chats
sequence | footnote
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3.16k
| meta
dict |
---|---|---|
[
[
"でも、お祖父さん、お祖父さんの名前も入れなきゃいけないよ。",
"それには及ばないさ。お前よりほかの人に知らせる必要はない。ただ……(ここで彼の声はふるえた)……ただ、あとで、お祖父さんがもういなくなった時、お前はこれを見て、年とったお祖父さんのことを思い出してくれるだろう、ねえ! お祖父さんを忘れやしないね。"
],
[
"何だい……",
"それ何なの、小父さん。教えてよ。小父さんが歌ったのなあに?",
"知らないね。",
"何だか教えとくれよ。",
"知らないよ。歌だよ。",
"小父さんの歌かい。",
"おれのなもんか、ばかな……古い歌だよ。",
"誰がつくったの?",
"わからないね。",
"いつ出来たの?",
"わからないね。",
"小父さんの小さい時分にかい?",
"おれが生まれる前だ。おれのお父さんが生まれる前、お父さんのお父さんが生まれる前、お父さんのお父さんのそのまたお父さんが生まれる前だ……。この歌はいつでもあったんだよ。",
"変だね! 誰にもそんなこと聞いたことがないよ。"
],
[
"小父さん、まだほかのを知ってる?",
"ああ。",
"もう一つ歌って。",
"なぜもう一つ歌うんだい? 一つで沢山だよ。歌いたい時に、歌わなくちゃならない時に、歌うものなんだ。面白半分に歌っちゃいけない。",
"でも、音楽をつくる時はどうなの?",
"これは音楽じゃないよ。"
],
[
"小父さん、小父さんはつくったことある?",
"何をさ。",
"歌を。",
"歌? どうして歌をつくるのさ。歌はつくるものじゃないよ。"
],
[
"だって、小父さん、ほかの歌を、新しい歌を、つくることは出来るんじゃないか。",
"なぜつくるんだ。もうどんなのでもあるんだ。悲しい時のもあれば、嬉しい時のもある。疲れた時のもあれば、遠い家のことを思う時のもある。自分がいやしい罪人だったからといって、まるで虫けらみたいなものだったからといって、自分の身がつくづくいやになった時のもある。ほかの人が親切にしてくれなかったからといって、泣きたくなった時のもある。天気がよくて、いつも親切に笑いかけて下さる神様のような大空が見えるからといって、楽しくなった時のもある。……どんなのでも、どんなのでもあるんだよ。何でほかのをつくる必要があるものか。"
],
[
"つくろうと思っても……",
"思えば思うほど出来なくなるんだ。歌をつくるには、あの通りでなくちゃいけない。おききよ……"
]
] | 底本:「日本少国民文庫 世界名作選(一)」新潮社
1998(平成10)年12月20日発行
底本の親本:「世界名作選(一)」日本少國民文庫、新潮社
1936(昭和11)年2月8日
入力:川山隆
校正:門田裕志、小林繁雄
2008年1月15日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "046822",
"作品名": "ジャン・クリストフ",
"作品名読み": "ジャン・クリストフ",
"ソート用読み": "しやんくりすとふ",
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"原題": "JEAN-CHRISTOPHE",
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"分類番号": "NDC K953",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
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"最終更新日": "2014-09-21T00:00:00",
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} |
[
[
"芝居小屋は閉まっている。わしは今その前を通って来たんだ。それもまた彼奴の嘘だ。",
"いいえ、あの人ばかりをいつもおとがめなすってはいけません。私の思い違いかもしれませんから。では出稽古に手間取ってるのでしょう。"
],
[
"何を後悔しているって?",
"それはあなたがよく御存じでございましょう。私があの人の妻になりましたのを、あなた御自身でも気を悪くしていらっしゃいました。",
"もうそんな話をするもんじゃない。なるほどわしは多少不満だった。あのような青年――こう言ったって何もお前の気にさわりはすまい――わしが注意して育て上げた青年、すぐれた音楽家で、ほんとうの芸術家で――まったく彼は、お前のように貧乏で、身分が違い、なんの技能もない者より、もっとほかの女を選むこともできたはずだ。クラフト家の者が音楽家でもない娘と結婚するなんてことは、もう百年あまりこの方例がないんだ!――それでも、お前もよく知ってるとおり、わしはお前を恨んだこともないし、お前と知り合ってからはいつも好意をもっていた。それに、一度こうときまってしまえば、もう後もどりはできない。あとはただ義務を尽すことばかりだ、正直に。"
],
[
"いいえ、どうぞ、いてくださらない方がよろしゅうございます。",
"なぜ?"
],
[
"お前は恐がっているね。彼奴にわしを会わせたくないんだね。",
"ええ、そうでございます。お会いになれば事がめんどうになるばかりでしょう。あなたはきっとお怒りなさいます。いやです。お願いですから!"
],
[
"二つになさい、皆と同じに。",
"いいえ、ほんとに一つでいいよ。",
"お腹がすいていないのかい。",
"ええ、あんまりすいてはいない。"
],
[
"さあ、それをお取りよ!",
"いいよ、お母さん。",
"では加減でも悪いの?",
"悪かない。でもたくさん食べたよ。"
],
[
"かわいそうに!……",
"お母さん、ああお母さん!……"
],
[
"では、お祖父さん、あなたの名前も入れなけりゃいけないよ。",
"それには及ばないさ。お前より他の人に知らせる必要はない。ただ……(ここで彼の声は震えた)……ただ、後になって、私がもういなくなった時、お前はこれを見て、お前の年取ったお祖父さんを思い出してくれるだろう、ねえ! お祖父さんを忘れやしないね。"
],
[
"坊や……。",
"それはなんなの、叔父さん! 教えておくれよ。叔父さんが歌ったのはなんなの?",
"知らないよ。",
"なんだか言っておくれよ。",
"知らないよ。歌だよ。",
"叔父さんの歌かい。",
"おれんなもんか、馬鹿な!……古い歌だよ。",
"だれが作ったの?",
"わからないね……。",
"いつできたの?",
"わからないよ……。",
"叔父さんが小さい時分にかい?",
"おれが生まれる前だ、おれのお父さんが生まれる前、お父さんのお父さんが生まれる前、お父さんのお父さんのまたお父さんが生まれる前……。この歌はいつでもあったんだ。",
"変だね! だれもそんなことを言ってくれなかったよ。"
],
[
"叔父さん、まだ他のを知ってるかい?",
"ああ。",
"も一つ歌ってくれない?",
"なぜも一つ歌うんだ? 一つでたくさんだよ。歌いたい時に、歌わなけりゃならない時に、歌うものだ。面白半分に歌っちゃいけない。",
"だって、音楽をこしらえる時には?",
"これは音楽じゃないよ。"
],
[
"叔父さん、叔父さんはこしらえたことがあるかい?",
"何をさ?",
"歌を。",
"歌? なあにどうしておれにできるもんか。それはこしらえられるもんじゃないよ。"
],
[
"だって、叔父さん、他のを、新しいのを、こしらえることはできないのかい?",
"なぜこしらえるんだ? もうどんなんでもあるんだ。悲しい時のもあれば、嬉しい時のもある。疲れた時のもあれば、遠い家のことを思う時のもある。自分が賤しい罪人だったから、虫けらみたいなつまらない者だったからといって、自分の身が厭になった時のもある。他人が親切にしてくれなかったからといって、泣きたくなったときのもある。天気がいいからといって、そしていつも親切で笑いかけてくださるような神様の大空が見えるからといって、心が楽しくなった時のもある。……どんなんでも、どんなんでもあるんだよ。なんで他のをこしらえる必要があるもんか。"
],
[
"もしこしらえたいと思ったら!……",
"思えば思うほどできないもんだ。歌をこしらえるには、あのとおりでなけりゃいけない。お聴きよ……。"
]
] | 底本:「ジャン・クリストフ(一)」岩波文庫、岩波書店
1986(昭和61)年6月16日改版第1刷発行
入力:tatsuki
校正:伊藤時也
2008年1月27日作成
2008年9月14日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "042590",
"作品名": "ジャン・クリストフ",
"作品名読み": "ジャン・クリストフ",
"ソート用読み": "しやんくりすとふ",
"副題": "03 第一巻 曙",
"副題読み": "03 だいいっかん あかぼの",
"原題": "JEAN CHRISTOPHE",
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"分類番号": "NDC 953",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2008-03-03T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-21T00:00:00",
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"姓": "ロラン",
"名": "ロマン",
"姓読み": "ロラン",
"名読み": "ロマン",
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"名ローマ字": "Romain",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1866-01-29",
"没年月日": "1944-12-30",
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"底本名1": "ジャン・クリストフ(一)",
"底本出版社名1": "岩波文庫、岩波書店",
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[
[
"無駄だよ。",
"ただ一事、たった一つ……。",
"なんだい?"
],
[
"どうするんだい?",
"気の毒で……。"
],
[
"あれはだれだい?",
"従弟のフランツだ。"
],
[
"君は従弟のことをぼくに話したことがなかったね。",
"ラインバッハに住んでるんだ。",
"たびたび会うのかい。",
"時々こっちへやって来るよ。",
"そして君も、向うへ行くのかい。",
"時々だ。"
],
[
"従弟とさ。",
"ああ合うよ。どうして?",
"いやなんでもないんだ。"
],
[
"ミンナ、ミンナ、恋しい……!",
"あなたを愛しててよ、クリストフ、愛しててよ!"
],
[
"往け、往け、決して休むことなく。",
"しかし私はどこへ往くのであろう、神よ。何をしても、どこへ往っても、終りは常に同じではないか、終局がそこにあるではないか。",
"死すべき汝は死へ往け! 苦しむべき汝は苦しみへ往け! 人は幸福ならんがために生きてはいない。予が掟を履行せんがために生きているのだ。苦しめ。死ね。しかし汝のなるべきものになれ――一個の人間に。"
]
] | 底本:「ジャン・クリストフ(一)」岩波文庫、岩波書店
1986(昭和61)年6月16日改版第1刷発行
入力:tatsuki
校正:伊藤時也
2008年1月27日作成
2009年2月13日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "042591",
"作品名": "ジャン・クリストフ",
"作品名読み": "ジャン・クリストフ",
"ソート用読み": "しやんくりすとふ",
"副題": "04 第二巻 朝",
"副題読み": "04 だいにかん あさ",
"原題": "JEAN CHRISTOPHE",
"初出": "",
"分類番号": "NDC 953",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2008-03-05T00:00:00",
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"名": "ロマン",
"姓読み": "ロラン",
"名読み": "ロマン",
"姓読みソート用": "ろらん",
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"姓ローマ字": "Rolland",
"名ローマ字": "Romain",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1866-01-29",
"没年月日": "1944-12-30",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "ジャン・クリストフ(一)",
"底本出版社名1": "岩波文庫、岩波書店",
"底本初版発行年1": "1986(昭和61)年6月16日",
"入力に使用した版1": "1986(昭和61)年6月16日改版第1刷",
"校正に使用した版1": "2004(平成16)年4月5日第25刷",
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} |
[
[
"ええ、お母さん、見捨てやしません。どうしてそんなことを考えるんです。",
"私はほんとに不幸なのだよ! 皆私を捨ててしまった、皆……。"
],
[
"お前は私といっしょにいてくれるでしょうね。私を捨てやしないでしょうね。……お前にまで行かれてしまったら、私はどうなるでしょう?",
"私は行きやしません。いっしょに暮しましょう。もう泣いちゃいけません。私は誓います。"
],
[
"どうしたんです、お母さん。苦しいんですか。",
"私にも、どうしたんだか、私にもわからないよ。"
],
[
"美しいものもいくらかありはしますが、それは非常に少ないんです。",
"非常に少ないったって、僕にはそれで沢山なんだが。",
"ああそれは分別くさい考えにすぎません。一面から見れば、少しの善と多くの悪とがあります。また他面から見れば、地上には善も悪もないんです。そしてこの世の後には、無限の幸福があります。なんで躊躇することがありましょう。"
],
[
"あるもんですか! それは一時のことにすぎないが、そのあとには永遠があるということが、わかってますからね。",
"じゃあ君は、その永遠というものを確信してるのかい?",
"もちろんです。"
],
[
"いい晩ですね。",
"ええ、ほんとにいい晩ですわ。",
"中庭では息もつけません。",
"ええ、中庭は息苦しゅうございますね。"
],
[
"ではお嬢さんのために隙がないんですか。",
"いいえ、娘なんか! たいへんおとなしくって、一人で遊んでいます。",
"では?"
],
[
"退屈ではありませんか?",
"いいえ、少しも。",
"何にもなさらない時でも?",
"何にもしない時がいちばん退屈しませんわ。かえって何かする時の方が退屈しますわ。"
],
[
"よく御存じだと私は思っていますのに。",
"四、五日前からようやくわかりかけたんです。",
"では今によくおわかりになりますわ。"
],
[
"いえ、いえ、どうぞ。確かにありませんのよ……。",
"ありますとも、きっと。"
],
[
"あなたが神になったら、あまり世間のことにはかかわらないでしょうね。",
"私が神様にお願いしたいことは、私を構ってくださらないようにということだけですわ。"
],
[
"そんなことを言っちゃいや、クリストフさん。",
"僕は死んでしまいたい。もうできない……もう生きておれない……生きてたってなんの役にたつもんか。",
"クリストフさん、ねえクリストフさん、あなたは一人ぽっちじゃないわ。あなたを愛してる人もあってよ……。",
"それがなんになるもんか。もう何もかも厭だ。他のものは生きようと死のうと勝手だ。何もかも厭だ。あの女だけを愛してたのに、あの女だけしか愛していなかったのに!"
],
[
"たいへん苦しみましたか。",
"いいえ、仕合せと、別にお苦しみなさらなかったの。あんなにお弱かったんですもの。ちっとも逆らいなさらなかったの。すぐに、駄目だということがわかったのよ。",
"そしてあの女は、前からそれと知っていましたか。",
"さあどうですか。でもなんだか……。",
"何か言いましたか。",
"いいえ、何にも。赤ん坊のようにむずがっていらしてよ。",
"あなたはそばにいたんですか。",
"ええ、初めの二日間、兄さんがいらっしゃるまで、一人でついていたの。"
],
[
"もう本心を失っていらしたんですもの。",
"口をききましたか。",
"意味がよくわからなかったの。ごく低い声でした。",
"娘さんはどこにいます?",
"兄さんが田舎の家へ連れていったの。",
"そして、あの女は?",
"やはり向うに。前週の月曜日に、ここから発たれたの。"
],
[
"ここにいるのがいいの?",
"ええ、面白いわ……。",
"帰りたくはない?",
"いやよ!"
],
[
"手足で……上るのはいつもやさしいものよ……。",
"うまそうな果物が頭の上にぶらさがってる時には、なおさらでしょう。",
"ええ……でも食べてしまうと、がっかりするわ。もうどこから降りていいかわからなくなってしまうわ。"
],
[
"わからないわ。",
"一人で散歩してるんですか。"
],
[
"僕もわからないんです。",
"ちょうどいいわ。いっしょに行きましょう。"
],
[
"いいえちっとも!",
"自分で逃げたでしょう。",
"私が逃げたって、それは私一人のことで、あの人たちの知ったことじゃないわ。あの人たちは私を捜してくれなけりゃならないはずだわ。もしも私が道にでも迷ったんだったら……。"
],
[
"なに、初めてのことじゃないわ。",
"何が?……"
],
[
"なんと言うつもりだい?",
"お母さんが病気だとか、死んだとか……なんだっていいわ。"
],
[
"僕にはその権利がないのかい?",
"ちっともありません。",
"あんなことがあったあとでも?",
"何にもあったんじゃありません。"
],
[
"あんたは私を愛してくださるの?",
"愛するとも!",
"どれくらい愛してくださるの?",
"できるかぎり。",
"それじゃ充分でないわよ………そうよ………私にはどんなことをしてくだすって?",
"なんでも望みどおりに。",
"悪いことでもしてくだすって?",
"おかしな愛し方だね。",
"それとは別問題よ。してくだすって?",
"そんな必要はありゃしない。",
"でも私がそれを望んだら?",
"お前が間違ってるんだ。",
"かもしれないわ……で、してくだすって?"
],
[
"悪いことでもしてくださるの、どうなの?",
"厭だよ。"
],
[
"あんたが私を愛してくださるのは、ほんとに私を愛してるからなの、または私があんたを愛してるからなの?",
"お前を愛してるからだ。",
"では、私があんたを愛さなくとも、やはり私を愛してくださるの?",
"ああ。",
"そして、もし私が他の人を愛しても、やはり私を愛してくださるの?",
"さあ、それは僕にはわからない……そうは思えない……がいずれにしても、お前は、僕が愛すると言う最後の女だろう。",
"でも何か今と変ることがあって?",
"沢山ある。僕もたぶん変るだろう、お前もきっと変ってくる。",
"私が変ったら、どうなるの?",
"たいへんなことになるさ。僕は今のままお前を愛してるんだ。もしお前がまったく別な者になったら、僕はもうお前を愛するかどうか受け合えない。",
"あんたは愛していないのよ、愛していないのよ! そんなへりくつが何になって! 愛するか愛しないか、どっちかだわ。もしあんたが私を愛しているんなら、私が何をしようと、いつでも変らず、そのまま私を愛してくださるはずだわ。",
"それは畜生のような愛し方だ。",
"私はそういうふうに愛してもらいたいのよ。"
],
[
"あんたは利口なのをたいそう御自慢ね。私よりも自分の知恵の方を余計愛しているんだわ。",
"僕はお前を愛してるんだ、ひどいことを言う奴だね、お前が自分の身を愛してるよりもっと深くお前を愛してるんだ。お前が美しくって善良であればあるほど、ますます僕はお前を愛するんだ。"
],
[
"だってさ、僕は美しいものが好きなんだ。醜いものはきらいだ。",
"私のうちにあっても?",
"お前のうちにあるとことにそうだ。"
],
[
"ねえ、クリストフ、あんたは嘘はきらいだと言ったわね。",
"軽蔑してるよ。"
],
[
"よしてくれよ、僕をいつも苦しめるのを。",
"あんたを苦しめるんじゃないわ。他の人を愛してると私は言ってるんじゃないのよ、愛してはいないとさえ言ってるわ。……でもこれから先、もし愛したら……?",
"まあ、そんなことは考えないとしようや。",
"私は考えたいのよ。……あんたは私を恨まないの? 私を恨むことができないの?",
"僕は恨まないだろう、お前と別れるだろう。それっきりだ。",
"別れる? どうしてなの? 私がまだあんたを愛していても……。",
"他の男を愛しながら?",
"むろんよ。そんなことはよくあるわ。",
"なに、僕たちにはそんなことが起こるものか。",
"なぜ?",
"なぜって、お前が他の男を愛する時には、もう僕はお前を、ちっとも、もうちっとも、愛さないだろうからさ。",
"先刻はわからないと言ってたじゃないの。……それごらんなさい、あんたは私を愛さないんだわ!",
"そうかもしれない。その方がお前のためにはいいよ。",
"というのは?……",
"お前が他の男を愛する時に、もし僕がお前を愛していたら、お前にも、僕にも、またその男にも、始末が悪くなるだろうからさ。",
"そうら!……あんたはもう無茶苦茶よ。では私は、一生涯あんたといっしょになってなけりゃならないもんなの?",
"安心おし、お前は自由だよ。いつでも僕と別れたい時には別れるがいいさ。ただ、それは一時の別れじゃなくて、永久のおさらばだ。",
"でも、やはりあんたを愛してるとしたら、この私が。",
"愛し合ってる時には、たがいに一身をささげ合うものなんだ。",
"じゃあ、あんたからささげてちょうだい!"
],
[
"そんなにけがらわしい話はよしてくれ!",
"冗談を言ってるのよ。",
"もっとりっぱな話の種を捜しておいでよ。",
"じゃあせめて理由を言ってごらんなさい。なぜそれが気に入らないか言ってごらんなさい。",
"理由があるもんか。なぜ肥料が臭いかには、議論の余地はない。肥料は臭い、ただそれっきりだ。僕は鼻をつまんで逃げ出すばかりさ。"
],
[
"いつから?",
"ずっと前から。"
],
[
"今なんと言ったんだい?",
"待ってましょうと言ったのよ。あんなに早く私を歩かせるには及ばなかったでしょう。",
"そうだね。"
],
[
"道に迷ったのかもしれない。",
"迷ったんですって? 迷うはずがないわ。エルンストさんはどの道でも知ってるから。"
],
[
"でも、望んだってなんの役にもたたないんなら、どうしたらいいでしょう?",
"用心をするがいい、そして祈るがいい。",
"僕はもう信じていないんです。"
],
[
"信じていないとしたら、生きていられないはずだ。だれでも信じてるものだ。祈るがいいよ。",
"何を祈るんです?"
]
] | 底本:「ジャン・クリストフ(一)」岩波文庫、岩波書店
1986(昭和61)年6月16日改版第1刷発行
入力:tatsuki
校正:伊藤時也
2008年1月27日作成
2009年8月1日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "042592",
"作品名": "ジャン・クリストフ",
"作品名読み": "ジャン・クリストフ",
"ソート用読み": "しやんくりすとふ",
"副題": "05 第三巻 青年",
"副題読み": "05 だいさんかん せいねん",
"原題": "",
"初出": "JEAN CHRISTOPHE",
"分類番号": "NDC 953",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2008-03-07T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-21T00:00:00",
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"人物ID": "001093",
"姓": "ロラン",
"名": "ロマン",
"姓読み": "ロラン",
"名読み": "ロマン",
"姓読みソート用": "ろらん",
"名読みソート用": "ろまん",
"姓ローマ字": "Rolland",
"名ローマ字": "Romain",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1866-01-29",
"没年月日": "1944-12-30",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "ジャン・クリストフ(一)",
"底本出版社名1": "岩波文庫、岩波書店",
"底本初版発行年1": "1986(昭和61)年6月16日",
"入力に使用した版1": "1986(昭和61)年6月16日改版第1刷",
"校正に使用した版1": "2004(平成16)年4月5日第25刷",
"底本の親本名1": "",
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"底本の親本初版発行年2": "",
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[
[
"いやそうじゃない、まったくだ。五十年というのも長すぎる。まあ三十年でいい……それも長すぎるくらいだ!……その程度が衛生にはいい。家の中に父祖の古物を残しておかないことだ。彼らが死んだら、それを他処へ送ってていねいに腐敗させ、決してまたもどってこないように、その上に石を置いとくことだ。やさしい心の者はまた花を添えるが、それもよかろう、どうだって構わない。僕が求むることはただ、父祖が僕を安静にしておいてくれることだ。僕の方では向こうをごく安静にしておいてやる。どちらもそれぞれおたがいさまだ、生者の方と、死者の方と。",
"生者よりいっそうよく生きてる死者もあるよ。",
"いや、違う。死者よりいっそうよく死んでる生者があると言った方が、より真実に近い。",
"あるいはそうかもしれない。だがとにかく、古くてまだ若いものもあるよ。",
"ところが、まだ若いんなら、われわれは自分でそれを見出すだろう。……しかし僕はそんなことを信じない。一度よかったものは、もう決して二度とよくはない。変化だけがいいんだ。何よりも肝要なのは、老人を厄介払いすることだ。ドイツには老人が多すぎる。老いたる者は死すべしだ!"
],
[
"君、少し隙があるだろうね。……まあ聞きたまえ。僕はちょっと思いついたことがある。多分君はばかなことだと思うかもしれないが……。実は、一度、音楽に関する、三文音楽家らに関する、君の意見を書いてくれないかね。木片を吹いたりたたいたりするだけの能しかない、君の仲間のあの四人の馬鹿者どもに向かって、無駄に言葉を費やすより、広く公衆に話しかける方がいいじゃないか。",
"その方がいいとも! 望むところだ!……よろしい! だが何に書くんだい? 君は親切だね、君は!……",
"こうなんだ。僕は君に願いたいことがあるんだが……。僕らは、僕と数人の友人――アダルベルト・フォン・ワルトハウス、ラファエル・ゴールデンリンク、アドルフ・マイ、ルツィエン・エーレンフェルト――そういう連中で、雑誌を一つこしらえてるんだ。この町での唯一の高級な雑誌で、ディオニゾスと言うんだ。……(君も確か知ってるだろう。)……僕らは皆君を尊敬してる。そして君が同人になってくれれば、実に仕合わせだ。君は音楽の批評を受け持ってくれないか?"
],
[
"拍手係だって、君は恥ずかしくないのか。",
"雇いのを言うんじゃないよ。――(実を言えば、雇人拍手係こそ、作品の価値を聴衆に示すために、なお見出された唯一の方法ではあるが。)――しかし、一種の拍手係が、適当に訓練された小さな仲間が、いつでも必要なんだ。どの作家も皆それをもっている。それでこそ友だち甲斐があるというものだ。",
"僕は友だちをほしくない。",
"それじゃ君の作は、口笛を吹かれるばかりだ。",
"僕は口笛を吹かれたいんだ。"
],
[
"そんな楽しみも長くはつづかないよ。だれも演奏してくれる者がなくなってしまうだろう。",
"なに構うもんか。それじゃ君は、僕が有名な人間になりたがってるとでも思ってるのか。……なるほど僕はこれまで、そういう目的に向かって全力を注いでいた。……まったく無意義だ、狂気沙汰だ、阿呆の至りだ。……ちょうど、最も凡俗な高慢心の満足は、光栄の代価たるあらゆる種類の犠牲――不愉快、苦痛、不名誉、汚辱、卑劣、賤しい譲歩、などを償うものででもあるかのように! ところでもしそういう焦慮が今もなお僕の頭を悩ましてるとしたら、僕はむしろ悪魔にでもさらってゆかれたい。もうそんなことは少しも思っていないんだ。聴衆だの著名だのということには、少しも関わりたくないんだ。著名ということは、不名誉きわまる賤しいことだ。僕は一私人でありたいし、自分自身と愛する人々とのために生きたいんだ……。"
],
[
"どうだい、君の考えは?",
"猛烈だね。君、余すところはないよ。",
"あいつらはなんと言うだろうかね?",
"そりゃあ大騒ぎだろうよ。"
],
[
"クリストフ、君は芝居へ行くのかい。",
"いや。",
"諾と言えよ。芝居へ行ってくれ。僕の頼みだ。厭とは言えまい。"
],
[
"そして四人分の桟敷をどうするんだい。",
"いいようにするさ。よかったらその奥で眠っても踊っても構わない。女を連れてゆくさ。幾人かあるだろう。入用なら貸してやってもいいよ。"
],
[
"はい、ありませんの。",
"僕は桟敷を一つもってますが、始末に困ってるところです。いっしょにそれを使ってくださいませんか。"
],
[
"ええ。",
"国はどちらです?"
