
[
"デス・バイ・ハンギング",
"デス・バイ・ハンギング"
],
[
"あいつが勝って呉れればね、それでも暫くはやって行けるんですが――",
"発田さんの家を売ったらどうです",
"ええ。出来ましたらね。女房が田舎に戻りたいと言っていますんでね"
],
[
"もし何でしたら、私付きのまま、この家をお売りになってもいいですよ。でも私もできるだけ探してはみますがね",
"ええ。ええ"
],
[
"発田さんの犬が、この庭にも来るでしょう",
"ええ",
"昨日うちの鶏と喧嘩しましてね。あの犬、ときどきお宅のものをくわえて行きません?"
],
[
"闘鶏の集りは、いつですか",
"ええ。もう二週間ばかり"
],
[
"ええ。ええ。でも私は口が下手でしてね",
"そう。口が下手らしいですね、あなたは"
],
[
"もう、黄疸はいいのですか。あまり黄色くないようですねえ",
"電燈の光だから、そう見えるんですよ"
],
[
"明日が闘鶏日なんですか",
"それについてね、やっぱり色んなことがあって、金がかかったりしましてね"
],
[
"鶏の調子はいいんですか",
"ええ。まあ"
],
[
"もう少しやりましょうか、コイコイ",
"いえ、もう"
],
[
"あなたとコヨコヨをやってると、不思議なんですけれどね、私はすこしイライラしてくるんですよ。勝っても、負けてもね",
"イライラね"
],
[
"お邪魔しました。遅くまで",
"ゆっくりおやすみなさい。明日は大変でしょうからね"
],
[
"縛っておかないでも、逃げ出さないものかしら",
"こうなれば絶対に動かないね。いさぎよいもんだね、蹴合鶏というやつは。じたばたしないで、死ぬのを待ってるだけだね"
]
] | 底本:「ボロ家の春秋」講談社文芸文庫、講談社
2000(平成12)年1月10日第1刷発行
底本の親本:「梅崎春生全集 第2巻」新潮社
1966(昭和41)年12月10日発行
初出:「新潮」新潮社
1949(昭和24)年5月
入力:kompass
校正:酒井裕二
2016年3月4日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "056773",
"作品名": "黄色い日日",
"作品名読み": "きいろいひび",
"ソート用読み": "きいろいひひ",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「新潮」新潮社、1949(昭和24)年5月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2016-04-27T00:00:00",
"最終更新日": "2016-03-04T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001798/card56773.html",
"人物ID": "001798",
"姓": "梅崎",
"名": "春生",
"姓読み": "うめざき",
"名読み": "はるお",
"姓読みソート用": "うめさき",
"名読みソート用": "はるお",
"姓ローマ字": "Umezaki",
"名ローマ字": "Haruo",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1915-02-15",
"没年月日": "1965-07-19",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "ボロ家の春秋",
"底本出版社名1": "講談社文芸文庫、講談社",
"底本初版発行年1": "2000(平成12)年1月10日",
"入力に使用した版1": "2000(平成12)年1月10日第1刷",
"校正に使用した版1": "2015(平成27)年5月8日第4刷",
"底本の親本名1": "梅崎春生全集 第2巻",
"底本の親本出版社名1": "新潮社",
"底本の親本初版発行年1": "1966(昭和41)年12月10日",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "kompass",
"校正者": "酒井裕二",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001798/files/56773_ruby_58724.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2016-03-04T00:00:00",
"テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"テキストファイル文字集合": "JIS X 0208",
"テキストファイル修正回数": "0",
"XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001798/files/56773_58762.html",
"XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2016-03-04T00:00:00",
"XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"道でも廊下でも、曲り角に来ると、壁にへばりつくようにして、直角に曲るんだよ。さっきから見ていると、もう直角になって来たようじゃないか。そろそろ帰ったらどうだい?",
"へばりつくなんて、ヤモリじゃあるまいし"
],
[
"でも、そう言うんなら、先に帰らせてもらうよ。さよなら",
"矢木君。君、送って行け"
],
[
"見ているとあぶなっかしくて仕様がない。同じ方向なんだろ",
"そうですか。送ります"
],
[
"おれはどうもこの自動扉というやつが、好きでないんだ",
"何故です?",
"自分が乗ったんだろ。だから自分の手でしめるのがあたりまえじゃないか。他の力でしめられると、何だか変だ。うっとうしくて、かなわない",
"そうですかね。僕は便利だと思うけれども――",
"便利? そりゃ便利だよ"
],
[
"しかし、たとえば、留置場か、棺桶の蓋のような気がする。いや、待てよ。留置場や棺桶は、自分で這入るものではないが",
"そうですよ。あれは這入るものじゃなく、他人から入れられるもんです"
],
[
"降りるのかね",
"ええ。では"
],
[
"どうしても這入れないと言うんだね",
"うん。這入れないね"
],
[
"こんな狭い道はムリですよ",
"しかしだね、ちょっと狭そうに見えるけれど、昼間にはトラック、大型は入りにくいが、とにかくトラックや乗用車が、すいすいと入ったり出たりしてるんだぜ"
],
[
"今まで乗ったタクシーは、皆這入ったよ",
"他のタクシーのことは知らないが、おれはイヤだね"
],
[
"這入れって、一体どのくらい這入るんだね",
"直ぐだよ、おれの家は。三十メートルほど入って、左側の家だ",
"三十メートルなら、歩いたらどうですか。何時までもごたくを並べてないで",
"歩け? 君はおれに、歩けと命令するのか?",
"命令はしてない。勧めているだけです",
"しかし、それは――"
],
[
"ついでに聞くがね、この車の番号は何番だい?",
"車のうしろについてるよ。それを見りゃいいだろ"
],
[
"もしもし。お宅にQ二〇三九という車がありますね",
"はあ。ちょっと待って下さい"
],
[
"せですむことを!",
"せですむことをして"
],
[
"はい。確かにそれは、うちの車です",
"そうですか。その車が二十分ぐらい前、こんなことをした"
],
[
"はい",
"はい"
],
[
"途中で降ろすなんて、乗車拒否より悪質だと僕は思うんですがね",
"判りました。当人は明朝十一時に戻って来る筈ですから、事情をよく聞きまして――"
],
[
"話は当直から聞きました。なにぶん当人は今朝七時に帰社して、もう家に戻ってしまいましたので――",
"七時? 昨夜の電話じゃ、十一時頃という話だったのに"
],
[
"そんなものが欲しくて、電話をかけたんじゃないんだ。あんたたちは何か誤解をしている。僕はただうちの道が――",
"判っております。判っております"
],
[
"運転手の顔ねえ。どの運転手の顔だったかしら",
"そら。佐渡君の会でさ、いっしょにタクシーを拾っただろう"
],
[
"ああ。あの時のね。あなたが白髪のことで、佐渡さんにからんだ夜の――",
"白髪?",
"ええ。佐渡さんに白髪が近頃ふえたのは、老い込んだ証拠だって、ずいぶんからんだじゃないですか。だから作品もダメになったって"
],
[
"あいつが僕の酔い方を批評したんで、面白くなくなって、会場を出たんだ。君もいっしょだったね",
"ええ。外には小雨が降っていた",
"雨が?",
"ええ。寒かったんで、僕は服の襟を立てて歩きましたよ。それでもずいぶん濡れた",
"おれは全然濡れなかったよ。おかしな話があるもんだなあ"
],
[
"何かこんぐらかってるな。駅で構内タクシーをつかまえた。番号はQ二〇三九だ",
"よく番号まで覚えていますねえ",
"うん。これにはわけがあるんだ。君は途中で降りた。そして角の果物屋に入って行った",
"果物屋?",
"そうだよ。不二果物店と看板が出ていた。君はまっすぐそこに這入って行った。僕は自動車の後窓からそれを見ていたんだ"
],
[
"ほんとですか。しかし、そんな筈はない",
"なぜ?",
"なぜって僕はあの果物屋と、半年前ぐらいだったかな、バナナのことで喧嘩をしたんですよ。大きい房の代金を払ったのに、うちであけて見たら小さい房が入っていた。そこであのおやじと大喧嘩をして、それ以来あそこでは買い物をしないことにしているんです",
"でも、僕は見たんだよ。この眼で"
],
[
"あなたがその眼で見たとして、それからあなたはどうなったんです",
"うちの近くまで来て、運転手が僕に降りろと言うんだ。そこで僕は降りた。しかし雨は降っていなかったぜ"
],
[
"で、結局その菓子折に、何が入ってたんですか?",
"判らない。新聞紙や外箱だけが燃え尽きて、あとどろどろなのが残った。へんに甘ったるい匂いがしてね、嘔きたくなるような気持がしたし、ウジが湧きそうだったから、スコップで穴を掘って埋めてしまった。しかしそんなものを持って来るぐらいなら、どうしてあの時道に這入って呉れなかったんだろう?",
"自動車強盗と間違えたんじゃないですか",
"強盗? このおれが? まさか",
"しかし、運転手には、気をつけた方がいいですよ。ノイローゼだのテンカンなどが、自覚しないまま営業してるという話ですからねえ"
],
[
"もっとも乗る方だって、気が確かかどうか、誰にも判っていない",
"そうだよ"
],
[
"おれたちだって、少しずつこんぐらかってるよ。君が覚えていることと、おれが覚えていることは、どこか食い違っている。それでよく安心して生きて行けるもんだな",
"僕がですか?",
"いや。君だけじゃなく、誰もがだ"
],
[
"もっとも疑い始めると、これは切りがないもんでねえ。忘れたり、記憶からしめ出されたり、思い違えたまま安心したり、その方がずっと生きいいんだろう。古井戸をのぞいたって、仕様がないやね。やくたいもない苔が生えているだけで――",
"それ、皮肉ですか?"
],
[
"旦那。あっしを覚えてるかね?",
"え?"
],
[
"覚えているだろうね。今の道順で、あっしは思い出したんだ。あれは五月の初め頃だったかな",
"ああ、あの時の――"
],
[
"僕を途中で降ろした運転手さんだね",
"降ろしただけじゃないよ"
],
[
"おれはあやまりに行かされたんだぜ。一日の稼ぎを棒に振ってさ",
"そうだったね。常務とかいう肥ったおっさんと"
],
[
"しかし、僕はあやまりに来いとは言わなかった筈だよ。そちらが勝手に来ただけだ",
"あんな電話をかけて来りゃ、常務だって放っては置けないさ",
"常務は、元気かね?",
"あれ、死んだよ",
"交通事故か?",
"いや。病気でだ"
],
[
"あの手土産も、あっしが自腹を切ったんだよ。うまかっただろう",
"そうかね"
],
[
"あの晩、僕たちを新宿で乗せた晩さ、あの時、雨が降ってたかね?",
"雨? 何を言ってんですかい"
],
[
"雨のことなんか話してないよ。菓子折のことだ。ウルサ型らしいから、一番上等のを買えって、常務が言うもんで――",
"へえ。そんな上等の菓子だったのか。中身は何だっけ",
"カステラだよ。食べたくせに、もう忘れたのかい?",
"食べなかったよ"
],
[
"食べなかった? 人にやったんですか?",
"いや。燃してしまった"
],
[
"旦那。まだ賭けごとはやってるのかね?",
"賭けごとって、何だい?",
"そら。車の中で、連れの若い男としきりに話し合ってたじゃないか。競馬や花札のことをさ"
],
[
"連れの男って、途中で降りた奴か?",
"そうだよ"
],
[
"僕は賭けごとの話をしないよ。する筈がない",
"いや。していたよ",
"でも、僕は競馬も花札もやったことはないんだぜ。やったことがないのに、話は出来ない"
],
[
"すると勝負ごとは、何もやらないと言うんだね",
"そうは言わない。将棋なら少し指す"
],
[
"いっしょに氷水を飲まないか。行きつけの店が、この先にあるんだ",
"そうだな"
],
[
"旦那。一丁指そうじゃないか",
"なに。将棋を、ここでか?",
"そうですよ。あんたは指すと言ったじゃないか",
"指すとは言ったよ。しかし君とは――"
],
[
"何か賭けるのか?",
"うん"
],
[
"負けた方が、相手に最敬礼をする。それでどうだね。旦那",
"よし。指そう"
]
] | 底本:「ボロ家の春秋」講談社文芸文庫、講談社
2000(平成12)年1月10日第1刷発行
底本の親本:「梅崎春生全集 第6巻」新潮社
1967(昭和42)年5月10日発行
初出:「群像」講談社
1962(昭和37)年7月
入力:kompass
校正:酒井裕二
2016年3月4日作成
2016年8月11日修正
青空文庫作成ファイル:
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[
[
"ナンバー、見た?",
"あんた。ナンバー、見た?"
],
[
"バーの階段から落ちたんだって?",
"バー? バーじゃなく、バスだよ"
],
[
"すまないが、お茶をいれて呉れないか。テーブルの下の扉に、茶器が入っている",
"酔っていたのかね、その時"
],
[
"バスの階段から落ちるなんて、だらしない話だね",
"酔ってはいなかった。酔うとかえって体が無抵抗になって、怪我などしないものだ。しらふだと、どうしてもじたばたとする"
],
[
"どうして人間の背中なんて、あんなに無防備につくってあるんだろうな。手は前に突く。叩く。足は前方に蹴上げる。眼や口や耳などの感覚器も、おおむね前方の敵を対象としてついているね。背中だけは、皆から見離されて、置きざりにされている。どういうわけかな",
"ヒジ鉄というのがあるよ",
"うん。それはある。でもそれは消極的なものだ。敵にはそれほど響かない"
],
[
"昔子供の頃、おやじから恐い話を聞かせられると、おれたち兄弟はひしひしと、背中をおやじにすりつけて行ったものだ。抱きついたりは決してしなかった。背中の方がぞくぞくと恐くなるからだ。今の子供もそうかね?",
"今でもそうだろう",
"すると人間という動物は、もともと攻撃的に出来ているのかな。背中をさらして歩く動物、しかも守勢的な動物は、たいてい甲羅だのトゲだのを持っていらあね。たとえば亀だとか――"
],
[
"それがバスからすべり落ちた、君の弁解かね",
"いや。弁解というわけじゃないけれども――"
],
[
"骨が動くんだよ。人間関係みたいに、あちら立てればこちらが立たずという理屈は、骨には通用しない",
"僕もいつか背骨を打って、気を失った人を見たことがある。その現場をだよ"
],
[
"事故。事故だな、あれは、全く",
"自動車事故か?",
"うん。やはり自動車事故だろう。自動車が停留所標識をはねた。標識は折れて遠くに飛び、ある女の背中にぶつかった。自動車はそのまま逃げてしまったが、おそらく女に当ったことは知らなかったんだと思う。するとだね、女は確実に被害者だが、運転手の方は加害者と言えるかな。もちろん標識柱に対しては、それを毀損したんだから、彼は加害者だけれど"
],
[
"それを言いたいために、そんな長話をしたのか",
"それもあるがだ――"
],
[
"災難はどこにひそんでいるか判らない。それも言いたかったんだ",
"ふん。君も近頃説教づいて来たようだな。齢のせいか。たしか君も四十四歳だったね"
],
[
"で、その女、君の知合いだったのかね",
"いや。全然知らない。ただの行きずりの人間だよ",
"じゃ病院に着いてすぐ気を取り戻したことや、負傷の箇所を、どうして知ってるんだい?",
"病院に電話をかけたのさ、その翌々日。病院の名は、救急車の男が言ったのを、メモして置いた",
"何故そんなことをするんだね",
"僕は見たことの続きやつながりを知りたかったんだ。ただそれだけさ",
"猿みたいな好奇心だね",
"すると看護婦か女医か知らないが、女の声が出て来た。そして症状を教えて呉れた"
],
[
"で、病院に行ったのか?",
"いや。行かなかった"
],
[
"車のナンバーも覚えてないし、僕の印象に残っているのは、狂い凧のような標識の動きと、畠に倒れた女の姿だけだからね。齢は三十前後で、かなり美人だった",
"美人なら見舞いに行ってやればよかったのに",
"しかし僕は証人になりたくて電話をかけたんじゃない。つながりを知りたかっただけだ"
],
[
"それから二十日ほどして、また電話をしてみた。すると彼女は退院したあとだった。その後のことは知らない。知ろうと思えば知る事が出来る。女の住所もメモして置いたから",
"君というのは、実に因果な性分だね。君は齢をとると、きっと意地悪爺さんになるよ。おれが保証してもいい"
],
[
"君の場合、ずっこけた時、弥次馬は集まらなかったかね?",
"集まらなかった。集まるもんかね"
],
[
"状況が違うよ。それに僕は美人じゃないし、中年男がずっこけただけの話だからね",
"腰、痛むかい?"
],
[
"いけませんか",
"ええ。折角鎮静させているのでね、寝た子を無理に引っぱり起すようなものですよ"
],
[
"ここを押して、痛いですか?",
"いいえ。ちっとも",
"おかしいな。確かにこの骨はへしゃげている。昔、子供の時に、鉄棒から落ちたとか、何かで強く打たれたとか、そんなことはありませんでしたか"
],
[
"軍隊でね、崖から落ちたことはありますが、別に背中は打たなかった。もし打ったとすれば、その時痛いですか?",
"ええ。痛いですよ。この程度押しても、我慢が出来ないほどです"
],
[
"前からありましたかね?",
"いいえ"
],
[
"一度これを持って、国立病院に行ってみませんか。紹介状を書きますよ。古いものかどうか、わたしには判断出来ませんのでね",
"そうですか",
"一般に骨全体の影がうすいようですな。齢の割には弱って来ている"
],
[
"僕には双生児がありましてね――",
"ソーセージ?",
"いえ。つまり僕は、ふた児の一人として生れて来たという意味です。相手はもう生きていないけれど――",
"なるほどね",
"双生児というのは、母体からの栄養やカルシューム分を、二人で分け合って育つものでしょう。そういう点で、先天的に骨格がやわであるとか、筋肉が薄弱に生れつくとか、そんなことはないのですか?",
"さあ。それは――"
],
[
"その相手の人も、体は弱かったんですか。死んだというのは――",
"いや、病気じゃありません。相手は僕より骨が太かったし、腕力も強かった。そこでその分だけ、僕の取り分が少かったと言う風には――",
"それはどうですかねえ"
],
[
"双生児のことを研究したことがないので、断定は出来ませんが、そんな事例は聞いたことがない。おそらく健康とは関係ないでしょう",
"でも、双生児で芸能界に出たものはあるけれど、スポーツ方面に進出したようなことは、あまり聞きませんね",
"国立病院に紹介状を書いときましょう。あとで取りに来て下さい"
],
[
"骨が突出しているのは――",
"やはりその時、折れたんですね",
"ここが張って来て、苦しいのですが――",
"うん。それは――"
],
[
"手や足を動かすと、手や足の骨はそれについて動く。そのことか",
"そんなかんたんなことじゃないよ"
],
[
"脊椎の一部が変形する。するととたんに平衡が失われる。自立するのに具合が悪くなるんだね。しかし変形は既定の事実だ。他の骨がその変形に応じて、それぞれ形を動かし始めるんだ。たとえば肋骨がうしろに引っ込むとか、胸椎が歪んだら腰椎が反対側に歪むとかね。おれの脇腹の上がふくらんで圧迫感があるのは、そのせいなんだ",
"不正を皆して合理化しようというわけだね"
],
[
"するとその脂肪腫も、何かそれと関係あるのかい?",
"いや。これは偶然だろう。おれもそう思っている。たまたま皮下に脂肪がたまっただけなんだ。おい。そこにブランデーが入っているだろう"
],
[
"それを出して呉れ",
"飲んでもいいのかい?"
