chats
sequence | footnote
stringlengths 163
3.16k
| meta
dict |
---|---|---|
[
[
"陸に棲む沙魚なんです。蘆の根から這い上がって、其処らへ樹上りをする……性が魚だからね、あまり高くは不可ません。猫柳の枝なぞに、ちょんと留まって澄ましている。人の跫音がするとね、ひっそりと、飛んで隠れるんです……この土手の名物だよ。……劫の経た奴は鳴くとさ",
"なんだか化けそうだね",
"いずれ怪性のものです。ちょいと気味の悪いものだよ"
]
] | 底本:「高野聖」集英社文庫、集英社
1992(平成4)年12月20日第1刷発行
1993(平成5)年6月5日第2刷発行
初出:「文章世界」
1909(明治42)年7月
※修正箇所は「鏡花全集 卷十二」(岩波書店、1942)を参照しました。
入力:門田裕志
校正:土屋隆
2008年12月5日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "003647",
"作品名": "海の使者",
"作品名読み": "うみのししゃ",
"ソート用読み": "うみのししや",
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"原題": "",
"初出": "「文章世界」1909(明治42)年7月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2008-12-30T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-21T00:00:00",
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"姓": "泉",
"名": "鏡花",
"姓読み": "いずみ",
"名読み": "きょうか",
"姓読みソート用": "いすみ",
"名読みソート用": "きようか",
"姓ローマ字": "Izumi",
"名ローマ字": "Kyoka",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1873-11-04",
"没年月日": "1939-09-07",
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"底本名1": "高野聖",
"底本出版社名1": "集英社文庫、集英社",
"底本初版発行年1": "1992(平成4)年12月20日",
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"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"出帆に、もう、そんなに間もねえからな。",
"おお、暑い、暑い。",
"ああ暑い。"
],
[
"火事だぞ。",
"あら、大変。",
"大いよ!"
],
[
"きゃッ。",
"わッ。"
],
[
"火事じゃあねえ、竜巻だ。",
"やあ、竜巻だ。",
"あれ。"
],
[
"可恐い……",
"…………",
"どうしましょうねえ。"
]
] | 底本:「泉鏡花集成7」ちくま文庫、筑摩書房
1995(平成7)年12月4日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第二十卷」岩波書店
1941(昭和16)年5月20日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2009年1月29日作成
2009年4月10日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "048328",
"作品名": "瓜の涙",
"作品名読み": "うりのなみだ",
"ソート用読み": "うりのなみた",
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"初出": "",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2009-03-28T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-21T00:00:00",
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"人物ID": "000050",
"姓": "泉",
"名": "鏡花",
"姓読み": "いずみ",
"名読み": "きょうか",
"姓読みソート用": "いすみ",
"名読みソート用": "きようか",
"姓ローマ字": "Izumi",
"名ローマ字": "Kyoka",
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"生年月日": "1873-11-04",
"没年月日": "1939-09-07",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "泉鏡花集成7",
"底本出版社名1": "ちくま文庫、筑摩書房",
"底本初版発行年1": "1995(平成7)年12月4日第1刷",
"入力に使用した版1": "1995(平成7)年12月4日第1刷",
"校正に使用した版1": "1995(平成7)年12月4日第1刷",
"底本の親本名1": "鏡花全集 第二十卷",
"底本の親本出版社名1": "岩波書店",
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"XHTML/HTMLファイル修正回数": "1"
} |
[
[
"何ぢや、もの貰か。白癡め、此方衆の前もある。己が知己のやうに聞えるわ、コナ白癡が。",
"ヒヤアもし、乞食ではござりませんでござります。はあ、旅の畫師ぢやげにござりやして。",
"然ぢやで云ふわい。これ、田舍𢌞りの畫師と、もの貰ひと、どれだけの相違がある。はツ〳〵。"
],
[
"兎角夏向きになりますと、得て然う云ふ蟲が湧くでえすな。",
"何も慰み、一つ此へ呼んで、冷かして遣りは如何でございませう。",
"龍虎梅竹、玉堂富貴、ナソレ牡丹に芍藥、薄に蘭、鯉の瀧登りがと云ふと、鮒が索麺を食つて、柳に燕を、倒に懸けると、蘆に雁とひつくりかへる……ヨイ〳〵と云ふ奴でさ。些と御祕藏の呉道子でも拜ませて、往生をさせてお遣んなさいまし。"
],
[
"雜と私が住居と思へば可いの。ぢやが、恁う門が閉つて居つては、一向出入りも成るまいが。第一私が許さいではお主も此處へは通れぬと云つた理合ぢや。我が手で描きながら、出入りも出來ぬとあつては、畫師も不自由なものぢやが、なう。",
"御鑑定。"
],
[
"否、不束ではございますが、我が手で拵へましたもの、貴下のお許しがありませんでも、開閉は自由でございます。",
"噫帖然一紙。"
]
] | 底本:「鏡花全集 巻二十七」岩波書店
1942(昭和17)年10月20日第1刷発行
1988(昭和63)年11月2日第3刷発行
※題名の下にあった年代の注を、最後に移しました。
※表題は底本では、「畫《ゑ》の裡《うち》」とルビがついています。
入力:門田裕志
校正:川山隆
2011年8月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "004596",
"作品名": "画の裡",
"作品名読み": "えのうち",
"ソート用読み": "えのうち",
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"原題": "",
"初出": "",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "旧字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2011-09-05T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-16T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card4596.html",
"人物ID": "000050",
"姓": "泉",
"名": "鏡花",
"姓読み": "いずみ",
"名読み": "きょうか",
"姓読みソート用": "いすみ",
"名読みソート用": "きようか",
"姓ローマ字": "Izumi",
"名ローマ字": "Kyoka",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1873-11-04",
"没年月日": "1939-09-07",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "鏡花全集 巻二十七",
"底本出版社名1": "岩波書店",
"底本初版発行年1": "1942(昭和17)年10月20日",
"入力に使用した版1": "1988(昭和63)年11月2日第3刷",
"校正に使用した版1": "1976(昭和51)年1月6日第2刷 ",
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} |
[
[
"…………",
"糠袋を頬張って、それが咽喉に詰って、息が塞って死んだのだ。どうやら手が届いて息を吹いたが。……あとで聞くと、月夜にこの小路へ入る、美しいお嬢さんの、湯帰りのあとをつけて、そして、何だよ、無理に、何、あの、何の真似だか知らないが、お嬢さんの舌をな。"
],
[
"厭だ、小母さん。",
"大丈夫、私がついているんだもの。",
"そうじゃない。……小母さん、僕もね、あすこで、きれいなお嬢さんに本を借りたの。",
"あ。"
],
[
"――絵解をしてあげますか……(註。草双紙を、幼いものに見せて、母また姉などの、話して聞かせるのを絵解と言った。)――読めますか、仮名ばかり。",
"はい、読めます。",
"いい、お児ね。"
]
] | 底本:「泉鏡花集成8」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年5月23日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第二十三卷」岩波書店
1942(昭和17)年6月22日第1刷発行
初出:「文藝春秋 第四年第一號」
1926(大正15)年1月
入力:本山智子
校正:門田裕志
2001年6月25日公開
2012年9月14日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "003245",
"作品名": "絵本の春",
"作品名読み": "えほんのはる",
"ソート用読み": "えほんのはる",
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"原題": "",
"初出": "「文藝春秋 第四年第一號」1926(大正15)年1月",
"分類番号": "NDC 914",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2001-06-25T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-17T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card3245.html",
"人物ID": "000050",
"姓": "泉",
"名": "鏡花",
"姓読み": "いずみ",
"名読み": "きょうか",
"姓読みソート用": "いすみ",
"名読みソート用": "きようか",
"姓ローマ字": "Izumi",
"名ローマ字": "Kyoka",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1873-11-04",
"没年月日": "1939-09-07",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "泉鏡花集成8",
"底本出版社名1": "ちくま文庫、筑摩書房",
"底本初版発行年1": "1996(平成8)年5月23日",
"入力に使用した版1": "1996(平成8)年5月23日第1刷",
"校正に使用した版1": "",
"底本の親本名1": "鏡花全集 第二十三卷",
"底本の親本出版社名1": "岩波書店",
"底本の親本初版発行年1": "1942(昭和17)年6月22日",
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"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
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"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "本山智子",
"校正者": "門田裕志",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/3245_ruby_19569.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2012-09-14T00:00:00",
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"テキストファイル文字集合": "JIS X 0208",
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"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "2"
} |
[
[
"あゝもし、一寸。",
"は、私……でございますか。"
],
[
"唐突にお呼び申して失禮ですが、",
"はい。"
],
[
"此から何方へ行らつしやる?……何、病院へお見舞のやうにお見受け申します。……失禮ですが、",
"えゝ、然うなんでございます。"
],
[
"をかしな奴が一人、此方側の土塀の前に、砂利の上に踞みましてね、通るものを待構へて居るんです。",
"えゝ、をかしな奴が、――待構へて――あの婦をですか。",
"否、御婦人に限つた事はありますまいとも。……現に私が迷惑をしたんですから……誰だつて見境はないんでせう。其奴が砂利を掴んで滅茶々々擲附けるんです。",
"可厭ですねえ。"
],
[
"まあ、然うらしく思ふんです。",
"氣の毒ですわね。"
],
[
"貴方、何うしたら可いでせうね、私……",
"成りたけ遠く離れて、向う側をお通んなさい。何なら豫め其の用心で、丁ど恁うして人通りはなし――構はず駈出したら可いでせう……",
"私、駈けられませんの。"
],
[
"苦しくつて。",
"成程、駈けられますまいな。"
],
[
"何だか、昔の道中に、山犬が出たと云う時のやうですが。",
"否、山犬ならまだしもでございます……そんな人……氣味の惡い、私、何うしませう。"
],
[
"貴方、……然う仰有いましたんですねえ。",
"當推ですがね。",
"でも何だか、そんな口を利くやうですと。……あの、どんな、一寸どんな風な男でせう?",
"然うですね、年少な田舍の大盡が、相場に掛つて失敗でもしたか、婦に引掛つて酷く費消過ぎた……とでも云ふのかと見える樣子です。暑くるしいね、絣の、大島か何かでせう、襟垢の着いた袷に、白縮緬の兵子帶を腸のやうに卷いて、近頃誰も着て居ます、鐵無地の羽織を着て、此の温氣に、めりやすの襯衣です。そして、大開けに成つた足に、ずぼんを穿いて、薄い鶸茶と云ふ絹の、手巾も念入な奴を、あぶらぎつた、じと〳〵した首、玉突の給仕のネクタイと云ふ風に、ぶらりと結んで、表の摺切れた嵩高な下駄に、兀げた紺足袋を穿いて居ます。",
"それは〳〵……"
],
[
"そして、塀際に居ますんですね……踞んで、",
"えゝ、此方の。"
],
[
"上り角から見えますか。",
"見えますとも、乾溝の背後がずらりと垣根で、半分折れた松の樹の大な根が這出して居ます。其前に、束ねた黒土から蒸氣の立つやうな形で居るんですよ。",
"可厭な、土蜘蛛見たやうな。"
],
[
"矢張り石を投げて居ましたか。",
"何ですか恁うやつて、"
],
[
"病院へ、",
"はあ、",
"其奴は困りましたな。"
],
[
"いや、其は私が弱りました。知らずにおいでなされば何の事はないものを。",
"あら、貴方、何の事はない……どころなもんですか。澤山ですわ。私は最う……",
"否、雖然、不意だつたら、お遁げなすつても濟んだんでせう。お怪我ほどもなかつたんでせうのに。",
"隨分でござんすのね。"
],
[
"しかし、折角、御遠方からぢやありませんか。",
"築地の方から、……貴方は?",
"……芝の方へ、"
],
[
"同じ電車でござんすのね。",
"然やう……"
],
[
"や、惜い、貴女。",
"否、志です……病人が夢に見てくれますでせう。……もし、恐入りますが、"
],
[
"では、御一所に。",
"まあ、嬉しい。"
],
[
"……拾つたんですよ。此の手紙は、",
"え、"
],
[
"見せて下さい、一寸、何うぞ、一寸、何うぞ。",
"さあ〳〵。……"
],
[
"よく、拾つて下すつた。",
"まあ、嬉しい事、"
],
[
"何處でお拾ひ下すつた。",
"直き其處で。最う其處へ參りますわ、坂の下です。……今しがた貴方にお目に掛ります、一寸前。何ですか、フツと打棄つて置けない氣がしましたから。……それも殿方のだと、何ですけれど、優しい御婦人のお書でしたから拾ひました。尤も、あの、にせて殿方のてのやうに書いてはありますけれど、其は一目見れば分りますわ。"
],
[
"否。",
"大切な事なんですから。もしか御覽なすつたら、構ひません、――言つて下さい、見たと、貴女、見たと……構はないから言つて下さい。"
],
[
"まあ、そんなに御大切なものなんですか……",
"ですから、其ですから、失禮だけれどもお聞き申すんです。",
"大丈夫、中を見はしませんよ。"
],
[
"貴女をお疑ひ申すんぢやない。もと〳〵封の切れて居る手紙ですから、たとひ御覽に成つたにしろ、其を兎や角う言ふのぢやありません。が、又それだと其のつもりで、どんなにしても、貴女に、更めてお願ひ申さなければ成らない事もあるんですから。……",
"他言しては不可い、極の祕密に、と言ふやうな事なんですわね。"
],
[
"ですから眞個の事を云つて下さい、見たなら見たと、……頼むんですから。",
"否、見はいたしませんもの、ですがね。旗野さん、"
],
[
"あゝ、先方の方がお羨しい。そんなに御苦勞なさるんですか。",
"其の人が、飛んだことに成りますから。",
"だつて、何の企謀を遊ばすんではなし、主のある方だと云つて、たゞ夜半忍んでお逢ひなさいます、其のあの、垣根の隙間を密とお知らせだけの玉章なんですわ。――あゝ、此處でしたよ。"
],
[
"あゝ、籠から……",
"構ふもんですか。"
],
[
"旗野さん、",
"…………",
"貴方の祕密が、私には知れましても、お差支へのない事をお知らせ申しませうか、――餘り御心配なすつておいとしいんですもの。眞個に、殿方はお優しい。"
],
[
"何うして、何うしてです。",
"あのね、見舞ひに行きますのは、私の主人……まあ、旦那なんですよ。",
"如何にも。"
]
] | 底本:「鏡花全集 巻十五」岩波書店
1940(昭和15)年9月20日第1刷発行
1987(昭和62)年11月2日第3刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:川山隆
2011年8月6日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "004584",
"作品名": "艶書",
"作品名読み": "えんしょ",
"ソート用読み": "えんしよ",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "旧字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2011-09-09T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-16T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card4584.html",
"人物ID": "000050",
"姓": "泉",
"名": "鏡花",
"姓読み": "いずみ",
"名読み": "きょうか",
"姓読みソート用": "いすみ",
"名読みソート用": "きようか",
"姓ローマ字": "Izumi",
"名ローマ字": "Kyoka",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1873-11-04",
"没年月日": "1939-09-07",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "鏡花全集 巻十五",
"底本出版社名1": "岩波書店",
"底本初版発行年1": "1940(昭和15)年9月20日第1刷 ",
"入力に使用した版1": "1987(昭和62)年11月2日第3刷",
"校正に使用した版1": "1975(昭和50)年 1月6日第2刷",
"底本の親本名1": "",
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"底本出版社名2": "",
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"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
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"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "門田裕志",
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} |
[
[
"何という人だ。名札はあるかい。",
"いいえ、名札なんか用りません。誰も知らないもののない方でございます。ほほほ、",
"そりゃ知らないもののない人かも知れんがね、よそから来た私にゃ、名を聞かなくっちゃ分らんじゃないか、どなただよ。"
],
[
"そんな顔をなすったってようございます。ちっとも恐くはありませんわ。今にすぐにニヤニヤとお笑いなさろうと思って。昨夜あんなに晩うくお帰りなさいました癖に、",
"いや、"
],
[
"どこにも香水なんぞありはしないよ。",
"じゃ、あの床の間の花かしら、"
],
[
"花といえば、あなたおあい遊ばすのでございましょうね、お通し申しましてもいいんですね。",
"串戯じゃない。何という人だというに、",
"あれ、名なんぞどうでもよろしいじゃありませんか。お逢いなされば分るんですもの。",
"どんな人だよ、じれったい。",
"先方もじれったがっておりましょうよ。",
"婦人か。"
],
[
"ご存じの癖に、",
"どんな婦人だ。"
],
[
"何だ、もう帰ったのか。",
"ええ、",
"だってお気の毒様だと云うじゃないか。"
],
[
"あら、まあ!",
"お伺い下すって?"
],
[
"まあ!",
"お帳場にお待ち申しておりましたんですけれども、おかみさんが二階へ行っていいから、とそうおっしゃって下さいましたもんですから……"
],
[
"お目にかかられますでしょうか。",
"ご勝手になさいまし。"
],
[
"お入ンなさい、",
"は、"
],
[
"ずっとお入んなさい、構やしません。",
"はい。"
],
[
"済みませんこと。",
"いやいや、驚いたって、何に、その驚いたんじゃない。はははは、吃驚したんじゃないよ。まあ、よく来たねえ。"
],
[
"聞きましょうとも。その肖たという事の次第を話すがね、まあ、もっとお寄んなさい。大分眩しそうだ。どうも、まともに日が射すからね。さあ、遠慮をしないで、お敷きなさい。こうして尋ねて来なすった時はお客様じゃないか。威張って、威張って。",
"いいえ、どういたしまして、それでは……"
],
[
"実はもうちっと間があると、お前さんが望みとあれば、今夜にもまた昨夜の家へ出向いて行って、陽気に一つ話をするんだがね、もう東京へ発程んだからそうしてはいられない。",
"はい、あの、私もそれを承りましたので、お帰りになりません前と存じまして、お宿へ、飛だお邪魔をいたしましてございますの。"
],
[
"喫むだろう。",
"生意気でございますわ。",
"遠慮なしにお喫り、お喫り。上げようか、巻いたんでよけりゃ。",
"いいえ、持っておりますよ。"
],
[
"さて、その事だが、",
"はあ、"
],
[
"お墓所もご存じない。",
"はい、何にも知りません。あなたは、よく私の両親の事をご存じでいらっしゃいます、せめて、その、その百人一首でも見とうござんすのにね。……"
],
[
"墓の所をご存じではござんすまいか。",
"……困ったねえ。門徒宗でおあんなすったっけが、トばかりじゃ……"
],
[
"松葉越に見えましょう。あの山は、それ茸狩だ、彼岸だ、二十六夜待だ、月見だ、と云って土地の人が遊山に行く。あなたも朝夕見ていましょう。あすこにね、私の親たちの墓があるんだが、その居まわりの回向堂に、あなたの阿母さんの記念がある。",
"ええ。",
"確にあります、一昨日も私が行って見て来たんだ。そこへこれからお伴をしよう、連れて行って上げましょう、すぐに、"
],
[
"しかし、それはどうとも都合が出来よう。",
"まあ、ほんとうでございますか。"
],
[
"さっきのが……声だよ。お前さん、そう恐がっちゃいかん。一生懸命のところじゃないか。",
"あの、梟が鳴くんですかねえ。私はまた何でしょうと吃驚しましたわ。"
],
[
"鬼の額だよ、額が上っているんだよ。",
"どこにでございます。"
],
[
"私が居るから恐くはないよ。",
"ですから、こうやって、こうやって居れば恐くはないのでございます。"
],
[
"よく、参らっしゃる、ちとまた休んでござれ。",
"ちょっと休まして頂くかも知れません。爺さんは、",
"私かい。講中にちっと折込みがあって、これから通夜じゃ、南無妙、"
],
[
"何、構やしないよ。",
"うんにゃよ、お前さまは構わっしゃらいでも、はははは、それ、そちらの姊さんが濡れるわ、さあさあ、ささっしゃい。",
"済みませんねえ、"
],
[
"でも、お爺さん、あなたお濡れなさいましょう。",
"私は濡れても天日で干すわさ。いや、またまこと困れば、天神様の神官殿別懇じゃ、宿坊で借りて行く……南無妙、"
],
[
"おお、名物の梟かい。",
"いいえ、それよりか、そのもみじ狩の額の鬼が、",
"ふむ、"
],
[
"はい、あなた飛んだご迷惑でございます。",
"私はちっとも迷惑な事はないが、あなた、それじゃいかん。路はまだそんなでもないから、跣足には及ぶまいが、裾をぐいとお上げ、構わず、",
"それでも、"
],
[
"まあ、直そこでございますね。",
"一飛びだから、梟が迎いに来たんだろう。",
"あれ。",
"おっと……番毎怯えるな、しっかりと掴ったり……",
"あなた、邪慳にお引張りなさいますな。綺麗な草を、もうちっとで蹈もうといたしました。可愛らしい菖蒲ですこと。",
"紫羅傘だよ、この山にはたくさん吹く。それ、一面に。"
]
] | 底本:「ちくま日本文学全集 泉鏡花」筑摩書房
1991(平成3年)10月20日初版発行
1995(平成7年)8月15日第2刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第十一卷」岩波書店
初出:「新小説」
1907(昭和40)年1月
※底本の編者による語注は省略しました。
入力:牡蠣右衛門
校正:門田裕志
2001年10月19日公開
2018年3月7日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
[
"また鼻が鳴りますね……澤山然うなさい、中屋の小僧に遣つ了ふから……",
"眞平御免。"
],
[
"手巾の洗つたの、ビスミツト、紙に包んでありますよ。寶丹、鶯懷爐、それから膝栗毛が一册、いつも旅と云ふと持つておいでなさいますが、何になるんです。",
"道中の魔除に成るのさ。"
],
[
"しかし、一件は?",
"紙入に入つて居ます、小さいのが蝦蟇口……"
],
[
"間に合ひましたぜ。",
"御苦勞でした。"
],
[
"時間外に成るんですが。",
"は、結構でございます。"
],
[
"それだけ賃錢が餘分に成ります。",
"はい〳〵。"
],
[
"道修町と云ふだがね。",
"ひや、同心町。",
"同心町ではなささうだよ、――保險會社のある處だがね。",
"保險會社ちふとこは澤山あるで。",
"成程――町名に間違はない筈だが、言ひ方が違ふかな。",
"何處です、旦那。"
],
[
"分つた、そりや道修町や。",
"そら、北や。",
"分つたかね。",
"へい、旦那……乘んなはれ。"
]
] | 底本:「鏡花全集 巻二十七」岩波書店
1942(昭和17)年10月20日第1刷発行
1988(昭和63)年11月2日第3刷発行
初出:「新小説 第二十三年第十号」春陽堂
1918(大正7)年10月1日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「種痘」に対するルビの「しゆとう」と「うゑばうさう」の混在は、底本の通りです。
※表題は底本では、「大阪《おほさか》まで」となっています。
※題名の下にあった年代の注を、最後に移しました。
入力:門田裕志
校正:岡村和彦
2018年7月27日作成
2018年8月28日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "050794",
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"作品名読み": "おおさかまで",
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} |
[
[
"ほんとに御苦労様でした。",
"はいはい、これはまあ、御丁寧な、御挨拶痛み入りますこと。お勝手からこちらまで、随分遠方でござんすからねえ。",
"憚り様ね。",
"ちっとも憚り様なことはありやしません。謹さん、",
"何ね、",
"貴下、その(憚り様ね)を、端書を読む、つなぎに言ってるのね。ほほほほ。"
],
[
"お話しなさい。",
"難有う、",
"さあ、こちらへ。",
"はい、誠にどうも難有う存じます、いいえ、どうぞもう、どうぞ、もう。",
"早速だ、おやおや。",
"大分丁寧でございましょう。",
"そんな皮肉を言わないで、坊やは?",
"寝ました。",
"母は?"
],
[
"貴女にあまえているんでしょう。どうして、元気な人ですからね、今時行火をしたり、宵の内から転寝をするような人じゃないの。鉄は居ませんか。",
"女中さんは買物に、お汁の実を仕入れるのですって。それから私がお道楽、翌日は田舎料理を達引こうと思って、ついでにその分も。",
"じゃ階下は寂しいや、お話しなさい。"
],
[
"ここが開いていちゃ寒いでしょう。",
"何だかぞくぞくするようね、悪い陽気だ。"
],
[
"開ッ放しておくからさ。",
"でもお民さん、貴女が居るのに、そこを閉めておくのは気になります。"
],
[
"お礼に継いで上げましょうね。",
"どうぞ、願います。",
"まあ、人様のもので、義理をするんだよ、こんな呑気ッちゃありやしない。串戯はよして、謹さん、東京は炭が高いんですってね。"
],
[
"吝なことをお言いなさんな、お民さん、阿母は行火だというのに、押入には葛籠へ入って、まだ蚊帳があるという騒ぎだ。",
"何のそれが騒ぎなことがあるもんですか。またいつかのように、夏中蚊帳が無くっては、それこそお家は騒動ですよ。"
],
[
"まさか、蚊に喰殺されたという話もない。そんな事より、恐るべきは兵糧でしたな。",
"そうだってねえ。今じゃ笑いばなしになったけれど。",
"余りそうでもありません。しかしまあ、お庇様、どうにか蚊帳もありますから。"
],
[
"何、私より阿母ですよ。",
"伯母さんにも聞きました。伯母さんはまた自分の身がかせになって、貴下が肩が抜けないし、そうかといって、修行中で、どう工面の成ろうわけはないのに、一ツ売り二つ売り、一日だてに、段々煙は細くなるし、もう二人が消えるばかりだから、世間体さえ構わないなら、身体一ツないものにして、貴下を自由にしてあげたい、としょっちゅうそう思っていらしったってね。お互に今聞いても、身ぶるいが出るじゃありませんか。"
],
[
"もう、その度にね、私はね、腰かけた足も、足駄の上で、何だって、こう脊が高いだろう、と土間へ、へたへたと坐りたかった。",
"まあ、貴下、大抵じゃなかったのねえ。"
],
[
"すっかり忘れていた、お庇さまで火もよく起ったのに。",
"お湯があるかしら。"
],
[
"お民さんが来てから、何となく勝手が違って、ちょっと他所から帰って来ても、何だか自分の内のようじゃないんですよ。",
"あら、"
],
[
"そんな気でいった、内らしくないではない、その下宿屋らしくないと言ったんですよ。",
"ですからね、早くおもらいなさいまし、悪いことはいいません。どんなに気がついても、しんせつでも、女中じゃ推切って、何かすることが出来ませんからね、どうしても手が届かないがちになるんです。伯母さんも、もう今じゃ、蚊帳よりお嫁が欲いんですよ。"
],
[
"この髪を挘りたくなるような思いをさせられるに極ってるけれど、東京へ来たら、生意気らしい、気の大きくなった上、二寸切られるつもりになって、度胸を極めて、伯母さんには内証ですがね、これでも自分で呆れるほど、了簡が据っていますけれど、だってそうは御厄介になっても居られませんもの。",
"いつまでも居て下さいよ。もう、私は、女房なんぞ持とうより、貴女に遊んでいてもらう方が、どんなに可いから知れやしない。"
],
[
"謹さん、",
"ええ、"
],
[
"ほんとうですか。",
"ほんとうですとも、まったくですよ。",
"ほんとうに、謹さん。",
"お民さんは、嘘だと思って。",
"じゃもういっそ。"
],
[
"も、貴下、どうして、そんなに、優くいって下さるんですよ。こうした私じゃありませんか。",
"貴女でなくッて、お民さん、貴女は大恩人なんだもの。",
"ええ? 恩人ですって、私が。",
"貴女が、",
"まあ! 誰方のねえ?",
"私のですとも。"
],
[
"お民さん、",
"謹さん、"
],
[
"飛んだ事を、串戯じゃありません、そ、そ、そんな事をいって、譲(小児の名)さんをどうします。",
"だって、だって、貴下がその年、その思いをしているのに、私はあの児を拵えました。そんな、そんな児を構うものか。"
],
[
"お民さん。",
"…………",
"国へ、国へ帰しやしないから。",
"あれ、お待ちなさい伯母さんが。",
"どうした、どうしたよ。"
],
[
"どうしたの、酷く怯えたようだっけ。",
"夢を見たかい、坊や、どうしたのだねえ。"
],
[
"鼬が、阿母さん。",
"ええ、"
],
[
"おお、そうかい、夢なんですよ。",
"恐かったな、恐かったな、坊や。",
"恐かったね。"
],
[
"謹さん。",
"…………",
"翌朝のお米は?"
]
] | 底本:「泉鏡花集成4」ちくま文庫、筑摩書房
1995(平成7)年10月24日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第九巻」岩波書店
1942(昭和17)年3月30日第1刷発行
入力:門田裕志
校正:今井忠夫
2003年8月31日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "003649",
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"名読みソート用": "きようか",
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"名ローマ字": "Kyoka",
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"没年月日": "1939-09-07",
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"入力者": "門田裕志",
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[
[
"奥様、魚屋が参りました。",
"大きな声をおしでないよ。"
],
[
"おいでなさい、奥様、へへへへへ。",
"お止しってば、気障じゃないか。お源もまた、"
],
[
"お前もやっぱり言うんだもの、半纏着た奥様が、江戸に在るものかね。",
"だって、ねえ、めのさん。"
],
[
"それじゃ御新造かね。",
"そんなお銭はありやしないわ。",
"じゃ、おかみさん。",
"あいよ。",
"へッ、"
],
[
"相かわらず大な尻だぜ、台所充満だ。串戯じゃねえ。目量にしたら、およそどのくれえ掛るだろう。",
"お前さんの圧ぐらい掛ります。",
"ああいう口だ。はははは、奥さんのお仕込みだろう。",
"めの字、",
"ええ、",
"二階にお客さまが居るじゃないか、奥様はおよしと言うのにね。",
"おっと、そうか、"
],
[
"何だって、日蔭ものにして置くだろう、こんな実のある、気前の可い……",
"値切らない、",
"ほんによ、所帯持の可い姉さんを。分らない旦じゃねえか。",
"可いよ。私が承知しているんだから、"
],
[
"何があるの。",
"へ、野暮な事を聞くもんだ。相変らず旨えものを食してやるのよ。黙って入物を出しねえな。",
"はい、はい、どうせ無代価で頂戴いたしますものでございます。めのさんのお魚は、現金にも月末にも、ついぞ、お代をお取り遊ばしたことはございません。",
"皮肉を言うぜ。何てったって、お前はどうせ無代価で頂くもんじゃねえか。",
"大きに、お世話、御主人様から頂きます。",
"あれ、見や、島田を揺ってら。",
"ちょいと、番ごといがみあっていないでさ。お源や、お客様に御飯が出そうかい。",
"いかがでございますか、婦人の方ですから、そんなに、お手間は取れますまい。"
],
[
"刺身かい。",
"そうね、"
],
[
"ついでに少々お焼きなさいますなぞもまた、へへへへへ、お宜しゅうございましょう。御婦人のお客で、お二階じゃ大層お話が持てますそうでございますから。",
"憚様。お客は旦那様のお友達の母様でございます。"
],
[
"凹んだな。いつかの新ぎれじゃねえけれど、めの公塩が廻り過ぎたい。",
"そういや、めの字、"
],
[
"過日頼んだ、河野さん許へ、その後廻ってくれないッて言うじゃないか、どうしたの?",
"むむ、河野ッて。何かい、あの南町のお邸かい。",
"ああ、なぜか、魚屋が来ないッて、昨日も内へ来て、旦那にそう言っていなすったよ。行かないの、",
"行かねえ。",
"ほんとうに、",
"行きませんとも!",
"なぜさ、",
"なぜッて、お前、あん獣ア、"
],
[
"めのさん、",
"何だ。",
"めのさんや。お前さんちょいと、お二階に来ていらっしゃるのはその河野さんの母様じゃないか、気をお着けな。"
],
[
"ホイ阿陀仏、へい、あすこにゃ隠居ばかりだと思ったら……",
"いいえね、つい一昨日あたり故郷の静岡からおいでなすったんですとさ。私がお取次に出たら河野の母でございます、とおっしゃったわ。",
"だから、母様が見えたのに、おいしいものが無いッて、河野さんが言っていなすったのさ、お前、",
"おいしいものが聞いて呆れら。へい、そして静岡だってね。",
"ああ、"
],
[
"せんこうッて誰のこったね。",
"内の、お友達よ。河野さんは、学士だとか、学者だとか、先生だとか言うこッたから、一ツ奉って呼んだのよ。"
],
[
"はははははは、今日あ、",
"何かい、それで腹を立って行かないのかい。"
],
[
"そらよ、こっちが旦の分。こりゃお源坊のだ。奥様はあらが可い、煮るとも潮にするともして、天窓を噛りの、目球をつるりだ。",
"私は天窓を噛るのかい。"
],
[
"田舎ものめ、河野の邸へ鞍替しろ、朝飯に牛はあっても、鯛の目を食った犬は昔から江戸にゃ無えんだ。",
"はい、はい、"
],
[
"あれ、邪険にお踏みでない。私の情人が居るんだから。",
"情人がね。",
"へい、"
],
[
"変ってますね。",
"見せようか。",
"是非お目に懸りてえね。",
"お待ちよ、"
],
[
"蛙だ、蛙だ。はははは、こいつア可い。なるほど蔦ちゃんの情人かも知れねえ。",
"朧月夜の色なんだよ。"
],
[
"どうしたの。",
"可訝しいぜ。"
],
[
"あれが、今のが、その、河野ッてえのの母親かね、静岡だって、故郷あ、",
"ああ。",
"家は医師じゃねえかしらん。はてな。",
"どうした、め組。"
],
[
"お早うござい。",
"何が早いものか。もう午飯だろう、何だ御馳走は、"
],
[
"ははあ、鯛だな。",
"鯛とおっしゃいよ、見ッともない。"
],
[
"他の魚屋の商うのは鯛さ、め組のに限っちゃ鯛よ、なあ、めい公。",
"違えねえ。",
"だって、貴郎は柄にないわ、主公様は大人しく鯛魚とおっしゃるもんです、ねえ、めのさん。",
"違えねえ。"
],
[
"何にしろ、ああ腹が空いたぜ。",
"そうでしょうッて、寝坊をするから、まだ朝御飯を食らないもの。",
"違えねえ、確にアリャ、"
],
[
"後姿に惚れたのかい。おい、もう可い加減なお婆さんだぜ。",
"だって貴郎にゃお婆さんでも、め組には似合いな年紀ごろだわ。ねえ、ちょいと、",
"へへへ、違えねえ。",
"よく、(違えねえ。)を云う人さ。",
"だから、確だろうと思うんでさ。"
],
[
"え、何を。",
"文でも届けてくれじゃないか。",
"御串戯。いえさ、串戯は止して今のお客は直ぐに南町の家へ帰りそうな様子でしたかね。",
"むむ、ずッと帰ると言ったっけ。",
"難有え、"
],
[
"後を慕って、おおそうだ、と遣れ。",
"行くのかい、河野さんへ。",
"ちょっぴりね、",
"じゃ可いけれど。貴郎、"
],
[
"めい公がね、また我儘を云って困ったんですよ。お邸風を吹かしたり、お惣菜並に扱うから、河野さんへはもう行かないッて。折角お頼まれなすったものを、貴郎が困るだろうと思って、これから意見をしてやろうと思った処だったのよ。",
"そうか。"
],
[
"御覧なさい。そうすると急にあの通り。ほんとうに気が変るっちゃありやしない。まるで猫の目ね。",
"違えねえ、猫の目の犬の子だ。どっこい忙がしい、"
],
[
"待て、待て、",
"沢山よ。貴郎の分は三切あるわ。まだ昨日のも残ってるじゃありませんか。めのさん、可いんだよ。この人にね、お前の盤台を覗かせると、皆欲がるンだから……",
"これ、"
],
[
"端近で何の事たい、野良猫に扱いやあがる。",
"だっ……て、",
"め組も黙って笑ってる事はない、何か言え、営業の妨害をする婦だ。",
"肯かないよ、めの字、沢山なんだから、",
"まあ、お前、",
"いいえ、沢山、大事な所帯だわ。",
"驚きますな。",
"私、もう障子を閉めてよ。",
"め組、この体だ。",
"へへへ、こいつばかりゃ犬も食わねえ、いや、四寸ずつ食りまし。",
"おい、待てと云うに。",
"さっさとおいでよ、魚屋のようでもない。",
"いや、遣瀬がねえ。"
],
[
"なあ、め組。",
"ええ、",
"これから河野へ行くんだろう。",
"三枚並で駈附けまさ。",
"それに就いてだ、ちょいと、ここに話が出来た。"
],
[
"茶はないのか。",
"お茶ッて? 有りますわ。ほほほほ、まあ、人に叱言を云う癖に、貴郎こそ端近で見ッともないじゃありませんか―ありますわ―さあ、あっちへいらっしゃい。"
],
[
"へい、跡は明晩……じゃねえ、翌の朝だ。",
"待なッてば、",
"可いよ、めのさん。"
],
[
"と行る一件だ。",
"め組に……",
"沢山だ、沢山だ。私なら、"
],
[
"それッきり、五日の間行方知れずになっちまう。",
"旦那、こうなると頂きてえね、人間は依怙地なもんだ。",
"可いから、己が承知だから、",
"じゃ、め組に附合って、これから遊びにでも何でもおいでなさい。お腹が空いたって私、知らないから。さあ、そこを退いて頂戴よ、通れやしないわね。",
"ああ、もしもし、"
],
[
"御立腹の処を重々恐縮でございますが、おついでに、手前にも一杯、同じく冷いのを、",
"知りませんよ。"
],
[
"今度八丁堀の私の内へ遊びに来ておくんなせえ。一番私がね、嚊々左衛門に酒を強請る呼吸というのをお目にかけまさ。",
"女房が寄せつけやしまい、第一吃驚するだろう、己なんぞが飛込んじゃ、山の手から猪ぐらいに。所かわれば品かわるだ、なあ、め組。"
],
[
"ところで、ちと申かねるが、今の河野の一件だ。",
"何です、旦、"
],
[
"誰が、誰があんな許へ、私ア今も、だからそう云ってたんで、頼まれたッて行きゃしねえ。",
"ところが、また何か気が変って、三枚並で駈附けるなぞと云うからよ。",
"そりゃ、何でさ、ええ、ちょいとその気になりゃなッたがね、商いになんか行くもんか。あの母親ッて奴を冷かしに出かける肝でさ。",
"そういう料簡だから、お前、南町御構いになるんだわ。"
],
[
"お客様は、め組の事を、何か文句を言ったんですか。",
"文句はこっちにあるんだけれど、言分は先方にあったのよ。"
],
[
"さあ、茶を一ツ飲みたまえ。時に、お茶菓子にも言分があるね、もうちっとどうか腹に溜りそうなものはないかい。",
"貴郎のように意地汚ではありません。め組は何にも食べやしないのよ。",
"食べやしねえばかりじゃありませんや、時々、このせいで食べられなくなる騒ぎだ。へへへ、"
],
[
"め組は可いが己の方さ、何とももって大空腹の所だから。",
"ですから御飯になさいなね、種々な事を言て、お握飯を拵えろって言いかねやしないんだわ。"
],
[
"その気なきにしもあらずだよ。",
"可い加減になさいまし、め組は商売がありますよ。疾くお話しなさいなね。",
"そう、そう。いや、可い気なもんです。"
],
[
"わざわざその断りに来なすったの。",
"そうばかりじゃなかったが、まあ、それも一ツはあった。",
"仰山だわねえ。",
"ちと仰山なようだけれど、お邸つき合いのお勝手口へ、この男が飛込んだんじゃ、小火ぐらいには吃驚したろう。馴れない内は時々火事かと思うような声で怒鳴り込むからな。こりゃ世話をしたのが無理だった。め組怒っちゃ不可い。",
"分った……"
],
[
"旦那、てっきりそうだ、だから、私ア違えねえッて云ったんだ。彼奴、兇状持だ。",
"ええ―"
],
[
"何だ、何だ、兇状とは。",
"あの、河野さんの母様がかい。"
],
[
"あれでなくって、兇状持は、誰なもんかね、",
"ほほほ、貴郎、真面目で聞くことはないんだわ。め組の云う兇状持なら、あの令夫人がああ見えて、内々大福餅がお好きだぐらいなもんですよ。お彼岸にお萩餅を拵えたって、自分の女房を敵のように云う人だもの。ねえ、そうだろう。めの字、何か甘いものが好なんだろう。",
"いずれ、何か隠喰さ、盗人上戸なら味方同士だ。",
"へへ、その通り、隠喰いにゃ隠喰いだが、喰ったものがね、",
"何だ、",
"馬でさ。",
"馬だと……",
"旅俳優かい。",
"いんや、馬丁……貞造って……馬丁でね。私が静岡に落ちてた時分の飲友達、旦那が戦争に行った留守に、ちょろりと嘗めたが、病着で、噯の出るほど食ったんだ。"
],
[
"ねえ、大勢小児がありましょう。",
"南町の学士先生もその一人、何でも兄弟は大勢ある。八九人かも知れないよ、いや、ほんとうなら驚いたな。",
"おお、待ちねえ、その先生は幾歳だね。",
"六か、七だ。"
],
[
"危え、危え、冷かしに行くどころじゃねえ。鰒汁とこいつだけは、命がけでも留められねえんだから、あの人のお酌でも頂き兼ねねえ。軍医の奥さんにお手のもので、毒薬装られちゃ大変だ。だが、何だ、旦那も知らねえ顔でいておくんねえ、とかく町内に事なかれだからね。",
"ああ、お前ももうおいででない。",
"行くもんか、行けったってお断りだ。お断り、へへへ、お断り、"
],
[
"厭な人だよ。仕様がないね、さあ、茶碗をお出しなね。",
"おお、"
],
[
"真砂町の、",
"や、先生か。"
],
[
"いえ、お嬢様でございます。",
"嬢的、お妙さんか。"
],
[
"大変でございます。お台所口へいらっしゃいます。",
"ええ、こちらへ、"
],
[
"ええ、酒屋の小僧が、ぞんざいだものでございますから。",
"ちょいと、溢したの。やっぱり悪戯な小僧さん? 犬にばっかり弄っているんでしょう、私ン許のも同一よ。"
],
[
"お裾が汚れます、お嬢様。",
"いいえ、可のよ、"
],
[
"あの、お惣菜になすって下さい。",
"どうも恐れ入ります。",
"旨くはありませんよ、どうせ、お手製なんですから。"
],
[
"お内ですか。",
"はい、",
"主税さんは……あの旦那様は、"
],
[
"驚かしちゃ、私厭ですよ。",
"じゃ、なぜそんな水口からなんぞお入んなさいます。ちゃんと玄関へお出迎いをしているじゃありませんか。",
"それでもね、"
],
[
"お惣菜なんか持込むのに、お玄関からじゃ大業ですもの。それに、あの、花にも水を遣りたかったの。",
"綺麗ですな、まあ、お源、どうだ、綺麗じゃないか。"
],
[
"同じく頂戴が出来ますんで?",
"どうしようかしら。お茶を食るんなら可けれど、お酒を飲んじゃ、可哀相だわ。",
"え、酒なんぞ。",
"厭な、おほほ、主税さん、飲んでるのね。",
"はは、はは、さ、まあ、二階へ。"
],
[
"成程、今日は日曜ですな。",
"どうせ、そうよ、(日曜)が遊びに来たのよ。"
],
[
"いや、恐縮。ですが今日のは、こりゃ逆上せますんですよ。前刻朝湯に参りました。",
"父様もね、やっぱり朝湯に酔うんですよ。不思議だわね。"
],
[
"平に、奥様には御内分。貴女また、早瀬が朝湯に酔っていたなぞと、お話をなすっては不可ませんよ。",
"ほんとうに貴郎の半分でも、父様が母様の言うことを肯くと可いんだけれど、学校でも皆が評判をするんですもの、人が悪いのはね、私の事を(お酌さん。)なんて冷評すわ。",
"結構じゃありませんか。",
"厭だわ、私は。",
"だって、貴女、先生がお嬢さんのお酌で快く御酒を召食れば、それに越した事はありません。後にその筋から御褒美が出ます。養老の滝でも何でも、昔から孝行な人物の親は、大概酒を飲みますものです。貴女を(お酌さん。)なぞと云う奴は、親のために焼芋を調え、牡丹餅を買い……お茶番の孝女だ。"
],
[
"私は、もう帰ります。",
"御串戯をおっしゃっては不可ません。これからその焼芋だの、牡丹餅だの。",
"ええ、私はお茶番の孝女ですから。",
"まあ、御褒美を差上げましょう。"
],
[
"お客様があったのね。お邪魔をしたのじゃありませんか。",
"いいえ、もう帰った後です。",
"厭な人ね?"
],
[
"見たんですか。",
"見やしませんけれど、御覧なさいな。お茶台に茶碗が伏っているじゃありませんか、お茶台に茶碗を伏せる人は、貴下嫌だもの、父様も。"
],
[
"誰方なの?",
"御存じのない者です。河野と云う私の友達……来ていたのはその母親ですよ。"
],
[
"その母様と云うのは、四十余りの、あの、若造りで、ちょいとお化粧なんぞして、細面の、鼻筋の通った、何だか権式の高い、違って?",
"まったく。どうして貴女、",
"私の学校へ、参観に。"
],
[
"相変らず辛抱が出来ないか。",
"うむ、何、そうでもない。母様が可愛がってくれるから、来ている間は内も愉快だよ。賑じゃあるし、料理が上手だからお菜も旨いし、君、昨夜は妹たちと一所に西洋料理を奢って貰った、僕は七皿喰った。ははは、"
],
[
"ええ、隊長、ちと謹んでくれないか。",
"母様の来ている内は謹慎さ。"
],
[
"じゃあ色気より食気の方だ、何だか自棄に食うようじゃないか。しかし、まあそれで済みゃ結構さ。",
"済みやしないよ、七皿のあとが、一銚子、玉子に海苔と来て、おひけとなると可いんだけれど、やっぱり一人で寝るんだから、大きに足が突張るです。それに母様が来たから、ちっとは小遣があるし、二三時間駈出して行って来ようかと思う。どうだろう、君、迷惑をするだろうか。"
],
[
"何が迷惑さ。君の身体で、御自分お出かけなさるに、ちっとも迷惑な事はない。迷惑な事はないが……",
"いや、ところが今夜は、君の内へ来たことを、母様が知ってるからね。今のような話じゃ、また君が引張出したように、母様に思われようかと、心配をするだろうと云うんだ。",
"お疑いなさるは御勝手さ。癪に障ればったって、恐い事、何あるものか、君の母親が何だ?"