],
[
"知らないわ。",
"いっしょに食事をしないんですか。",
"ええちっとも。芝居で顔を合わせるだけでたくさんよ。……ほんとに、食卓でまでいっしょにいなけりゃならないとしたら!……"
],
[
"親密でしょう。",
"親密なんてそんな! 私は好きな人となら兄弟になってもいいし、そうでない人とはごめんだわ……。おう嫌だ、そんなのは、社会じゃなくて、蟻の巣よ。",
"僕もあなたに同意です。だからこちらで僕がどんな気持かわかるでしょう。",
"では私の国へいらっしゃいよ。"
],
[
"このコリネットがここから発ってしまっても、忘れないでくださるわね。このフランスの女が真面目でないったって、それを恨みはなさらないわね。",
"そしてあなたの方でも、この野蛮なチュートン人がいくら馬鹿だって、それを恨みはしないでしょうね。",
"それだからかえって好きなのよ。……パリーへも会いに来てくださるわね。",
"ええきっと。……そして私に手紙をくださるでしょうね。",
"誓うわ。……あなたもそれを誓ってちょうだいよ。",
"誓います。",
"いいえ。そうじゃないのよ。手を出さなくちゃいけないわ。"
],
[
"君の情婦だということをさ。",
"僕はあの女を知りもしないよ。名前さえ知らないんだ。"
],
[
"ほんとうのところを言えば、気に入らないんです。僕には意味がわかりません。",
"では作曲するのにも読まなかったんですか。"
],
[
"でもとうとう行ってしまいました。",
"そしてたつ時になんと言いましたか。"
],
[
"帰って来ますと、短い手紙が来ていました。私がしてやった種々なことのお礼を言い、パリーへ帰るということでした。住所は書き残してゆきませんでした。",
"それきり手紙をよこしませんか。",
"ええ何にも。"
],
[
"何が?",
"読んでみたまえ。"
],
[
"あなたはお母さんに会いたいんでしょ。……私が代わりに行ってあげましょう。",
"いつ?",
"今夜。",
"ほんとに? そうしてくれますか。",
"行きますとも。"
],
[
"どうですか。いったいどこからいらしたの。",
"ブイルから。",
"鞄を送った人はだれですか。",
"ロールヘンだ。さあ渡してくれ。"
],
[
"ああ、すぐにあなたとわかったわ。",
"では何を待っていたんだい。",
"あなただとおっしゃるのを待ってたの。"
],
[
"そしてロールヘンは?",
"ロールヘンはいなかったの。町へ行ってから、あとでもどってきたのよ。",
"僕のお母さんに会ったのかしら。",
"ええ。これがその手紙よ。自分で来たがってたけれど、やっぱりつかまったの。",
"ではどうしてお前は来られたんだい。",
"こうよ。ロールヘンは憲兵に見つからないで、村に帰ってきて、それからまた出かけようとしたの。けれどゲルトルーデの妹のイルミナが、訴えたもんだから、捕り手が来たのよ。憲兵たちが来るのを見ると、自分の室に上がっていって、すぐに降りてゆく、今着物を着てるから、と言いたてたの。私は裏の葡萄畑にいたのよ。ロールヘンは窓から、リディア、リディア、って私を小声で呼ぶの。行ってみると、あなたのお母さんからもらってきた鞄と手紙を、私に渡して、あなたに会える場所を教えてくれたの。駆けておゆき、つかまらないようにおし、と言われたわ。私は駆け出して、それからここへ来たのよ。",
"それきりなんとも言わなかったの!",
"言ったわ。自分の代わりに来たんだというしるしに、この肩掛も渡してくれって。"
]
] | 底本:「ジャン・クリストフ(二)」岩波文庫、岩波書店
1986(昭和61)年7月16日改版第1刷発行
入力:tatsuki
校正:伊藤時也
2008年1月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "042593",
"作品名": "ジャン・クリストフ",
"作品名読み": "ジャン・クリストフ",
"ソート用読み": "しやんくりすとふ",
"副題": "06 第四巻 反抗",
"副題読み": "06 だいよんかん はんこう",
"原題": "JEAN-CHRISTOPHE",
"初出": "",
"分類番号": "NDC 953",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2008-03-09T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-21T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001093/card42593.html",
"人物ID": "001093",
"姓": "ロラン",
"名": "ロマン",
"姓読み": "ロラン",
"名読み": "ロマン",
"姓読みソート用": "ろらん",
"名読みソート用": "ろまん",
"姓ローマ字": "Rolland",
"名ローマ字": "Romain",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1866-01-29",
"没年月日": "1944-12-30",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "ジャン・クリストフ(二)",
"底本出版社名1": "岩波文庫、岩波書店",
"底本初版発行年1": "1986(昭和61)年7月16日",
"入力に使用した版1": "1986(昭和61)年7月16日改版第1刷",
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} |
[
[
"ディーネルさんはお出かけになっています。",
"出かけましたって? なかなか帰りませんか。",
"ええ、たぶん。出かけられたばかりですから。"
],
[
"君はドイツの移住者をたくさん知ってるかい?",
"ああ。",
"では、僕のことを吹聴してくれたまえ。皆音楽は好きなはずだ。子供があるだろう。僕は稽古をしてやるつもりだ。"
],
[
"君はそれには十分すぎるほど音楽を心得てはいるが……ただ……。",
"なんだい?",
"それはむずかしいよ、たいへん困難だよ、ねえ、君の境遇では。",
"僕の境遇?",
"そうだ……つまりあの事件が、あの表沙汰が……もしあれが知れ渡ると……僕にはどうも困難だ。いろいろ掛り合いを受けることになるかもしれない。"
],
[
"いつわかるだろう?",
"明日……明日……または明後日。",
"結構だ。明日また来よう。"
],
[
"よろしい。明日手紙を上げよう。",
"明日?",
"明日だ。間違いないよ。"
],
[
"僕は仕事を求めに来たので、他のことは求めません。",
"先刻言った仕事以外には、当分やっていただきたいこともありません。あの仕事にしても、たしかにお頼みするかどうかわからない。お頼みするかもしれないと言っただけです。",
"他に方法はないのですか、僕のような音楽家を使うのに。"
],
[
"グラッセの娘さん。ピアノを買ってもらったっていうじゃないの。",
"ああ、あの見栄坊どもか。なるほど。"
],
[
"僕に怒ってはいないのかい。",
"君に怒るって? 何を言ってるんだ!"
],
[
"ずっとこんな調子なのか。",
"そうだ。",
"じゃあ、からっぽだね。"
],
[
"フランスもドイツと同じだ。",
"僕はそう思わない。こんなふうの国民なら、長くはつづくまい。もう腐った臭いがしてるから。まだ他に何かあるに違いない。",
"これ以上のものは何もないんだ。"
],
[
"聴いていらっしゃらないのね。……よく聴いてちょうだいよ!",
"聞いていますよ。……いつも同じものですね。"
],
[
"それでも音楽のつもりですか。",
"え、音楽じゃないんですって?……では、なんだとおっしゃるの?",
"御自分でよくわかってるでしょう。失礼に当たるから私の口からは言いますまい。",
"そんならなおおっしゃらなけりゃいけません。",
"言ってもらいたいんですか。……お気の毒さま!……いったいあなたは、ピアノを相手に何をしてるのか自分で知っていますか。……あなたはふざけてるんです。",
"まあ!",
"そうですとも。あなたはピアノにこう言っています、ピアノさん、ピアノさん、優しい言葉を聞かしてちょうだい、もっとよ、私をかわいがってちょうだい、ちょっとキスしてちょうだいよ!"
],
[
"少しもありませんよ。",
"横柄な方ね。……それに第一もしそうだったとしても、それこそほんとうに音楽を愛する仕方ではありませんか。",
"ああ、お願いだから、音楽とそんなこととを混同しないでください。",
"でもそれが音楽ですわ。美しい和音は接吻と同じですもの。",
"そんなことをあなたに教えた覚えはありません。",
"でもほんとにそうじゃありませんか……。なぜ肩を怒らしなさるの。なぜ顔をしかめなさるの?",
"不快だからです。",
"まあひどいわ。",
"不品行の話でもするような調子で、音楽のことを言われるのを聞くのは、私は不快です。……しかし、それはあなたが悪いのではない。あなたの世界が悪いからです。あなたをとり巻いてるこの無趣味な社会は、芸術を一種の許された道楽だと見なしている。……さあ、おすわりなさい。奏鳴曲をひいてごらんなさい。",
"でも、もう少し話しましょう。",
"私は話をしに来てるのではありません。ピアノを教えに来てるのです。……さあ、やりましょう。"
],
[
"ええ一言も。",
"でも面白い方がいましたわ。",
"ええ、すてきな饒舌家だの才子だのが。なんでも理解し、なんでも説明し、なんでも見のがし――何にも感じない、骨抜きのフランス人たちの間にはいって、私はまごついてしまいましたよ。幾時間もたてつづけに、恋愛や芸術の話をするような連中でしたね。たまらないじゃありませんか。",
"でもあなたには面白かったはずだと思いますわ、恋愛かさもなくば芸術の話が。",
"そんなことは話すべきものではなくて、なすべきものです。"
],
[
"その時は他人に任せるまでです。万人が芸術のために生まれてるのではありません。",
"恋愛のためにも?",
"恋愛のためにもです。",
"つまらないわね。では私たちには何が残るんでしょう。",
"家事があります。"
],
[
"そうよ、だれも見たことがありませんわ。",
"私はそれほど悲観してもいません。私が言いたいのは、この私が見たことがないというのです。しかしそれは存在するかもしれません。存在してるなら見出したいものだとさえ思っています。ただ、見出すのが容易でないのです。善良な婦人と天才の男子とは、いずれも滅多にありません。",
"そしてその二つを除くと、他の男や女は皆物の数にはいりませんか。",
"いやかえって、そういう男女こそ、物の数にはいるのです……世間にとっては。",
"でもあなたにとっては?",
"私にとっては、ないも同じです。"
],
[
"どうせよとおっしゃるのですか。どうにも仕方ないじゃありませんか。あなたがた男の方は、のがれることもできますし、なんでも勝手なことがおできになります。けれども私たちは、社交上の務めと楽しみの範囲内に、永久に閉じこめられています。それから出ることができません。",
"われわれ同様にあなたがたが自分を解放することを、だれが妨げるものですか。あなたがたが自分の好きな仕事をして、われわれのように独立できる仕事をするのを、だれが妨げるものですか。"
],
[
"いいえ、ちっとも。あなたが友だちでなくなってしまわれると、私はたいへん悲しいんですもの。",
"しかしあなたは私どもの友情に、少しの犠牲をも払いたがらないじゃありませんか。"
],
[
"え! あんないい声なのに!",
"ちっともよかありません。",
"それにまた美人ですがね。",
"そんなことはどうでもいいんです。"
],
[
"いや、どうしまして。",
"ただ一つうまくゆかないことがあるんです。",
"言ってごらんなさい。なんとか都合しましょう。君が満足しさえすればいいんですから。",
"というのは、あの女歌手のことです。ここだけの語ですが、あれはとうてい駄目です。"
],
[
"では、いつ皆が同じようになるんです?",
"もちろん死んでからですわ。だれでも消えてしまいます。"
],
[
"でも、そのリュシアンさんにたいしてはあなたの方が悪いんですよ。あの人もやはりあなたを好きですもの。",
"そんなことがあるものですか。たまらないことです。",
"確かですよ。",
"いえ、決して決して! 私は好きになってもらいたくはありません。",
"ちょうどあなたの崇拝者と同じことをおっしゃるのね。あなた方はどちらも狂人同士ね。その時は、リュシアンがあなたのある作品を説明していました。すると今お会いなすったあの恥ずかしがりやさんが、震えるほど怒りながら立ち上がって、あなたのことを口にしてはいけないと言い出したのです。大した意気込みじゃありませんか! おりよく私が居合わしていました。思い切って笑ってやりますと、リュシアンも私の真似をしたのです。相手は困って黙り込んで、とうとうあやまりましたわ。"
]
] | 底本:「ジャン・クリストフ(二)」岩波文庫、岩波書店
1986(昭和61)年7月16日改版第1刷発行
入力:tatsuki
校正:伊藤時也
2008年1月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "042594",
"作品名": "ジャン・クリストフ",
"作品名読み": "ジャン・クリストフ",
"ソート用読み": "しやんくりすとふ",
"副題": "07 第五巻 広場の市",
"副題読み": "07 だいごかん ひろばのいち",
"原題": "JEAN-CHRISTOPHE",
"初出": "",
"分類番号": "NDC 953",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2008-03-11T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-21T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001093/card42594.html",
"人物ID": "001093",
"姓": "ロラン",
"名": "ロマン",
"姓読み": "ロラン",
"名読み": "ロマン",
"姓読みソート用": "ろらん",
"名読みソート用": "ろまん",
"姓ローマ字": "Rolland",
"名ローマ字": "Romain",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1866-01-29",
"没年月日": "1944-12-30",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "ジャン・クリストフ(二)",
"底本出版社名1": "岩波文庫、岩波書店",
"底本初版発行年1": "1986(昭和61)年7月16日",
"入力に使用した版1": "1986(昭和61)年7月16日改版第1刷",
"校正に使用した版1": "2006(平成18)年1月16日第22刷",
"底本の親本名1": "",
"底本の親本出版社名1": "",
"底本の親本初版発行年1": "",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "tatsuki",
"校正者": "伊藤時也",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001093/files/42594_ruby_29008.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2008-01-28T00:00:00",
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} |
[
[
"くたびれちゃったの、お父さん。",
"そう。では二人でちょっと腰を掛けようよ。"
],
[
"お父さんもくたびれたの?",
"ああ、坊や。"
],
[
"幸福になるものか!",
"いいえきっとなってよ。私たちはあんまり不幸だったわ。今に変わってくるわ。変わるに違いないわ。あなたは生活を立ててゆき、家庭をもち、幸福になるでしょう。それが、それが私の望みよ!",
"どうして生きてゆけるの? 私たちにはとてもできない……。",
"できますとも。なんだと思ってるの? あなたが自活できるようになるまでの間のことよ。私が引き受けるわ。見ててごらんなさい、私がやってみせるから。ああ、お母さんが私のするとおりに任しててくだすったら、もうちゃんとできてたのに……。",
"何をするつもりなの? 私は姉さんに恥ずかしいことをさせたくない。それに姉さんにはできやしない……。",
"できますよ……。働いて生活をするのは――正直でさえあれば――少しも恥じることはありません。心配しないでちょうだい、お願いだから。見ててごらんなさい。万事うまくいきます。あなたは幸福になります。私たちは幸福になります。ねえオリヴィエ、この方も私たちのせいで幸福になります……。"
]
] | 底本:「ジャン・クリストフ(三)」岩波文庫、岩波書店
1986(昭和61)年8月18日改版第1刷発行
入力:tatsuki
校正:伊藤時也
2008年1月27日作成
2009年12月16日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "042595",
"作品名": "ジャン・クリストフ",
"作品名読み": "ジャン・クリストフ",
"ソート用読み": "しやんくりすとふ",
"副題": "08 第六巻 アントアネット",
"副題読み": "08 だいろっかん アントアネット",
"原題": "JEAN-CHRISTOPHE",
"初出": "",
"分類番号": "NDC 953",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2008-03-13T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-21T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001093/card42595.html",
"人物ID": "001093",
"姓": "ロラン",
"名": "ロマン",
"姓読み": "ロラン",
"名読み": "ロマン",
"姓読みソート用": "ろらん",
"名読みソート用": "ろまん",
"姓ローマ字": "Rolland",
"名ローマ字": "Romain",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1866-01-29",
"没年月日": "1944-12-30",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "ジャン・クリストフ(三)",
"底本出版社名1": "岩波文庫、岩波書店",
"底本初版発行年1": "1986(昭和61)年8月18日",
"入力に使用した版1": "1986(昭和61)年8月18日改版第1刷",
"校正に使用した版1": "1986(昭和61)年8月18日改版第1刷",
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"底本の親本初版発行年1": "",
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[
[
"まったく、そうかもしれません。そう思われるのも無理はありません。",
"じゃあ、なぜ来られないんです?",
"あまり行きたいからです。",
"なるほどりっぱな理由だ!",
"ほんとうですよ、冗談じゃありません。あなたのほうはどうでもいいと思っていられるのじゃないかと、心配していました。",
"僕もそんなふうに気をもんでみたんです。そして君に会いたくて来たんです。だが、それが君に厭かどうか、僕にはすぐにわかるんだから。",
"もうそんな厭味は言わないことにしてください。"
],
[
"昨日は、私は馬鹿でした。あなたの気持を悪くしやすまいかと心配していました。私の臆病なのはまったく病的です。もう何にも言えなくなるんです。",
"そんなことは気にしないがいいです。君の国には饒舌家がかなり多いから、ときどき黙り込む人に、たとい臆病さからでも、言い換えれば心ならずにでも、黙り込む人に出会うと、うれしいものです。"
],
[
"では、私が無口だから訪ねて来てくだすったのですか。",
"ええ、君が無口だから、君が沈黙の徳をそなえてるからです。沈黙にもいろんな種類があるが、僕は君の沈黙がすきです。それだけのことです。",
"どうしてあなたは私に同情を寄せられるのですか。ろくにお会いしたこともないのに。",
"それは僕のやり口です。僕は人を選ぶのにぐずついてはしない。気に入った人にこの世で出会うと、すぐに決心して追っかけていって、いっしょにならなきゃ承知しないんです。",
"追っかけていって思い違いだったことはありませんか。",
"幾度もありますよ。",
"こんども思い違いではありませんでしょうか。",
"それはじきにわかることです。",
"ああそうだったら、私はどうしましょう。ほんとに私はぞっとします。あなたから観察されてると思うだけで、私はもう何もできなくなります。"
],
[
"ひどい住居ですね。他に室はないんですか。",
"物置みたいなのが一つあるきりです。",
"ああ、息もできない。よくこんな所に住んでいられたものですね。",
"馴れてくるんです。",
"僕ならどうしたって馴れやしない。"
],
[
"それがたいていの人の運命ではないでしょうか。あなた自身でも、憤りや闘いのうちに自分を無駄に費やしてはいませんか。",
"僕のは違う。僕はそのために生まれた人間だ。この腕や手を見たらわかるでしょう。奮闘するのが僕の健全な生活です。しかし君は、十分の力をもっていない。そんなことはよくわかってる。"
],
[
"ええ、私は弱いんです。いつもこんなでした。しかししかたありません。生活しなければならないんです。",
"どうして生活してるんです?",
"出稽古をしています。",
"なんの?",
"なんでもです。ラテン語やギリシャ語や歴史の復習をしてやり、大学入学受験者の準備をしてやり、また市立のある学校で道徳の講義をしています。",
"なんの講義?",
"道徳です。",
"なんて馬鹿なことだろう。君たちの学校じゃ道徳を教えるんですか。"
],
[
"もちろんです。",
"そして十分間以上も話すだけの種がありますか。",
"一週に十二時間の講義を受け持っています。",
"では悪を行なうことでも教えるんですか。",
"なぜです?",
"善とはなんであるかを知らせるためには、そんなにしゃべる必要はない。",
"というより、知らせないためには、でしょう。",
"なるほど、知らせないためには。そして、知らなくとも善を行なうに少しもさしつかえはない。善は学問ではなくて、行為だ。道徳を喋々するのは、神経衰弱者ばかりだ。そして道徳のあらゆる条件中第一のものは、神経衰弱でないということだ。世間の衒学者どもは、言わば自分は足がたたないくせに人に歩くことを教えようとしている。",
"その連中は何もあなたのために語ってるのではありません。あなたは道徳を御存じですが、世には知らない者がたくさんあります。",
"そんなら、子供のように、自分で覚えるまで四足で匐わせとけばいいんだ。しかし、二本の足でやろうと四足でやろうと、とにかく第一のことは、歩くということだ。"
],
[
"でもなぜです? なぜ私にひかせようとなさるんです?",
"それはあとで言うから、ひいてくれたまえ。",
"何をひくんですか。",
"なんでも君の好きなものを。"
],
[
"たとい子供があったって、私はそうしか考えませんよ。",
"いやそんなことはけっして、けっして!……それにまた、国を去るんです。厭なことだ。ここで苦しんでるほうがましです。"
],
[
"当たり前さ。君たちは正気の沙汰じゃない。民衆から生きる勇気を奪ってしまおうとでもいうんだね。",
"なぜだい? 民衆だってわれわれと同じように、事物の悲しさを見てとりしかも落胆せずに義務を尽くすということを、学ばなければならないじゃないか。",
"落胆せずにだって? そりゃ疑問だ。ただ確かなのは、喜びなしにということだけだ。そして、人間の生の喜びを滅ぼしてしまうときには、そのままでゆけるものじゃない。",
"ではどうすればいいのか。だれにも真理を偽る権利はない。",
"しかし、万人に向かって真理を全部言ってきかせる権利もないのだ。",
"君がそんなことを言うのか。君はたえず真理を要求し、何よりも真理を愛してると言ってたくせに!",
"そうだ、僕にとっては、また、真理をにない得るだけ丈夫な腰をもってる者にとっては、真理がいいのだ。しかしその他の者にとっては、それは一種の残酷であり馬鹿げたことだ。そうだ僕は今わかってきた。国にいたらこんなことは頭に浮かびもしなかったろう。あちらでは、ドイツでは、人は君たちのように真理にとっつかれてはしない。彼らは生きることにあまりに執着してる。用心深く見たいことだけを見ている。ところが君たちはそうでない。だから僕は君たちが好きなんだ。君たちは勇敢で、まっすぐに進んでゆく。しかし君たちは人間的でない。一つの真理を発見したと考えるときには、ちょうど聖書にある尻尾に火のついた狐のように、その真理が世界じゅうに火をつけるかどうかはお構いなしに、それを世界に放ってしまう。君たちが自分の幸福よりも真理を取るのは、僕も尊敬するよ。しかし他人の幸福よりもとなると……よしてもらいたいね。君たちはあまりに勝手すぎる。自分自身よりも真理を愛さなけりゃいけないけれど、真理よりも隣人をいっそう愛さなけりゃいけない。",
"では隣人に嘘をつかなくちゃいけないのか。"
],
[
"いけない。それはフランス人の言葉ではない。それに愛国心の色をつけてわれわれのうちに広めようとするのは、無駄な努力だ。野蛮な国にはいいだろう。だがわれわれの祖国は、憎悪のためにできてはしない。われわれの天稟の精神が自己を肯定するのは、他を否定したり破壊したりすることによってではなく、他を吸収することによってである。何物でももって来るがいい、混濁せる北方でも饒舌な南方でも……。",
"そして有毒な東方もか?",
"有毒な東方もだ。われわれはそれをも他のものと同様に吸収してみせる。われわれはすでに多くのものを吸収してきたのだ。東方の勝利顔な様子を、またわが同種族のあるものの意気地なさを、僕は笑ってやりたい。東方はわれわれを征服したことと思い、われわれの大通りで、われわれの新聞雑誌の中で、われわれの演劇舞台や政治舞台の上で、威張りちらしている。馬鹿な奴だ。実は東方こそ征服されてるのだ。東方はわれわれの養分となった後に、やがてみずから排泄されてしまうだろう。ゴールの国は丈夫な胃袋をもってるのだ。二十世紀間のうちに、一つならずの文化を消化しつくした。われわれは毒にも堪えることができる……。恐れるのは君たちドイツ人にはいいだろう。純粋であるかもしくは存在しないか、そのいずれかが君たちの道だ。しかしわれわれフランス人にとっては、純粋は問題ではない。世界的ということが問題なのだ。君たちは皇帝をもってるし、大ブリテンは帝国だと自称してる。しかし事実において、わがラテン精神こそ帝王的なのだ。われわれは世界市の市民である。ローマと世界とにまたがる者である。"
],
[