],
[
"骨に響きやしないか",
"大丈夫だよ。腰筋の炎症はおさまったんだからな"
],
[
"脂肪腫というのは、遺伝するものかな",
"なぜ? 城介君にも、そんなのがあったのか",
"いや。城介じゃない。父方の伯父だ"
],
[
"おやじの兄なんだがね。若い時からいつも首のつけ根のところに、ふくらみをこさえては手術し、またふくらませていた。ちょっとコブ取り爺さんみたいに、だらしなく不恰好でね。そのくせまだ死なないで、生きているのだ。おれはこの爺さんを、どこか安い養老院に入れてやろうと思っている",
"なぜそんな憎々しげな言い方をするんだい?",
"そ、そんなに――"
],
[
"何のために?",
"いや。見てどうするわけじゃないが、どんな形で、どんな具合にかくれているか、参考までにさ"
],
[
"別段お見せするほど立派なものじゃないが、明日、いや、明後日の午後、ギプスベッドをつくるんでね",
"どこで? 病院でか?",
"いや。うちでだ"
],
[
"ギプスベッドというのは、どんな風につくるのか判らないけれども、やはりおそらく裸になるんだろう",
"そりゃそうだろうね。着物を着たままじゃ無理だろう",
"その時、見に来たらいいよ。見せてやるよ。骨の突起もコブもさ。その方が全貌を見渡せていいだろう",
"そうだね。そう願おうか"
],
[
"そのギプスベッドは、ドクターの意見かね?",
"うん。国立の医長が、うちの医者に指示したらしい。骨を動かさないためにだ。突起がはげしくなると、ますます他の骨が動くだろう。だから突起を押えるために――",
"コブを押しつぶす作用もするのか",
"さっきから言ったように、コブは関係ないんだよ。ずいぶん君はコブにこだわるな"
],
[
"おれは少し疲れた。眠い",
"こだわるわけじゃないが、僕は何と言うか、はみ出たものが好きなんだよ。好きというより、興味がね"
],
[
"その脂肪腫というのは、体に害をなす輩じゃないんだね",
"そう。悪質の肉腫などとは違う。皮下に脂肪がたまるだけで、もっとふくらんで来れば切開して、フクロごと取り出せばいい。何でもないんだよ"
],
[
"この感じ、餅に似ていますね",
"そうですな"
],
[
"つめたくはないですか?",
"いいえ"
],
[
"もう済むのですか?",
"いや。もうちょっと厚くしましょう。薄いと折れ曲ったりする心配がある。厚い分には、あとで削れますからね"
],
[
"餅よりも固まり方が早いようだ",
"ええ。もう直ぐ――",
"何だか河童の甲羅みたいな気がしますね"
],
[
"これに色を染めて、背中にかついで歩いたら、そっくり河童に見えませんかね",
"ベッドをかついで歩くという話は、あまり聞きませんな"
],
[
"造花みたいだね。ほんものかい?",
"もちろんほんものだよ。見れば判るだろ"
],
[
"まだあれはつくらないのか?",
"あれってギプスベッドか"
],
[
"それは昨日つくったよ",
"昨日? 今日つくるという話じゃなかったのか?",
"今日だったかな。しかし医者は昨日来たよ。そうだ。きっと医者が日取りを間違えたんだ"
],
[
"君はあの頃もよく城介君をすっぽかしたからねえ。城介君はすっぽかされると、いつも僕の下宿に来て、兄貴のやつはだらしがないとこぼしてたよ。だから僕が身がわりになって、いっしょに浅草なんかに遊びに行った",
"あの頃の浅草は面白かったねえ。いろんなものがあって、しかも安くて――"
],
[
"でも、おれは城介をすっぽかす気はなかったんだぜ。彼の奉公先があんなところだろう。定期的な休暇はないんだ。手すきになると、ふらふらとおれんとこに遊びに来る。連絡がないから、こっちも待ってやしない。あいつがおれをだらしないというのは、別の理由からなんだ",
"うん。それは知っているよ。日記で読んだ"
],
[
"何故僕に預けるんだね?",
"どうも女中が盗み読みしている気配があってね、これにゃ主人の悪口なども書いてあるんですよ。へんな告げ口されたら困る",
"栄介に預けたら?",
"栄介は今留守だった。映画を見に行ったらしい"
],
[
"うまく出来たかい?",
"うまいかまずいか知らないが、とにかく出来上ったよ。まだ濡れているから、使えない。庭に乾してある"
],
[
"見たいか?",
"うん"
],
[
"まだ杖が要るのかね?",
"いや。なくても歩けるが、この方がらくなんだ。それに病人は、病人らしい恰好をしている方が似合う"
],
[
"貧弱なオブジェというところだね",
"ずいぶん背中のとこが凹んでるだろう"
],
[
"しかしおれの背中は凹んでないんだぜ。その分だけふくれているんだ。つまりこれは背中の逆になっている。背骨の孔だって――",
"判ってるよ、そんなこと。説明して呉れなくても",
"そうか。それならいいが――"
],
[
"出来上った時に、これがほんとにおれの背中かと、おれは哀しかったよ",
"しかしこの程度の猫背は、そこらにざらにあるんじゃないのか"
],
[
"自分のものだから、オーバーに感じるんだ。型を取れば、僕だってそんなものだよ。そんなものだろうと思うよ",
"そう無理してなぐさめるなよ"
],
[
"あんな背中になって、間もなくおやじは死んでしまった。骨も相当に弱っていたんだろうなあ",
"齢をとれば誰だって、骨は弱るさ"
],
[
"城介君だって、割に猫背だったよ。ことに走ると、それが目立った。彼はオートバイ乗りみたいな姿勢で走ったよ",
"城介が走るとこを、君は見たことがあるのか?",
"あるよ。どこだったか、どこかの遊園地でだ。まだ君に話さなかったかな"
],
[
"なぜ殴るんだね?",
"女をいじめてるからですよ"
],
[
"甘えて騒いでるだけだよ。僕たちとは関係ない",
"関係ありますよ"
],
[
"あいつら、さっきおれたちと売店の前ですれ違った時、ふんと言った調子で、唾を地面にはきやがった",
"ちょっと酔っぱらってるんだよ",
"今もさ、こんなこと、お前たちにゃ出来めえと、そんなつもりでやってんだ。あの与太学生ら!"
],
[
"君も逃げたのか?",
"うん。いや。五十メートルほど走って、走りやめた。僕は何もしなかったから、逃げることはないと思ってね"
],
[
"こんなところにギプスを乾しとくと、犬や野良猫が便をしやしないかな。恰好が恰好だし――",
"便器に見えるのか?",
"いや。僕にはギプスに見えるけれど、犬や猫はそう見ないだろう"
],
[
"彼はいつもあんな走り方をしたのかね?",
"君が走りやめたとすると――"
],
[
"城介はどうしたんだね?",
"そのまま遊園地の外まで、つっ走ったらしい。その次会った時、そう言っていた"
],
[
"そうだ。あれは割に暑い日だった。僕は独りになって、もう遊園地にいる気もしなくなって、外に出て生ビールを飲んだ。きっと初夏だったんだな",
"さっきは売店でおでんを売ってたと、そう言ったが",
"夏だって、おでんは売るさ。遊園地だもの。しかし――"
],
[
"何だって城介君は、女の横面をたたいたんだろうな。たたく必要は何もないのに",
"次に会った時、訊ねてみなかったのかい?",
"うん",
"照れかくしだよ、あいつの"
],
[
"照れかくしって、何を彼は照れたんだね?",
"判らないかな。絹を裂くような女の悲鳴、かけ寄って見るとあわや落花狼藉――"
],
[
"やっつけてしまった後で、あいつは君という目撃者がいることに気付いたんだ。そこで城介はそれをごまかそうとしたんだよ。次に会った時、聞かなかったと言うのは、うそだろう",
"うん"
],
[
"聞いてみたら、惰性だと言って笑っていたね。しかしあの頃、僕たちは二十やそこらぐらいだろう。その年頃で、そんなことで照れるものかねえ",
"じゃ君はどう解釈するんだ?",
"よく判らないんだ。行動的だけれど、目的のない、盲目的な――"
],
[
"まあ君がバスの階段を、がくがくがくとずっこけたようなもんだね。彼にとってどうしようもなかったんだろう。しかし彼は、その恰好の割には、足は早くなかったようだね。重心が前へ前へと動くのに、足がそれについて行けない",
"早くなかった。でも、おれよりは早かった"
],
[
"あいつは逃げ出すことで、いっぺん失敗したことがあるんだよ。ずっと前、中学生の頃だったけれどさ。うどん屋で食い逃げをしたんだ",
"つかまったのか?",
"いや。つかまりはしなかった。しかしそれがあいつの運命を狂わせた"
],
[
"おれんとこの地方じゃ、めん類を食わせる店を、うどん屋と呼ぶ。そば屋とは言わないな。うどんが主で、そばはつけたりで、そばなんか食う人はあまりいなかった。暖かい地方だから、そばの出来も悪かったんじゃないか。味もまずかった",
"そうだね。あれは寒い地方の食い物のようだね",
"おれの中学校では、生徒がうどん屋に出入りしちゃいけないことになっていた。父兄同伴ならいいが、単独でだとか、仲間といっしょに入ると、ひどくうるさかった。しかしどうしてあの頃の中学教師たちは、うどん屋にこだわったのかな。別に女が給仕するわけじゃなし、うどんを食って帰るだけの話だからね。でもおれたちは出かけた。禁止されているからこそ、出入りしたくなるんだ。つまりおれたちは子供じゃないと、人に思われたいし、自分でも信じたかったんだろう。おい。またブランデーを注いで呉れ",
"僕にもそんなことがあった"
],
[
"袂のある着物をつくって呉れと、おふくろにせがんで、得意になって着て歩いた。すると近所の人が、狼が衣を着ているようだと、批評しやがった。それで当分着るのをやめたよ",
"当り屋という屋号の店だ。学校の近くにあった。うまい店でね"
],
[
"素うどん",
"素うどん"
],
[
"困ったな",
"弱ったねえ"
],
[
"あいつら三人は、貧乏人じゃないんだ。みんな割に大きな家に住んでいるんだ",
"するとそいつらは、金を出し惜しみをしたというわけか",
"そうじゃない。その時実際に、金は持っていなかっただろう"
],
[
"お父さん。ぼくはもう学校をやめる",
"なぜだ?"
],
[
"もう学問がイヤになったのか?",
"それもあるけれど、実は――"
],
[
"どうしておれに相談しなかったんだい。うどんの食逃げはよくないが、それだけなら停学の十日ぐらいで済んだ筈だよ",
"それがダメなんだよ。兄貴"
],
[
"昔からおれはそうなんだ。学校の水泳で、立入禁止区域で泳いでいると、足がつって溺れかかるのはいつもおれだし、運動場で雪合戦をやっていると、おれの雪玉はいつも先生の頭にぶっつかるしさ。要領がてんで悪いんだ",
"しかし今度のことは――",
"それだって婆さんが飛び出して来なきゃよかったんだ。要領というより、運だね。いつも悪い運がおれに廻って来る",
"お前は自分でそう思っているだけだよ"
],
[
"自分で餅をついたりしていた頃は、まだしゃんと伸びていた。齢のせいじゃなく、もしかすると、気分的な理由からだろう",
"気分的?",
"気分的というより、職業の問題があったのかも知れないな"
],
[
"おやじは実は県庁をやめたのだ",
"そのためにかね?",
"いや。ずっと前だ。おれに竜介という兄があることを、君に話したかな。その兄ももう死んでしまったけれども"
],
[
"きっとお母さんは美人だっただろうね",
"うん。美人だった。写真を見ても判る。うちのとは比較にならん"
],
[
"でも、人間の記憶って、へんなもんだな。線としてはつながっていない。ところどころがぽつりぽつりと残っているんだな。強烈なとこだけが残って、あとは消え失せてしまうんだ",
"誰だってそうだよ",
"葬式はやった筈だ。ところがどこでやったのか、どんな具合に行われたか、おれは覚えてない。だからお母さんが泣いたか、泣かなかったかと言うことも――"
],
[
"へえ。そんなことがあったのかい?",
"あれ。お前、覚えてないのか"
],
[
"あれは不景気な時代だったからな。でも、学校時代の友人が経営している小さな会社に、やっと入ることが出来た",
"職業の問題って、それなのか"
],
[
"そうだよ。役人というやつは、今でもそうだが、昔だって同じで、民間人に対して反りくり返っていた。つまり高姿勢だったということだ",
"君のおやじさんも、反りくり返っていたのかね",
"かどうかは知らないが、一般的な傾向としてはそうだったね。それが小さな会社勤めになり、ぺこぺこする立場になったわけだろう。背中がすこしずつ前屈して来るのも、当然だと思うな"
],
[
"そういうことは出来ません。在学中にやったことですから、それに対して責任を取ろうと言うのです",
"それは判りますがね"
],
[
"あの事件のために退学処分をさせられるのと、家庭の事情で自発的に退学を願い出られるのとでは、大きな違いがあるんですよ。城介君の将来のためにね",
"家庭の事情って、たとえば――",
"学資が足りないとか、あるいは転校するためにとか――"
],
[
"つまり説伏されたということかね",
"そうだよ"
],
[
"その間学校側でも、当り屋といろいろ交渉していたんだな。婆さんの治療費や慰藉料を充分に払う。だから我慢して呉れと言うようなことをさ。当り屋としては、実質的には食逃げの損害だけで、婆さんの怪我も皆で袋だたきにしたわけじゃないし、追っかけ方が悪くて転んだんだからねえ",
"それに客商売という弱味もあるんだろう",
"もちろんそれもある"
],
[
"学校側といざこざを起しちゃ、出前が取れなくなるおそれがある。当り屋としては、充分な金さえもらえればいいんで、どちらかというと、犠牲者を出したくなかったんだ",
"うどん屋の気持が、どうして判るんだね?",
"おれは中学を卒業して、一度当り屋に行ったことがある。もちろん文句をつけにじゃなく、うどんを食べるためだ。するとおやじが出て来て、あなたさんの兄さんにも御迷惑かけましたなあ、とあいさつをして、天ぷらうどんをタダで御馳走して呉れた。城介の方を兄貴だと思ったらしいんだね",
"その天ぷらうどんを、君はタダで食べたのかね。イヤだと言って、金を払おうとはしなかったのか"
],
[
"僕なら、いや、若い時の僕なら、そうするよ",
"いや、甘んじて御馳走になったよ"
],
[
"意地悪爺さんに似合わない、壮士芝居のようなことを言うなよ。おれは腹がすいたから行っただけで、仇討ちに行ったわけじゃない。しかし、その天ぷらうどんはうまかった。天ぷらうどんと言うと、君はエビか何かの天ぷらを考えるだろうね",
"うん。衣ばかりが大きくて、中身は小さいやつをね",
"おれの地方じゃ、天ぷらうどんと言うと、そんなものじゃない。うどんの上にサツマ揚げが乗っかってんだ",
"サツマ揚げ?"
],
[
"なるほどね。サツマ揚げも天ぷらの一種には違いないが、少々貧乏たらしい感じがするな",
"いや。それが貧乏たらしくないんだ"
],
[
"おれんちの方は、魚が新鮮で安い。サツマ揚げにしたって、へんなまぜものが入ってない。つまり東京のサツマ揚げみたいに、粗悪なものじゃないんだ",
"それはそうだとしても――",
"いや。東京風の煮〆めたうどんに、お粗末なサツマ揚げを入れたら、これは食えたもんじゃなかろう。別に東京の悪口を言うつもりはないけれどね",
"食べてみなくちゃ判らないな",
"そうだ。食べなくては判らない"
],
[
"おれは当り屋で、その天ぷらうどんを二杯御馳走になった。そして帰って来た。ただそれだけの話さ",
"婆さんは?",
"婆さんはいなかった。隠居したか、もうその時生きていなかったのかも知れない。今日は風が強いようだな。寝てばかりいると、気候の変化が、どうも身にしみて判らない"
],
[
"三人の父親から相当な金額が、当り屋に支払われた。つまり示談金というわけだね。そのおかげで、三人の生徒は処分を免かれた。そして城介は、事件以前の日付けで、退学することになった。三方一両損という落語があるが、こりゃひでえもんだね",
"城介君が一番悪いクジを引いたということだな"
],
[
"それはそうだが――",
"だから葬儀屋に奉公させろと、わしは言っているんだ。手に職をつけとけば、あとはどうにもなる。人間が生きている限りは、葬儀屋という商売はなくならない"
],
[
"葬儀屋というのは、卑しい商売じゃない。あれがあるからこそ、わしらは安心して死ねるのだ",
"兄さん。そう勝手に押しつけては困るよ"
],
[
"まだあの床屋の椅子に、一時間辛抱する決心がつかないんだ。背中が――",
"僕に刈って呉れと言うんじゃあるまいね",
"まさか"
],
[
"この差出人を探し出してもらいたいんだ",
"そんな仕事を僕に――"
],
[
"それで僕を呼んだのか。僕は私立探偵じゃないんだよ",
"判っている"
],
[
"探偵みたいなやり方で探して呉れと、言ってんじゃない。よく近頃の新聞に、何々をゆずって下さいとか、戦時中どこそこにお住いの何某さんを探しています、という欄があるだろう。あれに出してもらいたいんだ。おれが行けりゃ、新聞社に行くんだが――",
"学生を使ったらどうだね。この間の国立病院行きのように――",
"いや。これは私事だから――"
],
[
"その探し主を、実は君の名にしてもらいたいんだよ",
"なぜ?",
"おれは新聞にあまり自分の名を出したくないんだ"
],
[
"この封筒の差出人って、誰だね?",
"加納と言って、城介の友達だ"
],
[
"どうだね。引受けて呉れるかい?",
"急ぐのか。十五日も待てないほど?",
"急ぎやしないがね。でも、なおってしまうと、おれも忙しくなるだろう"
],
[
"暇なうちに、その男に会うか、手紙を出してみたいんだ。だから早いとこ、ことの続きやつながりを知りたいんだよ。君のようにね",
"君は暇過ぎるんだな"
],
[
"外界に触れないから、考えがとかく後向きになりがちなんだ。まだ後向きになる齢じゃなかろう",
"そうじゃないよ。おれは現在のことを考えているんだ"
],
[
"うどんも当分食いおさめだからな",
"うどんなら東京にもあるだろう"
],
[
"お前。酒飲むのか。好きなのか?",
"いや。好きじゃない。いつか台所におやじの残り酒があったから、飲んだら顔がほてって仕方がなかった"
],
[
"城介。お前、憂欝じゃないのか",
"何が?",
"東京にひとりで行くことだよ",
"いや"
],
[
"昨夜、お前がやり方を覚えて戻って来たら、開店の資金は出してやると言っていたな",
"酔っぱらっていたからだろう",
"いや。案外本気な口調だったぞ"
],
[
"兄貴。心配しなくてもいいよ",
"何を?",
"葬儀屋のことさ。おれ、葬儀屋って、どんな手順でやるか知らないが、とにかく力仕事じゃないだろう。その点で、おれは気に入ってるんだ",
"そりゃそうだが――"
],
[
"食逃げするわけにも行かないと",
"おれが払うよ",
"今のは冗談だよ"
],
[
"ケシの花だ",
"知っているよ",
"これから阿片がとれるんだ"
],
[
"兄貴。もし大学まで行けるようになったら、東京の大学にして呉れよな。おれも話し相手が欲しいから",
"うん"
],
[
"その時聞こうと思ったんだが、城介君がうどんの事件を起した時、喜びの気持が君の胸のどこかに動いていなかったかね?",
"なぜ?",
"城介君が退校となれば、君は大学までの学資を確保出来たわけだろう。幸太郎氏が二人の中の一人に学資を出してやる、という約束だった筈だね",
"約束はそうだった"
],
[
"しかし喜ぶ気持は全然なかった。君に兄弟あるかね",
"いるよ",
"兄弟で何か競争して、相手が失脚すると、うれしいような気持になるか",
"さあ"
],
[
"そ、そんな立場に置かれたことがないから、よく判らない。すると君はやはり城介君を可哀そうだと思ったわけだね",
"それとも違う"
],
[
"おれはふた児として生れた。ひとりで生れた経験がないんで、断言は出来ないけれど、ふた児同士には特別の感情の交流があるんじゃないかな。たとえば僕には竜介という兄と、他に弟と妹が一人ずついる。それらに対する感情は、やはり城介に対するのと違うものね",
"年齢の差からかな",
"そうだろうね。同じ胎内に育って、同じ日に生れた。何かを分け合った、つまり分身、自分の分身だというような――",
"初めからかい。その感じは",
"いや。初めはそうじゃない。これが自然であたりまえと思っていた。いや、思いもしなかった。ずいぶんフケが出るな。久しく頭を洗わないもんだから"
],
[
"城介が他のやつと喧嘩をすると、おれが加勢に出るし、おれがやると城介がかけつけて味方になった。仲良く協力して、外敵に当った。ところが家に帰ると、他愛もないことで、おれたちはよく喧嘩をし合ったもんだ。へんなもんだね",
"じゃれ合ったというわけか"
],
[
"しかし汽車が動き出した時、これが見おさめかと思うなんて、少しオーバーだね。感傷なんだな。現実には東京で再会しているんだから",
"いや。今でもおれは人と別れる時、これが見おさめかと感じることが、時々ある。時々以上にある。その直感はたいてい当らないけれどね。あの下関で城介を見送った時の感じが、心のどこかで尾を引いてるのかも知れない"
],
[
"寒いな。下関というところは",
"港街だからだろう"
],
[
"やはり外地行きらしい",
"外地って、どこだ?",
"聞いたけど、教えて呉れなかった"
],
[
"朝鮮か満洲だと思うんだがね。今晩はここ泊りで、明日乗船だ",
"兵舎に泊るのか",
"いや。民家だ。地図を書いてもらった"
],
[
"台湾だといいんだがねえ。おれ、寒さが一番にが手なんだ",
"台湾かも知れないよ",
"でも台湾じゃ戦争をやっていない。どうしても北方だな"
],
[
"十時迄にこの宿舎に入ればいいそうだ。それまで遊ぼう",
"そりゃよかったな"
],
[
"飲んでもいいのかい?",
"なぜ?",
"お前はもう兵隊なんだろう。酔っぱらうと叱られはしないか",
"まだ兵隊じゃないんだよ"
],
[
"明日船に乗っても、まだ兵隊じゃない。どこかに着いてから、正式に初年兵になるんだよ",
"ほんとかい",
"ほんとだ。さっきそう教えられた。まだ入隊してないんだから、一人前の兵隊面をするなって。今は何を飲み食いしても、おれの勝手なんだ"
],
[
"東京の兄さん",
"東京の兄さん"
],
[
"兄貴。ひでえ刈り方をしたな。まるで段々畠じゃないか",
"すぐ伸びるよ。伸びたら、段々も消えてしまう"
],
[
"あまり行きたくないな",
"じゃ断れよ"
],
[
"おれが初めて酒を飲んだのは、お前を東京に送りに行った駅前のうどん屋でだ",
"そうだったな。お銚子半分で、兄貴は真赤になっていた",
"そうだ。足がふらふらした。駅の向うは麦畑で、ゴッホが使うような黄色で、熟れてむんむんしていた",
"そうだったかな",
"プラットホームにきれいな花が咲いていた。あれは六月何日頃か"
],
[
"ねえ。兄貴。おれには子供がいるんだよ",
"子供?"
],
[
"いくつになるんだ。その子は?",
"三月に生れる予定だ",
"結婚の約束をしたのか?"