],
[
"そう云っちまえば、実も蓋もない。痛くない腹を探られるのは、僕だって厭だ。それにしても早瀬へ遊びに行くと云う君に、よく故障を入れなかったね。",
"うむ、そりゃあれです、君に逢わない内は疑っていないでもなかったがね、"
],
[
"昨日逢ってから、そうした人じゃないようだ、と頷いていた。母様はね、君、目が高いんだ、いわゆる士を知る明ありだよ。",
"じゃ、何か、士を知る明があって、それで、何か、そうした人じゃないようだ、(ようだ。)とまだ疑があるのか。",
"だってただ一面識だものね、三四度交際って見たまえ。ちゃんと分るよ、五度とは言わない。",
"何も母様に交際うには当らんじゃないか。せめて年増ででもあればだが、もう婆さまだ。"
],
[
"まあ、可い加減にして、疾く一人貰っちゃどうだ。人の事より御自分が。そうすりゃ遊蕩も留みます。安保箭五郎悪い事は言わないが、どうだ。",
"むむ、その事だがね。"
],
[
"実はその事なんだ。",
"何がその事だ。",
"やっぱりその事だ。",
"いずれその事だろう。",
"ええ、知ってるのか。",
"ちっとも知らない、"
],
[
"実はね、母様も云ったんだ、君に相談をして見ろと……",
"縁談だね、真面目な。"
],
[
"ううむ、違うよ。",
"違う。じゃ誰だい。"
],
[
"真砂町の、",
"真砂町⁉"
],
[
"知らなかったかな、君は。随分その方へかけちゃ、脱落はあるまいに。",
"洋燈台下暗しで、(と大に洒落れて、)さっぱり気が付かなかった。君ン許へもちょいちょい遊びに来るんだろう。",
"お成りがあるさ。僕には御主人だ。",
"じゃ一度ぐらい逢いそうなものだった。"
],
[
"どうもこうも無いさ。母様と二人で参観に出掛けたんだ。教頭は僕と同窓だからね。先にから来て見い、来て見い、と云うけれど、顔の方じゃ大した評判の無い学校だから、馬鹿にしていたが驚いたね。勿論五年級にゃ佳いのが居ると云ったっけが、",
"じゃあその教頭、媒酌人も遣るんだな。"
],
[
"遣るさ。そのかわり待合や、何かじゃ、僕の方が媒酌人だよ。",
"怪しからん。黒と白との、待て? 海老茶と緋縮緬の交換だな。いや、可い面の皮だ。ずらりと並べて選取りにお目に掛けます、小格子の風だ。",
"可いじゃないか、学校の目的は、良妻賢母を造るんだもの、生理の講義も聞かせりゃ、媒酌もしようじゃあないか。"
],
[
"成程、",
"勿論人を見てするこッた、いくら媒酌人をすればッて、人ごとに許しゃしない。そこは地位もあり、財産もあり、学位も有るもんなら、"
],
[
"講堂で良妻賢母を拵えて、ちゃんと父兄に渡す方が、双方の利益だもの。教頭だって、そこは考えているよ。",
"で何かね、"
],
[
"そこで僕の、僕の先生の娘を見たんだな。",
"ああ、しかも首席よ。出来るんだね。そうして見た処、優美で、品が良くって、愛嬌がある。沢山ない、滅多にないんだ。高級三百顔色なし。照陽殿裏第一人だよ。あたかも可、学校も照陽女学校さ。"
],
[
"河野!",
"ええ、",
"それから。おい、肝心な処だ。フム、"
],
[
"浮気ものめ。",
"浮気じゃない、今度ばかしゃ大真面目だがね、君、どうかなるまいか。"
],
[
"貰うさ。",
"え。",
"お貰いなさい。",
"くれようか。",
"話によっちゃ、くれましょう。",
"後継者じゃないんだね。",
"勿論後継者じゃあない。"
],
[
"もう一度聞こう、何だっけな。先方の身分?",
"うむ、先方の身分さ。",
"独逸文学者よ、文学士だ……大学教授よ。知ってるだろう、私の先生だ。",
"むむ、そりゃ分ってるがね、妙子の品行の点もあり、",
"それから、",
"遺伝さ、",
"肺病かね、",
"親族関係、交友の如何さ。何、友達の事なんぞ、大した条件ではないよ。結婚をすれば、処女時代の交際は自然に疎くなるです。それに母様が厳しく躾れば、その方は心配はないが、むむ、まだ要点は財産だ。が、酒井は困っていやしないだろうか。誰も知った侠客風の人間だから、人の世話をすりゃ、つい物費も少くない。それにゃ、評判の飲酒家だし、遊ぶ方も盛だと云うし、借金はどうだろう。"
],
[
"すると何かね、婿を選ぶにも、およそその条件が満足に解決されないと不可んのだね。",
"勿論さ、だから、皆円満に遣っとるよ。第一の姉が医学士さね、直の妹の縁附いているのが、理学士。その次のが工学士。皆食いはぐれはないさ。……今また話しのある四番目のも医学士さ、",
"妙に選取って揃えたもんだな。"
],
[
"不可いよ。",
"なぜかい?"
],
[
"なぜと云って、",
"はははは、そこが、肝心な処だ、と母様が云ったんだ。"
],
[
"怪しからん事を云うな、串戯とは違う、大切なお嬢さんだ。",
"その大切のお嬢さんをどうかしているんじゃないか、それとも心で思ってるんか。",
"怪しからん事を云うなと云うのに。",
"じゃ確かい。",
"御念には及びません。",
"そんなら何も、そう我が河野家の理想に反対して、人が折角聞こうとする、妙子の容子を秘さんでも可いじゃないか。話が纏まりゃ、その人にも幸福だよ、河野一党の女王になるんだ。"
],
[
"しかし縁起だ、こりゃ一本貰って行くよ。妙子が御持参の花だから、",
"…………",
"君がどうと云う事も無いのなら、一本二本惜むにゃ当るまい、こんなに沢山あるものを、",
"…………",
"失敬、"
],
[
"はい、これは柳橋流と云うんです。柳のように房々活けてありましょう、ちゃんと流儀があるじゃありませんか。",
"嘘を吐きたまえ、まあ可いから、僕が惚込んだ花だから。"
],
[
"ええ、ありますとも、主税と云ってね。",
"それ見ろ、早瀬、",
"何だ、お前、",
"いいえ、貴下、この花を引張るのは、私を口説くのと同一訳よ。主があるんですもの。さあ、引張って御覧なさい。"
],
[
"大分御意に召しましたようで、えへへ。",
"幾干だい。"
],
[
"高価い!",
"お品が少うげして、へへへ、当節の九星早合点、陶宮手引草などと云う活版本とは違いますで、",
"何だか知らんが、さんざ汚れて引断ぎれているじゃないか。",
"でげすがな、絵が整然としておりますでな、挿絵は秀蘭斎貞秀で、こりゃ三世相かきの名人でげす。"
],
[
"半分か。",
"へい。",
"それだって廉くはない。"
],
[
"半価値は酷うげす。植木屋だと、じゃあ鉢は要りませんか、と云って手を打つんでげすがな。画だけ引剥して差上げる訳にも参りませんで。どうぞ一番御奮発を願いてえんで。五銭や十銭、旦那方にゃ何だけの御散財でもありゃしません。へへへへへ、",
"一体高過ぎる、無法だよ。"
],
[
"用らないものを、何だって価を聞くんだ。素見すのかい、お前は、",
"…………",
"素見すのかよ。"
],
[
"早瀬。",
"はい、"
],
[
"散歩でございます。",
"わざわざ、ここの縁日へ出て来たのか。",
"いいえ、実は……"
],
[
"どちらへ?",
"俺か。",
"ずッと御帰宅でございますか。"
],
[
"奥さんが、お風邪気でいらっしゃいますそうで、不可ませんでございます。",
"逢ったか。",
"いえ、すやすやお寐みだと承りましたから、御遠慮申しました。",
"妙は居たかい。",
"四谷へ縁附いております、先のお光をお連れなさいまして、縁日へ。",
"そうか、娘が出歩行くようじゃ、大した御容態でもなしさ。"
],
[
"攫られたのかい。",
"はい、"
],
[
"早瀬、",
"は、",
"降りるんだ。"
],
[
"大層な要害だな。",
"物騒ですもの。",
"ちっとは貯蓄ったか。"
],
[
"お珍らしいこと。",
"…………。"
],
[
"私には解りません、姉さんにお見せなさいまし、今に帰りますから、",
"そう目前が利かないから、お茶を挽くのよ。当節は女学生でも、今頃は内には居ない。ちっと日比谷へでも出かけるが可い。",
"憚様、お座敷は宵の口だけですよ。"
],
[
"自分で起て。少いものが、不精を極めるな。",
"厭ですよ。ちゃんと番をしていなくっては。姉さんに言いつかっているんだから。"
],
[
"ちっと透かさないか、籠るようだ。",
"縁側ですか。",
"ううむ、"
],
[
"お出花を、早く、",
"はあ、",
"熱くするんだよ。",
"これ、小児ばっかり使わないで、ちっと立って食うものの心配でもしろ。民はどうした、あれは可い。小老実に働くから。今に帰ったら是非酌をさせよう。あの、愛嬌のある処で。",
"そんなに、若いのが好なら、御内のお嬢さんが可いんだわ。ねえ早瀬さん。"
],
[
"妙も近頃は不可くなったよ。奥方と目配をし合って、とかく銚子をこぎって不可ん。第一酌をしないね。学校で、(お酌さん。)と云うそうだ。小児どもの癖に、相応に皮肉なことを云うもんだ。",
"貴郎には小児でも、もうお嫁入盛じゃありませんか。どうかすると、こっちへもいらっしゃる、学校出の方にゃ、酒井さんの天女が、何のと云っちゃ、あの、騒いでおいでなさるのがありますわ。",
"あの、嬰児をか、どこの坊やだ。",
"あら、あんなことを云って。こちらの早瀬さんなんかでも、ちょうど似合いの年紀頃じゃありませんか。"
],
[
"おい、阿婆は?",
"もう寐ました。",
"いや、老人はそう有りたい。"
],
[
"大な湯覆しだな、お前ン許のは。",
"あんな事ばかり云って、"
],
[
"そこで、御馳走は、",
"綱次さんが承知をしてます。",
"また寄鍋だろう、白滝沢山と云う。",
"どうですか。"
],
[
"ええ。",
"先刻の三世相を見せろ。"
],
[
"あれはどうした。",
"え、",
"俺はさっぱり山手になって容子を知らんが、相変らず繁昌か。"
],
[
"そりゃ可い事をした、泥水稼業を留めたのは芽出度い。で、どこに居る、当時は………よ?",
"私はよく存じませんので……あの、どこか深川に居るんですって。",
"深川? 深川と云う人に落籍されたのか、川向うの深川かい。",
"…………。"
],
[
"薄情でない! 薄情さ。懇意な婦の、居処を知らなけりゃ薄情じゃないか。",
"だって、貴郎。だって、先方でも、つい音信をしないもんですから、",
"先方が音信をしなくっても、お前の薄情は帳消は出来ん。なぜこっちから尋ねんのだ。こんな稼業だから、暇が無い。行通はしないでも、居処が分らんじゃ、近火はどうする! 火事見舞に町内の頭も遣らん、そんな仲よしがあるものか、薄情だよ、水臭いよ。"
],
[
"先生、",
"早瀬!"
],
[
"邪魔を……私、私が、邪魔なんぞいたしますものでございますか。",
"邪魔をしない! 邪魔をせんものが、縁談の事に付いて、坂田が己に紹介を頼んだ時、お前なぜそれを断ったんだ。",
"…………",
"なぜ断った?",
"あんな、道学者、"
],
[
"他の事とは違います、聞棄てになりません。私は、私は、これは、改めて、坂田に談じなければなりません。",
"何だ、坂田に談じる? 坂田に談じるまでもない。己がそう思ったらどうするんだ、先生が、そう思ったら何とするよ。",
"誰が、先生、そんな事。",
"いいや、内の玄関の書生も云った、坂田が己の許へ来たと云うと、お前の目の色が違うそうだ。車夫も云った、車夫の女房も云ったよ。(誰か妙の事を聞きに来たものはないか。)と云って、お前、車屋でまで聞くんだそうだな。恥しくは思わんか、大きな態をしやあがって、薄髯の生えた面を、どこまで曝して歩行いているんだ。"
],
[
"早瀬さんに、どんな仕損いが、お有んなすったか存じませんが、決して、お内や、お嬢さんの……(と声が曇って、)お為悪かれ、と思ってなすったんじゃござんすまいから、",
"何だ。為悪かれ、と思わん奴が、なぜ芸者を引摺込んで、師匠に対して申訳のないような不埒を働く。第一お前も、"
],
[
"そんな、貴郎、難有がってるなんのッて、",
"難有くないものを、なぜ俺の大事な弟子に蔦吉を取持ったんだい!"
],
[
"覚悟がある、何の覚悟だ。己に申訳が無くって、首を縊る覚悟か。",
"いえ、坂田の畜生、根もない事を、",
"馬鹿!"
],
[
"恐入ったか、どうだ。",
"ですが、全く、その、そんな事は……",
"無い?",
"…………",
"芸者は内に居ないと云うのか。",
"はい。"
],
[
"申訳がございません。とんだ連累でお在んなさいます。どうぞ、姉さんには、そんな事をおっしゃいません様に、私を御存分になさいまして。",
"存分にすれば蹴殺すばかりよ。"
],
[
"いや、不可ん、許しやしないよ。",
"そう仰有って下さいますのも、世間を思って下さいますからでございます。もう、私は、自分だけでは、決心をいたしまして、世間には、随分一人前の腕を持っていながら、財産を当に婿養子になりましたり、汝が勝手に嫁にすると申して、人の娘の体格検査を望みましたり、"
],
[
"女学校の教師をして、媒妁をいたしましたり……それよりか、拾人の無い、社会の遺失物を内へ入れます方が、同じ不都合でも、罪は浅かろうと存じまして。それも決して女房になんぞ、しますわけではございません。一生日蔭ものの下女同様に、ただ内証で置いてやりますだけのことでございますから。",
"血迷うな。腕があって婿養子になる、女学校で見合をする、そりゃ勝手だ、己の弟子じゃないんだから、そのかわり芸者を内へ入れる奴も弟子じゃないのだ、分らんか。"
],
[
"遠慮なく出懸けるが可い、しかし猥褻だな。",
"あら、なぜ?",
"十一時過ぎてからの座敷じゃないか。",
"御免なさいよ、苦界だわ。ねえ、早瀬さん、さあ、めしあがれよ、ぐうと、",
"いいえ、もう、"
],
[
"御贔屓の民子ちゃんが、大江山に捕まえられていますから、助出しに行くんだわ。渡辺の綱次なのよ。",
"道理こそ、鎖帷子の扮装だ。",
"錣のように、根が出過ぎてはしなくって。姉さん、"
],
[
"おいしいものが、直ぐにあとから、",
"綱次姉さん、また電話よ。"
],
[
"さあ、一ツ遣ろう。どうだ、別離の杯にするか。",
"…………",
"それとも婦を思切るか。芳、酌いでやれ、おい、どうだ、早瀬。これ、酌いでやれ、酌がないかよ。"
],
[
"身につまされたもんだから、とうとうこんな事にしてしまって、元はと云えば……",
"そんな、貴女が悪いなんて、そんな事があるもんですか。"
],
[
"お帰んなさるの。",
"謹が病気よ。"
],
[
"もし、",
"…………",
"先刻アどうも。よく助けて下すったねえ。"
],
[
"教頭様が少し御用がござります。",
"私に、",
"ちょっとお出で下さりまし。",
"あら、何でしょう、"
],
[
"何か、お父様へ御託づけものがござりますで。",
"まあ、そう、"
],
[
"貴娘に聞く事があるのですが、",
"はい。",
"参謀本部の翻訳をして、まだ学校なども独逸語を持っていますな――早瀬主税――と云う、あれは、貴娘の父様の弟子ですな。",
"ええ、そう…………",
"で、貴娘の御宅に置いて、修業をおさせなすったそうだが、一体あれの幾歳ぐらいの時からですか。",
"知りません。"
],
[
"知らないですか。",
"ええ、前にからですもの。内の人と同一ですから、いつ頃からだか分りませんの。",
"貴娘は幾歳ぐらいから、交際をしたですか。",
"…………"
],
[
"何を、茶をくれい。",
"へい。",
"そこを閉めて行け、寄宿生が覗くようだ。"
],
[
"行かん筈はないでしょうが、貴娘、知っていて、まだ私の前に、秘すのじゃないかね。",
"存じませんの。"
],
[
"どこの帰りか。",
"大学(と力を入れて、)の図書館に検べものをして、それから精養軒で午飯を食うて来た。これからまたH博士の許へ行かねばならん。"
],
[
"君、紹介してくれたまえ。",
"学校で、紹介は可訝かろう。",
"だってもう教場じゃないじゃないか。"
],
[
"貴娘知らんのならお聞きなさい。頃日の事ですが、今も云った、坂田礼之進氏が、両国行の電車で、百円ばかり攫徒に掏られたです。取られたと思うと、気が着いて、直に其奴を引掴えて、車掌とで引摺下ろしたまでは、恐入って冷却していたその攫徒がだね、たちまち烈火のごとくに猛り出して、坂田氏をなぐった騒ぎだ。",
"撲られたってなあ、大人、気の毒だったよ。"
],
[
"紙入を手から手へ譲渡をするなんて、そんな、不都合な、後暗い。",
"だがね、"
],
[
"坂田が疑うように、攫徒の同類だという、そんな事は無いよ。君、",
"どうとも云えん。酒井氏の内に居たというだけで、誰の子だか素性も知れないんだというじゃないか。",
"父上に……聞いて……頂戴。"
],
[
"あえてそういう探索をする必要は無いですがね、よしんば何事も措いて問わんとして、少くとも攫徒に同情したに違いない、そうだろう。",
"そりゃあの男の主義かも知れんよ。",
"主義、危険極まる主義だ。で、要するにです、酒井さん。ああいう者と交際をなさるというと、先ず貴嬢の名誉、続いてはこの学校の名誉に係りますから、以来、口なんぞ利いてはなりません。宜しいかね。危険だから近寄らんようになさい、何をするか分らんから、あんな奴は。"
],
[
"泣いちゃ不可ませんなあ、何も悲い事は無いですよ。",
"私は貴娘を叱ったんじゃない。",
"けれども、君の話振がちと穏でなかったよ。だから誤解をされたんだ。貴娘泣く事はありません、"
],
[
"遅かったね。",
"ええ、お友達と作文の相談をしていたの。"
],
[
"金魚じゃなくってよ。硯を洗うの。",
"ああ、成程。"
],
[
"御清書ですかい。",
"いいえ、あの、絵なの。あの、上手な。明後日学校へ持って行くのを、これから描くんだわ。",
"御手本は何です、姉様の顔ですか。",
"嘘よ、そんなものじゃないわ。ああ、"
],
[
"もっと可いもの、杜若に八橋よ。",
"から衣きつつ馴れにし、と云うんですね。"
],
[
"まあ、いつ覚えて、ちょいと、感心だわねえ。",
"可哀相に。"
],
[
"貴娘は、先生のように癇性で、寒の中も、井戸端へ持出して、ざあざあ水を使うんだから、こうやって洗うのにも心持は可いけれども、その代り手を墨だらけにするんです。爪の間へ染みた日にゃ、ちょいとじゃ取れないんですからね。",
"厭ねえ、恩に被せて。誰も頼みはしないんだわ。"
],
[
"余り上等な墨ではありませんな。",
"可いわ! どうせ安いんだわ。もう私がするから可くってよ。",
"手が墨だらけになりますと云うのに。貴娘そんな邪険な事を云って、私の手がお身代に立っている処じゃありませんか。",
"それでもね、こうやってお召物を持っている手も、随分、随分(と力を入れて、微笑んで、)迷惑してよ。",
"相変らずだ。(と独言のように云って、)ですが、何ですね、近頃は、大層御勉強でございますね。",
"どうしてね? 主税さん。",
"だって、明後日お持ちなさろうという絵を、もう今日から御手廻しじゃありませんか。",
"翌日は日曜だもの、遊ばなくっちゃ、",
"ああ日曜ですね。"
],
[
"その、衣兜にあります、その半紙を取って下さい。",
"主税さん。",
"はあ、"
],
[
"何が、可笑しいんです。え、顔に墨が刎ねましたか。",
"いいえ、ほほほほ。",
"何ですてば、",
"あのね、",
"はあ。",
"もしかすると……",
"ええ、ええ。",
"ほほほ、翌日また日曜ね、貴郎の許へ遊びに行ってよ。"
],
[
"あの、庭の白百合はもう咲いたの、",
"…………",
"この間行った時、まだ莟が堅かったから、早く咲くように、おまじないに、私、フッフッとふくらまして来たけれど、"
],
[
"どこへ行くの。",
"車屋へ大急ぎでございます。",
"あら、父上はお出掛け。",
"いいえ、車を持たせて、アバ大人を呼びますので、ははは。"
],
[
"時に、いかがでごわりまするな、御令室御病気は。御勝れ遊ばさん事は、先達ての折も伺いましてごわりましてな。河野でも承り及んで、英吉君の母なども大きにお案じ申しております。どういう御容体でいらっしゃりまするか、私もその、甚だ心配を仕りまするので、はあ、",
"別に心配なんじゃありません。肺病でも癩病でもないんですから。"
],
[
"たかだか風邪のこじれです。",
"その風邪が万病の原じゃ、と誰でも申すことでごわりまするが、事実でな。何分御注意なさらんとなりません。"
],
[
"他ならぬ先生の御口添じゃあるし、伺った通りで、河野さんの方も申分も無い御家です。実際、願ってもない良縁で、もとよりかれこれ異存のある筈はありませんが、ただ不束な娘ですから、",
"いや、いや、"
],
[
"とんだ事でごわります、怪しかりませんな、河野英吉夫人を、不束などと御意なされますると、親御の貴下のお口でも、坂田礼之進聞棄てに相成りません、はははは。で、御承諾下さりますかな。",
"家内は大喜びで是非とも願いたいと言いますよ。"
],
[
"しますると、御当人、妙子様でごわりまするが。",
"娘は小児です。箸を持って、婿をはさんで、アンとお開き、と哺めてやるような縁談ですから、否も応もあったもんじゃありません。"
],
[
"成程、就きまして、何か、別儀が。",
"大有り。(と調子が砕けて、)私どもは願う処の御縁であるし、妙にもかれこれは申させません。無論ですね、お前、河野さんの嫁になるんだ。はい、と云うに間違いはありませんが、他にもう一人、貴下からお話し下すって、承知をさせて頂きたいものがあるんです。どうでしょう、その者へ御相談下さるわけに参りましょうか。",
"お易い事で。何でごわりまするか、どちらぞ、御親類ででもおあんなさりまするならば、直ぐにこの足で駈着けましても宜しゅう存じまするで。ええ、御姓名、御住所は何とおっしゃる?",
"住居は飯田町ですが、"
],
[
"しまするというと、貴下は自由結婚を御賛成で。",
"いや、",
"はあ、いかような御趣意に相成りまするか。"
],
[
"で、ごわりまするが、この縁談が破れますると、早瀬子はそれで宜しいとして、英吉君の方が、それこそ同じように、失望、懊悩、煩悶いたしましょうで、……その辺も御勘考下さりまするように。",
"大丈夫、"
],
[
"昔から媒酌人附の縁談が纏まらなかった為に、死ぬの、活きるの、と云った例はありません。騒動の起るのは、媒酌人なしの内証の奴に極ったものです。",
"はあ、"
],
[
"しかし、貴下、聞く処に拠りますると、早瀬子は、何か、芸妓風情を、内へ入れておると申すでごわりまするが。",
"さよう、芸妓を入れていて、自分で不都合だと思ったら、妙には指もさしますまい。直ちに河野へ嫁入らせる事に同意をしましょう。それとも内心、妙をどうかしたいというなら、妙と夫婦になる前に、芸妓と二人で、世帯の稽古をしているんでしょう。どちらとも彼奴の返事をお聞き下さい。或は、自分、妙を欲しいではないが、他なら知らず河野へは嫁っちゃ不可ん、と云えば、私もお断だ。どの道、妙に惚れてる奴だから、その真実愛しているものの云うことは、娘に取っては、神仏の御託宣と同一です。"
],
[
"お嬢さん。",
"…………",
"御機嫌宜う。"
],
[
"…………",
"厭だわ、私、地方へなんぞ行ってしまっては。"
],
[
"直き帰って来るんですからね、心配しないで下さいよ。",
"だって、直だって、一月や二月で帰って来やしないんでしょう。",
"そりゃ、家を畳んで参るんですもの。二三年は引込みます積りです。",
"厭ねえ、二三年。……月に一度ぐらいは遊びに行った日曜さえ、私、待遠しかったんだもの。そんな、二年だの、三年だの、厭だわ、私。"
],
[
"あの、貴下、父様に叱られて、内証の……奥さん、",
"ええ!",
"その方と別れたから、それで悲くなって地方へ行ってしまうのじゃないの、ええ、じゃなくって?",
"…………",
"それならねえ、辛抱なさいよ。母様が、その方もお可哀相だから、可い折に、父様にそう云って、一所にして上げるって云ってるんですよ。私がね、(お酌さん。)をして、沢山お酒を飲まして、そうして、その時に頼めば可いのよ、父様が肯いてくれますよ。"
],
[
"待たせたぜ、先生、私あ九時から来ていた。",
"退屈したろう、気の毒だったい。",
"うんや、何。"
],
[
"切符の売下口を見物でさ。ははは、別嬪さんの、お前さん、手ばかりが、あすこで、真白にこうちらつく工合は、何の事あねえ、さしがねで蝶々を使うか、活動写真の花火と云うもんだ、見物だね。難有え。はははは。",
"馬鹿だな、何だと思う、お役人だよ、怪しからん。"
],
[
"おい、可い加減にしないかい。",
"可いやね、お前さん、遠慮をするにゃ当らねえ、酒屋の御用も、挽子連も皆知ってらな。",
"なお、悪いぜ。"
],
[
"へへへ、今夜はお前さんも着ってるけれど。まあ、可いや。で何だ、痘痕の、お前さん、しかも大面の奴が、ぬうと、あの路地を入って来やあがって、空いたか、空いったか、と云やあがる。それが先生、あいたかった、と目に涙でも何でもねえ。家は空いたか、と云うんでさ。近頃流行るけれど、ありゃ不躾だね。お前さん、人の引越しの中へ飛込んで、値なんか聞くのは。たとい、何だ、二ツがけ大きな内へ越すんだって、お飯粒を撒いてやった、雀ッ子にだって残懐は惜いや、蔦ちゃんなんか、馴染になって、酸漿を鳴らすと鳴く、流元の蛙はどうしたろうッて鬱ぐじゃねえか。",
"止せよ、そんな事。"
],
[
"それからね、人を馬鹿にしゃあがった、その痘痕めい、差配はどこだと聞きゃあがる。差配様か、差配様は此家の主人が駈落をしたから、後を追っかけて留守だ、と言ったら、苦った顔色をしやがって、家賃は幾干か知らんが、前にから、空いたら貸りたい、と思うておったんじゃ、と云うだろうじゃねえか。お前さん、我慢なるめえじゃねえかね。こう、可い加減にしねえかい。柳橋の蔦吉さんが、情人と世帯を持った家だ、汝達の手に渡すもんか。め組の惣助と云う魚河岸の大問屋が、別荘にするってよ、五百両敷金が済んでるんだ。帰れ、と喚くと、驚いて出て行ったっけ、はははは、どうだね、気に入ったろう、先生。",
"悪戯をするじゃないか。",
"だって、お前さん、言種が言種な上に、図体が気に食わねえや。しらふの時だったから、まだまあそれで済んだがね。掏摸万歳の時で御覧じろ、えて吉、存命は覚束ねえ。"
],
[
"おっと、おっと、先生、切符なら心得てら。",
"もう買っといたか、それは豪い。"
],
[
"ここが可いや、先生。",
"何だ、青切符か。",
"知れた事だね、",
"大束を言うな、駈落の身分じゃないか。幾干だっけ。"
],
[
"心得てら。",
"お前に達引かして堪るものか。"
],
[
"不残叩き売った道具のお銭が、ずッしりあるんだ。お前さんが、蔦ちゃんに遣れって云うのを、まだ預っているんだから、遠慮はねえ、はははは、",
"それじゃ遠慮しますまいよ。"
],
[
"何分頼むよ。",
"むむ、可いって事に。"
],
[
"その事じゃない、馬丁の居処さ。己も捜すが、お前の方も。",
"……分った。"
],
[
"僕もそうかと思いましたが、違います、伊太利人だそうです。",
"はあ、伊太利の、商人ですか。",
"いえ、どうも学者のようです。しかしこっちが学者でありませんから、科学上の談話は出来ませんでしたが、様子が、何だか理学者らしゅうございます。",
"理学者、そうでございますか。"
],
[
"林檎を食べた処から、先祖のニュウトン先生を思い出して、そこで理学者と遣ったんです。はは、はは、実際はその何だかちっとも分りません。",
"まあ。お人の悪い。貴郎は、"
],
[
"珈琲を。",
"ああ、こちらへも。"
],
[
"ですが、大層お話が持てましたじゃありませんか。彼地の文学のお話ででもございましたんですか。",
"どういたしまして、"
],
[
"人を見て法を説けは、外国人も心得ているんでしょう。僕の柄じゃ、そんな貴女、高尚な話を仕かけッこはありませんが、妙なことを云っていましたよ。はあ、来年の事を云っていました。西洋じゃ、別に鬼も笑わないと見えましてね。",
"来年の、どんな事でございます。"
],
[
"じゃ、あとは、私をおなぶんなすったんでございましょうねえ。",
"御串戯おっしゃっては不可ません。",
"それでは、どんなお話でございましたの。",
"実は、どういう御婦人だ、と聞かれまして……",
"はあ、",
"何ですよ、貴女、腹をお立てなすっちゃ困りますが、ええ、"
],
[
"沢山、そんなことを云ってお冷かしなさいまし。私はもう下りますから、",
"どちらで、"
],
[
"静岡――ですからその先は御勝手におなぶり遊ばせ、室が違いましても、私の乗っております内は殺生でございますわ。",
"御心配はございません。僕も静岡で下りるんです。",
"お湯。"
],
[
"貴女、静岡は御住居でございますか、それともちょっと御旅行でございますか。",
"東京から稼ぎに出ますんですと、まだ取柄はございますが、まるで田舎俳優ですからお恥しゅう存じます。田舎も貴下、草深と云って、名も情ないじゃありませんか。場末の小屋がけ芝居に、お飯炊の世話場ばかり勤めます、おやまですわ。"
],
[
"失礼ついでに、またお詫をします気で伺いますが、貴女もし静岡で、河野さん、と云うのを御存じではございませんか。",
"河野……あの、"
],
[
"はい、",
"あら、河野は私どもですわ。"
],
[
"そして、貴下は。",
"英吉君には御懇親に預ります、早瀬主税と云うものです。"
],
[
"ええ、人が悪うございますって? その女俳優、と言いました事なんですかい。",
"いいえ、家が気に入らない、と仰有って、酒井さんのお嬢さんを、貴下、英吉に許しちゃ下さらないんですもの、ほほほ。",
"…………",
"兄はもう失望して、蒼くなっておりますよ。早瀬さん、初めまして、"
],
[
"私は英さんの妹でございます。",
"ああ、おうわさで存じております。島山さんの令夫人でいらっしゃいますか。……これはどうも。"
],
[
"ほほほ、日本式ではないんだわねえ、貴下、お気には入りますまい。",
"どういたしまして、大恥辱。",
"旅馴れないのは、かえって江戸子の名誉なんですわ。"
],
[
"御一所に頂戴いたしました、は、",
"飛んでもない、貴女、"
],
[
"でも、何でしょう、貴下は、やっぱり、個人主義でおいでなさるんでしょう。",
"僕は饅頭主義で、番茶主義です。"
],
[
"や! 読本を買いましたね。",
"先生、これは何て云うの?",
"冷評しては不可ませんな、商売道具を。",
"いいえ、真面目に、貴下がこの静岡で、独逸語の塾を開くと云うから、早いでしょう、もう買って来たの。いの一番のお弟子入よ。ちょいと、リイダアと云うのを、独逸では……",
"レエゼウッフ(読本)――月謝が出ますぜ。",
"レエゼウッフ。"
],
[
"精々勉強したら、名高い、ギョウテの(ファウスト)だとか、シルレルの(ウィルヘルム、テル)………でしたっけかね、それなんぞ、何年ぐらいで読めるようになるんでしょう。",
"直き読めます、"
],
[
"僕ぐらいにはという、但書が入りますけれど。",
"だって……",
"いいえ、出来ます。",
"あら、ほんとに……",
"もっとも月謝次第ですな。",
"ああだもの、"
],
[
"誰か来たの?",
"ひゃあ、",
"あら、厭な。ちょいと、当分は留守とおいいと云ったじゃないの?",
"アニ、はい、で、ござりますけんど、お客様で、ござんしねえで、あれさ、もの、呉服町の手代衆でござりますだ。",
"ああ、谷屋のかい、じゃ構わないよ、こちらへ、"
],
[
"室数は幾つばかりあれば可くって?",
"何です、何です。"
],
[
"貴下のお借りなさろうというお家よ。ちょいと、",
"ええ、そうですね。",
"おほほほ、話しが遠いわ。こっちへいらっしゃいよ。おほほほ、縁側から、縁側から。"
],
[
"茶店があります、一休みして参りましょう。",
"あすこへですか。",
"お誂え通り、皺くちゃな赤毛布が敷いてあって、水々しい婆さんが居ますね、お茶を飲んで行きましょうよ。"
],
[
"咽喉が渇いて?",
"ひりつくようです。",
"では……"
],
[
"江戸児は心得たものね。",
"人を馬鹿にしていらっしゃる。"
],
[
"はい、盆に一杯五厘宛でございます。",
"私は鳩と遊びましょう。貴下は甘酒でも冷酒でも御勝手に召食れ。"
],
[
"ああ、僕はたった一杯だ。婆さん甘酒を早く、",
"はいはい、あれ、まあ、御覧じまし、鳩の喜びますこと、沢山奥様に頂いて、クウクウかいのう、おおおお、"
],
[
"何より利くそうなが、主あ飲しったか。",
"さればじゃ、方々様へ御願い申して頂いて来ては、飲んだにも、飲んだにも、大な芭蕉を葉ごとまるで飲んだくらいじゃけれど、少しも……"
],
[
"焦らっしゃる事よ、苛れてはようない、ようないぞの。まあ、休んでござらんか、よ。主あどんなにか大儀じゃろうのう。",
"ちっと休まいて貰いたいがの、"
],
[
"へい、",
"今の、風説ならもう止しっこ。私は見たばかりで胸が痛いのよ。"
],
[
"いえ、一ツ心当りは無いか、家を聞いて見ようと思うんです。見物より、その方が肝心ですもの。",
"ああ、そうね。",
"どこか、貸家はあるまいか。",
"へい、無い事もござりませぬが、旦那様方の住まっしゃりますような邸は、この居まわりにはござりませぬ。鷹匠町辺をお聞きなさりましたか、どうでござります。",
"その鷹匠町辺にこそ、御邸ばかりで、僕等の住めそうな家はないのだ。",
"どんなのがお望みでござりまするやら、",
"廉いのが可い、何でも廉いのが可いんだよ。"
],
[
"静岡じゃ、お米は一升幾干だい。",
"ええ。",
"厭よ、後生。"
],
[
"可い加減になさいよ、極りが悪いじゃありませんか。",
"はい、お忘れもの。"
],
[
"よく気がついてねえ。(小さな声で、)――大儀、",
"はッ、主税御供仕りまする上からは、御道中いささかたりとも御懸念はござりませぬ。",
"静岡は暢気でしょう、ほほほほほ。",
"三等米なら六升台で、暮しも楽な処ですって、婆さんが言いましたっけ。",
"あらまた、厭ねえ、貴下は。後生ですからその(お米は幾干だい、)と云うのだけは堪忍して頂戴な。もう私は極りが悪くって、同行は恐れるわ。",
"ええ、そうおっしゃれば、貴女もどうぞその手巾で、こう、お招きになるのだけは止して下さい。余りと云えば紋切形だ。",
"どうせね、柳橋のようなわけには……",
"いいえ、今も、子守女めらが、貴女が手巾をお掉りなさるのを見て、……はははは、",
"何ですって、",
"はははははは。"
],
[
"夫人。",
"…………",
"貴女腹をお立てなすったんですか、困りましたな。知らぬ他国へ参りまして、今貴女に見棄てられては、東西も分りませんで、途方に暮れます。どうぞ、御機嫌をお直し下さい、夫人、",
"…………",
"英吉君の御妹御、菅子さん、",
"…………",
"島山夫人……河野令嬢……不可い、不可い。"
],
[
"ものを云って下さいよ。",
"…………",
"夫人、",
"…………"
],
[
"御免なさいよ、御隣家の屋を借りたいんですが、",
"何でございますと、"
],
[
"家賃は幾干でしょうか。",
"ああ、貞造さんの家の事かね。"
],
[
"空家ではござりませぬが。",
"そう、空家じゃないの、失礼。"
],
[
"早瀬さん、",
"…………",
"人のことを、貴族的だなんのって、いざ、となりゃ私だって、このくらいな事はして上げるわ。この家じゃ、貴下だって、借りたいと言って聞かれないでしょう。ちょいと、これでも家の世話が私にゃ出来なくって?"
],
[
"驚きました。",
"驚いたでしょう、可い気味、"
],
[
"まあ、ちっとも召喫らないのね。お酌がなくっては不可いの、ちょいと贅沢だわ。ほほほほ、家も極まったし、一人で世帯を持った時どうするのよ。",
"沢山頂きました、こんなに御厄介になっては、実に済みません……もう、徐々失礼しましょう。"
],
[
"貴下、上ったら、これにお着換えなさいよ。ここに置いときますから、",
"憚り、"
],
[
"似合ったでしょう、過日谷屋が持って来て、貴下が見立てて下すったのを、直ぐ仕立てさしたのよ。島山のはまだ縫えないし、あるのは古いから、我慢して寝衣に着て頂戴。",
"むざむざ新らしいのを。"
],
[
"いいえ、私、今着て見たの、お初ではありません。御遠慮なく、でも、お気味が悪くはなくって。ちょいと着たから、",
"気味が悪い、",
"…………",
"もんですか。勿体至極もござらん。"
],
[
"帯ですか。",
"さよう、",
"これを上げましょう。"
],
[
"夫人が言いましけえ、お涼みなさりますなら雨戸を開けるでござります。",
"いや、宜しい。"
],
[
"お休みなさい。",
"失礼。"
],
[
"誰方、",
"あの……髪結さんの内はこっちでしょうか。"
],
[
"貴嬢、まあ、どちらから。あの、御近所でいらっしゃいますか。",
"いいえ、遠いのよ。",
"お遠うございますか。",
"本郷だわ。",
"ええ、",
"私ねえ、本郷のねえ、酒井と云うの。",
"お嬢様、まあ、"
],
[
"お妙様。",
"小母さんは、早瀬さんの……あの……お蔦さん?"
],
[
"はあ、久しい間、",
"沢山、悪くって?",
"いいえ、そんなでもないようですけれど、臥っておりますから、お髪はあげられませんでしょう。ですが、御緩くり、まあ、なさいまし。この頃では、お増さんも気に掛けて、早く帰って参りますから、ほんとうに……お嬢さん、"
],
[
"早瀬さんの、あの、主税さんの奥さんに、私、お目にかかれなくって?",
"姉さん、"
],
[
"切なくはないかい、お蔦さん、起きられるかい、お前さん、無理をしては不可いよ。",
"ああ、難有う、"
],
[
"よう、そうしていらっしゃいなね。そんなにして、私は困るわ。",
"はじめまして、"
],
[
"失礼でございますから、",
"よう、私困るのよ。寝ていて下さらなくっては。小母さん、そう云って下さいな。"
],
[
"お蔦さん、可いから寝ておいでな、お嬢さんがあんなに云って下さるからさ。",
"いいえ、そんなじゃありません。切なければ直きに寝ますよ。お嬢さん、難有う存じます。貴嬢、よくおいで下さいましたのね。",
"そして、よく家が知れましたわね。この辺へは、滅多においでなさいましたことはござんせんでしょうにねえ。"
],
[
"はあ、分らなくってね。私、方々で聞いて極りが悪かったわ。探すのさえ煩かしいんですもの。何だか、あの、小母さんたちは、ちょいとは、あの、逢って下さらなかろうと思って、私、心配ッたらなかってよ。",
"私たちが……",
"なぜでございますえ。"
],
[
"私は何も、そんな者じゃありませんのに。",
"厭よ、小母さん、私両方とも写真で見て知っていてよ。"
],
[
"極が悪い、お蔦さん。",
"姉さん、私は恥かしい。",
"もう……",
"ああ、"
],
[
"お喜びなさいよ、お嬢さんが、",
"まあ、"
],
[
"何を下すったい。",
"開けて見ても可いかね。",
"早く拝見おしなねえ。",
"あら! 見ちゃ可厭よ、酷いわ、小母さんは。"
],
[
"ああ、先生のお嬢さん。……とも……かくも……頂戴おしよ、姉さん、",
"お礼を申上げます。"
],
[
"おお、半襟を……姉さん、江戸紫の。",
"主税さんが好な色よ。"
],
[
"お医者には懸っているの。",
"いいえ、私もその意見をしていた処でござんすよ。お医者様にもろくに診て貰わないで、薬も嫌いで飲まないんですもの、貴女からもそう云ってやって下さいましな。"
],
[
"主税さんに逢えば可いでしょう。",
"え、",
"貴女、逢いたいでしょう。"
],
[
"可いわ!",
"可いわではござんせん。あれ、そして寒気なんぞしませんよ。もう私は熱くって汗が出るようなんです、それから、姉さん、"
],
[
"来たらね、こんな処でなく、あっちへ行って、お前さん、お嬢さんと。",
"今日は私に任かせておくれ。",
"いいえ、",
"不可ないよ、私がするんだよ。",
"お嬢さん、ああですもの。見舞に来て、ちょっと、病人を苛めるものがあって、",
"無理ばっかり云う人だよ、私に理由があるんだから。",
"理由は私にだって有りますよ。あの、過般もお前さんに話したろう。早瀬さんと分れて、こうなる時、煙草を買え、とおっしゃって、先生の下すった、それはね、折目のつかない十円紙幣が三枚。勿体ないから、死んだらお葬式に使って欲しくって、お仏壇の抽斗へ紙に包んでしまってある、それを今日使いたいのよ。お嬢さんに差上げて、そして私も食べたいから、"
],
[
"ああ、そんならそうおしな。どれ、大急ぎで、いいつけよう。",
"戸外は暑かろうねえ。",
"何の、お蔦さん。お嬢さんに上げるんだもの、無理にも洋傘をさすものか。",
"角の小間物屋で電話をお借りよ。",
"ああ、知ってるよ。あんまりあらくない中くらいな処が好かろうねえ。",
"私はヤケに大串が可いけれど、お嬢さんは、",
"ここで皆一所に食べるんでなくっちゃ、厭。",
"お相伴しますとも、お取膳とやらで、"
],
[
"じゃ、私も大きいの。",
"感心、"
],
[
"御飯も一所よ。",
"あいよ、"
],
[
"ちょいと、どんなことが書いてあって。また掏賊を助けたりなんか、不可ないことをしたのじゃないの。急いで聞かして頂戴な。",
"いいえ、まあ、貴女がお読みなさいまし。",
"拝見な。"
],
[
"ほんとうにお前さん、お座敷が無いのですよ。",
"看板を下ろせ、"
],
[
"ともかくお上んなさいまし、",
"どうにか致しますから。",
"何だ、どうにかする。格子で馴染を引くような、気障な事を言やあがる。だが心底は見届けたよ。いや、御案内引。"
],
[
"御酒をあがりますか。",
"何升お燗をしますか、と聞きねえ。仕入れてあるんじゃ追つくめえ。"
],
[
"ここにいらっしゃら。ははは、心配するな。",
"困りますよ。隣のお座敷には、お客様が有るじゃありませんか。",
"構わねえ、一向構わねえ。",
"こちらがお構いなさいませんでも、あちら様で。",
"可いじゃねえか、お互だ。こんな処へ来て何も、向う様だって遠慮はねえ。大家様の隠居殿の葬礼に立つとってよ、町内が質屋で打附ったようなものだ。一ツ穴の狐だい。己あまた、猫のさかるような高い処は厭だからよ。勘当された息子じゃねえが、二階で寝ると魘されらあ。身分相当割床と遣るんだ。棟割に住んでるから、壁隣の賑かなのが頼もしいや。",
"不可ませんよ、そんなことをお言いなすっちゃ、選好んでこのお座敷へいらっしゃらないだって、幾らでも空いてるじゃありませんか。",
"空いてる! こう、たった今座敷はねえ、おあいにくだと云ったじゃねえか。気障は言わねえ、気障な事は云わねえから、黙って早く燗けて来ねえよ。"
],
[
"じゃ、御酒を上るだけになすって下さいよ、お肴は?",
"肴は己が盤台にあら。竹の皮に包んでな、斑鮭の鎌ン処があるから、そいつを焼いて持って来ねえ。蔦ちゃんが好だったんだが、この節じゃ何にも食わねえや、折角残して帰っても今日も食うめえ。"
],
[
"そして綱次さんを掛けるんですか。",
"うんや、今度はこっちがおあいにくだ。ちっとも馴染でも情婦でもねえ。口説きように因っちゃ出来ねえ事もあるめえと思うのよ。もっとも惚れてるにゃ惚れてるんだ。待ちねえ、隣の室で口説いてら、しかも二人がかりだ。",
"ちょっと、"
],
[
"蟻の戸渡でいやあがらあ、べらぼうめ。",
"やかましい!"