"そんなことは、幾世紀も前からたびたび言われてきた。だがいつもわが国の歴史はその恐れを打ち消してしまったのだ。人なきパリーに狼の群れが彷徨していたあのオルレアンの少女の時代この方、われわれは他の多くの困難をきりぬけてきたのだ。現時の、不道徳の跳梁、快楽の追求、懦弱、無政府状態、などを僕は少しも恐れない。忍耐だ! 持続せんと欲する者は堪え忍ばなければならない。僕はよく知ってる、このつぎには道徳的な反動が起こってくるだろう! がそれももとより、ずっとよいものではないだろうし、おそらくは同じようなくだらないものに帰着するだろう。今日一般の腐敗に生きてる奴らこそ、その反動をもっとも騒々しく導くだろう。……しかしそんなことはわれわれにとってはどうでもいいのだ。それらの運動は真のフランス民衆に触れはしない。果実が腐っても親木は腐りはしない。腐った果実は地に落ちるだけだ。そのうえ、そういう連中は国民としてはわずかな部分だ。彼らが生きようと死のうと、われわれにはなんらの痛痒もない。彼らに反して徒党を結んだり革命を起こしたりすることに、なんで僕は働くものか。現在の病弊はある何かの制度から起こったものではない。それは、贅沢にとりつく天刑病であり、富と知力とにたかる寄生虫だ。やがて滅びてしまうだろう。",
"君たちを食い荒らしたあとにね。",
"いや僕らのような民族については、絶望ということは許されないのだ。この民族は自分のうちに、一つの大なる徳操を隠し持っており、光明と活動的理想主義との大なる力を隠し持っているので、この民族を利用し廃滅せしめようとする者どもをも感染さしてしまうのだ。貪欲な政治家どもでさえこの民族に眩惑される。もっとも凡庸な者どもも権力を得るときには、この民族の運命の偉大さにとらえられる。その運命は彼らを彼ら以上の所へ引き上げる。彼らの手から手へと炬火を受け継がせる。彼らは相次いで、闇黒にたいする神聖な戦いをなしてゆく。彼らの民衆の精神に引きずられる。否応なしに彼らは彼らが否定してる神の掟を、フランス人によって神がなしたもう行為を、完成してゆく……。親愛なる国、親愛なるこの国、僕はけっしてそれを疑わないだろう。この国が致命的な困難に際会しようとも、そのために僕はますます、世界におけるわれわれの使命をあくまで慢りつづけるだろう。わがフランスが戸外の空気を恐れて病室に蟄居することを、僕は少しも望まない。病苦の生存を長引かせることを僕は好まない。われわれのように一度偉大となった暁には、偉大でなくなるよりもむしろ死ぬほうがよいのだ。世界の思想をわれわれの思想界に飛び込ませるがいい。僕はそれをけっして恐れない。洪水の波は、その泥土でわれわれの土地を肥やしたあとに、自分からくずれ去るだろう。"
],
[
"君たちは柄にもない種類のものばかりに気を向けて、自分の才能に適したものは何一つ作っていない。君たちは、優雅と、華美な詩と、身振りや足取りや態度や流行や服装などの美とをもってる、民衆である。そして、詩的舞踏の比類ない一芸術を創り得たはずなのに、もう今では舞踊劇を書く者がいない……。――君たちは、知的な笑いをもってる民衆である。それなのに、もう喜歌劇を作りもしないし、または喜歌劇を、音楽以下の者どもの手に委ねてる。ああ僕がもしフランス人だったら、僕はラブレーのものを音楽にし、滑稽叙事詩を作ってやるんだが……。――君たちは小説家的民衆である。それなのに、物語音楽を作っていない(というのは、ギュスターヴ・シャルパンティエの通俗物なんかは、物語音楽とは言えないから)。君たちは心理解剖の天分や性格洞察力などを利用していない。ああ僕がもしフランス人だったら、僕は音楽で性格描写をやってみせるんだが……(下の庭のリラの花陰にすわってるあの少女を描いてみせようかね。)弦楽四重奏曲でスタンダールみたいなものを書いてやるんだが……。――君たちはヨーロッパのもっともすぐれた民主的な人々である。それなのに、民衆劇ももたなければ、民衆音楽ももっていない。ああ僕がもしフランス人だったら、あの大革命を、一七八九年七月十四日、一七九二年八月十日、ヴァルミーの戦い、武装団結、などを音楽にし、民衆を音楽にしてやるんだが。それも、ワグナー流の法螺を事とする誤った種類のものでではない。交響曲や合唱や舞踊なのだ。演説はいけない。演説には飽き飽きだ。無言なるかな! 火と土と水と輝いた空とを、人の心を脹らす熱を、民族の本能的な運命的な伸長力を、幾百万の人を従属させ軍勢を死へ突進せしむる、世界の帝王たる律動の勝利を、合唱を伴う広い交響曲に、広漠たる音楽の風景画に、ホメロス式な聖書式な叙事詩に、太い筆致で描き出すのだ……。至る所に、すべてのものに、音楽を置くのだ。もし君たちが音楽家だったら、君たちは社会的祝祭のそれぞれに、公式の盛典に、労働組合に、学生連合に、家庭的な祝いに、音楽をもつだろう……。しかしまず何よりも、もし君たちが音楽家だったら、君たちは純粋な音楽を、何物をも意味しない音楽を、何物にも役だたずにただ、人を温め息づかせ生かすだけの音楽を、作り出すだろう。太陽の光を作るべしだ! サート・プラタ……(牧場は十分に……雨を得たり)……(なんで君はそれをラテン語で言いたがるんだ?)……実際君たちのうちにはかなり雨が多い。君たちの音楽に浸ると僕は風邪をひきそうだ。よく見えないから、ランプをつけたまえ……。君たちの劇場に侵入し、君たちの公衆を征服し、君たちを自宅から追い出してる、あのいわゆるイタリーの豚小屋を、君たちは現在不満に思ってるじゃないか。だがそれは君たちのほうが悪いのだ。公衆は、君たちの黄昏の芸術に、調子のよい神経衰弱に、対位法的な衒学趣味に、飽いてしまってるのだ。生活が野卑なものであろうとなかろうと、公衆は生活のあるほうへ行くものだ。なぜ君たちは生活から引退してるのか。君たちのドビュッシーは偉い芸術家だが、しかし健康にはよくない。彼は君たちの無気力を助長している。君たちは手荒く揺り覚まされなければいけない。",
"ではシュトラウスをきけというのか。",
"それもいけない。君たちを破滅させるばかりだ。そんな不養生な物を飲み込んでもちこたえるには、僕たちドイツ人みたいな胃袋をもっていなくちゃいけない。でもドイツ人でさえ実はもちこたえ得ないんだ……。シュトラウスのサロメ……傑作だ……けれど僕はそれが書かれたことを好まない……。僕は憐れな老祖父や叔父ゴットフリートのことを思い出す。彼らはいかに深い尊敬としみじみとした愛情とで、この音響の逸品たるサロメのことを僕に話してきかしたろう!……ああいう崇高な力を自由に駆使し、しかもあんなふうに使用するとは!……それは炎を発してる流星だ! ユダヤの娼婦たるイゾルデ姫だ。痛ましい獣的な淫乱だ。ドイツの頽廃の底に唸ってる、殺害や強姦や不倫や犯罪などの熱狂だ……。そして、君たちのほうには、フランスの頽廃のうちに呻いてる、逸楽的な自殺の発作がある……。一方は獣、そして一方は餌食。それで人間はどこにいるのだ?……君たちのドビュッシーは良趣味の天才であり、シュトラウスは悪趣味の天才である。前者は無味乾燥であり、後者は不愉快である。一方は、銀色の池であって、葦の中に隠れ、熱気ある匂いを発散さしている。一方は、泥立った急湍であって、……末期イタリー趣味と新マイエルベール式との匂いがあり、感情の醜悪な塵芥がその泡の下に流れている……。嫌悪すべき傑作だ。イゾルデの生み出したサロメだ。……そしてこんどはサロメから、何者が生まれるかわかったものではない。"
],
[
"ではいったいどうしたんだ?",
"ごく達者なんだ、腹がすいてるんだ。"
],
[
"数千人いるさ。",
"それでは、それは一種の流行病だ、ごく最近の流行だろう。"
],
[
"そしてそれがなんの妨げになるんですか。",
"だって僕は自分の妻が自分以外のものに所有されることを望みません。",
"ほう、あなたは細君の思想にまで嫉妬するんですか。じゃああの少佐よりもあなたのほうがいっそう利己的だ。",
"それは勝手な理屈です。たとえばあなたは音楽を愛しない女をもらえますか。",
"もらおうとしたこともありますよ。",
"思想が違っててどうしていっしょに暮らせるでしょうか。",
"そんなことをくよくよ考えるには及ばないでしょう。なあに、愛するときには思想なんかどうだって構わない。僕の愛する女が僕と同じく音楽を愛してくれたって、なんの足しになるものですか。僕にとってはその女が音楽なんです。あなたのように、相愛のかわいい娘があるという喜びを得るときには、彼女は彼女の好きなものを信ずるがいいし、あなたはあなたの好きなものを信ずるがいい。要するにどの思想もみな同じく尊いんです。そして世には一つの真理しかありません。それは愛し合うということです。",
"それは詩人の言い草です。あなたは人生を見ていません。精神の不一致に苦しめられた多くの家庭を、僕はたくさん知っています。",
"それは十分愛し合っていなかったからです。人は第一に自分が何を欲してるかを知らなければいけません。",
"人生においては意志がすべてをなし得るものではありません。僕がシャブラン嬢と結婚しようと欲しても、それはできないでしょう。",
"なぜでしょうか。"
],
[
"いや、誠実な人たちに言ってるんだ。悪者どもがのさばって、嘘をつき奪い盗み人殺しをしている。しかしその他の者を――彼らを蔑視しながら勝手なことをさせてる人たちを、僕ははるかに多く軽蔑する。新聞雑誌の仲間たちが、誠実な教養ある批評家たちが、無定見なアールカンどもにわいわい言われてる芸術家たちが、臆病から、災いをこうむる恐れから、あるいは、相互に容赦するという恥ずべき打算から、敵の打撃を免れるために敵と結んだ一種の密約から、奴らをなすままに任して黙っていることがなかったならば――もし彼らがその庇護と友情とを奴らに利用されるままに任せることがなかったならば、奴らの厚顔な威勢は単なる物笑いとなってしまうだろう。あらゆる方面に同様な気弱さがある。僕が出会った多くの善良な人々は、ある男について『彼奴は馬鹿者だ』と僕に言ってきかせながら、その男を『親しい仲間』と呼びかけて握手しないような者は、一人もなかった。――『あんな人間が多すぎる』と彼らは言っている。――がまったく腰抜けが多すぎる。誠実でありながら卑怯である者が多すぎるのだ。",
"ではどうせよというんだ?",
"君たち自身で警察事務をやるのさ! 君たちは何を待ってるのか。仕事を天に引き受けてでももらいたいのか。そら、ちょうど見てみたまえ。雪が降ってから三日になる。雪は街路を埋め、パリーを泥海にしている。が君たちは何をしてるのか。君たちを泥水の中に放っておく施設にたいしては非難の声をあげている。しかし君たち自身はそれから脱しようとしているか。あきれたことだ。腕を拱いてばかりいて、だれも家の前の歩道を掃くだけの勇気をもっていない。国家も個人もともにその義務を尽くしていない。両者たがいにとがめ合って責を免れたと思っている。君たちは数世紀間の君主主義的教育のため、自分自身で何にもしないことに馴れきっていて、奇跡を待ちながらいつもぼんやり天を仰いでるような様子だ。がここに可能な唯一の奇跡は、君たちが行動の決意をするということだろう。ねえオリヴィエ、君たちはたくさんの知力と美徳とをもっている。しかし血が君たちには不足している。第一に君には不足している。君たちのうちで病衰してるものは、精神でも心でもない。それは生命なんだ。生命が逃げ去りかけてるんだ。",
"しかたないさ。生命がもどってくるのを待つよりほかはない。",
"生命がもどってくるのを欲しなければいけない。意欲することが必要なのだ。そしてそのためにはまず、自分の家に清い空気をはいらせなければいけない。家から外に出たくないときには、少なくとも家を健全にしておかなければいけない。君たちは市場の悪い空気で家を毒されるままにしている。君たちの芸術と思想とは三分の二以上悪変させられてる。そして君たちは意気沮喪のあまり、もうそれを憤ろうともしないし、ほとんど驚こうともしない。気おくれがしてるそれらのばかな善人らのうちには、自分らのほうが誤りで欺瞞者どものほうが正当だと、ついに思い込んでしまってる者さえある。何物にも欺かれていないと公言してる君のイソップ誌の連中のうちにも、愛してもいない芸術を愛してると思い込んでる憐れな青年らに、僕は出会った。彼らはうれしくもないのにただ順従の念から酔っ払ってる。そしてその虚偽のうちに倦怠しきっている。"
],
[
"たいへん厭気がさしていられますね。しかしアフリカでは、あなたはやはり無頼漢らと接していられたじゃありませんか。",
"いやそのことなら、僕はそれほど厭ではなかった。それにいつでもやっつけてやれた。そのうえ、戦うには兵士どもが必要だ。あちらでは僕は部下の狙撃兵をもっていた。しかしこちらでは一人きりです。",
"それでも善良な人に乏しかありません。",
"ではどこにいるんです?",
"どこにでもいます。",
"そんなら、その連中は何をしてるんです?",
"あなたと同様に、何にもしていませんし、しかたがないと言っています。",
"とにかく一人だけでも名ざしてごらんなさい。",
"お望みなら三人ほど名ざしましょうか。しかもあなたと同じ家にですよ。"
],
[
"奴らこそフランスを害したのだ。",
"しかし彼らはあなたと同じくフランスを愛しています。",
"それじゃ狂人だ、有害な狂人だ。",
"敵をも正当に批判してやれないものでしょうか。",
"公然たる武器をもって戦う公正な敵となら、僕は完全に理解し合える。その証拠にはドイツ人たる君と僕はこのとおり話し合っています。われわれが受けた打撃に利子をつけて他日返報してやろうと思ってるから、僕はドイツ人を大事にしている。しかし他の敵は、内部の敵は、同じわけにはゆかない。彼らは不正な武器を、不健全な理屈を、毒のある人道主義を、使用している……。",
"なるほどあなたは、初めて火薬に出会った中世の騎士たちと、同じ精神状態にいるんですね。やむを得ないことではないですか。戦争は進化してゆくものです。",
"よろしい。それじゃ直截に言って、戦争だということにしよう。",
"それでもし共通の敵がヨーロッパを脅かすとしたら、あなたがたはドイツと同盟しませんか。",
"僕たちはシナでそれをやった。",
"ではあなたの周囲を見てごらんなさい。あなたの国は、わがヨーロッパの各国は、その民族の勇壮な理想主義を、現在脅かされてはしないでしょうか。みな多少とも政治や思想の山師どもの餌食となってはしないでしょうか。その共通の敵に反抗してあなたは、ある精神力をもってる敵と協力すべきではないでしょうか。あなたのような人が、どうしてそんなに現実の問題を軽視されるのですか。あなたがたに対抗して異なった理想を主張してる人たちもいます。ところが理想は一つの力であって、あなたがたもその力を否定することはできません。あなたがたが最近なされた戦いにおいては、敵の理想からあなたがたは打ち敗られたのです。けれども、その敵の理想に対抗して自分を疲らすよりも、あらゆる理想の敵に対抗して、祖国を利用する奴らに対抗して、ヨーロッパ文明を腐敗させる奴らに対抗して、なぜあなたがたは自分の理想と敵の理想とを併せ用いないのですか。",
"だれのためにです? まず事情を明らかにしておかなければならない。われわれの敵に勝利を得させるためにですか。",
"あなたがたがアフリカにおられたときには、戦ってるのは国王のためにだかもしくはフランス共和国のためにだか、それを知ろうと懸念されはしなかったでしょう。私の想像するところでは、あなたがたの多くはフランス共和国のことをほとんど考えてもいられなかったでしょう。",
"そんなことは気にもかけていなかった。",
"そうです! そしてそれがフランスのためになったのです。あなたがたは、フランスのために、そしてまたあなたがた自身のために、征服なすったのです。そこで、この国内でも、同様になさい。戦いの範囲をお広げなさい。政治や宗教などの些事のために指弾し合ってはいけません。それは取るに足らぬ事柄です。あなたがたの民族が、教会の嫡流であろうと理性の嫡流であろうと、それは大したことではありません。生きることが必要です。生をさかんならしむるものはすべていいものです。世にあるただ一つの敵は、生の泉を涸らし汚す享楽的な利己主義です。力をさかんにし、光明をさかんにし、豊かな愛を、犠牲の喜びを、さかんになさい。他人から代わって活動してもらってはいけません。活動なさい、活動なさい、団結なさい、さあ!……"
],
[
"クラフト君、君はまったく元気な男だ。君がわれわれの仲間でないのは残念なことだ。",
"いや僕はあなたがたの仲間ですとも。どこへ行ったって同じ戦いです。列を固めようじゃないですか。"
],
[
"君は一個のクリストフとなってる。",
"それがなんで他人のためになるのか。",
"大いにためになるさ。だがクリストフ、君はただ君自身でありたまえ。僕たちのことに気をもまないようにしたまえ。"
],
[
"そしてなんとおっしゃっていましたか。",
"この畜生め!……と言っていらしたわ。でもそれを手放しかねていらっしゃるのよ。"
],
[
"なあに、だれかが始めなければなりません。そのだれかは、われわれであるべきです。われわれはいつもまっ先でした。合図を与えるのはわれわれの役目です。",
"そしてもし他の人々が歩き出さなかったら?",
"いや歩き出します。",
"君たちには契約とか予定の計画とかいうようなものがあるのですか。",
"なんで契約なんかの必要がありましょう。われわれの力はあらゆる外交術よりもまさっています。",
"いやこれは観念上の問題ではなくて、戦略の問題です。もし君たちが戦争を絶やそうと望むならば、戦争からその方法を借りてくるがいいです。両国内での作戦計画をたてるべきです。一定の日にフランスとドイツとで、君たちの連合軍が其々の行動をすると、きめてかかるべきです。その時々の気まぐれな行動ばかりしていては、なんでりっぱな結果が得られよう。こちらにはただ偶然があるきりで、向こうには組織だった巨大な力が存している――その結果はわかりきっています。君たちはやっつけられるばかりです。"
],
[
"君は僕たちと戦うつもりだったのか。",
"それは僕にもわからない。そんなことは考えたことがない。",
"しかし君は心の中で決心していたじゃないか。"
],
[
"そうだ。",
"僕を敵として?",
"君をではけっしてない。君は僕の味方だ。僕がどこに行こうと、君は僕といっしょなんだ。",
"しかし僕の国を敵としてだろう?",
"自分の国のためにだ。"
],
[
"われわれの運命は、われわれが本来あるべきものになるということだ。たとい危険が伴おうとも、われわれが何か考えたり考えなかったりするのは、われわれ自身の力でどうにでもなることではない。われわれは文明のある段階に達してるので、もうあとに引き返すことはできない。",
"そうだ、君たちは文明の高台の先端に達している。そこまで達した民衆はみな下に身を投じたくてたまらなくなる、危険な場所なのだ。宗教と本能とが君たちのうちでは衰えてしまってる。君たちは知力だけになっている。危い瀬戸ぎわだ。死が来かかっているのだ。",
"死はどの民衆にもやってくる。それはただ世紀の問題だ。",
"君は世紀を馬鹿にするつもりなのか。生全体が時日の問題じゃないか。過ぎ去る各瞬間を抱きしめないで、絶対的なもののうちにはいり込むとは、君たちもよほど馬鹿げた抽象家なんだ。",
"しかたないさ。炎は松明を燃やし去ってゆく。人は現在と過去とに共に存在することはできないからね、クリストフ。",
"現在に存在しなければいけない。",
"過去にある偉大なものであったということも、りっぱなことだ。",
"それは現在にもなお生きた偉大な人々があってそのことを鑑賞するという条件でこそ、りっぱなのだ。",
"それでも、今日つまらなく生きてる多くの民衆のようであるよりも、死んだギリシャ人であることのほうを、君は好みはしないのか。",
"僕は生きたるクリストフでありたい。"
]
] | 底本:「ジャン・クリストフ(三)」岩波文庫、岩波書店
1986(昭和61)年8月18日改版第1刷発行
入力:tatsuki
校正:伊藤時也
2008年1月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "042596",
"作品名": "ジャン・クリストフ",
"作品名読み": "ジャン・クリストフ",
"ソート用読み": "しやんくりすとふ",
"副題": "09 第七巻 家の中",
"副題読み": "09 だいななかん いえのなか",
"原題": "JEAN-CHRISTOPHE",
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"公開日": "2008-03-15T00:00:00",
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[
[
"どんな評論ですか。",
"まだお読みになりませんか。"
],
[
"君はあの評論を読んでいないんだね。",
"読んだとも。そして君自身はよく読んでみたのか。",
"読んだ……と言っても、ちょっと見ただけだが、その隙がなかったんだ。",
"じゃあ、少し読んでみたまえ。"
],
[
"確かかね。",
"ああ。くよくよするなよ。"
],
[
"なんだって! そんな奴らをベートーヴェンは蹴飛ばしてやるに違いない。",
"じゃあ君もそうするさ。"
],
[
"ほんとにしようがないね。",
"監禁でもされなくちゃ……。だが、誓ってこれでおしまいだよ。",
"そうだ、このつぎまではね……。",
"いやこれっきりだ。"
],
[
"ああしまった!",
"またどうかしたのか。",
"扉を閉めながら言ってやった……。",
"なんと?",
"帝王の言葉を。",
"帝王の?",
"そうだ、でなけりゃ、それに似寄った者の言葉を……。",
"困ったもんだね。明日になってみたまえ、第一ページに出てるよ。"
],
[
"私幸福になれましょうかしら。ねえ、叔母さま、幸福になれましょうかしら?",
"私にはわかりませんね。でもそれはいくらかお前さんしだいですよ……。幸福になろうと思えば、人はいつでも幸福になれます。"
],
[
"ええ。",
"嘘? ほんとう? 幸福でいらして?",
"お前さんはそう思いませんか。",
"思ってますわ。でも……。"
],
[
"なあに?",
"私は幸福になりたいんですけれど、叔母さまのような幸福にはなりたくありませんの。"
],
[
"でもどういうふうにだかは自分にもわからないでしょう。",
"自分の望みははっきりわかっていますわ。"
],
[
"いいえ叔母さま、好きな人のことだけを言ってるのよ! 他のものはどうでもいいんですわ。",
"そしてお前さんがだれも愛していないとしたら?",
"まあそんなことが! いつでも、いつでも、愛するものはありますわ。"
],
[
"そしてだれも私を愛してくれませんでしたら?",
"人が愛してくれなくても同じです。お前さんはなおいっそう幸福になるでしょう。"
],
[
"私たちは亡くなった二人の人を愛しましょう、その二人はたがいに愛し合ってるでしょうから。",
"ああお二人とも生きていらしたら!",
"生きていますよ。"
],
[
"だって、ジャックリーヌが貧乏でないからといって、僕はいまさら愛しやめることもできないし、また僕にたいする愛のために、無理に貧乏にならせることもできないからね。",
"それじゃ、彼女を救うことができないとしても、せめて自分自身を救いたまえ。そしてそれはまた、彼女を救うもっともいいやり方なのだ。自分の純潔を保ちたまえ。働きたまえ。"
],
[
"なあに?",
"こちらへ来ないかい?",
"行きますわ。"
],
[
"私の親愛なオリヴィエ……。",
"僕の親愛なジャックリーヌ……。",
"立ち去るのは切ない気がします。",
"どこから立ち去るのが?",
"私たちが愛し合った土地から。",
"どこへ向かって?",
"私たちが年老いる所へ。",
"僕たちが二人で暮らす所へ。",
"けれどもうあんなに愛し合えはしませんもの。",
"なおいっそう愛し合うのだ。",
"どうだかわかりませんわ。",
"僕にはわかっている。",
"私もそう願いたいわ。"
],
[
"ごめんください。私は彼が人から悪く言われやすまいかといつもびくびくしてるんです。かわいそうに、彼も僕同様に苦しんでいます……。まったく僕たちはもう会わないんです。",
"手紙もまいりませんか?"
],
[
"以前は愛し合ったのに、もう愛し合わなくなる。それが何かのためになりましょうか。",
"愛し合っただけでいいんです。"
],
[
"そしてあなたは女ですよ。",
"女なんて大したことじゃありません。"
],
[
"自分で自分の身を守らなければいけません。",
"そしたら、親切なんか長つづきはしませんよ。",
"それは人が親切を十分にもっていないからです。",
"おっしゃるとおりかもしれませんわ。そしてまた、あまり苦しんでもいけませんわね。度が過ぎると、魂が干乾びてしまいますのね。"
],
[
"いいお婆さんね。あなたは仕合わせですわね。",
"でも、もう亡くなったんです。",
"そんなことは構いませんわ。とにかくこんなお母さんがあったんですもの。",
"ではあなたは?"
],
[
"いえ、あなたのことを話してください。私にきかしてくださいよ……何か身の上のことを……。",
"そんなことをきいてどうするんです?",
"いいから話してちょうだいよ……。"
],
[
"お知らせするんですって、あなたに来ていただくために! そんなことをするものですか。",
"きっとあなたは、僕のことなんかは考えもしなかったんですね。"
],
[
"あきらめきってるんですね。",
"あきらめ? いえ私はそれがどんなことだかも知りませんわ。私ただ歯をくいしばって、自分を苦しめてる病気を憎んでやるんですの。"
],
[
"ああその言葉は、パリーの言葉じゃないわ。結構よ。私にはあなたがわかってるわ。さあ、顔をお見せなさいな。蒲団の上で泣いちゃ厭ですよ。",
"許してくれますか。",
"許してあげるわ。けれどもう繰り返しちゃいけませんよ。"
],
[
"そして今日は?",
"今日は、すっかり若々しく新しくなった気がしますの。自分の周囲の若々しく新しく思えるものはなんでも――ちょうどあなたみたいなものはなんでも、なつかしい気がしますの。",
"でも僕はもう若々しくも新しくもありませんよ。",
"いいえあなたは死ぬまでそうでしょうよ。"
],
[
"明日になって疲れますよ。",
"私馴れていますの。でもあなたこそ……。明日のお仕事は?",
"明日は隙です。十一時ごろちょっと稽古をしてやるだけで……。それに僕は丈夫です。",
"だからなおさらよく眠らなければいけないんでしょう。",
"そうです。僕はぐっすり眠りますよ。どんな苦しいことがあっても、眠られないということはありません。あまりよく眠るんで、時には癪にさわることさえあります。それだけ時間が無駄になりますからね……。一度睡眠に仕返しをして徹夜してやるのが、うれしくてたまらないんです。"
],
[
"あなたはまったく楽観的ね。パングロス先生だわ。",
"彼らだって僕と同じく人間なんだ。どうして僕を理解しないということがあろう?――そして、たとい彼らが僕を理解してくれなくても、それで僕は絶望するものか。あれら無数の人々のうちには、僕と心を共にするような人が、常に一、二人はいるだろう。それで僕には十分だ。外界の空気を呼吸するには一つの軒窓で十分だ……。あの無邪気な観客たちのことを、若者たちのことを、誠実な年老いた魂たちのことを、考えてもみたまえ。彼らは君が示してやる悲壮な美に接すると、自分の凡庸な日々を超脱するじゃないか。また子供のおりの君自身を思い起こしてみたまえ。かつて人が自分になしてくれた幸福と善とを他人に――たとい一人にでも――なしてやるのは、いいことではないか。",
"あなたはそういう人がほんとに一人でもいると思っていて? 私はもう疑わないではおれなくなったのよ……。それに、私たちを愛してくれる者のうちでいちばんよい人たちでさえ、どういうふうに私たちを愛してくれてるでしょうか。どういうふうに私たちを見てくれてるでしょうか。いけない見方をしてはしないでしょうか。人を辱めるような賞賛の仕方をしてるわ。どんな大根役者が演ずるのを見ても、やはり同じようにうれしがってるわ。軽蔑すべき馬鹿者と同様に私たちを取り扱ってるわ。あの連中の眼には、成功しさえすればだれでも同じものに見えるのよ。",
"それでも、皆のうちでもっとも偉大な人々こそ、もっとも偉大な人として、後世に残るものだ。",
"それは距離のせいよ。山は遠くなるほどなお高く見えるものよ。そういう人たちの偉さはよくわかるけれど、それだけ遠く離れてるわけだわ……。それにまた、彼らこそもっとも偉い人たちだとだれが言えるでしょう? その他のもう死んでしまってる人たちについては、あなたは何を知っていて?"