],
[
"じゃ妊娠させたまま、東京を離れたのかい?",
"そうだよ"
],
[
"結婚は出来ないんだ。その女は人妻なんだから",
"人妻? するとその子は、お前のかその亭主のか、どうして判る?",
"そうなんだ。しかし女はそう信じている。信じているからには、何か根拠があるんだろう"
],
[
"言い切れないと思うよ。おれは時々そんなことを考えた。おれたち二人のことをね",
"どんな風に――",
"おれたちはふた児として生れた。しかしおやじは自分で名をつけなかった。名をつけたのは、他の人だ。その人が今兄貴に学資を出している――"
],
[
"その人妻って、誰だね。何ならおれが訪ねてやってもいい",
"誰かということは言えないよ"
],
[
"自分のやったことは、自分で決着をつける。兄貴に迷惑はかけん",
"決着をつけるって、無事帰還をするつもりかい"
],
[
"兄貴。おれ、顔が赤いか",
"いや。赤くないよ"
],
[
"戦争が終って五年ほどして、加納からハガキが来た。どこかでおれの名を見たんだろう。名前が城介に似ているが、兄弟か何かじゃないかという問い合わせだ",
"なるほど",
"そうだと返事を出すと、折返し手紙が送られて来た。写真が同封してあった。これがそれだ"
],
[
"ここはどこだね?",
"厚和という街の城外だ。昔は綏遠と言ったらしいんだがね。蒙古地区だよ",
"殺風景なところだねえ"
],
[
"加納の居所を探す件、承知して呉れるかね?",
"うん。ひとつやってみよう"
],
[
"城介君が戦死をしたのは、いつのことだい?",
"戦死?"
],
[
"昭和十七年の八月十七日だ。おれは大学を卒業して、就職していた",
"ああ。神田にある何とか研究所というところだったね。今はホテルになっている",
"うん。十七年一月、おれも召集を受けた。ところがおれは即日帰郷になった。気管支が悪くてね。二箇月ほど入院して、それからその年いっぱい、ぶらぶらしていた。その日もおれは魚釣りに出ていた。おれの家から海岸まで直ぐなんだ"
],
[
"何の用だい?",
"知らない"
],
[
"直ぐ兄さんを呼んで来いって言うんだ。お母さん、泣いていた",
"泣いていた?"
],
[
"何て愚劣なことだろう",
"何てバカなことだろう"
],
[
"あれは肩から吊し、手で捧げ持ってこそ、恰好がつくもんでね。食事する時などは、処置に困る。人がいなきゃいいんだが、皆が見ているだろう。骨をじゃなく、おれをさ。肉親をうしなって悲しみにあふれている人間として、このおれを眺めている。その視線の中で飯を食うのは、具合が悪いもんだよ。と言って、腹が減れば、食べないわけには行かないし――",
"なるほどね"
],
[
"悲しい顔をしなくちゃいけないだろうからね",
"その代り、逆用も出来るんだ"
],
[
"その汽車は、長距離列車なんだ。だから誰も席をゆずりたくない。そんな汽車におれが乗込んで、皆困っただろうと今思うよ。遺骨という大義名分を振りかざして、斬り込んで行ったようなものだからねえ。居眠りをよそおっている奴もいた",
"で、君はその学生にお礼を言ったのか?",
"言わないさ。言わないで、実に平然として腰をおろした"
],
[
"家にたどりついて、箱をあけて見ると、骨壺があった。蓋をあけると、骨の破片が少量入っていたよ",
"涙が出たかい?",
"いや"
],
[
"肉親の死というものは、そばに立合っていると、悲しみが集中して涙が出るが、城介の場合はそうじゃない。初めに手紙が来て、それから骨だろう。骨だって現地で焼いたものだ。死貌をおれは見ていない。実感がないから、悲しみは分散されるのだ",
"そんなものかな",
"それに名古屋まで苦労して出かけたわけだろう。こんなもののために、苦労させやがって、と言う感じが強かったね。むしろ加納という男から、写真を送って来た時の方が、真実感があった。ああ、こんなところに埋められているんだとね。でもふしぎなもんだな。おれはその加納の手紙に返事を書かなかった。書きたくないような気がしたんだ",
"城介君の骨のために苦労させやがった、と君は言うけれど、生きている時に彼は君に苦労させられたんだよ。君は葬儀屋の主人に金を借りて、戻さなかっただろう",
"ああ"
],
[
"よく知ってるな",
"城介君の日記にも書いてあるし、僕にもしばしばこぼしていた。兄貴は金銭的にもだらしがないってさ"
],
[
"ところがそれから、六、七年経って、おれは突然それを知りたくなった。そこで加納に手紙を出して、会って話を聞きたいと申し入れた。すると付箋づきで戻って来たんだ",
"どうして手紙を出す気になったんだね?",
"はっきり判らない。歳月が経って、昔ほどつらくなくなったからだろう",
"齢をとって、そろそろ決着つけたくなったんじゃないか"
],
[
"加納の話を聞いても、決着どころか、ますますもつれるだけだ、と僕は思うよ",
"そうかも知れんな"
],
[
"これには写真だけ入っていたのかね",
"いや。手紙も入っていたよ",
"何て書いてあった",
"死んだ時の状況を、かんたんに書いてあった",
"ほう。城介君はどんな病気で死んだんだ?",
"自殺さ",
"自殺?"
],
[
"いやな野郎だな。あいつ",
"手前の進級のことばかり考えてやがる。軍人の面汚しだ"
],
[
"どうしたんだ?",
"矢木の様子がおかしい。すぐ兵隊に担架を持って来させろ"
],
[
"もう死んだのかも知れない。人間の生命なんて、当てにならないものだから",
"交通事故など多いからね"
],
[
"どんな用事で、あっしを探すんだね?",
"実は僕の友人に矢木栄介というのがいて――",
"ああ。あの矢木君の兄さんだね。手紙を出したことがあるよ"
],
[
"矢木栄介も釣りが好きだから、一度お宅の舟を借りて、釣りでもしながら、ゆっくり話が聞ければ――",
"いいですよ。前の日に電話して呉れりゃ、用意しときますよ"
],
[
"たしかその栄介さんは、矢木君とふた児だったね",
"そうですよ"
],
[
"沖に出て、東京のスモッグを通して見た太陽は、蒙古の太陽にそっくりですよ。もっとも蒙古のは煙じゃなく、砂ぼこりなんだけれどね",
"城介君はそこで自殺したんだそうですね"
],
[
"蒙古から生きて帰っても、すぐ再召集が来た筈ですよ。あたしゃニューギニヤに持って行かれた",
"ニューギニヤ? ひどい戦だったでしょうな",
"ひどかったねえ。二十四、五万行って、帰って来たのは七千二百人。戦争なんてもんじゃなかったですよ。一年間は木の根草の根ばかり食べて――"
],
[
"久しく魚釣りをやらないから、やってみたいな。それで自殺の原因は、何だった?",
"立話だったんで、聞かなかった。どうせ聞けると思ってね"
],
[
"舟に一日中坐っていられるか?",
"まあ大丈夫だろう。つらけりゃ舟を戻せばいい",
"コブの方はどうなった?"
],
[
"前よりも少し大きくなったような気がする。手ざわりの具合ではね",
"しかし背中でよかったね"
],
[
"うん。幸太郎伯父みたいじゃ困るな",
"伯父さんは元気かい?",
"うん。相変らずだ。定額の他に、時々小遣いをせびりに来る。齢が齢だから、養老院に入れたいが、どこかいいところはないかなあ"
],
[
"いくらなんでも、五千円じゃムリだろう",
"ムリだろうね"
],
[
"部屋代だけでも、そのくらいかかるだろう",
"じゃ食い代は、どう工面しているんだろう。働いているのか?",
"いや。あの齢じゃ働けないだろう。一度止宿先に訊ねて見たら、毎日外出しているとは言うんだがね"
],
[
"上京して来た時、幸伯父はかなり金を持っていたと思われる節がある。財産でも整理して来たんじゃないかと思う",
"城介君が勤めていた葬儀屋は、その伯父さんの知合いなんだろう",
"そうだよ。しかしあの葬儀屋の主人は、死んでしまったらしい。空襲でね"
],
[
"この先に葬儀屋さんがありましたね。あの家族はどちらに行かれたか――",
"さあねえ"
],
[
"ここらへん、いっしょに焼けちまったんでねえ。何でも話によると、御主人は焼夷弾の直撃でなくなられたようですよ",
"直撃でねえ"
],
[
"家族たちは?",
"さあ。実家にでも帰ったんじゃないかしら"
],
[
"そうだ。あんたはたしか、昭和十年頃、あそこで働いてた人だね。面影が残ってるよ",
"いえ。違いますよ"
],
[
"そんなわけだから、幸伯父はそちらと交渉はないと思う",
"上京当時、金を持ってたらしいって、どうして判ったのかね?",
"いきなり上京はせずに、途中で京都や奈良や名古屋などで、泊って来たんだ。まあ昔の友人を訪ねたのか、物見遊山のつもりで下車したのか、それは知らないけれどね。とにかく金銭的には余裕があった筈だよ",
"定額の他に金をせびるというのは、その金が底を尽きかけた――",
"それは判らない"
],
[
"とうとう出してしまうんだ",
"東京で伯父さんの身寄りというのは、君だけなんだろう?",
"おれの弟も妹も東京にいる。しかしその代表として、おれだけだろうな",
"妹さんは結婚しているのかい?",
"うん。亭主は税務事務所に勤めている"
],
[
"つまり伯父さんは、今独りなんだろう。だから君にコネをつけたいんじゃないのか?",
"何で?",
"金を送らせないで、自分で取りに来ることや、また金をせびりに来ることさ"
],
[
"困らせたり、いやがらせをしたりして、それでコネをつけとこうと言うような――",
"コネか?"
],
[
"もう来ないのかなと、思っていたところだよ",
"僕らはどうも早起きがにが手でね"
],
[
"なるほど。矢木軍曹が生きていれば、今のあんたみたいな顔になるんだな。眼と鼻がそっくりだ",
"見分けがつかないと言うほどじゃないが――"
],
[
"若い時はほんとによく似ていた",
"あっしも昔は若うござんしたよ"
],
[
"もっとも今日は魚釣りが目的じゃないけどね",
"まあ沖に出て、ゆっくり話しましょう"
],
[
"パビナールアトロピンを略して、そう言ってたもんです",
"パビナールと言うと――"
],
[
"ケシからとった阿片の――",
"麻薬は皆その系統ですよ。パビナールもモルヒネも"
],
[
"どうして城介はパビナール中毒になったんだろう?",
"あっしにもよく判らないけれど、彼には喘息の気がありましたね。その発作をおさえるために、打ち始めたんだと思う。なにしろあちらは寒暖の差が激しくて、空気が乾いてるもんだから――"
],
[
"下関に送りに行ったのも、寒い日だった。城介は造酒屋の二階に泊ったよ。あんたもいっしょだったかね?",
"いや。自分は別だった。お寺に泊ったよ"
],
[
"あれも寒かったが、寒さのけたが違いましたね。わたしゃいきなりあんなとこに持って行かれるとは、予想もしてなかった。とにかくあの翌日、防寒被服を支給されて、行先は教えられずに船に乗せられた。さあ、今考えると、何トンぐらいの船だったかな。よく覚えてないね。玄海灘に出たということだけは、はっきり覚えています",
"なぜ?",
"誰かがそう言ったんで、その声が今でも耳にこびりついている。そう揺れなかったですな。船艙にぎっしり押し込められて、上甲板に出るのは禁じられていたけれど、そっと入口から見上げると、月夜でね。かすかに煙突と帆柱が揺れているのが、月の位置で判る。その煙突がくろぐろと煙を吐いている。朝鮮に行くんだと思ったね。いや。自分だけじゃなく、召集された者は皆",
"がっかりしただろうね。台湾じゃなくて",
"がっかりなんてもんじゃない。防寒被服を支給されたから、台湾じゃないことは判っていた。不安な気分と悲壮な感じ。北方に行って、もう生きてこの海を戻って来れないような気がしたね"
],
[
"何だろう",
"何の音だろう"
],
[
"あれは氷の割れる音だったんだな。一体ここはどこなんだろう",
"さあ"
],
[
"やたら寒いのに、豚汁は熱い。豚肉もたっぷり入っている。皆何杯もお替りをしましたよ",
"その港、どこだったんだね?",
"それが誰も教えちゃ呉れねえんですよ。何も意地悪しているわけじゃなく、一人前の兵隊と取り扱って呉れないんだ。豚扱いだね。しかし結局誰かが聞き出して来て、大沽だと判った",
"すると船は黄海を越えて行ったんだね?",
"まあそう言うことです。しかしこちらは大沽だと言っても、ぴんと来ない。ここで入隊するのかと思ったら、また汽車に乗せられたよ。今考えるとあの大沽というところは、兵隊の集散地だったらしい。あのバラック建てが、中継所の役をしていたんだね"
],
[
"ひどいもんだね。まるで屠殺場行きだ",
"そうだなあ。いつ大同に着くのだろう"
],
[
"スチームの通った汽車から降りた時、顔がひきつれるような気持でしたな。北支も最北支でね、時は一月と来ている。防寒服を着て、もちろん手袋もつけているんですが、整列していると、手足がしびれるように、いや、引裂かれるように冷えて来る。立っているのがやっとだったな。下関の寒さなんて、寒さの中に入らない。自分の軍隊の第一印象は、この寒さでしたよ",
"そりゃ寒かっただろうなあ"
],
[
"大同というとこは、大きな街なんだね",
"いや。大したことはないです。ただあそこにはね、大同炭鉱という露出鉱がある。上質な石炭が出るんで、労務者が相当いたね。労務者は苦力で、日本の民間人と言えばその関係と、満鉄関係者ぐらいなもんかな。とにかく検閲が終って、やれやれ、これであたたかい兵舎に入れると思ったら、これが大間違いです"
],
[
"するとはるか彼方に城壁が見える。大同の城壁ですな。あの城壁の中に聯隊があるんだなと、そう思って歩いていると、城壁の手前の広場に、自分らと同じ恰好の連中がたくさんいる。前の列車で着いたのが、小休止みたいな形で待っていたんだね。ああ、お前らよく来たということで、豚汁をバケツに入れたのを――",
"よく豚汁が出るんだな",
"ええ。それが朝飯で、ここで独立歩兵第十二聯隊の編成があって、わたしゃ矢木君といっしょに第二大隊に入れられた。第一大隊は大同ですが、自分らは左雲県というところに行くことになり、弁当をつくってトラックに乗せられたね。大同を出発すると、見渡す限り砂漠で、砂丘また砂丘です。それに何てえか、蒙古嵐というやつがびゅんびゅん吹きすさんでいる。時々山みたいな風景のところに差しかかると、分遣隊があるんですよ。二、三十人ぐらいの人員で守っている。よく来たな、ご苦労さんご苦労さんと、熱い茶などを接待して呉れたりするんだ。結局大同から左雲まで、七、八時間ぐらいかかった。距離的にもものすごい山の中に入ったわけですな",
"心細かっただろうね",
"そりゃそうですよ。矢木君も言ってたね。もしここで包囲されて襲撃されたら、生きちゃ帰れないなってな。トラックで八時間もかかるところだから、走って逃げるわけには行きませんや",
"その左雲に部隊があったんだね?",
"そうです。そこらが第二大隊の警備地区になっていて、左雲に大隊本部があった"
],
[
"民家を接収して、そこに寝起きする。テレビの軍隊ものなどで、よく内務班の光景が出て来るね。わたしたちの内務班は、あんなものじゃなかった。だからテレビを見ても、ぴんと来ないね",
"民家というと、やはり独立家屋の――",
"独立? いや、独立でもない。大家族主義、同族主義というのかな。とにかく一廓が三千坪くらいあってね"
],
[
"なにしろ長丁場を、素通しのトラックで飛ばして来たんだからねえ。くたくたにくたびれているし、身体は冷え切っているし、そしてその夕食にはお赤飯に鯛の尾頭つきが出ましたよ。その他甘味品、カス巻きってんですがね、カステラに餡を入れてロールしたやつ、それに氷砂糖など。それでびっくりして、軍隊というとこはこんな山の中でも、こんなに御馳走して呉れるのかと、がつがつ食べたね。矢木、いや、城介君も",
"食糧は豊富だったんだね",
"ええ。豊富だった。車エビがどさりと輸送されて、初年兵でも一人当り三匹ずつフライにして食べたこともある。今車エビなんて、やたらに高くて、自分らの口にはとても入らないがね"
],
[
"城介は体格はよかった方かね?",
"そうだね。弱かったね"
],
[
"わたしも城介君も、町育ちでしょう。米俵を平気でかついで走る農民出や、炭坑で働いていた連中にくらべると、やはり骨や筋肉がひよわだった。苦労しましたよ",
"寒さにかい?",
"いや。寒いのは、誰も寒い。炭坑夫だって寒いです。自分が思うには、冬に召集をかけたのは、寒さのぎりぎりのところを味わせてやろうとの、まあ耐寒訓練の目的もあったんでしょうな。一年経って、また冬が来ると、わたしらも寒さ馴れがして、そう寒いとは思わなくなった。ふしぎなもんですよ"
],
[
"その教育期間に、わたしもずいぶん殴られたが、城介君はひどく殴られたね。ことに仁木という上等兵に眼をつけられて、ことごとにいじめられた。やはり彼は足が遅いし、器用な方じゃなかったからね",
"憂欝だっただろうねえ",
"いや。城介君自身はそう憂欝そうじゃなかった。足が遅いのは生れつきだから仕方がねえや、と笑ってたよ。内心はどうか知らないが、朗らかな男で、同年兵からは人気がありました。何かことがあると、矢木、矢木とたよりにされてさ。人徳だね",
"性質温良か",
"そうも言えるけれど、やる時は思い切ったことをやったよ。他人には真似の出来ないような不敵なことをね。たとえば土塀を乗り越えてパイチュウを買いに行くとか、あっしらはそれを密輸と称してたがね、無検閲の手紙を民間人に頼んで投函してもらうとかさ。ばれるとたいへんなことだ",
"ああ。そう言えば、僕も時々、検閲の印のないのをもらったよ。うちに三、四通しまってあるけれど――"
],
[
"死体の爪が一寸五分ぐらいは伸びる、という奇抜なやつもあった",
"ああ。それは自分も覚えています"
],
[
"あれは非常に印象的、と言っちゃ悪いが、あとあとまで思い出して、話題にしたね。ことに城介君は――",
"何でそんなところに女の腕が落ちてたんだね?",
"その時は判らなくて、ぞっとしただけですが、やがて判った。あちらでは死体を火葬にしないで、土葬にする。それを野犬が、向うじゃ狼と言ってたが、やはり野犬ですな。掘り出してくわえて河床に持って来たんだ。何かの事情で、犬はその腕をそこに置き去りにしたんだね。ところが寒いのと空気が乾燥しているんで、腕は死んでも腐敗しないで、原形を保っている。爪だけは生きていて、伸びるわけです",
"爪が生きているのかねえ",
"自分らも衛生兵になって、軍医なんかに聞いてみたんですが、そんな筈はないと言う。しかしわたしたちは見たんですよ。たしかに爪が伸びていた",
"あちらでは上流の夫人は、わざと爪を伸ばすという話だが――",
"上流の女なら、ちゃんと棺に入れて埋める。野犬が掘り出すわけはない"
],
[
"じゃ直ぐ知らせるのは、やめましょう",
"うん。それがいい"
],
[
"山もあれば、川もある。街や部落の周辺には木が生えているし、畠だってある。風のない日は空が抜けるように青くてね、あれで戦争がなけりゃ、桃源境と言っていいでしょうな。アンズ、リンゴ、ナツメなどの実もなるしね",
"夏は?",
"夏はすごく暑いね。空気が乾き切っているんで、じりじりと照りつける。太陽の直射の下を歩いていると、フライパンでから煎りされているようなもんだ。行軍していると、汗が出て、服にしみ通る。ところが日陰に入って十分も休んでいると、もう汗は乾いて、つまり蒸発してしまうんだね。塩分だけが残って、服の背中など真白になる。大陸性気候と言うんでしょうな。経験しないと判らないが、日本の四季のように和やかなもんじゃない。夏冬は烈しいんですよ"
],
[
"初年兵の苦労の大半は、下士官や古兵のものを洗濯したり、ぺこぺこしたり、殴られたりすることだね。それがいっぺんになくなったわけです。病院に行く時だって、代りばんこに指揮者になって、号令をかけて門から出て行く",
"学科というのは、どんなんだね?"
],
[
"たとえば包帯の巻き方とか――",
"いや。人体の構造学から解剖学、生理学や薬物学、一応のことを全部、半年間に叩き込まれるわけですよ。城介君は理解が早かった。頭が切れるというか、そんなところがありましたね。でも、怠け者といえば怠け者だったね。怠け者だったが、要領はよかった"
],
[
"自分じゃ要領が悪く、いつもへまばかりやってると、思い込んでいたよ",
"そうでもないでしょう。夜土塀を乗り越えて、パイチュウを密輸して来るのに、一度も彼は見つかったことはなかった"
],
[
"十一月頃でしたかな。一本立ちになり立てのころだった。お父さんが亡くなられたという手紙が来たのは",
"そうだ。その頃だ"
],
[
"僕がその手紙を書いたんだ。城介はどうしてたかね",
"勤務を休んで、帰ってしまった。自分らが戻ると、毛布にくるまって寝ていたね。ずいぶん泣いたらしく、瞼がぼったりふくらんでいましたよ"
],
[
"電報が来たんです",
"その電報を見せて呉れ",
"下宿に置いて来ました",
"ウソだろう"
],
[
"おやじが死んだのは事実だから、ウソと思うなら、家にでも下宿にでも問い合わせて下さい",
"死んだ?"