],
[
"地声だ!",
"あれ、"
],
[
"お一人。",
"やあ、誰かと思った。"
],
[
"滝ちゃんや、透さんは。",
"母様が出掛けるんで、跡を追うですから、乳母が連れて、日曜だから山田(玄関の書生の名)もついて遊びです。平時だと御宅へ上るんだけれど、今日の慈善会には、御都合で貴女も出掛けると云うから、珍らしくはないが、また浅間へ行って、豆か麩を食わしとるですかな。",
"ではもう菅子さんは参りましたね。",
"先刻出たです。"
],
[
"御馳走(とチュウと吸って)これは旨い。",
"人様のもので義理をして。ほほほ、お土産も持って参りません。"
],
[
"非常においしいです。僕は味噌汁と云うものは、塩が辛くなきゃ湯を飲むような味の無いものだとばかり思うたです。今、貴女、干杓に二杯入れたですね。あれは汁を旨く喰わせる禁厭ですかね。",
"はい、お禁厭でございます。"
],
[
"は、は、は、串戯でしょう。",
"菅子さんに聞いて御覧なさいまし。",
"そう云えば貴女、もうお出掛けなさらなければなりますまいで。",
"は、私はちっとも急ぎませんけれど、今日は名代も兼ねておりますから、疾く参ってお手伝いをいたしませんと、また菅子さんに叱言を言われると不可ません――もうそれでは、若竹座へ参っております時分でしょうね。",
"うんえ、"
],
[
"道寄をしたですよ。貴女これからおいでなさるなら、早瀬の許へお出でなさい、あすこに居ましょうで。",
"しますと、あの方も御一所なんですか。",
"一所じゃないです。早瀬がああいう依怙地もんですで。半分馬鹿にしていて、孤児院の義捐なんざ賛成せんです。今日は会へも出んと云うそうで。それを是非説破して引張出すんだと云いましたから、今頃は盛に長紅舌を弄しておるでしょう、は、はは、"
],
[
"行って見て下さらんか。貴女、",
"はい、"
],
[
"また逢違いになりませんように、それでは御飯を召食りかけた処を、失礼ですが、",
"いや、もう済んだです。"
],
[
"はい、ですが私はただお手伝いでございます。",
"お願いがございます。"
],
[
"金子にも何にも、私が、自分の事ではありません。",
"まあ、失礼な事を云って、"
],
[
"どうしましょう私は。では貴下の事ではございませんので。",
"ええ、勿論、救って頂きたい者は他にあるんです。",
"どうぞ、あの、それは島山のに御相談下さいまし。私もまた出来ますことなら、蔭で――お手伝いいたしましょうけれど、河野(医学士)が、喧しゅうございますから。"
],
[
"ええ、",
"御介抱にも及びません、手を取って頂くにも及びません、言をお交わし下さるにも及びません、申すまでもない、金銭の御心配は決して無いので。真暗な地獄の底から一目貴女を拝むのを、仏とも、天人とも、山の端の月の光とも思って、一生の思出に、莞爾したいと云うのですから、お聞届け下さると、実に貴女は人間以上の大善根をなさいます。夫人、大慈大悲の御心持で、この願いをお叶え下さるわけには参りませんか、十分間とは申しません。"
],
[
"どこの、どんな人でございますの。",
"直きこの安東村に居るんです。貞造と申して、以前御宅の馬丁をしたもので、……夫人、貴女の、実の……御父上……"
],
[
"貞造は、貴女の実の父親で、またある意味から申すと、貴女の生命の恩人ですよ。",
"は……い。",
"会は混雑しましょう。若竹座は大変な人でしょう。それに夜も更けると申しますから、人目を紛らすのに仔細ありません。得難い機会です。私がお供をして、ちょっと見舞に参るわけにはまいりませんか。"
],
[
"先刻から待っていたんですよ。",
"待っていたって、私は方々に用があるんだもの、さっさと行って下さらないじゃ、",
"何ですねえ、邪険な、和女を待っていたんですよ。来がけに草深へも寄ったのよ。一所に連れて行って欲しいと思って。――さあ、それでは行きましょうね。",
"私は用があるわ。",
"寄道をするんですか。",
"じゃ……ないけども、これから、この早瀬さんと一議論して、何でも慈善会へ引張り出すんですから手間が取れてよ。"
],
[
"はははは、まあ、貴女も、お聞きなさい、お菅さんの議論と云うのを。いくら僕を説いたって、何にもなりゃしないんですから。",
"承わって参りましょうか。"
],
[
"まあ、御一所が宜しいじゃありませんか。お菅さんもそうなさい。",
"いいえ、そうしてはおられません、もっと、"
],
[
"種々お話を伺いとう存じますけれども……",
"私も、直だわ。",
"待っていますよ。"
],
[
"久振だわね。",
"久振じゃないじゃありませんか。今の言種は何です、ありゃ。……姉さんにお気の毒で、傍で聞いていられやしない。"
],
[
"何を云ってるんです、面白くもない。",
"今の様子ッたら何です、厭に御懇ね。そして肩を持つことね。油断もすきもなりはしない。",
"可い加減になさい。串戯も、",
"だって姉さんが、どんな事があればッたって、男と対向いで五分間と居る人じゃないのよ。貴下は口前が巧くって、調子が可いから、だから坐り込んでいるんじゃありませんか。ほんとうに厭よ。貴下浮気なんぞしちゃ、もう、沢山だわ。",
"まるでこりゃ、人情本の口絵のようだ。何です、対向った、この体裁は。"
],
[
"貴下……どうするのよ。",
"…………"
],
[
"じゃ貴女は、御自分に面じて、お妙さんを嫁に欲いと言うんですか。",
"まあ……そうよ。",
"そう、それでは色仕掛になすったんだね。"
],
[
"怒ったの、貴下、怒っちゃ厭よ、私。貴下はほんとうにこの節じゃ、どうして、そんなに気が強くなったんだろうねえ。",
"貴女が水臭い事を言うからさ。"
],
[
"どうして渡るんです。",
"まさか橋をかける言種は、貴下、無いもの。",
"だから、渡られますまい。",
"合歓の樹の枝は低くってよ。掴って、お渡んなさいなね。",
"河童じゃあるまいし、",
"ほほほほ、"
],
[
"なにしろ、貴下は不実よ。",
"何が不実です。",
"どうかして下さいな。"
],
[
"妙子さんを。",
"ですから色仕掛けか、と云うんです。"
],
[
"詰らん言を。先生のお嬢さんを言訳に使って可いもんですか。",
"そうすると、私もう、母さんの顔が見られなくなるかも知れませんよ。"
],
[
"じゃ、私の、私の身体はどうなって?",
"訳は無い、島山から離縁されて、",
"そんな事が、出来るもんですか。",
"出来ないもんですか。当前だ、"
],
[
"無論、島山さんの心まかせで、一所に連れて出ろと、言われりゃ連れて出る。置いて行けとなら、置いて……",
"暢気で怒る事も出来はしない。身に染みて下さいな、ね……",
"何が暢気だろう、このくらい暢気でない事はない。小使と私と二人口でさえ、今の月謝の収入じゃ苦しい処へ、貴女方親子を背負い込むんだ。静岡は六升代でも痩腕にゃ堪えまさ。"
],
[
"私がこんなに苦労をするのに、ほんとに貴下は不実だわ。",
"いざと云う時、貴女を棄てて逐電でもすりゃ不実でしょう。胴を据えて、覚悟を極めて、あくまで島山さんが疑って、重ねて四ツにするんなら、先へ真二ツになろうと云うのに、何が不実です。私は実は何にも知らんが、夫人が御勝手に遊びにおいでなさるんだなんて言いはしない。",
"そう云ってしまっては、一も二も無いけれど。",
"また、一も二も無いんですから、",
"だって世の中は、そう貴下の云うようには参りませんもの。"
],
[
"すでに云々が有るんじゃありませんか。それを秘そうとするんじゃありませんか。卑怯だと云うんです。",
"そんな事を云って、なぜ、貴下は、"
],
[
"私を苦しめようとなさるんだろうねえ。",
"ちっとも苦しめやしませんよ。",
"それだって、乱暴な事を言ってさ、",
"貴女が困っているものを、何も好き好んで表向にしようと言うんじゃない。不実だの、無情だの、私の身体はどうなるの、とお言いなさるから、貴女の身体は、疑の晴れくもりで――制裁を請けるんだ、と言うんです。貴女ばかり、と言ったら不実でしょう。男が諸共に、と云うのに、ちっとも無情な事はありますまい。どうです。"
],
[
"ですから、そんな打破しをしないでも、妙子さんさえ下さると、円満に納まるばかりか、私も、どんなにか気が易まって、良心の呵責を免れることが出来ますッて云うのにね。肯きますまい! それが無情だ、と云うんだわ。名誉も何も捧げている婦の願いじゃありませんか、肯いてくれたって可いんだわ。",
"(名誉も何も)とおっしゃるんだ。"
],
[
"誰方も……",
"誰も。",
"小使さんは?"
],
[
"あれは朝っから、貞造の方へ遣ってあります。目の離せません容態ですから。",
"何から何まで難有う存じます……一人の親を……済みませんですねえ。"
],
[
"済まないのは私こそ。でもよく会場が抜けられましたな。",
"はい、色艶が悪いから、控所の茶屋で憩むように、と皆さんが、そう言って下さいましたから、好い都合に、点燈頃の混雑紛れに出ましたけれど、宅の車では悪うございますから、途中で辻待のを雇いますと、気が着きませんでしたが、それが貴下、片々蠣目のようで、その可恐らしい目で、時々振返っては、あの、幌の中を覗きましてね、私はどんなに気味が悪うござんしてしょう。やっとこの横町の角で下りて、まあ、御門まで参りましたけれども、もしかお客様でも有っては悪いから、と少時立っておりましたの。",
"お心づかい、お察し申します。"
],
[
"島山さんの、お菅さんには。",
"今しがた参りました。あんなに遅くまで――こちら様に。",
"いいえ。",
"それでは道寄りをいたしましたのでございましょう。灯の点きます少し前に見えましたっけ、大勢の中でございますから、遠くに姿を見ましたばかりで、別に言も交わさないで、私は急いで出て参りましたので。",
"成程、いや、お茶も差上げませんで失礼ですが、手間が取れちゃまたお首尾が悪いと不可ません。直ぐに、これから、",
"どうぞそうなすって下さいまし、貴下、御苦労様でございますねえ。",
"御苦労どころじゃありません。さあ、お供いたしましょう。"
],
[
"姉さん冠りと云うのになさい、田舎者がするように。",
"どうせ田舎者なんですもの。"
],
[
"お気味が悪くっても、胸へためて、ぐっと上げて、足袋との間を思い切って。ああ、おいたわしいな。",
"厭でございますね。",
"御免なさいよ。"
],
[
"夢ではないのでしょうかしら。宙を歩行きますようで、ふらふらして、倒れそうでなりません。早瀬さん、お袖につかまらして下さいまし。",
"しっかりと! 可い塩梅に人通りもありませんから。"
],
[
"ここは野原でございますか。",
"なぜ、貴女?",
"真中に恐しい穴がございますよ。",
"ああ、それは道端の井戸なんです。"
],
[
"兄哥!",
"…………"
],
[
"何だ――馬鹿、お連がある。",
"やあ、先生、大変だ。",
"どう、大変。"
],
[
"病人が冷くなったい。",
"ええ、",
"今駈出そうてえ処でさ。",
"医者か。",
"お医者は直ぐに呼んで来たがね、もう不可えッて、今しがた帰ったんで。私あ、ぼうとして坐っていましたが、何でもこりゃ先生に来て貰わなくちゃ、仕様がないと、今やっと気が附いて飛んで行こうと思った処で。",
"そんな法はない。死ぬなんて、"
],
[
"線香なんぞ買って――それから、種々要るものを。",
"へい、宜うがす。"
],
[
"早瀬さん、私が分りますか。",
"…………",
"ようよう今日のお昼頃から、あの、人顔がお分りになるようにおなんなさいましたそうでございますね。",
"お庇様で。"
],
[
"貴下は、まあ、さぞ東京へお帰りなさらなければならなかったんでございましょうに。あいにく御病気で、ほんとうに間が悪うございましたわね。酒井様からの電報は御覧になりましたの?",
"見ました、先刻はじめて、"
],
[
"二通とも、",
"二通とも。",
"一通はただ(直ぐ帰れ。)ですが、二度目のには、ツタビョウキ(蔦病気)――かねて妹から承っておりました。貴下の奥さんが御危篤のように存じられます。御内の小使さん、とそれに草深の妹とも相談しまして、お枕許で、失礼ですが、電報の封を解きまして、私の名で、貴下がこのお熱の御様子で、残念ですがいらっしゃられない事を、お返事申して置きました。ですが、まあ、何という折が悪いのでございましょう。ほんとうにお察し申しております。",
"……病気が幸です。達者で居たって、どの面さげて、先生はじめ、顔が合されますもんですか。",
"なぜ? 貴下、"
],
[
"なぜとは?",
"…………",
"第一、貴女に、見せられる顔じゃありません。"
],
[
"あれ、主人の跫音でございます。",
"院長ですか。"
],
[
"早瀬さん。",
"お蔦。",
"早瀬さん……",
"むむ、",
"先、先生が逢っても可いって、嬉しいねえ!"
],
[
"早瀬さん。",
"お蔦か、"
],
[
"お世話になりました。お庇様でどうやら助りました。もう退院をしまして宜しいそうで、後の保養は、河野さんの皆さんがいらっしゃる、清水港の方へ来てしてはどうか、と云って下さいますから、参ろうかと思います。何にしても一旦塾の方へ引取りますが、種々用がありますから、人を遣って、内の小使をお呼び下さい。それから、お呼立て申して済みませんが、少々お目に懸りたい事がございます。ちょっとこの室までお運びを願いたい、と河野さんに。……いや、院長さんじゃありません、母屋にいらっしゃる英臣さん。",
"はあ、大先生に……申し上げましょう。",
"どうぞ。ああ、もし、もし、"
],
[
"お客様ですよ。",
"島山さんの?"
],
[
"今日の正午の汽車で、今来たわ。惣助ッて肴屋さんが一所なの。",
"ええ、め組がお供で。どうしてあれを御存じですね。",
"お蔦さんの事よ、"
],
[
"では、あの、お言託は。",
"ちと後にして頂きましょう。お嬢さん、そして、お伴をしました、め組の奴は?",
"停車場で荷物を取って来るの。半日なら大丈夫だって、氷につけてね、貴下の好なお魚を持って来たのよ。病院なら直き分ります、早くいらっしゃいッて、車をそう云って、あの、私も早く来たかったから、先へ来たわ。皆、そうやって思ってるのに、貴下は酷いわ。手紙も寄越さないんですもの。お蔦さん……"
],
[
"では、さあ、私の元結を切って頂戴。",
"元結を? お嬢さんの。",
"ええ、私の髪の、"
],
[
"早解りは結構です、そこで先日のお返事は?",
"どうかせい、と云うんじゃった、のう。もう一度云うて見い。",
"申しましょうかね。",
"うむ、"
],
[
"ここで極て下さいましょうか。過日、病院で掛合いました時のように、久能山で返事しようじゃ困りますよ。ここは久能山なんですから。またと云っちゃ竜爪山へでも行かなきゃならない。そうすりゃ、まるで天狗が寄合いをつけるようです。",
"余計な事を言わんで、簡単に申せ。"
],
[
"私が対手じゃ、立処に解決してやる!",
"第一!"
],
[
"なぜか。",
"馬丁貞造と不埒して、お道さんを産んだからです。"
],
[
"それから、",
"第二、お道さんを私に下さい。",
"何でじゃ?",
"私と、いい中です。",
"むむ、"
],
[
"それから、",
"第三、お菅さんを、島山から引取っておしまいなさい。",
"なぜな。",
"私と約束しました。",
"誰と?"
],
[
"私とさ。",
"うむ、それから?",
"第四、病院をお潰しなさい。",
"なぜかい。",
"医学士が毒を装ります。"
],
[
"発狂人!",
"ああ、狂人だ、が、他の気違は出来ないことを云って狂うのに、この狂気は、出来る相談をして澄ましているばかりなんだよ。"
],
[
"騙じゃのう、",
"騙ですとも。",
"強請じゃが。汝、",
"強請ですとも。",
"それで汝人間か。",
"畜生でしょうか。",
"それでも独逸語の教師か。",
"いいえ、",
"学者と言われようか。",
"どういたしまして、",
"酒井の門生か。",
"静岡へ来てからは、そんな者じゃありません。騙です。",
"何、騙じゃ、",
"強請です。畜生です。そして河野家の仇なんです。",
"黙れ!"
],
[
"無礼だ。黙れ、小僧。",
"何だ、小父さん。"
]
] | 底本:「泉鏡花集成12」ちくま文庫、筑摩書房
1997(平成9)年1月23日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第十卷」岩波書店
1940(昭和15)年5月15日
初出:「やまと新聞」
1907(明治40)年1~4月
入力:真先芳秋
校正:かとうかおり
2000年8月17日公開
2009年2月1日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"……その大島屋の先の大きいおかみさんが、ごふびんに思召しましてな。……はい、ええ、右の小僧按摩を――小一と申したでござりますが、本名で、まだ市名でも、斎号でもござりません、……見た処が余り小こいので、お客様方には十六と申す事に、師匠も言いきけてはありますし、当人も、左様に人様には申しておりましたが、この川の下流の釜ヶ淵――いえ、もし、渡月橋で見えます白糸の滝の下の……あれではござりません。もっとずッと下流になります。――その釜ヶ淵へ身を投げました時、――小一は二十で、従って色気があったでござりますよ。",
"二十にならなくったって、色気の方は大丈夫あるよ。――私が手本だ。"
],
[
"で、旦那、身投げがござりましてから、その釜ヶ淵……これはただ底が深いというだけの事でありましょうで、以来そこを、提灯ヶ淵――これは死にます時に、小一が冥途を照しますつもりか、持っておりましたので、それに、夕顔ヶ淵……またこれは、その小按摩に様子が似ました処から。",
"いや、それは大したものだな。"
],
[
"ところが、もし、顔が黄色膨れの頭でっかち、えらい出額で。",
"それじゃあ、夕顔の方で迷惑だろう。",
"御意で。"
],
[
"わしども覚えがござります。修業中小僧のうちは、またその睡い事が、大蛇を枕でござりますて。けれども小一のははげしいので……お客様の肩へつかまりますと、――すぐに、そのこくりこくり。……まず、そのために生命を果しましたような次第でござりますが。",
"何かい、歩きながら、川へ落こちでもしたのかい。",
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"ああ、そうだ、――こっちが坐睡をしやしないか。じゃ、客から叱言が出て、親方……その師匠にでも叱られたためなんだな。",
"……不断の事で……師匠も更めて叱言を云うがものはござりません。それに、晩も夜中も、坐睡ってばかりいると申すでもござりませんでな。",
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],
[
"春秋の潮時でもござりましょうか。――大島屋の大きいお上が、半月と、一月、ずッと御逗留の事も毎度ありましたが、その御逗留中というと、小一の、持病の坐睡がまた激しく起ります。",
"ふ――"
],
[
"どうも意固地な……いえ、不思議なもので、その時だけは小按摩が決して坐睡をいたさないでござります。",
"その、おかみさんには電気でもあったのかな。",
"へ、へ、飛んでもない。おかみさんのお傍には、いつも、それはそれは綺麗な、お美しいお嬢さんが、大好きな、小説本を読んでいるのでござります。",
"娘ッ子が読むんじゃあ、どうせ碌な小説じゃあるまいし、碌な娘ではないのだろう。",
"勿体ない。――香都良川には月がある、天城山には雪が降る、井菊の霞に花が咲く、と土地ではやしましたほどのお嬢さんでござりますよ。",
"按摩さん、按摩さん。"
],
[
"は、",
"きみも土地じゃ古顔だと云うが。じゃあ、その座敷へも呼ばれただろうし、療治もしただろうと思うが、どうだね。",
"は、それが、つい、おうわさばかり伺いまして、お療治はいたしません、と申すが、此屋様なり、そのお座敷は、手前同業の正斎と申す……河豚のようではござりますが、腹に一向の毒のない男が持分に承っておりましたので、この正斎が、右の小一の師匠なのでござりまして。",
"成程、しかし狭い土地だ。そんなに逗留をしているうちには、きみなんか、その娘ッ子なり、おかみさんを、途中で見掛けた――いや、これは失礼した、見えなかったね。",
"旦那、口幅っとうはござりますが、目で見ますより聞く方が確でござります。それに、それお通りだなどと、途中で皆がひそひそ遣ります処へ出会いますと、芬とな、何とも申されません匂が。……温泉から上りまして、梅の花をその……嗅ぎますようで、はい。"
],
[
"その晩も、小一按摩が、御当家へ、こッつりこッつりと入りまして、お帳場へ、精霊棚からぶら下りましたように。――もっとももう時雨の頃で――その瓢箪頭を俯向けますと、(おい、霞の五番さんじゃ、今夜御療治はないぞ。)と、こちらに、年久しい、半助と云う、送迎なり、宿引なり、手代なり、……頑固で、それでちょっと剽軽な、御存じかも知れません。威勢のいい、",
"あれだね。"
],
[
"半助がそう申すと、びしゃびしゃと青菜に塩になりましたっけが、(それでは外様を伺います。)(ああ、行って来な。内じゃお座敷を廻らせないんだが、お前の事だ。)もっとも、(霞の五番さん)大島屋さんのお上さんの他には、好んで揉ませ人はござりません。――どこをどう廻りましたか、宵に来た奴が十時過ぎ、船を漕いだものが故郷へ立帰ります時分に、ぽかんと帳場へ戻りまして、畏って、で、帰りがけに、(今夜は闇でございます、提灯を一つ。)と申したそうで、(おい、来た。)村の衆が出入りの便宜同様に、気軽に何心なく出したげで。――ここがその、少々変な塩梅なのでござりまして、先が盲だとも、盲だからとも、乃至、目あきでないとも、そんな事は一向心着かず……それには、ひけ頃で帳場もちょっとごたついていたでもござりましょうか。その提灯に火を点してやらなかったそうでござりますな。――後での話でござりますが。",
"おやおや、しかし、ありそうな事だ。",
"はい、その提灯を霞の五番へ持って参じました、小按摩が、逆戻りに。――(お桂様。)うちのものは、皆お心安だてにお名を申して呼んでおります。そこは御大家でも、お商人の難有さで、これがお邸づら……"
],
[
"構わない構わない、俺も素町人だ。",
"いえ、そういうわけではござりませんが。――そのお桂様に、(暗闇の心細さに、提灯を借りましたけれど、盲に何が見えると、帳場で笑いつけて火を貸しません、どうぞお慈悲……お情に。)と、それ、不具根性、僻んだ事を申しますて。お上さんは、もうお床で、こう目をぱっちりと見てござったそうにござります。ところで、お娘ごは何の気なしに点けておやりになりました。――さて、霞から、ずっと参れば玄関へ出られますものを、どういうものか、廊下々々を大廻りをして、この……花から雪を掛けて千鳥に縫って出ましたそうで。……井菊屋のしるしはござりますが、陰気に灯して、暗い廊下を、黄色な鼠の霜げた小按摩が、影のように通ります。この提灯が、やがて、その夜中に、釜ヶ淵の上、土手の夜泣松の枝にさがって、小一は淵へ、巌の上に革緒の足駄ばかり、と聞いて、お一方病人が出来ました。……",
"ああ、娘さんかね。"
],
[
"カチリ?……どうしたい。",
"お簪が抜けて落ちました音で。",
"簪が?……ちょっと。"
],
[
"可厭だ。……ちょいと、半助さんは。",
"あいつは、もう。"
],
[
"ぼうぼう、ぼうぼう。",
"ぐらッぐらッ、ぐらッぐらッ。",
"あら、半助だわ。"
],
[
"牛頭よ、牛頭よ、青牛よ。",
"もうー、"
],
[
"やい、十三塚にけつかる、小按摩な。",
"もう。",
"これから行って、釜へ打込め。",
"もう。",
"そりゃ――歩べい。",
"もう。",
"ああ、待って。"
],
[
"分ったよ、一等賞だよ。",
"ぴい、ぷう。",
"さ、祝杯を上げようよ。",
"ぴい、ぷう。"
],
[
"ぴい、ぷう。",
"小一さん。",
"ぴい、ぷう。",
"大島屋の娘はね、幽霊になってしまったのよ。"
],
[
"ぼうぼう、ぼうぼう。",
"ぐらッぐらッ、ぐらッぐらッ。",
"や、小按摩が来た……出掛けるには及ばぬわ、青牛よ。",
"もう。"
],
[
"ぴい、ぷう。",
"ぼうぼう、ぼうぼう。",
"ぐらッぐらッ、ぐらッぐらッ。"
],
[
"青牛よ。",
"もう。",
"生白い、いい肴だ。釜で煮べい。",
"もう。"
],
[
"誰か、誰方か、誰方か。",
"うう、うう。"
]
] | 底本:「泉鏡花集成7」ちくま文庫、筑摩書房
1995(平成7)年12月4日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第二十二巻」岩波書店
1940(昭和15)年11月20日第1刷発行
※疑問点の確認にあたっては、底本の親本を参照しました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:今井忠夫
2003年8月30日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "004870",
"作品名": "怨霊借用",
"作品名読み": "おんりょうしゃくよう",
"ソート用読み": "おんりようしやくよう",
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"名ローマ字": "Kyoka",
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"底本名1": "泉鏡花集成7",
"底本出版社名1": "ちくま文庫、筑摩書房",
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[
[
"ああ号外だ。もう何ともありやしねえや。",
"だって、お前さん、そんなことをしちゃまたお腹が悪くなるよ。",
"何をよ、そんな事ッて。なあ、姉様、",
"甘いものを食べてさ、がりがり噛って、乱暴じゃないかねえ。",
"うむ、これかい。"
],
[
"やあ、寝てやがら、姉様、己が嫁さんは寝ねかな。",
"ああ、今しがた昼寝をしたの。"
],
[
"何にもいわねえや、蠅ばかり、ぶんぶんいってまわってら。",
"ほんとに酷い蠅ねえ、蚊が居なくッても昼間だって、ああして蚊帳へ入れて置かないとね、可哀そうなように集るんだよ。それにこうやって糊があるもんだからね、うるさいッちゃないんだもの。三ちゃん、お前さんの許なんぞも、やっぱりこうかねえ、浜へはちっとでも放れているから、それでも幾干か少なかろうねえ。",
"やっぱり居ら、居るどころか、もっと居ら、どしこと居るぜ。一つかみ打捕えて、岡田螺とか何とかいって、お汁の実にしたいようだ。"
],
[
"へへ、何、ねえだよ、気の毒な事はちっともねえだよ。嫁さんが食べる方が、己が自分で食べるより旨いんだからな。",
"あんなことをいうんだよ。"
],
[
"だって、男は誰でもそうだぜ。兄哥だってそういわあ。船で暴風雨に濡れてもな、屋根代の要らねえ内で、姉さんやお浜ッ児が雨露に濡れねえと思や、自分が寒い気はしねえとよ。",
"嘘ばッかり。"
],
[
"ああ、しましょうとも、しなくってさ、おほほ、三ちゃん、何を張るの。",
"え、そりゃ、何だ、またその時だ、今は着たッきりで何にもねえ。"
],
[
"三ちゃん。",
"うむ、",
"お前さん、その三尺は、大層色気があるけれど、余りよれよれになったじゃないか、ついでだからちょいとこの端へはっておいて上げましょう。",
"何こんなものを。"
],
[
"厭な児だよ、また裾を、裾をッて、お引摺りのようで人聞きが悪いわね。",
"錦絵の姉様だあよ、見ねえな、皆引摺ってら。",
"そりゃ昔のお姫様さ。お邸は大尽の、稲葉様の内だって、お小間づかいなんだもの、引摺ってなんぞいるものかね。"
],
[
"じゃ、何だって、何だってお前、ベソ三なの。",
"うん、"
],
[
"だって、号外が忙しいや。あ、号外ッ、",
"ちょいと、あれさ、何だよ、お前、お待ッてばねえ。"
],
[
"何だねえ、また、吃驚するわね。",
"へへへ、番ごとだぜ、弱虫やい。",
"ああ、可いよ、三ちゃんは強うございますよ、強いからね、お前は強いからそのベソを掻いたわけをお話しよ。"
],
[
"不可ねえや、強いからベソをなんて、誰が強くってベソなんか掻くもんだ。",
"じゃ、やっぱり弱虫じゃないか。"
],
[
"ええ、亡念の火が憑いたって、",
"おっと、……"
],
[
"だから、皆で秘すんだから、せめて三ちゃんが聞かせてくれたって可じゃないかね。",
"むむ、じゃ話すだがね、おらが饒舌ったって、皆にいっちゃ不可えだぜ。",
"誰が、そんなことをいうもんですか。",
"お浜ッ児にも内証だよ。"
],
[
"嬰児が、何を知ってさ。",
"それでも夢に見て魘されら。"
],
[
"………………",
"そして何よ、ア、ホイ、ホイ、アホイと厭な懸声がよ、火の浮く時は下へ沈んで、火の沈む時は上へ浮いて、上下に底澄んで、遠いのが耳について聞えるだ。"
],
[
"まあ、可かったねえ、それじゃ浜へも近かったんだね。",
"思ったよりは流されていねえだよ、それでも沖へ三十里ばかり出ていたっぺい。",
"三十里、"
],
[
"ああ、",
"あのね、私は何も新しい衣物なんか欲いとは思わないし、坊やも、お菓子も用らないから、お前さん、どうぞ、お婿さんになってくれる気なら、船頭はよして、何ぞ他の商売にしておくれな、姉さん、お願いだがどうだろうね。"
],
[
"姉さん、稲葉丸は今日さ日帰りだっぺいか。",
"ああ、内でもね。今日は晩方までに帰るって出かけたがね、お聞きよ、三ちゃん、"
],
[
"馬鹿あ、馬鹿あいわねえもんだ。へ、へ、へ、魚が、魚が人間を釣りに来てどうするだ。尾で立ってちょこちょこ歩行いて、鰭で棹を持つのかよ、よう、姉さん。",
"そりゃ鰹や、鯖が、棹を背負って、そこから浜を歩行いて来て、軒へ踞むとはいわないけれど、底の知れない海だもの、どんなものが棲んでいて、陽気の悪い夜なんぞ、浪に乗って来ようも知れない。昼間だって、ここへ来たものは、――今日は、三ちゃんばかりじゃないか。"
],
[
"もっと町の方へ引越して、軒へ瓦斯燈でも点けるだよ、兄哥もそれだから稼ぐんだ。",
"いいえ、私ゃ、何も今のくらしにどうこうと不足をいうんじゃないんだわ。私は我慢をするけれどね、お浜が可哀そうだから、号外屋でも何んでもいい、他の商売にしておくれって、三ちゃん、お前に頼むんだよ。内の人が心配をすると悪いから、お前決して、何んにもいうんじゃないよ、可いかい、解ったの、三ちゃん。"
],
[
"慾張ったから乾き切らない。",
"何、姉さんが泣くからだ、"
],
[
"海から魚が釣りに来ただよ。",
"あれ、厭、驚かしちゃ……"
],
[
"可よ、お上りよ。",
"だって、姉さんは綺麗ずきだからな。",
"構わないよ、ねえ、"
],
[
"三ちゃん、",
"や、また爺さまが鴉をやった。遊んでるッて叱られら、早くいって圧えべい。",
"まあ、遊んでおいでよ。"
]
] | 底本:「泉鏡花集成4」ちくま文庫、筑摩書房
1995(平成7)年10月24日第1刷発行
2004(平成16)年3月20日第2刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第九卷」岩波書店
1942(昭和17)年3月30日発行
入力:土屋隆
校正:門田裕志
2006年6月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "001178",
"作品名": "海異記",
"作品名読み": "かいいき",
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"姓読みソート用": "いすみ",
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[
[
"いや、自分は何も敵に捕えられた時、軍隊の事情を謂っては不可ぬ、拷問を堅忍して、秘密を守れという、訓令を請けた事も無く、それを誓った覚も無いです。また全くそうでしょう、袖に赤十字の着いたものを、戦闘員と同一取扱をしようとは、自分はじめ、恐らく貴下方にしても思懸はしないでしょう。",
"戦地だい、べらぼうめ。何を! 呑気なことを謂やがんでい。"
],
[
"ただ(そうですか)では済まん。様子に寄ってはこれ、きっと吾々に心得がある。しっかり性根を据えて返答せないか。",
"どんな心得があるのです。"
],
[
"うむ、聞きたいことがあるからだ。心得はある。心得はあるが、まず聞くことを聞いてからのこととしよう。",
"は、それでは何か誰ぞの吩附ででもあるのですか。"
],
[
"権利は無いが、腕力じゃ!",
"え、腕力?"
],
[
"解りました。で、そのお聞きになろうというのは?",
"知れてる! 先刻から謂う通りだ。なぜ、君には国家という観念が無いのか。痛いめを見るがつらいから、敵に白状をしようと思う。その精神が解らない。(いや、そうかも知れません)なんざ、無責任極まるでないか。そんなぬらくらじゃ了見せんぞ、しっかりと返答しろ。"
],
[
"それでどう謂えば無責任にならないです?",
"自分でその罪を償うのだ。",
"それではどうして償いましょう。",
"敵状を謂え! 敵状を。"
],
[
"聞けば、君が、不思議に敵陣から帰って来て、係りの将校が、君の捕虜になっていた間の経歴に就いて、尋問があった時、特に敵情を語れという、命令があったそうだが、どういうものか君は、知らない、存じませんの一点張で押通して、つまりそれなりで済んだというが。え、君、二月も敵陣に居て、敵兵の看護をしたというでないか。それで、懇篤で、親切で、大層奴等のために尽力をしたそうで、敵将が君を帰す時、感謝状を送ったそうだ。その位信任をされておれば、いろいろ内幕も聞いたろう、また、ただ見たばかりでも大概は知れそうなもんだ。知ってて謂わないのはどういう訳だ。あんまり愛国心がないではないか。",
"いえ、全く、聞いたのは呻吟声ばかりで、見たのは繃帯ばかりです。"
],
[
"してみると、何か、まるで無神経で、敵の事情を探ろうとはしなかったな。",
"別に聞いてみようとも思わないでした。"
],
[
"すべてこれが事実であるのです。",
"何だ、事実! むむ、味方のためには眼も耳も吝んで、問わず、聞かず、敵のためには粉骨砕身をして、夜の目も合わさない、呼吸もつかないで働いた、それが事実であるか! いや、感心だ、恐れ入った。その位でなければ敵から感状を頂戴する訳にはゆかんな。道理だ。"
],
[
"裂いちゃあ不可ません。",
"いや、謹んで、拝見する。"
],
[
"不可ないですか。",
"良心に問え!",
"やましいことはちっともないです。"
],
[
"隊長、おい、魂を据えて返答しろよ。へん、どうするか見やあがれ。",
"腰抜め、口イきくが最後だぞ。"
],
[
"可、改めて謂え、名を聞こう。",
"名ですか、神崎愛三郎。"
],
[
"さよう、どこか見覚えているような気持もするです。",
"うむ分るまい。それが分っていさえすりゃ、口広いことは謂えないわけだ。"
],
[
"しっかり聞こう、職務外のことは、何にもせんか!",
"出来ないです。余裕があれば綿繖糸を造るです。"
]
] | 底本:「泉鏡花集成2」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年4月24日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 別巻」岩波書店
1976(昭和51)年3月26日第1刷発行
初出:「太陽 第二卷第一號」
1896(明治29)年1月5日発行
※()内の編集者による注記は省略しました。
※誤植を疑った箇所を、底本の親本の表記にそって、あらためました。
入力:日根敏晶
校正:門田裕志
2016年7月31日作成
2016年9月2日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "057475",
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"作品名読み": "かいじょうはつでん",
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[
"いや、自分は何も敵に捕へられた時、軍隊の事情をいつては不可ぬ、拷問を堅忍して、秘密を守れといふ、訓令を請けた事もなく、それを誓つた覚もないです。また全く左様でしやう、袖に赤十字の着いたものを、戦闘員と同一取扱をしやうとは、自分はじめ、恐らく貴下方にしても思懸はしないでせう。",
"戦地だい、べらぼうめ。何を! 呑気なことをいやがんでい。"
],
[
"唯(左様ですか)では済まん。様子に寄つてはこれ、きつとわれわれに心得がある。しつかり性根を据へて返答せないか。",
"何様な心得があるのです。"
],
[
"うむ、聞きたいことがあるからだ。心得はある。心得はあるが、先づ聞くことを聞いてからのこととしやう。",
"は、それでは何か誰ぞの吩附ででもあるのですか。"
],
[
"権利はないが、腕力じゃ!",
"え、腕力?"