],
[
"いくら骨折っても駄目なことよ。骨折るだけの価値もないわ。そういう力強い作品も一度舞台にかかると、その偉大な詩を失って、虚偽なものになってしまうのよ。観客の息がそれをしなびさしてしまうのよ。息苦しい都会の臭い巣の中にいる観客は、広い大気や自然や健全な詩というものが、どんなものだかもう知ってやしない。あの人たちに必要なのは、私たちの顔みたいに塗りたてた詩ばかりよ。――ああ、そのうえ……そのうえ、なお、成功したとしても……それだけでは生活が満たされやしないわ、私の生活が満たされやしないわ……。",
"君はまだやはり彼のことを考えてるんだね。",
"だれのこと?",
"わかってるじゃないか。あの男のことさ。",
"そうよ。",
"だが、たとい君がその男を手に入れたとしても、またその男が君を愛してくれたとしても、実際のところ、君はまだ幸福にはなれないだろうし、苦しみの種をいくらも見つけるだろうよ。",
"まったくよ……。いったい私はどうしたんでしょう?……ねえ、私はあまり戦って、あまり自分を苦しめて、もう落ち着きを取りもどすことができず、自分のうちに不安をもってるのね、何か熱病を……。",
"そんなものは、困難をなめない前にも君のうちにあったはずだ。",
"そうかもしれないわ……そう、小さな娘の時分からもう……私はそれに苦しめられてたのよ。",
"いったい何を君は望んでるの。",
"わからないわ。自分にできる以上のことをでしょう。"
],
[
"でもあなたは、もう一人前の男になっていてよ。私はいつまでたっても若者に違いないわ。不完全な者だわ。",
"だれだって完全な者はないさ。自分の力の範囲を知ってそれを愛することが、すなわち幸福というものだ。",
"私にはもうできなくてよ。その範囲から出てしまったんだもの。私は生活に痛められ疲らされ駄目にされてるのよ。それでも、皆の連中のようでなくて、普通の健全な美しい女になることもできたかもしれないと、そんな気がするのよ。",
"君は今でもまだなることができる。僕にはそういう君の姿がよく眼に見える。",
"ではどんなふうにあなたの眼に映ってるか、それを言ってちょうだいね。"
],
[
"僕の作品が僕のものではないんだって?",
"もうあなたのものではありません。あなたは私に売られたでしょう。",
"馬鹿なことを言っちゃいけない! 僕は原稿を売ったのだ。君はそれで勝手に金をこしらえたまえ。しかし原稿の上に書かれてるものは、僕の血なんだ、僕のものなんだ。",
"あなたはすべてを売られたのです。この作品の代わりに、私は三百フランお渡ししました。すなわち、原書が一部売れるに従って三十サンチームの割で、ちょうど限度です。それによってあなたは、あなたの作品についてのすべての権利を、なんらの制限も保留もなしに私へ譲られたのです。",
"作品を破壊する権利をも?"
],
[
"もどっていらして?",
"今朝やって来ました。『クリストフ、助けてくれ!』と言うんです。僕は抱擁してやりました。泣いていました。『僕にはもう君だけだ、彼女は行ってしまった、』と彼は言いました。"
],
[
"ああ、クリストフさん、何をおっしゃるんです! あまりひどいことじゃありませんか。",
"ええ、それは僕にもわかっています、あなたがたには殺すということが、歴史以前の野蛮行為のように思われるでしょう。このパリーのきれいな人たちは、牡が自分を裏切った牝を殺そうとする畜生的な本能にたいして、いろいろ抗弁して、寛大な理性を説くんですね。なるほどりっぱな使徒です! この雑種の犬どもの群れが、動物性への逆転を憤るのは、実にりっぱな見物ですよ。彼らは生活を侮ったあとに、生活からその価値をすべて奪い去ったあとに、宗教的な崇拝で生活を包むのです……。心情も名誉もない生活、単なる物質、一片の肉体の中の血液の鼓動、そんなものが彼らには尊敬に催するのだと思えるのでしょう。すると彼らはあの肉屋の肉にたいして、十分敬意を払っていませんね。それに手を触るるのは一つの悪罪でしょう。魂を殺すなら殺すがいい、しかし身体は神聖なものだとでも……。",
"魂を殺すのはもっとも悪い殺害です。けれども、罪は罪を許しません。あなたもそのことはよく御存じでしょう。",
"知っています。あなたの言われることは道理です。僕はよく考えもせずに言ってるのです……。けれど、おそらく僕はそのとおりのことをやりかねないんです。",
"いいえ、あなたは自分で自分をけなしていらっしゃるのですよ。あなたはいい人ですもの。",
"僕は熱情に駆られると、やはり他人に劣らず残酷になります。ねえ、僕は先刻どんなにか怒ってたでしょう!……自分の愛する友人が泣くのを見ては、彼を泣かしてる者をどうして憎まずにいられましょう? 子供をも見捨てて情夫のあとを追っかけていった浅ましい女にたいしては、いくら苛酷にしてやってもまだ足りないではないでしょうか。",
"そんなふうにおっしゃるものではありません、クリストフさん。あなたにはよくわからないのです。",
"えッ! あなたはあの女の肩をもたれるのですか。",
"私はあの女をお気の毒に思います。",
"僕は苦しんでる人たちをこそ気の毒だと思うんです。人を苦しめる奴らを気の毒だとは思いません。",
"じゃああなたは、あの女もやはり苦しんだとはお考えになりませんか。単に浮気のせいで、子供を捨てたり生活を破壊したりされたのだと、お思いになりますの。あの女自身の生活も破壊されたのではありませんか。私はあの女をあまりよくは知りません。お目にかかったのも二度きりで、それもほんのついでにだったんです。私に親しい言葉もおかけになりませんでしたし、同情ももっていられませんでした。それでも私は、あなたよりもよくあの女の心を知っています。悪い方でないことを確かに知っています。かわいそうな方ですわ。あの女の心中にどういうことが起こったか、私には察しられます……。",
"りっぱな正しい生活をしていられるあなたに!……",
"ええ私に。あなたにはわからないのです。あなたはいい方だけれど、男ですもの。やさしくはあっても、みんな男の人と同じように、やはり頑固なのです――自分以外のものには少しも察しがないのです。あなたがた男の人は、自分のそばにいる女の心を、夢にも御存じありません。自己流に女を愛してはいらっしても、少しも女を理解しようとはされません。たやすく自分だけに満足していられるのです。あなたがたは私たち女のことを知ってると思い込んでいられますけれど……ああ、私たちにとっては、あなたがたから少しも愛せられていないということではなく、どんなふうに愛せられてるかということ、私たちをもっともよく愛してる人たちにとって私たちがなんであるかということ、それを見るのが時としてはどんなに苦しいか、あなたがたに知っていただけさえしましたら! クリストフさん、時によりますと、『愛してくださいますな、愛してくださいますな、こんなふうに愛してくださるよりも、他のことのほうがどんなことでもまだよろしいのです、』という叫び声を押えるためには、爪が手のひらにくい入るほど拳を握りしめて我慢しなければならないこともあります……。あなたはある詩人のこういう言葉を御存じですか。『自分の家にいてさえも、子供たちの間にいてさえも、女は虚偽の名誉にとり巻かれ、極悪な悲惨よりもはるかに重い軽蔑を堪え忍ぶ。』そのことを考えてごらんなさい、クリストフさん……。",
"驚いたことを言われますね。僕にはよくのみ込めません。けれどなんだか少しは……ではあなた自身も……。",
"私はそういう苦しみを知りました。",
"ほんとうですか?……だがそんなことはどうでもいいです。あなたがあの女と同じようなことをされようとは、僕にはけっして信じられません。",
"私には子供がありませんよ、クリストフさん。あの女の身になったらどんなことをしたかわかるものですか。",
"いいえ、そんなことはありません。僕はあなたを信じています。あなたを尊敬しすぎてるくらいです。そんなことはないと僕は誓います。",
"誓えるものではありません。私もあの女と同じようなことをしかかったことがあります……。あなたからよく思っていただいてるのを打ちこわすのは、心苦しいことですけれど、あなたも、誤った考えをいだくまいと望まれるなら、私たち女のことを少しお知りにならなければいけません。――まったくです、私はあの女と同じような馬鹿げたことを危うくするところでした。そして私がそれをしなかったのも、多少はあなたのおかげです。ちょうど二年前のことでした。私はそのころ、悲しみに身を噛まれるような心地がしていました。いつもこう考えていました、私はなんの役にもたたない、だれも私に注意をしてはくれない、だれも私を必要としてはいない、夫でさえも私なしで済ましてゆけるだろう、私が生きたのも無駄であった……と。そして私は逃げ出そうとしました、なんだか馬鹿げたことをしようとしました。あなたのところへ上がって行きました……。覚えていらっしゃいますか?……あなたはなんで私がやって来たのかおわかりになりませんでした。私はお別れにまいったのでした……。それから、どんなことになったか私は存じません。どんなことをあなたがおっしゃったか知りません。もうはっきり思い出せないのです……。けれどたしかに、あなたに何か言われました……(御自分ではお気もつかれなかったのでしょうが)……その言葉が私にとっては一筋の光明でした……。まったくその瞬間には、ほんのわずかなことで、私は駄目になるか救われるかする場合だったのです……。私はあなたのところから出て、自分の室に帰り、閉じこもって、一日じゅう泣きました……。それからはすっかりよくなりました。危機は通り過ぎてしまったのです。"
],
[
"ではあなたは幸福なんですね。",
"ええ、この世で人が幸福になり得られるだけの程度には。まったくのところ、おたがいに理解し合い尊重し合って、おたがいに信じてることをよく知ってる夫婦というものは、世にはめったにありません。それも、多くは幻にすぎない単なる愛の信念からではなくて、いっしょに過ごした長年の経験から、陰鬱な平凡な長年の経験から、そうなったのでして、打ち勝ってきたいろんな危険の思い出がありながらも――いえ、ことにその思い出があるので、いっそうそうなってゆくのです。そして年取るに従って、それはますますよくなってゆくものなんです。"
],
[
"お話ししてはいけなかったのですけれど……でも、ただ私はあなたに見せてあげたかったのです。よく一致してる家庭のうちにも、女……クリストフさん、あなたが尊重していられるような女たちのうちにも、あるときには、あなたがおっしゃるような心の迷いばかりではなく、真実な堪えがたい苦しみがあるものです。その苦しみは、人を馬鹿げた行ないに導いて、一つの生活を、二つの生活をも、破壊してしまうものです。あまりきびしい判断をしてはいけません。人はもっとも深く愛し合ってるときでさえ、たがいに苦しめ合うものなんです。",
"それでは、各自別々に生きなければならないのでしょうか。",
"そんなことは、私たち女にとってはなおさらいけないのです。一人で暮らして男のように(そしてたいていは男にたいして)戦わなければならない女の生活は、そういう思想に適していないこの社会では、そして大部分そういう思想に反対してるこの社会では、恐ろしいことなんです……。"
],
[
"けれども、それは女のせいではありません。女がそういう生活をする場合には、気まぐれでするのではなくて、やむを得ずするのです。パンをかせぎ出さなければなりませんし、男なしで済ましてゆくことを覚えなければなりません。なぜなら、女は貧乏なときには、男から求められないものですから。そして女は孤独な生活を強いられ、しかもその孤独からなんの利益も得はしません。というのは、男のように無邪気に自分の独立を楽しんでいますと、きっと醜聞をこうむるのですから。何もかも女には禁ぜられています。――私のお友だちに、地方で中等教員をしてる女が一人あります。たとい空気の通わない牢屋の中に閉じこめられても、これほど孤独で息苦しくはないだろうと言っています。中流社会の人たちは、自分で働いて生活しようとつとめる、こういう女たちに向かって、戸を閉ざしてしまいます。彼らは疑い深い軽蔑の念を投げかけます。彼女たちのちょっとした行ないもみな、悪意ある眼でながめられます。男子の学校の同僚たちは、町の陰口を恐れてか、あるいはひそかな反感か粗野な気質からか、彼女たちを常にのけものにして、珈琲店に入りびたって淫らな話にふけったり、一日の仕事に疲れはてていたり、知識階級の女に飽き飽きして嫌悪の念をいだいたりしています。そして彼女たちも、もう辛抱ができなくなります。ことに学校にいっしょに住まわせられるときにそうです。彼女たちの若いやさしい魂は、その無味乾燥な職業と非人間的な孤独の生活とをしていると、間もなく落胆させられてしまいますが、校長はたいていの場合、そういう魂をほとんど理解しません。彼女たちを助けようともしないで、人知れず悶えるまま放っておきます。高慢な人たちだと考えるのです。そしてだれも彼女たちに同情する者はありません。財産と手蔓とがないので、彼女たちは結婚することもできません。働くことに追われてばかりいるので、知的生活を営んでそれに愛着し慰められることもできません。宗教的なあるいは道徳的な特別の感情――(私は異状の病的の感情とも言いたいくらいです、なぜなら、全然自分をささげてしまうということは自然ではありませんから)――そういうある感情から、右のような生存が支持されないおりには、それは生きながらの死と同じです。――精神を働かすことがないからというので、慈善をやってみたところで、それが女に何かの助けをもたらすでしょうか。公の慈善や世間並みの慈善、博愛的な談話会、軽薄や親切やお役所風などが変に混ざり合ったやり方、情事の合い間に困窮を相手にしてしゃべり散らすふざけたやり方、そんなことで満足するにはあまりに真面目な魂をもっている女たちは、慈善ということからどんなに多くの苦い味をなめさせられることでしょう! もしそれに嫌気を起こして無謀にも、単に聞きかじっただけの困窮のまん中へ一人で飛び込んでゆくとしましたら、まあなんという光景に出会うことでしょう! ほとんど我慢できない光景です。それはまったく地獄です。それを救うために何ができましょう? 彼女自身その不幸の海のなかにおぼれてしまいます。それでもなお戦って、幾人かの不幸な人たちを救おうとつとめ、その人たちのために自分を疲らしてしまい、いっしょにおぼれるだけのことです。一人か二人かを救い得るとしたら、この上もない幸いです。けれども、その彼女のほうは、だれが救ってくれるでしょうか。だれが彼女を救おうと気をもんでくれるでしょうか。彼女自身が、他人や自分のあらゆる苦しみを苦しんでるではありませんか。彼女は他人に信仰を与えるに従って、自分には信仰が少なくなります。悲惨な人たちはみな彼女に必死としがみついてきます。そして彼女は何にもすがるものをもちません。だれも彼女に手を差し出してはくれません。そして時とすると、石を投げられることさえあります……。クリストフさん、あなたも御存じでしょう、もっとも謙遜なもっとも価値のある慈善事業に一身をささげたあの感心な婦人を。彼女は、子供を産んだ宿なしの売笑婦たちを、貧民救助会から顧みられもしないし、また向こうでもそれを恐れる不幸な女たちを、自分の家に引き取りました。そして、彼女たちを肉体的にも精神的にも癒してやろうとつとめ、子供といっしょに引き留めようとつとめ、母親の感情を呼び覚ましてやろうとつとめ、一つの家庭を、正直に働く生活を、立て直してやろうとつとめました。けれども彼女は、悲しみや苦しみに満ちてるその陰鬱な仕事にたいして、十分の力をもってはしませんでした。――(救ったのはごくわずかな人数です。救われることを願ってたのはごくわずかな人数です。それにどの子供もみな死んでしまいます。罪のない子供ですが、生まれながら不幸な運命をになってるのです……。)――そして、他人の苦しみをすべて一身に引き受けたその婦人が、人間の利己心の罪をみずから進んで贖ったその潔い婦人が、クリストフさん、人からどう判断されたとお思いになりますか? 意地悪な世間は彼女をとがめて、その事業から金を儲けてるのだと言ったり、保護してやった女どもから金を儲けてるとさえ言ったのです。彼女は力を落としてしまって、その町から立ち去らなければなりませんでした……。――独立した婦人たちが現在の社会となさなければならない戦いが、どんなに残酷なものであるかは、とてもあなたには想像もつきますまい。保守的な無情な現在の社会は、自分で死にかかっていまして、残ってるわずかな元気を、他人の生きるのを妨げることばかりに費やしているのです。",
"でもそれは、婦人ばかりの運命ではありません。われわれ男のほうもみなそういう戦いを知っています。そして僕はまた避難所をも知っています。",
"どんな?",
"芸術です。",
"それはあなたがたにはいいかもしれませんが、私たち女には駄目です。そして男のうちでさえ、芸術を利用できる人がどれだけありましょう?",
"あのセシルをごらんなさい。幸福ですよ。",
"あなたにはそれがわかるものですか。ほんとにあなたは早合点ばかりなさるんですね。あの女が元気だからといって、いつまでもぐずぐず悲しんでいないからといって、悲しみを他人に隠してるからといって、それであなたはあの女が幸福だとおっしゃるのでしょう。もとよりあの女は、身体も丈夫だし戦うこともできますから、幸福には違いありません。けれどあなたはあの女の戦いがどんなものだか御存じありません。人を欺きやすい芸術生活にあの女が適してると思っていられるのですか。芸術! 書いたり演じたり歌ったりする光栄を、幸福の絶頂かなんかのようにあこがれてる憐れな女たちがいることを、考えてもみますと!……彼女たちにはあらゆるものがかなり不足してるに違いありませんし、もう自分ではどういう愛情に身を委ねてよいかわからないに違いありません……。芸術、もしもその他のいっさいのものを共にもっていないならば、芸術も何になりましょう? 他のことをすっかり忘れさせるようなものは、世の中にただ一つきりありません、それはかわいい子供です。",
"そして、子供があってさえ、まだ十分ではないじゃありませんか。",
"ええ、いつでもというわけにはいきません……。女というものはあまり幸福ではありません。一人前の女であることはむずかしいことです。一人前の男であるよりもずっとむずかしいことです。あなたには十分おわかりになりますまい。あなたがたは、精神的な熱情に、なんらかの活動に、没頭されることができます。不具になっても、そのためにかえって幸福になることができます。ところが健全な女は、苦しまなければ幸福にはなれません。自分自身の一部を窒息させるのは非人間的なことです。私たちは一方で幸福な場合は、他方で後悔しています。私たちは多くの魂をもっています。があなたがたには、一つの魂があるきりです。それも、女の魂よりずっと強くて、たいてい乱暴で、怪物じみてさえいます。私はあなたがたに敬服しております。けれどあまり利己的であられてはいけません。あなたがたは自分で気づかずにひどく利己的です。あなたがたは女にたいして、自分で気づかずに多くの悪を行なっていられます。",
"だってしかたありませんよ。それはわれわれのせいではないんです。",
"ええ、あなたがたのせいではありませんとも、クリストフさん。あなたがたのせいでもなければ、私たちのせいでもありません。つまりは、生活というものがけっして単純なものでないからです。自然な生活をするばかりだ、という人もあります。けれども、いったいどんなことが自然なのでしょう?",
"まったくです。われわれの生活には自然なものは何もありません。独身も自然ではありません。結婚も自然ではありません。そして自由結婚は、弱者を強者の貪食に任せるばかりです。われわれの社会そのものからして、自然なものではありません。われわれの手でこしらえ上げたものです。人間は社交的動物だと言われていますが、なんという馬鹿げたことでしょう! 生きるためにそうならざるを得なかったのです。自分を役だたせんがために、自分の身を守らんがために、快楽を得んがために、偉くならんがために、社交的になったのです。そういう必要上、いろんな約束を結ぶようになったのです。しかし自然は反抗して、そうした無理を復讐します。自然はわれわれのためにできてはしません。われわれはその自然を変形させようとします。それは一つの戦いです。われわれのほうがたいてい打ち負かされるのは、驚くに当たりません。これを脱するにはどうしたらいいでしょう?――強者にならなければいけません。",
"善良な者にならなければいけません。",
"そう、善良な者になることです。利己心の胸当てを取り去り、よく呼吸し、人生を、光明を、自分の見すぼらしい仕事を、自分が根をおろしてる一隅の土地を、愛することです! あたかも狭い所にある樹木が太陽のほうへ伸び上がってゆくように、遠い地平に得られないものを、深さや高さにおいて得ようと努力することです!",
"そうですよ。そしてまず第一に、たがいに愛し合うことです。男は女の兄弟であって、女の餌食ではないということや、女は男の餌食であるべきでないということを、男がもっとよく感じようとさえしますならば! 両方でたがいに自分の慢りを投げ捨てて、自分のことをもっと少なく考え相手のことをもっと多く考えようとさえしますならば!……私たち女は弱い者なんです。私たちを助けてくださらなければいけません。つまずいた者に向かって、『俺はもうお前のことなんか知らない、』などと言わないで、『しっかりおしよ、いっしょに抜け出そうよ、』と言っておやりなさらなければいけません。"
],
[
"ああ、僕はまったく憐れな人間なんだ。それを誇りとはしていないが……。まったくだ、情愛が必要で、それをなくすれば死ぬよりほかはない、憐れな人間なんだ。",
"君の生活はまだ終わってはしない。他に愛すべき者がいくらもあるよ。",
"僕はもうだれをも信じない。友もない。",
"おい、オリヴィエ!",
"いや許してくれ。僕は君を疑ってやしない。時とすると、すべてを……自分をも……疑うようなことはあっても……。けれど、君は強者だし、だれをも必要としないし、この僕がいなくても済ましてゆける。",
"彼女のほうが僕よりもいっそうよく、君がいなくても済ましてゆけるさ。",
"君は残酷だね、クリストフ。",
"ねえ君、僕は君をいじめてるよ。しかしそれは君を発奮させるためなんだ。なんということだ! 自分を愛してくれる人たちを犠牲にして、自分をあざけってるだれかに生命をささげるなどとは、実際恥ずべきことだ。",
"僕を愛してくれる人たちも僕に何になろう! 僕は彼女をこそ愛してるのだ。",
"働きたまえ。昔君が興味をもってた事柄は……。",
"……もう僕には面白くないのだ。僕は疲れてる。人生の外に出てしまったような気がする。何もかも僕には、遠く……遠く思われる。いくら見ても、もう何にもわからない……。時計のような機械的な仕事を、無味乾燥な務めを、新聞紙的な議論を、快楽のつまらない追求を、毎日あかずに繰り返してる人々、ある内閣や書物や役者などに夢中になって賛成したり反対したりしてる人々が、世の中にあるかと考えると……。ああ、僕はひどく老い込んだ気がする。僕はもうだれにたいしても、憎しみも恨みも感じない。何もかも嫌だ。何にもないという気がする……。物を書けというのか。なんのために書くのだ? だれが理解してくれよう? 僕がこれまで書いていたのも、ただ一人の者のためにだった。僕がこれまで何かであったのは、すべてその一人の者のためにだった……。もう何にもない。僕は疲れてるのだ、クリストフ、疲れてるのだ。僕は眠りたい。",
"じゃあ眠りたまえ。僕が番をしてあげよう。"
],
[
"どこへいらっしやるのですか。",
"アメリカへまいりますの。夫がそこの大使館の一等書記官に任命されましたので。"
],
[
"これでお別れですか。",
"このままのほうがよろしいと思いますわ。",
"お発ちになる前にもうお目にかかれないでしょうか。"
]
] | 底本:「ジャン・クリストフ(三)」岩波文庫、岩波書店
1986(昭和61)年8月18日改版第1刷発行
入力:tatsuki
校正:伊藤時也
2008年1月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "042597",
"作品名": "ジャン・クリストフ",
"作品名読み": "ジャン・クリストフ",
"ソート用読み": "しやんくりすとふ",
"副題": "10 第八巻 女友達",
"副題読み": "10 だいはちかん おんなともだち",
"原題": "JEAN-CHRISTOPHE",
"初出": "",
"分類番号": "NDC 953",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2008-03-17T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-21T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001093/card42597.html",
"人物ID": "001093",
"姓": "ロラン",
"名": "ロマン",
"姓読み": "ロラン",
"名読み": "ロマン",
"姓読みソート用": "ろらん",
"名読みソート用": "ろまん",
"姓ローマ字": "Rolland",
"名ローマ字": "Romain",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1866-01-29",
"没年月日": "1944-12-30",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "ジャン・クリストフ(三)",
"底本出版社名1": "岩波文庫、岩波書店",
"底本初版発行年1": "1986(昭和61)年8月18日",
"入力に使用した版1": "1986(昭和61)年8月18日改版第1刷",
"校正に使用した版1": "1986(昭和61)年8月18日改版第1刷",
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"底本の親本初版発行年2": "",
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"校正者": "伊藤時也",
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} |
[
[
"淵の中にいる人々へ手を差し出してやらなくちゃいけないのだ。",
"もちろんさ。しかし、どういうふうにするんだい? 自分でその中に飛び込みながらするのか。君が望んでるのはそうじゃないか。君は人生の悲しい方面ばかりしか見たがらない。まあそれもいいだろう。そういう悲観主義はたしかに慈悲深いものだ。しかしそれは人の意気を沮喪させる。人の幸福を計らんとするならば、まず自分で幸福になりたまえ。",
"幸福に! しかしどうして幸福になる気になり得ようか。あんなに多くの苦しみを見るときに! 世の中の苦しみを少なくしようと努めることにしか、幸福はあり得ないのだ。",
"なるほどね。しかし、不幸な人々を助けようとするには、僕はそうやたらに戦ってばかりはいられない。くだらない兵卒が一人ふえたって、ほとんど何にもなりはしない。僕は自分の芸術で人を慰めることができる、力と喜びとを人に伝えることができる。一つの美しいりっぱな歌で、どれだけの惨めな人々が苦しいおりに支持されたか、君は知っているか。人にはおのおのその職業があるのだ。君たちフランス人は、きわめて軽躁で、スペインやロシアなどの縁遠い不正にたいして、問題の底をよく知りもしないでまっ先に騒ぎたてる。僕はそのために君たちが好きなのだ。しかし君たちはそれで事情をよくするのだと思ってるのか。君たちはめちゃくちゃに突進するだけで、結果は少しもあがらない――たまにあがれば、さらに悪い事情になるというくらいのものだ……。見たまえ、君たちフランスの芸術は、芸術家らが一般の実行運動にたずさわろうと主演してる現在くらい、色褪せてしまったことはかつてないじゃないか。享楽的な疲憊した多くの小大家らが使徒だなどとあえて自称してるのは、実におかしなことだ。も少し混ざり物の少ない酒を民衆に注いでやったほうが、はるかによいのだ。――僕の第一の義務は、自分のなしてることをりっぱになすということだ。君たちの血を作り直して君たちのうちに太陽の光を置いてやるべき健全な音楽を、君たちのためにこしらえ出してやるということだ。"
],
[
"そういう人々は助けてやればいい。ごく簡単なことだ。しかし助けることと、今日人がしているように彼らを称揚することとには、遠い隔たりがある。近来、もっとも強い者の忌むべき権利が削減されてきた。しかし僕に言わすれば、もっとも弱い者の権利のほうがなおいっそう忌むべきものであるかもしれない。それは現今の思想を萎靡させ、強者を虐げ利用している。あたかも、病弱で貧乏で愚昧で打ち負けてることが、一つの価値とでもなったかのようだ――強くて健康で打ち勝つことが、一つの不徳とでもなったかのようだ。そしてもっとも滑稽なのは、強者がそれをまっ先に信じてるということだ。……ねえオリヴィエ、喜劇のよい題材ではないか。",
"僕は他人を泣かせることより、自分が人の笑い事になるほうを好むのだ。"
],
[
"いじめられたのかい?",
"ええ。",
"どんなことをされたんだい?"