],
[
"動脈硬化で心臓も弱り、皮膚まで栄養が廻らない。そこで床ずれになってしまうのです。看護が足りないせいじゃない",
"意識はあったのですか?",
"いや。ずっと昏睡状態でしたね"
],
[
"第一城介の名を出すなんて、不謹慎じゃないですか",
"城介の名を出して、何が悪い"
],
[
"何だ。何の用事だ?",
"昨夜のことは、僕が悪かったと思います"
],
[
"大きなのは盥ほどあって、厚みもこのくらい、一寸以上ある。それでお粥もつくれば、肉や野菜も煮る。煮るというより、いためつけるんですな。岩塩で味をつける。台所用品というのは、この鉄鍋だけだ。彼等にとっては、唯一の貴重品なんですよ",
"あんたたちも使ったのかい?",
"ええ。時々使った。便利なもんです"
],
[
"夕暮になると、彼方の山からカタカタカタッと十発ばかり打って来る。チェッコ機関銃です。こちらもその方向にドドドッと十発お返しをする。これが、おやすみなさい、という挨拶ですな。しゃれたもんだね。一日の戦闘というのは、それっきりだ",
"何故敵は襲撃して来ないのかね?"
],
[
"そんな少人数なら、かんたんだろう",
"そうだがね、八路軍の本当の敵は、国府軍なんですよ。日本兵なんかを相手にしては損だ。人員だの武器は温存して置きたいんだね。だから討伐に行くと戦闘になるが、向うから積極的には攻めて来なかったね",
"すると分遣隊も呑気なもんだな",
"そうですよ。飯を食う他には、何も仕事がない。花札をひいたり、将棋を指したり、昼寝をしたり、酒など飲んでごろごろしているわけだ。ええ。将棋は手製です。将棋の駒をつくったやつに聞いてみると、あちらの黄楊は日本の黄楊にくらべて、年輪がつまっていて、三倍ぐらい堅いそうです。やはり自然が苛烈で、そうなるんだね",
"じゃ衛生兵も暇だろう",
"そうだね。患者が一人いた。川辺という軍曹だったが――"
],
[
"それでその男、どうした?",
"どうしましたかねえ"
],
[
"あれの治療法は?",
"ええ。発作を時々起していたね"
],
[
"治療としてはアドレナリンの皮下注射、エフェドリンの内服ぐらいなもんですな",
"パビナールは?",
"まだ使ってなかったと思う。オルドス作戦の頃からじゃないかと思うね。でも彼は、自分のことを、あまり語りたがらなかったね"
],
[
"自分は城介君とあんなに仲がよかったのに、身の上話はほとんど聞かなかった。あんたのことは言ってたよ。自分にはふた児の兄がある。おれの方が先に生れたのに、弟になったのは変な話だって、笑ってたよ",
"それだけかい?",
"うん。いや。も一人の兄貴のことも、聞いたことがある。共産党になって、病院で自殺したんだってね",
"自殺?"
],
[
"自殺したって?",
"あんた知らないのかい。そりゃ言うんじゃなかったな"
],
[
"そりゃきっと城介のつくり話だよ。あいつは時々人をかついで、喜んでいたからね",
"そうかね"
],
[
"でも、城介君は怒っていたね。教育終了と共に帰す約束なのに、蒙古くんだりまで追いやるとは、ひでえぺてんだってね。彼も白紙答案の組なんですよ。白紙で合格とは、わたしも無茶だと思う。城介君は喘息のせいもあって、早く帰還したがっていたよ",
"厚和の生活は、つらかったのかね?",
"いや。楽だった。もう初年兵じゃなくて下士官だからね。大同から汽車に乗って、万里の長城を出る。長城を出たからって、そう風物が一変するわけじゃない。遊牧民族のパオなんかがあって、それが珍しかったくらいなもんです"
],
[
"子供の話はしなかったかね?",
"子供?",
"うん。人妻に生ませた城介の子供のことさ"
],
[
"しかしわたしはそれを焼いてしまった",
"いつ?",
"城介君が自殺をした時さ。彼と一緒に焼いてしまった。当人が自殺したのに、何も他人のわたしが確める必要はないと思ってね",
"その人妻の名は、何て言った?",
"もう忘れた。憶い出さない。勤めている先のお内儀さんと言うことは覚えているけれど",
"勤め先の?",
"そう。向うから誘惑されたらしい。そう彼は言っていたよ"
],
[
"やはり葬儀屋というのは、義兄さんの言った通り、儲かるもんだねえ。たくさん持って来たよ",
"そうかい"
],
[
"するてえと、今生きてりゃ、二十五か六ぐらいだ。あの頃の自分らと大体同じ年頃だなあ",
"そういうことになるね",
"もう結婚して、子供が出来ているかも知れないね。すると城介君はお祖父さんというわけか"
],
[
"その女の子、城介君に似てたかね?",
"いや。赤いセーターを着ていたことは覚えているが、顔は忘れた"
],
[
"相手が人妻だとは言ってたが、葬儀屋の内儀とは知らなかった。あんたの説明で、今判ったんだよ。自分のことは自分で決着をつけるからって、相手の名は教えて呉れなかった",
"葬儀屋? 彼は葬儀屋に勤めてたんですかい?"
],
[
"へえ。わたしゃ彼が小さな会社にでも勤めていたのかと思っていた",
"その地図と名前を書いた時、城介はもうパビナールを使用――",
"多分そうだと思うな"
],
[
"アドレナリンとかエフェドリンなんか、あまり効かないんですよ。症状をやわらげる程度で、時間が経たなきゃ発作はおさまらない。しかしパビアトを打つと、とたんに苦痛がぴたりととまるんだね。自分らは衛生下士官だから、薬品の管理を委されている。パビアトの数量など、ごまかそうと思えばごまかせるんだ",
"あれは気持のいいものかね",
"いや。わたしも衛生兵時分に、一CCの半量を冗談半分に打ったことがあるが、冷汗が出て、はげしい吐気がしてね、えらく気分が悪かった。もうそれでこりて、二度とは打たなかったよ"
],
[
"それからオルドス作戦でしょう。これは恒例の掃蕩作戦じゃなく、大掃蕩作戦なんだ。何のためにあんな大作戦をやったのか知らないが、目指すのは五原というところです",
"オルドスとは地名かい",
"オルドスというのは内蒙古の一部で、長城と長方形の流路をとる黄河との間の地域のことですね。ほとんどが砂漠かステップ。ステップてえのは草原地帯のことでね、雨が降ると草原地帯になるが、乾燥期には何てえか、不毛の地になるんです。そこを通って、五原に攻めて行ったんだからね。五原が武器の集散所で、そこから八路軍が武器を仕入れて増強しているということだった。そこを叩けというわけで、ムリをしたんだな。こちらにもたくさん犠牲者が出ましたよ"
],
[
"二人は相性が悪かったんだね",
"そう言われて、城介はどんな気持だったんだろうな",
"戦争はイヤだ。つくづくイヤなもんだと言ってたね。今まで厚和で楽な生活をしていたでしょう。それが急に苛烈な戦闘に引っぱり出される。誰だってやり切れないですよ"
],
[
"それでとにかく五原まで行ったのかね?",
"わたしたちは行かなかった。最前線部隊が突っ込んで、五原を占領して、直ちに反転した。ただそれだけのために、砂漠を歩き、地隙を降りたりよじ登ったりしたんだ。何千何万という将兵がだね"
],
[
"自分のとこで一杯やりませんか。その当時のアルバムもあるし",
"うん。そうしようか"
],
[
"あそこにノリヒビがあるでしょう。あれも今年まででね、来年からなくなるんだ。業者は補償金をもらって、転業する",
"あんたの商売はどうだね?",
"まあね"
],
[
"東京湾にハゼがいる限りは、どうにかやって行けるだろうと思うんだがね。終戦後イワシがさっぱり獲れなくなったでしょう。あんな具合にハゼがいなくなったら、お手上げだ。まあ、その時はその時で、どうにかなるよ",
"えらく簡単に割り切るね",
"やはりこれも戦争のおかげですよ"
],
[
"おおい。奥の間でお客さんたちと一杯やるから、用意しな",
"そこらでちょっと横にさせて呉れないか"
],
[
"くたびれたんだ",
"長話で肩が凝ったんかね?",
"いや。この間バスから辷り落ちてさ、背骨を痛めたんだ。あぐらをかくと、そこが曲り放しになるだろう"
],
[
"なるほど。若いねえ",
"もう二十年も前だからね。若いのは当り前だよ"
],
[
"背中の具合はどうだ?",
"ああ。少しラクになった"
],
[
"これ、何からつくるんです?",
"高粱だね"
],
[
"これはどうも内地製らしい。向うのはもっときつかったような気がする。もっともわたしの手が上ったせいかも知れないがね",
"密輸というと、瓶ごと買って――",
"いや。一升瓶やビール瓶を持って、はかりで買って来るんですよ。さあ。一升でいくらぐらいだったかなあ。なにしろ二十年も前のことだから"
],
[
"その夜はよく晴れていてね、夜空にはきれいな月が出ている。体がぞくぞくするような寒さで、近くの山々で獣の夜泣き声が聞えたね。皆緊張して分隊長の訓示を聞きましたよ",
"どんな気持でしたかね?"
],
[
"緊張というと、気分がピンと張るような――",
"ええ。それもあるけれどね、こちらはずっと霊丘県の山の中で、新聞も来ないしラジオもないし、いわばつんぼ桟敷に置かれているわけだ。内地にいるとは違うわけです。その点では分隊長もほぼ同じでしたね。とにかく大戦争になったから、一所懸命に自分の任務を尽せという、かんたんな訓示でしたよ"
],
[
"それもトラックじゃなく、乗用車が一台、わざわざわたしのために、三日がかりでやって来たね。びっくりしましたよ。聞くと聯隊本部からの命令だと言う",
"乗用車というと、将校待遇だね",
"まあそうですよ。その時てっきり南方行きの要員だと思った。大きな戦争になると、こりゃ単に守備と違って、衛生の方が忙しくなるからねえ"
],
[
"到着はお前がビリだぞ。今晩はおれんとこで泊れや",
"そうかい。そう願うか"
],
[
"つまりおれたちは、第二病院の開設要員なんだ",
"じゃ当分帰れそうにないな",
"帰るって、内地にか?"
],
[
"どんな具合でしたか",
"真顔だったね。わたしと同じ心配してるなと思ったよ",
"いや。表情じゃなく、中毒者はやはり顔色が土色になるとか何とか、変化があるんじゃないのかな",
"そうだねえ"
],
[
"あの頃にくらべると、おれたちもずいぶん軍隊ずれをしたもんだね",
"そうだね"
],
[
"どんな具合だった?",
"何でもないよ。あんまり派手なことをするなよと、言われただけだ"
],
[
"バナナはもぎ立てはダメで、追熟させないとうまくないと聞いたが――",
"いや。うまかったですよ"
],
[
"城介君はあまり風景に興味を持たないたちだったね。皆が感嘆して見ていると、何だい、絵ハガキみてえじゃないかって、軽蔑するような言い方をしただけだったよ",
"城介は昔からそうだったよ"
],
[
"アドレナリンか?",
"いや。それもあるが――"
],
[
"どうもこの頃体がだるくて仕様がねえ。だからビタミンを打っているんだ",
"毎日うまいものを食って、ビタミン不足もないだろう"
],
[
"その飛行場を押えるために、近い中、作戦が開始されるらしいよ",
"するとまた野戦病院の移動か",
"まあそういうことになるな。憂欝だね"
],
[
"空アンプルが見付けられたぞ",
"そうか。オンドルの中のか"
],
[
"捨てたのは、確かにおれだよ",
"何故そうなる前に、おれに相談しなかったんだ!"
],
[
"相談したって仕方がない。お前には判りっこないよ。おれのことは、おれが始末する",
"始末出来るわけがないじゃないか。病院に入れよ"
],
[
"上官の命令は絶対的なものでしょう",
"原則としてはそうですがね――"
],
[
"二つの場合が考えられるんですよ。ひとつは中田少佐の性格だ。部隊の中から中毒者が出たということになれば、隊長の責任になる。それまで放置していたことを、師団軍医部に報告は出来ない。隊長は小心で臆病者でね。どうせ城介君は帰還要員だし、パビナールの量を漸減するという条件で、入院命令を撤去したんじゃないかとも思うね。そして城介君は薬品取扱いの任から外された",
"じゃ彼はもうパビナールの入手は出来なくなったわけだね",
"いや。そうも行かないですよ。城介君は上に悪く下に良しでね、後輩の衛生兵たちも、彼を兄貴のように慕っていた。人望があったんだね。そんなのに頼めば、いくらでも都合をして呉れるんだ。かえってそれが彼に禍いをしたとも言える"
],
[
"もう一つの場合は?",
"隊長をおどしたんじゃないかと思う。城介君の性格からして、わたしは今そう思うんだ。彼は思い切ったことをやるからね"
],
[
"矢木君は軍医と刺違えるつもりで行ったんじゃないかと、わたしは推量するんだがね、中田軍医はそれにおびえて、またどうせこの乱暴者は間もなくいなくなる予定だし、というわけで、強制入院を撤回したんじゃないかと思うんだ。そんな男でしたよ、中田という隊長は",
"では城介君は治療しようという気持はなかったのかね",
"いや。それはあった。是非なおりたいという気持は、充分に持っていたね。だから自制して、量をすこしでも殖やすまい、減らして行きたいと、これはたいへんな努力をしていたと思う。しかしそれが出来なかったんだ。わたしはその翌日か、何日から常用するようになったと訊ねたら、彼は笑ってごまかしたけれど、わたしの推定ではやはりオルドス作戦前後だね。あれほどわたしらは信頼し合っていたのに、彼は自分自身の苦しみや悲しみを、ほとんど打ちあけなかった。昔からそうでしたかい?"
],
[
"彼は強制されたくなかったんだ",
"城介君は、いや、皆は、早く帰りたかったんだろうね",
"そうでもなかった。もっと不安定な気持でしたよ"
],
[
"内地に帰れるということは、帰還要員に指名されて以来、そう嬉しいものじゃなくなった。何年も生死を共にした連中と一応別れてしまわねばならぬ気持、それから忘れられた家庭に戻って行く不安。そりゃうちから手紙は来ますよ。紋切型のね。こちらは元気でやっているから、後顧なく国のために働いて呉れ、というふうなのばかりで、具体的に内地はどうなっているのか、どんな生活をしているのか、帰還してそれにおれたちが直ぐ適応出来るのか、のけ者扱いにされるんじゃないのか。そんな不安というか虚無的な気持というか、私物の整理をしていても、それが心の底に引っかかって、酒でも飲まなきゃやり切れなかったな。それで毎晩――",
"城介君がベロナールをのんだ夜ね、彼の態度や顔色に変ったことはありませんでしたか?",
"態度? 態度は同じだった。ただ顔色は二、三日前から、白っぽくむくんでいるような感じだったね。眼の下がぼったりふくらんで、頬なんかたるんでいるような気がしましたよ。粉を口に放り込む瞬間、どうせぶっこわれた体だと――"
],
[
"しかしそれが、自殺するほどのことかなあ",
"そうだね。帰還のために部隊を離れると、もう薬は入手出来ない。途中で禁忌症状が出れば、自分だけ途中下車して、病院に強制入院させられるでしょう。万一家に帰りついても、内地じゃ薬は自由にならないからね。いや、あの年頃の考え方というのは、今の齢になっては理解出来ないようなところがあるね",
"面倒くさくなったのかな",
"まあそんなこともあるでしょうな"
],
[
"おフデさん。遺骨を拝見してよろしいか",
"それは栄介に聞いて下さい"
],
[
"もう葬式はやめようよ。合同慰霊祭で済んだことだから",
"そうだね"
],
[
"当然そうなるものだと思ったのだ",
"こちらじゃ君が海軍に引っぱられ、南方行きでチョンになる。これが見おさめかと思ってね"
],
[
"壮行会の酒もずいぶん無理して集めたんだぜ",
"おれも出したよ"
],
[
"配給の酒一升を、そっくりそのまま提出したよ",
"壮行会の時、君の背中を裸にして、皆で墨で寄書きをしたね。脂で弾けて、なかなか墨が乗らなかった。あのまま故郷に帰ったのか?",
"ああ。そういうこともあったなあ。あの頃はおれも若くて、二十代だった"
],
[
"あれ、油かしら",
"いえ。お酒らしいわよ。どこかで配給があったらしいわねえ"
],
[
"盛大に送られてさ、それで即日帰郷になったら、恰好がつかないじゃないか",
"そうかい"
],
[
"でもお墓参りだけはして行く方がいいよ",
"それも済まして来たよ"
],
[
"幸伯父はね、まさかの時になると、自分のことしか考えない人なんだ。だから信用が出来ないんだよ",
"お前、まさか死んで来るつもりじゃないだろうね"
],
[
"生きて帰って来ないと、承知しないよ!",
"お母さん。何故そんなことを言うんだい? 縁起でもない"
],
[
"きっと、いや、たいてい即日帰郷になるよ。この前と同じでね",
"それならいいけれど――"
],
[
"それで即日帰郷にならなかったと言うわけか",
"うん"
],
[
"既往症がある者は申し出よと言うからさ、申し出たら殴られてね、それっきりさ。そしてその入団した人間の半分が、その翌日サイパンに行った。選ばれた半分じゃなく、任意の半分だよ。兵籍番号の何号から何号まで集まれという具合で、それらがそっくりサイパンに連れて行かれたんだ",
"大ざっぱな話だねえ",
"うん。ひでえ話だ"
],
[
"何だかこの喫茶室は暗くてうっとうしいな。外に出ようか",
"僕に相談って、何だね?",
"実は幸太郎伯父のことなんだがね、養老院に入ってもいいと言うんだ"
],
[
"では、庭の縁側の方に廻りましょう",
"縁側に?"
],
[
"この間、幸伯父から手紙が来たよ",
"へえ"
],
[
"それで返事は出したの?",
"いや。出さない",
"年賀状も?"
],
[
"いつ頃上京して来るのかしら?",
"爺さんだから、寒い間はムリだろう。まあ四月か五月だろうな。しかしおれは会わないよ"
],
[
"なぜ?",
"なぜってこたあないでしょ。手紙に返事は出すもんです"
],
[
"あんたが七十何歳になって、昔可愛がってた子供に手紙を出すとする。それに返事が来なきゃ淋しい、いや、淋しいどころか、悲しいじゃないですか",
"そうか。しかし君は七十でもないのに、七十爺の気持がどうして判るんだ?",
"あいつはうちのザクロを持って行ったんだよ。植木屋を連れて来てね"
],
[
"むりやりに持って行って、自分とこの庭に植えてしまったんだ",
"そうだったかな。そう言えば納屋の傍にザクロの木があったな",
"兄さんが出征したあとだよ"
],
[
"ああ。幸伯父の家も空襲で焼けたんだな",
"焼けなくても、戻って来ないよ"
],
[
"昔、〈舞踏会の手帳〉という映画があったじゃないの。あんな気持じゃないかしら",
"〈舞踏会の手帳〉? するとおれは――"
],
[
"明日午後一時の汽車で、東京駅に着くというんだよ",
"誰が?",
"誰がじゃないよ。幸伯父だ。ムカエタノムと書いてある。お前、行くか?",
"イヤだね。行かないよ。忙しいんだ"
],
[
"兄さんはどうする?",
"おれも行きたくないな"
],
[
"勝手にやって来て、ムカエタノムもないだろう",
"それもそうだね。しかし幸伯父は兄貴の住所を知ってるんだろう?",
"そりゃそうさ。ハガキをよこすぐらいだからな。しかし迎えに行かないと言うことで、幸伯父はおれたちに会うことを諦めるかも知れない。歓迎されざる――",
"そううまく行くかな"
],
[
"きっと兄さんの家に押しかけて来るぜ",
"そのおそれは充分にあるな"
],
[
"遠藤はどうしたんじゃ。折角電報を打ったのに、迎えに来んじゃないか",
"あいつはよいよいになってな"
],
[
"それで寝たっきりだよ。頭の方もすっかりぼけてな",
"ぼけた? そらいかんな。お前たち、見舞いに行ったのか"
],
[
"栄介か。栄介君か。変ったのう",
"じゃおれたちは――"
],
[
"冷酷なもんだね",
"冷酷って、おれがか?",
"いや。時間の流れというものがさ"
],
[
"学資はたしかに出してもらったさ。中途半端だったけれどね。そこでおれも金を出すことにした。月に五千円",
"それじゃ生活出来ないだろう",
"だからもう先、言っただろう。幸伯父はかなり金を持って、田舎から出て来たんだ",
"どうしてそれが判る?"
],
[
"終戦後、君の伯父さんは、どんな風な生き方をしていたんだね?",
"それが判らないんだ"
],
[
"そういうわけだね",
"うん。そういうことらしい"
],
[
"この間来た時、幸伯父は玄関に新聞を忘れて行った。何の新聞だと思う? 競輪新聞だ",
"競輪をやってんのか?",
"そうなんだよ"
],
[
"それをネタにして、養老院行きを承知させたのかい?",
"ふん"
],
[
"そこで君に頼みがあるんだがね、幸伯父は養老院行きの前に、多磨のおん墓に詣りたいと言うんだ",
"多磨?",
"そうだ"
],
[
"車で案内しようと思うんだが、おれだけじゃ間がもてそうにない。君も同行して呉れないか。多磨墓地に行ったことがあるかい?",
"いや",
"おれは戦後多磨墓地の抽籤に当ってね、九州から骨を移したんだ。いいところだよ。樹がたくさん生えていて、まるで公園みたいだ。行って呉れるか",
"行ってもいいけどね"
],
[
"君は幸伯父の過去に、興味は持たないのかい?",
"興味ないね"
],
[
"安らかに死んで呉れたらいいと思っている。それだけだよ",
"しかしだね、幸伯父が死ぬと、君は俄然彼の生涯に興味を持ち出すと、ぼくはにらんでいる。その遺品や何かを手がかりにして――"
],
[
"君は誰かが死ぬと、にわかにそれに興味を持ち始めるのだ。そうぼくは思う。肉親の死から、君は精神的な栄養をむさぼり始めるのだ。たとえば死体にたかる鴉のようにさ",
"鴉?"