],
[
"解りました。で、そのお聞きにならうといふのは?",
"知れてる! 先刻からいふ通りだ。何故、君には国家といふ観念がないのか。痛いめを見るがつらいから、敵に白状をしやうと思ふ。その精神が解らない。(いや、左様かも知れません)なんざ、無責任極まるでないか。そんなぬらくらじや了見せんぞ、しつかりと返答しろ。"
],
[
"それでどういへば無責任にならないです?",
"自分でその罪を償ふのだ。",
"それではどうして償ひましやう。",
"敵状をいへ! 敵状を。"
],
[
"聞けば、君が、不思議に敵陣から帰つて来て、係りの将校が、君の捕虜になつてゐた間の経歴について、尋問があつた時、特に敵情を語れといふ、命令があつたそうだが、どういふものか君は、知らない、存じませんの一点張で押通して、つまりそれなりで済むだといふが。え、君、二月も敵陣にゐて、敵兵の看護をしたといふでないか。それで、懇篤で、親切で、大層奴らのために尽力をしたさうで、敵将が君を帰す時、感謝状を送つたさうだ。その位信任をされてをれば、種々内幕も聞いたらう、また、ただ見たばかりでも大概は知れさうなもんだ。知つてていはないのはどういふ訳だ。余り愛国心がないではないか。",
"いえ、全く、聞いたのは呻吟声ばかりで、見たのは繃帯ばかりです。"
],
[
"して見ると、何か、全然無神経で、敵の事情を探らうとはしなかつたな。",
"別に聞いて見やうとも思はないでした。"
],
[
"すべてこれが事実であるのです。",
"何だ、事実! むむ、味方のためには眼も耳も吝むで、問はず、聞かず、敵のためには粉骨碎身をして、夜の目も合はさない、呼吸もつかないで働いた、それが事実であるか! いや、感心だ、恐れ入つた。その位でなければ敵から感状を頂戴する訳にはゆかんな。道理だ。"
],
[
"裂いちやあ不可ません。",
"いや、謹むで、拝見する。"
],
[
"不可ないですか。",
"良心に問へ!",
"やましいことは些少もないです。"
],
[
"隊長、おい、魂を据へて返答しろよ。へむ、どうするか見やあがれ。",
"腰抜め、口イきくが最後だぞ。"
],
[
"可、改めていへ、名を聞かう。",
"名ですか、神崎愛三郎。"
],
[
"左様、何処か見覚えてゐるやうな気持もするです。",
"うむ分るまい。それが分つてゐさへすりや、口広いことはいへないわけだ。"
],
[
"しつかり聞かう、職務外のことは、何にもせんか!",
"出来ないです。余裕があれば綿繖糸を造るです。"
]
] | 底本:「外科室・海城発電 他五篇」岩波文庫、岩波書店
1991(平成3)年9月17日第1刷発行
2000(平成12)年9月5日第18刷発行
底本の親本:「鏡花全集 別巻」岩波書店
1976(昭和50)年3月26日第1刷発行
初出:「太陽」第二巻第一号
1896(明治29)年1月
※本文中、「恁りつ」は「凭りつ」、「※[#「目+旬」、第3水準1-88-80]」は「※[#「目+句」、第4水準2-81-91]」の誤りと思われますが、底本の通りにしました。
※「読みにくい語、読み誤りやすい語には現代仮名づかいで振り仮名を付す。」との底本の編集方針にそい、ルビの拗促音は小書きしました。
入力:門田裕志
校正:鈴木厚司
2003年8月31日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "004557",
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[
[
"しいッ、",
"やあ、"
],
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"しいッ、",
"やあ、"
],
[
"何も居ねえぞ。",
"おお、居ねえ、居めえよ、お前。一つ劫かしておいて消えたずら。いつまでも顕われていそうな奴じゃあねえだ。",
"いまも言うた事だがや、この魚を狙ったにしては、小い奴だな。",
"それよ、海から己たちをつけて来たものではなさそうだ。出た処勝負に石段の上に立ちおったで。",
"己は、魚の腸から抜出した怨霊ではねえかと思う。"
],
[
"何しろ、水ものには違えねえだ。野山の狐鼬なら、面が白いか、黄色ずら。青蛙のような色で、疣々が立って、はあ、嘴が尖って、もずくのように毛が下った。",
"そうだ、そうだ。それでやっと思いつけた。絵に描いた河童そっくりだ。"
],
[
"畜生。今ごろは風説にも聞かねえが、こんな処さ出おるかなあ。――浜方へ飛ばねえでよかった。――漁場へ遁げりゃ、それ、なかまへ饒舌る。加勢と来るだ。",
"それだ。",
"村の方へ走ったで、留守は、女子供だ。相談ぶつでもねえで、すぐ引返して、しめた事よ。お前らと、己とで、河童に劫されたでは、うつむけにも仰向けにも、この顔さ立ちっこねえ処だったぞ、やあ。",
"そうだ、そうだ。いい事をした。――畜生、もう一度出て見やがれ。あたまの皿ア打挫いて、欠片にバタをつけて一口だい。"
],
[
"和郎はの。",
"三里離れた処でしゅ。――国境の、水溜りのものでございまっしゅ。",
"ほ、ほ、印旛沼、手賀沼の一族でそうろよな、様子を見ればの。",
"赤沼の若いもの、三郎でっしゅ。",
"河童衆、ようござった。さて、あれで見れば、石段を上らしゃるが、いこう大儀そうにあった、若いにの。……和郎たち、空を飛ぶ心得があろうものを。",
"神職様、おおせでっしゅ。――自動車に轢かれたほど、身体に怪我はあるでしゅが、梅雨空を泳ぐなら、鳶烏に負けんでしゅ。お鳥居より式台へ掛らずに、樹の上から飛込んでは、お姫様に、失礼でっしゅ、と存じてでっしゅ。",
"ほ、ほう、しんびょう。"
],
[
"きものも、灰塚の森の中で、古案山子を剥いだでしゅ。",
"しんびょう、しんびょう……奇特なや、忰。……何、それで大怪我じゃと――何としたの。",
"それでしゅ、それでしゅから、お願いに参ったでしゅ。",
"この老ぼれには何も叶わぬ。いずれ、姫神への願いじゃろ。お取次を申そうじゃが、忰、趣は――お薬かの。",
"薬でないでしゅ。――敵打がしたいのでっしゅ。",
"ほ、ほ、そか、そか。敵打。……はて、そりゃ、しかし、若いに似合わず、流行におくれたの。敵打は近頃はやらぬがの。",
"そでないでっしゅ。仕返しでっしゅ、喧嘩の仕返しがしたいのでっしゅ。",
"喧嘩をしたかの。喧嘩とや。",
"この左の手を折られたでしゅ。"
],
[
"いたましげなや――何としてなあ。対手はどこの何ものじゃの。",
"畜生!人間。",
"静に――"
],
[
"日の今日、午頃、久しぶりのお天気に、おらら沼から出たでしゅ。崖を下りて、あの浜の竃巌へ。――神職様、小鮒、鰌に腹がくちい、貝も小蟹も欲しゅう思わんでございましゅから、白い浪の打ちかえす磯端を、八葉の蓮華に気取り、背後の屏風巌を、舟後光に真似て、円座して……翁様、御存じでございましょ。あれは――近郷での、かくれ里。めった、人の目につかんでしゅから、山根の潮の差引きに、隠れたり、出たりして、凸凹凸凹凸凹と、累って敷く礁を削り廻しに、漁師が、天然の生簀、生船がまえにして、魚を貯えて置くでしゅが、鯛も鰈も、梅雨じけで見えんでしゅ。……掬い残りの小こい鰯子が、チ、チ、チ、(笑う。)……青い鰭の行列で、巌竃の簀の中を、きらきらきらきら、日南ぼっこ。ニコニコとそれを見い、見い、身のぬらめきに、手唾して、……漁師が網を繕うでしゅ……あの真似をして遊んでいたでしゅ。――処へ、土地ところには聞馴れぬ、すずしい澄んだ女子の声が、男に交って、崖上の岨道から、巌角を、踏んず、縋りつ、桂井とかいてあるでしゅ、印半纏。",
"おお、そか、この町の旅籠じゃよ。",
"ええ、その番頭めが案内でしゅ。円髷の年増と、その亭主らしい、長面の夏帽子。自動車の運転手が、こつこつと一所に来たでしゅ。が、その年増を――おばさん、と呼ぶでございましゅ、二十四五の、ふっくりした別嬪の娘――ちくと、そのおばさん、が、おばしアん、と云うか、と聞こえる……清い、甘い、情のある、その声が堪らんでしゅ。",
"はて、異な声の。",
"おららが真似るようではないでしゅ。",
"ほ、ほ、そか、そか。"
],
[
"翁様、娘は中肉にむっちりと、膚つきが得う言われぬのが、びちゃびちゃと潮へ入った。褄をくるりと。",
"危やの。おぬしの前でや。",
"その脛の白さ、常夏の花の影がからみ、磯風に揺れ揺れするでしゅが――年増も入れば、夏帽子も。番頭も半纏の裙をからげたでしゅ。巌根づたいに、鰒、鰒、栄螺、栄螺。……小鰯の色の綺麗さ。紫式部といったかたの好きだったというももっともで……お紫と云うがほんとうに紫……などというでしゅ、その娘が、その声で。……淡い膏も、白粉も、娘の匂いそのままで、膚ざわりのただ粗い、岩に脱いだ白足袋の裡に潜って、熟と覗いていたでしゅが。一波上るわ、足許へ。あれと裳を、脛がよれる、裳が揚る、紅い帆が、白百合の船にはらんで、青々と引く波に走るのを見ては、何とも、かとも、翁様。",
"ちと聞苦しゅう覚えるぞ。",
"口へ出して言わぬばかり、人間も、赤沼の三郎もかわりはないでしゅ。翁様――処ででしゅ、この吸盤用意の水掻で、お尻を密と撫でようものと……",
"ああ、約束は免れぬ。和郎たちは、一族一門、代々それがために皆怪我をするのじゃよ。",
"違うでしゅ、それでした怪我ならば、自業自得で怨恨はないでしゅ。……蛙手に、底を泳ぎ寄って、口をぱくりと、",
"その口でか、その口じゃの。"
],
[
"その怪我じゃ。",
"神職様。――塩で釣出せぬ馬蛤のかわりに、太い洋杖でかッぽじった、杖は夏帽の奴の持ものでしゅが、下手人は旅籠屋の番頭め、這奴、女ばらへ、お歯向きに、金歯を見せて不埒を働く。",
"ほ、ほ、そか、そか。――かわいや忰、忰が怨は番頭じゃ。",
"違うでしゅ、翁様。――思わず、きゅうと息を引き、馬蛤の穴を刎飛んで、田打蟹が、ぼろぼろ打つでしゅ、泡ほどの砂の沫を被って転がって遁げる時、口惜しさに、奴の穿いた、奢った長靴、丹精に磨いた自慢の向脛へ、この唾をかッと吐掛けたれば、この一呪詛によって、あの、ご秘蔵の長靴は、穴が明いて腐るでしゅから、奴に取っては、リョウマチを煩らうより、きとこたえる。仕返しは沢山でしゅ。――怨の的は、神職様――娘ども、夏帽子、その女房の三人でしゅが。",
"一通りは聞いた、ほ、そか、そか。……無理も道理も、老の一存にはならぬ事じゃ。いずれはお姫様に申上ぎょうが、こなた道理には外れたようじゃ、無理でのうもなかりそうに思われる、そのしかえし。お聞済みになろうか。むずかしいの。",
"御鎮守の姫様、おきき済みになりませぬと、目の前の仇を視ながら仕返しが出来んのでしゅ、出来んのでしゅが、わア、"
],
[
"あの、三人は?",
"はあ、されば、その事。"
],
[
"皆、東京の下町です。円髷は踊の師匠。若いのは、おなじ、師匠なかま、姉分のものの娘です。男は、円髷の亭主です。ぽっぽう。おはやし方の笛吹きです。",
"や、や、千里眼。"
],
[
"芸人でしゅか、士農工商の道を外れた、ろくでなしめら。",
"三郎さん、でもね、ちょっと上手だって言いますよ、ぽう、ぽっぽ。"
],
[
"芸一通りさえ、なかなかのものじゃ。達者というも得難いに、人間の癖にして、上手などとは行過ぎじゃぞよ。",
"お姫様、トッピキピイ、あんな奴はトッピキピイでしゅ。"
],
[
"おおよそ御合点と見うけたてまつる。赤沼の三郎、仕返しは、どの様に望むかの。まさかに、生命を奪ろうとは思うまい。厳しゅうて笛吹は眇、女どもは片耳殺ぐか、鼻を削るか、蹇、跛どころかの――軽うて、気絶……やがて、息を吹返さすかの。",
"えい、神職様。馬蛤の穴にかくれた小さなものを虐げました。うってがえしに、あの、ご覧じ、石段下を一杯に倒れた血みどろの大魚を、雲の中から、ずどどどど!だしぬけに、あの三人の座敷へ投込んで頂きたいでしゅ。気絶しようが、のめろうが、鼻かけ、歯かけ、大な賽の目の出次第が、本望でしゅ。",
"ほ、ほ、大魚を降らし、賽に投げるか。おもしろかろ。忰、思いつきは至極じゃが、折から当お社もお人ずくなじゃ。あの魚は、かさも、重さも、破れた釣鐘ほどあって、のう、手頃には参らぬ。"
],
[
"拍子ではござりませぬ、ぶつぶつと唄のようで。",
"さすが、商売人。――あれに笛は吹くまいよ、何と唄うえ。"
],
[
"……諏訪――の海――水底、照らす、小玉石――手には取れども袖は濡さじ……おーもーしーろーお神楽らしいんでございますの。お、も、しーろし、かしらも、白し、富士の山、麓の霞――峰の白雪。",
"それでは、お富士様、お諏訪様がた、お目かけられものかも知れない――お待ち……あれ、気の疾い。"
],
[
"誰が見るものかね。踊よりか、町で買った、擂粉木とこの杓もじをさ、お前さんと私とで、持って歩行いた方がよっぽどおかしい。",
"だって、おばさん――どこかの山の神様のお祭に踊る時には、まじめな道具だって、おじさんが言うんじゃないの。……御幣とおんなじ事だって。……だから私――まじめに町の中を持ったんだけれど、考えると――変だわね。",
"いや、まじめだよ。この擂粉木と杓子の恩を忘れてどうする。おかめひょっとこのように滑稽もの扱いにするのは不届き千万さ。"
],
[
"いわば、お儀式用の宝ものといっていいね、時ならない食卓に乗ったって、何も気味の悪いことはないよ。",
"気味の悪いことはないったって、一体変ね、帰る途でも言ったけれど、行がけに先刻、宿を出ると、いきなり踊出したのは誰なんでしょう。",
"そりゃ私だろう。掛引のない処。お前にも話した事があるほどだし、その時の祭の踊を実地に見たのは、私だから。",
"ですが、こればかりはお前さんのせいともいえませんわ。……話を聞いていますだけに、何だか私だったかも知れない気がする。",
"あら、おばさん、私のようよ、いきなりひとりでに、すっと手の上ったのは。",
"まさか、巻込まれたのなら知らないこと――お婿さんをとるのに、間違ったら、高島田に結おうという娘の癖に。",
"おじさん、ひどい、間違ったら高島田じゃありません、やむを得ず洋髪なのよ。",
"おとなしくふっくりしてる癖に、時々ああいう口を利くんですからね。――吃驚させられる事があるんです。――いつかも修善寺の温泉宿で、あすこに廊下の橋がかりに川水を引入れた流の瀬があるでしょう。巌組にこしらえた、小さな滝が落ちるのを、池の鯉が揃って、競って昇るんですわね。水をすらすらと上るのは割合やさしいようですけれど、流れが煽って、こう、颯とせく、落口の巌角を刎ね越すのは苦艱らしい……しばらく見ていると、だんだんにみんな上った、一つ残ったのが、ああもう少し、もう一息という処で滝壺へ返って落ちるんです。そこよ、しっかりッてこの娘――口へ出したうちはまだしも、しまいには目を据えて、熟と視たと思うと、湯上りの浴衣のままで、あの高々と取った欄干を、あッという間もなく、跣足で、跣足で跨いで――お帳場でそういいましたよ。随分おてんばさんで、二階の屋根づたいに隣の間へ、ばア――それよりか瓦の廂から、藤棚越しに下座敷を覗いた娘さんもあるけれど、あの欄干を跨いだのは、いつの昔、開業以来、はじめてですって。……この娘。……御当人、それで巌飛びに飛移って、その鯉をいきなりつかむと、滝の上へ泳がせたじゃありませんか。",
"説明に及ばず。私も一所に見ていたよ。吃驚した。時々放れ業をやる。それだから、縁遠いんだね。たとえばさ、真のおじきにした処で、いやしくも男の前だ。あれでは跨いだんじゃない、飛んだんだ。いや、足を宙へ上げたんだ。――",
"知らない、おじさん。",
"もっとも、一所に道を歩行いていて、左とか右とか、私と説が違って、さて自分が勝つと――銀座の人込の中で、どうです、それ見たか、と白い……",
"多謝。",
"逞しい。",
"取消し。",
"腕を、拳固がまえの握拳で、二の腕の見えるまで、ぬっと象の鼻のように私の目のさきへ突出した事があるんだからね。",
"まだ、踊ってるようだわね、話がさ。",
"私も、おばさん、いきなり踊出したのは、やっぱり私のように思われてならないのよ。",
"いや、ものに誘われて、何でも、これは、言合わせたように、前後甲乙、さっぱりと三人同時だ。",
"可厭ねえ、気味の悪い。",
"ね、おばさん、日の暮方に、お酒の前。……ここから門のすぐ向うの茄子畠を見ていたら、影法師のような小さなお媼さんが、杖に縋ってどこからか出て来て、畑の真中へぼんやり立って、その杖で、何だか九字でも切るような様子をしたじゃアありませんか。思出すわ。……鋤鍬じゃなかったんですもの。あの、持ってたもの撞木じゃありません? 悚然とする。あれが魔法で、私たちは、誘い込まれたんじゃないんでしょうかね。",
"大丈夫、いなかでは遣る事さ。ものなりのいいように、生れ生れ茄子のまじないだよ。",
"でも、畑のまた下道には、古い穀倉があるし、狐か、狸か。",
"そんな事は決してない。考えているうちに、私にはよく分った。雨続きだし、石段が辷るだの、お前さんたち、蛇が可恐いのといって、失礼した。――今夜も心ばかりお鳥居の下まで行った――毎朝拍手は打つが、まだお山へ上らぬ。あの高い森の上に、千木のお屋根が拝される……ここの鎮守様の思召しに相違ない。――五月雨の徒然に、踊を見よう。――さあ、その気で、更めて、ここで真面目に踊り直そう。神様にお目にかけるほどの本芸は、お互にうぬぼれぬ。杓子舞、擂粉木踊だ。二人は、わざとそれをお持ち、真面目だよ、さ、さ、さ。可いかい。"
],
[
"三人を堪忍してやりゃ。",
"あ、あ、あ、姫君。踊って喧嘩はなりませぬ。うう、うふふ、蛇も踊るや。――藪の穴から狐も覗いて――あはは、石投魚も、ぬさりと立った。"
],
[
"石段に及ばぬ、飛んでござれ。",
"はあ、いまさらにお恥かしい。大海蒼溟に館を造る、跋難佗竜王、娑伽羅竜王、摩那斯竜王。竜神、竜女も、色には迷う験し候。外海小湖に泥土の鬼畜、怯弱の微輩。馬蛤の穴へ落ちたりとも、空を翔けるは、まだ自在。これとても、御恩の姫君。事おわして、お召とあれば、水はもとより、自在のわっぱ。電火、地火、劫火、敵火、爆火、手一つでも消しますでしゅ、ごめん。"
]
] | 底本:「泉鏡花集成8」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年5月23日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第二十三卷」岩波書店
1942(昭和17)年6月22日第1刷発行
初出:「古東多万 第一年第一號」やぼんな書房
1931(昭和6)年9月
※初出時の題名は「貝の穴に河童が居る」です。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:本山智子
校正:門田裕志
2001年7月19日公開
2012年5月29日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "003315",
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[
"おや、先生じゃありませんか、まあ、先生。",
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"それ……と、たしか松村さん。"
],
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"どうなさいました、まあ。",
"何の事はありません。"
],
[
"身延山の石段で、行倒れになったようなんです。口も利けない始末ですがね、場所はどこです、どこにあります、あと何階あります、場所は、おさらいの会場は。",
"おさらい……おさらいなんかありませんわ。",
"ええ。"
],
[
"しかし、師匠は。",
"あれさ、それだけはよして頂戴よ。ししょう……もようもない、ほほほ。こりゃ、これ、かみがたの口合や。"
],
[
"鶏卵と、玉子と、字にかくとおんなじというめくらだけれど、おさらいの看板ぐらいは形でわかりますからね、叱られやしないと多寡をくくって、ふらふらと入って来ましたがね。おさらいや、おおさえや、そんなものは三番叟だって、どこにも、やってやしませんのさ。",
"はあ。"
],
[
"成程、で、その連中でないとすると、弱ったなあ。……失礼だが、まるっきりお見それ申したがね。",
"ええ、ええ、ごもっとも、お目に掛ったのは震災ずっと前でござんすもの。こっちは、商売、慾張ってますから、両三度だけれど覚えていますわ。お分りにならない筈……"
],
[
"吉原の小浜屋(引手茶屋)が、焼出されたあと、仲之町をよして、浜町で鳥料理をはじめました。それさ、お前さん、鶏卵と、玉子と同類の頃なんだよ。京千代さんの、鴾さんと、一座で、お前さんおいでなすった……",
"ああ、そう……"
],
[
"ああ、やっと、思出した……おつまさん。",
"市場の、さしみの……"
],
[
"おさらいは構わないが、さ、さしあたって、水の算段はあるまいか、一口でもいいんだが。",
"おひや。暑そうね、お前さん、真赤になって。"
],
[
"私も暑い。赤いでしょう。",
"しんは青くなっているんだよ……息が切れて倒れそうでね。",
"おひや、ありますよ。",
"有りますか。",
"もう、二階ばかり上の高い処に、海老屋の屋根の天水桶の雪の遠見ってのがありました。",
"聞いても飛上りたいが、お妻さん、動悸が激しくって、動くと嘔きそうだ。下へもおりられないんだよ。恩に被るから、何とか一杯。",
"おっしゃるな。すぐに算段をしますから。まったく、いやに蒸すことね。その癖、乾き切ってさ。"
],
[
"さ、お待遠様。",
"難有い。",
"灰皿――灰落しらしいわね。……廊下に台のものッて寸法にいかないし、遣手部屋というのがないんだもの、湯呑みの工面がつきやしません。……いえね、いよいよとなれば、私は借着の寸法だけれど、花柳の手拭の切立てのを持っていますから、ずッぷり平右衛門で、一時凌ぎと思いましたが、いい塩梅にころがっていましたよ。大丈夫、ざあざあ洗って洗いぬいた上、もう私が三杯ばかりお毒見が済んでいますから。ああ、そんなに引かぶって、襟が冷くありませんか、手拭をあげましょう。",
"一滴だってこぼすものかね、ああ助かった。――いや、この上欲しければ、今度は自分で歩行けそうです。――助かった。恩に被ますよ。",
"とんでもない、でも、まあ、嬉しい。",
"まったく活返った。",
"ではその元気で、上のおさらいへいらっしゃるか。そこまで、おともをしてもよござんす。",
"で、演っていますかね。三味線の音でも聞こえますか。",
"いいえ。",
"途中で、連中らしいのでも見ませんか。",
"人ッこ一人、……大びけ過ぎより、しんとして薄気味の悪いよう。",
"はてな、間違ではなかろうが、……何しろ、きみは、ちっともその方に引っかかりはないのでしたね。",
"ええ、私は風来ものの大気紛れさ、といううちにも、そうそう。"
],
[
"角海老に似ていましょう、時計台のあった頃の、……ちょっと、当世ビルジングの御前様に対して、こういっては相済まないけども。……熟と天頂の方を見ていますとね、さあ、……五階かしら、屋の棟に近い窓に、女の姿が見えました。部屋着に、伊達巻といった風で、いい、おいらんだ。……串戯じゃない。今時そんな間違いがあるものか。それとも、おさらいの看板が見えるから、衣裳をつけた踊子が涼んでいるのかも分らない、入って見ようと。",
"ああ、それで……",
"でござんさあね。さあ、上っても上っても。……私も可厭になってしまいましてね。とんとんと裏階子を駆下りるほど、要害に馴れていませんから、うろうろ気味で下りて来ると、はじめて、あなた、たった一人。",
"だれか、人が。",
"それが、あなた、こっちが極りの悪いほど、雪のように白い、後姿でもって、さっきのおいらんを、丸剥にしたようなのが、廊下にぼんやりと、少し遠見に……おや! おさらいのあとで、お湯に入る……ッてこれが、あまりないことさ。おまけに高尾のうまれ土地だところで、野州塩原の温泉じゃないけども、段々の谷底に風呂場でもあるのかしら。ぼんやりと見てる間に、扉だか部屋だかへ消えてしまいましたがね。",
"どこのです。",
"ここの。",
"ええ。",
"それとも隣室だったかしら。何しろ、私も見た時はぼんやりしてさ、だから、下に居なすった、お前さんの姿が、その女が脱いで置いた衣ものぐらいの場所にありましてね。"
],
[
"?……雪おんな。",
"ここに背負っておりますわ。それに実に、見事な絵でござんすわ。"
],
[
"絵ですか、……誰の絵なんです。",
"あら、御存じない?……あなた、鴾先生のじゃありませんか。",
"ええ、鴾君が、いつね、その絵を。"
],
[
"つい近頃だと言いますよ。それも、わけがありましてね、私が今夜、――その酒場へ、槍、鉄棒で押掛けたといいました。やっぱりその事でおかきなすったんだけれどもね。まあ、お目にかけますわ……お待なさい。ここは、廊下で、途中だし、下へ出た処で、往来と……ああ、ちょっとこの部屋へ入りましょうか。",
"名札はかかっていないけれど、いいかな。",
"あき店さ、お前さん、田畝の葦簾張だ。"
],
[
"ぬしがあっても、夜の旅じゃ、休むものに極っていますよ。",
"しかし、なかに、どんなものか置いてでもあると、それだとね。",
"御本尊のいらっしゃる、堂、祠へだって入りましょう。……人間同士、構やしません。いえ、そこどころじゃあない、私は野宿をしましてね、変だとも、おかしいとも、何とも言いようのない、ほほほ、男の何を飾った処へ、のたれ込んだ事がありますわ。野中のお堂さ、お前さん。……それから見りゃ、――おや開かない、鍵が掛っていますかね、この扉は。",
"無論だろうね。",
"圧してみて下さい。開きません? ああ、そうね、あなたがなすっては御身分がら……お待ちなさいよ、おつな呪禁がありますから。"
],
[
"雪おんなさん。",
"…………",
"あなたがいい、おばけだから、出入りは自由だわ。"
]
] | 底本:「泉鏡花集成9」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年6月24日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第二十三卷」岩波書店
1942(昭和17)年6月22日発行
入力:門田裕志
校正:土屋隆
2006年3月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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[
[
"シツペイの打くらをいたさうかの。",
"へゝゝゝ、おもしろうござります。"
],
[
"まづ、御前様。",
"心得た。",
"へゝゝゝ"
]
] | 底本:「新編 泉鏡花集 第十巻」岩波書店
2004(平成16)年4月23日第1刷発行
底本の親本:「桜草」文芸書院
1913(大正2)年3月18日
初出:「新小説 第十四年第六巻―第十四年第七巻」春陽堂
1909(明治42)年6月1日―7月1日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※表題は底本では、「怪力《くわいりき》」となっています。
※初出時の署名は「泉鏡花」です。
入力:日根敏晶
校正:門田裕志
2016年10月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "057484",
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[
[
"狸囃子と云うんだよ、昔から本所の名物さ。",
"あら、嘘ばっかり。"
],
[
"大分夜が更けました。",
"亥刻過ぎでございましょう、……ねえ、頭。",
"そうよね。"
],
[
"で、ございますから、遠慮をしまして、名は呼びません、でございましたが、おっしゃる通り、ただ迷児迷児と喚きました処で分るものではございません。もう大分町も離れました、徐々娘の名を呼びましょう。",
"成程々々、御心附至極の儀。そんなら、ここから一つ名を呼んで捜す事にいたしましょう。頭、音頭を願おうかね。",
"迷児の音頭は遣りつけねえが、ままよ。……差配さん、合方だ。"
],
[
"お稲さんやあ、――トこの調子かね。",
"結構でございますね、差配さん。"
],
[
"この方、総入歯で、若い娘の仮声だちね。いえさ、したが何となく返事をしそうで、大に張合が着きましたよ。",
"その気で一つ伸しましょうよ。"
],
[
"……ああ、腹が空いた、饂飩屋。",
"へいへい、頭、難有うござります。"
],
[
"おっと、礼はまだ早かろう。これから相談だ。ねえ、太吉さん、差配さん、ちょっぴり暖まって、行こうじゃねえかね。",
"賛成。"
],
[
"頭、……御町内様も御苦労様でございます。お捜しなさいますのは、お子供衆で?",
"小児なものかね、妙齢でございますよ。"
],
[
"ああ、さて、走り人でござりますの。",
"はしり人というのじゃないね、同じようでも、いずれ行方は知れんのだが。"
],
[
"お前様も。死んだ迷児という事が、世の中にござりますかい。",
"六道の闇に迷えば、はて、迷児ではあるまいか。",
"や、そんなら、お前様方は、亡者をお捜しなさりますのか。",
"そのための、この白張提灯。"
],
[
"捜いて、捜いて、暗から闇へ行く路じゃ。",
"ても……気味の悪い事を言いなさる。",
"饂飩屋、どうだ一所に来るか。"
],
[
"占めたぞ。",
"喰遁げ。"
],
[
"貴方様は、どうぞこれへ。はい、はい、はい。",
"恐縮ですな。"
],
[
"おかみさん、この芝居はどういう筋だい。",
"はいはい、いいえ、貴下、子供が出たらめに致しますので、取留めはございませんよ。何の事でございますか、私どもは一向に分りません。それでも稽古だの何のと申して、それは騒ぎでございましてね、はい、はい、はい。"
],
[
"さあ、行こうか。",
"可いわ、もうちっと……",
"恐怖いよう。"
],
[
"はい……冷とうござんすわいな。",
"ふん、それはな、三途河の奪衣婆に衣を剥がれて、まだ間が無うて馴れぬからだ。ひくひくせずと堪えくされ。雪女が寒いと吐すと、火が火を熱い、水が水を冷い、貧乏人が空腹いと云うようなものだ。汝が勝手の我ままだ。",
"情ない事おっしゃいます、辛うて辛うてなりませんもの。"
],
[
"これから女形が演処なんだぜ。居所がわりになるんだけれど、今度は亡者じゃねえよ、活きてる娘の役だもの。裸では不可えや、前垂を貸しとくれよ。誰か、",
"後生だってば、"
],
[
"羽織なら、ねえ、おい。",
"ああ、そんな旨え事はねえんだけれど、前掛でさえ、しみったれているんだもの、貸すもんか。それだしね、羽織なんて誰も持ってやしませんぜ。"
],
[
"難有う、",
"奥さん難有う。"
],
[
"島田も可いこと、それなりで角かくしをさしたいようだわ……ああ、でも扱帯を前帯じゃどう。遊女のようではなくって、",
"構わないの、お稲さんが寝衣の処だから、",
"ああ、ちょっと。"
],
[
"へーい、ちっとも知らなかった。",
"私もさ……今ね、内の出窓の前に、お隣家の女房さんが立って、通の方を見てしくしく泣いていなさるから、どうしたんですって聞いたんです。可哀相に……お稲ちゃんのお葬式が出る所だって、他家の娘でも最惜くってしようがないって云うんでしょう。――そう云えば成程何だわね、この節じゃ多日姿を見なかったわね、よくお前さん、それ、あの娘が通ると云うと、箸をカチリと置いて出窓から、お覗きだっけがね。"
],
[
"余計な事を言いなさんな、……しかし惜いね、ちょっとないぜ、ここいらには、あのくらいな一枚絵は。",
"うっかり下町にだってあるもんですか。",
"などと云うがね、お前もお長屋月並だ。……生きてるうちは、そうまでは讃めない奴さ、顔がちっと強すぎる、何のってな。"
],
[
"幾歳だ。",
"十九……明けてですよ。"
],
[
"勿論、お婿さんは知らずらしいね。",
"ええ、そのお婿さんの事で、まあ亡くなったんですよ。"
],
[
"や、自殺か。",
"おお吃驚した……慌てるわねえ、お前さんは。いいえ、自殺じゃないけれども、私の考えだと、やっぱり同一だわ、自殺をしたのも。",
"じゃどうしたんだよ。",
"それがだわね。",
"焦ったい女だな。",
"ですから静にお聞きなさいなね、稲ちゃんの内じゃ、成りたけ内証に秘していたんだそうですけれど、あの娘はね、去年の夏ごろから――その事で――狂気になったんですって。",
"あの、綺麗な娘が。",
"まったくねえ。"
],
[
"それで、落第、もう沢山。",
"どうだか。",
"ほんとうですとも。それからそのニチャリが、",
"右のな、"
],
[
"ええ、ぞっこんとなって、お稲ちゃんをたってと云うの、これには嫂が一はながけに乗ったでしょう。",
"極りでいやあがる。",
"大分、お芝居になって来たわね。",
"余計な事を言わないで……それから、",
"兄さんの才子も、やっぱりその気だもんですからね、いよいよという談話の時、きっぱり兄さんから断ってしまったんですって――無い御縁とおあきらめ下さい、か何かでさ。",
"その法学士の方をだな、――無い御縁が凄じいや、てめえが勝手に人の縁を、頤にしゃぼん玉の泡沫を塗って、鼻の下を伸ばしながら横撫でに粧やあがる西洋剃刀で切ったんじゃないか。"
],
[
"まだね。危いってないの。聞いても、ひやひやするのはね、夜中に密と箪笥の抽斗を開けたんですよ。",
"法学士の見合いの写真?……",
"いいえ、そんなら可いけれど、短刀を密と持ったの、お母さんの守護刀だそうですよ……そんな身だしなみのあったお母さんの娘なんだから、お稲ちゃんの、あの、きりりとして……妙齢で可愛い中にも品の可かった事を御覧なさい。",
"余り言うのはよせ、何だか気を受けて、それ、床の間の花が、",
"あれ、"
],
[
"二階の欄干から見る奴があるものか。見送るなら門へお出な。",
"止しましょう、おもいの種だから……"
],
[
"じゃ死のうという短刀で怪我でもして、病院へ入ったのかい。",
"いいえ、それはもう、家中で要害が厳重よ。寝る時分には、切れものという切れものは、そっくり一つ所へ蔵って、錠をおろして、兄さんがその鍵を握って寝たんだっていうんですもの。",
"ははあ、重役の忰に奉って、手繰りつく出世の蔓、お大事なもんですからな。……会社でも鍵を預る男だろう。あの娘の兄と云えば、まだ若かろうに何の真似だい。",
"お稲ちゃんは、またそんなでいて、しくしく泣き暮らしてでも、お在だったかと思うと、そうじゃないの……精々裁縫をするんですって。自分のものは、肌のものから、足袋まで、綺麗に片づけて、火熨斗を掛けて、ちゃんと蔵って、それなり手を通さないでも、ものの十日も経つと、また出して見て洗い直すまでにして、頼まれたものは、兄さんの嬰児のおしめさえ折りめの着くほど洗濯してさ。",
"おやおや、兄の嬰児の洗濯かね。"
],
[
"ねえ、私にだって分りませんわ。",
"で、どうしたんだい。"
],
[
"なったんじゃない……葬式にされたんだ。殺されたんだよ。だから言わない事じゃない、言語道断だ、不埒だよ。妹を餌に、鰌が滝登りをしようなんて。",
"ええ、そうよ……ですからね、兄って人もお稲ちゃんが病院へ入って、もう不可ないっていう時分から、酷く何かを気にしてさ。嬰児が先に死ぬし、それに、この葬式の中だ、というのに、嫂だわね、御自慢の細君が、またどっと病気で寝ているもんだから、ああ稲がとりに来たとりに来たって、蔭ではそう云っていますとさ。"
],
[
"串戯じゃないわ、人の気も知らないで。",
"無論、串戯ではないがね、女言濫りに信ずべからず、半分は嘘だろう。",
"いいえ!",
"まあさ、お前の前だがね、隣の女房というのが、また、とかく大袈裟なんですからな。",
"勝手になさいよ、人に散々饒舌らしといて、嘘じゃないわ。ねえ、お稲ちゃん、女は女同士だわね。"
],
[
"でも、少し気になるよ、肝心、焦れ死をされた、法学士の方は、別に聞いた沙汰なしかい。",
"先方でもね、お稲ちゃんがその容体だってのを聞いて、それはそれは気の毒がってね――法学士さんというのが、その若い奥さんに、真になって言ったんだって――お前は二度目だ。後妻だと思ってくれ。お稲さんとは、確に結婚したつもりだって――"
],
[
"ああ、その椿は、成りたけ川へ。",
"流しましょうね、ちょっと拝んで、"
],
[
"止せ!品子さん。",
"可いわ。",
"見っともないよ。",
"私は構わないの。"
],
[
"あのね、この芝居はどういう脚色なの、それが聞きたいの。",
"小母さん見ていらっしゃい。"
],
[
"見ますよ、見るけれどもね、ちょっと聞かして下さいな。ね、いい児だから。",
"だって、言ったって、芝居だって、同一なんですもの、見ていらっしゃい。",
"急ぐから、先へ聞きたいの、ええ、不可い。"
],
[
"まあ、強情だわねえ。",
"強情ではござりませぬ。"
],
[
"いいえ、羽織なんか、どうでも可いの、ただ私、気になるんです。役者が知らないなら、誰でも構いません。差支えなかったら聞かして下さい。一体ここはどこなんです。",
"六道の辻の小屋がけ芝居じゃ。"
],
[
"ああ、分りました、そしてお前さんは?",
"いろいろの魂を瓶に入れて持っている狂言方じゃ。たって望みならば聞かせようかの。",
"ええ、どうぞ。"
],
[
"まだ後が聞きとうござりますか。お稲は狂死に死ぬるのじゃ。や、じゃが、家眷親属の余所で見る眼には、鼻筋の透った、柳の眉毛、目を糸のように、睫毛を黒う塞いで、の、長煩らいの死ぬ身には塵も据らず、色が抜けるほど白いばかり。さまで痩せもせず、苦患も無しに、家眷息絶ゆるとは見たれども、の、心の裡の苦痛はよな、人の知らぬ苦痛はよな。その段を芝居で見せるのじゃ。",
"そして、後は、"
],
[
"お稲の芝居は死骸の黒髪の長いまでじゃ。ここでは知らぬによって、後は去んで、二度添どのに聞かっしゃれ、二度添いの女子に聞かっしゃれ。",
"二度添とは? 何です、二度添とは。"
],
[
"貴方は何です。女の身体に、勝手に手を触って可いんですか。他人の癖に、……",
"何だ、他人とは。"
],
[
"た、た、探険したい。手を貸して下さい。御、御助力が願いたい。",
"それはよくない。不可ません。見物は、みだりに芝居の楽屋へ入るものではないんです。",
"そ、そんなら、妻を――人の見る前、夫が力ずくでは見っともない。貴方、連出して下さい、引張出して下さい、願います。僕を、他人だなんて僕を、……妻は発狂しました。"
],
[
"私とは、他人なんです。",
"他人、何だ、何だ。"
],
[
"お前さんが言った、その二度添いの談話は分ったんですか。",
"それから、"
],
[
"これが知れたら、男二人はどうなります。その親兄弟は? その家族はどうなると思います。それが幕なのです。",
"さて、その後はどうなるのじゃ。",
"あら、……"
],
[
"お前さんも、根問をするのね。それで可いではありませんか。",
"いや、可うないわいの、まだ肝心な事が残ったぞ。",
"肝心な事って何です。",
"はて、此方も、"
],
[
"さてじゃ、此方の身は果はどうなるのじゃ。",
"…………"
],
[
"お前さんの方の芝居は? この女はどうなる幕です。",
"おいの、……や、紛れて声を掛けなんだじゃで、お稲は殊勝気に舞台じゃった。――雨に濡りょうに……折角の御見物じゃ、幕切れだけ、ものを見しょうな。"
],
[
"お稲さんは、お稲さんは、これからどうなるんです、どうなるんです。",
"むむ、くどいの、あとは魔界のものじゃ。雪女となっての、三つ目入道、大入道の、酌なと伽なとしょうぞいの。わはは、"
]
] | 底本:「泉鏡花集成6」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年3月21日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第十五卷」岩波書店
1940(昭和15)年9月20日発行
※誤植箇所の確認には底本の親本を用いました。
入力:門田裕志
校正:高柳典子
2007年2月12日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "003651",
"作品名": "陽炎座",
"作品名読み": "かげろうざ",
"ソート用読み": "かけろうさ",
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"初出": "",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2007-03-15T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-21T00:00:00",
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"人物ID": "000050",
"姓": "泉",
"名": "鏡花",
"姓読み": "いずみ",
"名読み": "きょうか",
"姓読みソート用": "いすみ",
"名読みソート用": "きようか",
"姓ローマ字": "Izumi",
"名ローマ字": "Kyoka",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1873-11-04",
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} |
[
[
"えゝ、御新姐樣、續きまして結構なお天氣にござります。",
"おや、千助かい、お精が出ます。今度は又格別お忙しからう、御苦勞だね。",
"何う仕りまして、數なりませぬものも陰ながらお喜び申して居ります。",
"あゝ、おめでたいね、お客さまが濟むと、毎年ね、お前がたも夜あかしで遊ぶんだよ。まあ、其を樂みにしてお働きよ。"
],
[
"何とも恐多い事ではござりますが、御新姐樣に一つお願があつて罷出ましてござります、へい。外の事でもござりませんが、手前は當年はじめての御奉公にござりますが、承りますれば、大殿樣御誕生のお祝儀の晩、お客樣が御立歸りに成りますると、手前ども一統にも、お部屋で御酒を下さりまするとか。",
"あゝ、無禮講と申すのだよ。たんとお遊び、そしてお前、屹と何かおありだらう、隱藝でもお出しだと可いね。"
],
[
"私にもよくは分らないけれど、あの、何う云ふ事を申すのだえ、歌の心はえ。",
"へい、話の次第でござりまして、其が其の戀でござります。"
]
] | 底本:「鏡花全集 巻十四」岩波書店
1942(昭和17)年3月10日第1刷発行
1987(昭和62)年10月2日第3刷発行
※「おくみ」と「お組」の混在は、底本通りです。
※「一寸」に対するルビの「ちよつと」と「ちよいと」の混在は、底本通りです。
入力:門田裕志
校正:室谷きわ
2021年8月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
[
"どういたしまして、誰方も御苦労様、御免なさいまし。",
"さようなら。",
"お休み。"
],
[
"菊枝さんはどうしました。",
"お帰んなすったんですか。"
],
[
"一所に出懸けたんじゃあないの。",
"いいえ。"
],
[
"へい、おかしいな、だって内にゃあ居ませんぜ。",
"なに居ないことがありますか、かつがれたんでしょう、呼んで見たのかね。",
"呼びました、喚いたんで、かりん糖の仮声まで使ったんだけれど。"
],
[
"どう、どう。",
"お待ちなさいよ、いえね、弥吉どん、お前来る途で逢違いはしないだろうね、履物はあるし、それにしちゃあ、"
],
[
"弥吉どん。",
"へい、"
],
[
"さあ、心細いぞ。",
"一体この川は何という。",
"名はねえよ。",
"何とかありそうなものだ。"
],
[
"汐見橋。",
"寂しいな。"
],
[
"とっさん、何だろう。",
"これかね、寛政子年の津浪に死骸の固っていた処だ。"
],
[
"ここでも人ッ子を見ないわ。",
"それでもちっとは娑婆らしくなった。"
],
[
"どうだどころか、もしお前さん方、この加賀屋じゃ水から飛込む魚を食べさせるとって名代だよ。",
"まずそこらで可し、船がぐらぐらと来て鰻の川渡りは御免蒙る。",
"ここでは欄干から這込みます。",
"まさか。",
"いや何ともいえない、青山辺じゃあ三階へ栗が飛込むぜ。",
"大出来!"
],
[
"当りますよ。",
"活きてるか、これ、"
],
[
"旨いな、涙が出ればこっちのものだ、姉や、ちっとは落着いたか、気が静まったか。",
"ここはどっちでしょう。"
],
[
"あの、いつか通った時、私くらいな年紀の、綺麗な姉さんが歩行いていなすった、あすこなんでしょう、そうでございますか。",
"待たッせよ、お前くらいな年紀で、と、こうと十六七だな。",
"はあ、",
"十六七の阿魔はいくらも居るが、綺麗な姉さんはあんまりねえぜ。",
"いいえ、いますよ、丸顔のね、髪の沢山ある、そして中形の浴衣を着て、赤い襦袢を着ていました、きっとですよ。",
"待ちねえよ、赤い襦袢と、それじゃあ、お勘が家に居る年明だろう、ありゃお前もう三十くらいだ。",
"いいえ、若いんです。"
],
[
"親方。",
"おお、",
"起きましょうか。",
"何、起きる。",
"起きられますよ。"
],
[
"これを着ましょうかねえ。",
"洗濯をしたばかりだ、船虫は居ねえからよ。"
],
[
"むむ、そうかも知れねえ、昨夜そうやってしっかり胸を抱いて死んでたもの。ちょうど痛むのは手の下になってた処よ。",
"そうでございますか、あの私はこうやって一生懸命に死にましたわ。",
"この女は! 一生懸命に身を投げる奴があるものか、串戯じゃあねえ、そして、どんな心持だった。",
"あの沈みますと、ぼんやりして、すっと浮いたんですわ、その時にこうやって少し足を縮めましたっけ、また沈みました、それからは知りませんよ。",
"やれやれ苦しかったろう。",
"いいえ、泣きとうございました。"
],
[
"菊ちゃん、",
"姉さん、"
],
[
"南無阿弥陀仏、",
"南無阿弥陀仏。"
]
] | 底本:「泉鏡花集成3」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年1月24日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第六卷」岩波書店
1941(昭和16)年11月10日第1刷発行
入力:門田裕志
校正:染川隆俊
2009年5月10日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
[
"そんな事があるものですか。",
"いや、まったくだから変なんです。馬鹿々々しい、何、詰らないと思う後から声がします。",
"声がします。",
"確かに聞えるんです。"
],
[
"私も下が可い。",
"しますると、お気に入りますかどうでございましょうか。ちとその古びておりますので。他には唯今どうも、へい、へい。",
"古くっても構わん。"
],
[
"革鞄に挟った。",
"どうしてな。"
],
[
"これは堅い、堅い。",
"巌丈な金具じゃええ。"
],
[
"鍵はありません。",
"ございませんと?……",
"鍵は棄てました。"
],
[
"旦那、この革鞄だけ持って出ますでな。",
"いいえ、貴方。"
]
] | 底本:「泉鏡花集成6」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年3月21日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第十五卷」岩波書店
1940(昭和15)年9月20日発行
入力:門田裕志
校正:高柳典子
2007年2月11日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "003652",
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[
[
"生きてるかい、",
"へゝゝ。",
"確乎しろ。",
"へゝゝ、おめでたう、へゝゝへゝ。",
"可い加減にしねえな。おい、串戲ぢやねえ。お前の前だがね、惡女の深情つてのを通越して居るから、鬼に喰はれやしねえかツて、皆友達が案じて居るんだ。お前の前だがね、おい、よく辛抱して居るぢやねえか。",
"へゝゝ。",
"あれ、矢張り恐悦して居ら、何うかしてるんぢやねえかい。",
"私も、はあ、何うかして居るでなからうかと思ふだよ。聞いてくんろさ。女房がと云ふと、あの容色だ。まあ、へい、何たら因縁で一所に成つたづら、と斷念めて、目を押瞑つた祝言と思へ。",
"うむ、思ふよ。友だちが察して居るよ。",
"處がだあ、へゝゝ、其の晩からお前、燈を暗くすると、ふつと婦の身體へ月明がさしたやうに成つて、第一な、色が眞白く成るのに、目が覺るだ。"
],
[
"私も頓と解せねえだ、處で、當人の婦に尋ねた。",
"女房は怒つたらう、",
"何ちゆツてな。",
"だつてお前、お前の前だが、あの顏をつかめえて、牛切小町なんて、お前、怒らうぢやねえか。",
"うんね、怒らねえ。",
"はてな。"
],
[
"怒らねえだ。が、何もはあ、自分では知らねえちゆうだ。私も、あれよ、念のために、燈をくわんと明るくして、恁う照らかいて見た。",
"氣障な奴だぜ。",
"然うすると、矢張り、あの、二目とは見られねえのよ。",
"其處が相場ぢやあるまいか。",
"燈を消すと又小町に成る、いや、其の美しい事と云つたら。"
],
[
"や、お婿さん。",
"無事か。"
],
[
"狐だ、狐だ。",
"此の川で垢離を取れ。",
"南無阿彌陀佛。"
],
[
"違ひなし。",
"それ、何うだあ。"
],
[
"試して見ろ。",
"トおいでなすつた、合點だ。"
]
] | 底本:「鏡花全集 巻二十七」岩波書店
1942(昭和17)年10月20日第1刷発行
1988(昭和63)年11月2日第3刷発行
※題名の下にあった年代の注を、最後に移しました。
※表題は底本では、「鑑定《かんてい》」とルビがついています。
入力:門田裕志
校正:川山隆
2011年8月6日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "050772",
"作品名": "鑑定",
"作品名読み": "かんてい",
"ソート用読み": "かんてい",
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"原題": "",
"初出": "",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "旧字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2011-09-09T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-16T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card50772.html",
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"名": "鏡花",
"姓読み": "いずみ",
"名読み": "きょうか",
"姓読みソート用": "いすみ",
"名読みソート用": "きようか",
"姓ローマ字": "Izumi",
"名ローマ字": "Kyoka",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1873-11-04",
"没年月日": "1939-09-07",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "鏡花全集 巻二十七",
"底本出版社名1": "岩波書店",
"底本初版発行年1": "1942(昭和17)年10月20日",
"入力に使用した版1": "1988(昭和63)年11月2日第3刷",
"校正に使用した版1": "1976(昭和51)年1月6日第2刷 ",
"底本の親本名1": "",
"底本の親本出版社名1": "",
"底本の親本初版発行年1": "",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "門田裕志",
"校正者": "川山隆",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/50772_ruby_44350.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2011-08-07T00:00:00",
"テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"テキストファイル文字集合": "JIS X 0208",
"テキストファイル修正回数": "0",
"XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/50772_44653.html",
"XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2011-08-07T00:00:00",
"XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"帰りがけの些細な土産ものやなにか、一寸用達しに出掛けておりますので、失礼を。その娘の如きは、景色より、見物より、蟹を啖わんがために、遠路くッついて参りましたようなもので。",
"仕合せな蟹でありますな。"
],
[
"値をききました始めから、山媽々が、品は受合うぞの、山媽々が、今朝しらしらあけに、背戸の大釜でうで上げたの、山媽々が、たった今、お前さんたちのような、東京ものだろう、旅の男に、土産にするで三疋売ったなどと、猛烈に饒舌るのです。――背戸で、蟹をうでるなら、浜の媽々でありそうな処を、おかしい、と婦どもも話したのですが。――山だの――浜だの、あれは市の場所割の称えだそうで、従って、浜の娘が松茸、占地茸を売る事になりますのですね。",
"さようで。"
],
[
"いが餅じゃ、ほうと、……暖い、大福を糯米でまぶしたあんばい、黄色う染めた形ゆえ、菊見餅とも申しますが。",
"ああ、いが餅……菊見餅……",
"黒餡の安菓子……子供だまし。……詩歌にお客分の、黄菊白菊に対しては、聊か僭上かも知れぬのでありますな。"
],
[
"が、しかし、故郷に対して、礼を失したかも知れません。ですから、氏神、本殿の、名剣宮は、氏子の、こんな小僧など、何を刎ねようと、蜻蛉が飛んでるともお心にはお掛けなさいますまい。けれども、境内のお末社には、皆が存じた、大分、悪戯ずきなのがおいでになります。……奥の院の、横手を、川端へ抜けます、あのくらがり坂へ曲る処……",
"はあ、稲荷堂。――",
"すぐ裏が、あいもかわらず、崩れ壁の古い土塀――今度見ました時も、落葉が堆く、樹の茂りに日も暗し、冷い風が吹きました。幅なら二尺、潜り抜け二間ばかりの処ですが、御堂裏と、あの塀の間は、いかなるわんぱくと雖も、もぐる事は措き、抜けも、くぐりも絶対に出来なかった。……思出しても気味の悪い処ですから、耳は、尖り、目は、たてに裂けたり、というのが、じろりと視て、穂坂の矮小僧、些と怯かして遣ろう、でもって、魚市の辻から、ぐるりと引戻されたろうと、……ですね、ひどく怯えなければならない処でした。何しろ、昔から有名な、お化稲荷。……"
],
[
"尤も……人形が持てなかった、そのかわりだと思えば宜しい。",
"果報な、羨しい人形です。",
"……果報な人形は、そればかりではありません。あなたを、なめたり、吸ったり、負ってふりまわしたり――今申したお銀さんは、歌麿の絵のような嫋々とした娘でしたが、――まだ一人、色白で、少しふとり肉で、婀娜な娘。……いや、また不思議に、町内の美しいのが、揃って、背戸、庭でも散らず、名所の水の流をも染めないで、皆他国の土となりました。中にも、その婀娜なのは、また妙齢から、ふと魔に攫われたように行方が知れなくなりましたよ。そういう、この私にしても。"
],
[
"……この天井から落葉がふって、座敷が真暗になると同時に、あなたの顔……が狐……",
"穏かならず、は、は、は。穏でありませんな。",
"いいえ、いや。……と思うほど、立処に、私は気が狂ったかも知れないと申すのです。",
"また、何故にな。",
"さ、そ、それというのがです。……いうのがです。",
"まま一献まいれ。狐坊主、昆布と山椒で、へたの茶の真似はしまするが、お酌の方は一向なものじゃが、お一つ。"
],
[
"しかし、その時の子供は、お奇駒さんの肌からのように落ちはしません。が、やがて、そのために――絵か、恋か、命か、狂気か、自殺か。弱輩な申分ですが、頭を掻毟るようになりまして、――時節柄、この不景気に、親の墓も今はありません、この土地へ、栄耀がましく遊びに参りましたのも、多日、煩らいました……保養のためなのでした。",
"大慈大悲、観世音。おなくなりの母ぎみも、あなたにお疎しかろうとは存ぜぬ。が、その砌、何ぞ怪我でもなさったか。"
],
[
"はて、通り魔かな。――或類属の。",
"ええ通り魔……",
"いや、先ず……",
"三度めに。",
"さんど……めに……",
"え。",
"なるほど。",
"また、思いがけず逢いましたのが、それが、昨年、意外とも何とも、あなた!……奥伊豆の山の湯の宿なんです。もう開けていて、山深くも何ともありません、四五度行馴れておりますから、谷も水もかわった趣と云ってはありませんが、秋の末……もみじ頃で、谿河から宿の庭へ引きました大池を、瀬になって、崖づくりを急流で落ちます、大巌の向うの置石に、竹の樋を操って、添水――僧都を一つ掛けました。樋の水がさらさらと木の刳りめへかかって一杯になると、ざアと流へこぼれます、拍子を取って、突尖の杵形が、カーン、何とも言えない、閑かな、寂しい、いい音がするんです。其処へ、ちらちらと真紅な緋葉も散れば、色をかさねて、松杉の影が映します。",
"はあ、添水――珍らしい。山田守る僧都の身こそ……何とやら……秋はてぬれば、とう人もなし、とんと、私の身の上でありますが、案山子同様の鹿おどし、……たしか一度、京都、嵯峨の某寺の奥庭で、いまも鹿がおとずれると申して、仕掛けたのを見ました。――水を計りますから、自から同じ間をもって、カーンと打つ……",
"慰みに、それを仕掛けたのは、次平と云って、山家から出ましたが、娑婆気な風呂番で、唯扁平い石の面を打つだけでは、音が冴えないから、と杵の当ります処へ、手頃な青竹の輪を置いたんですから、響いて、まことに透るのです。反橋の渡り廊下に、椅子に掛けたり、欄干にしゃがんだりで話したのですが、風呂番の村の一つ奥、十五六軒の山家には大いのがある。一昼夜に米を三斗五升搗く、と言います。暗の夜にも、月夜にも、添水番と云って、家々から、交代で世話をする……その谷川の大杵添水。筧の水の小添水は、二十一秒、一つカーンだ、と風呂番が言いますが、私の安づもりで十九秒。……旦那、おらが時計は、日に二回、東京放送局の時報に合わせるから、一厘も間違わねえぞ、と大分大形なのを出して威張る。それを、どうこうと、申すわけではありませんけれども。",
"時に、お時間は。"
]
] | 底本:「文豪怪談傑作選 泉鏡花集 黒壁」ちくま文庫、筑摩書房
2006(平成18)年10月10日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第二十三卷」岩波書店
1942(昭和17)年6月22日第1刷発行
初出:「文藝春秋」
1932(昭和7)年1月号
入力:門田裕志
校正:坂本真一
2015年10月17日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
[
"虚言と坊主の髪は、いったことはありません",
"なんだね、しゃらくさい"
],
[
"ありがてえ! 頼むよ",
"合点だい!"
],
[
"いやさ、転ばぬ前の杖だよ。ほんにお願いだ、気を着けておくれ。若い人と違って年老のことだ、放り出されたらそれまでだよ。もういいかげんにして、徐々とやってもらおうじゃないか。なんと皆さんどうでございます",
"船に乗れば船頭任せ。この馬車にお乗んなすった以上は、わたしに任せたものとして、安心しなければなりません",
"ええ途方もない。どうして安心がなるものか"
],
[
"それで安心ができなけりゃ、御自分の脚で歩くです",
"はいはい。それは御深切に"
],
[
"なんと皆さん、業肚じゃございませんか。おとなげのないわけだけれど、こういう行き懸かりになってみると、どうも負けるのは残念だ。おい、馬丁さん、早く行ってくれたまえな",
"それもそうですけれどもな、老者はまことにはやどうも。第一この疝に障りますのでな"
],
[
"戴く因縁がありませんから",
"そんな生意気なことを言うもんじゃない。骨折り賃だ。まあ野暮を言わずに取っときたまえてことさ"
],
[
"理由も糸瓜もあるものかな。お客が与るというんだから、取っといたらいいじゃないか。こういうものを貰って済まないと思ったら、一骨折って今の腕車を抽いてくれたまえな",
"酒手なんぞは戴かなくっても、十分骨は折ってるです"
],
[
"なんですと?",
"この馬車は腕車より迅いという約束だぜ"
],
[
"そんなお約束はしません",
"おっと、そうは言わせない。なるほど私たちにはしなかったが、この姉さんにはどうだい。六十六銭五厘のうち、一人で五十銭の酒手をお出しなすったのはこのかただよ。あの腕車より迅く行ってもらおうと思やこそ、こうして莫大な酒手も奮もうというのだ。どうだ、先生、恐れ入ったか"
],
[
"いったいどうしたんでしょう",
"まず乗せ逃げとでもいうんでしょう",
"へえ、なんでございます",
"客の逃げたのが乗り逃げ。御者のほうで逃げたのだから乗せ逃げでしょう"
],
[
"皆さん、なんと思し召す? こりゃ尋常事じゃありませんぜ。ばかを見たのはわれわれですよ。全く駈け落ちですな。どうもあの女がさ、尋常の鼠じゃあんめえと睨んでおきましたが、こりゃあまさにそうだった。しかしいい女だ",
"私は急ぎの用を抱えている身だから、こうして安閑としてはいられない。なんとこの小僧に頼んで、一匹の馬で遣ってもらおうじゃございませんか。ばかばかしい、銭を出して、あの醜態を見せられて、置き去りを吃うやつもないものだ",
"全くそうでごさいますよ。ほんとに巫山戯た真似をする野郎だ。小僧早く遣ってくんな"
],
[
"どうもおきのどく様です",
"おきのどく様は知れてらあ。いつまでこうしておくんだ。早く遣ってくれ、遣ってくれ!",
"私にはまだよく馬が動きません",
"活きてるものの動かないという法があるものか",
"臀部を引っ撲け引っ撲け"
],
[
"そんなことを言ったっていけません。二頭曳きの車ですから、馬が一匹じゃ遣り切れません",
"そんならここで下りるから銭を返してくれ"
],
[
"いよう、待ってました大明神様!",
"あでやかあでやか",
"ようよう金沢暴し!",
"ここな命取り!"
],
[
"おまえさんはよっぽど情なしだよ。自分の抱いた女を忘れるなんということがあるものかね",
"抱いた? 私が?",
"ああ、お前さんに抱かれたのさ",
"どこで?",
"いい所で!"