],
[
"でも、自分自身に幸福を少しもつのもいいことでしょう。",
"忘恩者になってはいけないよ。君はいちばん美しい都会に住んでるし、いちばん驚異に富んでる時代に生きてるんだ。君は愚かではないし、またりっぱな眼をもっている。自分の周囲に見るべきものや愛すべきもののあることを、考えてみたまえ。"
],
[
"ええ。だけど、こんな身体の中にいつも閉じこめられてることを考えると!",
"なあに、それから出られるよ。",
"そして、その時はもうおしまいだ。",
"そんなことが君にわかるものか。"
],
[
"レーネット、ねえ、僕もお前と同じように、神様を信じるよ。",
"ほんとう?",
"ほんとうだ。"
],
[
"君はそれを書くつもりなのか?",
"それって、なんのことだい?",
"君が今ひいたものだよ。",
"僕は何をひいたんだろう? もう自分でも覚えていないが。",
"でも何を考えていたんだい?"
],
[
"ああクリストフ、君のうちに、僕のすぐそばに、たくさん貴いものがあって、他人はそれを君からもらうだろうが、僕はいっこうもらえないかと思うと!",
"そんなことを君、正気なのかい? どうしたというんだい?",
"君はどんな生涯を送るだろうか? どんな危険や試練を君はこれからまだ通るだろうか?……僕は君といっしょになっていたいのだ……。が僕はそんなものを少しも見ないで終わってしまうだろう。僕はぼんやり途中に立ち止まってしまうだろう。",
"ぼんやりと言えば君はぼんやりだよ。君が途中に残ろうたって、僕が君を打ち捨ててでも行くものだと、もしや思ってるんじゃないのかい?"
],
[
"ああ。",
"ではなぜそんな馬鹿なことを言うんだい?"
],
[
"奮発しなくちゃいけない。さあ、起きたまえ。",
"今は駄目。あとで。"
],
[
"さあもう一度話したまえ。",
"大儀だよ。何になるものかね。"
],
[
"クリストフ!",
"え?",
"帰ろうよ。"
],
[
"すぐに出発させなけりゃ駄目だ。僕が連れ出そう。",
"どういうふうにして?",
"カネーの自動車で。向こうの町角にあるから。"
],
[
"承知しやすまい。",
"承知するよ。ジャンナンはもう出発していて、向こうでいっしょになるだろうと、僕が言ってやろう。"
],
[
"一時間もすれば防寨は占領されるよ。晩には君は捕縛される。",
"そして僕が何をしたと言うのか?",
"手を見てみたまえ……。そら!……君の事件は明白だ。許されはしない。君は皆から知られてしまってる。一刻も猶予はできない。",
"オリヴィエはどこにいるんだ?",
"家に。",
"そこへ行こう。",
"行けるものか。警官が入り口で君を待ち受けてる。僕はオリヴィエの頼みで君に知らせに来たんだ。逃げたまえ。",
"どこへ行くんだ?",
"スイスへ。カネーが自動車で連れ出してくれる。",
"そしてオリヴィエは?",
"話してる隙はないよ……。",
"僕はオリヴィエに会わないでは発てない。",
"向こうで会えるよ。明日君といっしょになれる。彼は一番列車で発つんだ。さあ早く! 今くわしく言ってきかしてやるよ。"
],
[
"あなたが私に歌わせなさるのですわ。",
"そうですかね? どうもぴったりはまってる。私が作者であるかあなたが作者であるか、わからないくらいです。であなたはこのようなことを考えてるんですか、あなたが?",
"わかりませんわ。歌うときにはもう自分でなくなると思いますの。",
"でも私には、歌っていられるときだけがほんとうのあなたであるように思われるんです。"
],
[
"どんなことですか。",
"馬鹿げたことですわ。",
"話してください。"
],
[
"では恐くなかったんですね。",
"何が?",
"神の罰を受けるのが。"
],
[
"あなたにはいったい心がないんですか。",
"そんなこと知りませんわ。",
"動物だってわれわれと同様に生物だとは、考えないんですか。"
],
[
"あなたは不思議な動物ですね。けれど、そういうふうに動物との親しみが感じられるのに、どうして動物を害することができるんですか。",
"人はいつでもだれかを害するものですわ。ある者は私を害しますし、私はまた他の者を害します。それが世の掟ですもの。私は不平を言いません。世の中ではくよくよしてはいけません。私は好んで自分自身をも害することがあります。",
"自分自身を?",
"自分自身をです。このとおり、ある日私は金鎚で、この手に釘を打ち込みました。",
"なんのために?",
"なんのためにでもありません。"
],
[
"どうするつもりですか。",
"まあかしてごらんなさい。"
],
[
"待ってるのだ。",
"何を?",
"復活を。"
],
[
"汝はもどってきた、汝はもどってきた! おう、わが失っていた汝……なにゆえに汝はわれを見捨てたのか。",
"汝が捨てた予の仕事をやり遂げんがためにだ。",
"なんの仕事であるか。",
"戦うことだ。",
"なんで戦う必要があるのか。汝は万事の主宰者ではないか。",
"予は主宰者ではない。",
"汝は存在するすべてではないか。",
"予は存在するすべてではない。予は虚無と戦う生である。予は虚無ではない。予は闇夜のうちに燃える火である。予は闇夜ではない。予は永遠の戦いである。そしてなんら永遠の宿命も戦いの上に臨んではいない。予は永遠に闘争する自由なる意志である。汝も予とともに戦い燃えるがよい。",
"われは打ち負かされている、われはもはやなんの役にもたたない。",
"汝は打ち負かされたというか。万事終わったと思うか。それでは他の人々が勝利者となるであろう。汝自身のことを考えずに、汝の軍隊のことを考えてみよ。",
"われは一人きりである。われ自身よりほかにだれもいない。われには軍隊はない。",
"汝は一人きりではない。そして汝は汝自身のものでもない。汝は予が声の一つであり、予が腕の一つである。予のために語りまた打てよ。たといその腕が折れようとも、その声がくじけようとも、予自身はなおつっ立っている。予は汝より他の声と他の腕とをもって戦うのだ。汝はよし打ち負けるとも、けっして負けることのない軍隊に属しているのだ。それを覚えておくがよい。さすれば汝は死んでもなお打ち勝つであろう。",
"主よ、われはこんなに苦しんでいる!",
"予もまた苦しんでいると汝は思わないか。幾世紀となく、死は予を追跡し、虚無は予をねらっている。予はただ勝利によって己が道を開いているのだ。生の河流は予が血で真赤になっている。",
"戦うのか、常に戦うのか。",
"常に戦わなければならないのだ。神といえども戦っている。神は征服者である。呑噬の獅子である。ひしひしと寄せてくる虚無を打倒している。そして戦いの律動こそ最上の諧調である。この諧調は命数に限りある汝の耳には聞き取れない。汝はただその存在を知りさえすればよい。平静に汝の義務を果たして、神のなすところに任せよ。",
"われにはもう力がない。",
"強き人々のために歌えよ。",
"わが声はくじけている。",
"祈れよ。",
"わが心は汚れている。",
"その心を捨て去って、予の心を取れよ。",
"主よ、おのれ自身を忘れるのは、おのれの死せる魂を投げ捨てるのは、訳もないことである。しかしわれは死せる人々を投げ捨て得ようか、愛する人々を忘れ得ようか?",
"汝の死せる魂とともに、死せる彼らを捨て去れよ。汝は生ける彼らを予の生ける魂とともにふたたび見出すであろう。",
"おう、われを見捨てた汝、汝はまたわれを見捨てんとするのか?",
"予は汝をまた見捨てるであろう。それをゆめ疑ってはいけない。ただ汝こそもはや予を見捨ててはならないのだ。",
"しかしわが生が消滅したならば?",
"他の生に火をともせよ。",
"死がわれのうちにあるとするならば?",
"生は他の所にある。いざ、その生に向かって汝の戸を開けよ。己が廃墟に閉じこもっているは愚かである。汝自身より外に出でよ。他にも多くの住居がある。",
"おう生よ、おう生よ! われは悟った……。われはおのれのうちに、空しい閉ざされたる己が魂のうちに、汝を捜し求めていた。わが魂は破れる。わが傷所の窓から、空気は流れ込む。われは息をつき、われはふたたび汝を見出す、おう生よ!……",
"予は汝をふたたび見出した。……口をつぐんで耳を傾けてみよ。"
]
] | 底本:「ジャン・クリストフ(四)」岩波文庫、岩波書店
1986(昭和61)年9月16日改版第1刷発行
※「われは堅き金剛石《ダイヤ》…」以下の冒頭の一節は、底本では、楽譜の図版の下に組まれています。
入力:tatsuki
校正:伊藤時也
2008年1月27日作成
2021年8月17日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "042598",
"作品名": "ジャン・クリストフ",
"作品名読み": "ジャン・クリストフ",
"ソート用読み": "しやんくりすとふ",
"副題": "11 第九巻 燃ゆる荊",
"副題読み": "11 だいきゅうかん もゆるいばら",
"原題": "JEAN-CHRISTOPHE",
"初出": "",
"分類番号": "NDC 953",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2008-03-19T00:00:00",
"最終更新日": "2021-08-19T00:00:00",
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"名読み": "ロマン",
"姓読みソート用": "ろらん",
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"生年月日": "1866-01-29",
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"底本名1": "ジャン・クリストフ(四)",
"底本出版社名1": "岩波文庫、岩波書店",
"底本初版発行年1": "1986(昭和61)年9月16日",
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} |
[
[
"グラチア!",
"あなたもここに!"
],
[
"いえ、ここにいましょうよ。これでけっこうですわ。だれが私たちに注意するものですか。",
"私は自由に話せません。",
"そのほうがよろしいのです。"
],
[
"それでも……。",
"何にも見なかったんです、記念の建物一つも。旅館からまっすぐにあなたのところへ来ましたから。",
"ちょっと歩けばローマは見られますよ……。あの正面の壁を御覧なさい……そこに当たってる光を見さえすればいいんですよ。"
],
[
"ほんとにあなたはわからない人ですね、ご自分の考えしか見ていらっしゃらないんですね。そして何時スイスをお発ちになりましたの。",
"一週間前です。",
"では今まで何をしていらしたんですか。",
"知りません。偶然海岸のある地に止まったんです。どういう所だか注意もしませんでした。一週間眠っていました。眼を開いたまま眠っていたんです。何を見たか自分でも知りません、何を夢みたか自分でも知りません。ただあなたのことを夢みたようです。たいへん愉快だったことを知っています。けれどいちばんいいことには、何もかも忘れました……。"
],
[
"あなたは私がこんなであるのを嫌に思っていらっしゃるでしょうね。でも私を理想化しなすってはいけません。私は女ですし、普通の人よりすぐれたものではありません。私は別に社交界を求めてるのではありませんが、うち明けて申しますと、それがやはり私には快いのです。ちょうど、あまりよくない芝居へときどき行ったり、あまり意味もない書物を読んだりするのが、面白いのと同じことですわ。あなたはそんなものを軽蔑していらっしゃいますが、私はそんなものから心を休められたり慰められたりします。私は何物も拒むことができないのです。",
"どうしてあなたはあんなつまらない奴らに我慢ができるのですか。",
"世の中は私に気むずかしくないようにと教えてくれました。世の中にあまり多く求めてはいけません。悪意がなくてかなり親切な善良な人たちを相手にすることだけで、確かにもう十分ではありませんか……(もとより、その人たちから何にも期待しないという条件でですよ。他人を必要とする場合に、求むるような人はなかなかいないということは、私にもよくわかっています……。)けれども、あの人たちは私に好意をもってくれています。そして、私はほんとうの愛情に少し出会いますと、他のものはみな安価に与えてしまうのです。それをあなたは嫌がっていらっしゃるのでしょう? 私がつまらない人間であるのをお許しくださいね。私はせめて、自分のうちにある善いものとそれほど善くないものとを、区別することだけは知っています。そしてあなたといっしょにいるのは、私の善いほうの部分なのです。"
],
[
"あなたは望まれないんでしょうか……。",
"何を?",
"私のものになることを。"
],
[
"でもあなたは私のものですよ。",
"私の言う意味はあなたによくわかってるはずです。"
],
[
"まあ勝手な方ですこと! それ以上何を望んでいらっしゃるのですか。私との結婚をですか……。昔私の美しい従姉へばかり眼をつけていらしたときのことを、あなたは覚えていらっしゃいますか。あのとき私は、あなたにたいして感じている事柄をあなたに悟っていただけないのが、ほんとに悲しゅうございました。もし悟っていただいてたら、私たちの生活はすっかり違ったかもしれません。けれども今では、このほうがかえってよいと私は考えますの。共同生活の苦難に私たちの友情をさらさなかったのは、かえってよいことでした。共同の日常生活では、もっとも純潔なものもついには汚れてしまいますから……。",
"そんなことをおっしゃるのは、私を昔ほど愛してくださらないからです。",
"いいえ、私はやはり同じようにあなたを愛しております。",
"ああそれを私に言ってくだすったのはこれが初めてです。",
"私たちの間ではもう何も隠してはいけませんもの。いったい私は結婚というものをあまり信じてはおりません。もちろん私自身の結婚が十分の実例にはなりませんが、私はいろいろ考えてみたり、周囲をながめてみたりしました。幸福な結婚というものはめったにありません。それはやや自然に反したことです。二人の者の意志をいっしょに結びつけるには、両方でないまでもその一方を、不具にしてしまわなければなりません。そしておそらくそんな苦しみは、人の魂を有益に鍛錬するものではありません。"
],
[
"あなたの空想のうちでは美しいことかもしれません。けれど実際に当たっては、あなたはだれよりもお苦しみなさるでしょう。",
"なんですって! あなたは私を、妻や家庭や子供をもつことのできない者だと思われるのですか?……そんなことを言ってはいけません。私は妻や家庭や子供をどんなにか愛するでしょう! あなたはその幸福が私には得られないものだと思われるのですか。",
"よくわかりませんが、まあ駄目でしょうね……。けれどあるいは、あまり利口でなく、あまりきれいでもなく、あなたに身をささげて、そしてあなたを理解できない、ごく人のいい女となら……。",
"ひどいことを!……けれど私をからかうのは間違っていますよ。善良な女ならたとい頭が悪くとも、いいものです。",
"私もそう思いますわ。そういう女を捜してあげましょうか。",
"もうどうか言わないでください。私は心が刺し通されるようなんです。どうしてあなたはそんな言い方をなさるんでしょう?",
"私が何かいけないことを申しましたか。",
"私を他の女と結婚させようなどと考えられるのは、私を少しも愛してくださらないからでしょう、まったく少しも。",
"いいえ、反対にあなたを愛してるからですわ。あなたを幸福にして上げるのがうれしいからです。",
"では、それがほんとうでしたら……。",
"いえいえ、そんなことに話をもどすのはよしましょう。きっとあなたの不幸になることですから。",
"私のほうは気にかけないでください。確かに私は幸福になるでしょうから。けれども、ほんとうのことを言ってください。あなたは私といっしょになって、不幸になるだろうと思っていられるのでしょう?",
"まあ、私が不幸になる、そんなことがあるものですか。私はあなたを尊敬していますし、たいへん敬服していますから、あなたといっしょになって不幸になるなどということはけっしてありません。……それに、なお申しますと、私はもう今ではどんなことがあっても、不幸になってしまうことはないように思われます。私はあまりいろんなことを見てきましたし、哲学者じみてきています。……けれども、うち明けて申しますと――(それがあなたはお望みでしょう、お怒りにはならないでしょうね)――実は私は自分の弱点をよく知っています。幾月かたつうちには、かなり馬鹿げた女になってしまって、あなたといっしょにいて十分幸福ではなくなるかもしれません。それが私にはつらいのです。なぜなら私は、あなたにたいしてこの上もなく清い愛情をいだいていますから。私はどんなことがあってもこの愛情を曇らしたくありません。"
],
[
"まったく、あなたがそんなふうに言われるのは、私の苦しみを和らげるためでしょう。私はあなたの気には入らないのです。私のうちにはあなたの嫌がられるものがたくさんあるんです。",
"いいえ、けっしてそうではありません。そんなに不平そうな顔をなすってはいけません。あなたはりっぱななつかしい方です。",
"それなら私には訳がわかりません。なぜ私たちは一致することができないのでしょうか。",
"あまり人と違ってるからですわ、二人ともあまり特徴のあるあまり個性的な性質だからですわ。",
"それだから私はあなたを愛しているんです。",
"私もそうですの。けれどまたそのために、私たちは衝突するかもしれません。",
"そんなことはありません。",
"いいえそうですわ。あるいはそうでなくても、私はあなたのほうが自分よりすぐれていられることを知っていますから、自分のちっぽけな個性であなたの邪魔となるのが気がとがめるでしょう。すると私は自分の個性を押えつけ、口をつぐんでしまって、一人苦しむようになるでしょう。"
],
[
"おうそんなことは、私は望みません、けっして望みません。あなたが私のせいで私のために苦しまれるくらいなら、むしろ私はどんな不幸にも甘んじます。",
"あまり心を動かしなすってはいけません……。ねえあなた、私はこんなことを申しながら、おそらく自分に媚びてるのかもしれませんもの……。たぶん私は、自分をあなたの犠牲にするほど善良な女ではないかもしれません。",
"それでけっこうです。",
"でもこんどは、あなたのほうが私の犠牲になられるとしてみます。すると私はやはり自分で苦しむことになるでしょう……。それごらんなさい、どちらにしたって解決がつかないではありませんか。今のままにしておきましょうよ。私たちの友情よりりっぱなものがありますでしょうか?"
],
[
"そうかもしれません。あなたのおっしゃるのは道理です。私はもう若々しくはありません。私は疲れております。あなたのようにごく強い者でないと、生活に擦り減らされるのです……。ああ、時とすると、私はあなたをながめていて、十八、九歳の悪戯青年ででもあるような気がすることがあります。",
"それはどうも! こんなに老けた頭をし、こんなに皺が寄り、こんなに萎びた色艶をしてるのに!",
"あなたがお苦しみなすったこと、私と同じくらいに、おそらく私以上に、お苦しみなすった、ことは、私にもよくわかっております。それは私にも見てとられます。けれどあなたはときどき、青年のような眼で私をお見になります。そしてあなたから新しい生の泉が湧き出るのを、私は感ずるのです。私自身はもう枯れてしまっています。ああ、昔の熱情のことを考えてみますと! だれかが言いましたように、それはほんとにいい時でした。私は実に不幸でした! 今では私はもう、不幸であるだけの力ももちません。ただ一筋の細い生命があるばかりです。あえて結婚をしてみるだけの勇気もありません。ああ、昔でしたら、昔でしたら!……私の知ってるどなたかがちょっと合図をしてくだすっていたら!……",
"そしたら、そしたら、言ってください……。",
"いいえ、無駄ですわ。",
"で、昔、もし私が……ああ!",
"え、もしあなたが?……そんなことを私は何も申しはしません。",
"私にはわかっています。あなたは残酷です。",
"ただ私は昔狂人でした、それだけのことですわ。",
"それはなおひどい言葉です。",
"ねえあなた、私はあなたを苦しめるようなことは一言も申せないんです。だからもう何にも申しますまい。",
"でも、言ってください……。何か言ってください。",
"何を?",
"何かいいことを。"
],
[
"笑っちゃいけません。",
"そしてあなたは、悲しんではいけません。",
"どうして悲しんではいけないんでしょう?",
"その理由がないんですもの、確かに。",
"なぜです?",
"あなたをたいへん愛してる女の友だちが一人いますから。",
"ほんとうですか。",
"私がそう申すのに、お信じなさらないのですか。",
"それをも一度言ってください。",
"そしたらもう悲しみなさいませんか。それでもう十分におなりになりますか。私たちの貴い友情で満足できるようにおなりになりますか?",
"そうせざるを得ません。",
"ほんとに勝手な人ですこと! それであなたは私を愛してるとおっしゃるのですか? ほんとうは、あなたが私を愛してくださるよりも、もっと深く私はあなたを愛していると思いますわ。",
"ああ、もしそうだったら!"
],
[
"いいえ。",
"豪い!……ではまず、あなたはどういう者であるか言ってごらんなさい。"
],
[
"君の名はなんというの。",
"ジョルジュです。",
"なるほど、私は覚えている。クリストフ・オリヴィエ・ジョルジュ……。何歳になる?",
"十四です。",
"十四だって! そんなに昔のことだったかしら?……私には昨日のことのように思える――あるいはいつとも知れない時のことのような気もする……。ほんとに君はよく似てる。同じ顔だちだ。同じ人で、でもやはり別な人だ。眼の色は同じだが、同じ眼じゃない。同じ笑顔で同じ口だが、同じ声音じゃない。君のほうがずっと丈夫だし、まっすぐな身体をしてる。君のほうがずっと豊かな顔をしてるが、でも君は彼と同じように顔を赤らめる。ここへ来てすわりたまえ、話をしよう。だれが君を私のところによこしたんだい。",
"だれでもありません。",
"君一人で来たのかい。どうして私を知ってるの?",
"あなたのことを聞きましたから。",
"だれから?",
"お母さんから。"
],
[
"君たちはどこに住んでるの?",
"モンソー公園のそばです。",
"歩いて来たの? そう。かなり遠いのに。疲れたろうね。",
"私は疲れたことはまだありません。",
"それはけっこうだ。腕を見せてごらん。"
],
[
"君は丈夫な若者だ……。そして、なんで私に会いに来ようと思いついたの?",
"お父さんがあなたをいちばん好きだったからです。",
"彼女が君にそう言ったの?"
],
[
"お母さんが君にそう言ったの?",
"ええ。"
],
[
"なぜ君は私のところへ来るのをこんなに長く延ばしたの?",
"私はもっと早く来たかったんです。でもあなたが会ってはくださらないだろうと思いましたから。",
"私が!",
"何週間か前に、シュヴィヤールの音楽会で、私はあなたを見かけました。あなたから少ししか離れてないところに、お母さんといっしょにいました。そして私はあなたに挨拶をしましたが、あなたは眉をしかめて横目で見られたきりで、答えてくださいませんでした。",
"私が君を見たって?……まあ、君にはそう思えたの?……私は君を認めはしなかったよ。眼が弱っているからね。眉をしかめるのはそのせいだよ。……いったい君は私を意地悪な男だと思ってるの?",
"あなたもやはり意地悪になろうと思えばなれる方だと、私は思います。"
],
[
"私のほうで、あなたに会いたかったからです。",
"そしてもし私が君を追い出してたら?",
"私はそんなことをさせはしなかったでしょう。"
],
[
"私がお父さんに似ていないと思われるんですか? でもあなたは先刻……。では、お父さんが私を愛してくれなかったと思われるんでしょう? では、あなたは私を愛してくださらないんでしょう?",
"私が君を愛することが、君のために何になるんだい。",
"たいへん私のためになります。",
"どうして?",
"私があなたを愛してるからです。"
],
[
"君は何がいちばん得意なの? 文学かそれとも理学かね?",
"どれもみなたいてい同じことです。",
"でも、どうして、どうしてだい? 君は怠け者なのかい。"
],
[
"ではなぜ勉強しないんだい。何にも面白くないのかい。",
"いいえ、なんでも面白いんです。",
"ではどうして?",
"なんでも面白いんですが、時間がありません……。",
"時間がないって? ではいったい何をしてるんだい。"
],
[
"いろんなことをしています。音楽をやったり、運動をしたり、展覧会を見に行ったり、本を読んだり……。",
"教科書を読んだほうがいいだろう。",
"学校では面白いものなんか読ませやしません……。それから、私たちは旅行もします。前月は、オクスフォードとケンブリッジとの競争を見に、イギリスへ行きました。",
"そんなことをしてるから学問が進むんだ。",
"でも、学校にじっとしてるよりずっとよく物を知ります。",
"そしてお母さんは、それをなんと言ってるんだい。",
"お母さんはたいへん物がわかっています。私の望みどおりにしてくれます。",
"しようがないね!……私のような者を父親にもたなくって君は仕合わせだ。",
"あなたこそ私のような者を……。"
],
[
"知っています。",
"でも君はきっとドイツ語を一言も知るまい。",
"ところがよく知っています。",
"では少しためしてみようか。"
],
[
"なあに、私は何かになる必要はありません。金がありますから。",
"馬鹿な! そうなると大事な問題だよ。なんの役にもたたない何にもしない人間に、君はなりたいのか。",
"いえ私は反対になんでもしたいんです。一生涯一つの仕事に閉じこもるのは馬鹿げています。",
"しかしそうでなくちゃその仕事をりっぱになすことはできない。",
"よく人がそう言います。",
"なんだって、人がそう言うって?……いや、この私がそう言うのだ。私は自分の仕事をもう四十年も勉強してる。そしてようやくそれがわかりかけてきたのだ。",
"自分の仕事を学ぶのに四十年ですって! ではいつになってその仕事がやれるんでしょう?"