],
[
"背骨の具合、その後どうだね?",
"うん。毎週唾液腺ホルモンの注射を受けてるがね"
],
[
"根をつめたりすると、やはり痛む。痛むというより、重苦しくなって来るよ。でも一生この重苦しさを背負って行かなきゃならないらしい",
"医者がそう言うのか"
],
[
"多磨霊園ですよ",
"多磨霊園? では墓地じゃないか"
],
[
"誰がこんなところに案内せよと言った?",
"言ったじゃないか。伯父さん"
],
[
"お墓参りをしたいって、この間――",
"お墓って、誰のお墓のことを言っているんじゃ、お前は?",
"もちろんうちのお墓だよ。お父さんや城介やなんかの",
"なに? 福の墓がここにあるのか?"
],
[
"わしは福たちの墓に詣りたいとは言わなかったぞ",
"じゃ誰のお墓に行きたいんですか?",
"大正天皇陛下のおん墓だ。わしははっきりそう言った筈だ"
],
[
"ではうちの墓には詣らないというんですね",
"それとこれとは問題が違う"
],
[
"君。多摩御陵の場所、知ってるかね?",
"ちょっと調べて見ます"
],
[
"あ。こりゃ相当遠いな。先生。八王子の先ですよ",
"すまないけれど、そこまで行って呉れないか",
"はい"
],
[
"この突当りが御陵です",
"そうか。すこし徐行して呉れ"
]
] | 底本:「狂い凧」講談社文芸文庫、講談社
2013(平成25)年10月10日第1刷発行
底本の親本:「梅崎春生全集 第六巻」新潮社
1967(昭和42)年5月10日
初出:「群像」講談社
1963(昭和38)年1月~5月
入力:kompass
校正:酒井裕二
2016年2月1日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "056775",
"作品名": "狂い凧",
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"初出": "「群像」講談社、1963(昭和38)年1月~5月",
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"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2016-02-07T00:00:00",
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"XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2016-02-01T00:00:00",
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"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"ねえ。ちょっと見て下さい",
"さっきから見ているよ"
],
[
"次々に這い出して来るんだ",
"這い出す?"
],
[
"まるで虫か鼠みたいですね",
"では、虫じゃないのかな",
"そうじゃないでしょう。虫があんなところに棲んでる筈がない。おや?"
],
[
"何と読むんです? この姓は?",
"ニオ",
"めずらしい名前ですね",
"めずらしいですか。僕は福井県の武生に生れたけれど、あそこらは丹尾姓は多いのです。そうめずらしくない",
"わたしは名刺を持ってない"
],
[
"ぶらりと乗ったんですね",
"なぜ判る?",
"あんたは身の廻り品を全然持っていない。髪や鬚も伸び過ぎている。よほど旅慣れた人か、ふと思いついて旅に出たのか、どちらかと考えていたんですよ。飛行機には度々?",
"いえ。初めて",
"この航空路は、割に危険なんですよ"
],
[
"この間大分空港で、土手にぶつかったのかな、人死にが出たし、また鹿児島空港でも事故を起した",
"ああ。知っている。新聞で読んだ"
],
[
"着陸する時があぶないんだね。で、あんたはなぜ鹿児島に行くんです?",
"映画を売りに。おや。だんだん殖えて来る"
],
[
"あれは流体だね。たしか",
"油ですよ"
],
[
"映画を売りに? 映画って売れるもんですか?",
"売れなきゃ商売になりませんよ"
],
[
"映画をつくるのには金がかかる。売って儲けなきゃ、製造元はつぶれてしまう",
"なるほどね"
],
[
"映画というと、やはり、ブルーフィルムか何か――",
"冗談じゃないですよ。そんな男に僕が見えますか?"
],
[
"これ、何だね?",
"潤滑油、のようですね",
"このままで、いいのかい?"
],
[
"図々しい男だよ。この人は",
"うそだよ。そんなこたぁないよ"
],
[
"席を変えましょうか",
"そうだね"
],
[
"ぼくは三十四です",
"四十五"
],
[
"潤滑油って、燃えるものかね",
"ええ。燃えますよ。しかしよほどの熱を与えないと、燃えにくい。バンドはきつくしめといた方がいいですよ"
],
[
"こわいですか。顔色が悪い",
"いや。くたびれたんだろう"
],
[
"あんなことって、何でしょう?",
"あれを見なさい"
],
[
"これはただの酒じゃないね",
"芋焼酎ですよ。しかし割ってある",
"もう一杯|呉れ"
],
[
"ああ。これは戦争中、二、三度飲んだことがある。どこで飲んだのかな。思い出せない。もっと強かったような気がするが――",
"割らないで、生で飲んだんでしょう"
],
[
"なぜわたしについて来るんだね?",
"ついて行くんじゃない。あそこあたりから商売を始めようと思って",
"商売って、映画の?"
],
[
"直営館なら問題はないけどね、田舎には系統のない小屋があるでしょう。面白くて安けりゃ、どの社のでも買う。そこに売込みに行くわけだ。解説書やプログラムを持って、これはここ向きの作品だ。値段はいくらいくらだとね。すると向うは値切って来る。折合いがつけば、交渉成立です。そこがセールスマンの腕だ。各社の競争が烈しいんですよ",
"いい商売だね",
"なぜ?",
"あちこち歩けてさ"
],
[
"わたしはこの一箇月余り、一つ部屋の中に閉じこもっていた。一歩も外に出なかったんだよ。いや、出なかったんじゃなく、出られなかったんだ",
"なぜ?"
],
[
"気分はどうですか。落着きましたか?",
"いいえ"
],
[
"へんだぜ。顔色が悪いぞ",
"気分がおかしいんだ"
],
[
"汽車の時間はどうかな。駅で待たせられるかな",
"おれは車で行くよ"
],
[
"枕崎まで行くかね",
"行きますよ。どうぞ"
],
[
"ほんとにそう思ったんですか?",
"そう",
"ふしぎだとは思わなかったんですか?",
"ふしぎ? いや"
],
[
"君は東京から飛行機に乗ったのかね?",
"そうですよ。気がつかなかったんですか?"
],
[
"羽田からずっとあんたの横に坐っていましたよ。二度話しかけたけれど、あんたは返事しなかった",
"二度も?",
"ええ。初めは瀬戸内海の上空で、二度目は大分空港の待合室で。待合室では煙草の火を借りた。あんたは肩布をかけた代議士らしい男の方を見ていたね",
"ああ。そんなのがいたね。迎え人がたくさん来ていた。あれ、代議士か",
"そうでしょうね。大分からは、五人になってしまった"
],
[
"たかが五人乗せて、商売になるもんですかねえ",
"わたしはぼんやりしてたんだ。久しぶりに娑婆に出たんで、感覚が働かない。話しかけられても、聞えなかったんだよ。きっと",
"娑婆? するとあんたは――"
],
[
"それまで留置場かどこかに、入ってたんだね",
"留置場?"
],
[
"痛くはないけれど、悲しいような憂欝な感じがあるんです",
"ずっと続けてですか?",
"いえ。続けてじゃない。時々強く浪のように盛り上って来るのです。いや、やはり続いているのかな"
],
[
"漠然とした不安感がありましてね、外出するのがいやになる。顔が震えそうだし、皆がぼくを見張っているようで、うちに閉じこもってばかりいます",
"閉じこもって、何をしているんですか",
"寝ころんで本を読んだり、テレビを見たり、歌をうたったり――",
"歌を?"
],
[
"どんな本を読むんです?",
"おもに旅行記とか週刊誌のたぐいです。むずかしいのはだめですね",
"旅行記ね"
],
[
"テレビはあまり見ない方がいいですよ。眼が疲れるから。眼が疲れると、精神もいらいらして疲れます",
"そうですか。そう見たくもないんです"
],
[
"幻覚があるんじゃないか",
"幻覚? テレビのことか?",
"いや。ブザーのことだ",
"ブザーのことって、何ですか?"
],
[
"いや。時々、時ならぬ時に、玄関のブザーが鳴るのです。出て行っても誰もいない",
"時ならぬ時というと?",
"真夜中なんかです。どうも誰かがいたずらをするらしい"
],
[
"やはり抑圧があるようですな",
"抑圧と言いますと?",
"いろんなものが、重いものが、頭にかぶさっているのです。それを取除かねばならない",
"重いものがね"
],
[
"ああ。つまり脱げばいいんですね",
"まあそういうことです",
"なるほど。しかし――"
],
[
"健康と不健康との境目は――",
"健康といいますとね、緊張と弛緩、亢奮と抑制などのバランスがとれている状態です"
],
[
"大体人間というものはね、自分の心の尺度をもって物事をおしはかるもんです。疲れた時の心に写る世界と、活気に充ちた時のでは、同じ対象に接しても、まったく感じ方が異なるんですな。それにまたその人の性格がからんで来る。ますます複雑になって来るんですよ",
"すると抑圧をとるには?",
"いろいろ方法があるわけですね。電気ショックとか持続睡眠療法とか――",
"電気ショック?"
],
[
"やはり椅子に腰かけてやるんですか?",
"死刑台じゃないんだよ"
],
[
"こいつはね、電気をこわがるんだ。昔から",
"いや、こわいとか、こわくないとかは、関係がない"
],
[
"電流は体には作用する。しかし、心や感情に作用するかどうか――",
"じゃ酒はどうだね。酒はただの物質だが、感情を左右するよ",
"では睡眠療法の方がいいでしょう"
],
[
"どんな風にへんなのか",
"ええ。足がふらふらしているようだし、初めは酔っぱらってるのかと思いましたよ。話しかけても返事をしないしね",
"ああ。まだ薬が体に残ってんだ。それにしばらく歩かなかったもんだから、足がもつれる",
"病院ですか。留置場じゃなかったのか?",
"うん、病院で寝ていた。睡眠剤を服んでね"
],
[
"自殺をくわだてたんですか?",
"いや。病院に入ってから、毎日服んだ。治療のために服まされたんだ。毎日のことだから、だんだん蓄積して、酩酊状態になるんだね"
],
[
"なぜ酩酊させるんですか?",
"不安や緊張を取除くためさ",
"なるほど。酔っぱらうと、そんなのがなくなるね"
],
[
"どうかしたんですか?",
"いや。何でもない"
],
[
"そんな療法、聞いたことがない。どこの病院です?",
"もうここらが知覧です"
],
[
"おやじと兄嫁に連れられてね",
"なぜ知覧に来たのかね?"
],
[
"兵隊としてか?",
"いえ。兄貴がね、飛行機乗りとして、ここにいた。別れを告げに来たのさ"
],
[
"この道が昔の滑走路だったそうですよ。私は戦争中のことは知らないが",
"もっともうっと広かった。畠などなかった"
],
[
"その時、君はいくつだった?",
"十三、いや、十四だった",
"義姉さんはきれいなひとだっただろう"
],
[
"どうしたんです。眼がへんですよ",
"今朝からものが二重に見えるんだ"
],
[
"あんたも写して上げよう",
"御免だね"
],
[
"こんなとこで写してもらいたくない。君はこんなとこを写して、どうするんだ?",
"兄貴にやるんですよ",
"兄貴? 生きているのかい?",
"ええ"
],
[
"それで元のもくあみさ。以来酒びたりだよ。それで会社に頼んで、本社勤めをやめ、南九州のセールスマンに廻してもらった。いや。廻されたんだ。なぜぼくが羽田で、あんたに興味を持ったか、知らせてやろうか?",
"誰のことを言ってんだね?",
"あんたのことさ。あんたは自殺をする気じゃなかったのかい?",
"おれが?"
],
[
"ぼくのことじゃなかったのか?",
"そうだよ。君のことなんか聞いてやしない"
],
[
"武生のペンキ屋さんのことだ",
"ああ。あれか"
],
[
"あれは幸福ですよ。兄嫁との間に四人も子供をつくってさ。しかし兄貴が幸福であろうとなかろうと、今のぼくには関係ない",
"誰だって他の人とは関係ないさ"
],
[
"鹿児島一円を廻ったら、熊本に行く。阿蘇に登るつもりです",
"阿蘇にも映画館があるのかい?",
"阿蘇にはありませんよ。山だから"
],
[
"あんな雄大な風景を見たら、ぼくの気分も変るかも知れない。そうぼくは思う",
"うまく行けばいいがね"
],
[
"水で割るんじゃない",
"何で割るのかね?",
"清酒。いや、合成酒でしょう。水で割ると、かえってにおいが鼻につく"
],
[
"君。肝臓が相当いかれているようだね",
"そうですか"
],
[
"そうでしょうな。あれから毎日酒ばかりで、アル中気味だ",
"酒で悲しさが減るかい?",
"いや。やはりだめだね。やけをおこして、いっそのこと死のうかと思うけれど――"
],
[
"さっき飛行機で、油が流れ始めたでしょう。ぎょっとしたね。あの航空機はあぶないんでね",
"あぶないことは知ってたんだろ",
"知ってたよ。墜落するかも知れない。墜落したらしたで、それもいいじゃないか。そう思って乗ったんですが、やはりだめだ。こわかったね。だからぼくはあんたに名刺を渡した",
"名刺をね。どうして?",
"海に墜ちて、死体が流れて判らなくなってしまう。あんたの死体だけでも見付かりゃ、ぼくの名刺を持っているから、ぼくが乗っていたことが判る"
],
[
"判ってどうなるんだ?",
"あとで考えてみると、どうもなりゃしない。恐怖で動転してたんだね。あんたはほんとにこわくなかったんですか?"
],
[
"こわくはなかった。いや、こわいということは感じなかった。第一、墜ちることを、考えもしなかった。ぼんやりしてたんだな",
"そうですか"
],
[
"あんたはなぜ東京から、枕崎くんだりまでやって来たんです",
"そりゃ君と関係ないことだよ"
],
[
"今日はここに泊るんでしょう",
"多分ね",
"ぼくと同宿しませんか"
],
[
"ぼくはその前に、映画館を一廻りして来ます。あんたは?",
"そうだな"
],
[
"君もその鼻髭、剃ったらどうだい。あまり似合わないよ",
"あの日から剃らないんですよ"
],
[
"坊に行くには、たしかあの道を、まっすぐ行けばいいんだね",
"はい。一筋道です"
],
[
"お前があけたんだろう",
"冗談でしょう"
],
[
"自然にあいたんです",
"それ、飲めるのかい?",
"ええ、原料はたしか芋です。水で割れば多分飲めますよ",
"そうか。飲みに行くか"
],
[
"遠くからやって来たんだよ。時にこの花、何という名前だったかな",
"ダチュラ"
],
[
"原名は、エンゼルズトランペット",
"エンゼルズトランペット?"
],
[
"ダスラじゃないのかね?",
"いいえ。ダチュラ"
],
[
"エンゼルズトランペット",
"ゼンソクタバコ"
],
[
"なにをぶつぶつ言ってるの?",
"いや。何でもない",
"遠くからあんたは、何のためにやって来たのよ?"
],
[
"あの岩の島の名は、何だったかしら",
"双剣石よ"
],
[
"君はここの生れかい。戦時中、どこにいた?",
"ここにいました",
"じゃ戦争の終りに、この湾で溺れて死んだ水兵のことを、覚えてるかね。覚えてないだろうね",
"覚えてる。覚えているわ"
],
[
"あたしが小学校の五年の時だった。いや、国民学校だったわね。体は見なかったけれど、棺に入れて運ばれるのを見た。うちの校舎でお通夜があった筈よ",
"そうだ。その棺をかついだ一人が、おれだよ",
"まあ、あんたもあの時の海軍さん?"
],
[
"あの棺の中に、このダチュラの花を、いっぱい詰めてやった。この花は摘むとすぐにしおれたけれど、匂いは強かった。棺の中で、いつまでも匂っていたよ",
"そういう花なのよ。これは",
"しかしなぜ死体を国民学校なんかに運んだんだろう",
"あそこはもともとお寺だったのよ。一乗寺と言ってね。明治の初めに廃寺になったの。その後に石造の仁王像が二つ、海から引上げられて、校庭に並んでるわ",
"それは気が付かなかった。もっともここには三週間しかいなかったし、学校内に入ったのも、その時だけだからね。二十年ぶりにやって来ると、おれはまったく旅人だ",
"そうねえ。あの頃の海軍さんとは、とても見えないわ"
],
[
"でも、あたしも小学生じゃない。三十を過ぎちまった",
"君の家は、坊にあるのかね?",
"いいえ。泊よ。あの峠を越えて向うの部落なの"
],
[
"谷崎潤一郎の『台所太平記』を読んだことがある?",
"いや",
"あそこに出て来る女中さんたちは、みんな泊の出身なのよ",
"ほう。女中さんの産地なのか?",
"あたしも行ったわ。学校を卒業して、すぐ東京へ"
],
[
"ある家に奉公して、そこの世話である男といっしょになって、それからその男と生活がいやになって――",
"戻って来たのか?",
"そう"
],
[
"一箇月前にね。出戻りというのは、どうも具合が悪くって。夕方になるとここに来て、ぶらぶらと時間をつぶしてるの。案内して上げましょうか",
"泊にかい?",
"いえ。小学校へよ。あなたはそんなことを確めに来たんじゃない? 二十年前の思い出なんかを",
"思い出?"
],
[
"思い出なんてもんじゃない。そんな感傷は、おれは嫌いだよ。でも、折角のお申出だから、案内していただこうかな",
"ずいぶんもったいぶるわね"
],
[
"見覚えないな",
"これ、ミツギという樹なのよ"
],
[
"あたしの小学校の時も、同じ大ききで、同じ形で立っていた。ずいぶん古くから生えてるわけね。何百年も",
"そうだろうな。別におれと関係ないことだけど"
],
[
"飲まないか",
"ええ。いただきます"
],
[
"あそこの林は、松の木がもっともっと生えていた。そしてアルコール缶が、いくつも転がっていたよ",
"そう。十年ぐらい前に切り倒して、キャンプ場にしたらしいの"
],
[
"ところがいっぺんあそこにキャンプを張った人は、翌年は絶対に来ないのよ",
"なぜ? 景色もいいし、水もきれいで泳げるのに",
"やぶ蚊が夜出て来て、チクチク刺すのよ",
"ああ。やぶ蚊か。おれたちもずいぶん刺された",
"おれたちって?",
"うん。暗くなるとあそこに行って、アルコールを水で割ってこっそり飲んだんだ。仲間三人だったけれど、福が一番強かった",
"福って、人の名?",
"そう。奄美大島出身の兵長でね。器用な男だった。芭蕉の葉で芭蕉扇をつくって呉れた。それでばたばたあおぎながら、アルコールを飲んだ。皆若かったね。あの頃は"
],
[
"死んだ水兵というのは、福のことだよ",
"そうなの"
],
[
"どうしてその人が溺れたの?",
"うん。アルコールを飲んだ揚句――"
],
[
"あの双剣石まで、泳ごうとしたんだ",
"双剣石まで?"
],
[
"泳ぎならうまいですよ。今は沖縄だが、生れは奄美大島だからね。子供の時から水もぐりにゃ慣れている",
"お前んちは漁師なのかい?",
"漁師じゃないけれども、五キロや十キロぐらいなら、今でもらくに泳いで見せますよ",
"五キロなら、おれだって泳げそうだな"
],
[
"あそこまで六、七百米あるかな。一キロはない",
"やめなよ"
],
[
"泳いだって、どうなるものでなし。くたびれるだけの話だ",
"泳ぎたいんですよ。興梠二曹"
],
[
"じゃ行きな。海行かば水漬く屍、てなことにはなるなよ",
"大丈夫ですよ"
],
[
"もう戻って来たのか?",
"うん。途中まで行ったんだが――"
],
[
"戻って来たよ",
"福は?",
"見うしなった。先に行ったんだろう"
],
[
"強い酒を飲んで水に入るのは、一番危険なことなんだ",
"そう知ってて、どうして泳いだの?",
"悪いとは知ってたさ。しかしもっと悪いことだってした。若かったからね。若さで押し切れると思ったし、そして生命のすれすれまで行ってみたいという気持もあった。要するに荒れてたんだな"
],
[
"いやな気持でしたねえ。しばらく暗号書を引く気にもなれなかった",
"可哀そうだなあ"
],
[
"あんた、それで責任を感じたの?",
"責任? いや。福は自分から言い出したんだから、死んだのは彼の責任さ。しかしおれはとめなかった。一緒に泳いだ"
],
[
"その後、同行者としての連帯感が、だんだん信じられなくなって来た。酒を飲んでも、勝負ごとにふけってもだめだった。それでとうとう病院に入って、治療を受けた。おれの体、薬くさいだろ。今朝まで病院にいたんだ",
"今朝退院したの?",
"そうだ"
],
[
"いいんだよ。おれたちは同行者なんだから。二十年前、君はおれを見た筈だし、おれは君の姿を見た筈だ。どんな姿だったか、覚えていない。モンペ姿で、可愛らしいお下げ髪だったんだろう",
"そうよ。可愛らしかったかどうか、知らないけれど"
],
[
"すこし酔って来たわ",
"どうしてもこの土地を見たい。ずっと前から、考えていたんだ。今はうしなったもの、二十年前には確かにあったもの、それを確めたかったんだ。入院するよりも、直接ここに来ればよかった。その方が先だったかも知れない"
],
[
"つながりを確めたいんだ。死んだ福や、双剣石や、その他いろんなものとの――",
"ああ"
],
[
"行き当りばったりで、泊るところがないんだ",
"うちはだめ!"