],
[
"抱いた記憶はないが、なるほどどこかで見たようだ",
"見たようだもないもんだ。高岡から馬車に乗ったとき、人力車と競走をして、石動手前からおまえさんに抱かれて、馬上の合い乗りをした女さ"
],
[
"ええびっくりした。ねえおまえさん、覚えておいでだろう",
"うむ、覚えとる。そうだった、そうだった"
],
[
"でも言われるまで憶い出さないなんざあ、あんまり不実すぎるのねえ",
"いや、不実というわけではないけれど、毎日何十人という客の顔を、いちいち覚えていられるものではない",
"それはごもっともさ。そうだけれども、馬上の合い乗りをするお客は毎日はありますまい",
"あんなことが毎日あられてたまるものか"
],
[
"実はあっちを浪人してね……",
"おやまあ、どうして?"
],
[
"煙管が壅ってます",
"いいえ、結構"
],
[
"なるほどこれは壅ってる",
"それで吸うにはよっぽど力が要るのだ",
"ばかにしないねえ"
],
[
"こら! 御覧な、無性だねえ。おまえさん寡夫かい",
"もちろん",
"おや、もちろんとは御挨拶だ。でも、情婦の一人や半分はありましょう"
],
[
"じゃないの?",
"知れたこと",
"ほんとに?",
"くどいなあ"
],
[
"そんなものは要らんよ",
"おや、ご免なさいまし。さあ、お掃除ができたから、一服戴こう"
],
[
"あい、上げましょう",
"これはありがとう。ああよく通ったね",
"また壅ったときは、いつでも持ってお出でなさい"
],
[
"なんだってまた?",
"何もかにも理窟なんぞはありゃせん。あの一件を根に持って、喧嘩を仕掛けに来たのさね",
"うむ、生意気な! どうしたい?",
"相手になると、事がめんどうになって、実は双方とも商売のじゃまになるのだ。そこで、会社のほうでは穏便がいいというので、むろん片手落ちの裁判だけれど、私が因果を含められて、雇を解かれたのさ"
],
[
"なあに、高が馬方だ",
"けれどもさ、まことにおきのどくなことをしたねえ、いわば私のためだもの"
],
[
"その代わり煙管の掃除をしてもらった",
"あら、冗談じゃないよ、この人は。そうしておまえさんこれからどうするつもりなの?",
"どうといって、やっぱり食う算段さ。高岡に彷徨いていたって始まらんので、金沢には士官がいるから、馬丁の口でもあるだろうと思って、探しに出て来た。今日も朝から一日奔走いたので、すっかり憊れてしまって、晩方一風呂入ったところが、暑くて寝られんから、ぶらぶら納涼に出掛けて、ここで月を観ていたうちに、いい心地になって睡こんでしまった",
"おや、そう。そうして口はありましたか"
],
[
"そりゃあ、もうだれしも浮き世ですよ",
"うむ、まあ、浮き世とあきらめておくのだ",
"今おまえさんのおっしゃった希望というのは、私たちには聞いても解りはしますまいけれど、なんぞ、その、学問のことでしょうね?",
"そう、法律という学問の修行さ",
"学問をするなら、金沢なんぞより東京のほうがいいというじゃありませんか"
],
[
"そうとも",
"それじゃいっそ東京へお出でなさればいいのにねえ",
"行けりゃ行くさ。そこが浮き世じゃないか"
],
[
"黄金の世の中ですか",
"地獄の沙汰さえ、なあ"
],
[
"なんだってとは?",
"どういうわけで",
"わけも何もありはしない、ただおまえさんに仕送りがしてみたいのさ"
],
[
"そんなに慮えることはないじゃないか",
"しかし、縁も由縁もないものに……",
"縁というものも始めは他人どうし。ここでおまえさんが私の志を受けてくだされば、それがつまり縁になるんだろうじゃありませんかね",
"恩を受ければ報さんければならぬ義務がある。その責任が重いから……",
"それで断わるとお言いのかい。なんだねえ、報恩ができるの、できないのと、そんなことを苦にするおまえさんでもなかろうじゃないか。私だって泥坊に伯父さんがあるのじゃなし、知りもしない人を捉えて、やたらにお金を貢いでたまるものかね。私はおまえさんだから貢いでみたいのさ。いくらいやだとお言いでも、私は貢ぐよ。後生だから貢がしてくださいよ。ねえ、いいでしょう、いいよう! うんとお言いよ。構うものかね、遠慮も何も要るものじゃない。私はおまえさんの希望というのが愜いさえすれば、それでいいのだ。それが私への報恩さ、いいじゃないか。私はおまえさんはきっとりっぱな人物になれると想うから、ぜひりっぱな人物にしてみたくってたまらないんだもの。後生だから早く勉強して、りっぱな人物になってくださいよう"
],
[
"お世話になります",
"いやだよ、もう金さん、そんなていねいな語を遣われると、私は気が逼るから、やっぱり書生言葉を遣ってくださいよ。ほんとに凛々しくって、私は書生言葉は大好きさ",
"恩人に向かって済まんけれども、それじゃぞんざいな言葉を遣おう",
"ああ、それがいいんですよ",
"しかしね、ここに一つ窮ったのは、私が東京へ行ってしまうと、母親がひとりで……",
"それは御心配なく。及ばずながら私がね……"
],
[
"きっとお世話をしますから",
"いや、どうも重ね重ね、それでは実に済まん。私もこの報恩には、おまえさんのために力の及ぶだけのことはしなければならんが、何かお所望はありませんか",
"だからさ、私の所望はおまえさんの希望が愜いさえすれば……",
"それはいかん! 自分の所望を遂げるために恩を受けて、その望みを果たしたで、報恩になるものではない。それはただ恩に対するところのわが身だけの義務というもので、けっして恩人に対する義務ではない",
"でも私が承知ならいいじゃありませんかね",
"いくらおまえさんが承知でも、私が不承知だ",
"おや、まあ、いやにむずかしいのね"
],
[
"ちっと羞ずかしいことさ",
"なんなりとも",
"諾いてくださるか。いずれおまえさんの身に適ったことじゃあるけれども",
"一応聴いた上でなければ、返事はできんけれど、身に適ったことなら、ずいぶん諾くさ"
],
[
"私は高岡の片原町で、村越欣弥という者だ",
"私は水島友といいます",
"水島友? そうしてお宅は?"
],
[
"お宅はちっと窮ったねえ",
"だって、家のないものがあるものか",
"それがないのだからさ"
],
[
"あんまり異りすぎてるわね",
"見世物の三味線でも弾いているのかい",
"これでも太夫元さ。太夫だけになお悪いかもしれない"
],
[
"はあ、太夫! なんの太夫?",
"無官の太夫じゃない、水芸の太夫さ。あんまり聞いておくれでないよ、面目が悪いからさ"
],
[
"ああもうたくさん、堪忍しておくれよ",
"滝の白糸というのはおまえさんか"
],
[
"いやだよ、もう。何がなるほどなんだね",
"非常にいい女だと聞いていたが、なるほど……",
"もういいってばさ"
],
[
"ええあぶねえ! いい女だからいいと言うのに、撞き飛ばすことはないじゃないか",
"人をばかにするからさ",
"ばかにするものか。実に美しい、何歳になるのだ",
"おまえさん何歳になるの?",
"私は二十六だ",
"おや六なの? まだ若いねえ。私なんぞはもう婆だね",
"何歳さ",
"言うと愛想を尽かされるからいや",
"ばかな! ほんとに何歳だよ",
"もう婆だってば。四さ",
"二十四か! 若いね。二十歳ぐらいかと想った",
"何か奢りましょうよ"
],
[
"これに三十円あります。まあこれだけ進げておきますから、家の処置をつけて、一日も早く東京へおいでなさいな",
"家の処置といって、別に金円の要るようなことはなし、そんなには要らない",
"いいからお持ちなさいよ",
"全額もらったらおまえさんが窮るだろう",
"私はまた明日入る口があるからさ",
"どうも済まんなあ"
],
[
"要らないよ",
"そうおっしゃらずにお召しなすって。へへへへへ",
"なんだね、人をばかにして。一人乗りに同乗ができるかい",
"そこはまたお話合いで、よろしいようにしてお乗んなすってください"
],
[
"へえ、やっぱりお合い乗りですかね",
"ばか言え! 伏木まで行くか"
],
[
"車夫、待っとれ。行っちゃいかんぜ",
"あれさ、いいやね。さあ、若い衆さんこれを持って行っとくれよ"
],
[
"そうしてお母さんには?",
"道で寄って暇乞いをする、ぜひ高岡を通るのだから",
"じゃ町はずれまで送りましょう。若衆さん、もう一台ないかねえ",
"四、五町行きゃいくらもありまさあ。そこまでだからいっしょに召していらっしゃい",
"お巫山戯でないよ"
],
[
"車夫、どうだろう。二人乗ったら毀れるかなあ、この車は?",
"なあにだいじょうぶ。姉さんほんとにお召しなさいよ",
"構うことはない。早く乗った乗った"
],
[
"とうとう異な寸法になりましたぜ",
"いやだよ、欣さん"
],
[
"おおおお、それはまあ遠い所へ",
"はい、ちと遠方でございますと言いなよ。これ、長松、ここがの、金沢の兼六園といって、百万石のお庭だよ。千代公のほうは二度目だけれど、おまえははじめてだ。さあよく見物しなよ"
],
[
"そんなら、姉さん",
"参りましょうかね"
],
[
"おう、姉さん、懐中のものを出しねえ",
"じたばたすると、これだよ、これだよ"
],
[
"これは与られないよ",
"与れなけりゃ、ふんだくるばかりだ",
"遣っつけろ、遣っつけろ!"
],
[
"は、は、はい、はい、は、はい",
"さあ、早くしておくれ。たんとは要らないんだ。百円あればいい"
],
[
"金子はあちらにありますから。……",
"あっちにあるならいっしょに行こう。声を立てると、おいこれだよ"
],
[
"さあ早くしないかい",
"た、た、た、ただ……いま"
],
[
"あなたはどちらまで? へい、金沢へ、なるほど、御同様に共進会でございますか",
"さようさ、共進会も見ようと思いますが、ほかに少し。……"
],
[
"実は明日か、明後日あたり開くはずの公判を聴こうと思いましてね",
"へへえ、なるほど、へえ"
],
[
"そう。知っておいでですか",
"話には聞いておりますが、詳細事は存じませんで。じゃあの賊は逮捕りましてすか"
],
[
"南京出刃打ち? いかさま、見たことがございました。あいつらが? ふうむ。ずいぶん遣りかねますまいよ",
"その晩橋場の交番の前を怪しい風体のやつが通ったので、巡査が咎めるとこそこそ遁げ出したから、こいつ胡散だと引っ捉えて見ると、着ている浴衣の片袖がない"
],
[
"知っとります段か、富山で見ました大評判の美艶ので",
"さよう。そこでそのころ福井の方で興行中のかの女を喚び出して対審に及んだところが、出刃打ちの申し立てには、その片袖は、白糸の金を奪るときに、おおかた断られたのであろうが、自分は知らずに遁げたので、出刃庖丁とてもそのとおり、女を脅すために持っていたのを、慌てて忘れて来たのであるから、たといその二品が桐田の家にあろうとも、こっちの知ったことではないと、理窟には合わんけれど、やつはまずそう言い張るのだ。そこで女が、そのとおりだと言えば、人殺しは出刃打ちじゃなくって、ほかにあるとなるのだ"
],
[
"へえへえ、そうして女はなんと申しました",
"ぜひおまえさんに逢いたいと言ったね"
],
[
"ところが金子を奪られた覚えなどはない、と女は言うのだ。出刃打ちは、なんでも奪ったという。偸児のほうから奪ったというのに、奪られたほうでは奪られないと言い張る。なんだか大岡政談にでもありそうな話さ",
"これにはだいぶ事情がありそうです"
],
[
"おかげでおもしろうございました",
"どうも旦那ありがとう存じました"
],
[
"おまえさんがたも間があったら、公判を行ってごらんなさい",
"こりゃ芝居よりおもしろいでございましょう"
],
[
"うむ、隠さずに申せ",
"実は奪られました"
],
[
"はい、出刃打ちの連中でしょう、四、五人の男が手籠めにして、私の懐中の百円を奪りました",
"しかとさようか",
"相違ござりません"
]
] | 底本:「高野聖」角川文庫、角川書店
1971(昭和46)年4月20日改版初版発行
1999(平成11)年2月10日改版40版発行
初出:「読売新聞」
1894(明治27)年11月1日~30日
入力:真先芳秋
校正:鈴木厚司
1999年10月23日公開
2005年12月24日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
"――処がその婦は一人きりで、薄いお納戸色の帯に、幽な裾模様が、すッと蘆の葉のように映りました。すぐ背を伸ばせば届きます。立って、ふわふわと、凭りかかるようにして、ひったりと蚊帳に顔をつけた。ああ、覗く。……ありたけの目が、その一ところへ寄って、爛々として燃えて大蛇の如し……とハッとするまに、目がない、鼻もない、何にもない、艶々として乱れたままの黒髪の黒い中に、ぺろりと白いのっぺらぼう。――",
"…………"
]
] | 底本:「文豪怪談傑作選 泉鏡花集 黒壁」ちくま文庫、筑摩書房
2006(平成18)年10月10日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第二十二卷」岩波書店
1940(昭和15)年11月20日第1刷発行
初出:「女性」
1925(大正14)年1月号
※「拵える」に対するルビの「こしら」と「あつら」の混在は、底本通りです。
※表題は底本では、「甲《きのえ》乙《きのと》」となっています。
入力:門田裕志
校正:坂本真一
2017年8月25日作成
2017年9月8日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "048402",
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"姓読み": "いずみ",
"名読み": "きょうか",
"姓読みソート用": "いすみ",
"名読みソート用": "きようか",
"姓ローマ字": "Izumi",
"名ローマ字": "Kyoka",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1873-11-04",
"没年月日": "1939-09-07",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "文豪怪談傑作選 泉鏡花集 黒壁",
"底本出版社名1": "ちくま文庫、筑摩書房",
"底本初版発行年1": "2006(平成18)年10月10日",
"入力に使用した版1": "2006(平成18)年10月10日第1刷",
"校正に使用した版1": "2006(平成18)年10月10日第1刷",
"底本の親本名1": "鏡花全集 第二十二卷",
"底本の親本出版社名1": "岩波書店",
"底本の親本初版発行年1": "1940(昭和15)年11月20日",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
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"入力に使用した版2": "",
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"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "門田裕志",
"校正者": "坂本真一",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/48402_ruby_62510.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2017-09-08T00:00:00",
"テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS",
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"XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/48402_62552.html",
"XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2017-09-08T00:00:00",
"XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "1"
} |
[
[
"通りがかりのものです。……臨時に見物をしたいと存じますのですが。",
"望む所でございます。"
],
[
"いかが。",
"これも望む処です。"
],
[
"――おのれ何としょうぞ――",
"――打たば打たしめ、棒鱈か太刀魚でおうちあれ――",
"――おのれ、また打擲をせいでおこうか――",
"――ああ、いかな、かながしらも堪るものではない――",
"――ええ、苦々しいやつかな――",
"――いり海老のような顔をして、赤目張るの――",
"――さてさて憎いやつの――"
],
[
"さあ、こちらへどうぞ、",
"憚り様。"
],
[
"――こちゃただ飛魚といたそう――",
"――まだそのつれを言うか――",
"――飛魚しょう、飛魚しょう――"
],
[
"御免を被って。",
"さあ、脱ぎましょう。"
],
[
"幹次郎さん。",
"覚悟があります。"
],
[
"御覧なさい――不義の子の罰で、五つになっても足腰が立ちません。",
"うむ、起て。……お起ち、私が起たせる。"
]
] | 底本:「泉鏡花集成8」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年5月23日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集」岩波書店
1942(昭和17)年7月刊行開始
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、「秋葉ヶ原」は小振りに、「安達《あだち》ヶ原」「日《ひ》ヶ窪」は大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:林 幸雄
2001年9月17日公開
2005年9月26日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "003547",
"作品名": "木の子説法",
"作品名読み": "きのこせっぽう",
"ソート用読み": "きのこせつほう",
"副題": "",
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"原題": "",
"初出": "",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2001-09-17T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-17T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card3547.html",
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"姓": "泉",
"名": "鏡花",
"姓読み": "いずみ",
"名読み": "きょうか",
"姓読みソート用": "いすみ",
"名読みソート用": "きようか",
"姓ローマ字": "Izumi",
"名ローマ字": "Kyoka",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1873-11-04",
"没年月日": "1939-09-07",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "泉鏡花集成8",
"底本出版社名1": "ちくま文庫、筑摩書房",
"底本初版発行年1": "1996(平成8)年5月23日",
"入力に使用した版1": "1996(平成8)年5月23日第1刷",
"校正に使用した版1": "",
"底本の親本名1": "鏡花全集",
"底本の親本出版社名1": "岩波書店",
"底本の親本初版発行年1": "1942(昭和17)年7月刊行開始",
"底本名2": "",
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"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "門田裕志",
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"テキストファイル最終更新日": "2005-09-26T00:00:00",
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"XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2005-09-26T00:00:00",
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"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"杢さん、どこから仕入れて来たよ。",
"縁の下か、廂合かな。"
],
[
"魔が来たよう。",
"天狗が取ったあ。"
],
[
"お実家はどこじゃ。どういう人が居さっしゃる。",
"実家の事かねえ、ははん。"
],
[
"杢やい、実家はどこだ。",
"実家の事かい、ははん。"
],
[
"御免なさい。",
"きゃっ!"
],
[
"何だい、こりゃ!",
"美しい衣服じゃがい。"
],
[
"打上げ!",
"流星!"
],
[
"御前様。",
"杢か。",
"ひひひひひ。",
"何をしておる。",
"少しも売れませんわい。",
"馬鹿が。"
],
[
"何を売るや。",
"美しい衣服だがのう。",
"何?"
],
[
"恐多いが、思召じゃとそう思え。誰が、着るよ、この白痴、蜘蛛の巣を。",
"綺麗なのう、若い婦人じゃい。",
"何。",
"綺麗な若い婦人は、お姫様じゃろがい、そのお姫様が着さっしゃるよ。",
"天井か、縁の下か、そんなものがどこに居る?"
],
[
"茸だと……これ、白痴。聞くものはないが、あまり不便じゃ。氏神様のお尋ねだと思え。茸が婦人か、おのれの目には。",
"紅茸と言うだあね、薄紅うて、白うて、美い綺麗な婦人よ。あれ、知らっしゃんねえがな、この位な事をや。"
],
[
"ふん、で、そのおのれが婦は、蜘蛛の巣を被って草原に寝ておるじゃな。",
"寝る時は裸体だよ。",
"む、茸はな。"
],
[
"うむ、天の恵は洪大じゃ。茸にもさて、被るものをお授けなさるじゃな。",
"違うよ。――お姫様の、めしものを持て――侍女がそう言うだよ。",
"何じゃ、待女とは。",
"やっぱり、はあ、真白な膚に薄紅のさした紅茸だあね。おなじものでも位が違うだ。人間に、神主様も飴屋もあると同一でな。……従七位様は何も知らっしゃらねえ。あはは、松蕈なんぞは正七位の御前様だ。錦の褥で、のほんとして、お姫様を視めておるだ。",
"黙れ! 白痴!……と、こんなものじゃ。"
],
[
"で、で、その衣服はどうじゃい。",
"ははん――姫様のおめしもの持て――侍女がそう言うと、黒い所へ、黄色と紅条の縞を持った女郎蜘蛛の肥えた奴が、両手で、へい、この金銀珠玉だや、それを、その織込んだ、透通る錦を捧げて、赤棟蛇と言うだね、燃える炎のような蛇の鱗へ、馬乗りに乗って、谷底から駈けて来ると、蜘蛛も光れば蛇も光る。"
]
] | 底本:「泉鏡花集成6」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年3月21日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第十七卷」岩波書店
1942(昭和17)年1月24日発行
入力:門田裕志
校正:高柳典子
2007年2月11日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "003657",
"作品名": "茸の舞姫",
"作品名読み": "きのこのまいひめ",
"ソート用読み": "きのこのまいひめ",
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"姓読み": "いずみ",
"名読み": "きょうか",
"姓読みソート用": "いすみ",
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"姓ローマ字": "Izumi",
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"底本の親本名1": "鏡花全集 第十七卷",
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[
[
"あぶない。",
"いや、これは。"
]
] | 底本:「鏡花全集 巻二十七」岩波書店
1942(昭和17)年10月20日第1刷発行
1988(昭和63)年11月2日第3刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※表題は底本では、「城崎《きのさき》を憶《おも》ふ」となっています。
※表題の下にあった年代の注を、最後に移しました。
入力:門田裕志
校正:米田進
2002年5月8日作成
2016年2月2日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "004249",
"作品名": "城崎を憶ふ",
"作品名読み": "きのさきをおもう",
"ソート用読み": "きのさきをおもう",
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"分類番号": "NDC 915",
"文字遣い種別": "旧字旧仮名",
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"公開日": "2002-05-20T00:00:00",
"最終更新日": "2016-02-02T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card4249.html",
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"姓": "泉",
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"姓読み": "いずみ",
"名読み": "きょうか",
"姓読みソート用": "いすみ",
"名読みソート用": "きようか",
"姓ローマ字": "Izumi",
"名ローマ字": "Kyoka",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1873-11-04",
"没年月日": "1939-09-07",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "鏡花全集 巻二十七",
"底本出版社名1": "岩波書店",
"底本初版発行年1": "1942(昭和17)年10月20日",
"入力に使用した版1": "1988(昭和63)年11月2日第3刷",
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} |
[
[
"お療治は如何様で。",
"まあ、可ござんした。"
],
[
"旅籠はの、大昔から、蔵屋と鍵屋と二軒ばかりでござんすがの。",
"何方へ泊らうね。",
"やあ、"
],
[
"此の柿を一つ……",
"まあ、お掛けなさいましな。"
],
[
"お代は?",
"私は内のものではないの。でも可うござんす、めしあがれ。"
],
[
"家も此方が立派ですね。",
"えゝ、暴風雨の時に、蔵屋は散々に壊れたんですつて……此方は裏に峰があつたお庇で、旧のまゝだつて言ひますから……",
"其だに何故客が来ないんでせう。",
"貴下、何もお聞きなさいませんか。",
"はあ。"
],
[
"嘘でせう。",
"まあ、泊つて御覧なさいませんか。"
],
[
"私です。",
"お入んなさいましな、待つて居たの。屹と寝られなくつて在らつしやるだらうと思つて、"
],
[
"頼母しいのねえ、貴下は……えゝ、知つて居ますとも、多日御一所に居たんですもの。",
"では、あの、奥様。"
],
[
"真個の事を言ひませうか、私は人間ではないの。",
"えゝ!",
"鸚鵡なの、",
"…………"
]
] | 底本:「日本幻想文学集成1 泉鏡花」国書刊行会
1991(平成3)年3月25日初版第1刷発行
1995(平成7)年10月9日初版第5刷発行
底本の親本:「泉鏡花全集」岩波書店
1940(昭和15)年発行
初出:「三越」
1911(明治44)年10月
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
入力:門田裕志
校正:川山隆
2009年5月10日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "048397",
"作品名": "貴婦人",
"作品名読み": "きふじん",
"ソート用読み": "きふしん",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「三越」1911(明治44)年10月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2009-05-23T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-21T00:00:00",
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"名": "鏡花",
"姓読み": "いずみ",
"名読み": "きょうか",
"姓読みソート用": "いすみ",
"名読みソート用": "きようか",
"姓ローマ字": "Izumi",
"名ローマ字": "Kyoka",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1873-11-04",
"没年月日": "1939-09-07",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "日本幻想文学集成1 泉鏡花",
"底本出版社名1": "国書刊行会",
"底本初版発行年1": "1991(平成3)年3月25日",
"入力に使用した版1": "1995(平成7)年10月9日初版第5刷",
"校正に使用した版1": "1991(平成3)年3月25日初版第1刷",
"底本の親本名1": "泉鏡花全集",
"底本の親本出版社名1": "岩波書店",
"底本の親本初版発行年1": "1940(昭和15)年 ",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "門田裕志",
"校正者": "川山隆",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/48397_ruby_34594.zip",
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"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"出口の方へ着けて見ませう。",
"然う、何うぞ然うしておくれ。"
],
[
"鰻の丼は売切です。",
"ぢやあ弁当だ"
],
[
"此の汽車は、豊原と此処を抜くですで……今度が漸く白河です。",
"何うもお恥かしい……狐に魅まれましたやうです。",
"いや、汽車の中は大丈夫――所謂白河夜船ですな。"
],
[
"――何方まで。",
"はあ、北海道へは始終往復をするですが、今度は樺太まで行くですて。",
"それは、何うも御遠方……"
],
[
"いゝえ。",
"はあ。"
]
] | 底本:「新編 泉鏡花集 第十巻」岩波書店
2004(平成16)年4月23日第1刷発行
底本の親本:「新柳集」春陽堂
1922(大正11)年1月1日
初出:「国本 第一巻第七号」国本社
1921(大正10)年7月1日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※表題は底本では、「銀鼎《ぎんかなえ》」となっています。
※初出時の署名は「泉鏡花」です。
※「銀杏返」に対するルビの「いてふがへし」と「ゐてふがへし」と「ゐてうがへし」の混在は、底本通りです。
※「硝子窓」に対するルビの「ガラスまど」と「がらすまど」の混在は、底本通りです。
※「襟」に対するルビの「えり」と「ゑり」の混在は、底本通りです。
※「入」に対するルビの「はひ」と「はい」の混在は、底本通りです。
※「帽子」に対するルビの「ぼうし」と「ばうし」の混在は、底本通りです。
※「灯《ひ》」と「燈《ひ》」の混在は、底本通りです。
入力:日根敏晶
校正:門田裕志
2016年9月2日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "057486",
"作品名": "銀鼎",
"作品名読み": "ぎんかなえ",
"ソート用読み": "きんかなえ",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「国本 第一巻第七号」国本社、1921(大正10)年7月1日",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2016-09-07T00:00:00",
"最終更新日": "2016-09-02T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card57486.html",
"人物ID": "000050",
"姓": "泉",
"名": "鏡花",
"姓読み": "いずみ",
"名読み": "きょうか",
"姓読みソート用": "いすみ",
"名読みソート用": "きようか",
"姓ローマ字": "Izumi",
"名ローマ字": "Kyoka",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1873-11-04",
"没年月日": "1939-09-07",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "新編 泉鏡花集 第十巻",
"底本出版社名1": "岩波書店",
"底本初版発行年1": "2004(平成16)年4月23日",
"入力に使用した版1": "2004(平成16)年4月23日第1刷",
"校正に使用した版1": "2004(平成16)年4月23日第1刷",
"底本の親本名1": "新柳集",
"底本の親本出版社名1": "春陽堂",
"底本の親本初版発行年1": "1922(大正11)年1月1日",
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"底本出版社名2": "",
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"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "日根敏晶",
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} |
[
[
"旦那もう帰ろうじゃございませんか。薄暗くなりましたから。",
"うむ、そろそろ帰ろうか。あの門外の鬱陶しい草には弱ったが、今ではさっぱりして好い心持だ。",
"ですけれども、あの人足輩はどんな気持でしょうね。",
"やっぱり時計が見着からないのだと想って、落胆しているだろうさ。",
"貴下はほんとに智慧者でいらっしゃるよ。百人足らずの人足を、無銭で役ってさ。",
"腰弁当でやって来るには感心したよ。",
"ほんとにねえ。あのまあ蛇のいそうな草原を綺麗に挘らして、高見で見物なんざ太閤様も跣足ですよ。",
"そうかの。いや、そうあろう。実は自分ながら感心した。"
],
[
"若様何でございます。",
"我が謂った通り、金時計は虚言だ。"
],
[
"どうしてお解りになりました。",
"今二人で饒舌ってたろう。",
"私には解りませんが、しきりに饒舌っておりましたな。",
"うむ、解るまいと思って人の聞くのも憚からず、英語ですっかり白状した。つまり百円を餌にして皆を釣ったのだ。遺失たもないものだ、時計は現在持っている。汝も我の謂うことを肯かんで草刈をやろうものなら、やっぱり日本人の馬鹿になるのだ。"
],
[
"何、突出しやせん。汝はなかなか熟練たものだ。",
"飛んだことをおっしゃいます。",
"いやその手腕を見込んで、ちっと依頼があるのだ。"
],
[
"ええ、若様滅相な。",
"いや少し了簡があるのだ。"
],
[
"じゃあの金時計ですね。",
"汝知ってるのか。",
"そりゃちゃんと睨んであります。あんな品は盗っても、売るのに六ヶしいから見逃がして置くものの、盗ろうと思やお茶の子でさあ。",
"いや太々しい野郎だなあ。"
],
[
"汝も聞いたろう、あの長谷の草刈騒動を。",
"知ってる段ですか。"
],
[
"若様此奴は離すと、直に逃げてしまいますよ。",
"こう、情無いことを謂いなさんな。私ゃこんなものでもね、日本が大の贔屓さ。何の赤髯、糞でも喰えだ。ええその金時計は直に強奪って持って来やす。"
],
[
"俺あ下男だ。若様の随伴をして来たのだ。",
"そんなら供待でお控えなさい。"
],
[
"宜しい彼室で待ってな。",
"だって若様。",
"可いよ。"
],
[
"ええ、どこで待つのだ。案内しろ。",
"静にせんか、何という物言いだ。"
],
[
"一体貴下は何御用でお出でなすったのです。拾った物なら素直に返して、さっさとお帰りなすったら可いじゃございませんか。",
"お黙んなさい。時計と交換にお礼の百円を戴きに来ました。",
"品物を拾って、それを返すのに礼金を与れと、そちらからおっしゃる法はございますまい。",
"いえ、普通拾って徳義上御返し申すのなら、下さるたって戴きません。しかし今度のは――こう謂っちゃ陋しい様ですが――礼金が欲しさに働きましたので、表面はともかく、謂わば貴下に雇われたも同でございます。それに承れば、何か貧乏人を賑わすという様な、難有い思召から出た事だと申しますが。"
],
[
"小僧、汝は掏摸だ。",
"そういう者が騙拐だ。"
],
[
"私、私、何を欺きました。",
"浜で御自分がおっしゃった言をお忘れですか。"
]
] | 底本:「泉鏡花集成1」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年8月22日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第一卷」岩波書店
1942(昭和17)年7月30日第1刷発行
初出:「侠黒兒」少年文學、博文館
1893(明治26)年6月28日
※初出は尾崎紅葉「侠黒兒」の附録です。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:清角克由
2014年8月21日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "050105",
"作品名": "金時計",
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"初出": "「侠黒兒」少年文學、博文館、1893(明治26)年6月28日",
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[
[
"如何です、岡田さん。",
"結構ですな。"
]
] | 底本:「鏡花全集 巻二十七」岩波書店
1942(昭和17)年10月20日第1刷発行
1988(昭和63)年11月2日第3刷発行
初出:「三田文学 第三巻第八号」三田文学会
1928(昭和3)年8月1日
※表題は底本では、「九九九会《くうくうくうくわい》小記《せうき》」となっています。
※題名の下にあった年代の注を、最後に移しました。
入力:門田裕志
校正:岡村和彦
2017年10月25日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "050788",
"作品名": "九九九会小記",
"作品名読み": "くくくかいしょうき",
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"初出": "「三田文学 第三巻第八号」三田文学会、1928(昭和3)年8月1日",
"分類番号": "NDC 914",
"文字遣い種別": "旧字旧仮名",
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"公開日": "2017-11-04T00:00:00",
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"名": "鏡花",
"姓読み": "いずみ",
"名読み": "きょうか",
"姓読みソート用": "いすみ",
"名読みソート用": "きようか",
"姓ローマ字": "Izumi",
"名ローマ字": "Kyoka",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1873-11-04",
"没年月日": "1939-09-07",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "鏡花全集 巻二十七",
"底本出版社名1": "岩波書店",
"底本初版発行年1": "1942(昭和17)年10月20日",
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[
[
"おいしいついでに、何と、それも甘そうだね、二ツ三ツ取って下さい。",
"はいはい、この団子でござりますか。これは貴方、田舎出来で、沢山甘くはござりませぬが、そのかわり、皮も餡子も、小米と小豆の生一本でござります。"
],
[
"串戯ではない、お婆さん、お前は見懸けに寄らぬ剽軽ものだね。",
"何でござりますえ。",
"いいえさ、この団子は、こりゃ泥か埴土で製えたのじゃないのかい。",
"滅相なことをおっしゃりまし。"
],
[
"唐突に笑うから、ははあ、この団子も看板を取違えたのかと思ったんだよ。",
"ええ、ええ、いいえ、お前様、"
],
[
"そう、気違いかい。私はまた唖ででもあろうかと思った、立派な若い人が気の毒な。",
"お前様ね、一ツは心柄でござりますよ。"
],
[
"あんな事を云うよ、お婆さん。",
"悪い餓鬼じゃ。嘉吉や、主あ、もうあっちへ行かっしゃいよ。"
],
[
"イヒヒ、イヒヒヒ、",
"これ、悪戯をするでないよ。"
],
[
"まあ、お人の好い。なるほど船頭を字に書けば、船の頭でござりましょ。そりゃもう船の頭だけに、極り処はちゃんと極って、間違いのない事をいたしました。",
"どうしたかね。",
"五人徒が賽の目に並んでおります、真中へ割込んで、まず帆を下ろしたのでござります。"
],
[
"そこで?",
"はい、両手を下げて、白いその両方の掌を合わせて、がっくりとなった嘉吉の首を、四五本目の輻の辺で、上へ支げて持たっせえた。おもみが掛ったか、姿を絞って、肩が細りしましたげなよ。"
],
[
"笑い事ではない。何かお爺様に異状でもありましたか。",
"お目こぼしでござります、"
],
[
"爺どのはお庇と何事もござりませんで、今日も鶴谷様の野良へ手伝いに参っております。",
"じゃ、その嘉吉と云うのばかりが、変な目に逢ったんだね。"
],
[
"息子さんは不埒が分って勘当かい。",
"聞かっせえまし、喜太郎様は亡くなりましたよ。前後へ黒門から葬礼が五つ出ました。",
"五つ!",
"ええ、ええ、お前様。",
"誰と誰と、ね?"
],
[
"お寺の鐘が聞えました。",
"南無阿弥陀仏、"
],
[
"鎌倉まで行きましょうよ。",
"それはそれは、御不都合な、つい話に実が入りまして、まあ、とんだ御足を留めましてござります。"
],
[
"なあよ、宰八、",
"やあ、"
],
[
"何か、お前が出会した――黒門に逗留してござらしゃる少え人が、手鞠を拾ったちゅうはどこらだっけえ。",
"直きだ、そうれ、お前が行く先に、猫柳がこんもりあんべい。",
"おお、",
"その根際だあ。帽子のふちも、ぐったり、と草臥れた形での、そこに、"
],
[
"見馴れねえ旅の書生さんじゃ、下ろした荷物に、寝そべりかかって、腕を曲げての、足をお前、草の上へ横投げに投出して、ソレそこいら、白鷺の鶏冠のように、川面へほんのり白く、すいすいと出て咲いていら、昼間見ると桃色の優しい花だ、はて、蓬でなしよ。",
"石竹だっぺい。",
"撫子の一種です、常夏の花と言うんだ。"
],
[
"可い加減な事を云う、狂気の嘉吉以来だ。お前は悪く変なものに知己のように話をするが、水潜りをするなんて、猫化けの怪談にも、ついに聞いた事はないじゃないか。",
"お前様もね、当前だあこれ、空を飛ぼうが、泳ごうが、活きた猫なら秋谷中私ら知己だ。何も厭な事はねえけんど、水ひたしの毛がよれよれ、前足のつけ根なぞは、あか膚よ。げっそり骨の出た死骸でねえかね。"
],
[
"何だい、死骸か。",
"何だ死骸か、言わっしゃるが、死骸だけに厭なこんだ。金壺眼を塞がねえ。その人が毬を取ると、三毛の斑が、ぶよ、ぶよ、一度、ぷくりと腹を出いて、目がぎょろりと光ッたけ。そこら鼠色の汚え泡だらけになって、どんみりと流れたわ、水とハイ摺々での――その方は岸へ上って、腰までずぶ濡れの衣を絞るとって、帽子を脱いで仰向けにして、その中さ、入れさしった、傍で見ると、紫もありゃ黄色い糸もかがってある、五色の――手毬は、さまで濡れてはいねえだっけよ。",
"なあよ、宰八、",
"何だえ。"
],
[
"その手毬はどうしたよ。",
"今でもその学生が持ってるかね。"
],
[
"嘘を吐け、またはじめた。大方、お前が目の前で、しゃぼん球のように、ぱっと消えてでもなくなったろう、不思議さな。",
"違えます、違えますとも!"
],
[
"何だ、見ともない、ひるてんの飛びっことは。テニスだよ、テニスと言えば可い。",
"かね……私また西洋の雀躍か、と思ったけ、まあ、可え。",
"ちっとも可かあない、"
],
[
"学校へ通うのに足場が悪くって、道が遠くって仕様がないから留めたんだ。",
"朝寝さっしゃるせいだっぺい。"
],
[
"何い、",
"暗くなったの、",
"彼これ、酉刻じゃ。",
"は、南無阿弥陀仏、黒門前は真暗だんべい。",
"大丈夫、月が射すよ。"
],
[
"お前、その手毬の行方はどうしたんだい。",
"そこだてね、まあ聞かっせえ、客人が、その最愛らしい容子じゃ……化、"
],
[
"風がねえで、えら太い蜘蛛の巣だ。仁右衛門、お前、はあ、先へ立って、よく何ともねえ。",
"巣、巣どころか、己あ樹の枝から這いかかった、土蜘蛛を引掴んだ。",
"ひゃあ、",
"七日風が吹かねえと、世界中の人を吸殺すものだちゅっけ、半日蒸すと、早やこれだ。"
],
[
"たちまち見る大蛇の路に当って横わるを、剣を抜いて斬らんと欲すれば老松の影!",
"ええ、静にしてくらっせえ、……もう近えだ。"
],
[
"おい、手毬はどうして消えたんだな、焦ったい。",
"それだがね、疾え話が、御仁体じゃ。化物が、の、それ、たとい顔を嘗めればとって、天窓から塩とは言うめえ、と考えたで、そこで、はい、黒門へ案内しただ。仁右衛門も知っての通り――今日はまた――内の婆々殿が肝入で、坊様を泊めたでの、……御本家からこうやって夜具を背負って、私が出向くのは二度目だがな。"
],
[
"消えたか、落したか分るもんか。",
"はあ、分らねえから、変でがしょ、",
"何もちっとも変じゃない。いやしくも学校のある土地に不思議と云う事は無いのだから。",
"でも、お前様、その猫がね、",
"それも猫だか、鼬だか、それとも鼠だが、知れたもんじゃない。森の中だもの、兎だって居るかも知れんさ。",
"そのお前様、知れねえについてでがさ。",
"だから、今夜行って、僕が正体を見届けてやろうと云うんだ。",
"はい、どうぞ、願えますだ。今までにも村方で、はあ、そんな事を言って出向いたものがの、なあ、仁右衛門。"
],
[
"前方へ行って目をまわしっけ、",
"馬鹿、"
],
[
"お前様もまた、馬鹿だの、仁右衛門だの、坊様だの、人大勢の時に、よく今夜来さしった。今まではハイついぞ行って見ようとも言わねえだっけが。",
"当前です、学校の用を欠いて、そんな他愛もない事にかかり合っていられるもんかい。休暇になったから運動かたがた来て見たんだ。",
"へ、お前様なんざ、畳が刎ねるばかりでも、投飛ばされる御連中だ。",
"何を、",
"私なんざ臆病でも、その位の事にゃ馴れたでの、船へ乗った気で押こらえるだ。どうしてどうして、まだ、お前……",
"宰八よ、"
],
[
"おお、",
"ぬしゃまた何も向う面になって、おかしなもののお味方をするにゃ当るめえでねえか。それでのうてせえ、おりゃ重いもので押伏せられそうな心持だ。"
],
[
"まだその以前でした。話すと大勢が気にしますから、実は宰八と云う、爺さん……",
"ああ、手ぼうの……でございますな。",
"そうです。あの親仁にも謂わないでいたんですが、猫と一所に手毬の亡くなりますちつと、前です。"
],
[
"やっぱり晴れた空なんです……今夜のように。",
"しますると……"
],
[
"この、時々ぱらぱらと来ますのは、木の葉でございますかな。",
"御覧なさい、星が降りそうですから、",
"成程。その癖音のしますたびに、ひやひやと身うちへ応えますで、道理こそ、一雨かかったと思いましたが。",
"お冷えなさるようなら、貴僧、閉めましょう。",
"いいえ、蚊を疵にして五百両、夏の夜はこれが千金にも代えられません、かえって陽気の方がお宜しい。"
],
[
"しかし、いかにもその時はお寂しかったでございましょう。",
"実際、貴僧、遥々と国を隔てた事を思い染みました。この果に故郷がある、と昼間三崎街道を通りつつ、考えなかったでもありませんが、場所と時刻だけに、また格別、古里が遠かったんです。",
"失礼ながら、御生国は、",
"豊前の小倉で、……葉越と言います。"
],
[
"そして貴僧は、",
"これは申後れました、私は信州松本の在、至って山家ものでございます。",
"それじゃ、二人で、海山のお物語が出来ますね。"
],
[
"ですから、お話しも極りが悪い、取留めのない事だと申すんです。",
"ははあ、"
],
[
"あるいはそうであろうかにも思いましたよ。では、ただ村のものが可い加減な百物語。その実、嘘説なのでございますので?",
"いいえ、それは事実です。畳は上りますとも。貴僧、今にも動くかも分りません。",
"ええ!や、それは、"
],
[
"これが、動くでございますか。",
"ですから、取留めのない事ではありませんか。"
],
[
"さよう、余り取留めなくもないようでございます。すると、坐っているものはいかがな儀に相成りましょうか。",
"騒がないで、熟としていさえすれば、何事もありません。動くと申して、別に倒に立って、裏返しになるというんじゃないのですから、",
"いかにも、まともにそれじゃ、人間が縁の下へ投込まれる事になりますものな。"
],
[
"成程。",
"北へ四枚目の隅の障子を開けますとね。溝へ柄を、その柱へ、切尖を立掛けてあったろうではありませんか。"
],
[
"やはり、おのずから、その、抜出すでございますか。",
"いいえ、これには別条ありません。盗人でも封印のついたものは切らんと言います。もっとも、怪物退治に持って見えます刃物だって、自分で抜かなければ別条はないように思われますね。それに貴僧、騒動の起居に、一番気がかりなのは洋燈ですから、宰八爺さんにそう云って、こうやって行燈に取替えました。",
"で、行燈は何事も、",
"これだって上ります。",
"あの上りますか。宙へ?"
],
[
"すう、とこう、畳を離れて、",
"ははあ、"
],
[
"それも手をかけて、圧えたり、据えようとしますと、そのはずみに、油をこぼしたり、台ごとひっくりかえしたりします。障らないで、熟と柔順くしてさえいれば、元の通りに据直って、夜が明けます。一度なんざ行燈が天井へ附着きました。",
"天……井へ、"
],
[
"その晩は、お一人で、",
"一人です、しかも一昨晩。",
"一昨晩?"
],
[
"で、そりゃ昼間の事でございますな。",
"昨日の午後でした。",
"昼間からは容易でない。"
],
[
"一人でも客がありますと、それだけ鶴谷では喜びますそうです。持主の本宅が喜びますものを、誰に御遠慮が入りますものですか。私もお連があって、どんなに嬉しいか知れません。",
"そりゃ、鶴谷殿はじめ、貴下の思召しはさように難有うございましても、別にその……ええ、まず、持主が鶴谷としますと、この空屋敷の御支配でございますな、――その何とも異様な、あの、その、"
],
[
"私くらい臆病なものはありません。……臆病で仕方がないから、なるがまかせに、抵抗しないで、自由になっているのです。",
"さあ、そこでございます。それを伺いたいのが何より目的で参りましたが、何か、その御研究でもなさりたい思召で。",
"どういたしまして、私の方が研究をされていても、こちらで研究なんぞ思いも寄らんのです。",
"それでは、外に、",
"ええ、望み――と申しますと、まだ我があります。実は願事があって、ここにこうして、参籠、通夜をしておりますようなものです。"
],
[
"それが貴僧、前刻お話をしかけました、あの手毬の事なんです。",
"ああ、その手毬が、もう一度御覧なさりたいので。",
"いいえ、手毬の歌が聞きたいのです。"
],
[
"大空の雲を当てにいずことなく、海があれば渡り、山があれば越し、里には宿って、国々を歩行きますのも、詮ずる処、ある意味の手毬唄を……",
"手毬唄を。……いかがな次第でございます。",
"夢とも、現とも、幻とも……目に見えるようで、口には謂えぬ――そして、優しい、懐しい、あわれな、情のある、愛の籠った、ふっくりした、しかも、清く、涼しく、悚然とする、胸を掻挘るような、あの、恍惚となるような、まあ例えて言えば、芳しい清らかな乳を含みながら、生れない前に腹の中で、美しい母の胸を見るような心持の――唄なんですが、その文句を忘れたので、命にかけて、憧憬れて、それを聞きたいと思いますんです。"
],
[
"精進潔斎。",
"そんな大した、"
],
[
"どうしたんです。",
"何かまた、"
],
[
"あ、あ、気味の悪い。誰に挨拶さっせるだ。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。はて、急に変なことを考えたぞ。そこさ一面の障子の破れ覗いたら何が見えべい――南無阿弥陀仏、ああ、南無阿弥陀仏、……やあ、蝋燭がひらひらする、どこから風が吹いて来るだ。これえ消したが最後、立処に六道の辻に迷うだて。南無阿弥陀仏、御坊様、まだかね。",
"ちょいと、",
"ひゃあ、"
],
[
"ちょいと燭を見せておくれ。",
"ええ、お前様、前へ戸を開けておいてから何か言わっしゃれば可い。板戸が音声を発したか、と吃驚しただ、はあ、何だね。",
"入口の、この出窓の下に、手水鉢があったのを、入りしなに見ておいたが、広いので暗くて分らなくなりました。",
"ああ、手、洗わっしゃるのかね、"
],
[
"冷い美しい水が、満々とありますよ。",
"嘘を吐くもんでェねえ。なに美い水があんべい。井戸の水は真蒼で、小川の水は白濁りだ。",
"じゃあ燭で見るせいだろうか、",
"そして、はあ、何なみなみとあるもんだ。",
"いいえ、縁切こぼれるようだよ。ああ、葉越さんは綺麗好きだと見える。真白な手拭が、"
],
[
"ここに倒にはってあるのは、これは誰方がお書きなすった、",
"……南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……",
"ああ、佳いおてだ。"
],
[
"ええ、疾く出さっせえ、私もう押堪えて、座敷から庭へ出て用たすべい。",
"ほんとに誰が書いたんだね、女の手だが、"
],
[
"南無阿弥陀仏、ソ、それは、それ、この次の、次の、小座敷で亡くならしっけえ、どっかの嬢様が書いて貼っただとよ、直きそこだ、今ソンな事あどうでも可え。頭から、慄然とするだに、",
"そうかい、ああ私も今、手を拭こうとすると、真新しい切立の掛手拭が、冷く濡れていたのでヒヤリとした。"
],
[
"そうふらふらさしちゃ燈が消えます。貸しなさい、私がその手燭を持とうで。",
"頼んます、はい、どうぞお前様持たっせえて、ついでにその法衣着さっせえ姿から、光明赫燿と願えてえだ。"
],
[
"ええ、",
"どこか呻吟くような声がするよ。",
"芸もねえ、威かしてどうさっせる。",
"聞きなさい、それ……",
"う、う、う、"
],
[
"爺さん、お前が呻吟くのかい。",
"いんね、"
],
[
"ふん、難産の呻吟声だ。はあ、御新姐が唸らしっけえ、姑獲鳥になって鳴くだあよ。もの、奥の小座敷の方で聞えべいがね。",
"奥も小座敷も私は知らんが、障子の方ではないようだ、便所かな、",
"ひええ、今、お前様が入らっしたばかりでねえかね、",
"されば、"
],
[
"おお、庭だ、庭だ、雨戸の外だ。",
"はあ、"
],
[
"野郎、入ってみやがれ、野郎、活仏さまが附いてござるだ。",
"仏ではなお打棄っては措かれない、人の声じゃ、お爺さん、明けて見よう、誰か苦んでいるようだよ。",
"これ、静かにさっせえ、術だ、術だてね。ものその術で、背負引き出して、お前様天窓から塩よ。私は手足い引捩いで、月夜蟹で肉がねえ、と遣ろうとするだ。ほってもない、開けさっしゃるな。早く座敷へ行きますべい。",
"あれ、聞きなさい、助けてくれ……と云うではないか。",
"へ、疾いもんだ。人の気を引きくさる、坊様と知って慈悲で釣るだね、開けまいぞ。"
],
[
"助けてくれ……",
"…………",
"…………"
],
[
"ひゃあ、苦虫が呼ぶ。",
"何、虫が呼ぶ?",
"ええ、仁右衛門の声だ。南無阿弥陀仏、ソ、ソレ見さっせえ。宵に門前から遁帰った親仁めが、今時分何しにここへ来るもんだ。見ろ、畜生、さ、さすが畜生の浅間しさに、そこまでは心着かねえ。へい、人間様だぞ。おのれ、荒神様がついてござる、猿智慧だね、打棄っておかっせえまし。"
],
[
"行燈だよ、余り手間が取れるから、座敷から葉越さんが見においでだ。さあ、三人となると私も大きに心強い――ここは開くかい。",
"ええ、これ、開けてはなんねえちゅうに、",
"だって、あれ、あれ、助けてくれ、と云うものを。鬼神に横道なし、と云う、情に抵抗う刃はない筈、"
],
[
"六十余州、罷通るものじゃ。",
"何と申す、何人……",
"到る処の悪左衛門、"
],
[
"唯今、秋谷に罷在る、すなわち秋谷悪左衛門と申す。",
"悪…………",
"悪は善悪の悪でござる。",
"おお、悪……魔、人間を呪うものか。"
],
[
"おお、",
"すなわち少年が、御身に毒を飲ませたのだ。",
"…………"
],
[
"ああ、貴女が、",
"あの、それに就きまして、貴僧にお願いがございますが、どうぞお聞き下さいまし。"
]
] | 底本:「泉鏡花集成5」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年2月22日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第十一卷」岩波書店
1941(昭和16)年8月15日第1刷発行
※疑問点の確認にあたっては、底本の親本を参照しました。
※「それとも鼠だが」の「だが」は、底本の親本でもママですが、岩波文庫版では「だか」となっています。
入力:門田裕志
校正:高柳典子
2003年8月28日作成
2006年5月20日修正
青空文庫作成ファイル:
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"作品名読み": "くさめいきゅう",
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[
[
"御免なさいよ。",
"はいはい。"
],
[
"もしえ! もしえ! ちょっと……立田様の織さんが。",
"何、立田さんの。",
"織さんですがね。",
"や、それは。"
],
[
"何時、当地へ。",
"二、三日前さ。",
"雑と十四、五年になりますな。",
"早いものだね。",
"早いにも、織さん、私なんざもう御覧の通り爺になりましたよ。これじゃ途中で擦違ったぐらいでは、ちょっとお分りになりますまい。",
"否、些とも変らないね、相かわらず意気な人さ。",
"これはしたり!"