],
[
"それじゃあ、君はもう音楽をやり始めても早すぎはしないから、私が教えてあげようか。",
"ええ、そしたらどんなにうれしいでしょう!",
"明日来たまえ。君の価値をためしてみよう。もし君にそれだけの価値がなかったらピアノに手を触れることを禁ずるよ。もし君に能力があったら、君がなんとかなるように骨折ってみよう……。しかし言っておくが、私は君に勉強させるよ。"
],
[
"いつ帰って来たんだい。",
"十月の初めです。",
"そして三週間もかかって、ようやく私のところへ来ようと決心したんだね……。ねえ、うち明けて言ってごらん。お母さんが引き止めたんだろう……お母さんは君が私に会うのを望まないんだろう?",
"いいえ、あべこべです。お母さんから言われて今日来たんです。",
"どうしてだい。",
"この前休暇前にあなたにお会いしたとき、私は家に帰ってすっかり話しちゃったんです。それはよかったとお母さんは言いましたよ。そしてあなたのことを知りたがって、いろんなことを尋ねました。三週間前にブルターニュから帰ってくると、お母さんはまたあなたのところへ行けと勧めるんです。一週間前にもまた言い出しました。そして今朝、私がまだ行っていないことを知ると、機嫌を悪くして、昼食のあとにすぐ行って来いと言ったんです。",
"そして君はそんなことを私に話してきまり悪くないのかい。君は人に強いられて私のところへ来たのかい。",
"いえいえ、そう思っちゃいけません……。ああ、あなたは私を怒っていますね。ごめんなさい……。まったく、私はうっかり者です。私をしかられてもいいが、恨んではいけません。私はあなたがほんとうに好きなんです。もし好きでなかったら、けっして来やしません。人に強いられたんじゃありません。第一私は、自分のしたいことをしか人に強いられやしません。"
],
[
"ああ、やはり考えていますよ。",
"考えていたって進歩するものか。",
"今からやり始めるつもりです。この数か月間はできなかったんです、たくさん仕事があったんですから。でも今なら、ほんとに勉強してお目にかけます。あなたがまだ私を相手にしてくださるなら……。"
],
[
"あなたは私の言うことを真面目にとってくださらないんですね。",
"そうさ、真面目にとるものかね。",
"困っちまうなあ! だれも私の言うことを真面目にとってはくれません。私はがっかりしてるんです。",
"君が勉強するのを見たら、真面目にとってあげるよ。",
"じゃあすぐにやりましょう。",
"今は隙がない。明日にしよう。",
"いえ、明日じゃあまり長すぎます。私は一日でもあなたに軽蔑されるのを我慢できません。",
"困るなあ。",
"お願いしますから……。"
],
[
"私のところへ! あなたがいらっしゃるんですって!",
"お嫌じゃありませんか。",
"嫌ですって! まあとんでもない!",
"では、火曜日はいかがでしょう?",
"火曜でも水曜でも、木曜でも、いつでもおよろしい日に。",
"それでは火曜日の四時ごろ伺います。ようございますか。",
"あなたは親切です、ほんとに親切です。",
"お待ちなさい、条件がありますわ。",
"条件? そんなものが何になりましょう? お望みどおりに私はします。条件があろうとあるまいと、私がなんでもお望みどおりにすることは、御存じじゃありませんか。",
"私は条件をつけるほうが好きですから。",
"ではその条件を承知しました。",
"まだどんな条件だか御存じないじゃありませんか。",
"そんなことは構いません。承知しました。なんでもお望みどおりです。",
"まあお聞きなさい。頑固な方ですこと!",
"ではおっしゃってごらんなさい。",
"それはね、今からその時まで、あなたの部屋の中の様子を少しも変えないということです――少しもですよ。何もかもそっくり元のままにしておくことです。"
],
[
"それごらんなさい、あまり早くお約束なさるからですよ。でもあなたは御承知なさいましたね。",
"しかしどうしてそんなことをお望みですか。",
"私をお待ち受けなさらないで、毎日していらっしゃるとおりの御様子を、拝見したいからですわ。",
"ついては、あなたも私に許してくださいますか……。",
"いえ、何にも。何にもお許ししません。",
"せめて……。",
"いえ、いえ。何にも聞きたくありません。もしなんなら、御宅へ伺わないことにしましょう……。",
"あなたが来てさえくだされば、私はなんでも承諾することを御存じじゃありませんか。",
"では御承知なさいますね。",
"ええ。",
"確かですか。",
"ええ。あなたは暴君です。",
"よい暴君でしょう?",
"よい暴君なんてものがあるものですか。人に好かれる暴君ときらわれる暴君とがあるきりです。",
"そして私はその両方でしょう、そうじゃありませんか。",
"いいえ、あなたは好かれるほうの暴君です。",
"不面目なことですこと。"
],
[
"そうでしょうとも。女のほうにたいへんな勇気がいるでしょうから。",
"なぜですか。"
],
[
"あなたはあれを私だとおわかりになりますか。",
"わかります。よく覚えています。",
"今の私とどちらがお好きですか。",
"あなたはいつでも同じです。私はあなたをいつまでも同じように好きです。どんなものでもあなたを見てとることができます。ごく小さなときの写真ででも見てとることができます。この幼い姿の中にもあなたの魂をすっかり感じて、私がどんな感じに打たれてるか、あなたは御存じありますまい。あなたが永久に変わらないことを、これほどよく私に知らしてくれるものはありません。私があなたを愛しているのは、あなたの生まれない前からです、そしてずっと……後まで……。"
],
[
"これからどうするかおわかりになりまして? おやつをいただくんですよ。私はお茶とお菓子とをもってきました。そんなものはあなたのところにないだろうと思ったものですから。それからまだ他にもって来たものがありますよ。あなたの外套をかしてくださいね。",
"私の外套をですか。",
"ええ、ええ、かしてください。"
],
[
"なんですって、あなたは……?",
"先日私が危ないと思ったボタンが二つありましたわ。今日はどうなっていますかしら?",
"なるほど、私はまだそれを付け直そうとも思わなかったんです。嫌な仕事なものですから。",
"お気の毒にね! かしてくださいよ。",
"恥ずかしい気がします。",
"お茶の用意をしてくださいよ。"
],
[
"あなたは私を嫌に思ってはいられませんか。",
"なんで?",
"こんなに散らかっていますから。"
],
[
"いい児だからね、さあ、どこが悪いかと言ってごらんなさい。",
"わからない",
"ここが苦しいの?",
"ええ、いいえ。わからない。身体じゅうが苦しい。"
],
[
"でも、もしあなたがそれを感じてるんでしたら、なぜ私どもといっしょにはならないんです?",
"僕にはほかに仕事があるからだ。さあ、君の事業をなすがいい。できるなら僕を追い越したまえ。僕はここに残って見張りをしている……。君は、山のように高い鬼神が箱の中に入れられてソロモンの封印をおされたという話を、千一夜物語の中で読んだことがあるだろう……。その鬼神はここに、僕たちの魂の底に、君がのぞき込むのを恐れてるこの魂の底にいるのだ。僕や僕の時代の人たちは、その鬼神と戦うことに生涯を費やしてきた。僕たちのほうが打ち勝ちもしなかったし、鬼神のほうが打ち勝ちもしなかった。今では、僕たちと彼とはどちらも息をついている。そしてたがいに顔を見合わしながら、なんらの怨恨も恐怖も感ぜずに、なしてきた戦いに満足して、約束の休戦の期限がつきるのを待っている。で君たちはその休戦期間を利用して、力を回復し、また世界の美を摘み取りたまえ。幸福でいて、一時の静穏を楽しみたまえ。しかし忘れてはいけない。他日、君たちかあるいは君たちの後継者たちは、征服から帰ってきて僕がいるこの場所に立ちもどり、僕がそばで見張りをしてるこの者にたいして、新しい力でふたたび戦いをしなければならないだろう。そして戦いはときどき休戦で途切れながら、両者の一方が打倒されるまでつづくだろう。君たちは僕たちより強くて幸福である順番なんだ……。――まあ当分のうちは、やりたかったら運動もやるがいい。筋肉と心とを鍛えるがいい。そしてむずむずしてる君の元気をくだらないことに浪費するような、馬鹿げた真似をしてはいけない。君は(安心するがいいよ)その元気の使い道ができてくる時代にいるのだ。"
],
[
"ではなぜそれを採用したんですか。",
"思いどおりのことができるものではありません。時には一般の意見に満足を与えるような様子もしなければなりませんからね。昔は、若い連中がいくら怒鳴ってもだれ一人耳を貸しませんでした。けれど今では、われわれに対抗して国家主義の新聞紙を狩り集める方法を、彼らは考えついています。あいにくと彼らの若い一派に惚れ込まないときには、裏切りだの有害なフランス人だのと怒鳴らせるんです。若い一派、どうです……私の意見を申しましょうか。彼らには悩ませられますよ。公衆もそうです。彼らの御祈祷にはつくづく嫌です……。血管の中には一滴の血もないし、ミサを歌ってきかせるちっぽけな堂守です。彼らが恋愛の二重奏を作ると、まるで深き淵よりの悲歌みたいです……。採用を迫らるる作をみな上演するほど馬鹿な真似をしたら、劇場はつぶれてしまうでしょう。採用はします。そしてそれだけでもう彼らには十分です――。くだらない話はよしましょう。ところであなたの作は、きっと大入りですよ……。"
],
[
"僕が君に決闘を禁ずるんだ、いいかね。もし君が二度とやったら、僕はもう君に会わないし、新聞で君を非難するし、君を……。",
"廃嫡すると言うんでしょう。",
"ねえジョルジュお願いだから……。いったいあんなことをしてなんの役にたつんだい。",
"そりゃああなたは、私よりずっとすぐれてるし、私より非常にいろんなことを知ってるけれど、でもあの下劣な連中のことは、私のほうがよく知っていますよ。大丈夫です、あんなことも役にたつんです。こんどは奴らも、あなたに毒舌をつく前に、少しは考えてみるでしょう。",
"なあに、あの鵞鳥どもが僕にたいして何ができるものか。僕は彼奴らが何を言おうと平気だ。",
"でも私は平気ではいません。あなたは自分のことだけをなさればいいんです。"
],
[
"でも彼らはそんなことを知ってるよ。そしてそれが彼らの生存の理由なんだ。すべての者が生きなければいけない。",
"彼らは冷血漢です、われわれは生活のために血まみれになり、芸術上でなすべき戦いに疲れはてています。そういうわれわれに手を差し出し、われわれの弱点を同情の念で語り、その弱点を償うように親しく助けてくれるのがほんとうです。しかし彼らはそんなことをするどころか、両手をポケットにつっ込んで、重荷を負って坂を上るわれわれをうち見やって『できるものか……』と言っています。そしてわれわれが頂まで登りつくと、『なるほど、しかしそんな登り方をしたのはいけない、』とある者は言います。またある者は、『まだ登りつけてやしない……』と頑固に繰り返します。われわれをころがそうとして足に石を投げつけないとすれば、まだしも幸いというべきです。",
"なあに、彼らの中にだって二、三のりっぱな者がいないとは限らない。でもいったい彼らにどんないいことができるものか。そして愚劣な者はどの方面にだっている。それは職分によることではない。たとえば、温情はなく虚栄心に富んで気短かで、世の中を餌食と心得ていて、それをつかみ取ることができないのを憤ってる芸術家などは、もっともいけない者ではないだろうかね。人は忍耐をもって武装していなければいけないよ。いかなる悪も多少の役にたたないものはない。もっとも悪い批評家もわれわれに有益になる。それは一つの刺激者となる。われわれに道草を食うことを許さない。われわれがもう目的地へ達したと思うことに、犬どもはわれわれの尻に噛みつく。前進し、なお遠く行き、なお高く登ることだ。そうすれば、先に立って進むことにこちらで疲れるよりも、犬どものほうでついて来ることに疲れるだろう。アラビヤの格言を思い出してみたまえ。『実を結ばぬ木は苦しめられない。金色の果実を頭にいただいてる木だけが、石を投げつけられる。』……人から用捨される芸術家たちこそ気の毒だ。彼らは中途に止まって無精らしくすわりこむ。ふたたび立ち上がってみても、足がしびれて歩けないだろう。ためになる敵こそありがたいものだ。僕は生涯のうちで、害になる友からよりも彼らからいっそう多くの益を受けてきた。"
],
[
"けれど、もしわれわれがいなかったら、彼らはどうなったでしょうか。そういう喜びはわれわれの涙から出て来たものです。そういう高慢な力は、一つの時代の苦悩から咲き出したものです。かく汝働けどもそれは汝のためにあらずです……。",
"その古い言葉は誤っている。われわれを通り越すような一時代の人間を造り上げながら、われわれはわれわれ自身のために働いたのだ。われわれは彼らの宝を積み上げてやり、四方から風の吹き込む締まりの悪い破れ家の中でそれを護ってやった。死をはいらせないようにと自分の身で扉をささえねばならなかった。そして子供たちの進むべき勝利の道をわれわれの腕で開いてやった。そのわれわれの労苦は未来を救い上げた。われわれは約束の土地の入り口まで方舟を導いてきた。方舟はその土地へ、彼らとともにそしてわれわれの力によってはいってゆくだろう。",
"でも彼らは、神聖なる火や、わが民族の神々や、今は大人となってるがその当時子供だった彼らを、背に負いながら沙漠を横切ってきたわれわれのことを、思い出してくれるでしょうか? われわれは艱苦と忘恩とを受けてきたではありませんか。",
"それを君は遺憾に思ってるのか。",
"いいえ。われわれの時代のように、自分の産み出した時代の犠牲となる力強い一時代の悲壮な偉大さは、それを感ずる者をして恍惚たらしむるほどです。現今の人々は、忍従の崇高な喜びをもはや味わうことはできないでしょう。",
"われわれはもっとも幸福だったのだ。われわれはネボの山によじ登ったのだ。山の麓にはわれわれのはいり込まない地方が広がっている。しかしわれわれはそこにはいり込む人々よりもいっそうよくその景色を享楽している。平野の中に降りてゆくと、その平野の広大さと遠い地平線とは見えなくなるものだ。"
],
[
"ええ。",
"はいりたまえ。"
],
[
"それでは、君は僕の音楽に満足してるのですか。君は僕と同じ方法で、自分の愛や憎悪を表現するつもりですか。",
"そうです。",
"そんならもう黙り込んでしまうがいいでしょう。君には何も言うべきものがないはずです。"
],
[
"そしてお前は何を知ってるんだい? お前の豪い知識を見ようじゃないか。",
"私をからかっちゃいや。私は大して知ってやしないわ。でもあの人は、ジョルジュは、知っててよ。"
],
[
"それで気が安まるのですか?",
"安まるとも。これによって見ると、そういう風潮は数人の滑稽な熱情から来たものではなくて、世界を統ぶる隠れた神から来たものらしい。そしてその神にたいしては、僕は頭を下げることを覚えたのだ。もし僕がその神を理解しないとしても、それは僕が悪いので、神が悪いのではない。神を理解しようとつとめたまえ。しかし君たちのうちだれか理解しようと心がけてる者があるか。君たちはただその日その日を送り、すぐつぎの限界より先には眼をつけず、その限界を道の終極だと想像している。自分たちを運び去る波だけを見ていて、海を見ていない。今日の波を湧きたたしたのは、われわれの昨日の波だ。また今日の波は、明日の波の畝を掘るだろう。そして明日の波は、われわれの波が忘れられたと同じように、今日の波を忘れさしてしまうだろう。僕は現時の国家主義に賛成もしなければ恐れもしない。それは時とともに流れてゆく。もう過ぎ去りかけてる、過ぎ去ってしまってる。それは階段の一つの段である。階段の頂まで登りたまえ。今の国家主義などは、やがて来たらんとする軍隊の先駆者だ。その軍隊の笛や太鼓の鳴るのがもう聞こえてるじゃないか……。"
],
[
"母よ、恋人たちよ、友人たちよ……彼らはどういう名前だったかしら?……愛よ、君はどこにいるのか。私の魂たちよ、どこにいるのか。私は君たちがそこにいることを知っているが、君たちをとらえることができない。",
"私たちはあなたといっしょにいます。愛しい人よ、安らかに!",
"私はもう君たちを失いたくない。私はどんなに君たちを捜したろう!",
"心配してはいけません。私たちはもうあなたのもとを離れはしません。",
"ああ、私は流れにさらわれてゆく。",
"あなたを運んでゆく河は、私たちをもあなたといっしょに運んでいるのです。",
"どこへ行くのだろう?",
"私たちが皆いっしょに集まる場所へ行くのです。",
"じきに行きつくかしら?",
"御覧なさい。"
]
] | 底本:「ジャン・クリストフ(四)」岩波文庫、岩波書店
1986(昭和61)年9月16日改版第1刷発行
入力:tatsuki
校正:伊藤時也
2008年1月27日作成
2021年8月19日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
"――私たち生活をよくするには、ただ一つの道しかないんですよ、ダラ幹のいない、一番闘争的な組合に入って、団結して闘うより仕方がない……",
"誰に教わったんだッ生意気なッ。"
],
[
"あの、何といったッけねあの人は、そうだ山崎といったね。あの人は今、どうしているんでい?今度は一ペんも訪ねて来ない。",
"あの人やられました",
"そうか――",
"多分もう、市ヶ谷へ廻った時分でしょう。",
"やっぱりああいう人が男だ! 俺なんかこうして患っているうちに馘だ。どう足掻いたって仕方がない。こうして死ぬのを待ってるようなもんだ。"
],
[
"此のつい四五日前、私んとこの娘が、お宅のみをちゃんに逢ったっていってましたんですよ。",
"えッ何処で、みを子に――",
"それがさ、亀戸の先の方でなんですよ。",
"人違いじゃありませんかね……",
"いえ、うちのはみをちゃんと学校が六年間も一緒でしたものね。",
"で、娘は、どんな風をして居りました?",
"日本髪に結って、お弁当箱をもって、何でも女工さん達と一緒に歩いてましたって……",
"それで、あれは元気でしたろうか?",
"さ……うちのが、みをちゃん――と呼んだら、急いで行ってしまったっていってましたですよ。"
],
[
"俺が死んだら、お母さんはどうする?",
"どうするって、癒ってくれなくちゃ困るじゃないか。",
"どんなことしても、みを子を捜し出さなくちゃいけないよ。ほら、この前、みを子が警察にいたのを知らしてくれた人、あの人に会ってきいてみたら解る。あの人の手紙、ちゃんと、とってあるだろうね?",
"市ヶ谷富久町×××番地とある。名前は池田まさ――と書いてあるよ。"
],
[
"どなたの、御家族の方ですか?",
"池田まささんという人に会いたいんですが――私は、青木の、青木みをの母です。",
"池田さん――"
],
[
"あの、みを子は、亀戸の方にいるってことでございますが、それ本当でござんすかしら………",
"みをさんですか? とても勇敢にやっているんですよ。"
],
[
"ええ、南葛にこの間まで――でも今度他の地区に変わったんですよ。",
"そして、あれから始終あなたの処へ、何かたよりがありますでしょうか?",
"ええ、ここの仕事が忙しいんで滅多には会えないんですけれど、そりゃ始終ことづけはあるんです。",
"――此処の仕事というと?"
],
[
"救援会の事務です!",
"それでは、あの、此処が――"
],
[
"あの本は、みんな牢から戻って来た本なんですね?",
"ええ一通りもう、市ヶ谷も豊多摩も廻って来ました。",
"これは何です? これはッ?"
],
[
"てめえ、救援会だろう――",
"いえ、私は××の母です。",
"一緒にブチ込んでやるぞォ"
]
] | 底本:「渡良瀬の風」武蔵野書房
1998(平成10)年11月9日初版発行
底本の親本:「月刊批判11月号」我等社
1931(昭和6)年11月1日発行
「年刊日本プロレタリア創作集1932年版(改定版)」日本プロレタリア作家同盟出版部
1932(昭和7)年3月25日初版発行
入力:林幸雄
校正:大野裕
2001年1月11日公開
2001年1月12日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"姓ローマ字": "Wakasugi",
"名ローマ字": "Toriko",
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"生年月日": "1892-12-21",
"没年月日": "1937-12-18",
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"片山さんてのは――",
"片山はうちですけれど……"
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[
"そして今、小母さんは何處に身を置いてゐるんですの",
"やつぱしその妹の家に……ほんとに時には死んだ方がましだと思ふんですよ",
"ぢやあ何故、田舍の方へ小母さんは歸らないんですの、田舍では、譬へ肉親でなくても小母さんの育てた娘さんや息子さん達が、立派になつてゐるでせう",
"それがあなた……田舍にゐられる位なら、何で邪慳で貧乏の妹になんかに手頼らうと思ひますものか"
],
[
"會長さんといふのは、まだ若い方でしたが、なかなか物事の解るらしい落ちついた方でして、それに私はいつたんですよ、片山とし子樣の御紹介ですつて",
"えツ、何故そんな事をいつたんです",
"片山とし子樣、片山とし子樣つて……"
],
[
"かうして毎日方々歩いてゐますと、隨分妙な事にぶつかるもんですね",
"それはさうです。いろんな家庭がありませうからね",
"いゝえね、あなた、愕いちまふやうな恐い事に出つくわしたんです",
"どうしたんですの、恐いことつて",
"私はもう派出婦なんて商賣は止めてしまはうかと思ふんです、どうもあんな事に出會つて見ると堪らなく心配になつて來たんです。それがねあなた、妻君に死なれて子供と二人でゐる人の處にやられたんです。どうも男といふものは全く油斷も何も出來るものぢやありません"
],
[
"永のお袂れなんて、まあどうしようといふんです",
"これから私は汽車賃のある處まで行きます、多分、京都あたりまでゆけるでせう、それから先は何處といふ事もなく歩いて見たいと思ふのです",
"だつて生活はどうするのです",
"何か賣つても好いし……",
"行商なんて小母さんにそんな事できるもんですか",
"いゝえ大丈夫ですよ、乞食をしたつて構ひはしないんですから",
"駄目、駄目、若い人ぢやあるまいし",
"なあに、だい丈夫"
]
] | 底本:「帰郷」小山書店
1938(昭和13)年9月20日初版発行
1938(昭和13)年9月15日北川武之輔印刷
底本の親本:月刊誌「女人芸術」8月号
1928(昭和3)年8月1日女人芸術社発行
入力:林幸雄
校正:大野裕
2000年12月31日公開
青空文庫作成ファイル:
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[
[
"あの男は、獨り者なんですかい?",
"もう相當の年配らしいですよ。親も妻子もあるでせうがなあ",
"どういふもんでせうな斯んな場合は、會社の方から、幾分遺族の扶助料でも出すもんでせうかなあ‥‥‥",
"いゝやあ‥‥‥さういふ事は先ず絶對にないといつていゝでせうな、感電なんてかういふ場合は、大てい震死者それ自身の過失が多いですからね",
"よくよく運の惡い廻り合せです、もう三十分も無事なら、あの男は仕事をすませて、元氣な顏で彼處を降りて歸つていつたんですがな‥‥‥",
"實際ですよ。"
],
[
"今日はちやあや(父のこと)の辨當を持つてゆくの私だよ。",
"うゝん今日は俺だ。",
"咋日お前が持つて行つたんぢやないか",
"嘘つけ、おらはたゞお前に隨いていつたんだ、今日こさ、俺一人でいぐ!"
],
[
"虱なんか、たけてくると傍迷惑だよ、第一着物が臭くなるから、あんな家へいかない方がいゝよ",
"お前が、彼邊の貧乏屋で、かけたお碗でけんちん汁か何か食べてた姿を見たものがあるか? もしあればその人はそれつきりお前に愛想を盡かしてるぜ、まるで乞食の子だ、俺なんか沁々お前が厭んなつちやつたぜ‥‥‥",
"夕方になると彼處の乞食婆がね、×ちやんに逢ひたくつて、×ちやんの家の前を幾度も往き來してんだよ、まるで偸人みたいな婆あだつて、ほんとかい?"
],
[
"何てえ鈍間な野郎だッ、建築つて奴あ、一度ケチがつきやあがると、それからそれへと縁起が惡くつて、碌なこたありやあしね、危險なこたあ解り切つてるのに、餘ッ程、ドヂな野郎ぢやねえか‥‥‥",
"何でもふだんから俺あ、のろまな野郎だとおもつてた‥‥‥"
]
] | 底本:「解放10月号」解放社
1926(大正15)年10月1日発行
入力:林幸雄
校正:大野裕
2001年1月17日公開
2001年1月18日修正
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "002387",
"作品名": "梁上の足",
"作品名読み": "りょうじょうのあし",
"ソート用読み": "りようしようのあし",
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"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "旧字旧仮名",
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"最終更新日": "2014-09-17T00:00:00",
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"姓ローマ字": "Wakasugi",
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} |
[
[
"まつたくだ。今に見給へ、また例の泥臭い生温の湯を持つて來るぜ。今大周章で井戸に驅け出して行つたから。",
"水も汲んでないのか、どうもまつたく驚くね。丁度今は夕方ぢやないか。",
"よくあれで世帶が持つて行ける。",
"行けもしないぢやないか。如何だい、昨夜は。"
],
[
"然し、細君はあれが全然氣にならぬと見えるね。",
"まさか、何ぼ何だつて幾分かは……",
"いや、全然だぜ。あんなに酷い嘲罵を浴びせられても、それは實にすましたもんだよ。出來ないものは幾ら何と言つても出來ないんだからつて具合でな。全くどうも洒々たるもんだ。",
"大悟徹底といふわけなんだらう。",
"さうかも知れない、それでなくてどうして毎日々々のあの債鬼に耐へられるもんか。然し洒々と云つても何も惡氣のある洒々ではないのだよ。だからあの亭主のやうにうまく對手を丸めて歸すとか何とかいふ手段をも一つも執ることが出來ないのだね。見給へ、細君一人の時に取りに來た奴なら何時でもあんな大聲を出すやうになる……"
],
[
"いや、それが出來ないのではなからう、爲んのだらう。負債も平氣、催促も平氣、嘲罵も近隣の評判も全然平氣なんだからな。少しも氣にかからんのだからな。",
"もうあれが習慣になつたのかも知れない。",
"習慣――幾らかそれもあるだらう。が、此家が斯んなに窮してるのもほんの昨今のことだといふから、郷里に居た昨年頃までは立派に暮して來たんだらうぢやないか。してみるとさう早くあんなに慣れ切つて仕舞ふわけもない。"
],
[
"如何かしたのですか。",
"先日、妾は夢を見ましたがね、郷里で親類中の者が集つて何かして居るところを見ましたがね、何をして居るのやら薩張り解らなかつたのでしたがね……"
],
[
"そしたら先刻郷里の弟から葉書を寄越しましたがね、父親が死んだのですつて。",
"エ、お父樣が、誰方の?",
"妾の父親ですがね、十日の夕方に死んだ相ですよ……。それも去年妾共は東京に來た時一度知らしたままでまだ郷里の方にはこちらに轉居したことを知らしてやらなかつたものですから、以前の所あてに弟が葉書を寄越したものと見えて附箋附きで先刻それが屆きました。",
"貴女のお父樣ですか?"
],
[
"それでも……さうですな、さう言へばさうですけれど、……阿父さんの方で會ひたかつたでせう。",
"それはね、少しは何とか思つたでせうけれど、……思つたところで仕樣のないことなのですからねえ。"
],
[
"エ、彼女こそ病身なんですが、まだ何とも音信がありません。",
"お寂しいでせうな、その阿母樣が。"
],
[
"エ、それはね、暫くは淋しうございませうよ。",
"貴女も寂しうございませう。"
],
[
"エ、でもね、どうせ女は家を出る時が別離だと言ひますから……",
"で、お歸國にでもなりますか、貴女は?"