],
[
"あたしだけでも、いづらいんだから",
"そうだろうね"
],
[
"では枕崎の宿屋に戻ろうかな。まだバスはあるだろう",
"坊にも宿屋があってよ。宿屋と言えるかしら。そこの小父さん、あたし小さい時から、よく知ってるから。案内しましょうか"
],
[
"この町の人は、ずいぶん早寝だね",
"不景気だからよ"
],
[
"二十年前――",
"いや。いや"
],
[
"いまさっき枕崎の立神館から電話がありもしてな。あなたの人相風体など説明して――",
"丹尾という男ですね",
"はあ。着いたら電話を呉れと――",
"電話なんかしなくてもいいんですよ"
],
[
"夕食はどげんしもすか",
"ええ"
],
[
"こいじゃから活花になりもさん",
"何だか陰気な感じのする花ですな"
],
[
"階段から敵がのぼって来ると、ここから飛び降りて逃げる",
"なぜ逃げるんです?"
],
[
"わたしには逃げる必要はないですよ",
"いや。密貿易の時代の名残りですよ"
],
[
"ここが島津藩の密貿易港では、最大のものでしてな。大陸に行ったり、沖縄や南西諸島に行ったり、ああ、このダチュラも、種子が船に乗ってやって来たんでしょう。どこで摘んで来やした?",
"わたしが摘んだんじゃない。さっきの女のひとが――",
"ああ"
],
[
"どこで知合いやした?",
"キャンプ場の近くでね",
"あいも勝気過ぎって、不幸な女でな",
"泊って、女中の産地らしいですね",
"そや昔の話ですよ。あしこは近頃鰹の不漁のために人口が減る一方でね、そこに紡織工場が眼をつけち、娘さんたちをごっそいと雇って行く。その勧誘係りたちが何組もここに泊るが、聞いてみると、今の娘たちは女中になりたがらん。みんな工場を希望するらしいですな。泊だけじゃなく、この坊の若者たちも――"
],
[
"鴉だけが殖ゆる一方です",
"どのくらいいるんですか?",
"約二千羽。あそこに棲んどる"
],
[
"あんた、誰かに追われとるのじゃなかか。眼が血走っちょる",
"さっきの電話のことですか。ありゃ何でもない。途中で知合いになった男です"
],
[
"疲れているんですよ",
"そうですか。相当お疲れのようですな"
],
[
"明日はお早えかな",
"いや。寝たいだけ寝かしてもらいますよ"
],
[
"よほど大根がお好ッなようじゃな。で、枕崎に――",
"ええ。二十年前にはね"
],
[
"そいで?",
"あ"
],
[
"それから枕崎に出て、故郷に戻りましたよ。汽車のダイヤがめちゃめちゃで、家に着くのに、二日二晩かかった",
"苦労しやしたな。明日は苦労は要らん。バスがあっから",
"いや。明日は吹上浜に行こうかと思っています。歩いて",
"歩って行くのは無理ですな"
],
[
"あんたはここで水死した兵隊さんの友達じゃそうですな",
"ええ"
],
[
"この車、泊を通るのかね?",
"はい。通ります"
],
[
"ここらから吹上浜になるんです",
"君はどこの生れかね?",
"わたくしの生家は伊作です"
],
[
"アメリカ軍が吹上浜に上陸して来るというので、あの頃は皆びくびくしていましたよ。二十年前ね",
"君はいくつ?",
"二十八歳です",
"じゃ国民学校の頃だね",
"はい。八歳の時です"
],
[
"あたしゃムシムシしてんだよ。あんまり気やすく話しかけないでお呉れ",
"ぼく、追っかけられているんです",
"誰に? 警察にかい? 悪いことをすれば、追っかけられるのは、あたりまえだよ",
"いいえ。違います"
],
[
"悪者に追っかけられているんです",
"悪い者なんか、この世にいるもんかね"
],
[
"悪くないやつなんて、この世にいてたまるもんかね",
"だから、かくまって下さい",
"だから? だからだって?"
],
[
"余計なこと、しないどくれ",
"ぼくはかくれたいんです"
],
[
"許して下さい。許して下さい。もう絶対に小探しはしませんから",
"許してやらない。許してやらない。絶対に許してやらない"
],
[
"はん、はん、はん",
"はん、はん、はん"
],
[
"子供たちゃあ邪魔だから、あっちいけ!",
"ごそごそしていると蹴飛ばすぞ!"
],
[
"わしにも判らんがね、なんか気分がおかしくなるんだ",
"おかしなもんだね",
"うん。おかしなもんだ"
],
[
"爺さん。気分がおかしくならないのかい",
"おかしくならないね",
"なぜ?",
"お前さんたちが本もののチンドン屋でないからさ"
],
[
"チンチン、ドンドン",
"チン、ドンドン"
],
[
"君もお握りを食わないか",
"食う"
],
[
"君の家はここらかね?",
"うん"
],
[
"お父さんは、何してる?",
"町で自動車の運転手をしておる",
"町って、どこ?",
"伊作",
"お母さんは?",
"うちにおる",
"ふん"
],
[
"うちは困ッ",
"なぜ?",
"うちは酒屋じゃなか"
],
[
"伊作って遠いのかい?",
"ちっと遠い",
"案内して呉れるかね?"
],
[
"これで何をするんだね?",
"綱引き",
"綱引き? 両方から引っぱり合うのか"
],
[
"この店にだけは泊るなよ。あとできっと後悔するから",
"なぜ?",
"理由はどうでもいい。泊るなというだけだ"
],
[
"そのひと、あいてる?",
"はい"
],
[
"栓抜きはないのか",
"忘れた",
"だめじゃないか。借りておいで"
],
[
"借りて来なくてもいい。向うであけてもらって来いよ",
"栓抜きがなくても、歯であける"
],
[
"伊作に床屋があるかい?",
"ある"
],
[
"床屋ぐらいはある!",
"ああ、そうだ"
],
[
"近くに温泉があるそうだね",
"うん"
],
[
"湯之浦温泉",
"近いのか",
"ちっと遠い"
],
[
"ひどか部屋ね。物置のごたる。お客さん。よう辛抱出来なさるね",
"仕方がないんだ"
],
[
"お客さんの体は、妙なこり方をしとるね",
"そうらしいな"
],
[
"昨夜もそう言われたよ",
"誰から?",
"鹿児島の湯之浦温泉のあんまさんからだ。このあんまさんは、爺さんだったよ"
],
[
"おれはここで髪を刈る。君はもう帰りなさい",
"もっと先い行けば、きれいな床屋があっとに。そん方がよかよ",
"小父さんはここでいいんだ"
],
[
"湯之浦に泊っとですか?",
"まだはっきり決めてない",
"泊ってあんまを呼んなら、佐土原ちいう爺さんを呼んでやって下さい",
"なぜ?",
"あたしの縁者でしてね"
],
[
"佐土原というあんまさんがいるそうだね",
"はい。おいもす",
"呼んで呉れ",
"はい"
],
[
"ぼくはあんまをとるのは、初めてでね。あんまり無理な揉み方をしないで呉れ",
"へ、へへえ"
],
[
"妙な凝い方をしておいやる",
"どんな具合に?"
],
[
"何か病気でんしやしたか",
"うん。いや"
],
[
"お前さん、どこに立ってんだね?",
"お客さあの背中いですよ",
"冗、冗談じゃないよ"
],
[
"おれの背中を踏台にするなら、ちゃんと断ってからにして呉れ。無断でひとの背中に乗るなんて、それがサツマ流か",
"踏台じゃなか。こいも治療の一方法ござす"
],
[
"揺り返しが来もんでな、明晩もあんまか指圧師にかかりやった方がよろしゅござんそ",
"揺り返し?",
"揉んほぐした凝いが、また元い戻ろうとすっとござすな。そいをも一度散らしてしも。何ならわたっが――",
"いや。明晩はここにいない",
"あ。そうござしたな。では次の旅先で――"
],
[
"あんたは全くのめくらじゃないね",
"はい。右の眼が少しは見えもす。ぼやっとね"
],
[
"今日吹上浜に行ったらね、林の中に大きな縄が置いてあった",
"ああ。十五夜綱引のことですな",
"綱引? やはり綱引をするのかい。誰が?",
"皆がです。町中総出で、夜中にエイヤエイヤと懸声をかけもしてな",
"どんな意味があるんだね?"
],
[
"お客さあは今日、浜で踊っておいやったそうでござすな",
"なに?"
],
[
"誰にそんなことを聞いた?",
"運転の人いです。あや、わたっの知合いござしてな"
],
[
"お内儀さん。元気かね?",
"お内儀さんって、何じゃろ?",
"そら。ここは昔、そば屋だっただろう。その時の女将さんさ"
],
[
"ぼくは久住五郎というものだ。お内儀さんに聞けば、判ると思うが――",
"そりゃムリたい",
"なぜ?",
"うちにゃこれまで何千何万のお客さんが、出入りしなさった。あんたが覚えとっても、お婆さんが覚えちょるとは限らんばい。そぎゃんじゃろ。あんたさんはいつ頃のお客さんな?",
"二十七、八年前、学生時代だ"
],
[
"会えば判ると思うんだがね",
"そぎゃんいうち来るお客さんも、時々おらすばってん、なかなか会えんばい"
],
[
"なぜ? 病気なのかい?",
"うんにゃ。死んなはった。十年ばかり前ですたい"
],
[
"気分がわるかと?",
"いや。別に",
"そればってん、顔が――",
"この旅館気付に、東京からわたしに金が送って来る"
],
[
"それまでここに泊りたいんだ。泊れるだろうね",
"ん。まあね"
],
[
"お荷物は?",
"あ。今はいいんだ。市内見物をして来るから、部屋だけ取っといて呉れ",
"そぎゃんですか。そんならお待ちしとりますけん"
],
[
"雑貨屋の隣の二階家ね、あの二階に住んでいるのは誰だね?",
"学生さんでっしょ。二人兄弟で下宿しとんなさる",
"ああ。下宿屋か。それなら大したことはないな"
],
[
"あの家は、昔から下宿屋だったのかい?",
"はい。大水が出ましたもんですけん。そるからあとはずっと変りましたたい",
"大水? 戦前に?",
"いいえ。それがあんた、戦後の昭和――",
"二十八年よ"
],
[
"六月二十六日",
"ああ。六月です。夜、水がやって来ましたですたい。いや、水じゃなか。泥ですたい。阿蘇ん方で大雨が降って、よなを溶かして流れち来たんですたいなあ。材木やら何やらを乗せて、戸口にあたる。戸が破れち、泥水がおどり込むとですたい。あれよあれよという暇もなかった。戸が破れたと一緒に、もう畳が浮き始めたとですたい。うちはこの子ば抱いち、飯櫃といっしょに二階に這いあがりました。停電で電気はつきやせん。ラジオも鳴らんごとなった。まっくらやみの中で、ごうごうと水の流るる音、材木が家にぶつかる音"
],
[
"そん都度に家が揺れ、梁がみしみし鳴っとですたい。生きた心地はなかったです。丁度こん子が、小学校に入ったか入らん齢で――",
"旦那さんは?",
"はあ。つれ合いは夕方頃からパチンコに行っとりまして、パチンパチン弾いとる中に泥水がどかっと流れ込んで――",
"パチンコ屋にも?",
"そぎゃんですたい。あわてちパチンコ屋ん二階に避難して、そん夜から翌日にかけち、景品の缶詰ばっかり食べ、咽喉をからからにして帰って来ました。そんあと水ば五合ばっかり一息に飲みましたと",
"泥水を?",
"泥水が飲めるもんですか。こやし臭うして。水道ですたい",
"水道は菊池の方から来るとです"
],
[
"泥水がひいち、水道ん栓ばひねったら、きれか水がジャーッと出て来ち、あたしゃあぎゃんなうまか水ば、飲んだことはありまっせんと",
"どうしてそんな大洪水がおこったんだろう?"
],
[
"阿蘇ん大雨で流されち来た流木が、子飼橋の橋脚にせき止められち、水の行くとこがのうなって、横にはみ出したとです。大江へんは建物ごとごっそり削られたとです",
"ひどかでしたばい"
],
[
"そいから川幅も広うなりましたもんねえ、子飼橋も鉄骨でつくりかえられました。今度洪水があってん、家は流されてん、橋だきゃ流れんちゅ皆の噂ですばい",
"そうかね"
],
[
"あのおかげで西東は、熊本に戻れず、結局戦死してしまったのよ",
"書きゃしないよ、そんなもの"
],
[
"故郷から客が来た時、君の部屋を使わせて呉れ",
"どんな客だね?",
"身内のものだ"
],
[
"何に使うんだね?",
"家を建てたいんだ",
"まだあの人といっしょかね?",
"あの人って?",
"紫の袴をはいていた女さ",
"ああ"
],
[
"そんな金はない",
"そうかね"
],
[
"あんまか指圧師を呼んで呉れないか",
"御食事前にですと?",
"そうだ",
"聞いち来ますけん"
],
[
"ひどか部屋ね。物置のごたる。お客さん。よう辛抱出来なさるね",
"仕方がないんだ"
],
[
"ここに来て、ズクラになった",
"ズクラ?",
"いや。何でもないんだ。おれの故郷の方言だよ",
"熊本は初めて?",
"うん。いや。昔いたことがある",
"いつ頃?",
"君がまだ生れる前さ",
"ああ。判った。あんたはそん時、兵隊だったとでしょう",
"うん。よく判るね"
],
[
"今日一日、市内のあちこちを歩き廻ったよ。町も変ったね",
"どぎゃん風に?",
"何だか歯切れの悪いお菓子を食べているような気分だったな。ちょっと――"
],
[
"言って置くけれど、無断でおれに乗らないで呉れよな",
"乗るもんですか。いやらしか"
],
[
"乗せたかとなら、他んひとば捜しなっせ",
"そ、それはかん違いだよ"
],
[
"ずいぶん変ったね。あの橋も",
"洪水のためですげな",
"そう。昔はもっと小さく、幅も狭かった。あちこちに馬糞が落ちているような橋だったよ",
"兵隊の頃?",
"兵隊服を着たおれの姿が、想像出来るかい。橋の上の――"
],
[
"どうしてお客さんの足ゃ、びくびくふるえっとですか?",
"くすぐったいんだ。指圧慣れがしてないからね"
],
[
"空気は澄んでいたし、雲もなかった。山の形も白い煙もはっきり見えた",
"よか天気でしたなあ。今日は"
],
[
"そぎゃんですか。そぎゃんしまっせ。明日もよか天気ですけん",
"保証するのかい",
"保証しますたい"
],
[
"ここの空港は、どこにあるんだね?",
"水前寺の先、健軍ちいうところですたい",
"健軍? 昔は陸軍の飛行場じゃなかったかな"
],
[
"朝八時半か九時に羽田を発つと、午前中に着くね",
"はい。熊本駅まで三十分ぐらいの距離ですけん"
],
[
"友達が迎えに来るんだ。おそらく午前中にね。その前に登らなきゃ――",
"友達?"
],
[
"そんなら友達といっしょに登ればよかじゃないですか",
"そうは行かないんだ。あいつはすぐおれを、東京に持って行く",
"持っち行く?"
],
[
"まっで荷物んごだんね",
"荷物だよ。おれは"
],
[
"お客さん。足がえれえ弱っちょるね。もうすこし足ばきたえなっせ",
"だから明日は山に登るんだ",
"ちゅうばってん、阿蘇は頂上まで、バスが行くとですよ"
],
[
"君もいっしょに行かないか。どうせ昼は暇なんだろう",
"暇は暇ですばってん――"
],
[
"悪かことば聞いてんよかね?",
"いいさ",
"お客さんはお金ば持ち逃げしたとでしょう"
],
[
"どうして判る?",
"かんですたい。月ん一度くらい、そぎゃん人にぶつかりますばい。特徴はみんな齢のわりに、足の甲が薄かですもん",
"そうか。拐帯者の足は薄いか。いい勉強になったな",
"そいで明日、同僚か上役の人が迎えに来るっとでしょう。まっすぐ帰った方がよかね。阿蘇にゃ登らんで"
],
[
"だから登るんだよ",
"なして?",
"最後の見収めに。いや、最後はまずいね。他に何か言葉が――",
"しばし別れの――",
"うん。そうだ"
],
[
"また逢ったね",
"あんた、まだ生きてたんですか?"
],
[
"生きているよ。おれに死ぬ理由はない",
"では枕崎でぼくをすっぽかして、どこに行ったんです?",
"坊津に行ったよ",
"おかしいな"
],
[
"坊津の宿屋に電話したんですよ。するといなかった",
"電話のあとに到着したんだ。面倒だから、君んとこに連絡しなかった"
],
[
"散髪しましたね。しかしあんたはなぜ東京から、枕崎くんだりまでやって来たんです",
"君には関係ないことだよ"
],
[
"君はケーブルカーに乗るんだろ",
"どうしようかと、今考えているところです"
],
[
"来る時の飛行機のことを考えていたんですよ。何だか乗りたくない気がする",
"ケーブルが切れて墜ちることかね?"
],
[
"君には覚悟が出来てたんじゃなかったのか。いつでも死ねるという――",
"そ、そりゃ出来てますよ"
],
[
"弁当を食べないか?",
"弁当?"
],
[
"弁当、持ってんですか?",
"持ってるよ。二人前"
],
[
"ひとつは君の分だ",
"ど、どうしてぼくが――"
],
[
"どうです。いっぱい",
"いや。おれも持っている"
],
[
"駅弁にしては、豪華過ぎる",
"君はずいぶん酔っぱらってるね",
"酔っちゃいけないかね",
"そりゃいいけどさ。この弁当は宿屋につくらせたんだ",
"どこの?",
"熊本"
],
[
"ねえ。賭けをやりませんか?",
"賭け?",
"ええ。金の賭けですよ"
],
[
"ぼくは火口を一周して来ます",
"どうぞ",
"それでだ"
],
[
"一周の途中に、ぼくが火口に飛び込むかどうか――",
"それを賭けるというのか",
"そうです"
],
[
"君は自分の生命を賭けようとするのか?",
"笑ってるね"
],
[
"賭けが成立するかなあ。君が死ぬ方におれが賭けるとする。すると君は飛び込まないで、戻って来るだろう",
"じゃ生きる方に賭けちゃどうです?",
"それでいいのか。君が飛び込むとする。君は賭け金を取れないことになるな",
"ええ。だからぼくが両賭け金を預って、出かける。ぼくが飛び込めば、賭け金も飛び込んで、パアとなる",
"なるほど"
],
[
"賭けの金額は、いくらだね?",
"五万円でどうです?",
"五万? そんなに持ってない",
"いくら持ってんですか?",
"二万円"
],
[
"じゃ二万円、出しなさい",
"出すけれどね、おれはそれほど君を信用していないんだ",
"どういうことですか?",
"君に預けると、君は飛び込まないで――"
],
[
"あの山の方に逃げて行くかも知れない。するとおれは金を詐取されることになる",
"そんなに信用がないのかなあ",
"では君は、おれを信用しているのか?"
],
[
"いっしょにつなぎ合わせれば、四万円として使える。そうでしょ。飛び込めばパアとなる。逃げ出しても、ぼくはこれを使えない",
"半分あれば、日本銀行に持って行くと、一枚として認められるんじゃなかったかな",
"冗談でしょう。半分が一枚に通用するなら、世のサラリーマンは自分の月給をじょきじょき切って二倍にして使うよ",
"それもそうだね。君が逃げ出すと、両方損だ"
],
[
"トランクも持って行くのかい?",
"ええ。何も持たないと、自殺者と間違えられる",
"だって自殺するんだろう",
"自殺するとは言いませんよ"
],
[
"火口を一巡りして、自分がどんな気持になるか、知りたいだけですよ。二万円でそれが判れば、安いもんだ",
"そうか。そうか"
]
] | 底本:「桜島・日の果て・幻化」講談社文芸文庫、講談社
1989(平成元)年6月10日第1刷発行
底本の親本:「梅崎春生全集 第六巻」新潮社
1967(昭和42)年5月10日
初出:「新潮」新潮社
1965(昭和40)年6月
入力:kompass
校正:酒井裕二
2016年1月1日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
[
"瞼を、どうしたの",
"崖から落ちたのさ",
"あぶないわね"
],
[
"あそこはいい処よ。一年中、果物がなっている。今行けば、梨やトマト。枇杷は、もうおそいかしら",
"しかし、私は兵隊だからね。あるからといって勝手には食えないさ",
"そうね。可哀そうね。――ほんとに可哀そうだわ"
],
[
"そして貴方は、そこで死ぬのね",
"死ぬさ。それでいいじゃないか"
],
[
"いつ、上陸して来るかしら",
"近いうちだろう。もうすぐだよ",
"――あなたは戦うのね。戦って死ぬのね"
],
[
"お互いに、不幸な話は止そう",
"わたし不幸よ。不幸だわ"
],
[
"今すぐ桜島に発って呉れ。あそこには暗号の下士官がいないのだ",
"一人、居る筈ではないのですか",
"赤痢で、霧島病院に入院したんだ"
],
[
"桜島には、震洋がもう来ているのかね",
"判りませんです"
],
[
"まだ上の方かね",
"もうすぐです"
],
[
"判っております",
"俺は、俺はな、吉良兵曹長"
],
[
"此の工事は誰の命令だね",
"吉良兵曹長です",
"それまで此処が保つと思うのかね"
],
[
"勝つと思うか?",
"勝つ、と思います"
],
[
"あいているなら、双眼鏡を貸して呉れないか",
"ええ、いいですよ。お使いなさい"
],
[
"グラマンがよくやって来るね",
"今日は、まだ初めてですよ"
],
[
"兵曹は応召ですか",
"補充兵だよ",
"下士候補の?",
"そう。受けたくなかったけれど",
"兵隊でいるよりはいいでしょう"
],
[
"蝉が、多いね",
"夜でも、うっかりすると鳴いているのですよ",
"つくつく法師は、まだかね",
"まだですよ。あれは八月十日すぎ"
],
[
"で、見張には?",
"秋になって、見張の講習に行ったのです。いろいろつらいこともあったのですよ",
"年取っていると、猶のことそうだろうね",
"年齢のせいだけでもありませんよ",
"判らない奴が多いからな"
],
[
"私は海軍に入って初めて、情緒というものを持たない人間を見つけて、ほんとに驚きましたよ。情緒、というものを持たない。彼等は、自分では人間だと思っている。人間ではないですね。何か、人間が内部に持っていなくてはならないもの、それが海軍生活をしているうち、すっかり退化してしまって、蟻かなにか、そんな意志もない情緒もない動物みたいになっているのですよ",
"ふん、ふん",
"志願兵でやって来る。油粕をしめ上げるようにしぼり上げられて、大事なものをなくしてしまう。下士官になる。その傾向に、ますます磨きをかける。そして善行章を三本も四本もつけて、やっと兵曹長です。やっとこれで生活が出来る。女房を貰う。あとは特務少尉、中尉、と、役が上って行くのを楽しみに、恩給の計算したり、退役後は佐世保の山の手に小さな家を建てて暮そうなどと空想してみたり。人間の、一番大切なものを失うことによって、そんな生活を確保するわけですね。思えば、こんな苛烈な人生ってありますか。人間を失って、生活を得る。そうまでしなくては、生きて行けないのですか。だから御覧なさい、兵曹長たちを。手のつけられない俗物になってしまっているか、またはこちこちにひからびた人間になっているか、どちらかです",
"そうだね"
],
[
"村上兵曹、山下はどうした",
"霧島行きに決まりました",
"梨を食ったというのは、本当か",
"本当らしいです"
],
[
"皆来ていたのですが――",
"来ていて、どうしたんだ",
"居住区から呼びに来たのです。電報持っているものだけ残って、手空きは全部来い、と言って",
"誰が、呼んだのだ",
"吉良兵曹長、だそうです"
],
[
"軍令部や東通の連中、いい配置かと安心していた奴等が泡食うぜ",
"太えしくじりとぼやいてもおっつかない",
"しかし関東平野は逃げでがあるだろう"
],
[
"誰も日本が負けるなどとは思っていないよ",
"冗談にしてもだ、言って良いことと悪いことと――",
"吉良兵曹長。言いがかりのようなことはよせ"
],
[
"近頃、いらいらしているらしいのだね",
"ひがんでるのさ。奴さん"
],
[
"上陸地点に近づいたか",
"あれは、夜光虫だそうです"
],
[
"見張も、大変だね",
"大したことはないですよ",
"何だか元気がないようだけれど、身体の具合でも悪いのかね",
"疲れているのですよ"
],
[
"此の湾内に、潜水艦が三隻いるのです",
"ああ、電報で見た。味方のではないか",
"兵曹は通信科ですか。味方のか敵のかはっきりしないんです",
"味方識別をつけ忘れていた、と言うらしいのだよ",
"そうですか"
],
[
"通信科なら――特攻隊、あれはどうなっているのですか",
"てんで駄目だよ。皆、グラマンに食われてしまうらしい",
"やはり駄目ですか"
],
[
"特攻隊、あれはひどいですね",
"ひどいって、何が?"