],
[
"ははあ、御同伴の奥さんがお待兼ねで。",
"串戯じゃない。"
],
[
"そんなものがあるものかね。",
"そんなものとは?",
"貴下、まだ奥様はお持ちなさりませんの。"
],
[
"持つもんですか。",
"織さん。"
],
[
"の、そうさっしゃいよ。",
"なるほど。",
"他の事ではない、あの子も喜ぼう。",
"それでは、母親、御苦労でございます。",
"何んの、お前。"
],
[
"織坊、本を買って、何を習う。",
"ああ、物理書を皆読むとね、母様のいる処が分るって、先生がそう言ったよ。だから、早く欲しかったの、台所にいるんだもの、もう買わなくとも可い。……おいでよ、父上。"
],
[
"織坊、母様の記念だ。お祖母さんと一緒に行って、今度はお前が、背負って来い。",
"あい。"
]
] | 底本:「鏡花短篇集」岩波文庫、岩波書店
1987(昭和62)年9月16日第1刷発行
1999(平成11)年3月15日第19刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第十二卷」岩波書店
1942(昭和17)年4月初版発行
初出:「太陽」
1910(明治10)年1月号
※底本の親本は総ルビ。底本作成時にルビが取捨選択されています。
入力:今中一時
校正:青木直子
1999年12月16日公開
2005年12月2日修正
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "000529",
"作品名": "国貞えがく",
"作品名読み": "くにさだえがく",
"ソート用読み": "くにさたえかく",
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[
[
"そんな奴があるものか。",
"だつて玉子屋の看板には何と書いてある?"
]
] | 底本:「鏡花全集 巻二十七」岩波書店
1942(昭和17)年10月20日第1刷発行
1988(昭和63)年11月2日第3刷発行
※題名の下にあった年代の注を、最後に移しました。
※表題は底本では、「廓《くるわ》そだち」とルビがついています。
入力:門田裕志
校正:川山隆
2011年8月6日作成
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "050774",
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"姓ローマ字": "Izumi",
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"底本名1": "鏡花全集 巻二十七",
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[
[
"学校は休かしら。",
"いえ、土曜日なんで、"
],
[
"何です。",
"見ると驚くぜ、吃驚すらあ、草だね、こりゃ草なんだけれど活きてるよ。"
],
[
"また始めたい、理窟をいったってはじまらねえ。可いからまあ難有うと、そういってみねえな、よ、厭なら止せ。",
"乱暴ねえ、",
"そっちアまた強情だな、可いじゃあないか難有う……と。",
"じゃアまああっちへ参りましょう。"
],
[
"何だい、鳴るじゃあないか、きゅうきゅういってやがら、おや、可訝いな。",
"お縁側が昔のままでございますから、旧は好事でこんなに仕懸けました。鶯張と申すのでございますよ。"
],
[
"御容子にも御身分にもお似合い遊ばさない、ぞんざいな言ばっかし。不可えだの、居やがるだのッて、そんな言は御邸の車夫だって、部屋へ下って下の者同士でなければ申しません。本当に不可ませんお道楽でございますねえ。",
"生意気なことをいったって、不可えや、畏ってるなあ冬のこッた。ござったのは食物でみねえ、夏向は恐れるぜ。"
],
[
"また、そんなことを有仰らないでさ。",
"勝手でございますよ。",
"それではまあお帽子でもお取り遊ばしましな、ね、若様。"
],
[
"若様、もし。",
"堪忍しねえ、炫いやな。"
],
[
"珈琲にいたしましょうか。",
"ああ、",
"ラムネを取りに遣わしましょうか。"
],
[
"道、",
"はい。",
"冷水が可いぜ、汲立のやつを持って来てくんねえ、後生だ。"
],
[
"何でも崖裏か、藪の陰といった日陰の、湿った処で見着けたのね?",
"そうだ、そうだ。"
],
[
"ヤ、半分ばかり食べやがった。ほら、こいつあ溶けるんだ。",
"まあ、ここに葉のまわりの針の尖に、一ツずつ、小さな水玉のような露を持っててね。",
"うむ、水が懸って、溜っているんだあな、雨上りの後だから。"
],
[
"欲かアありませんぜ。",
"お厭。",
"それにゃ及ばないや。"
],
[
"取替ッこにしましょうか。",
"これをかい。",
"はあ、"
],
[
"不可え。こりゃ、",
"それでは、ただ下さいな。",
"うむ。",
"取替えるのがお厭なら。",
"止しねえ、お前、お前さんの方がよッぽど可いや、素晴しいんじゃないか。俺のこの、"
],
[
"おいらのせいじゃあないぞ、",
"三年先の烏のせい。"
],
[
"雁が一羽懸った、",
"懸った、懸った。"
],
[
"今帰るのかい。",
"は……い。",
"暑いのに随分だな。"
],
[
"あなた。",
"ああ、",
"お医者様は、"
],
[
"どうぞまあ、お医者様を内へお呼び申すことにして、あなたはお寝って、何にもしないでいらっしゃるようにしたいものでございますね。",
"それは何、懇意な男だから、先方でもそう言ってくれるけれども、上手なだけ流行るので隙といっちゃあない様子、それも気の毒じゃあるし、何、寝ているほどの事もないんだよ。",
"でも、随分お悪いようですよ。そしてあの、お帰途に湯にでもお入りなすったの。"
],
[
"え、なぜね。",
"お頭が濡れておりますもの。"
],
[
"御一所に帰りましょうか。",
"別々に行こうよ、ちっと穏でないから。いや、大丈夫だ。",
"気を着けて下さいましよ。"
],
[
"やあい、やい",
"盲目やあい。"
],
[
"ええ、そっちを引張んねえ。",
"下へ、下へ、",
"弛めて、潜らせやい。",
"巻付けろ。"
],
[
"姉や、姉や。",
"何でございますか、は、私、",
"指環でも出来るかい。",
"ええ、出来ますとも、何でもお出しなさいましよ。"
],
[
"これですかい。",
"ちょいと遣っておくんな。",
"結構じゃありませんかね。",
"お銭がなくっちゃあ不可ねえか、ここにゃ持っていねえんだが、可かったらつけてくんねえ。後で持たして寄越すぜ。"
],
[
"よくして上げましょう、もう少しですから。",
"沢山だよ。"
],
[
"さあ、大変。",
"お静に、お静に。",
"構わず、ぐっと握るべしさ、",
"しっかり頼むぜ。"
],
[
"口切の商でございます、本磨にして、成程これならばという処を見せましょう、これから艶布巾をかけて、仕上げますから。",
"止せ。"
],
[
"義作だ、おう、ここに居るぜ。",
"ちょいと、",
"ええ、"
],
[
"姉さん、",
"どうなすった。"
],
[
"おや、おや、おかしいねえ、変だよ、奇体なことがあるものだよ。露か知らん、上の枝から雫が落ちたそうで、指が冷りとしたと思ったら、まあ。",
"へい、引掻いたんじゃありませんか。",
"今のが切ったんじゃないんですかい。",
"指環で切れるものかね、御常談を、引掻いたって、血が流れるものですか。",
"さればさ。"
],
[
"見た、何さ、ありゃ。門札の傍へ、白で丸い輪を書いたのは。",
"井戸でない。",
"へえ。",
"飲用水の印ではない、何じゃ、あれじゃ。その、色事の看板目印というやつじゃ。まだ方々にあるわい。試みに四五軒見しょう、一所に来う、歩きながら話そうで。まずの、"
],
[
"白墨かい。",
"はははは、白墨じゃが、何と、"
],
[
"うむ、おりゃ、近頃博愛主義になってな、同好の士には皆見せてやる事にした。あえてこの慰を独擅にせんのじゃで、到る処俺が例の観察をして突留めた奴の家には、必ず、門札の下へ、これで、ちょいとな。",
"ふん、はてね。",
"貴様今見たか、あれじゃ、あの形じゃ。目立たぬように丸い輪を付けておくことにしたんじゃ。",
"御趣向だね。",
"どうだ、今の家には限らずな、どこでも可いぞ、あの印の付いた家を随時窺って見い。殊に夜な、きっと男と女とで、何かしら、演劇にするようなことを遣っとるわ。"
],
[
"変ったお慰だね、よくそして見付けますなあ。",
"ははあ、なんぞ必ずしも多く労するを用いん。国民皆堕落、優柔淫奔になっとるから、夜分なあ、暗い中へ足を突込んで見い。あっちからも、こっちからも、ばさばさと遁出すわ、二疋ずつの、まるでもって螇蚸蟷螂が草の中から飛ぶようじゃ。其奴の、目星い処を選取って、縦横に跡を跟けるわい。ここぞという極めが着いた処で、印を付けておくんじゃ。私も初手の内は二軒三軒と心覚えにしておいたが、蛇の道は蛇じゃ、段々その術に長ずるに従うて、蔓を手繰るように、そら、ぞろぞろ見付かるで。ああ遣って印をして、それを目的にまた、同好の士な、手下どもを遣わす、巡査、探偵などという奴が、その喜ぶこと一通でないぞ。中には夜行をするのに、あの印ばかり狙いおる奴がある。ぐッすり寐込んででもいようもんなら、盗賊が遁込んだようじゃから、なぞというて、叩き起して周章てさせる。",
"酷いことを!"
],
[
"何に其等はほんの前芸じゃわい。一体何じゃぞ、手下どもにも言って聞かせるが、野郎と女と両方夢中になっとる時は常識を欠いて社会の事を顧みぬじゃから、脱落があってな、知らず知らず罪を犯しおるじゃ。私はな、ただ秘密ということばかりでも一種立派な罪悪と断ずるで、勿論市役所へ届けた夫婦には関係せぬ。人の目を忍ぶほどの中の奴なら、何か後暗いことをしおるに相違ないでの。仔細に観察すると、こいつ禁錮するほどのことはのうても、説諭位はして差支えないことを遣っとるから、掴み出して警察で発かすわい。",
"大変だね。",
"発くとの、それ親に知れるか、亭主に知れるか、近所へ聞える。何でも花火を焚くようなもので、その途端に光輝天に燦爛するじゃ。すでにこないだも東の紙屋の若い奴が、桜木町である女と出来合って、意気事を極めるちゅうから、癪に障ってな、いろいろ験べたが何事もないで、為方がない、内に居る母親が寺参をするのに木綿を着せて、汝が傾城買をするのに絹を纏うのは何たることじゃ、という廉をもって、説諭をくらわした。",
"それで何かね、警察へ呼出しかね。",
"ははあ、幾ら俺が手下を廻すとって、まさかそれほどの事では交番へも引張り出せないで、一名制服を着けて、洋刀を佩びた奴を従えて店前へ喚き込んだ。",
"おやおや、",
"何、喧嘩をするようにして言って聞かせても、母親は昔気質で、有るものを着んのじゃッて。そんなことを構うもんか、こっちはそのせいで藁草履を穿いて歩いてる位じゃもの。"
],
[
"それからの、山田下の植木屋の娘がある、美人じゃ。貴様知ってるだろう、あれがな、次助というて、近所の鋳物師の忰と出来た。先月の末、闇の晩でな、例のごとく密行したが、かねて目印の付いてる部じゃで、密と裏口へ廻ると、木戸が開いていたから、庭へ入った。",
"構わず?",
"なに咎めりゃ私が名乗って聞かせる、雀部といえば一縮じゃ。貴様もジャムを連れて堂々濶歩するではないか、親の光は七光じゃよ。こうやって二人並んで歩けばみんな途を除けるわい。"
],
[
"はははは、愉快じゃな。勿論、淫魔を駆って風紀を振粛し、且つ国民の遊惰を喝破する事業じゃから、父爺も黙諾の形じゃで、手下は自在に動くよ。既にその時もあれじゃ、植木屋の庭へこの藁草履を入れて掻廻わすと、果せるかな、螇蚸、蟷螂。",
"まさか、",
"うむ、植木屋の娘と其奴と、貴様、植込の暗い中に何か知らん歎いておるわい。地面の上で密会なんざ、立山と神通川とあって存する富山の体面を汚すじゃから、引摺出した。",
"南無三宝、はははは。",
"挙動が奇怪じゃ、胡乱な奴等、来い! と言うてな、角の交番へ引張って行って、吐せと、二ツ三ツ横面をくらわしてから、親どもを呼出して引渡した。ははは、元来東洋の形勢日に非なるの時に当って、植込の下で密会するなんざ、不埒至極じゃからな。"
],
[
"総曲輪へ出て素見そうか。まあ来いあそこの小間物屋の女房にも、ちょいと印が付いておるじゃ。",
"行き届いたもんですな。",
"まだまだこれからじゃわい。",
"さよう、君のは夜が更けてからがおかしいだろうが、私は、その晩くなると家が妙でないから失敬しよう。",
"ははあ、どこぞ行くんかい。",
"ちょいと。"
],
[
"何かね、",
"注意せい、貴様の体にも印が着いたぞ。"
],
[
"止したまえ。",
"ははは、構わん、遣れ。あの花売は未曾有の尤物じゃ、また貴様が不可なければ私が占めよう。",
"大分、御意見とは違いますように存じますが。"
],
[
"まさか、君、花売が処へは、用いまいね、何を、その白墨を。",
"可いわい、一ツぐらい貴様に譲ろう。油断をするな、那奴また白墨一抹に価するんじゃから。"
],
[
"貴方御存じでございますか。",
"ああ、今のその話の花か。知ってはいない、見たことはないけれどもあるそうだ。いや、有るに違いはないんだよ。"
],
[
"おう、帰ったのか。",
"おや。",
"酷い蚊だなあ。",
"まあ、お前様。まあ、こんな中に先刻にからござらせえたか。",
"今しがた。",
"暗いから、はや、なお耐りましねえ。いかなこッても、勝手が分らねえけりゃ、店の洋燈でも引外してござれば可いに。"
],
[
"近所の静まるまで、もうちっと灯を点けないでおけよ。",
"へい。",
"覗くと煩いや。",
"それでは蚊帳を釣って進ぜましょ。",
"何、おいら、直ぐ出掛けようかとも思ってるんだ。",
"可いようにさっしゃりませ。",
"ああ、それから待ちねえこうだと、今に一人此家へ尋ねて来るものがあるんだから、頼むぜ。",
"お友達かね。お前様は物事じゃで可いけれど、お前様のような方のお附合なさる人は、から、入ってしばらくでも居られます所じゃあござりませぬが。"
],
[
"おくんな。",
"おい。"
],
[
"今も婆さんが深切に言ってくれたが、お雪さん、人が悪いという処へ推して行くのは不可ない。何も、妖物が出るの、魔が掴むのということは、目の前にあるとも思わないが、昔からまるで手も足も入れない処じゃあ、人の知らない毒虫が居て刺そうも知れず、地の工合で蹈むと崩れるようなことがないとも限らないから。",
"はい、"
],
[
"見えやあしない。",
"ええ!"
],
[
"貴方、",
"可いよ。",
"あの、こう申しますと、生意気だとお思いなさいましょうが、",
"何、",
"お気に障りましたことは堪忍して下さいまし、お隠しなさいますお心を察しますから、つい口へ出してお尋ね申すことも出来ませんし、それに、あの、こないだ総曲輪でお転びなすった時、どうも御様子が解りません、お湯にお入りなさいましたとは受取り難うございますもの、往来ですから黙って帰りました。が、それから気を着けて、お知合のお医者様へいらっしゃるというのは嘘で、石滝のこちらのお不動様の巌窟の清水へ、お頭を冷しにおいでなさいますのも、存じております。不自由な中でございますから、お怨み申しました処で、唯今はお薬を思うように差上げますことも出来ませんが、あの……"
],
[
"ええ、もう治りますとも。そして目が開いて立派な方におなりなさいましても、貴方、",
"何だ。",
"見棄てちゃあ、私は厭。",
"こんなに世話になった上、まだ心配を懸けさせる、僕のようなものを、何だって、また、そういうことを言うんだろう。"
],
[
"お雪さん。",
"はい。",
"どうしてこんなになったろう、僕は自分に解らないよ。",
"私にも分りません。",
"なぜだろう、"
],
[
"居るか、おい、暗いじゃないか。",
"唯今、",
"真暗だな。"
],
[
"どうぞ、まあ、",
"入っちゃあおられん。",
"どちらへか。",
"なあに。"
],
[
"ちょっと出てもらおう、",
"え、え。",
"用があるんだ。"
],
[
"お婆さん、私は直帰るんですが、",
"あい、"
],
[
"いえ、お召なんでございます。四十物町のお邸から、用があるッて、そう有仰るのでございますから。",
"四十物町のお花主というと、何、知事様のお邸だッけや。",
"お嬢様が急に、御用がおあんなさいますッて。",
"うんや、善くないてや。お前様が行く気でも、私が留めます。お嬢様の御用とって、お前、医者じゃあなし、駕籠屋じゃあなし、差迫った夜の用はありそうもない。大概の事は夜が明けてからする方が仕損じが無いものじゃ。若いものは、なおさら、女じゃでの、はて、月夜に歩いてさえ、美しい女の子は色が黒くなるという。",
"はい、ですけれども。"
],
[
"それじゃあお婆さん。",
"待たっせえ、いや、もし、お前様、もし、旦那様。"
],
[
"旦那様、もし。",
"おれか。",
"へい、婆がお願でござります、お雪が用は明日のことになされ下さりませ。内には目の不自由な人もござりますし、四十物町までは道も大分でござりますで。",
"何だ、お前は。",
"へい、",
"さあ、行こう。"
],
[
"そうですか。",
"貴下御存じじゃあないのですか。"
],
[
"何もそんなに胸までどきつかせるには当らない、大した用でもなかろうよ。たかがお前この頃情人が出来たそうだね、お目出度いことよ位なことを謂われるばかりさ。",
"厭でございます。",
"厭だって仕方がない、何も情人が出来たのに御祝儀をいわれるたッて、弱ることはないじゃあないか。ふん、結構なことさね、ふん、"
],
[
"ほんとうでございますか。",
"まったくよ。",
"あら、それでは、あの私は御免蒙りますよ。"
],
[
"御免蒙るッて、来ないつもりか。おい、お嬢様が御用があるッて、僕がわざわざ迎に来たんだが、御免蒙る、ふん、それで可いのか。――御免蒙る――",
"それでも、おなぶり遊ばすんですもの、私は辛うございます。"
],
[
"路も遠うございますから、晩くなりましょう、直ぐあの、お邸の方へ参っちゃあ不可ませんか。",
"何、遠慮することはないさ。"
],
[
"おや、どちらへ。",
"ははあ、貴公と美人とが趣く処へどこへなと行くで。奢れ! 大分ほッついたで、夕飯の腹も、ちょうど北山とやらじゃわい。"
],
[
"知事が処じゃ。",
"今ッからね。",
"うむ、勇美子さんが来てくれいと言うものじゃでの。"
],
[
"何よ、また道寄も遣らかすわい。向うが空屋で両隣は畠だ、聾の婆が留守をしとる、ちっとも気遣はいらんのじゃ、万事私が心得た。",
"驚いたね。",
"どうじゃ、恐入ったか。うむ、好事魔多し、月に村雲じゃろ。はははは、感多少かい、先生。",
"何もその、だからそういったじゃアありませんか。君、僕だけは格別で。",
"豈しからん、この美肉をよ、貴様一人で賞翫してみい、たちまち食傷して生命に係るぞ。じゃから私が注意して、あらかじめ後を尾けて、好意一足の藁草履を齎らし来った訳じゃ、感謝して可いな。"
],
[
"奢ります、いずれ奢るから、まあ、君、君だって、分ってましょう。それ、だから奢りますよ、奢りますよ。",
"豚肉は不可ぞ。",
"ええ、もうずっとそこン処はね。",
"何、貴様のずっとはずっと見当が違うわい。そのいわゆるずっとというのは軍鶏なんじゃろ、しからずんば鰻か。"
],
[
"非ず、私が欲する処はの、熊にあらず、羆にあらず、牛豚、軍鶏にあらず、鰻にあらず。",
"おやおや、",
"小羊の肉よ!",
"何ですって、"
],
[
"どうするんかい、",
"何さ、どうするッて。"
],
[
"しょびくたって何も君、まったくさ、お嬢さんが用があるそうだ。",
"嘘を吐けい、誰じゃと思うか、ああ。貴公目下のこの行為は、公の目から見ると拐帯じゃよ、詐偽じゃな。我輩警察のために棄置かん、直ちに貴公のその額へ、白墨で、輪を付けて、交番へ引張るでな、左様思え、はははは。",
"串戯をいっちゃあ不可ません。",
"何、構わず遣るぞ。癪じゃ、第一、あの美人は、私が前へ目を着けて、その一挙一動を探って、兄じゃというのが情男なことまで貴公にいうてやった位でないかい。考えてみい、いかに慇懃を通じようといって、貴公ではと思うで、なぶる気で打棄っておいたわ。今夜のように連出されては、こりゃならんわい。向面へ廻って断乎として妨害を試みる、汝にジャムあれば我に交番ありよ。来るか、対手になるか、来い、さあ来い。両雄並び立たず、一番勝敗を決すべい。"
],
[
"可いわ、放すから遁げちゃあならんぞ、",
"何、逃げれば、捕える分のことさ、"
],
[
"誰、誰です。",
"己だ、滝だよ。おい、ちょいと誰だか手を握った奴があるぜ。串戯じゃあない、気味が悪いや、そういってお前放さしてくんな。おう、後生大事と握ってやがらあ。"
],
[
"おう来たのか、おいら約束の処へ行ってお前の来るのを待ってたんだけれども、ちょいと係合で歩に取られて出て来たんだ。路は一筋だから大丈夫だとは思ったが、逢い違わなければ可いと思っての。",
"そう、私実は先刻からここに居たんだよ。路先を切って何か始まったから、田舎は田舎だけに古風なことをすると思ってね、旅稼の積でぐッとお安く真中へ入ってやろうかと思ってる処へ、お前さんがお出だから見ていたの。あい、おかしくッて可うござんした。ここいらじゃあ尾鰭を振って、肩肱を怒らしそうな年上なのを二人まで、手もなく追帰したなあ大出来だ、ちょいと煽いでやりたいわねえ、滝さんお手柄。"
],
[
"それじゃあ滝さん、毒をもって毒を制するとやらいうのかい。",
"姉や、お前学者だなあ、"
],
[
"そりゃそうと、酷い目に逢いそうだった姉さんはどうしたの。なんだかお前さんと、あの肥った、",
"芋虫か、",
"え、じゃあ細長い方は蚯蚓かい。おほほほほ、おかしいねえ、まあ、その芋虫と、蚯蚓とお前さんと。"
],
[
"御免なさいまし、三人巴になってごたごたしてるので、つい見はぐしたよ、どうしたろう。",
"何か、あの花売の別嬪か。",
"高慢なことをいうねえ、花売だか何だか。",
"うむ、ありゃもう疾くに帰った。俺ら可いてことよと受合って来たけれども、不安心だと見えてあとからついて来たそうで、老人は苦労性だ。挨拶だの、礼だの、誰方だのと、面倒臭えから、ちょうど可い、連立たして、さっさと帰しちまった。",
"何しろ可かったねえ。喧嘩になって、また指環でも揮廻しはしないかと、私ははらはらして見ていたんだよ。ほんとにお前さん、あれを滅多に使っちゃあ悪うござんす。",
"蝮の針だ、大事なものだ。人に見せて堪るもんか、そんなどじなこたあしやしないよ。",
"いかがですか、こないだ店前へ突出したお手際では怪しいもんだよ。多勢居る処じゃあないかね。",
"誰がまた姉や、お前だと思うもんか。あの時はどきりとした、ほんとうだ、縛られるかと思った。",
"だからさ、私に限らず、どこにどんな者が居ないとも限らないからね、うっかりしちゃあ危険だよ。"
],
[
"沢山お辞儀をなさい、お前さん怪しからないねえ。そりゃ惚れてるんだろう、恐入った?",
"おお、惚れたんだか何だか知らねえが、姫様の野郎が血道を上げて騒いでるなあ、黒百合というもんです。",
"何だとえ。",
"百合の花の黒いんだッさ、そいつを欲しいって騒ぐんだな。",
"へい、欲しければ買ったら可さそうなもんじゃあないか。",
"それがね、不可ねえんだ、銭金ずくじゃないんだってよ。何でも石滝って処を奥へ蹈込むと、ちょうど今時分咲いてる花で、きっとあるんだそうだけれど、そこがまた大変な処でね、天窓が石のような猿の神様が住んでるの、恐い大な鷲が居るの、それから何だって、山ン中だというに、おかしいじゃあねえか、水掻のある牛が居るの、種々なことをいって、まだ昔から誰も入ったことがないそうで、どうして取って来られるもんだとも思やしないんだってこッた。弱虫ばかり、喧嘩の対手にするほどのものも居ねえ処だから、そン中へ蹈込んで、骨のある妖物にでも、たんかを切ってやろうと、おいら何するけれども、つい忙いもんだから思ったばかし。",
"まあ、大層お前さん、むずかしいのね、忙いって何の事だい。",
"だから待ちねえ、見せるてこッた、うんと一番喜ばせるものがあるんだぜ。",
"ああ、その滝さんが見せるというものは、何だか知らないが見たいものだよ。"
],
[
"花室かい、綺麗だね。",
"入口は花室だ、まだずっと奥があるよ。これからつき当って曲るんだ、待っといで、暗いからな。"
],
[
"そうかい、川の音は可いけれど地獄が聞えるなんざ気障だねえ。ちょいと、これから奥へ入ってどうするのさ、お前さんやりやしないか。私ゃ殺されそうな気がするよ、不気味だねえ。",
"馬鹿なことを!"
],
[
"まだまだ深いのかい。",
"もう可い、ここはね、おい、誰も来る処じゃあねえよ。おいらだって、余程の工面で見着け出したんだ。"
],
[
"危いねえ!",
"そんなこたあ心得てら。やい、おいらが手にゃあ仏様持ってるぜ、手を懸けられるなら懸けてみろッて、大な声で喚きつけた。"
],
[
"お前さんの母様が亡なんなすった時も、お前にゃあ何でもしたいことが出来るからってとお言いだったと聞いちゃあいたがね、まあ、随分思切ったこったね。何かい、ここで寝ることがあるのかい。",
"ああ、あの荒物屋の媼っていうのが、それが、何よ、その清全寺で仏像の時の媼なんだから、おいらにゃあ自由が利くんだ。邸からじゃあ面倒だからね、荒物屋を足溜にしちゃあ働きに出るのよ。それでも何や彼や出入に面倒だったり、一品々々捻くっちゃあ離れられなくって、面白い時はこの穴ン中で寝て行かあ。寝てるとね、盗んで来たここに在る奴等が、自分が盗られた時の様子を、その道筋から、機会から、各々に話をするようで、楽ッたらないんだぜ。",
"それでまあよくお前さん体が何ともないね。浅草に餓鬼大将をやってお在の時とは違って、品もよくおなりだし、丸顔も長くなってさ、争われない、どう見ても若殿様だ。立派なもんだ。どうして、お前さんのその不思議な左の目の瞳子に見覚がなかった日にゃあ、名告られたって本当に出来るもんじゃあない、その替り、こら、こんなに、"
],
[
"そうかい、体はそれで可いとした処で、お前さんのような御身分じゃあ、鎖を下ろした御門もあろうし、お次にはお茶坊主、宿直の武士というのが控えてる位なもんじゃあないか。よくこうやって夜一夜出歩かれるねえ。",
"何、そりゃおいら整然と旨くやってるから、大概内の奴あ、今時分は御寝なっていらっしゃると思ってるんだ。何から何まで邸の事をすっかり取締ってるなあ、守山てって、おいらを連れて来た爺さんだがね、難かしい顔をしてる割にゃあ解ってて、我儘をさしてくれらあね。",
"成程ね、華族様の内をすっかり預って、何のこたあない乞食からお前さんを拾上げたほどの人だから、そりゃお前さんを扱うこたあ、よく知っているんだろう。",
"ああ、ただもう家名を傷けないようにって、耳懊く言って聞かせるのよ。堅い奴だが、おいら嫌いじゃあねえ。"
],
[
"おいら何もこれを盗って、儲けようというんじゃあなし、ただ遊んで楽むんだあな。犬猫を殺すのも狩をするのも同一こッた。何、知れりゃ華族だ、無断に品物を取って来た、代価は幾干だ、好な程払ってやるまでの事じゃあねえか。",
"あんな気だから納まらないよ。ほんとに私もあの時分に心得違いをしていたから、見処のあるお前さん、立派な悪党に仕立ててみようと、そう思ったんだがね。滝さんお聞き、蛇がその累々した鱗を立てるのを見ると気味が悪いだろう、何さ、恐くはないまでも、可い心持はしないもんだ。蟻でも蠅でも、あれがお前、万と千と固っていてみな、厭なもんだ。松の皮でもこう重り重りして堆いのを見るとね、あんまり難有いもんじゃあない、景色の可い樹立でも、あんまり茂ると物凄いさ。私ゃもう疾にからそこへ気が着いて厭になって、今じゃ堅気になっているよ。ね、お前さん、厭な姿は、蛇が自分でも可い心持じゃあなかろうではないか。蚊でも蚤でも食ったのが、ぶつぶつ一面に並んでみな、自分の体でも打棄りたいやな。私ゃこうやってお前さんがここに盗んだものを並べてあるのを見ると、一々動くようで蛇の鱗だと思って、悚然とした。"
],
[
"滝さん、それでこそお前さんだ、ああ、富山じゃあ良い事をした、お庇様で発程栄がする。",
"お前、もうちっとこっちに居てくんねえな。おいら勝手に好な真似はしてるけれど、友達も何もありゃしないやな。本当は心細くッて、一向詰らないんだぜ。",
"気の弱いことをいうもんじゃあない、私はこれから加州へ行って、少し心当があるんだし、あそこへは先へ行って待合わせている者がある。そうしちゃあいられないんだから、また逢おうよ。そしてお前さんの話をして、仲間の者を喜ばせよう。何の、味方にしようと思えば、こっちのものなんざ皆味方さ。不残敵になったって難かしい事はないのだもの。"
],
[
"加州は百万石の城下だからまた面白い事もあろう、素晴しい事が始まったら風の便にお聞きなさいよ。それじゃあ、あの随分ねえ。",
"気をつけて行きねえ。",
"あい、",
"………",
"おさらばだよ。"
],
[
"はい、大抵持ちましょうと存じます。それとも急にこうやって雲が出て参りましたから、ふとすると石滝でお荒れ遊ばすかも分りません。",
"何だね、石滝でお荒れというのは。",
"それはあの、少しでも滝から先へ足踏をする者がございますと、暴風雨になるッて、昔から申しますのでございますが。"
],
[
"はあ、それが入ったのか。",
"さようでございます。その姉さんは貴方、こないだから、昼間参りましたり、晩方来ましたりいたしましては、この辺を胡乱々々して、行ったり来たりしていたのでございますがね。今日は七日目でございます。まさかそんなことはと存じておりますと、今朝ほどここの前を通りましてね、滝の方へ行ったきり帰りません、きっと入りましたのでございましょう。",
"何かね、全くそんな不思議な処かね。"
],
[
"それは可いが姉さん、心太を一ツ出しておくれな。",
"はい、はい。",
"待ちたまえ、いや、それともまた降られない内に帰るとするかね。",
"どういたしまして、降りませんでも、貴方川留でございますよ。"
],
[
"そうして何かい、ついぞまだそこへ行った者を見たことはないのか。",
"いいえ、私が生れましてから始めてでございますが、貴方どうでございましょう、つい少しばかり前にいらっしゃいました、太った乱暴な、書生さんが、何ですか、その姉さんがここへ参りましたことを御存じの様子で、どうだとお聞きなさいますから、それそれ申しますと、うむといったッきり駈出して、その方もまだお帰になりません。",
"え、そりゃ何か、目の丸い、",
"はい、お色の黒い、いがぐり天窓の。もうもう貴方のようじゃあございませんよ、おほほほ。"
],
[
"ちょッ、しようがないな。",
"貴方御存じの方なんですか。",
"うむ、何だよ、その娘の跡を跟けまわしてな、から厭がられ切ってる癖に、狂犬のような奴だ、来たかい! 弱ったな、どうも、汝一人で。",
"何でございます。",
"いえさ、連は無かったのか。"
],
[
"何、犬に食われて死にゃあ可いんだ。",
"だって、姉さんはお可哀そうじゃございませんか。",
"そりゃお互様よ。",
"あれ、お安くございませんのね。でも、あの、二度あることは三度とやら申しますから、今日の内また誰かお入りなさりはしまいかと言って、内の父様も案じておりますから、貴方またその姉さんをお助けなさろうの何のッて、あすこへいらっしゃるのはお止し遊ばしまし。",
"だが、その滝の傍までは行っても差支が無いそうじゃないか。",
"そこまでなら偶に行く人もございますが、貴方何しろ真暗だそうですよ。もうそこへ参りました者でも、帰ると熱を煩って、七日も十日も寝る人があるのでございます。",
"熱はお前さんを見て帰ったって同一だ、何暗いたッて日中よ、構やしない。きっとそこらにうろついているに違いない、ちょっと僕は。おい、姉さん帰りに寄ろう。",
"お気をお着け遊ばしていらっしゃいましよ。"
],
[
"おい、姉や。",
"はい、",
"水を一杯、冷いのを大急だ。島野、可い処でお前に逢ったい。おいら、お前ン処の義作の来るまで、あすこの柳にでも繋いでおこうと思ったんだけれど、お前が居りゃあ世話はねえ。この馬返すからな、四十物町まで持って行ってくんねえ、頼むぜ、おい。"
],
[
"そうよ。",
"一体その何でございますが、私はどうも一向馬の方は心得ませんもんですから。"
],
[
"へい、御用ですか。",
"お前、待合わせるものがあるッて、また別嬪じゃあねえか、花売のよ。"
],
[
"どちらへいらっしゃいます。",
"石滝よ。"
],
[
"兵粮だ、奥へ入って黒百合を取って来ようというんだから、日が暮れようも分らねえ。ひもじくなるとそいつを噛らあ、どうだ、お前、勇美さんに言いねえ、土産を持って行ってやるからッてよ。",
"途方もない、若様。それを取ろうッて、実はつい先刻だそうです。あの花売の女も石滝へ入ったんです。"
],
[
"どうしたって、あれでさ、お前様、私ゃ飛んでもねえどじを行ったで。へい、今朝旦那様をお役所へ送ってね、それからでさ、獣を引張って総曲輪まで帰って来ると、何に驚いたんだか、評判の榎があるって朝っぱらから化けもしめえに、畜生棹立になって、ヒイン、え、ヒインてんで。",
"暴れたかね。",
"あばれたにも何も、一体名代の代物でごぜえしょう、そいつがお前さん、盲目滅法界に飛出したんで、はっと思う途端に真俯向に転ったでさ。",
"おやおや、道理で額を擦剥いてら。"
],
[
"ふむ。",
"どうです、威勢が可いじゃがあせんか。突然畜生の前へ突立ったから、ほい、蹴飛ばされるまでもねえ、前足が揃って天窓の上を向うへ越すだろうと思うと、ひたりと留ったでさ。畜生、貧乏動をしやあがる腮の下へ、体を入れて透間がねえようにくッついて立つが早いか、ぽんと乗りの、しゃんしゃんさ。素人にゃあ出来やせん。義作、貸しねえ貸しねえてって例の我儘だから断りもされず、不断面倒臭くって困ったこともありましたっけが、先刻は真のこった、私ゃ手を合わせました。どうしてお前さんなんざ学者で先生だっていうけれど、からそんな時にゃあ腰を抜かすね。へい。何だって法律で馬にゃあ乗れませんや、どうでげす。",
"はい、お茶を一ツ。"
],
[
"おう、そんなもなあ、まだるッこしい。今に私ゃそこに湧いてるのに口をつけて干しちまうから打棄っておきねえ。はははは、ええ島野さん。おいらこれから石滝へ行くから、お前あとから取りに来ねえ、夕立はちょいと借りるぜって、そのまま乗出したもんだからね、そこいら中騒いでた徒に相済みませんを百万だら並べたんで。転んだ奴あ随分あったそうだけれど、大した怪我人もなし、持主が旦那様なんですから故障をいう奴もねえんで、そっちゃ安心をして追駈けて来ましたが、何は若様はどちらへ行ったんで。",
"じゃあ、その何だろう、馬騒ぎで血逆上がしたんだろう、本気じゃあないな。兵粮だって餡麺麭を捻込んで、石滝の奥へ、今の前橋を渡ったんだ、ちょうど一足違い位なもんだ。"
],
[
"おや、じゃああのお茶屋の姉さんかい。",
"はい、さようでございます。"
],
[
"それじゃ若衆さん。",
"おう、鍵屋だぜ。",
"あい、遣んねえ。"
],
[
"お嬢様。",
"へい、お道どん、御苦労だね。",
"おや、義作さん、ここに。"
],
[
"島野さんも来ていたの。",
"ええ、僕は大分久しい前からなんです。義作君はたった今、その馬が放れました一件で。",
"実は何でございます、飛んだ疎匆をいたしやして、へい。ねえ、お道どん、こういう訳なんだ、実は、",
"はあ、そりゃもう、路で聞きましたよ、飛んだことだったね、でもまあ可い塩梅に。",
"御家来さん、危うがしたな。"
],
[
"そうねえ。",
"ええ、もう私ゃ怪我なんぞ厭やしませんが、何、皆千破矢の若様のお庇なんで、へい。"
],
[
"お馬はあすこに居るじゃあないかね。",
"お嬢様、何ですか、その事でこちらへお越しなんですか。",
"何あのお雪のことなの。",
"姉さん、花売なんだがね、十八九でちょっとそういった風な女を見当りはしなかったかい。"
],
[
"お嬢様、どういたしましょう。",
"困ったね、少しお待ち、あの、お前だち誰も中の様子を知らないかい。",
"はい、ちっとも。",
"あの、少しも存じません。",
"それはもう誰も知ったものはござりますまい。"
],
[
"いえ、女ってえものは、またこれがその柔よく剛を制すといった形でね。喧嘩にも傍杖をくいません、それが証拠にゃあ御覧じろ、人ごみの中でもそんなに足を蹈つけられはしねえもんだ。",
"ちょいとお黙り。高慢なことをお言いでない、お嬢様がいらっしゃるよ。",
"ですからさ、そっちにお嬢様がいらっしゃりゃ、こっちにゃあまた滝公、へん、滝の野郎てえ豪傑がついてまさ。",
"あれだもの。",
"どうでえ阿魔、一言もあるめえ恐入ったか。",
"義作さん可加減におしな。お嬢様は御心配を遊ばしていらっしゃるんですよ。"
],
[
"旦那様、若衆様とお二方は、どうぞ私どもへお帰りを願いとう存じます。",
"そうだ、忘れ物もあるし後で寄るよ。",
"はい、お忘物はこちらへ持って参りましても宜しゅうございます。申兼ねますがどうぞいらっしゃって下さいまし、拝むんでございます、あの、後生になるのでございます。",
"可いじゃあないか、何も後にだってよ。"
],
[
"競争をしてるんでさ、評判なんで。おい、姉さん、御主人様がこちらへお褥が据るから、あきらめねえ、仕方がねえやな。いえさ、気の毒だ、私あ察するがね、まあ堪忍しなさい。",
"それでもどうぞ姫様にお願い遊ばして。",
"何をいうんですよ、馬鹿におしなさいねえ。"
],
[
"止してくれ、人、身体に手なんぞ懸けるのは、汚れますよ。",
"何を癩が。"
],
[
"二人とも聞きな、可いことを教えてあげよう、しょッちゅうそんなことをしていては、どちらにも好いことはないよ。こうおし、お前の処のお客は註文のあった食物をお前の処から持運ぶし、お前の処のお客はお前の店から持って行くことにして、そして一月がわりにするの。可いかい、怨みっこ無しに冥利の可い方が勝つんだよ。",
"おや、お嬢様、それでは客と食物を等分に、代り合っていたします。それでいてお茶代が別にあったり何かすると、どちらが何だか分らないで、怨はいつの間にか忘れてしまいましょう。なるほどその事たよ。さあ、二人とも、手を拍ったり。"
],
[
"小主公お久振でござりました、よく私の声にお覚えがござりますな。へい、貴方がお目の悪いことも、そのために此家の女が黒百合を取りに参りましたことも、早いもので、二日前のことだそうですが、もう市中で評判をいたしております。もっともことのついでに貴方のお噂がござりませんと、三年越お便は遊ばさず、どこに隠れてお在なさりますか、分りませんのでござりました。目がお見えなさらないというだけは不吉じゃあござりましたが、東京の方だというし、お年の比なり御様子なり、てっきり貴方に違いないと、直ぐこちらへ飛んで参り、向うのあの荒物屋で聞いてお尋ね申しました。小主公、何は措きまして御機嫌宜しく。",
"慶造、何につけても、お前達にもう逢いたくはなかったよ。"
],
[
"なぜでございます、目をお損いになりましたせいでござりますか。",
"むむ、何それもあるけれども、私が考で、家を売り、邸を売り、父様がいらっしゃる処も失くなしたし。",
"それは御心配ござりません、貴下が放蕩でというではなし、御望がおあり遊ばしたとはいえ、大旦那様が迷惑をお懸け遊ばした方々の債主へ、少しずつお分けになったのでござりますもの、拓はよくしたとおっしゃったのを、私が直に承わりましてござります。",
"そして今どこにいらっしゃるんだな。",
"へい、組合の方でお引取申しました。海でなり、陸でなり、一同旗上げをいたします迄はしばらくおかくれでござります。貴方もこういう処はお立退になって、それへ合体が宜しゅうござりましょう。ちょうどこの国へ参りがけに加州を通りまして、あすこであの白魚の姉御にも逢いました。",
"何、お兼に逢った、加賀といえばつい近所へ来ているのか。"
],
[
"ええ、",
"用意が出来たらいつでも来い、同志の者の迎なら、冥途からだって辞さないんだ。失敬なことをいう、盲人がどうした、ものを見るのが私の役か、いざといって船出をする時、船を動かすのは父上の役、錨を抜くのは慶造貴様の職だ。皆に食事をさせるのはお兼じゃあないか。水先案内もあるだろう、医者もあろう、船の行く処は誰が知ってる、私だ、目が見えないでも勝手な処へ指揮をしてやる、おい、星一ツない暗がりでも燈明台なんぞあてにするには及ばんから。"
],
[
"大旦那様はそんなにも有仰ゃりますまいが、貴方の御病気の様子を奥様がお聞きなすって御覧じろ、大旦那様の一件で気病でお亡り遊ばしたようなお優しい、お心弱い方がどんなにお歎きでござりましょう。今じゃあ仏様で、草葉の蔭から、かえって小主公をお守りなすっていらっしゃるんで、その可愛い貴方のためにそういう処へ参りました娘なら、地獄だって、魔所だって、きっとお守りなさいましょうから、御心配にゃあ及びますまい。望の黒百合の花を取ってやがて戻って参りましょうが、しかし打遣っちゃあおかれません、貴方に御内縁の嬢さんなら、私にゃ新夫人様。いや話は別で、そうかといって見ております訳ではござりません。殊に千破矢様というのがその後へおいでなすったという風説、白魚の姉御がいった若様なんで、味方の大将を見殺にはされません。もっとも直ぐにその日、一昨日でござりますな、少からぬ係合の知事様の嬢さんも、あすこの茶屋まで駈着けましたそうで。あれそれと小田原をやってる処へ、また竜川とかいう千破矢の家の家老が貴方、参ったんだそうで、御主人の安否は拙者がか何かで、昔取った杵柄だ、腕に覚えがありますから、こりゃ強うがす、覚悟をして石滝へ入ろうとすると、どうでございましょう。四五間しかないそうですが、泥水を装って川へ一時に推出して来た、見る間に杭を浸して、早や橋板の上へちょろちょろと瀬が着く騒。大変だという内に、水足が来て足を嘗めたっていうんです。それがために皆が一雪崩に、引返したっていいますが、もっとも何だそうで、その前から風が出て大降になりました様子でござりますな。",
"ああ、その事は昨日知事の内から、道とかいう女中が来て私にいった。ちょいちょい見舞ってくれるんだ、今日もつい前に帰ったから聞いているよ。",