],
[
"アノ良人では歸れと言ひますけれど、歸つたところでね……それに十日に死んだとしますと今日はもう十四日ですから……今から歸つたところで仕樣もありませんし……",
"お墓があるではありませんか。それにその病身の阿母さんも待つておゐでではありませんか。"
],
[
"どうしても普通の人間では無い。不具では……白痴では無論ないけれども確に普通ではない。あれで人間としての價値があるだらうか。",
"價値?",
"價値といふと可笑しいが、意味さ、人間として生存する價値が、意味があるだらうか。",
"サア……然し"
]
] | 底本:「若山牧水全集 第九卷」雄鷄社
1958(昭和33)年12月30日発行
初出:「東亞の光」
1907(明治40)年12月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:林 幸雄
校正:今井忠夫
2004年1月20日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "004393",
"作品名": "一家",
"作品名読み": "いっか",
"ソート用読み": "いつか",
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"原題": "",
"初出": "「東亞の光」1907(明治40)年12月号",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "旧字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2004-02-18T00:00:00",
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"人物ID": "000162",
"姓": "若山",
"名": "牧水",
"姓読み": "わかやま",
"名読み": "ぼくすい",
"姓読みソート用": "わかやま",
"名読みソート用": "ほくすい",
"姓ローマ字": "Wakayama",
"名ローマ字": "Bokusui",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1885-08-24",
"没年月日": "1928-09-17",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "若山牧水全集 第九卷",
"底本出版社名1": "雄鶏社",
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"入力者": "林幸雄",
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} |
[
[
"左樣なりますかネ、此處が。",
"左樣だネ、此處が名高い熊野の潮岬で、昔から聞えた難所だよ。"
],
[
"え、誰だ、何といふんです、……僕は若山と云ふのだが。",
"へゝえ、誰方ですか、もう直ぐこれへ歸つておいでになりますで、……實はあなたを探して一先づ瀧の方へおいでになりましたので、もう直ぐこれへお歸りで御座いますから、まア、どうぞお二階へ。"
],
[
"いえもうそれは種々な御事情もおありで御座いませうが、……實は高野山から貴下のお出しになつた葉書で、てつきりこちらへおいでになる事も解つてゐましたので、ちやんともうその人相書まで手前の方には解つてゐますので……",
"ナニ、人相書、それなら直ぐその男かどうかといふ事は解りさうなものぢアないか。",
"それがそつくり貴下と符合致しますので、もうお召物の柄まで同じなのですから、……兎に角お二階で暫くお待ち下さいまし、瀧の方へおいでになつた方々にも固く御約束をしておいた事ですから此處でお留め申さないと手前の手落になります樣なわけで……"
],
[
"へへえ、瀧まで御案内致します。",
"いいよ、僕は一人で行ける。",
"へへえ、でもこの雨で道がお危うございますから……",
"大丈夫だ、山道には馴れてる。",
"それでも……",
"オイ、隨いて來ても案内料は出さないよ。",
"いいえ、滅相な、案内料などは……"
],
[
"何丈あるとか云つたネ、あの高さは?",
"八十丈と云つてゐますが、實際は四十八丈だとか云ひます。",
"なアるほど、あいつに飛んだのでは骨も粉もなくなるわけだ。"
]
] | 底本:「若山牧水全集 第五卷」雄鷄社
1958(昭和33)年8月30日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:kamille
校正:林 幸雄
2004年9月25日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "043507",
"作品名": "熊野奈智山",
"作品名読み": "くまのなちさん",
"ソート用読み": "くまのなちさん",
"副題": "",
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"初出": "",
"分類番号": "NDC 915",
"文字遣い種別": "旧字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2004-10-19T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-18T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000162/card43507.html",
"人物ID": "000162",
"姓": "若山",
"名": "牧水",
"姓読み": "わかやま",
"名読み": "ぼくすい",
"姓読みソート用": "わかやま",
"名読みソート用": "ほくすい",
"姓ローマ字": "Wakayama",
"名ローマ字": "Bokusui",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1885-08-24",
"没年月日": "1928-09-17",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "若山牧水全集 第五卷",
"底本出版社名1": "雄鷄社",
"底本初版発行年1": "1958(昭和33)年8月30日",
"入力に使用した版1": "1958(昭和33)年8月30日",
"校正に使用した版1": "1958(昭和33)年8月30日",
"底本の親本名1": "",
"底本の親本出版社名1": "",
"底本の親本初版発行年1": "",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "kamille",
"校正者": "林幸雄",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000162/files/43507_ruby_16548.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2004-09-25T00:00:00",
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"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"やア!",
"やア!"
],
[
"さア、聞いた事はある様だが……",
"此の地方の、先づ名物ですネ、他地方で謂ふ達磨の事です",
"ほゝウ",
"行つて見ませうか、なか〳〵綺麗なのもゐますよ"
],
[
"実はいま井戸の中をも探したのですが……",
"どうしても解らないとしますと駐在所の方へ届けておかねばならぬのですが……"
],
[
"どうして彼処に這入る気になつた",
"解らぬ",
"這入つて、眠つてたのか",
"解らぬ",
"何故戸を閉めてゐた",
"解らぬ",
"何故坐つてゐた",
"解らぬ",
"見附けられてどんな気がした",
"解らぬ"
],
[
"大丈夫か、腰の所を何かで結へようか",
"大、丈、夫です"
]
] | 底本:「現代日本紀行文学全集 中部日本編」ほるぷ出版
1976(昭和51)年8月1日初版発行
※1927(昭和2)年冬記
※「ルツクサツク」と「ルックサック」の混在は、底本通りにしました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:林 幸雄
校正:浅原庸子
2003年10月22日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "004633",
"作品名": "木枯紀行",
"作品名読み": "こがらしきこう",
"ソート用読み": "こからしきこう",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "",
"分類番号": "NDC 915",
"文字遣い種別": "新字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2003-11-01T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-18T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000162/card4633.html",
"人物ID": "000162",
"姓": "若山",
"名": "牧水",
"姓読み": "わかやま",
"名読み": "ぼくすい",
"姓読みソート用": "わかやま",
"名読みソート用": "ほくすい",
"姓ローマ字": "Wakayama",
"名ローマ字": "Bokusui",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1885-08-24",
"没年月日": "1928-09-17",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "現代日本紀行文学全集 中部日本編",
"底本出版社名1": "ほるぷ出版",
"底本初版発行年1": "1976(昭和51)年8月1日",
"入力に使用した版1": "1976(昭和51)年8月1日初版",
"校正に使用した版1": "",
"底本の親本名1": "",
"底本の親本出版社名1": "",
"底本の親本初版発行年1": "",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "林幸雄",
"校正者": "浅原庸子",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000162/files/4633_ruby_13478.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2003-10-22T00:00:00",
"テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"テキストファイル文字集合": "JIS X 0208",
"テキストファイル修正回数": "0",
"XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000162/files/4633_13499.html",
"XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2003-10-22T00:00:00",
"XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"淋しいだらう!",
"え、だけど妾なんか馴れ切つてゐるけれど……兄さんは淋しいで御ざんせう!",
"ウム、まるで死んでるやうだ。",
"マア、斯んな村に居て!"
],
[
"氣に入つたかい?",
"入りやんしたとむ!"
],
[
"オ、然うだ、如何したんだね米ちやん、もつと此方に出ておいでよ、寒いだらう、其處は。",
"エー"
],
[
"戲談ぢやない、まだ眞暗ぢやないか!",
"もう出なさりませう。"
],
[
"千代坊、お前兄さんの御對手をしな。",
"マアー"
],
[
"ア、左樣よ。",
"如何なりました、どうしても千代が行くんですか。",
"どうも左樣でなくてはあの老爺が承知をせんさうだ。あの娘はまたどうでも厭だと言つて、姉に代れとまで拗ねてるんだけど、……姉はまたどうでもいゝツて言つてるんけど……どうしても千代でなくては聽かんと言つてる相だ。因業老爺さねえ。",
"まるで※(けものへん+非)々だ。そんな奴だから、若い女でさへあれば誰だツていゝんでせう。誰か他に代理はありませんかねえ、村の娘で。",
"だつてお前、左樣なるとまた第一金だらう。あの通りの欲張りだから、とても取れさうにない借金の代りにこそ千代を〳〵と言ひ張るのだから。"
],
[
"蒸汽船は大へん苦しいもんだつてが、……誰でも然うなんでせうか?",
"それは勿論人に由るサ、僕なんか一度もまだ醉つたことは無いが……"
],
[
"如何するのだ?",
"如何もせんけど……先日本村のお春さんが豐後の別府に行つてからそんなに手紙を寄越したから……"
],
[
"別府に? 入湯か?",
"イエ、機織の大きな店があつて、其處に……あの人は近頃やつと絹物が織れるやうになつたのだつたが……妾に時々習ひに來よりましたが……"
],
[
"行くつもりかい、お前も!",
"イゝエ!"
],
[
"兄さん、もう皆寢みませうつて。",
"ウム、いま、行く。"
]
] | 底本:「若山牧水全集 第九卷」雄鶏社
1958(昭和33)年12月30日発行
初出:「新聲」
1907(明治40)年12月号
入力:林 幸雄
校正:今井忠夫
2004年1月20日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "004394",
"作品名": "姉妹",
"作品名読み": "しまい",
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"初出": "「新聲」1907(明治40)年12月号",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "旧字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2004-02-21T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-18T00:00:00",
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"姓": "若山",
"名": "牧水",
"姓読み": "わかやま",
"名読み": "ぼくすい",
"姓読みソート用": "わかやま",
"名読みソート用": "ほくすい",
"姓ローマ字": "Wakayama",
"名ローマ字": "Bokusui",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1885-08-24",
"没年月日": "1928-09-17",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "若山牧水全集 第九卷",
"底本出版社名1": "雄鶏社",
"底本初版発行年1": "1958(昭和33)年12月30日",
"入力に使用した版1": "1958(昭和33)年12月30日",
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} |
[
[
"君には兄弟がありますか。",
"いいえ、私一人なのです。",
"学校はいつ卒業です。",
"来年です。",
"歌をばいつから作っていました。",
"いつからと云う事もありませんが、これから一生懸命にやる積りです。"
],
[
"あのお爺さん、金婚式をやったのかね。",
"ヘヘエ、もうそんなお爺さんですか、でもねエ、よく忘れずに斯うして送って呉れますわネ。"
]
] | 底本:「仏教の名随筆 1」国書刊行会
2006(平成18)年6月20日初版第1刷発行
底本の親本:「若山牧水全集 第七卷」雄鷄社
1958(昭和33)年11月30日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2019年7月30日作成
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"作品ID": "058312",
"作品名": "青年僧と叡山の老爺",
"作品名読み": "せいねんそうとえいざんのろうや",
"ソート用読み": "せいねんそうとえいさんのろうや",
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"分類番号": "NDC 914",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2019-08-24T00:00:00",
"最終更新日": "2019-07-30T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000162/card58312.html",
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"姓": "若山",
"名": "牧水",
"姓読み": "わかやま",
"名読み": "ぼくすい",
"姓読みソート用": "わかやま",
"名読みソート用": "ほくすい",
"姓ローマ字": "Wakayama",
"名ローマ字": "Bokusui",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1885-08-24",
"没年月日": "1928-09-17",
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"底本名1": "仏教の名随筆 1",
"底本出版社名1": "国書刊行会",
"底本初版発行年1": "2006(平成18)年6月20日",
"入力に使用した版1": "2006(平成18)年6月20日初版第1刷",
"校正に使用した版1": "2006(平成18)年6月20日初版第1刷",
"底本の親本名1": "若山牧水全集 第七卷",
"底本の親本出版社名1": "雄鷄社",
"底本の親本初版発行年1": "1958(昭和33)年11月30日",
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"入力者": "門田裕志",
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} |
[
[
"酒買うて來て上げやうか。",
"酒……? 飮んでもいいのかい?",
"此處で飮めば解りアせんがナ。",
"さうか、では買つて來て呉れ、二合壜一本幾らだい?",
"三十三錢。"
],
[
"燗をして來てあげやうか。",
"いや、これで結構だ。"
]
] | 底本:「若山牧水全集 第五卷」雄鷄社
1958(昭和33)年8月30日発行
入力:kamille
校正:小林繁雄
2004年7月13日作成
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| {
"作品ID": "043446",
"作品名": "比叡山",
"作品名読み": "ひえいざん",
"ソート用読み": "ひえいさん",
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"分類番号": "NDC 915",
"文字遣い種別": "旧字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2004-08-18T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-18T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000162/card43446.html",
"人物ID": "000162",
"姓": "若山",
"名": "牧水",
"姓読み": "わかやま",
"名読み": "ぼくすい",
"姓読みソート用": "わかやま",
"名読みソート用": "ほくすい",
"姓ローマ字": "Wakayama",
"名ローマ字": "Bokusui",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1885-08-24",
"没年月日": "1928-09-17",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "若山牧水全集 第五卷",
"底本出版社名1": "雄鷄社",
"底本初版発行年1": "1958(昭和33)年8月30日",
"入力に使用した版1": "1958(昭和33)年8月30日",
"校正に使用した版1": "1958(昭和33)年8月30日",
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"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "kamille",
"校正者": "小林繁雄",
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"テキストファイル最終更新日": "2004-07-13T00:00:00",
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} |
[
[
"ヱヽ、どの位ゐの御滯在の御豫定でいらつしやいますか。",
"いゝや、一泊だ、初めてゞ、見物に來たのだ。"
],
[
"イヤ僕等は見物に來たので、出來るならいゝ座敷に通して貰ひ度い、たゞ一晩の事だから。",
"へ、承知しました、どうぞこちらへ。"
],
[
"宿料かい?",
"いゝえ、そのお料理だけです。よそから持つて來たのですから。"
],
[
"少し旅を貪り過ぎた形があるネ、無理をして此處まで來ないで澤渡にあのまゝ泊つておけば昨夜の不愉快は知らずに過ごせたものを……。",
"それにしても昨夜はひどかつたですネ、あんな目に私初めて遭ひました。",
"さうかネ、僕なんか玄關拂を喰つた事もあるにはあるが……、然しあれは丁度いま此の土地の氣風を表はしてゐるのかも知れない。ソレ上州には伊香保があり草津があるでせう、それに近頃よく四萬々々といふ樣になつたものだから四萬先生すつかり草津伊香保と肩を竝べ得たつもりになつて鼻息が荒い傾向があるのだらうと思ふ。謂はゞ一種の成金氣分だネ。",
"さう云へば彼處の湯に入つてる客たちだつてそんな奴ばかりでしたよ、長距離電話の利く處に行つていたんぢやア入湯の氣持はせぬ、朝晩は何だ彼だとかゝつて來てうるさくて仕樣がない、なんて。",
"とにかく幻滅だつた、僕は四萬と聞くとずつと溪間の、靜かなおちついた處とばかり思つてゐたんだが……ソレ僕の友人のS―ネ、あれがこの吾妻郡の生れなんだ、だから彼からもよくその樣に聞いてゐたし……、惜しい事をした。"
],
[
"それは難有う。然しU―君の村は此處から遠いでせう。",
"なアに、一里位ゐのものです。"
],
[
"だから今夜泊つて明日朝早く歸ればいゝぢやないか。",
"やつばりさうも行きましねヱ、いま出かけにもあゝ言ふとりましたから……。"
]
] | 底本:「現代日本紀行文学全集 東日本編」ほるぷ出版
1976(昭和51)年8月1日初版発行
※巻末に1923(大正12)年4月記の記載あり。
※作品中「眞」が29字、「真」が5字使われているが、すべて「眞」に統一して入力した。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:林 幸雄
校正:松永正敏
2004年5月1日作成
2004年8月30日修正
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"作品ID": "004649",
"作品名": "みなかみ紀行",
"作品名読み": "みなかみきこう",
"ソート用読み": "みなかみきこう",
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"副題読み": "",
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"初出": "",
"分類番号": "NDC 915",
"文字遣い種別": "旧字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2004-06-03T00:00:00",
"最終更新日": "2014-10-31T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000162/card4649.html",
"人物ID": "000162",
"姓": "若山",
"名": "牧水",
"姓読み": "わかやま",
"名読み": "ぼくすい",
"姓読みソート用": "わかやま",
"名読みソート用": "ほくすい",
"姓ローマ字": "Wakayama",
"名ローマ字": "Bokusui",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1885-08-24",
"没年月日": "1928-09-17",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "現代日本紀行文学全集 東日本編",
"底本出版社名1": "ほるぷ出版",
"底本初版発行年1": "1976(昭和51)年8月1日",
"入力に使用した版1": "1976(昭和51)年8月1日初版",
"校正に使用した版1": "",
"底本の親本名1": "",
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"底本の親本初版発行年1": "",
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"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
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"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "林幸雄",
"校正者": "松永正敏",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000162/files/4649_ruby_15323.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2004-08-30T00:00:00",
"テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"テキストファイル文字集合": "JIS X 0208",
"テキストファイル修正回数": "1",
"XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000162/files/4649_15562.html",
"XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2004-08-30T00:00:00",
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"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "1"
} |
[
[
"エエ、どの位いの御滞在の御予定で被入っしゃいますか",
"いいや、一泊だ、初めてで、見物に来たのだ"
],
[
"イヤ僕等は見物に来たので、出来るならいい座敷に通して貰い度い、ただ一晩の事だから",
"へ、承知しました、どうぞこちらへ"
],
[
"宿料かい?",
"いいえ、そのお料理だけです、よそから持って来たのですから"
],
[
"少し旅を貪り過ぎた形があるネ、無理をして此処まで来ないで沢渡にあのまま泊っておけば昨夜の不愉快は知らずに過ごせたものを……",
"それにしても昨夜はひどかったですネ、あんな目に私初めて会いました",
"そうかネ、僕なんか玄関払を喰った事もあるにはあるが……、然しあれは丁度いま此の土地の気風を表わしているのかも知れない、ソレ上州には伊香保があり草津があるでしょう、それに近頃よく四万四万という様になったものだから四万先生すっかり草津伊香保と肩を並べ得たつもりになって鼻息が荒い傾向があるのだろうと思う、謂わば一種の成金気分だネ",
"そう云えば彼処の湯に入ってる客たちだってそんな奴ばかりでしたよ、長距離電話の利く処に行っていたんじゃア入湯の気持はせぬ、朝晩に何だ彼だとかかって来てうるさくて為様がない、なんて",
"とにかく幻滅だった、僕は四万と聞くとずっと渓間の、静かなおちついた処とばかり思っていたんだが……ソレ僕の友人のS―ネ、あれがこの吾妻郡の生れなんだ、だから彼からもよくその様に聞いていたし、……、惜しい事をした"
],
[
"それは難有う、然しU―君の村は此処から遠いでしょう",
"なアに、一里位いのものです"
],
[
"だから今夜泊って明日朝早く帰ればいいじゃないか",
"やっぱりそうも行きましねエ、いま出かけにもああ云うとりましたから……"
],
[
"居ますとも、よく啼きますよ",
"郭公は?",
"……?",
"カッコウ、カッコウと啼く、あれです",
"ア、居ます"
],
[
"ねエ君、ついでに峠の下まで送って行こう、何だかもう少し歩き度いとも思うからね",
"そうですか"
],
[
"帰りが大変でしょう",
"帰りかね、……帰りは、なアに大野川の方に廻って今夜は其処で泊って来るよ"
],
[
"登れねエことはねエだが、何しろもう永いこと登って見ねエだからなア、路がどうなってるだかサ",
"上高地の宿屋で今夜詳しい事を訊けばいいじゃアないか、大体の事はお前よく知ってるわけなんだから、路だってそう大した変りはないだろうよ"
],
[
"お蔭で飯もよう喰わんと走り出して来居って……、ひもじゅうて叶わんがな",
"どだい此処等の宿屋の女中があきまへんわ"
],
[
"じっきに出るのはよう解り切ってるのに、まだじゃまだじゃと吐しおって……",
"おなごの手じゃわい、そりゃ",
"ちょっとでも長う楽しもうと思うてけつかるのや"
]
] | 底本:「みなかみ紀行」中公文庫、中央公論社
1993(平成5)年5月10日発行
底本の親本:「みなかみ紀行」書房マウンテン
1924(大正13)年7月
※「陰」と「蔭」、「着いた」と「著いた」、「背」と「脊」、「舟」と「船」、「湯ヶ島」と「湯が島」の混在は、底本通りです。
入力:kompass
校正:岡村和彦
2017年7月11日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "056933",
"作品名": "みなかみ紀行",
"作品名読み": "みなかみきこう",
"ソート用読み": "みなかみきこう",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "",
"分類番号": "NDC 915",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2017-08-24T00:00:00",
"最終更新日": "2017-07-17T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000162/card56933.html",
"人物ID": "000162",
"姓": "若山",
"名": "牧水",
"姓読み": "わかやま",
"名読み": "ぼくすい",
"姓読みソート用": "わかやま",
"名読みソート用": "ほくすい",
"姓ローマ字": "Wakayama",
"名ローマ字": "Bokusui",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1885-08-24",
"没年月日": "1928-09-17",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "みなかみ紀行",
"底本出版社名1": "中公文庫、中央公論社",
"底本初版発行年1": "1993(平成5)年5月10日",
"入力に使用した版1": "1993(平成5)年5月10日",
"校正に使用した版1": "1993(平成5)年5月10日",
"底本の親本名1": "みなかみ紀行",
"底本の親本出版社名1": "書房マウンテン",
"底本の親本初版発行年1": "1924(大正13)年7月",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "kompass",
"校正者": "岡村和彦",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000162/files/56933_ruby_62143.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2017-07-11T00:00:00",
"テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"テキストファイル文字集合": "JIS X 0208",
"テキストファイル修正回数": "0",
"XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000162/files/56933_62144.html",
"XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2017-07-11T00:00:00",
"XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"竹の中から拾つてこの年月、大事に育てたわが子を、誰が迎へに來ようとも渡すものではない。もし取つて行かれようものなら、わしこそ死んでしまひませう",
"月の都の父母は少しの間といつて、私をこの國によこされたのですが、もう長い年月がたちました。生みの親のことも忘れて、こゝのお二人に馴れ親しみましたので、私はお側を離れて行くのが、ほんとうに悲しうございます"
],
[
"それほどになさつても、なんの役にも立ちません。あの國の人が來れば、どこの戸もみなひとりでに開いて、戰はうとする人たちも萎えしびれたようになつて力が出ません",
"いやなあに、迎への人がやつて來たら、ひどい目に遇はせて追っ返してやる"
]
] | 底本:「竹取物語・今昔物語・謠曲物語 No.33」復刻版日本兒童文庫、名著普及会
1981(昭和56)年8月20日発行
底本の親本:「竹取物語・今昔物語・謠曲物語」日本兒童文庫、アルス
1928(昭和3)年3月5日発行
※拗促音の小書きの散在は、底本通りです。
入力:しだひろし
校正:noriko saito
2011年4月3日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "048310",
"作品名": "竹取物語",
"作品名読み": "たけとりものがたり",
"ソート用読み": "たけとりものかたり",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "",
"分類番号": "NDC K913",
"文字遣い種別": "旧字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2011-05-08T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-16T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001072/card48310.html",
"人物ID": "001072",
"姓": "和田",
"名": "万吉",
"姓読み": "わだ",
"名読み": "まんきち",
"姓読みソート用": "わた",
"名読みソート用": "まんきち",
"姓ローマ字": "Wada",
"名ローマ字": "Mankichi",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1865-10-07",
"没年月日": "1934-11-21",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "竹取物語・今昔物語・謠曲物語",
"底本出版社名1": "復刻版日本兒童文庫、名著普及会",
"底本初版発行年1": "1981(昭和56)年8月20日",
"入力に使用した版1": "1981(昭和56)年8月20日",
"校正に使用した版1": "1981(昭和56)年8月20日",
"底本の親本名1": "竹取物語・今昔物語・謠曲物語",
"底本の親本出版社名1": "日本兒童文庫、アルス",
"底本の親本初版発行年1": "1928(昭和3)年3月5日",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "しだひろし",
"校正者": "noriko saito",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001072/files/48310_ruby_42452.zip",
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"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"ええ。",
"五十円もあれば買えるかな?……",
"そりゃあ、買えてよ……"
],
[
"私が上げたくて上げるのだから、へんな風に遠慮なんかするものではないよ。ね、取ってお置き。",
"嫌。あたし、ほんとに要らないんですもの。……まあ、あなた! とてもいいネクタイピンをしていらっしゃるわね。"
],
[
"これかい?――",
"ええ。ダイヤモンドでしょう。あなた、なかなかおしゃれね。",
"――そんな事はどうだっていいじゃないか。それよりも早くこのお金をおしまいなさい。",
"嫌。あたし、そんなに沢山嫌よ。下さるのなら五円でいいの。"
],
[
"理由?",
"うん。……君は今、私のタイピンの事を云ったね。このタイピンがその理由なのだ。まあ聞きたまえ。面白い話なのだから……"
],
[
"おや、君は何を云い出すのだ? 何を泣くんだ?……",
"あたし……あたしがその悪い子だったのよ。",
"え、君が⁈"
],
[
"嫌だわ、あたし、嫌だわ。あたしはもう五円のお金だって欲しくないの一銭もいらないの……",
"これ程事の道理がはっきりわかってもかい? 何という聞きわけのない子だろう!",
"どうしても嫌だわ。なんでもかんでも貰わなければいけないのなら、いっそそのネクタイピンを貰うわ。",
"莫迦な、こんなピン十円にもなりやしない……",
"あら! でも、あんた、今五十円位するってそう云ったでしょう。",
"うん、それは、併し、買値の話だよ。売るとなるとなかなかそうはいかない。",
"あたし売りやしなくってよ。だから、それをちょうだい。",
"わからずやの子だね――"
],
[
"さあ、ほんとにそれでいいかね。……それでは、それでいいものとして、私はもう帰るよ。",
"待って。あたしも帰るわ。"
],
[
"あたし、やっぱりお返しするわ、このピン……",
"うん、それがいい。それがいい。そして、やはりお金を持っておいで――"
],
[
"だって、それでは可笑しいじゃないか――",
"いいの。その代り、お願いがあるのよ。このピンを、もう一っぺん私の手であなたにささせて下さらないこと?……おいや?",
"ちっとも嫌なことはないが、しかし……",
"有難う!"