],
[
"木曽義仲、あれが牛に松明つけて敵陣に放したでしょう。あの牛、特攻隊があれですね。それを思うと、私はほんとに特攻隊の若者が可哀そうですよ。何にも知らずに死んで行く――",
"君にも、子供がいるのだろう",
"ときどき練習機の編隊が飛んで行きますね。あれも特攻隊でしょう",
"ああ。――無茶だよ"
],
[
"身体には、注意しなくてはいけないよ。壕生活はこたえるから",
"鹿児島には、昔、土蜘味という種族がいたらしいですね。熊襲みたいな。やはり私達と同じで、洞窟に住んでいた",
"君は、東京かね",
"もう亡んでしまったんですね。弱い種族だったに違いないですよ",
"蝉が、ずいぶんふえたね。ほんとにうるさい位だ"
],
[
"廃墟というものは、実に美しいですねえ",
"美しいかねえ",
"人間には、生きようという意志と一緒に、滅亡に赴こうという意志があるような気がするんですよ。どうもそんな気がする。此のような熾んな自然の中で、人間が蛾のようにもろく亡んで行く。奇体に美しいですね"
],
[
"此の間、妙なものを見ましたよ",
"何だね"
],
[
"で?",
"あの家はね、百姓なんです。どこか、遠い所に、田か畠を持っているらしくて、毎日、そこの夫婦は鍬など持って出かけて行くようです。お爺さんがいましてねえ、長いこと病気をして、母家の奥の部屋に寝ているらしいのです。時々、納屋の横の便所に立つために出て来るのですが、どうも身体がよく利かない。双眼鏡で見てても、危っかしいのですよ。それに長いわずらいだと見えて、邪魔者あつかいにされているらしく、昼飯の仕度に帰って来た女房から罵られたりしているのです。また子供がいましてねえ、頭の鉢の開いた、七つか八つの男の子なんですが、これも爺さんを馬鹿にしているらしい。勿論、双眼鏡で見るんだから、声など聞えはしないけれど、此の黙劇からそのしぐさで私が推察したんですが、まあ、そんな訳なんです。子供は爺さんを馬鹿にしてるけれど、爺さんにとっては孫ですからねえ、可愛いらしい",
"よく判るもんだね"
],
[
"そうじゃないかと思うのですよ。で、爺さんにしてみれば、息子夫婦からは邪魔にされるし、行末の希望はないし、という訳で、或る日のことでしたが、私が此処から双眼鏡で見ていたんですよ。昼間でね、日がかんかん当っている。爺さんが縁側に這い出して来たんですよ。そして庭に下りて、納屋の方に歩いて行く。便所に行くのかな、と思って見ていたら、そうでもないらしい。納屋の奥から苦労して、踏台と縄を一本持ち出して来たんです。何をするのかと思っていると、入口の所に踏台をおいて、それに登ろうというのです。処が身体が利かないもんだから、二三度転げ落ちて地面にたおれたりしましてね。何とも言えず不安になって、私は思わず双眼鏡持っている掌から、脂汗がにじみ出て来ましたよ。そして終に踏台に登った。梁に取りついて、縄をそれに結びつけ、あとの垂れた部分を輪にして、二三度ちょっと引張ってみて、その強さをためしてみる風なんです",
"――首を吊る",
"いよいよこれで大丈夫だと思ったんでしょうね。あたりをぐるっと見廻した。するとすぐ真後の六尺ばかり離れた処に、影のように、あの男の子が立っているのです。黙りこくって、じっと爺さんがする事を眺めているんです。爺さんがぎくっとしたのが、此処まではっきり判った位です。爺さんは、縄をしっかり握って、その振り返った姿勢のまま、じっと子供を眺めている。子供も、石のように動かず、熱心に爺さんを見つめている。十分間位、睨み合ったまま、じっとしているのです。その中、がっくりと爺さんは、踏台から地面にくずれ落ちた。男の子は、やはりじっとしていて、手を貸そうともしない。地面を這うようにして縁側までたどりつくと、爺さんは沓ぬぎにうつ伏せになって、肩の動き具合から見ると、虫のようにしくしく、長いこと泣いていましたよ。ほんとに長い間"
],
[
"で、いやな気持がしたんだね",
"――残酷な、という気がしたんです。何が残酷か。爺さんがそんな事をしなくてはならないのが残酷か。見ていた子供が残酷か。そんな秘密の情景を、私がそっと双眼鏡で見ているということが残酷なのか、よく判らないんです。私は、何だか歯ぎしりしながら見ていたような気がするんです"
],
[
"大きなビルディングが、すっかり跡かたも無いそうだ",
"全然、ですか",
"手荒くいかれたらしいな",
"どこですか",
"広島"
],
[
"参戦かね",
"それはどうか判りません。電報では、交戦中と言うだけです"
],
[
"兵隊どもに、戦争は今年中に終ると言ったのか。え。村上兵曹",
"そんなことは言いません"
],
[
"どうでもいいことじゃないですか。そんな馬鹿げたこと",
"今年中に終るか"
],
[
"村上兵曹。死ぬのはこわいか",
"どうでもいいです",
"死ぬことが、こわいだろう"
],
[
"兵曹長。踊ります",
"よし、踊れ"
],
[
"何だい、そりゃあ",
"止めろ、止めろ"
],
[
"ソ連が、参戦したそうじゃないか",
"うん"
],
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"グラマンはどうした。もう行ったのか",
"見張の兵は、死にました",
"え? グラマンだ。何故早く通報しないか",
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],
[
"ラジオが悪くて、聞えませんでした",
"雑音が入って、全然聞き取れないのです"
],
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"それにしても長かったな",
"放送のあとで、隊長の話があったのです",
"どういう話なんだ",
"――皆、あまり働かないで、怠けたり、ずる寝をしたがる傾きがあるが、戦争に勝てば、いくらでも休めるじゃないか、奉公するのも、今をのぞいて何時奉公するんだ、と隊長は言われました",
"戦争に勝てば、と言ったのか",
"はい"
],
[
"暗号書かね",
"そうです"
],
[
"今日の放送は、何だったのかな",
"さあ本土決戦の詔勅だろうと言うのだがね",
"誰が言ったんだね",
"電信長もそう言ったし、吉良兵曹長もそんなことを言った"
],
[
"あまり煙を出すと、グラマンが来たとき困るぞ",
"今日も来ないよ。昨日も来なかったから"
],
[
"村上兵曹。この木箱も燃しますか",
"うん。燃してしまえ"
],
[
"焼いてしまったか",
"もう、すみました"
],
[
"いよいよ上陸して来るぞ。村上兵曹",
"今日の放送が、それですか",
"それは、判らん。此の二三日、敵情の動きがない。大規模の作戦を企んでいる証拠だ。覚悟は出来ているだろうな"
],
[
"もし、上陸して来れば――此の部隊はどうなりますか",
"勿論、大挙出動する",
"いや、特攻隊は別にして、残った設営の兵や通信科は"
],
[
"戦うよ",
"武器は、どうするんです。しかも、補充兵や国民兵の四十以上のものが多いのに――",
"補充兵も、戦う!"
],
[
"竹槍がある",
"訓練はしてあるのですか"
],
[
"訓練はいらん。体当りで行くんだ。村上兵曹、水上特攻基地に身を置きながら、その精神が判らんのか",
"何時出来るか判らない穴を掘らせる代りに訓練をしたらどうかと、私は思います"
],
[
"敵が上陸したら、勝つと思うか",
"それは、わかりません",
"勝つと思うか",
"勝つかも知れません。しかし――",
"しかし?",
"ルソンでも日本は負けました。沖縄も玉砕しました。勝つか負けるかは、その時にならねばわからない――",
"よし!"
],
[
"昼のラジオは、終戦の御詔勅であります",
"なに!"
]
] | 底本:「桜島・日の果て・幻化」講談社文芸文庫、講談社
1989(平成元)年6月10日第1刷発行
底本の親本:「梅崎春生全集 第一巻」新潮社
1966(昭和41)年10月10日
初出:「素直 創刊号」
1946(昭和21)年9月
入力:kompass
校正:酒井裕二
2016年1月1日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "056635",
"作品名": "桜島",
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} |
[
[
"お前は外套を持たんのか",
"売って酒手にかえたよ",
"だから酔ってるんだな。何を飲んだんだね",
"全く余計なお世話だが、聞きたければ教えてやろう。粕取焼酎という代用酒よ。お前もそれか"
],
[
"この外套、要るならやるよ",
"何故くれるんだね",
"だってお前は寒いのだろう",
"そうか。ではくれ"
],
[
"これは俺に丁度いいよ。俺のために仕立てたと思う位だよ。しかしお前は何で俺にこれをくれたんだね。きっと明朝後悔するよ。もう憂鬱な顔をしてるじゃないか",
"まだ憂鬱じゃないよ。しかし外套脱ぐと恐しく寒いな。明朝のことは知らんが後悔するような予感もするよ",
"それならくれなきゃ良いじゃないか",
"俺は人から貰う側よりやる方になりたいと思う。そう自分に言い聞かしているんだ。お前はどういう気持で貰ったんだ"
],
[
"そうだよ",
"何故退屈するんだ"
],
[
"この釦は俺の祖父さんが、撃取った鹿の骨だ。九州は背振山よ。六角形してるだろ。いい職人だったぜ。そこらの釦とは違うんだ",
"お前の祖父さんが猟師だったとは知らなかったよ"
],
[
"じゃこの外套は永遠に俺のものだな",
"そう簡単には行かん。俺が欲しくなれば、お前から貰うのは厭だから力ずくで剥取るよ"
],
[
"うん。剥取られたよ",
"喧嘩でもしたのかい",
"喧嘩、じゃない。もっと面白い話があるんだ。何なら聞かしてやろうか",
"たいして聞きたくもないけれど、その外套も一度は俺の物だったんだからな。一応顛末を聞いとく義務があるようだな"
]
] | 底本:「ボロ家の春秋」講談社文芸文庫、講談社
2000(平成12)年1月10日第1刷発行
底本の親本:「梅崎春生全集 第2巻」新潮社
1966(昭和41)年12月10日発行
初出:「文学会議」
1947(昭和22)年12月
入力:kompass
校正:酒井裕二
2016年3月4日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "056776",
"作品名": "蜆",
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[
[
"他の家でも、皆そうなのかね?",
"へえ。皆さんから、そうしていただいていますんで",
"そうかねえ。川島さんも、遠藤さんも、古畑さんも?",
"ええ。ええ。(舌打ちしながら)古畑さんは、別ですよ。あそこは、あんなんだから"
]
] | 底本:「ボロ家の春秋」講談社文芸文庫、講談社
2000(平成12)年1月10日第1刷発行
底本の親本:「梅崎春生全集 第6巻」新潮社
1967(昭和42)年5月10日発行
初出:「新潮」新潮社
1950(昭和25)年11月
入力:kompass
校正:酒井裕二
2016年3月4日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "056777",
"作品名": "庭の眺め",
"作品名読み": "にわのながめ",
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[
[
"お前が行った時、花田軍医は何をして居ったか",
"小屋のすみにすわって、バイヤバスの実を食べて居られました"
],
[
"――で、女は?",
"女は、一緒に居りました"
],
[
"はい。誰にも言いません",
"すぐ用意をととのえて、俺の小屋に来い"
],
[
"これも隊長からか?",
"いえ、これは私からです"
],
[
"柱によりかかって脚には毛布をかけて居られましたから、負傷の具合は判りません",
"召還に応じないと言ったんだな。どんな口調で言った?",
"――あたり前の調子でした",
"部屋には彼一人がいたのか"
],
[
"こんな女ではないか。目の大きな、眉のうすい――",
"そうです。右の眼の下に大きな黒子があります"
],
[
"道は間違いないな",
"大丈夫です。あと二三時間もすれば旅団司令部に着きます"
],
[
"お前は衛生科だったな。花田軍医の直接の部下だな",
"そうです",
"パラウイ島に居た時、花田の当番兵をやっていたのは、お前だったのではないか",
"そうです"
],
[
"私は帰ります",
"よし、帰れ"
],
[
"何故殺すんだ",
"殺して呉れと言うんです"
],
[
"聞える。あれはイロカノの歌だ",
"旅団司令部です"
],
[
"――此の崖縁を歩かずに、密林の中を突き抜ける途はないのか",
"ありません。私は知りません"
],
[
"花田中尉ですか。中尉殿は居ません",
"居ない",
"ええ、居ないのです"
],
[
"此の部落にいる筈だ",
"先刻出発されました",
"出発した?"
],
[
"出て行ったのは昼頃でしたよ",
"何故お前も一緒に東海岸に行かなかったんだね"
],
[
"この女が居るんでね",
"お前は何処から来たんだね。恰好から見ても兵隊じゃないらしいが――"
],
[
"マニラからでさ。海軍さんと一緒に命からがら逃げて来たんだ",
"此処に長いこと居るんだね",
"もう四五十日も居る",
"食べ物は?",
"花田中尉さんが持って来た薬品を、下の部落で米と替えた",
"まだ残りがあるんだな",
"あるもんか"
],
[
"知合いか",
"まあそんなもんだ",
"何故一緒に東海岸に行かなかったんだ"
],
[
"東海岸って、何処に逃げたって同じさ。おれはもう逃げ廻るのがいやになったんだ。何処に行ったって死ぬときは死ぬさ。おれは此の女と一生此処で暮すよ",
"食糧はどうするんだ",
"食糧などどうでもなるさ。花田さんみたいに逃げたって同じよ。女といちゃつくんなら此処だって出来る"
],
[
"花田中尉殿に今日中に追いつくのですか",
"それは判らん。追いつけたら追いつく"
],
[
"殺すのか?",
"そうです",
"何故殺すんだ"
],
[
"先刻――一発で殺したのか",
"一発で殺しました",
"何とか言ったか",
"何も言いません"
],
[
"何処を射ったんだ",
"女の頭を、射ちました",
"女?"
]
] | 底本:「桜島・日の果て・幻化」講談社文芸文庫、講談社
1989(平成元)年6月10日第1刷発行
底本の親本:「梅崎春生全集 第一巻」新潮社
1966(昭和41)年10月10日
初出:「思索 秋季号」
1947(昭和22)年9月
入力:kompass
校正:酒井裕二
2016年2月1日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "056636",
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"作品名読み": "ひのはて",
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[
[
"天願さんは居るか",
"天願さんで御座居ますか"
],
[
"入るときは戸をたたけよ",
"今日は変ですねえ。何事かあるのですか"
],
[
"夕御飯は持って来ねばならん。が、娘が死にかかっているというのに、下宿人の夕御飯を作らねばならぬというのは哀しいな。持って来ないだろうな",
"皆、そこの部屋に集ってるんですか?",
"君が入って来る前に、おかみさんが娘の名をしきりに泣きながら呼んでいたから、意識が無くなったんだな。意識が無くなっても唸り声を出す事があるのかなあ"
],
[
"もう死んだんですか",
"まだらしい"
],
[
"先刻の唸り声、もう止んだようだけれど、だんだん早くなって来るから、あわてて時計で数えたのさ。一分間に四十二ですよ。天願さん",
"あんまり早いのは悪いのかね",
"勿論悪いですよ。体が衰弱している証拠だから"
],
[
"幽霊や心霊などはありはせん。死んだら、漠々として何も無いのだよ。人が死ぬというのに皆集って泣いたり喚いたり、心配したり憂欝になるなんて馬鹿な話だよ",
"そんな訳には行かないでしょう。矢張り悲しいのは本当なんだから",
"宗教は科学が発達すれば無くなるさ。ぼくはそれを信ずる、迷信は亡びる"
],
[
"皆心配しているよ。出た方が良いよ",
"そりゃ判ってるけれど――どうも怠け癖がついてしまって",
"小説か何か書いているのかい"
],
[
"此の度は――とうとう――",
"とうとう駄目でございました"
],
[
"僕は菊子さんを可哀そうだと思うよ",
"そうだわねえ",
"あんなに仲が良かったんだから、ほんとに悲しいだろうね"
],
[
"ずっと泣きつづけよ。枕許から離れないのよ",
"仲が良い、あの人達は特別だったから"
],
[
"歌ってもいいものかな?",
"お通夜というものはも少し静かに飲むべきじゃないですかねえ"
],
[
"あのこは歌が大好きだったから",
"仏が好きだったんならやったがええ",
"天願さんうたいませんか"
],
[
"底を割れば同じじゃないか",
"同じじゃないさ。君は苦しんでいるだろう。僕は毎日毎日が苦しくない。むしろ愉しい位だ"
],
[
"そういうことはありません。僕はあなたと話すたびに感じる。あなたは本当の事を言わない。嘘っぱちをしゃべって真実から逃げ廻る。武装している。ポーズを作っている。傷つくことがそんなに恐いのですか?",
"そうじゃない",
"そうです"
],
[
"惚れてたとすればどうなるかね",
"それはどうにもならないけど――"
],
[
"お帰りになりましたのよ",
"帰った?"