"それからはまるで三日、富山中は真暗で、止むかと思うと滝のように降出します。いや神通が切れた、郷屋敷田圃の堤防が崩れた、牛の淵から桜木町へ突懸る、四十物町が少し引くかと思うと、総曲輪が湖だという。それに、間を置いちゃあ大雨ですから市中は戦です。壁が壊れたり、材木が流れたりしますんですが、幸いまだ家が流れる程じゃあないので、ちょうど石滝の方は橋が出たという噂ですから、どうにか路は歩行かれましょう。お目に懸って、いよいと貴方でございます日にゃあ、こっちの嬢さんは御主人なり、一方にゃあ姉御がいった若様もいらっしゃる。どうでございましょう、この辺は水は大丈夫でございますか、もしそれが心配だと貴方ばかりではお目の御不自由、と打遣っちゃあ参られませんが。",
"慶造、六十年近くもここに居る荒物屋の婆さんがいうんだ、水には大丈夫だそうだから、私には構わんでも可い。"
],
[
"送って来て下さいましたよ。",
"そして⁈",
"あの、お向の荒物屋に休んでいらっしゃいます。"
],
[
"あれ、若様、拓さんは、拓さんは目が見えません。",
"うむ、",
"助けて下さい、拓さんは目が見えません。",
"二人じゃあ不可ねえや、",
"内の人を、私の夫を。",
"おいら、お前でなくっちゃあ、"
],
[
"だって、汝の良人なら、おいらにゃあ敵だぜ。",
"私は死んでしまいます。"
]
] | 底本:「泉鏡花集成2」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年4月24日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第四巻」岩波書店
1941(昭和16)年12月25日第1刷発行
※底本の誤植は親本を参照して直しました。
入力:もんむー
校正:門田裕志
2005年3月16日作成
2007年9月6日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
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[
[
"それでは、あなた",
"よろしい"
],
[
"それではよろしゅうございますね",
"何かい、痲酔剤をかい",
"はい、手術の済みますまで、ちょっとの間でございますが、御寝なりませんと、いけませんそうです"
],
[
"それでは夫人、御療治ができません",
"はあ、できなくってもいいよ"
],
[
"あまり、無理をお謂やったら、姫を連れて来て見せるがいいの。疾くよくならんでどうするものか",
"はい",
"それでは御得心でございますか"
],
[
"わしにも、聞かされぬことなんか。え、奥",
"はい。だれにも聞かすことはなりません"
],
[
"何も痲酔剤を嗅いだからって、譫言を謂うという、極まったこともなさそうじゃの",
"いいえ、このくらい思っていれば、きっと謂いますに違いありません",
"そんな、また、無理を謂う",
"もう、御免くださいまし"
],
[
"お胸を少し切りますので、お動きあそばしちゃあ、危険でございます",
"なに、わたしゃ、じっとしている。動きゃあしないから、切っておくれ"
],
[
"刀を取る先生は、高峰様だろうね!",
"はい、外科科長です。いくら高峰様でも痛くなくお切り申すことはできません",
"いいよ、痛かあないよ",
"夫人、あなたの御病気はそんな手軽いのではありません。肉を殺いで、骨を削るのです。ちっとの間御辛抱なさい"
],
[
"そのことは存じております。でもちっともかまいません",
"あんまり大病なんで、どうかしおったと思われる"
],
[
"先生、このままでいいんですか",
"ああ、いいだろう",
"じゃあ、お押え申しましょう"
],
[
"痛みますか",
"いいえ、あなただから、あなただから"
],
[
"吉さん、今日はいいことをしたぜなあ",
"そうさね、たまにゃおまえの謂うことを聞くもいいかな、浅草へ行ってここへ来なかったろうもんなら、拝まれるんじゃなかったっけ",
"なにしろ、三人とも揃ってらあ、どれが桃やら桜やらだ",
"一人は丸髷じゃあないか",
"どのみちはや御相談になるんじゃなし、丸髷でも、束髪でも、ないししゃぐまでもなんでもいい",
"ところでと、あのふうじゃあ、ぜひ、高島田とくるところを、銀杏と出たなあどういう気だろう",
"銀杏、合点がいかぬかい",
"ええ、わりい洒落だ",
"なんでも、あなたがたがお忍びで、目立たぬようにという肚だ。ね、それ、まん中の水ぎわが立ってたろう。いま一人が影武者というのだ",
"そこでお召し物はなんと踏んだ",
"藤色と踏んだよ",
"え、藤色とばかりじゃ、本読みが納まらねえぜ。足下のようでもないじゃないか",
"眩くってうなだれたね、おのずと天窓が上がらなかった",
"そこで帯から下へ目をつけたろう",
"ばかをいわっし、もったいない。見しやそれとも分かぬ間だったよ。ああ残り惜しい",
"あのまた、歩行ぶりといったらなかったよ。ただもう、すうっとこう霞に乗って行くようだっけ。裾捌き、褄はずれなんということを、なるほどと見たは今日がはじめてよ。どうもお育ちがらはまた格別違ったもんだ。ありゃもう自然、天然と雲上になったんだな。どうして下界のやつばらが真似ようたってできるものか",
"ひどくいうな",
"ほんのこったがわっしゃそれご存じのとおり、北廓を三年が間、金毘羅様に断ったというもんだ。ところが、なんのこたあない。肌守りを懸けて、夜中に土堤を通ろうじゃあないか。罰のあたらないのが不思議さね。もうもう今日という今日は発心切った。あの醜婦どもどうするものか。見なさい、アレアレちらほらとこうそこいらに、赤いものがちらつくが、どうだ。まるでそら、芥塵か、蛆が蠢めいているように見えるじゃあないか。ばかばかしい",
"これはきびしいね",
"串戯じゃあない。あれ見な、やっぱりそれ、手があって、足で立って、着物も羽織もぞろりとお召しで、おんなじような蝙蝠傘で立ってるところは、憚りながらこれ人間の女だ。しかも女の新造だ。女の新造に違いはないが、今拝んだのと較べて、どうだい。まるでもって、くすぶって、なんといっていいか汚れ切っていらあ。あれでもおんなじ女だっさ、へん、聞いて呆れらい",
"おやおや、どうした大変なことを謂い出したぜ。しかし全くだよ。私もさ、今まではこう、ちょいとした女を見ると、ついそのなんだ。いっしょに歩くおまえにも、ずいぶん迷惑を懸けたっけが、今のを見てからもうもう胸がすっきりした。なんだかせいせいとする、以来女はふっつりだ",
"それじゃあ生涯ありつけまいぜ。源吉とやら、みずからは、とあの姫様が、言いそうもないからね",
"罰があたらあ、あてこともない",
"でも、あなたやあ、ときたらどうする",
"正直なところ、わっしは遁げるよ",
"足下もか",
"え、君は"
]
] | 底本:「高野聖」角川文庫、角川書店
1971(昭和46)年4月20日改版初版発行
1979(昭和54)年11月30日改版第14刷発行
入力:今中一時
校正:浜野 智
1998年8月6日作成
2012年10月2日修正
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "000360",
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"作品名読み": "げかしつ",
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[
[
"そうかい、何が通りました。",
"あのウ猪。"
],
[
"吹込みますから、お前もこっちへおいで、そんなにしていると、衣服が濡れますよ。",
"戸を閉めよう、母様、ね、ここん処の。",
"いいえ、そうしてあけておかないと、お客様が通っても橋銭を置いて行ってくれません。ずるいからね、引籠って誰も見ていないと、そそくさ通抜けてしまいますもの。"
],
[
"なぜだって、何なの、この間ねえ、先生が修身のお談話をしてね、人は何だから、世の中に一番えらいものだって、そういつたの。母様、違ってるわねえ。",
"むむ。",
"ねッ違ってるワ、母様。"
],
[
"だから僕、そういったんだ、いいえ、あの、先生、そうではないの。人も、猫も、犬も、それから熊も、皆おんなじ動物だって。",
"何とおっしゃったね。",
"馬鹿なことをおっしゃいって。",
"そうでしょう。それから、",
"それから、(だって、犬や、猫が、口を利きますか、ものをいいますか)ッて、そういうの。いいます。雀だってチッチッチッチッて、母様と、父様と、児と朋達と皆で、お談話をしてるじゃあありませんか。僕眠い時、うっとりしてる時なんぞは、耳ン処に来て、チッチッチて、何かいって聞かせますのッてそういうとね、(詰らない、そりゃ囀るんです。ものをいうのじゃあなくッて囀るの、だから何をいうんだか分りますまい)ッて聞いたよ。僕ね、あのウだってもね、先生、人だって、大勢で、皆が体操場で、てんでに何かいってるのを遠くン処で聞いていると、何をいってるのかちっとも分らないで、ざあざあッて流れてる川の音とおんなしで、僕分りませんもの。それから僕の内の橋の下を、あのウ舟漕いで行くのが何だか唄って行くけれど、何をいうんだかやっぱり鳥が声を大きくして長く引ぱって鳴いてるのと違いませんもの。ずッと川下の方で、ほうほうッて呼んでるのは、あれは、あの、人なんか、犬なんか、分りませんもの。雀だって、四十雀だって、軒だの、榎だのに留ってないで、僕と一所に坐って話したら皆分るんだけれど、離れてるから聞えませんの。だって、ソッとそばへ行って、僕、お談話しようと思うと、皆立っていってしまいますもの、でも、いまに大人になると、遠くで居ても分りますッて。小さい耳だから、沢山いろんな声が入らないのだって、母様が僕、あかさんであった時分からいいました。犬も猫も人間もおんなじだって。ねえ、母様、だねえ母様、いまに皆分るんだね。"
],
[
"ああ沢山。",
"じゃあその菊を見ようと思って学校へおいで。花はね、ものをいわないから耳に聞えないでも、そのかわり眼にはうつくしいよ。"
],
[
"蝙蝠なの、傘なの、あら、もう見えなくなったい、ほら、ね、流れッちまいました。",
"蝙蝠ですと。",
"ああ、落ッことしたの、可哀相に。"
],
[
"渡をお置きなさらんではいけません。",
"え、え、え。"
],
[
"ええ、こ、細いのがないんじゃから。",
"おつりを差上げましょう。"
],
[
"ああ。",
"ねえ、出かけたって可いの、晴れたんだもの。",
"可いけれど、廉や、お前またあんまりお猿にからかってはなりませんよ。そう可い塩梅にうつくしい羽の生えた姉さんがいつでもいるんじゃあありません。また落っこちようもんなら。"
]
] | 底本:「泉鏡花集成3」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年1月24日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第三巻」岩波書店
1941(昭和16)年12月25日第1刷発行
※疑問点の確認にあたっては、底本の親本を参照しました。
入力:門田裕志
校正:カエ
2003年8月30日作成
2005年3月1日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "004997",
"作品名": "化鳥",
"作品名読み": "けちょう",
"ソート用読み": "けちよう",
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"分類番号": "NDC 913",
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"名": "鏡花",
"姓読み": "いずみ",
"名読み": "きょうか",
"姓読みソート用": "いすみ",
"名読みソート用": "きようか",
"姓ローマ字": "Izumi",
"名ローマ字": "Kyoka",
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"底本名1": "泉鏡花集成3",
"底本出版社名1": "ちくま文庫、筑摩書房",
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"底本の親本名1": "鏡花全集 第三巻",
"底本の親本出版社名1": "岩波書店",
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[
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"さうかい、何が通りました。",
"あのウ猪。"
],
[
"吹込みますから、お前も此方へおいで、そんなにして居ると衣服が濡れますよ。",
"戸を閉めやう、母様、ね、こゝん処の。",
"いゝえ、さうしてあけて置かないと、お客様が通つても橋銭を置いて行つてくれません。づるいからね、引籠つて誰も見て居ないと、そゝくさ通抜けてしまひますもの。"
],
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"何故だつて、何なの、此間ねえ、先生が修身のお談話をしてね、人は何だから、世の中に一番えらいものだつて、さういつたの。母様違つてるわねえ。",
"むゝ。",
"ねツ違つてるワ、母様。"
],
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"だから僕、さういつたんだ、いゝえ、あの、先生、さうではないの。人も、猫も、犬も、それから熊も皆おんなじ動物だつて。",
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"馬鹿なことをおつしやいつて。",
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"それから、⦅だつて、犬や猫が、口を利きますか、ものをいひますか⦆ツて、さういふの。いひます。雀だつてチツチツチツチツて、母様と父様と、児と朋達と皆で、お談話をしてるじやあありませんか。僕眠い時、うつとりしてる時なんぞは、耳ン処に来て、チツチツチて、何かいつて聞かせますのツてさういふとね、⦅詰らない、そりや囀るんです。ものをいふのぢやあなくツて、囀るの、だから何をいふんだか分りますまい⦆ツて聞いたよ。僕ね、あのウだつてもね、先生、人だつて、大勢で、皆が体操場で、てんでに何かいつてるのを遠くン処で聞いて居ると、何をいつてるのか些少も分らないで、ざあ〳〵ツて流れてる川の音とおんなしで僕分りませんもの。それから僕の内の橋の下を、あのウ舟漕いで行くのが何だか唄つて行くけれど、何をいふんだかやつぱり鳥が声を大きくして長く引ぱつて鳴いてるのと違ひませんもの。ずツと川下の方でほう〳〵ツて呼んでるのは、あれは、あの、人なんか、犬なんか、分りませんもの。雀だつて、四十雀だつて、軒だの、榎だのに留まつてないで、僕と一所に坐つて話したら皆分るんだけれど、離れてるから聞こえませんの。だつてソツとそばへ行つて、僕、お談話しやうと思ふと、皆立つていつてしまひますもの、でも、いまに大人になると、遠くで居ても分りますツて、小さい耳だから、沢山いろんな声が入らないのだつて、母様が僕、あかさんであつた時分からいひました。犬も猫も人間もおんなじだつて。ねえ、母様、だねえ母様、いまに皆分るんだね。"
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"あゝ沢山。",
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],
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"蝙蝠なの、傘なの、あら、もう見えなくなつたい、ほら、ね、流れツちまひました。",
"蝙蝠ですと。",
"あゝ、落ツことしたの、可哀想に。"
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"渡をお置きなさらんではいけません。",
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"えゝ、こ、細いのがないんじやから。",
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"あゝ。",
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"可けれど、廉や、お前またあんまりお猿にからかつてはなりませんよ。さう、可塩梅にうつくしい羽の生へた姉さんが何時でもいるんぢやあありません。また落つこちやうもんなら。"
]
] | 底本:「短篇小説名作選」岡保生・榎本隆司 編、現代企画室
1982(昭和57)年4月15日第1刷発行
1984(昭和59)年3月15日第2刷
※文字づかい・仮名づかいの誤用・不統一、促音「っ」「ッ」の小書きの混在は底本のままとしました。
※「猪子《いぬしゝ》して[#「して」に「ママ」の注記]」は、底本では、「猪《いぬしゝ》子して[#「して」に「ママ」の注記]」となっていますが、初収録単行本「柳筥」では「猪《いぬしゝ》子にして」となっているため、上記のように改めました。
入力:土屋隆
校正:門田裕志
2003年4月10日作成
2013年2月1日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "004560",
"作品名": "化鳥",
"作品名読み": "けちょう",
"ソート用読み": "けちよう",
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"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
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"姓": "泉",
"名": "鏡花",
"姓読み": "いずみ",
"名読み": "きょうか",
"姓読みソート用": "いすみ",
"名読みソート用": "きようか",
"姓ローマ字": "Izumi",
"名ローマ字": "Kyoka",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1873-11-04",
"没年月日": "1939-09-07",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "短篇小説名作選",
"底本出版社名1": "現代企画室",
"底本初版発行年1": "1982(昭和57)年4月15日",
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"校正に使用した版1": "1984(昭和59)年3月15日第2刷",
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"入力者": "土屋隆",
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} |
[
[
"何だ、何だ。",
"あゝ、行つてるなあ。"
],
[
"うまく行るぜ。",
"真似をする処は、狐か、狸だらうぜ。それ、お前によく似て居らあ。",
"可厭。"
],
[
"感心――なか〳〵うまいがね、少し手が違つてるよ。……さん子さん、一寸唄つてお遣り。村方で真似をするのに、いゝ手本だ。……まうけさして貰つた礼心に、ちゃんとした処を教へてあげよう。置土産さ、さん子さん、お唄ひよ。",
"可厭、獺に。……気味が悪いわ、口うつしに成るぢやないの。"
],
[
"さあ、遣つて御覧よ。……鰌すくひさ。",
"ほゝゝ。"
],
[
"一寸、お遣りつたら。",
"ほゝゝ。",
"笑つてないでさ、可いかい。――鰌すくひの骨髄と言ふ処を教へるからよ。",
"あれ、私はな、鰌すくふのでござんせぬ。",
"おや、何をしてるんだね。",
"お月様の影を掬ひますの。"
],
[
"月影を……",
"あはゝ、などと言つて、此奴、色男と共稼ぎに汚穢取りの稽古で居やがる。"
],
[
"月を汲んで何にするんだ。",
"はあ、暗の夜の用心になあ。"
],
[
"俺たちは、その月を見に潟へ出るんだ。――一所に来なよ、御馳走も、うんとあらあ。",
"ほう、来るか〳〵、猫よりもおとなしい。いまのまに出世をするぜ、いゝ娘だ、いゝ娘だ。"
],
[
"旦那、此方だよ。……へい、其は流れ灌頂ではござりましねえ。昨日、盂蘭盆で川施餓鬼がござりましたでや。",
"流れ灌頂と兄弟分だ。",
"可厭だわねえ。",
"一蓮托生と、さあ、皆乗つたか。"
],
[
"船幽霊は大海のものだ。潟にはねえなあ。",
"あれば生擒つて銭儲けだ。"
],
[
"あら、きれい。",
"まあ、光るわねえ。"
],
[
"船頭さん〳〵。",
"お船頭々々。"
],
[
"苫があるで。",
"や、苫どころかい。",
"あれ、降つて来た、降つて来た。"
],
[
"真個だわ。",
"まつたくさ。"
],
[
"あゝ、うつかりして忘れて居ました。船へ置いて来た、取つて来ませう。",
"ついでに、重詰を願ひてえ。一升罎は攫つて来た。"
],
[
"お仏壇ぢや、お仏壇ぢや、お仏壇へ線香ぢや。",
"はい、取つて来ましたよ。"
],
[
"あれ。",
"可恐い、電。"
],
[
"しいツ。",
"此処だ……",
"先刻の処。"
],
[
"痛い。",
"痛い。",
"苦しい。",
"痛いよう。",
"苦しい。"
]
] | 底本:「日本幻想文学集成1 泉鏡花」国書刊行会
1991(平成3)年3月25日初版第1刷発行
1995(平成7)年10月9日初版第5刷発行
底本の親本:「泉鏡花全集」岩波書店
1940(昭和15)年発行
初出:「苦楽」
1924(大正13)年5月
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
※初出時の表題は「鰌すくひ」です。
入力:門田裕志
校正:川山隆
2009年5月10日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "048404",
"作品名": "光籃",
"作品名読み": "こうらん",
"ソート用読み": "こうらん",
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"原題": "",
"初出": "「苦楽」1924(大正13)年5月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2009-05-27T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-21T00:00:00",
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"名": "鏡花",
"姓読み": "いずみ",
"名読み": "きょうか",
"姓読みソート用": "いすみ",
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"姓ローマ字": "Izumi",
"名ローマ字": "Kyoka",
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"生年月日": "1873-11-04",
"没年月日": "1939-09-07",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "日本幻想文学集成1 泉鏡花",
"底本出版社名1": "国書刊行会",
"底本初版発行年1": "1991(平成3)年3月25日",
"入力に使用した版1": "1995(平成7)年10月9日初版第5刷",
"校正に使用した版1": "1991(平成3)年3月25日初版第1刷",
"底本の親本名1": "泉鏡花全集",
"底本の親本出版社名1": "岩波書店",
"底本の親本初版発行年1": "1940(昭和15)年 ",
"底本名2": "",
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} |
[
[
"袖か、",
"お厭?",
"そんな事を、しなくッても可い。",
"可かあありませんよ、冷えるもの。",
"可いよ。"
],
[
"あい。",
"…………",
"さあ、",
"…………",
"邪慳だねえ。",
"…………",
"ええ!、要らなきゃ止せ。"
],
[
"お柳、",
"え、",
"およそ世の中にお前位なことを、私にするものはない。"
]
] | 底本:「化鳥・三尺角」岩波文庫、岩波書店
2013(平成25)年11月15日第1刷発行
2015(平成27)年5月15日第2刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第四卷」岩波書店
1941(昭和16)年3月15日
初出:「小天地 第一巻第八号」
1901(明治34)年6月10日
※表題は底本では、「木精《こだま》(三尺角拾遺)」となっています。
※初出時の表題は「木精」です。
入力:日根敏晶
校正:門田裕志
2016年6月13日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "057476",
"作品名": "木精(三尺角拾遺)",
"作品名読み": "こだま(さんじゃくかくしゅうい)",
"ソート用読み": "こたまさんしやくかくしゆうい",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「小天地 第一巻第八号」1901(明治34)年6月10日",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2016-07-01T00:00:00",
"最終更新日": "2018-08-11T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card57476.html",
"人物ID": "000050",
"姓": "泉",
"名": "鏡花",
"姓読み": "いずみ",
"名読み": "きょうか",
"姓読みソート用": "いすみ",
"名読みソート用": "きようか",
"姓ローマ字": "Izumi",
"名ローマ字": "Kyoka",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1873-11-04",
"没年月日": "1939-09-07",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "化鳥・三尺角 他六篇",
"底本出版社名1": "岩波文庫、岩波書店",
"底本初版発行年1": "2013(平成25)年11月15日",
"入力に使用した版1": "2015(平成27)年5月15日第2刷",
"校正に使用した版1": "2013(平成25)年11月15日第1刷",
"底本の親本名1": "鏡花全集 第四卷",
"底本の親本出版社名1": "岩波書店",
"底本の親本初版発行年1": "1941(昭和16)年3月15日",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "日根敏晶",
"校正者": "門田裕志",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/57476_ruby_59419.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2016-06-13T00:00:00",
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"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"その柿かね。へい、食べられましない。",
"はあ?",
"まだ渋が抜けねえだでね。",
"はあ、ではいつ頃食べられます。"
],
[
"早うて、……来月の今頃だあねえ。",
"成程。"
],
[
"お邪魔をしました。",
"よう、おいで。"
],
[
"お幾干。",
"分りませんなあ。",
"誰かに聞いてくれませんか。"
],
[
"誰も今居らんのでね……",
"じゃあ帰途に上げましょう。じきそこの宿に泊ったものです。",
"へい、大きに――"
],
[
"ああ、かっぱ。",
"ほほほ。"
],
[
"あの、川に居ります可恐いのではありませんの、雨の降る時にな、これから着ますな、あの色に似ておりますから。",
"そんで幾干やな。"
],
[
"そうですな、これでな、十銭下さいまし。",
"どえらい事や。"
],
[
"高いがな高いがな――三銭や、えっと気張って。……三銭が相当や。",
"まあ、",
"三銭にさっせえよ。――お前もな、青草ものの商売や。お客から祝儀とか貰うようには行かんぞな。",
"でも、"
],
[
"ほっといてお通りなさいますと、ひとりでに離れます。",
"随分居るね、……これは何と言う虫なんだね。",
"東京には居りませんの。",
"いや、雨上りの日当りには、鉢前などに出はするがね。こんなに居やしないようだ。よくも気をつけはしないけれど、……(しょうじょう)よりもっと小さくって煙のようだね。……またここにも一団になっている。何と言う虫だろう。",
"太郎虫と言いますか、米搗虫と言うんですか、どっちかでございましょう。小さな児が、この虫を見ますとな、旦那さん……"
],
[
"小さな児が、この虫を見ると?……",
"あの……",
"どうするんです。",
"唄をうとうて囃しますの。",
"何と言って……その唄は?",
"極が悪うございますわ。……(太郎は米搗き、次郎は夕な、夕な。)……薄暮合には、よけい沢山飛びますの。"
],
[
"ほんとうに太郎と言います、太郎ですよ。――姉さんの名は?……",
"…………",
"姉さんの名は?……"
],
[
"いいえ、実盛塚へは――行こうかどうしようかと思っているので、……実はおたずね申しましたのは。",
"ほん、ほん、それでは、これじゃろうの。"
],
[
"見事な鯉ですね。",
"いやいや、これは鮒じゃわい。さて鮒じゃがの……姉さんと連立たっせえた、こなたの様子で見ればや。"
],
[
"この魚は強いぞ。……心配をさっしゃるな。",
"お爺さん、失礼ですが、水と山と違いました。"
],
[
"茸だの、松露だのをちっとばかり取りたいのですが、霜こしなんぞは、どの辺にあるでしょう。御存じはありませんか。",
"ほん、ほん。"
],
[
"茸――松露――それなら探さねば爺にかて分らぬがいやい。おはは、姉さんは土地の人じゃ。若いぱっちりとした目は、爺などより明かじゃ。よう探いてもらわっしゃい。",
"これはお隙づいえ、失礼しました。",
"いや、何の嵩高な……",
"御免。",
"静にござれい。――よう遊べ。",
"どうかしたか、――姉さん、どうした。",
"ああ、可恐い。……勿体ないようで、ありがたいようで、ああ、可恐うございましたわ。",
"…………",
"いまのは、山のお稲荷様か、潟の竜神様でおいでなさいましょう。風のない、うららかな、こんな時にはな、よくこの辺をおあるきなさいますそうですから。"
],
[
"しかし、様子は、霜こしの黄茸が化けて出たようだったぜ。",
"あれ、もったいない。……旦那さん、あなた……"
],
[
"わ、何じゃい、これは。",
"霜こし、黄い茸。……あはは、こんなばば蕈を、何の事じゃい。",
"何が松露や。ほれ、こりゃ、破ると、中が真黒けで、うじゃうじゃと蛆のような筋のある(狐の睾丸)じゃがいの。",
"旦那、眉毛に唾なとつけっしゃれい。",
"えろう、女狐に魅まれたなあ。",
"これ、この合羽占地茸はな、野郎の鼻毛が伸びたのじゃぞいな。"
],
[
"私が方には、ほりたての芋が残った。旦那が見たら蛸じゃろね。",
"背中を一つ、ぶん撲って進じようか。",
"ばば茸持って、おお穢や。",
"それを食べたら、肥料桶が、早桶になって即死じゃぞの、ぺッぺッぺッ。"
],
[
"ああ、ありました。",
"おお、あった。あった。"
],
[
"旦那さん、早く、あなた、ここへ、ここへ。",
"や、先刻見た、かっぱだね。かっぱ占地茸……",
"一つですから、一本占地茸とも言いますの。"
],
[
"松露よ、松露よ、――旦那さん。",
"素晴しいぞ。"
],
[
"飯蛸より、これは、海月に似ている、山の海月だね。",
"ほんになあ。"
],
[
"旦那、眉毛を濡らさんかねえ。",
"この狐。"
],
[
"また出て、魅しくさるずらえ。",
"真昼間だけでも遠慮せいてや。",
"女の狐の癖にして、睾丸をつかませたは可笑なや、あはははは。",
"そこが化けたのや。",
"おお、可恐やの。",
"やあ、旦那、松露なと、黄茸なと、ほんものを売ってやろかね。",
"たかい銭で買わっせえ。"
],
[
"いや、前髪をよくお見せ。――ちょっと手を触って、当てて御覧、大したものだ。",
"ええ。"
],
[
"旦那さん――堪忍して……あの道々、あなたがお幼い時のお話もうかがいます。――真のあなたのお頼みですのに、どうぞしてと思っても、一つだって見つかりません……嘘と知っていて、そんな茸をあげました。余り欲しゅうございましたので、私にも、私にかってほんとうの茸に見えたんですもの。……お恥かしい身体ですが、お言のまま、あの、お宿までもお供して……もしその茸をめしあがるんなら、きっとお毒味を先へして、血を吐くつもりでおりました。生命がけでだましました。……堪忍して下さいまし。",
"何を言うんだ、飛んでもない。――さ、ちょっと、自分の手でその松葉をさして御覧。……それは容子が何とも言えない、よく似合う。よ。頼むから。"
],
[
"後生だから。",
"はい、……あの、こうでございますか。",
"上手だ。自分でも髪を結えるね。ああ、よく似合う。さあ、見て御覧。何だ、袖に映したって、映るものかね。ここは引汐か、水が動く。――こっちが可い。あの松影の澄んだ処が。",
"ああ、御免なさい。堪忍して……映すと狐になりますから。",
"私が請合う、大丈夫だ。",
"まあ。",
"ね、そのままの細い翡翠じゃあないか。琅玕の珠だよ。――小松山の神さんか、竜神が、姉さんへのたまものなんだよ。"
],
[
"いや、松葉が光る、白金に相違ない。",
"ええ。旦那さんのお情は、翡翠です、白金です……でも、私はだんだんに、……あれ、口が裂けて。",
"ええ。",
"目が釣上って……",
"馬鹿な事を。――蕈で嘘を吐いたのが狐なら、松葉でだました私は狸だ。――狸だ。……"
]
] | 底本:「泉鏡花集成7」ちくま文庫、筑摩書房
1995(平成7)年12月4日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第二十二巻」岩波書店
1940(昭和15)年11月20日第1刷発行
入力:門田裕志
校正:今井忠夫
2003年8月31日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "003551",
"作品名": "小春の狐",
"作品名読み": "こはるのきつね",
"ソート用読み": "こはるのきつね",
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"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2003-09-10T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-18T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card3551.html",
"人物ID": "000050",
"姓": "泉",
"名": "鏡花",
"姓読み": "いずみ",
"名読み": "きょうか",
"姓読みソート用": "いすみ",
"名読みソート用": "きようか",
"姓ローマ字": "Izumi",
"名ローマ字": "Kyoka",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1873-11-04",
"没年月日": "1939-09-07",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "泉鏡花集成7",
"底本出版社名1": "ちくま文庫、筑摩書房",
"底本初版発行年1": "1995(平成7)年12月4日",
"入力に使用した版1": "1995(平成7)年12月4日第1刷",
"校正に使用した版1": "",
"底本の親本名1": "鏡花全集 第二十二巻",
"底本の親本出版社名1": "岩波書店",
"底本の親本初版発行年1": "1940(昭和15)年11月20日",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
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"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "門田裕志",
"校正者": "今井忠夫",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/3551_ruby_12121.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2003-08-31T00:00:00",
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"XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2003-08-31T00:00:00",
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"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"で、ございますから、どうぞ蝋燭はお点し下さいませんように。",
"さようか。"
],
[
"就きましては、真に申兼ねましたが、その蝋燭でございます。",
"蝋燭は分ったであす。"
],
[
"御都合じゃからお蝋は上げぬようにと言うのじゃ。御随意であす。何か、代物を所持なさらんで、一挺、お蝋が借りたいとでも言わるる事か、それも御随意であす。じゃが、もう時分も遅いでな。",
"いいえ、"
],
[
"何でございます、その、さような次第ではございません。それでございますから、申しにくいのでございますが、思召を持ちまして、お蝋を一挺、お貸し下さる事にはなりますまいでございましょうか。",
"じゃから、じゃから御随意であす。じゃが時刻も遅いでな、……見なさる通り、燈明をしめしておるが、それともに点けるであすか。",
"それがでございます。"
],
[
"どこへ行くかい。",
"ええ、宅へ帰りますでございます。",
"家はどこだ。",
"市ヶ谷田町でございます。",
"名は何てんだ、……"
],
[
"こう言うとな、大概生意気な奴は、名を聞くんなら、自分から名告れと、手数を掛けるのがお極りだ。……俺はな、お前の名を聞いても、自分で名告るには及ばない身分のもんだ、可いか。その筋の刑事だ。分ったか。",
"ええ、旦那でいらっしゃいますか。"
],
[
"御苦労様でございます。",
"むむ、御苦労様か。……だがな、余計な事を言わんでも可い。名を言わんかい。何てんだ、と聞いてるんじゃないか。",
"進藤延一と申します。",
"何だ、進藤延一、へい、変に学問をしたような、ハイカラな名じゃねえか。"
],
[
"欣八、抜かるな。",
"合点だ。"
],
[
"何?大分いけますね……とおいでなさると、お酌が附いて飲んでるようだが、酒はもう沢山だ。この上は女さね。ええ、どうだい、生酔本性違わずで、間違の無い事を言うだろう。",
"何ならお供をいたしましょう、ええ、旦那。",
"お供だ? どこへ。",
"お馴染様でございまさあね。"
],
[
"大木戸から向って左側でございます、へい。",
"さては電車路を突切ったな。そのまま引返せば可いものを、何の気で渡った知らん。"
],
[
"ああ、待ったり。",
"燃えます、旦那、提灯を乱暴しちゃ不可ません。",
"貸しなよ、もう一服吸附けるんだ。",
"燐寸を上げまさあね。",
"味が違います……酔覚めの煙草は蝋燭の火で喫むと極ったもんだ。……だが……心意気があるなら、鼻紙を引裂いて、行燈の火を燃して取って、長羅宇でつけてくれるか。"
],
[
"車夫。",
"何ですえ。",
"……宿に、桔梗屋と云うのがあるかい、――どこだね。"
],
[
"若い衆、",
"らっしゃい!",
"遊ぶぜ。"
],
[
"振らないのを頼みます。雨具を持たないお客だよ。",
"ちゃんとな、"
],
[
"わあ、助けてくれ。",
"お前さん、可い御機嫌で。"
],
[
"お馴染様は、何方様で……へへへ、つい、お見外れ申しましてございまして、へい。",
"馴染はないよ。",
"御串戯を。",
"まったくだ。",
"では、その、へへへ、",
"何が可笑しい。",
"いえ、その、お古い処を……お馴染効でございまして、ちょっとお見立てなさいまし。"
],
[
"そいつは嫌いだ。",
"もし、野暮なようだが、またお慰み。日比谷で見合と申すのではございません。",
"飛んだ見違えだぜ、気取るものか。一ツ大野暮に我輩、此家のおいらんに望みがある。",
"お名ざしで?",
"悪いか。",
"結構ですとも、お古い処を、お馴染効でございまして。……"
],
[
"若い衆、註文というのは、お照しだよ。",
"へい、",
"内に、居るだろう。",
"お照しが居りますえ?"