],
[
"それでお終いにしてもいい。――それだと、それっきりだと誠に可憐でいいではないか。……が、残念なことに未だ少しあとがある。……それは、なぜ僕がその場に雪だるまのようになり乍ら呆然と立ち尽してしまったかと云うことだ。君たちに解るかね?",
"なぜだ?",
"つまり、僕は自分の愚しい思い付きの嘘から、そのオレンジ色の娘に如何にして僕のふところの紙入を盗み取るかを教えてしまったからさ――"
]
] | 底本:「アンドロギュノスの裔」薔薇十字社
1970(昭和45)年9月1日初版発行
初出:「新青年」1927年3月
入力:森下祐行
校正:もりみつじゅんじ
1999年9月14日公開
2007年10月17日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "000883",
"作品名": "嘘",
"作品名読み": "うそ",
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"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「新青年」1927(昭和2)年3月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "1999-09-14T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-17T00:00:00",
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"姓読み": "わたなべ",
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} |
[
[
"十五年?――そんなに経ってしまったのでは、もうまるでおもかげさえもおぼえてはいらっしゃらないかも知れませんね。……いや、実は、あんまりはっきりとしたことを最初からお受合いするわけにもまいらないのですが、少しばかり友達から聞かされましたので……",
"とおっしゃいますと――あの、兄らしいものでも、どこかにいるのでございましょうかしら?",
"まあ、そうなのです。詳しいことを申し上げないとわかりませんが、……大分へんな話なのですよ。それできっと御信用なさらないだろうと思うのですけど。",
"信用いたしますわ……どんなことだって。",
"実は、お驚きになってはいけませんよ、あなたのお兄さんはずっと前からあなたの芝居をあなたとは知らずに始終観に行っていたのです……",
"まあ!……でも、無理もありませんわ。十五年もあわずにいて、しかも舞台顔で、名前までまるっきり変って別の名前なのでございますからね。それに兄だって、まさか私がこんな職業の女になっていようとは、それこそ夢にも考えてみもしませんでしたろうし……",
"ええ、全くそうなのです。兄さんは、あなたと別れて以来、いい具合にもそんなに不仕合せな目にも会わず、殊にこの頃ではお伽噺の作家として割合に評判もよくなって、殆ど不自由なく気ままな暮しをしていますが、やはり一日だってあなたの身の上を忘れることはなく、何とかして早く見つけ出して一緒になりたいと念じていたのでした。そんなにまで心にかけていながら、兄さんとしたことが、あなたの舞台姿を見て、親身の妹の幼顔を思い出すことが出来なかったばかりでなく、――実に怪しからんことにも、あなたにひどく恋してしまったのです。その恋のためには身も世もなくなるほどの気持でしてね……"
],
[
"いやいや、違います。そうではありません。……困ったことというのは、そのえらばれた友達が、よせばいいのに、といったところでいつかは知れるには相違ないことなのですが、あなたへお話する前に、責任を感じたものとみえて、私立探偵に頼んで、あなたの身元をしらべ、その序に兄さんの方も調べてみてもらったところが、図らずもこの二人は元々一本の幹から出たもので、兄さんはどうやらあなたの真実の兄であるらしいということが判ったのです。――さあ、そうなってみると、その友達は途方に暮れてしまいました。なぜといってもしそんなことをうっかり兄さんに打ち明けようものなら、兄さんは失望のあまり、人生を呪って必ずや我身を亡ぼしてしまうに違いないと思ったからです。いっそ、何もわからずに、知らないまんまで、兄と妹とがやみくもにうまく結婚してしまえば何事もなかったろうが、と今更悔んでも追っつきません。到頭その友達は可哀相なことにも、自責の念に堪えかねて、或る夜のことどこかへ逃亡してそれっきり行方も判らなくなってしまったような始末です。",
"…………",
"けれども、一旦私立探偵がそうと嗅ぎつけた以上、たといその友達が姿をくらましたにせよ、そんなことをすればするだけ、いつまでもその秘密が洩れないで済む道理がありません。――或る晩、倶楽部で酔っぱらいの友達同士が、声高らかにその内しょ話をしゃべっているのを私は――そうです、私は、聞いてしまいました。もちろん私たるものの驚きはたとえるものもありません。一体こんな残酷な運命の悪戯を、果してわれわれはそのまま許容してしまっても差閊えないものであろうかと、私は嘆き、悲しみ、憤りました。だが、いずれにしても、こうした事実はお互のために極めて判然とさせなければならないと考えまして、それ以来あらためて自分の手でいろいろ調査をしてみました。そして到頭、今朝になって、その動かすべからざる調査の結果を知り得たのです……"
],
[
"だって僕は、――僕のいおうとしたのは、その調査の結果が、やっぱり僕とあなたとは兄妹ではなくて、その友達が自分も同じようにあなたをすきだったので、そんな出鱈日を捏造したまでであるということなのです……",
"ばか! まだそんなことをいっているの!"
]
] | 底本:「アンドロギュノスの裔」薔薇十字社
1970(昭和45)年9月1日初版発行
初出:「サンデー毎日」
1927(昭和2)年7月
入力:もりみつじゅんじ
校正:田尻幹二
1999年1月27日公開
2003年10月17日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
[
"熱病!",
"熱病……",
"印度洋の熱病だ!",
"印度洋の熱病だ‼"
]
] | 底本:「新青年傑作選 爬虫館事件」角川ホラー文庫、角川書店
1998(平成10)年8月10日初版発行
初出:「新青年」
1927(昭和2)年4月号
入力:網迫、土屋隆
校正:山本弘子
2008年1月25日作成
青空文庫作成ファイル:
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| {
"作品ID": "046404",
"作品名": "氷れる花嫁",
"作品名読み": "こおれるはなよめ",
"ソート用読み": "こおれるはなよめ",
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"初出": "「新青年」1927(昭和2)年4月号",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2008-02-23T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-21T00:00:00",
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"姓": "渡辺",
"名": "温",
"姓読み": "わたなべ",
"名読み": "おん",
"姓読みソート用": "わたなへ",
"名読みソート用": "おん",
"姓ローマ字": "Watanabe",
"名ローマ字": "On",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1902-08-26",
"没年月日": "1930-02-10",
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"底本名1": "新青年傑作選 爬虫館事件",
"底本出版社名1": "角川ホラー文庫、角川書店",
"底本初版発行年1": "1998(平成10)年8月10日",
"入力に使用した版1": "1998(平成10)年8月10日初版",
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} |
[
[
"それでは、一緒に死んで下さらないこと?",
"いいとも。",
"……あなた、華族様なの?"
],
[
"あたし、華族様と二人で死ぬのは、嬉しくってよ。",
"そうかな――"
],
[
"僕は肺病だと思った。",
"かさかきだよ。西洋のひどい奴だそうだ。",
"はて、僕に一緒に死んでくれって、そう云ったが。",
"余程、性悪の女だね。",
"僕は一緒に死ぬことを受け合ったんだよ。そして僕は、肺病のばいきんを口一杯に引き受けてやったんだが。",
"君は、西洋の水兵のかさを引き受けたわけだ。",
"そいつは、弱ったな。"
]
] | 底本:「アンドロギュノスの裔」薔薇十字社
1970(昭和45)年9月1日初版発行
初出:「探偵趣味」1928年4月
入力:森下祐行
校正:もりみつじゅんじ
2000年7月25日公開
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "000746",
"作品名": "シルクハット",
"作品名読み": "シルクハット",
"ソート用読み": "しるくはつと",
"副題": "",
"副題読み": "",
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"初出": "",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2000-07-25T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-17T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000020/card746.html",
"人物ID": "000020",
"姓": "渡辺",
"名": "温",
"姓読み": "わたなべ",
"名読み": "おん",
"姓読みソート用": "わたなへ",
"名読みソート用": "おん",
"姓ローマ字": "Watanabe",
"名ローマ字": "On",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1902-08-26",
"没年月日": "1930-02-10",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "アンドロギュノスの裔",
"底本出版社名1": "薔薇十字社",
"底本初版発行年1": "1970(昭和45)年9月1日",
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"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "森下祐行",
"校正者": "もりみつじゅんじ",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000020/files/746_ruby_28730.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2007-11-23T00:00:00",
"テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"テキストファイル文字集合": "JIS X 0208",
"テキストファイル修正回数": "1",
"XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000020/files/746_28731.html",
"XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2007-11-23T00:00:00",
"XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"どうしたのさ⁈",
"こうなれば、ちよっとお父さんみたいじゃなくなるだろう。……今日お前を連れて遊びに行ったところで、お前を捨ててしまうつもりなんだよ。うまく考えたもんだろう……"
],
[
"お父さんだって? 莫迦だな、君は!……僕がどうして君のお父さんなもんか! もしも、も一度そんな下らない間違いをすると、なぐるぞ!",
"………………"
]
] | 底本:「アンドロギュノスの裔」薔薇十字社
1970(昭和45)年9月1日初版発行
初出:「探偵趣味」
1929(昭和4)年7月
入力:森下祐行
校正:もりみつじゅんじ
1999年7月28日公開
2007年12月20日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "000229",
"作品名": "父を失う話",
"作品名読み": "ちちをうしなうはなし",
"ソート用読み": "ちちをうしなうはなし",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "1999-07-28T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-17T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000020/card229.html",
"人物ID": "000020",
"姓": "渡辺",
"名": "温",
"姓読み": "わたなべ",
"名読み": "おん",
"姓読みソート用": "わたなへ",
"名読みソート用": "おん",
"姓ローマ字": "Watanabe",
"名ローマ字": "On",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1902-08-26",
"没年月日": "1930-02-10",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "アンドロギュノスの裔",
"底本出版社名1": "薔薇十字社",
"底本初版発行年1": "1970(昭和45)年9月1日",
"入力に使用した版1": "",
"校正に使用した版1": "",
"底本の親本名1": "",
"底本の親本出版社名1": "",
"底本の親本初版発行年1": "",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "森下祐行",
"校正者": "もりみつじゅんじ",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000020/files/229_ruby_29037.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2007-12-20T00:00:00",
"テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"テキストファイル文字集合": "JIS X 0208",
"テキストファイル修正回数": "1",
"XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000020/files/229_29038.html",
"XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2007-12-20T00:00:00",
"XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"二人で、どんな話をして遊ぶんだい?",
"あの方、それぁ明けっぴろげで何でも云うの。あたし、幾度も返事が出来なくて困ったわ。",
"たとえば?",
"あのね。……あなたの御主人は、朝お出かけの時、今日はどのネクタイにしようかって、あなたにおききになる? なんて訊くの。",
"返事に困る程でもないじゃないか。",
"それから、あなたが泣くか、っても訊いたわ。",
"僕が泣くか、だって?",
"ええ。あたし、だから、未だ一ぺんもAの泣いたのなんか見たことがありませんて、そう云ったの。",
"してみると、Bの奴女房の前で泣くのかな。――あんな本箱みたいな生物学者を泣かすなんて、どうも偉い細君だな。いやはや。"
],
[
"おとなしくて、いい奥さんね。あなた、随分長いこと愛していらしゃったんでしょう。",
"ええ、子供の時分から知ってたんです。",
"その間、ちっとも浮気をなさらなかったの?",
"勿論、僕は、ひどく何て云うか、ガール・シャイとでも云うんですかね、他の女はみんな怖かったんです。",
"まあ。",
"あなた方は如何だったんです?",
"たった一日恋人だったの。スケート場の宿屋で泊ったのよ。その話は御存知なんでしょう?",
"Bは何とも云いませんでした。",
"フィギュアをやってる時、あの人と衝突して、あたし仰向に倒れて気絶しちゃったの。そうして、介抱して貰ったの。あの人は、とても親切にしてくれましたわ。でも今考えてみると、その女があたしじゃなくてよかったのですわ。",
"何故ですか?",
"だって、あの人、近頃ではあたしの性分があんまり好きじゃなさそうなんですもの。Aの奥さんみたいになれって、毎日あたしを叱るのよ。",
"そりゃあ好かった。家の女房ならば、Bの為事の助手位はやるでしょう。何しろ、自然科学にかけては、僕の十倍も詳しいと云う女ですからね。",
"あたしは頭脳が悪いから駄目。――あたし、いっそBと別れちまおうかしら。……"
],
[
"ごめんよ。さびしかったろう?",
"いいえ……Bさんが鳥渡遊びにいらっしったわ。",
"Bが?",
"怖そうな人ね。それに、まるでだんまりやよ。",
"うん。あれでなかなか気の好いところもあるんだがね。僕たちのことを何も云ってやしなかったかい?",
"別に、でも、一言二言皮肉みたいなことを云ったわ。",
"何て?",
"あなた、気を悪くするかも知れないの。",
"何て云ったい?"
],
[
"フム、学校で生物学の講義でもしていると、どんなことでもそんな風にしか考えられなくなるんだよ。……自分の細君のことは何とも云わなかったかい?",
"――いない方が、邪魔にならなくていいんですって。それに、僕の女房は僕に、A君が気に入っているのだし、A君とならよく似合うから恰度いいだろうって仰有ったわ。",
"下らない! 変な冗談を気にかけちゃいけないよ。僕はBの細君なんかと一緒に行ったって、ちっとも楽しくなんかなかった。本当に、悪かったら、勘弁しておくれ。"
],
[
"なぜ、そんな風に仰有るの?",
"莫迦! 泣く奴があるもんか",
"だって、あなたが、そんなことを仰有るからよ……",
"これから、決してお前ひとり置いて行ったりなどしないよ。……いい子だ、いい子だ。"
],
[
"あなた、なぜ、あたしを捨ててしまおうとなさらないの?",
"僕はお前と別れようなんて夢にも考えてやしないよ。……お前が、お前一人で、僕を堪能させてくれなかったからいけないのだ。結婚したばかりで、妻が夫の心の全部を占領していないなんて間違いだと思う。",
"――別れるの可哀相だから嫌だと云うだけでしょう?"
],
[
"あたしたちのことを⁈",
"そんなに吃驚するところを見ると、お前は僕迄騙していたつもりらしいが、実を云えば、僕なんか、或はお前たち自身よりも、もっと早くお前たちの今日を気がついていたかも知れないのだ。"
],
[
"あなたは、あたしを罠に落そうとなさるんですか? どんなに確かな証拠があって――",
"そう、たった一ぺん、こないだの晩、Aの家のポオチでお前たちが接吻し合っているのを見たきりだが、併し、Aが自分の女房よりお前の方を余計愛していることや、お前が僕よりAを愛していることは、そんな他愛もない証拠などを云々する迄もなく、誰でもお前たちの様子を一目見さえすれば納得が行くに違いない。",
"…………",
"そして、誰だって無理はないと思うことさ。だが、僕をごまかして置こうなんてのは沙汰の限りだ。",
"ああ! あたし、どうすればいいのでしょう。どうしても誘惑に打ち勝てなかったのです。……でも、もういくら悔んだところで、追い付かないことだわ。",
"今更、なまじ後悔なんかされると、恋の神様が戸惑いなさるよ。矢鱈に後悔したり、詑びたりし度がるのは、悪い癖だ。",
"――ごめんなさい。",
"僕は昔からAの性質を知っているが、彼奴は見かけだけ如何にも明快そうにしていて、その実ひどく卑怯な性質だ。気がいいと云えば云えないこともないが、それだからと云って、僕の生活までが、そんな被害を甘んじてうけ入れていられるものではない。",
"あなた、それを承知で、これから乗り込んで行って、どうなさるおつもりなの?",
"適当に自分の決心を実行するだけだ。僕は科学者だから、何時だって冷静に計画を立てることが出来る。",
"決心って、どんなことをなさるの?",
"歯には歯、眼には眼さ。――だがA夫婦と会って見た上でなければ判らない。"
],
[
"僕は、もう当分あなた方に会うまいと思って此処へ来たのだったに!",
"奥さんは、御存知なのですか?",
"僕が残らず喋ってしまったんです。けれども、彼女は何もかも仕方がないと云ってゆるしてくれました。そして、此処へ着くとすぐ自分が勝手にあなた方へ手紙を書いたのです。",
"お互に覚悟を決めようじゃなくって? あたしあなたとなら海へ飛び込むことも出来ますわ。",
"Bは僕を卑怯者だと云ったのですか?",
"あの人は、少しでも曲ったことを許して置けない性分なの。それに、冷静に計画を遣り遂げることが出来ると云っていました。",
"僕は、これ以上卑怯者と譏られないために、もう逃げ隠れはしません。Bが僕に復讐を決心したのなら、平気でそれを受けて見せます。",
"――あたしたちは、お互に、未だ結婚してから一月と経たないのよ。それだのに!……なぜ、神さまは、最初にあたしとあなたとを会わせて下さらなかったのでしょう。……"
],
[
"A。君とはあんまり泳いだことがないが、どの位泳げるんだ?",
"そうだな。子供の時分なら相当泳げた方だが、併しそれも大てい河ばかりで泳いだものだ。",
"それなら確だ。どうだ、一つ遠くへ出て見ようじゃないか?",
"うむ。――"
],
[
"僕は、どうして助かったのですか?",
"Bが助けました。",
"…………",
"Bは大へん心配していました。あなたに、人のいないところで泳ぎながら、あのお話をするつもりだったのですって。",
"うちの女房はどうしたでしょう?",
"奥さんは何も御存知ないの。あなた方が泳ぎはじめると、直ぐに『眩暈がする』と仰有って、宿に戻ったのですけれど、それっきり皆を置いてきぼりにして家へ帰ってしまったらしいの。帳場で聞いたら、ただあなたに『急に思い出したことがあるから――』と云うお言伝だったそうです。",
"Bは?",
"自分の部屋にいます。",
"呼んで来てくれませんか。"
],
[
"ねえ、Aの奥さん。うちの先生はあなたとAさんと、タンゴ・ダンスを踊るのが見たいんですって?",
"まあ、いやですわ。Bの奥さんたら。あたしたちこそ、あなたの先生の優しい助手振りを拝見させて頂きたいものよ。"
]
] | 底本:「アンドロギュノスの裔」薔薇十字社
1970(昭和45)年9月1日初版発行
初出:「新青年」
1929(昭和4)年9月
入力:森下祐行
校正:もりみつじゅんじ
1999年9月14日公開
2008年1月4日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "000373",
"作品名": "花嫁の訂正",
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"ソート用読み": "はなよめのていせい",
"副題": "――夫婦哲学――",
"副題読み": "――ふうふてつがく――",
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"初出": "「新青年」1929(昭和4)年9月",
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[
[
"御存知ですか?",
"左様、婦人の方ならば。ロジタ・フェレスと申される侯爵夫人です。数日前、エグザノ橋の辺で二人の男が彼女のために決闘をして、その一人は死にました。",
"やれやれ、して相手はどうなりました?",
"多分、今一緒にいる男がそうでしょう。",
"山賊みたいな奴ですな。"
],
[
"ザバタスは全く彼の部下のした事を与り知らなかったので、やがてそれを発見するに及んでその無頼漢を縊り殺してしまった上、指輪は侯爵夫人へ送り返したと云う事実を、何故あなたはお考え下さらないのですか?",
"なんですって? そんな事をどうして君は知っているのです?",
"私がそいつを縊り殺したからさ",
"あ、あ、あなたがザバタスなんですか⁉"
],
[
"あなたはなぜあんな出鱈目を仰有ったの?",
"ふっ! 僕はお前とたった二人っきりでこの楽しい旅がしたかったのだよ。――"
]
] | 底本:「時事新報」時事新報社
1927(昭和2)年4月17日
初出:「時事新報」
1927(昭和2)年4月17日
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
※底本は総ルビですが、入力に当たって一部を省略しました。
※「[い]儀深い」と「[おのの]き」の、[]を付した箇所は判読できなかったため、ルビを頼りにこのように入力しました。
※「追剥《をーるどあっぷ》」は「追剥《ほーるどあっぷ》」とも思われましたが、明確に判読できませんでした。
入力:匿名
校正:富田倫生
2012年6月3日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "055103",
"作品名": "薔薇の女",
"作品名読み": "ばらのおんな",
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[
[
"知るもんかさ",
"いやだなあ、ほら、そこのエハガキ屋をごらんなさい。あたしの写真が一っぱい飾ってあるぜ",
"なんだ。キネマの女優になったのか",
"うん。知らないなんて、じゃ、やっぱり戦争に行ってたのは本当だったのね"
],
[
"だって、なかなか豪勢なきもの着てるじゃないか",
"盗んだも同然だよ。毎日いろんな奴を欺してばかりいるんだからね。いいきものを着てない女優なんてありっこないの",
"なぜ、スターに月給どっさり出さないのかね。まさか、みんなそう云うわけでもないだろう?",
"お金なんか沢山出さなくたって、女優はめいめいで稼ぐからいいと、会社じゃそう思っているんだもの、お話にならない",
"馬鹿だなあ",
"役者が、馬鹿なのよ",
"じゃあ、なんだって、そんな馬鹿なものになったんだい?",
"それぁ、仕方がないわ。それじゃ、あんたは、また何だって戦になんか行ったの?",
"おとなりのマメリューク・スルタンの国でパルチザン共がストライキを起こして暴れるので鎮めに行ったのさ",
"よけいなことじゃなくって?",
"そんなこと云うと叱られるよ。パルチザンは山賊も同然だから、もしあんまり増長してそのストライキが蔓延でもしようものなら、あの近所にはセシル・ロードだの山上権左衛門なんて世界中の金満家の会社や山などがあるし、飛んだ迷惑を受けないとも限らぬと云うので、征伐する必要があったんだ",
"金満家が迷惑すれば、あんた方まで戦に行かなければならないの?",
"知らないよ。大将か提督かに聞いておくれ"
],
[
"あんたグレンブルク原作と称する『時は過ぎ行く』見た? カラコラム映画――そんなのあるかな",
"いや、兵隊は活動写真なぞ見ている暇はない。それが、どうかしたのかい?",
"ううん、ただその活動はね、お客へ向って戦争へ行け行けって、やたらに進軍ラッパを吹いたり太鼓鳴らしたりしているの。そしてね、戦場ってものは、みんなが考えてるような悲惨な苦しいものではなくて、案外平和で楽でしかも時々は小唄まじりのローマンスだってあると云うことを説明しているの",
"はてね?",
"それでね、その癖、何のために戦争をするんだか、正義のためにとは云うんだけど、何が正義なんだかちっとも判らないし、第一敵が何処の国やら皆目見当がつかないんだから嫌になっちゃうんだよ",
"そいつは、愉快だね。僕だって、今度の戦争ならば全くそうに違いないと思ったぜ",
"そう。そう云えば、あんたから送って来た戦地のスナップショット、どれもこれも、とてもお天気がいいね。それに塹壕の中には柔かそうな草が生えているし、原っぱはまるで芝生のように平かだし、砲煙弾雨だって全く芝焼位しかないし、あたい兵隊が敵に鉄砲向けているところ、ちょっと見たら、中学生の昼寝じゃないかと思ったわ",
"敵の軍勢がいないんだよ",
"敵がいない戦争なんてあって?",
"本当は、兵隊どもは自分たちの敵を見つけることが出来ないのだとも云える。もっとも、たった一度、我軍のタンクを草むらの中から覗っている野砲があったので、一人の勇士がタンクを乗り捨てて手擲弾でその野砲を退治してみたところが、それもやっぱり敵ではなくて我々と同じようなヘルメットをかぶった味方の兵士だった。それでね、大騒ぎになって、いろいろ調べてみると、莫迦げた話じゃないか、それは何でもトルキスタンあたりの或る活動会社が金儲けのために仕組んだ芝居だったのだ",
"カラコラム映画会社に違いないわ",
"そうかも知れない。つまり、そうすると我々神聖義勇軍たるものは最初から、他人のストライキつぶしと、そんな映画会社の金儲けのために、だしに使われていたのも同然なんだ。キャメラは始終草の茂った塹壕の中や、人の逃げてしまった民家の戸口の蔭なぞにかくれて、我々の行動を撮影していたらしい。そして、時々そんな思い切った出鱈目な芝居をしては『敵兵の暴虐』とか何とかタイトルをつけて、しこたま興行価値を上げようとたくらんだんだ"
],
[
"ブルジュワ・ルージュ。あら、洒落じゃないのよ。本当にそう書いてあるんだもの……それで可哀想に、あんたみたいな、お母さん子までが、そんなに真黒になって、戦に行くなんて、堪らないね",
"義勇軍だから、僕は自ら進んで行ったんだ。ひどい迷信さ",
"あたい、『ビッグ・パレード』だの『ウイングス』で随分教養のある青年達が、ただ兵士募集の触れ太鼓を聞いただけで、理由もわからず暗雲に感動して出征するのを見て、男って野蛮人だなあと思って呆れかえっちゃった",
"それで大入満員だから困る。世界中の一番兵隊に行きそうな何百何千万と云う見物を煽動したり、金を儲けたりするのは、その大勢の見物を陥穽にかけた上、膏血を絞りとるもので、最も不埒な悪徳と云うべきだ",
"活動写真は何よりも容易くて人気のある見せ物だから、活動を見る程の人の大部分は一等戦争やなんかに係りがあるわけだわね",
"うん、だから、そうなると最早や、芸術的価値なぞは問題ではなくて、その製作者こそ本当に見物の敵に他ならなくなるのだ",
"あたし、よく判らないけど、とにかく戦争だけを売物にする映画なんて、その根性が考えられないわ、それだのに、あとからあとから、幾つでも戦争映画ばかりが世の中に出て来るんだもの、そして、到頭、カラコラム映画なんかまでが、真似して『時勢は移る』とか何とかベカベカな偽物をこしらえるんだから助らねえな",
"『時世は移る』と云う自然の道理が解らないのだよ。地球がどんなに規則正しく、決してスピードなんかかけやしないけど、きつきつとして廻っているか、本当に気がついていないのだね"
]
] | 底本:「「探偵趣味」傑作選 幻の探偵雑誌2」ミステリー文学資料館・編、光文社文庫、光文社
2000(平成12)年4月20日初版1刷発行
初出:「探偵趣味」
1928(昭和3)年7月号
入力:網迫、土屋隆
校正:noriko saito
2005年6月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "044722",
"作品名": "兵士と女優",
"作品名読み": "へいしとじょゆう",
"ソート用読み": "へいしとしよゆう",
"副題": "",
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"初出": "「探偵趣味」1928(昭和3)年7月号",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2005-08-12T00:00:00",
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"姓": "渡辺",
"名": "温",
"姓読み": "わたなべ",
"名読み": "おん",
"姓読みソート用": "わたなへ",
"名読みソート用": "おん",
"姓ローマ字": "Watanabe",
"名ローマ字": "On",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1902-08-26",
"没年月日": "1930-02-10",
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"底本名1": "「探偵趣味」傑作選 幻の探偵雑誌2",
"底本出版社名1": "光文社文庫、光文社",
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