],
[
"あの方貴方のお友達?",
"そうだ",
"何だか恐そうな人ね",
"そうでも無いんだよ。根はいい人なんだよ",
"今、喧嘩なさったの"
]
] | 底本:「桜島・日の果て・幻化」講談社文芸文庫、講談社
1989(平成元)年6月10日第1刷発行
底本の親本:「梅崎春生全集 第二巻」新潮社
1966(昭和41)年12月10日
初出:「早稲田文学 新人創作特輯号」
1939(昭和14)年8月
入力:kompass
校正:酒井裕二
2016年1月1日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "056637",
"作品名": "風宴",
"作品名読み": "ふうえん",
"ソート用読み": "ふうえん",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「早稲田文学 新人創作特輯号」1939(昭和14)年8月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
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"公開日": "2016-03-28T00:00:00",
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"姓読み": "うめざき",
"名読み": "はるお",
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"名読みソート用": "はるお",
"姓ローマ字": "Umezaki",
"名ローマ字": "Haruo",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1915-02-15",
"没年月日": "1965-07-19",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "桜島・日の果て・幻化",
"底本出版社名1": "講談社文芸文庫、講談社",
"底本初版発行年1": "1989(平成元)年6月10日",
"入力に使用した版1": "1989(平成元)年6月10日第1刷",
"校正に使用した版1": "2014(平成26)年2月3日第20刷",
"底本の親本名1": "梅崎春生全集 第二巻",
"底本の親本出版社名1": "新潮社",
"底本の親本初版発行年1": "1966(昭和41)年12月10日",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "kompass",
"校正者": "酒井裕二",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001798/files/56637_ruby_58239.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2016-01-01T00:00:00",
"テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"テキストファイル文字集合": "JIS X 0208",
"テキストファイル修正回数": "0",
"XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001798/files/56637_58253.html",
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[
[
"いや、何なら四万でもいいんだよ",
"そうですか。じゃあ、そうお願いします"
],
[
"そうだよ。早く荷物をまとめて出て行って呉れ。僕は僕の荷物を大八車でエンヤコラ運んで来たんだ",
"そ、そんな無茶な。僕だってちゃんと権利金を払い、きちんと賃貸借の契約をしたんだぞ"
],
[
"そうだねえ。それじゃやっぱり墓参に出たのかな",
"しかし、それにしても、君に売渡す約束をしながら、この僕から権利金を取ったのは、どういう心算だろう?",
"十万円が入ってから戻すつもりじゃなかろうか"
],
[
"とにかく荷物を搬入した方がいいね。置き放しは物騒だからね",
"あっ、そうだ"
],
[
"そんなことを指図する権利が、一体君にはあるのかい",
"あるんだよ"
],
[
"だって、そんなこと、契約書には書いてなかったじゃないか",
"書いてなくっても、そういう口約束になっているんだ",
"そりゃおかしい。ウソだろう。ふつう間借人なんてものは、一部屋だけに決ってるものだよ。それを不破氏がいないからと思って――"
],
[
"それじゃ水掛け論は止しにして、現実的に行こう。失礼ながら拝見したところ、君は道具類をろくに持っていない。全然ないといってもいいくらいだ。ところが僕はごまんと持っている。持てるものが場所を広く取るのは、こりゃ当然の話じゃなかろうか",
"そんな横車があるものか"
],
[
"不破数馬はいないかね",
"旅行に出かけました",
"トンズラしやがったな"
],
[
"なあ。くよくよしなさんな。騙されたのは僕たちの不運だが、刑事の方にその方はお任せしてあるから、どうにかなるだろう",
"そうでしょうか。僕らはここに住んでてもいいでしょうか",
"うん。それについて、被害者同士として、いろいろ対策を立てる必要があると思うんだよ。だから明晩、あんたたち二人で、わたしの店に来て呉れませんか。晩飯でも食べながら相談をしましょう"
],
[
"おはよう",
"やあ、おはよう",
"さっぱりした気分だね",
"うん。まるで頭がバカになったようだ",
"昨夜は愉しかったね。陳さんってとても好い人だなあ",
"そうだね、え。それに料理が旨かったよ。毎日あんな旨いものが食えるといいねえ",
"老酒もおいしかった。でも、ちょっとへんな酔い方をしたようだったねえ",
"そうだ。僕も今それを変に思っていたところだ",
"酔っぱらった揚句に、書類か何かに捺印署名したっけねえ",
"あっ、そうだ。あれは何の書類だったんだろう",
"僕も今思い出そうとするんだが、どうしても思い出せないんだ",
"ふしぎだねえ。やっぱり老酒のせいかな。そう言えばあの老酒は、ちょっと茗荷のにおいがしたようだ"
],
[
"やあ、いらっしゃい。先日は御馳走さまでした。何か御用ですか?",
"今月の家賃、いただきに、来たヨ",
"え。家賃?"
],
[
"そう。家賃よ",
"家賃って、誰にはらうんですか",
"誰にって、あんた、陳大人によ"
],
[
"僕らがいつそんな同意をしました?",
"あの晩、ちゃんと、拇印を押したでないか。ずうずうしいぞ"
],
[
"払うか、払わないか、一体どっちよ!",
"払うよ。払いますよ"
],
[
"なに。払わない。じゃ払わなくてもよろしい。その代り君はこの家の借り手じゃなくなるぞ。君は僕の居候だ!",
"居候? 居候でも結構だ",
"断っておくが、家主は居候を何時でも追い出す権利があるんだぞ。出て行かなきゃ刑事を連れて来るだけだ。そうすれば家宅侵入罪でひっくくられるぞ!",
"そんな滅法なことがあるもんか"
],
[
"実に高いなあ。いくらなんでも少し高過ぎやしないか",
"高くはないよ。これが普通だよ",
"そんなことはないよ。八百屋ではこれの三分の一の値段で売ってるよ"
],
[
"君は自分の時間まで金に換算するのか",
"そうだよ。時は金なりと諺にもある。これが近代的合理精神というもんだ。大体君はわがまま過ぎるぞ。板の間は共同使用だという約束なのに、僕を無視して金儲けのために独占使用してるじゃないか。僕はほんとに君の身勝手には呆れ果てているんだ"
],
[
"へえ。君にしてはずいぶん気前がいいんだね。じゃ、いただこうか",
"どうぞ。君は近頃顔色が悪いから、こんなもんでも食べた方がいいんだよ"
],
[
"それならそれでもいいんだ",
"一体どうしたんだね。奥歯にもののはさまったような言い方をして――",
"いいんだよ。何でもないことだよ"
],
[
"そ、その通りだよ",
"一体君はそんなことをしてもいいと思ってるのか。あんまり人をなめるなよ"
],
[
"じゃ君は、体内に蛔虫を飼っておきたいとでも言うのか",
"そんな質問に答える必要は認めない。とにかく僕を元の状態にしてかえせ",
"だって君の顔色が悪いし、疲れてるようだったから、蛔虫の駆除を――",
"そんな言い分が通るんだったら、僕は君が眠ってる時に、安全カミソリの刃で、君の疣を全部削り落すぞ!"
],
[
"買うことにしようって、何もこの手紙は君一人宛てに来たんじゃないんだぜ",
"そりゃそうだよ。でも君は初めから間借人なんだから、家を買う気持はないんだろ?",
"間借人は不破数馬に対してだ。僕は君から部屋を借りてる覚えはない。第一手紙を読んだとたんに、僕が買いましょうなんて、身勝手もはなはだしいじゃないか。いいか。手紙は二人宛てに来たんだぜ。二人で相談し合うのが当然だ",
"相談するって、何を?",
"先ず手紙の内容だよ。ずいぶんこちらをなめた話じゃないか。一方的に売却を宣言するなんてさ",
"そうかねえ。僕はそう思わないがねえ",
"買わなきゃ立退き料が一万円だとさ。バカにしてるとは思わないか",
"思わないねえ。だって立退くんじゃなくて、買うんだもの",
"ほんとに君は慾張りで身勝手のくせに蒙昧な男だなあ。だからバカにされるんだよ",
"誰が僕をバカにした?",
"陳だってそうさ。それに不破だって――",
"なに。不破がいつ僕をバカにした?",
"バカにしてるさ。あたりまえじゃないか。不破の置手紙を見せてやろうか"
],
[
"これのどこがバカにしてるんだ",
"判らないのか。じれったいなあ。その好人物というところさ"
],
[
"それにこれには、僕と仲良くしろと書いてあるのに、君は僕につっかかってばかりいるじゃないか。すこしは反省したらどうだ",
"僕だって別につっかかりたくはないよ。僕らは被害者同士なんだから、仲良く団結してことに当らなきゃいけない。そう思ってる。そう思ってるがだ、君があまりにも身勝手で、ワカラズヤだから――"
],
[
"ねえ。エッフェル塔から飛び降りるような気持で言うが、立退き料を四万まで出そう。四万だよ",
"イヤだ",
"四万あれば君は元が取れるじゃないか。しかもその金で他のいい部屋に引越せる。そうだろ。すこしは損得を考えてみたらどうだ",
"イヤだ"
],
[
"じゃあ一体どうするというんだ",
"ハッキリ言っておくが、僕らはこの家に関する限り、現在半分ずつの権利を持っている。だから買うにしても、半分ずつ出し合って買うんだ。それがイヤなら君が出て行け。それ以外の如何なる方法をも僕は拒否する!"
],
[
"じゃ、よし。明日は日曜で郵便局が休みだし、明後日の月曜の夜、僕は陳さんに会いに行く。君も同行したけりゃそれまでに五万円調達しろ。調達出来なきゃ、権利を一切放棄したものと認めるが、それでいいか",
"合点だ!"
],
[
"タロコ亨に一緒に行くか",
"行くよ"
],
[
"じゃあ売渡書を作成しましょう。買い手はあんたら二人ですか",
"そうです"
],
[
"いや、うそを言うな。僕の直感ではあれはたしかに僕の顔だ",
"へえ。合理主義者の君が直感なんてものを信じるのか。バカバカしいや。あれは僕が描いた画だよ。僕が描いたからには、僕が一番よく知っている。そもそもあの画のモチーフなるものは――"
],
[
"あんたはさっき警察から出て来たようだったが、何か呼出しでも受けたんかね",
"いや。そら、あなたも知ってるでしょう、不破数馬の件でね",
"ああ、あんたの家の名義人だね。それでどうしました。居所が判明しましたか"
],
[
"ははあ",
"だからそこに手段がある。不破が権利書を確かに譲渡したと判ったら、あんたは直ぐあたしに連絡して下さい。そうすればすぐ差押えの手続きを取りますから。差押えられれば、その人の所有の権利は無効になりますな。そこであんたが滞納分の全額さえ支払えば、家はあんたのものになってしまう。ま、そんなわけだ。そんな風にとりはからって上げましょう"
],
[
"はあ。いかほどでしょう",
"まあ、主任に二千円かな、係長に三千円、合計五千円も出せばスラスラ行くでしょう。何ならわたしが渡して上げてもいいですよ"
],
[
"そうですか。それでは明日にでも、五千円持って税務署に参上します",
"いやいや、飛んでもない。あんたも忙しい身でしょうから、明日の昼頃にでも、こちらから伺いますよ",
"そうですか。重ね重ね御親切な――"
],
[
"そうだねえ。君が出て一時間ほど経ってだから、八時ちょっと前かな",
"そうかい"
]
] | 底本:「ボロ家の春秋」講談社文芸文庫、講談社
2000(平成12)年1月10日第1刷発行
底本の親本:「梅崎春生全集 第3巻」新潮社
1967(昭和42)年1月10日
初出:「新潮」新潮社
1954(昭和29)年8月
入力:kompass
校正:酒井裕二
2016年2月3日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
[
"亀田クーン",
"亀田クーン"
],
[
"赤木さん、また松沢入りしたってよ",
"あら、そう。困ったわねえ、あの先生も"
],
[
"おかみさん。どうして一々鍵をかけるんだね。面倒くさいじゃないか",
"そう思うんですがねえ"
],
[
"つまりおやじさんの自家用酒という名目にしてあるのかね?",
"それが逆なんですよ"
],
[
"鍵をかけとかなきゃ、うちの人がいつの間にか飲んでしまうんですよ",
"ふうん。商売用を飲まれては、立つ瀬がないやね。困ったもんだ"
],
[
"早いとこ神経科の医者に診せたらどうだね? 今のままじゃ、果てしがないよ",
"そう思うんですけどね、それを言い出すとぷんぷん怒るんです。困っちゃうんですよ"
],
[
"だからその事情を聞きに行ったのさ",
"君にその権利があるのかね?",
"そりゃあるさ。わざわざハガキを届けに行ってやったんだもの"
],
[
"おい。男はどこに隠した?",
"男なんかいるもんですか。ばかばかしい"
],
[
"一体病院の方はどうしたの?",
"あそこはイヤだよ。食い物はまずいし、それにいるのは気違いばかりじゃないか。おれの肌に合わんよ。さあ、男を出せ!",
"男、男って、誰さ",
"うん。名前は知らんがちゃんと判ってるんだ。あんまり亭主を踏みつけた真似をするな。バカにしやがって。平和。おい。酒を買って来い。飲みながらとっちめてやる"
],
[
"その、蟹みたいな男というのは、ぼくのことかね?",
"そうだよ。でも、おれが言ったんじゃなく、おフクさんだ。あまり気にしない方がいいよ",
"気にはしないがね、どうして君が疑われずに、ぼくが疑われるんだろう。君はずいぶん立入っているが、ぼくは何もしてない",
"何もしてないから、疑われるんじゃないかよ"
],
[
"大声でわめいて近所にも聞かれたから、これからあまり酒を飲みに来ないで呉れと、おフクさんに頼まれたんだ。もう行くなよ",
"来るなと言うなら、行かないよ"
],
[
"亀田クーン",
"亀田クーン"
],
[
"亀田クーン",
"おおお"
],
[
"ちッ、けッ、たッ!",
"ちッ、けッ、たッ!"
]
] | 底本:「ボロ家の春秋」講談社文芸文庫、講談社
2000(平成12)年1月10日第1刷発行
底本の親本:「梅崎春生全集 第6巻」新潮社
1967(昭和42)年5月10日発行
初出:「新潮」新潮社
1962(昭和37)年6月
入力:kompass
校正:酒井裕二
2016年3月4日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品名読み": "ぼんじんぼんご",
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[
"ただいまは八時五十二分三十一秒です",
"そうか、七秒の遅れだ。するとスピードは充分五万キロは出ている"
]
] | 底本:「十八時の音楽浴」早川文庫、早川書房
1976(昭和51)年1月15日発行
1990(平成2)年4月30日2刷
入力:大野晋
校正:もりみつじゅんじ
2000年1月11日公開
2006年7月19日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "000866",
"作品名": "ある宇宙塵の秘密",
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[
[
"そういう事件に登場する相手は非常に智的な人物ばかりなんだ。だから若しちょっとこっちが油断をしていれば、たちまち逆に利用されてしまう。全く油断も隙もならないとはこのことだ。そして相手はみんな生命がけなんだから、あぶないったらないよ。しかも相手の人数は多いし、組織はすばらしくりっぱで、あらゆる力を持っている。そういう相手に対し、われわれ少人数でぶつかって行くんだから、本当に骨が折れる",
"なんかその辺で、差支えない話でも出てきそうなものじゃないか"
],
[
"そこで問題の鍵の数字ですが、もし月が変る前に、うまく発見ができるものなら、われわれにとってこれくらい有難いことはないわけです",
"なるほど",
"ねえ、そうでしょう。この暗号の鍵数字は、いつどんな風にして送ってくるのであろうかということにつきまして、もう長い間調べていましたが、極く最近になって、それがやっと分りかけたのです",
"ほほう、それは愉快ですね"
],
[
"全く涙の滾れるほど嬉しいことです。私たちは、その暗号の鍵が、やはり無電にのってくるのかと思ったのですが、そうではない。秘密結社の本部では飽くまでも用意周到を極めています",
"ははあ",
"鍵の数字は、どうしてこっちの支社へ知らせてくるんだと思われますか",
"さあ――",
"実をいうと私たちにも、まだよく分っていない",
"それではどうも――",
"いや、しかし貴重な手懸りだけはやっと掴んだのです。見て下さい。これです"
],
[
"ねえ、マダム。ジョナソンのポスターが来ているだろう。あれを出しなよ。壁にかけとくと立派だぜ",
"ジョナソンのポスターって、あああれだわ、まだ丸めたまま置きっ放しになっていたわ。これなんでしょう"
],
[
"旦那、どこへまいります",
"うん、東京駅だ。時間がないから、急いでくれ"
],
[
"ロンドン塔の写真よ。昔その中で、たくさんの人が殺されたんですって。その中には王子様も交っていたのよ",
"へえ、君は物しりだね、そんな恐ろしいところとは見えないほど綺麗だ。なるほど"
],
[
"帆村さん、どうしました",
"おお、栗山さん。今日東京へ飛ぶ旅客機に間にあいませんか",
"えっ、旅客機ですか、こうっと、あれは午後一時四十分ですから、あと四十分のちです。それをどうするんです",
"僕は大至急東京へ帰らねばなりません",
"そんな身体で、大丈夫ですか",
"いや、大丈夫。謎が解けそうです。すぐ帰らねばなりません。どうか飛行場へ連れていって下さい"
],
[
"えっ――",
"なあに、例の通信機の押収で、彼奴等は東京と上海との無電連絡が出来なくなったというわけさ。そこで目をつけたのは、君のところの通信機だ。そこで君を四日間、事務所から追払ったというわけだ。その間彼奴らは、君の機械をつかって、重大なる通信連絡をやったのに間違いない。そういえば、僕等の方にも思いあたることがある"
]
] | 底本:「海野十三全集 第5巻 浮かぶ飛行島」三一書房
1989(平成元)年4月15日第1版第1刷発行
底本の親本:「俘囚 其の他<推理小説叢書7>」雄鷄社
1947(昭和22)年6月5日発行
初出:「現代」大日本雄辯會講談社
1938(昭和13)年3月号
※底本の本文で、全角文字による横組みとなっている数字と数式は、ラテン文字の処理ルールに準じて半角で入力しました。ただし記号は全角を使用し、記号と和文の接するところは、半角開けませんでした。
※図中の計算式は、底本では横組みです。計算式の「□」付きの文字は、「□」なしで入力しました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※初出では「彼奴等」に「彼奴等《あいつら》」、「彼奴ら」に「彼奴《きやつ》ら」とルビがふられています。
入力:田中哲郎
校正:土屋隆
2005年11月21日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "045621",
"作品名": "暗号数字",
"作品名読み": "あんごうすうじ",
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"副題読み": "",
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"初出": "「現代」大日本雄辯會講談社、1938(昭和13)年3月号",
"分類番号": "NDC 913",
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"作品著作権フラグ": "なし",
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"没年月日": "1949-05-17",
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"底本名1": "海野十三全集 第5巻 浮かぶ飛行島",
"底本出版社名1": "三一書房",
"底本初版発行年1": "1989(平成元)年4月15日",
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"XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2005-11-23T00:00:00",
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"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"これはいよいよ無茶苦茶だ。日本文字頻度統計をすっかり破っている。――そこで、これは意味のある言葉を分解して配列がえをやったのではないということが分る。してみれば、これは一体何だ。どんな役柄なのか、前半の百字は……",
"とにかくンの二十五個は、あまりにも異常だ。次のカは九個だ。第一位と第二位とのひらきが、あまりに大きい。……ンの二十五個か。二十五だ。……待てよ、二十五といえば百の四分の一だ。前半の前字の数は百だった。その四分の一がンという文字なんだ。そこだ。そこに鍵があるんだ"
],
[
"あの袋猫々は、暗号文をちゃんと解いたようですね",
"原の町駅行きの切符を買ったところを見ると、暗号文が解けたんだな、そうだろう、探偵商売だから、それ位のことはやれるさ",
"あの暗号文をこしらえた須田は、それを袋探偵が解く力があるだろうかと心配していたですよ",
"須田よりは、猫々の方がちっと上だよ",
"しかし袋猫々も、まさか自分が旅行に出た留守に、自分の巣を荒されるとは気がついていないでしょうね",
"汽車に乗ってごっとんごっとんと東京を離れていったところをみると、気がついていないようだ",
"あとでおどろくでしょうな。折角手に入れた烏啼の重要書類が、自分の留守になくなっていたんではね",
"しかし、うまく行きゃいいが……袋猫々の金庫は厳重なことで、玄人の間にゃ有名だからな"
],
[
"ばあやをひっくくって、押入の中へ入れちまいました、そのほかに誰も居りません",
"そうか。じゃあ金庫部屋へ踏みこめ"
],
[
"やれ、あいたか",
"あとは首領にやって頂きます"
],
[
"あッ、あれだ",
"うん、やっぱりここに入れてあった。あけられるとは知らず、馬鹿な猫々だ",
"動くな、撃つぞ。機関銃弾が好きな奴は動いてもよろしい"
],
[
"折角御来邸の案内状を頂いたのに、留守をしていては申訳ないからね",
"途中から引返したのか",
"とんでもない。拙者は原の町行きの切符を買っただけのことでござる",
"でも、確かに袋探偵は玄関から旅行鞄と毛布を持って出かけていったが……"
],
[
"ははあ、あれは拙者のふきかえ紳士でな、日当千円のものいりじゃ。後で君の方へ請求書を廻すことにしよう",
"おい猫々先生。どうするつもりか。いつまでわれわれに手をあげさせて置くんだ",
"いや、もうすぐだ。警察隊がやがて来る。もう五六分すれば……",
"五六分すれば……"
],
[
"あのポンスケ探偵も、今頃はさぞおどろいているでしょうね",
"ふふン、まさか毒瓦斯で呉越同舟の無理心中をやらかすとは気がつかなかったろう"
],
[
"烏啼組じゃなきゃ見られない奇略ですね",
"なあに、大したことはない",
"われわれを一ぱい喰わしたつもりが、まんまと重要書類をさらって行かれて袋猫々先生、さぞやさぞなげいているでしょうね",
"袋探偵も、もっと自分の下に人員を殖やさないと、こんな目にあい続けるだろう",
"人件費が高くつくので、人が雇えないのでしょう"
]
] | 底本:「海野十三全集 第12巻 超人間X号」三一書房
1990(平成2)年8月15日第1版第1刷発行
初出:「仮面」
1948(昭和23)年2月号
入力:tatsuki
校正:原田頌子
2001年12月29日公開
2011年2月24日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "002714",
"作品名": "暗号の役割",
"作品名読み": "あんごうのやくわり",
"ソート用読み": "あんこうのやくわり",
"副題": "烏啼天駆シリーズ・4",
"副題読み": "うていてんくシリーズ・よん",
"原題": "",
"初出": "「仮面」1948(昭和23)年2月号",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2001-12-29T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-17T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/card2714.html",
"人物ID": "000160",
"姓": "海野",
"名": "十三",
"姓読み": "うんの",
"名読み": "じゅうざ",
"姓読みソート用": "うんの",
"名読みソート用": "しゆうさ",
"姓ローマ字": "Unno",
"名ローマ字": "Juza",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1897-12-26",
"没年月日": "1949-05-17",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "海野十三全集 第12巻 超人間X号",
"底本出版社名1": "三一書房",
"底本初版発行年1": "1990(平成2)年8月15日",
"入力に使用した版1": "1990(平成2)年8月15日第1版第1刷",
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"入力者": "tatsuki",
"校正者": "原田頌子",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/files/2714_ruby_5772.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2011-02-24T00:00:00",
"テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"テキストファイル文字集合": "JIS X 0208",
"テキストファイル修正回数": "1",
"XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/files/2714_42455.html",
"XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2011-02-24T00:00:00",
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"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
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