],
[
"何も秘します事はございません、ですが御覧の通り、当場所も疾の以前から、かように電燈になりました。……ひきつけの遊君にお見違えはございません。別して、貴客様なぞ、お目が高くっていらっしゃいます、へい、えッへへへへ。もっとも、その、ちとあちらへ、となりまして、お望みとありますれば、",
"だから、望みだから、お照しを出せよ。",
"それは、お照しなり、行燈なり、いかようともいたしますんで、とにかく、……夜も更けております事、遊君の処を、お早く、どうぞ。"
],
[
"白露さん、……お初会だよ。",
"へーい。"
],
[
"旦那こちらへ、……ちょうどお座敷がございます。",
"待て、"
],
[
"大目に見てやら。ね、早い話が。僕は帰るよ、気にしなさんな。",
"ええ、いや、私の方で、気にしない次第には参りません。"
],
[
"欣八、気を附けねえ。",
"顔色が変だぜ。"
]
] | 底本:「泉鏡花集成6」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年3月21日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第十五卷」岩波書店
1940(昭和15)年9月20日発行
入力:門田裕志
校正:高柳典子
2007年2月11日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "003654",
"作品名": "菎蒻本",
"作品名読み": "こんにゃくぼん",
"ソート用読み": "こんにやくほん",
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"文字遣い種別": "新字新仮名",
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"公開日": "2007-03-28T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-21T00:00:00",
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"姓読み": "いずみ",
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"姓読みソート用": "いすみ",
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"姓ローマ字": "Izumi",
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"底本の親本名1": "鏡花全集 第十五卷",
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[
[
"ほほほ、何をいってるのさ。",
"何がよ。"
],
[
"ねえ、親方に聞いて見てくんねえ、出来そうなもんだなあ。雁もどきッて、ほら、種々なものが入った油揚があらあ、銀杏だの、椎茸だの、あれだ、あの中へ、え、肴を入れて交ぜッこにするてえことあ不可ねえのかなあ。",
"そりゃ、お前さん。まあ、可いやね、聞いて見て置きましょうよ。",
"ああ、聞いて見てくんねえ、真個に肴ッ気が無くッちゃあ、台なし身体が弱るッていうんだもの。",
"何故父上は腥をお食りじゃあないのだね。"
],
[
"左様なんかねえ、年紀の故もあろう、一ツは気分だね、お前さん、そんなに厭がるものを無理に食べさせない方が可いよ、心持を悪くすりゃ身体のたしにもなんにもならないわねえ。",
"でも痩せるようだから心配だもの。気が着かないようにして食べさせりゃ、胸を悪くすることもなかろうからなあ、いまの豆腐の何よ。ソレ、"
],
[
"おかみさん、大威張だ。",
"あばよ。"
],
[
"更科お柳さん、",
"手前どもでございます。"
]
] | 底本:「化鳥・三尺角 他六篇」岩波文庫、岩波書店
2013(平成25)年11月15日第1刷発行
2015(平成27)年5月15日第2刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第四巻」岩波書店
1941(昭和16)年3月15日
初出:「新小説 第四年第一巻」
1899(明治32)年1月1日
※表題は底本では、「三尺角《さんじゃくかく》」となっています。
入力:日根敏晶
校正:門田裕志
2016年6月18日作成
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"作品ID": "057477",
"作品名": "三尺角",
"作品名読み": "さんじゃくかく",
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"原題": "",
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"姓読み": "いずみ",
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[
[
"ほゝゝ、何をいつてるのさ。",
"何がよ。"
],
[
"ねえ、親方に聞いて見てくんねえ、出來さうなもんだなあ。雁もどきツて、ほら、種々なものが入つた油揚があらあ、銀杏だの、椎茸だの、あれだ、あの中へ、え、肴を入れて交ぜツこにするてえことあ不可ねえのかなあ。",
"そりや、お前さん。まあ、可いやね、聞いて見て置きませうよ。",
"あゝ、聞いて見てくんねえ、眞個に肴ツ氣が無くツちやあ、臺なし身體が弱るツていふんだもの。",
"何故父上は腥をお食りぢやあないのだね。"
],
[
"左樣なんかねえ、年紀の故もあらう、一ツは氣分だね、お前さん、そんなに厭がるものを無理に食べさせない方が可いよ、心持を惡くすりや身體のたしにもなんにもならないわねえ。",
"でも痩せるやうだから心配だもの。氣が着かないやうにして食べさせりや、胸を惡くすることもなからうからなあ、いまの豆腐の何よ。ソレ、"
],
[
"おかみさん、大威張だ。",
"あばよ。"
],
[
"更科お柳さん、",
"手前どもでございます。"
]
] | 底本:「鏡花全集 第四巻」岩波書店
1941(昭和16)年3月15日第1刷発行
1986(昭和61)年12月3日第3刷発行
※「!」の後の全角スペースの有り無しは底本通りにしました。
入力:門田裕志
校正:小林繁雄
2003年11月11日作成
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"作品ID": "004739",
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"姓読み": "いずみ",
"名読み": "きょうか",
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[
[
"袖か、",
"お厭?",
"そんな事を、しなくツても可い。",
"可かあありませんよ、冷えるもの。",
"可いよ。"
],
[
"あい。",
"…………",
"さあ、",
"…………",
"邪慳だねえ。",
"…………",
"えゝ!、要らなきや止せ。"
],
[
"お柳、",
"え、",
"およそ世の中にお前位なことを、私にするものはない。"
]
] | 底本:「鏡花全集 第四巻」岩波書店
1941(昭和16)年3月15日第1刷発行
1986(昭和61)年12月3日第3刷発行
入力:門田裕志
校正:小林繁雄
2003年11月11日作成
2011年3月22日修正
青空文庫作成ファイル:
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| {
"作品ID": "004740",
"作品名": "三尺角拾遺",
"作品名読み": "さんじゃくかくしゅうい",
"ソート用読み": "さんしやくかくしゆうい",
"副題": "(木精)",
"副題読み": "(もくせい)",
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"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "旧字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2003-11-23T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-18T00:00:00",
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"人物ID": "000050",
"姓": "泉",
"名": "鏡花",
"姓読み": "いずみ",
"名読み": "きょうか",
"姓読みソート用": "いすみ",
"名読みソート用": "きようか",
"姓ローマ字": "Izumi",
"名ローマ字": "Kyoka",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1873-11-04",
"没年月日": "1939-09-07",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "鏡花全集 第四巻",
"底本出版社名1": "岩波書店",
"底本初版発行年1": "1941(昭和16)年3月15日",
"入力に使用した版1": "1986(昭和61)年12月3日第3刷",
"校正に使用した版1": "1986(昭和61)年12月3日第3刷",
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"入力者": "門田裕志",
"校正者": "小林繁雄",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/4740_ruby_13831.zip",
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[
[
"親が大病だか、友だちが急病だか、知れたもんですか。……君たちのやうに言つちや、何か、然も怪しい所へでも出掛けるやうだね。",
"へゝゝ、"
],
[
"其が分ればこそ申すのなり、あの人も言へと言ひます……當てますか、私が。……知つても大事ない。明けて爾々とお言ひなされ。お前樣は婦に逢ひに行く、",
"…………"
],
[
"な、消えて居りませう……けれども、お前樣から、坂の上の方へ算へまして、其の何臺目かの瓦斯が一つ、まだ燈が點いて居らねばなりませぬ。……見えますか。",
"見える……"
],
[
"三い……四う……確に五本目……",
"でありませうな。",
"何うしたと云ふんです。",
"お前樣、此の暗夜に、われらの形、崖の樣子、消えた瓦斯燈の見えますのも、皆其の一つの影なので。然もない事には、鼻を撮まれたとて分りませぬが。"
],
[
"一體、其が何うしたんです。",
"然れば……其の五基目に一ツ殘りました灯の下に、何か見えはいたしませぬか。",
"何が、"
],
[
"何か、居はいたしませぬか。",
"何にも、何にも居らん。",
"居りませぬか。",
"居ない。",
"居ないが定に成りませぬ。お前樣が其處までお運びなさりますれば、必ず出ます。……それ故に、お留め申すのでありまして、まあ、お聞きなさりまし。"
]
] | 底本:「鏡花全集 巻十四」岩波書店
1942(昭和17)年3月10日第1刷発行
1987(昭和62)年10月2日第3刷発行
初出:「中央公論 第二十七年第四號」
1912(明治45)年4月
※「聞《き》き」と「訊《き》き」、「悚然《ぞつ》と」と「慄然《ぞつ》と」、「云《い》ふ」と「言《い》ふ」、「處《ところ》」と「所《ところ》」、「尤《もつと》も」と「道理《もつとも》」、「闇夜《やみ》」と「暗夜《やみ》」と「闇《やみ》」、「乳《ちゝ》」と「乳房《ちゝ》」、「生命《いのち》」と「命《いのち》」、「一《ひと》つ」と「一《ひと》ツ」、「二《ふた》つ」と「二《ふた》ツ」、「裸身《はだか》」と「裸《はだか》」、「歴然《あり/\》」と「歴々《あり/\》」、「其《そ》の時《とき》」と「爾時《そのとき》」、「目《め》」と「眼《め》」、「些《ちつ》と」と「些《ち》と」、「呪詛《のろは》れ」と「呪詛《のろ》はれ」の混在は底本通りです。
※「私」に対するルビの「わたし」と「われら」と「わし」と「み」、「誰」に対するルビの「たれ」と「だれ」、「婦」に対するルビの「をんな」と「をなご」、「乳房」に対するルビの「ちぶさ」と「ちゝ」、「燈」に対するルビの「あかり」と「ともしび」、「電」に対するルビの「いなびかり」と「いなづま」、「掌」に対するルビの「たなごころ」と「たなそこ」と「てのひら」、「首」に対するルビの「かうべ」と「くび」、「矢張」に対するルビの「やつぱ」と「やは」、の混在は底本通りです。
※初出時の表題は「靄」です。
入力:門田裕志
校正:室谷きわ
2022年10月31日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "004577",
"作品名": "三人の盲の話",
"作品名読み": "さんにんのめくらのはなし",
"ソート用読み": "さんにんのめくらのはなし",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「中央公論 第二十七年第四號」1912(明治45)年4月",
"分類番号": "",
"文字遣い種別": "旧字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2022-11-04T00:00:00",
"最終更新日": "2022-10-31T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card4577.html",
"人物ID": "000050",
"姓": "泉",
"名": "鏡花",
"姓読み": "いずみ",
"名読み": "きょうか",
"姓読みソート用": "いすみ",
"名読みソート用": "きようか",
"姓ローマ字": "Izumi",
"名ローマ字": "Kyoka",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1873-11-04",
"没年月日": "1939-09-07",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "鏡花全集 巻十四",
"底本出版社名1": "岩波書店",
"底本初版発行年1": "1942(昭和17)年3月10日",
"入力に使用した版1": "1987(昭和62)年10月2日第3刷",
"校正に使用した版1": "1974(昭和49)年12月2日第2刷",
"底本の親本名1": "",
"底本の親本出版社名1": "",
"底本の親本初版発行年1": "",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "門田裕志",
"校正者": "室谷きわ",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/4577_ruby_76473.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2022-10-31T00:00:00",
"テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"テキストファイル文字集合": "JIS X 0208",
"テキストファイル修正回数": "0",
"XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/4577_76509.html",
"XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2022-10-31T00:00:00",
"XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"珍しくはないがよく怠惰けるなあ。",
"何、今度ばかしゃ仲間の寄でさ、少々その苦情事なんでして、",
"喧嘩か。",
"いいえ、組合の外に新床が出来たんで、どうのこうのって、何でも可いじゃあがあせんか、お客様は御勝手な処へいらっしゃるんだ。一軒殖えりゃそいつが食って行くだけ、皆が一杯ずつお飯の食分が減るように周章てやあがって、時々なんです、いさくさは絶えやせん。",
"それじゃあ口でも利かされたのかね。",
"ならび大名の方なんでさ。",
"それに何も二日かかることはないじゃないか。"
],
[
"だっておい四度素帰をしたぜ、串戯じゃあない。ほんとうに中洲からお運び遊ばすんじゃあ、間に橋一個、お大抵ではございませんよ。",
"おや、母親がいった通り。"
],
[
"おっとまず黙ってあとを聞くことさ。さよう米の値は知らせねえが、そのかわり〆高で言訳をさせますか。",
"違えねえね。",
"黙れ! 手前が何だ、まあお聞きなさいまし、先生。"
],
[
"どうでございます、この私に意見をしてくれろッて、涙を流して頼みましたぜ、この愛的の母親が、およそ江戸市中広しといえども、私が口から小可愧くもなく意見が出来ようというなあ、その役介者ばかりでさ、昔だと賭場の上へ裸でひッくり返ろうという奴なんで、",
"何を、詰らねえ、",
"いいえ賭博は遣りません、賭博は感心に遣りませんが、それも何幾干かありゃきっとはじめるんでさ。それに女にかからずね、もっともまあ、かかり合をつけようたッて、先様が取合わねえんですからその方も心配はありませんが、飲むんです。この年紀で何と三升酒を被りますぜ、可恐しい。そうしちゃあ管を巻いて往来でひッくり返りまさ、病だね。愛、手前その病気だけは治さないと不可えぜと、私あこれでも偶にゃあ親身になっていうんです、すると何と、殺されても恨まないから五合買っとくんなさい、とこうでしょう、言種が癪に障るじゃありませんか。"
],
[
"酷いなあ、親方。",
"まあそういった形よ、人情は同一だから、",
"何が人情、"
],
[
"私にゃ素直だから可愛いんですがね。どうだこう改って言われちゃあ余り見ッとも好いこッちゃあるめえ、ちっと気をつけるが可いぜ、え、愛的。",
"可いやさ、罷違えばという覚があるから世の中を何とも思わんだろう、中々可い腕があるんだっていうじゃあないか。片腕ッていう処だが、紋床の役介者は親方の両腕だ、身に染みて遣りゃ余所行の天窓を頼まれるッて言っていたものがあるよ、どうだい。"
],
[
"妙だな、お前また腹が立って為様がないから、そこで身体を寝かしていたろう。",
"親方、茶かさずにさ、全くだね、私あ何だ、演劇でする敵ッてものはちょうどこんなものだろうと思いますぜ、ほんとうに親の敵。",
"可い気なことを言ってらあ、お前母親は死んでやしねえじゃないか、父爺の敵なら中気だろう、それとも母親なら、愛的、お前がその当の敵だい。",
"何だってね。",
"苦労をさせるからよ。",
"気が早いや親方、誰も権太左衛門に母親が斬られたとは言やしません、私あ親の敵と思う位、小癪に障る奴が出来たッていうんです。",
"はてな。",
"それでね、出来るものならふん捕えて畜生撲殺してやろうと思って、こう胸ッくそが悪くッて、じっとしていられねえんで、まったくでさ、ふらふらして歩行いたんで。",
"待ちねえ、おい、お前感心だな、ははあ解ったい、そうするとお前は大望のある身体だ、その敵討をしようという。"
],
[
"ちっと組合違いの人間でさ。",
"ふむ、船頭か。",
"いいえ。",
"馬士か。",
"詰らねえ。",
"まさか乳母どんじゃあるめえな。"
],
[
"可し可し、私が聞こう、どうしたんだ。",
"先生、聞いておくんなさるかい、難有え、こりゃ先生だとなほわかりが早い、対手はね、先生なんざ御存じじゃありませんか、歌の師匠ですよ。"
],
[
"ああ、中洲の清元の。なるほどこいつあ大望だ、親の敵より大事に違えねえ、しかし飛んだ気になったぜ、愛、お前ありゃあ不可えや、まるで組合が違ってらあ。",
"何がえ、親方。",
"お津賀さんのことだろう。",
"ありゃ、師匠じゃありませんか。",
"唄の師匠よ。",
"何を、私なあ味噌一漉てえやつなんです。",
"味噌一漉? ああ三十一文字か。"
],
[
"先生、貴客知っていらっしゃりやしませんか、その三十一文字の野郎てえのを、",
"何というね、そしてどこの、",
"居る処は根岸なんで、",
"根岸か、",
"へい、根岸の加茂川亘ッてんです。"
],
[
"有名な先生だ、歌の、そうそう。書も能くお書きになるぜ。",
"知ッてますよ、手習師匠兼業の奴なんで、媽々が西洋の音楽とやらを教えて、その婆がまた、小笠原礼法躾方、活花、茶の湯を商う、何でもごたごた娘子の好な者を商法にするッていいます。"
],
[
"馬鹿なことを言え、罰の当った、根岸の加茂川と来た日にゃあ、歌の先生でも皆が御前々々と言う位なもんだ。宴会のあった時、出ていた芸妓が加茂川さんちょいとと言ったら、売女風情が御前を捉えて加茂川さん、朋友でも呼ぶように失礼だ、と言って、そのまま座敷を構われた位な勢よ。高位高官の貴夫人令嬢方、解らなけりゃ、上ツ方の奥様姫様方、大勢お弟子があるッさ、場末の荒物屋と一所にされて耐るもんか、途方もない。",
"何でも、馬車だの腕車だのが門に込合ってるッて謂いますね。",
"そうだろうとも。",
"何だか知らねえが癪に障るッたらないんです。"
],
[
"おい、その方が敵かい。",
"お前また妙な敵を持ったもんだな、金と女なら私だって殺してえほど怨があらあ、先の中洲の清元の師匠の口だと、私も片棒担ぐんだが、困ったな歌の先生じゃあ。お前どうした、狙ったか、"
],
[
"あいや、敵討のお武家、ちとお話が反れましたようですが、加茂川が何か君に恥辱でも与えたというのかい、",
"そうです、恥を掻かしやがったんで、対手は女ですよ。",
"何、女に恥辱を、待て、質の好くない奴だ。"
],
[
"御免下さいまし。",
"はい。"
],
[
"いかがでございましょうか、お友達、御当家先生様にお目通が出来ますでございましょうか。",
"貴方はどちらから、",
"ええ、手前事は、ええ何でございまして、そのあれでございますよ。",
"はい、"
],
[
"いえ、手前がその勝山と申すんじゃあございませんので、",
"ははあ、",
"御当家先生様の、ええ、お弟子でございまして、その勝山と申しますお嬢さんからちょいと頼まれました、手前使の者でございます、少々お目に懸りとうございますが、お宅でいらっしゃいましょうか、お友達、お取次を願いとう存じますんで、へい。"
],
[
"さようでございます、へい。",
"御親類の方ですかね。"
],
[
"これはどうも、手前不束ものでございます、へい、実は奥様にはお目に懸ってよく御礼をと申しつけられましたものでございますから。ええ、何でございましょうか、奥様はお邸でいらっしゃいましょうか。",
"はあ、居りますが。"
],
[
"面会日は別にあるです。",
"へい?",
"あれが皆様に別に面会しますのは水曜の午後です。",
"水曜の午後でございますか。"
],
[
"ですが、何も別してお手間は取らせません、ちょいといかがでございましょう。",
"誰にも皆そういうことになっておるですから、",
"へい、ごもっとも様ですが、そこン処をそのお繰合せ下さいまして。"
],
[
"その勝山から託りましたので、奥様にもお目にかかって御挨拶を。",
"はあ、何、それなれば別にお会い下さるにも及びませんですよ、私から申聞けましょう。そして遠い処をわざわざおいで下さるにも及ばんでした、貴方御苦労でしたな、宜しくどうぞ、ちとこれから出懸けんければならんですから。"
],
[
"ああ、こういうことをなすっては可けません、そのために、ちゃんと月謝をお入れになることにしてあります。",
"さようおっしゃりましてはお可愧しゅうございます、誠にお麁末で、どうぞ差置かれまし。"
],
[
"無法者め!",
"いよ。お婆々、聞えます聞えます、"
],
[
"あれ、",
"遁げるない、どうだ、謂うことを肯かねえか、応といやあ夫婦になるぜ。"
],
[
"狂人だ。",
"うむ狂人じゃ、巡査に引渡すが可いじゃろ。"
],
[
"ですが先生、下司は下司で、この羽織を着た窮屈さッたらありませんでしたぜ、私あ思いますが、この上に袴でも穿いた日にゃ、たって獄舎の苦みでさ。",
"それでもよくお前ごまかしたな。"
],
[
"沢山おあがり、どうだね。",
"済みません、どうも五千疋御散財をかけました上に御羽織を拝借、その上御馳走でございます。ほんとうに先生は、金主と作者と、衣裳方と、振つけと、御見物とかねて下さるんだ、本雨の立廻りか、せめてのことに疵でもつけるんでなくっちゃあ御贔屓効がねえんですが、山が小せえんだね、愛宕の石段を上るほどもないんですからね、",
"だって、ちょいとでも煽がせて来たら可いだろう、仕返しはそれだけで十分さ、私も勝山というその婦の様子を聞いてさぞ心外だったろうと思ったから。一体風のよくない御公家でな、しみったれに取りたがる評判の対手だから、ついお前の話に乗ってお茶番を仕組んで上げたようなものの、これが道理から言って見なさい、師匠と親は無理な者と思えと、世間じゃあいうんだよ。弟子にお客を煽がした位、手近な物を取ってくれも同然さ。癪に障ったの、口惜いのと、怪しからん心得違いだと、かえってお前さん達の方を言い落さなけりゃならない訳だよ。"
],
[
"お待ち下さい、待っておくんなさいまし。ええと、先生、こうです。何だってその、あの毛唐人奴等、勝山のお嬢さん、今じゃあ柳屋の姉さんだ、それでも柳橋葭町あたりで、今の田圃の源之助だの、前の田之助に肖ているのさえ、何の不足があるか、お夏さんが通るのを見ると、大騒動をやりますぜ。柳屋のお夏さんとはいわないで、お夏さんの柳屋、お夏さんの柳屋ッて、花がるたを買いに来まさ。何だ畜生、上野の下あたりに潜ってやあがって、歌読も凄まじい、糸瓜とも思うんじゃあねえ。茄子を食ってる蟋蟀野郎の癖に、百文なみに扱いやあがって、お姫様を煽げ、べらぼうめ。あの、先生、ここなんですがね、理窟は私あ分ってます、お夏さんは、うまれつき団扇ッてものは人を煽ぐものだッてことはかいきし知っちゃあいないんです。",
"うむ、まず。"
],
[
"おかしゅうございましょう、先生、檜舞台の立女形と私等みたような涼み芝居の三下が知己ッてのも凄じいんですが、失礼御免で、まあ横ずわりにでもなって、口を利くのには仔細がなくッちゃあなりませんとも。",
"成程、ありそうな仔細だよ。まず飲んで、ふむ。"
],
[
"私もついうっかり遣っちゃったんで、はっと思うと、",
"うむ、",
"ちょうど代診さんの方へ呼ばれたから遁げ込みました。"
],
[
"へい、そういう訳でもないんですがね。",
"それじゃあ手術台に肌脱の、俗にそれあられもないという処を見られたのが御縁になったか、但しちっとどうもおかしいな。",
"何、そういうわけでもないんですがね。",
"何しろ、汝の方からゆすり込んだものと私は思うな。",
"先生御串戯を、勿論あれです、お夏さんは華族てえと大嫌です。私が心も同一だ、癬は汚えに違いません、ですが、それがどうということはありませんよ。それからね、素肌を気にして腋の下をすぼめるような筋のゆるんでる娘さんじゃアありませんや。けれども私が出入をするようになったのは、こちらから泣附いたんです、へい。",
"手を合せて、拝みます、と口説いたか。",
"どういたし、……手前御慮外は申しません、泣ついたのは母親でさ。",
"ははあ、紋三郎がいったように、いつも酒の方の意見の義だろう。",
"いいえ、その時は生命にかかわります一件。",
"おや、お前それでも酒の他にかかわることがあるだろうか。"
],
[
"大層感じたな。",
"まったくですから。",
"じゃあ何か、華族様へ御無礼を申したとあって、お差紙でも着いたのかい。"
],
[
"まあ、お聞きなさいまし。上口の突尖の処、隅の方に、ばさばさした銀杏返、前髪が膝に押つくように俯向いて、畳に手をついてこう、横ずわりになって、折曲げている小さな足の踵から甲へかけて、ぎりぎり繃帯をしていました、綿銘仙の垢じみた袷に、緋勝な唐縮緬と黒の打合せの帯、こいつを後生大事に〆めて、",
"大分悉しいじゃないか。",
"私だって先生、唐縮緬と繻子ぐらいは知ってますぜ。",
"幾干か出せ、こりゃ恐ろしい。"
],
[
"へへへへ、先の縁日の晩のは、全くこっちが悪かったんでさ。落度はあったって口惜いにゃ口惜いでしょう、先生、子曰はよして聞いて下さい、可うございますか。",
"可いさ、可いさ。"
],
[
"何だい、それは、",
"私の母親でございます。",
"それだもの。"
],
[
"飛んだ頂きまして、もう御免を蒙ります。",
"一所に出ようか、そこいらまで同じ向だ。"
],
[
"え、もし。",
"さようでございますね、",
"どうでしょう、"
],
[
"ねえ、おい、",
"どうだろう、",
"そうさな。"
],
[
"構わず談じようじゃあねえか、十五番地の差配さんだと、昔気質だから可いんだけれども、町内の御差配はいけねえや。羽織袴で杖を持とうという柄だもの、かわって謂ってくれねえから困るよな。",
"むむ、だが何しろ打棄っちゃあ置かれめえ。",
"もし、確に不可ますまいね。"
],
[
"されば宜しくござりません、昔から申すことで、何しろ湯屋で鐘の音を聞くのさえ忌むとしてござります。",
"そして詰る処、何に障るんですね。",
"いえはじまりは地震かと思うてびくびくしていたんで、暑さが酷かったもんだからね。それという時の要心だ、私どもじゃ、媽々にいいつけて、毎晩水瓶の蓋を取って置きました。",
"へい、火事ならまあ、蓋を取る内も早いが可いというんでしょうが、地震に水瓶の蓋を取って置くはおかしいね。",
"理詰じゃあねえんでさ、まずいわばお禁厭さ。安政の時に家中やられたのが、たった一人、面くらって水瓶の中へ飛込んだ奴が、不思議に助かったと謂いますからね、よくよく運だ、あやかるだけでも可うございましょう。",
"お待ちなさい、して見ると鉄さん。",
"ええ。",
"お前さんがこの頃また毎晩色ものの寄席へ行くのはやっぱりそこらの地震除から割出したもんだね。",
"何故、何故、ええ御隠居。",
"麹町の人だがね、同一その安政年度に、十五人の家内でたった一人寄席へ行っていて助かったものがありますわい。",
"ざまあ見やがれ、俺が寄席へ行くのを愚図々々吐しやがって、鉄さんだってお所帯持だ、心なくッて欠厘でも贅な銭を使うものかい、地震除だあ、おたふくめ、",
"おや、それじゃあ地震よけに、いつも寄席に行って、お前一人助かる気かい。",
"何だと。"
],
[
"やい、じゃあ汝あどうだ、この間鉄砲汁をやッつけた時一箸も食やしめえ。命取だ。恐しいといって身震をしやあがって、コン畜生、その癖俺にゃあ三杯と啜らせやがって、鍋底をまた装りつけたろう、どうだ、やい、もう不可ねえだろう。勿体ない打棄った処で犬だって困るだろうと謂ったじゃあねえか、犬だって困るよ、命取をよ、亭主が食ってるのを見て汝一人助かりゃ可いのかい、やい、七面鳥。",
"東西!",
"さあお家の乱れだ。",
"さてはこの前兆かッ。"
],
[
"もし何でございます。",
"牝鶏のあしたすると言うて、牝鶏が差し出るからよ。",
"ええ、牝鶏があしたなら構いませんが、こうやって頭を集めているのは、柳屋の雄鶏が宵啼をするからでございますぜ。",
"うう成程、雄鶏だっけの。",
"御串戯、",
"これはやられた。",
"皆様笑いごとじゃアありませんぜ、火に障るっていうのじゃアありませんか、ねえ御隠居。",
"されば……謂うて。",
"御隠居さんなんざ歯に障りましょうね、柳屋のは軍鶏だから。",
"誰だ、交ぜるない、嘉吉が処の母親さえ、水天宮様へ日参をするという騒だ。尋常事じゃあねえ、第一また万に一つ何事もないにした処が、心持が悪いじゃあねえか、宵啼なんて厭なものだ、ほんとうにどうにかしようじゃあねえか。",
"どうするッて、殺しっちまえば可いんでしょう。",
"そうだとよ。",
"それはもう禍の根を断つのだから、宵啼をする鶏は殺すものとしてあるわさ。",
"そこで、",
"謂ったってあの女が肯くものか、どうして可愛がることといったら、"
],
[
"だから差配さんに懸合ってもらってよ。",
"その差配さんが今謂う杖だ。"
],
[
"交番々々。",
"馬鹿をいえ、杖でさえ不可ねえものが、洋刀で始末におえるかい。構うこたあない、皆で押懸けて行ってあの軍鶏を引奪くッてしまうとするだ。",
"大勢でか、ちと変だな。",
"何さ、対手がどうというんじゃあないが、一人や二人ではさすがに話しにくいて。",
"気の毒なり、可哀相でもあり、",
"まあ、何にしろ困ったものだ、今夜にも宵啼が留みさえすりゃ、ああもこうもないんだけれど、留まなきゃあ、事のねえ内よ、気の毒だが仕方がねえ。"
],
[
"火事じゃ、火事じゃ。",
"あれ。"
],
[
"どうです、御承知だろうね、町内じゃあお前さんの家が第一新顔だから、何かその辺にものでもあるように思われては迷惑、可うごすかい、分りましたろう。",
"軍鶏を寄越せって謂うんですか。",
"さようさ。",
"連れてってどうなさるの。",
"占めるんでえ、殺っちまうんでえ。"
],
[
"不可ませんわ。",
"不可ねえと!",
"まあまあまあ、静かに言っても分ることだ。もし、不可ませんなんてそう平気でいられちゃあ困るじゃあごわせんか。一体、母様に懸合う筈なんだけれど、御病人だからお前さんだ、見なすったろう、嘉吉さん許のなんざ、あの騒。"
],
[
"ですから御免なさいまし。",
"あやまるの、あやまらないのというような岡ったるいこっちゃあないんだというに、困っちまうな。"
],
[
"何、",
"何、何たあ、何たあ何だい、経師屋の旦那に向って、何たあ何だい、そんな口は軍鶏に利け。",
"はい、軍鶏の方が、お前さん方より余程いうことが分りますよ。",
"皆様。"
],
[
"エ、",
"さようさ。"
],
[
"何をするのよ。",
"いや、どうもしねえ、そン畜生を渡せてえんだい。",
"これ。",
"厭ですよ。",
"厭? 一人前の男に向って、そんな我儘な挨拶があるものか。",
"分らなけりゃ分らないで、可いから町内の交際というものを教えてやろう。",
"姉さん、虫の薬だ、我慢しな。"
],
[
"お嬢さん。",
"愛吉か。"
],
[
"……七銭三厘、二銭、五銭、十五銭、一銭、二十五銭、三十銭、可いかい。",
"へい、可うございます。"
],
[
"十銭、十八銭、四十銭、五十八銭。",
"旨えもんですぜ。",
"こんなに遅く読むのを置くのじゃあないか、ちっとも旨いことはありゃしない。",
"いいえさ、商もこうなりゃ、占めたものだというんでさ。"
],
[
"おっと! と。",
"またかい。",
"大概可うがすがね。",
"算用が大概じゃあ困るからね、また遣損なったんでしょう。",
"ええと、今何でさ、合せてなんて、余計なことを言いなすった時、拇で引懸けて、上が下りて一ツ飛んで入りましたっけ。はてな、"
],
[
"さあ、",
"しっかりおやんなさい。"
],
[
"それから二十八銭也。",
"ああ、"
],
[
"お嬢さん、貴女は手習はからっぺただっていうんですが、この字は細くって綺麗ですね。",
"ああ。",
"おっと、また二十四銭也。"
],
[
"ちらちらするね、きっと飲んでおいでだよ。",
"おっと、八銭也。"
],
[
"ああ、",
"どうも一ツ一ツ、ああと返事をなさっちゃあ、その間にぽつぽつ、私なんざ及びッこなし、旨いものです。"
],
[
"母様。",
"おお、いいえ、来るに及びません、勘定をしておいでか。"
],
[
"御苦労だの。",
"母様、今夜は愛吉が来てくれまして、種々あの交ぜかえしたり、下手な算盤を置いたり、間違ったことをいったりしますから、おもしろくッて可うございますよ。"
],
[
"その、何でございまして、へい。",
"佃島のは達者かい。",
"ええ阿母でございますか、ええ、ぴんぴんいたしております。ええ毎日のようにもお伺い申し上げませんければなりませんと、いつでもそう申しちゃあね、済まないッて言いますんでございますが、ああして一人で店を行っておりますし、それにこの頃じゃあ、度々上ると、お夏様が気を揉んでお構い遊ばして、却ってお邪魔だからと、こんなに申しまして、へい。",
"そうかい、お前がちょいちょい来てくれるんだもの。佃島からは大変だ、今度逢ったら宜しくと申してくんなよ。",
"難有うございます、私はどうもちっとも御用にゃ立ちませんで、ほんのもうお嬢様の癇癪、"
],
[
"お夏や。",
"母様。",
"先刻うとうとしていると、戸外が大分騒がしかったようだっけ、"
],
[
"そうら。",
"何? あれは。"
],
[
"そうかい、飛んだこッたね、そしてどうなりました。",
"火事だ火事だといって表町の方へ駆出して行きましたっけ、しばらくすると角の交番のお巡査さんが連れて戻りましたよ。"
],
[
"愛吉、",
"ええ、"
],
[
"始終すやすやしていらっしゃる、先刻もよく寐ていなすった様だっけ。",
"それであの煙管などを持出して、ほんとうにあれを揮舞すつもりでございましたか。"
],
[
"途方もねえ。",
"私にだって一人や二人は打てようじゃあないか。",
"飛んでもねえ。"
],
[
"不可いかしら?",
"不可いたって、可いたって、そんな身体で、あの中へ揉込まれて、串戯じゃアありませんぜ。髪の毛でもつかまったらどうします。",
"まあ、",
"ええ?"
],
[
"だから私がいつでも言うんじゃございませんか、荒いことは軍鶏と私とで引受ますッて。ですから私におっしゃるまで、我慢をしていなさらなけりゃ不可ません、まったくですよ。御新造様がどんなに心配をなさるか知れません、可うがすかい。",
"それでも打棄って置くと殺されるじゃあないか、鶏を寄越せって謂うんだもの。",
"そりゃもう。いえ、済んだ事は仕方がありませんが、これからもあることです、これからの事ですよ。だって先刻も私が来合せましたから宜かったようなものの、どうして立至った場合なら、貴女一人で叶いっこがありますか。どうせ叶わねえので見りゃ、怪我なんぞなさらない方が割方でございましょう、威張ったって婦人だ、何をし得るもんですか。ねえ、",
"はい、さようでございますよ。"
],
[
"愛吉、",
"へい。",
"私が来たから可いようなもののと、お言いだがね。",
"ええ、さようさ。"
],
[
"はてね。",
"私は巡査さんが見えたからそれで助かったと思いますよ。",
"や、成程。",
"どうだい。",
"へへへへへへ、一言もござなく、……"
],
[
"ですがね、お嬢さん。",
"ああ。",
"私も深川のお宅へ泣込んで参りました時のように、いつも弱くばかしはございませんぜ。あの頃は何でもこう二三人とは謂いませんや、一人でも向うへ廻して、わッというと、"
],
[
"もう目がくらみました。何、どんな目に合おうかと危険だから塞ぐんで、卑怯に生命が惜いと思うんじゃありませんけれども、さぞ痛かろうと、あらづもりをするんでさ。",
"まあ、",
"もっとも、何ですか、一寸さきは分らないといった工合で、からだらしがありませんでしたが、段々馴れて来てお前さん、この頃じゃあ、立身になりましょうと、喧嘩の虫が声を懸ると、それから明るくなりますぜ。そら拳固だ、どッこい足蹴だ、おっとその手を食うものか、その内に一人つんのめるね、ざまあ見やがれと、一々合点が出来ますだろう。どうです、強くなった証拠ですぜ。親方も言いましたっけ、撲りあいに目を塞がないようになりゃ、喧嘩流の折紙だって、もうちっと年紀を取って功を積んで来ると、極意皆伝奥許と相成ります。へ、",
"おやおやそうすると。",
"喧嘩をしませんとさ。",
"何、",
"極意皆伝奥許というのは喧嘩をしない事ですとさ、何のこッた詰らない。"
],
[
"ほんとうに詰らない、",
"いえ、ところが私にゃあ不可ません、お嬢さんなんざ何でも分っていなさるんだから、はじめから幾らも皆伝になられます、荒っぽい気をお出しなすっちゃあ不可ませんぜ。",
"ああ、だからお前も喧嘩の話はおよし、お前の話というときっと喧嘩の事だよ。"
],
[
"ト、おもしろい談? 鯰が許のかのお米が身の上……ありゃ確もう御存じでございましたね。",
"ああ、二三度聞いたよ、可哀相だわ、おもしろくはないよ。",
"さてと、困ったな、喧嘩が禁制となって酔払いがお気に入らずとあっては、前座種切れだ。"
],
[
"へい、何でございます。",
"いずれ何か。"
],
[
"吻々々々、",
"ほんとうに度胸を据えました、いえ、大したことじゃありません。何か化けて出る因縁があるに相違ないと思いましたからね、思い切って聞いて試ようと、さあ、事が極ると日の暮れるのが待遠いよう。"
],
[
"それッきり逢わなかったの。",
"ええ、もう木賃の方へ逃げました。",
"惜しいことをしたねえ、何かお前に頼みごとでもあったんじゃあないか、それでなくってもまた来た時を待っていて、分を聞けば可かったのにね。"
],
[
"幾歳、",
"十八九で、",
"一昨年のことだって、",
"一昨年でございますよ。",
"一昨年十八九、私と同一年ぐらいだねえ?"
],
[
"愛吉、ちょいとお見せな、手を。",
"へい、"
],
[
"お嬢様、それじゃあこれをお記念に頂きましょう。",
"え。"
],
[
"愛吉!",
"いいえ、分ってます。誰も知りませんが、これを、いって聞かしたのは、竹永丹平という、新聞社の探訪員。"
]
] | 底本:「泉鏡花集成9」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年6月24日第1刷
底本の親本:「鏡花全集 第六卷」岩波書店
1941(昭和16)年11月10日第1刷発行
初出:「大阪毎日新聞」
1900(明治33)年8月9日~9月27日
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2012年3月5日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "048400",
"作品名": "三枚続",
"作品名読み": "さんまいつづき",
"ソート用読み": "さんまいつつき",
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"初出": "「大阪毎日新聞」1900(明治33)年8月9日~9月27日",
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"公開日": "2012-04-08T00:00:00",
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[
[
"御免なさいな、私は、あの、この家のものじゃないんですよ。",
"へ、何、お邸のお嬢様ではいらっしゃいません?",
"貴下、不可いんですかねえ、私もやっぱり見に来たものなの。"
],
[
"誰? おや、床屋さん、",
"へへへへへ、どうも晩くなりまして済みません、親方がそう申しました、ええ、何だもんですから、つい、客がございましたもんですから、"
],
[
"可塩梅に帰りましたね。",
"誰さ。",
"今来やがった野郎でさ。"
],
[
"何、町内の若い衆かい。",
"じゃ、おかみさん、こっちじゃ御存じないんですか。",
"見た事もない人さ、でもお嬢さんはどうだか。",
"へい、何てって来やがったんで。",
"ええ、御免下さいまし、こちら様のお嬢様はお内ですかッていったがね。"
],
[
"おかみさん、頂きます。",
"まずいよ、私ンだから。",
"どういたしまして、へい、後にまた来ますッて。"
],
[
"悪いの何の! から、手のつけられた代物じゃないんですよ。",
"ゆするの?",
"いいえ、ゆするも、ゆすらないも、飲んだくれ、酒ッ癖の悪い、持て余しものなんでさ。私どもの社会ですがね。",
"おや、やっぱり、床屋さん。",
"床屋にも何にも、下町じゃ何てますか、山手じゃ、皆が火の玉の愛吉ッていいましてね、険難な野郎でさ。"
],
[
"お互ッて、じゃ今来た愛吉ッてのもちょいちょい盗るの。",
"いずれ、そりゃね。",
"気味が悪いね、じろりと様子を見ていずれ後程、は気障じゃないか。",
"ですからね、何ですよ、気をおつけなさらなくッちゃ不可ません、この頃は恐ろしく、さがり切っていやあがるんでさ。"
],
[
"お前さん、とうとう小火です。",
"ね、行ったろう、"
],
[
"夜中の事で。江戸川縁に植えたのと違って、町の青柳と桜木は、間が離れておりますから、この辺じゃ別に騒ぎはしませんでしたが、ついこの月はじめの事ですよ。",
"私ゃもうぼけてしまって物わすれをするからね、確には覚えていないが、お待ちよ、そういや、お湯屋でちらりと聞いたようにも思うね。",
"は、何しろ居まわり大騒動。"
],
[
"何、また何でさ、私どもが、しばらく見張っていてお上げ申しても宜いんでさ。いよいよとなりますりゃ、内にゃ、親方も、今日はどこへも出ないでいるんで、",
"いいえね。"
],
[
"へい、気になりますかね、何ぞ……",
"どうもね。心配なのさ、こうやってお前、私がおもりをしている方はね、妙に火に祟られていなさるのさ、いえね、丙午の年でも何でもおあんなさりやしないけれど、私が心でそう思うの、二度までも焼け出されておいでなさるんだからね、",
"どこで、へい?"
],
[
"じゃ、お内のお嬢さんは柳屋さんというんですね、屋号ですね、お門札の山下お賤さんというのが、では御本名で。",
"いいえさ、そりゃ私の名だあね。"
],
[
"へへへ、そりゃ何、そりゃそうですが、じゃお嬢さんは何とおっしゃるんでございますね。",
"お夏さんさ。",
"お夏さん?",
"婀娜な佳いお名だろう。",
"すると姓は何とおっしゃるんで、柳屋は、何でしょう絵草紙屋をなすった時の屋号でしょう。で、何ですか、焼け出されなすってから、そこで、まあ御娼売、"
],
[
"お前、何をいうんだね。",
"だって、おかみさんは何でしょう、弁天町に居たんでしょう。山手だってそのくらいな事は心得てるものがありますぜ、ちゃんと探索が届いてまさ。"
],
[
"ああ、そうさ、私は、そうさ。ちっとね、お客さまをお送り申していたんだがね。落ちたといっちゃ勿体ない、悪所から根を抜いて、お庇さまでこうやって、おもりをしているんだがね。お嬢さんが、洲崎になんぞ、お前、そんなことを噯に出したって済まないよ。素の堅気でいらっしゃらあね。",
"ですからさ、皆が不思議だッていってるんで。いずれこうちょいちょいこのお二階へいらっしゃる方があるッてのは、そりゃ分っていますけれど、どうもそのお嬢さんの御身分が分りませんが、ええ、おかみさん。"
],
[
"こりゃお前さん、お銭にするね。",
"え、",
"旨く手繰って聞き出したら、天丼でも御馳走になるんだろう。厭だよ、どこの誰に憚って秘すッということはないけれども、そりゃ不可いや。",
"嘘々々、"
],
[
"放火よ。",
"や!"
],
[
"堪えて下さい、堪えたまえ、愛吉さん、愛吉さん、",
"堪えた、堪えたとも。こう私アな、生れてから今日ッて今日ほどものを堪えたことはねえんだ。ははははは、"
],
[
"へ、へ、堪えて大概聞いていたんだ。お友達、おい、お友達、汝が口で饒舌った事を、もしか、一言でも忘れたらな、私に聞きねえ、けちりんも残らずおさらいをして見せてやらい。こん、畜生、",
"苦ッ",
"あれ、お前さん方、そこで喧嘩をしちゃ困りますよ。"
],
[
"蚯蚓野郎、ありッたけ、腹の泥を吐いッちまえ。",
"う、"
],
[
"よく来たことねえ、愛吉、",
"へい、",
"逢いたかったわ!"
],
[
"お傘を、お嬢様。",
"あいよ、"
],
[
"じゃ、親方、",
"む、"
],
[
"こりゃ、酷いや、",
"おや、お世話様でございますね。"
],
[
"御苦労様。",
"お持ちなすったものはこれッきりかね。"
],
[
"酷いや、お嬢様、見っともねえや。こんなものをさして歩行いて、こりゃ、貴女ンですかい。",
"可いじゃないか。"
],
[
"だって、お嬢様、見ッともないや、",
"可いよ。",
"日、日傘をさしてお歩行きなさいな、深張でなくってもです。",
"人が笑いますよ。",
"誰が? え、何奴が笑うんで、"
],
[
"威張ったって不可ません、",
"それだって、馬鹿ンつら。",
"でもさ、",
"何故、お嬢様、",
"笑う人はね、お前より強いんだもの。喧嘩をしたって負けますよ。"
],
[
"お入りなね、何をしてるの、愛吉、お入ンな、さあ、",
"お前さんお入ンなさいましとさ。"
],
[
"ほんとうになまけもんで仕ようがないの、",
"お、",
"酔ッぱらっちゃ喧嘩するが商売なの。",
"お嬢、",
"その癖弱いのよ。",
"お嬢さん、"
],
[
"でも虫が知らせたんだよ。愛吉、お前のお庇で、そうやってさ、もうちっとで車が引くりかえりそうになりました。",
"済みませんでございます。"
],
[
"人を馬鹿にしていらっしゃら、",
"先刻一度来たんだって、",
"ええ、つい、その、"
],
[
"ですから、何でさ、日傘をおさしなさりゃ可いというんじゃありませんか。",
"愛吉、笑うというのにね、"
],
[
"おばさんは通用ッていうの。",
"どうかしたんでございますか。"
],
[
"何、お前さん、晩の支度もあるんですよ。",
"おばさん、私が行きましょうか。",
"御串戯ばかり、",
"だって私のお客ですもの、酒屋へなんぞお気の毒です。",
"飛んだことをおっしゃいまし、――先生様も貴女のお客じゃありませんか。"
],
[
"おや、それはまあ、まあ、貴女、お音信がございましたかい。",
"途中でね、電話をかけたの、",
"直接に、",
"いえ、花井さんを呼んで託づけて貰いました。",
"花井さん、例のですか、"
],
[
"それでは、その分も、",
"ああ、そうね。",
"いずれ、何も召食るようなものはありませんけれど、",
"私がいいものを買って来たの。"
],
[
"でも貴女、貴女が、そんなにお気がつくんですもの。可うございます。貴女がおっしゃいませんでも、私からお強請り申しましょう。",
"おばさん、気がついた御褒美なんて、不可いの。先生が怒るものなの。",
"へい、何でございますえ。"
],
[
"何だか、怒るものよ、おばさん当てて御覧なさい。",
"…………"
],
[
"唯今、ですがお嬢さんは、ほんとうに何を買っていらっしゃいました。大概そんなことはありますまいが、もしか、つくと不可ません。",
"可いのよ。先生のめしあがるもんなんざ、ねえ、愛吉、",
"まあ、貴女、",
"可いの。ねえ愛吉、お前が来ると知れているのなら、呼ばなくッてもいいんだっけね。"
],
[
"御、御串戯おっしゃらあ。",
"どれ、急いで行って参りましょう。"
],
[
"貴女え、",
"ああ、",
"先生がいらっしゃらなくッて、寂しい、寂しい、とおっしゃりながら、お憎らしい。あとで私が言附けますよ。",
"ああ、可いとも、ねえ、愛吉、姫様がついている人なんか、ねえ。"
],
[
"御、御、御串戯おっしゃらあ。",
"ちょいと、愛吉さん、"
],
[
"よく、おもりをして下さいよ。お泣かせ申さないように、可ござんすかい。お前さん、また酒と間違えて飲んじまっちゃ不可ませんよ。",
"御、御、御、御串戯おっしゃらあ。"
],
[
"しばらくでえ、",
"愛吉や。",
"お嬢さん………"
],
[
"まあ、お前どこに居たんだねえ。",
"え、私は何、そこらの芥溜に居たんですがね。お嬢さんは?",
"私かい、"
],
[
"でもお前、目をまわしたとおいいじゃないか。",
"ちょっと、眠ったんで、時々でさ。",
"だってお前、きっと火傷をおしだろう。"
],
[
"ええええ、脇腹を少し焦しましたが、",
"可哀相に、お見せな。",
"何、身体中、疵だらけだから、からもう何が何だか分りません。"
],
[
"愛吉、それでもお前、無事に逢えて可かったねえ、ほんとうによく来たねえ。",
"ですから、ですから、その上がられました義理じゃねえんで、お門口へだって寄りつく法じゃありませんがね、ちとその、"
],
[
"お前たちを袖にして出世をしたってどうするの、よ、愛吉、",
"じゃあ、ど、どうしてお嬢さん、貴女はどうしてどこにおいでなすったんでございますね。",
"芥溜よ。",
"え、",
"私もやっぱり芥溜なの。",
"飛、飛んでもねえ。",
"だって、お前も好なんだから可いではないか。"
],
[
"寒くはなくッて、",
"御串戯おっしゃらあ、",
"だって素袷でおいでだよ。",
"そこへ行っちゃ職人でさ、寒の中も、これで凌ぐんで、",
"威張ったね。"
],
[
"愛吉、それよりかお前、ほんとうにちょいと困っておくれでないかい。",
"困りますえ。私が、何を。お嬢さん、",
"久しぶりだ、あたっておくれ、",
"お顔を、",
"ああ、私は自分じゃ不器用だし、おばさんは上手だけれど、目が悪いからッて危ながって遠慮をするしね。近所じゃ厭だし、どこへ行ってもしゃぼんをぬらぬらなすくって、暖かい、あぶらッ手で掴まえられて恐れるわ。困っているの、ねえ、愛吉、後生だから、",
"遣りますかね、",
"ああ、",
"や、そいつあ素敵だ、占めたもんだ。ちょうど可いや、剃刀が来ていまさ。"
],
[
"で、お嬢さんはどうしておいでなすったんで?",
"あれ、芥溜をまた聞くよ。そんな事はあとにして、疾く困ってくれないと、暗くなる、寒くなる、さあ、こっちへおいで、さあ、"
],
[
"お前しびれを切らしたね。ほほほ、",
"むむ、"
],
[
"だらしのない為朝だよ。",
"勢い! 和朝に、"
],
[
"鎮西八郎、為ちゃん。",
"や、",
"曾我五郎、時さん。",
"こいつあ、",
"泥酔の愛ちゃんや。",
"ええ。"
],
[
"所謂その影が薄いといった形で。つまり俗にいう虫が知らせたんだろうな。",
"ええ、女房もいうのでありまするし、かような事は、先生の前じゃちといかがな儀ではありまするが、それを聞いた手前なども、またさようかに考えるので、どうも争われないものですよ。"
],
[
"さよう、",
"驚きますな。"
],
[
"あの窈窕たるものとさしむかいで、野天で餡ものを突きつけるに至っては、刀の切尖へ饅頭を貫いて、食え!……といった信長以上の暴虐です。貴老も意気が壮すぎるよ。",
"先生、貴下はまた、神経痛ごときに、そう弱っては困りますな。",
"何、私はもう退院をするんだから構わんが。"
],
[
"成程々々成程。",
"二三日もう手はかかりませんから、そこに、"
],
[
"まさか自分の病院で、治療するというわけにも行かなかったものでありましょう。",
"ははあ、秘密のようですかい。"
],
[
"実は私も自分で幸いと思っている。",
"いや、恐縮ですが、また、さほど大した御容体でもなかったと見えまして、貴下が、こっちへ御入院という事は、まったく、今朝はじめて聞いて一驚を吃しました。勿論社の方へは暫時御無沙汰、そんなこんなで、ちっとも存じませんで、大失礼。そこで、すぐにお見舞と申す内にも柳屋の方が主であるようで相済まんですが、もっとも向うへ顔出しをする気はないので。それでなくッても私商売などは、秘密の秘の字でもある向には、嫌われるで、遠慮をしますから、悪からず。"
],
[
"何ともいえないので、まるで熱鉄を嚥下す心持でがすよ。はあ、それじゃ昨日、晩方にも苦しみましたな。",
"ああ、そうです、"
],
[
"馬鹿め。",
"いや、",
"野郎、しようのない瓦落多だが可哀相に、可愛い奴だ。先生、憎くはない。"
],
[
"先生、いかがです、呼ぼうじゃありませんか、ちょいとな。",
"どうして顔が見られるもんか。いじらしくッて、",
"しかし………"
],
[
"至極でがす。いや私望む処、先生という楯がありゃ、二日でも三晩でも、お夏さんの前途を他所ながら見届けるまでは居坐って動きません。",
"私も退院の日延べをする。そこで、そこで竹永さん、関戸の邸の、もみじの下で、その最中を食べてからどうしたんです。"
],
[
"か。",
"も知れません。",
"竹永さん、貴老はまたどうしてそこへ行き合わせました?"
],
[
"おかみさん、難有え、お前さんの思召しも嬉しけりゃ、肴も嬉しけりゃ、酒も旨え、旨えけれど可笑くねえや、何てってこうおかみさん、おかみさん、",
"おや、私のことかい。",
"お聞きねえ、伺いやすがね、こう見渡した処、ざっとこりゃ一両がもんだね、愛吉一年の取り高だ。先刻お湯銭が二銭五厘、安い利だが持ちませんぜ。誰が、誰がこの勘定をしやがるんでえ。ヘッ、人をつけ、嬉しくねえ。"
],
[
"景気がついて来ましたね、ちっとは可い心持になりましたかい。",
"好いにも、悪いにも何だか気になってならねえんでさ、変てこにこう胸へつッかけて来るんでね、その勘定の一件だ。"
],
[
"分ってら、分ってらい、いや分ってます。御馳走は分ってら。御馳走でなくッて、この霜枯に活のいいきはだと、濁りのねえ酒が、私の口へ入りようがねえや、ねえ、おかみさん。",
"ですから、沢山めしあがれよ。",
"なお心配だ。何が心配だって、こんな気になることはねえ。何がじゃねえやね、お前さん、その勘定の理合因縁だ。ええ、知っていら、お嬢さんの御馳走だが、勘定は誰がするんで。勘定は、ヘッ、"
],
[
"可いから、まあおあがんなさい。",
"む、ああ、旨え、馬鹿にしやがら、堪らねえ旨えや。旨えが嬉しくねえ、七目れんげめ、おかみさん、お憚りながらそういっておくんねえ、折角ですが嬉しくねえッて。いや、滅相、途轍もねえ、嬢的にそんなこといわれて堪るもんか、ヘッ、"
],
[
"…………",
"こうおかみ、憚りながらそういっておくんなせえ、済まねえがね、私あ気に食わねえから勘定をして貰ったって、お礼なんざいわねえって、"
],
[
"ああ、可いともね、また礼なんぞいわせるようなお方じゃありません。",
"トおっしゃる! へへへへ、おかみさん、厭に肩を持ちますね、いくらか貰ったね。",
"貰いましたともさ、貰ったどころじゃない、お嬢さんだって、私だって、九死一生な処を助けて下すった方ですもの、",
"九死一生、"
],
[
"煩ったかね。もっとも肝の虫が強いからね、あれが病だ。",
"しかもお前さん、大道だったろうじゃありませんか。",
"大道で、何が大道で、ここあお嬢さんの内じゃねえかね。",
"いいえさ、こちらへおいでなさらない前にさ、屑屋をしていらっした時の事ですよ。"
],
[
"誰が、",
"お嬢さんのことをいってるんだよ、",
"はあ、問屋か。そう屑問屋か。道理こそ見倒しやがって。日本一のお嬢さんを妾なんぞにしやあがって、冥利を知れやい。べらぼうめ、菱餅や豆煎にゃかかっても、上段のお雛様は、気の利いた鼠なら遠慮をして甞めねえぜ、盗賊ア、盗賊ア、盗賊ア、"
],
[
"旦那、五両にどうだ、とポンと投げ出しはどんなもんで。ヘッヘッ、おかみさん。",
"いくらお嬢さんだってその方にゃ苦労人でいらっしゃるから、お前さん、その袷は五両にゃおつけなさりやしまいよ。",
"へい、じゃ嬢的も旦かぶれで、いくらか贓物の価が分るんで?"
],
[
"まあ、お前さん、おかしなことをおいいだと思っていたが、じゃ何にも御存じじゃないんだね、私の留守のうちにお話しじゃなかったのかい、",
"何をね、",
"それだもの、ちぐはぐになる筈だ。屑屋をなすっていらっしゃったのはお嬢さんだよ、お嬢さんなんだよ、お前さん。",
"お夏さん、",
"あい、そうさ。",
"や! 串戯じゃねえ、まったくですかい。",
"ほんとにも何にも、",
"あの、屑屋いって。踊にゃないね、問屋でも芝居でもなけりゃ、それじゃ、外にゃねえ、屑い、屑いッて、籠を担いだ、あれなんで?",
"ああ、そうともお前、私がお目にかかった時なんざ、そりゃおいとしかったよ。霜月だというのに、汚れた中形の浴衣を下へ召して、襦袢にも蹴出しにもそればかり。縞も分らないような袷のね、肩にも腰にもさらさの布でしき当のある裾を、お端折でさ、足袋は穿いておいでなすったが、汚いことッたら、草履さ、今思い出しても何ですよ、おいとしいッたらないんですよ。",
"おかみさん、逢ったのか、",
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"串戯じゃねえ、どこでだね。",
"氷川の坂ン処ですよ、",
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"串戯じゃねえ、ちょいと知らしてくれりゃ可いんだ、"
],
[
"ああ、それだ。芥溜ッていったなあそれだ、串戯じゃねえ、",
"それにお前、寒い月夜のことだった。道芝の露の中で、ひどくさし込んで来たじゃないか。お頭を草原に摺りつけて、薄の根を両手に縋って、のッつ、そッつ、たってのお苦み。もう見る間にお顔の色が変ってね、鼻筋の通ったのばかり見えたんですよ。",
"ま、ま、待っとくんなせえ、待っとくんなせえ、"
],
[
"待ちねえ。おかみさん、活きてるね、大丈夫、二階に居るね。",
"お前さん、おいでなさいよ。先刻からお上りなさいッて、おっしゃってじゃありませんか。旦那が御一緒じゃ厭なんですか。",
"そこどころじゃねえ、フウそうして、",
"あとで聞いたら何だとさ、途中の都合やら、何やかやで、まだその時お午飯さえあがらなかった、お弱い身体に、それだもの、夜露に冷えて堪るものかね。",
"なぜ、そんな時、大きな声で、一口愛吉って呼ばねえんだなあ、大島に居たって聞えらあ。"
],
[
"テンプラクイタイ、テンプラクイタイか何かで、流して行ったんですよ、お前さん。",
"ヘッ、人の気も知らねえで、"
],
[
"愛吉、",
"へい………",
"沢山おあがりよ。おいしいものがなくッて、気の毒だね、おお、その海鼠がおいしそうじゃないか。",
"ええ。一ツいかがでございます。へへへへへ。",
"そうね、御馳走になろうかね、どれ、"
],
[
"何でございます。",
"二階が寒くなったの。台じゅうが欲いんです。",
"唯今、私が、"
],
[
"納豆、納豆ウい、納豆、納豆ウ、",
"おばさん、屑屋より、この方にすれば可かったのね。"
],
[
"そんな時に、私を尋ねて下さりゃ可いんだのになあ、",
"それだって、お前、来てくれたって、逢ったって、お酒も飲ませられないし、煙草も与れないし、可哀相だもの。",
"いえ、頂こうというんじゃねえんで、そんな時だ、私あ、お嬢さんにどうにかすらあ。盗賊でも、人殺でも、放火でも何でもすらあ。ええ、お嬢さん、",
"愛吉、難有うよ、"
],
[
"二階へおいでな。",
"ええ、なに………",
"構いはしないよ。",
"ええ、なに………",
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],
[
"ヘッ笑かしゃあがら、ヘッ旦的めえ、汝が取りに下りれば可い。寒いが聞いて呆れらい。ヘッ、悪く御託をつきゃあがると、汝がの口へ氷を詰めて、寒の水を浴びせるぞ、やい!",
"愛吉、おいでな、"
],
[
"ああ、どうぞあけ方までに、繰返して、もう一度その経を誦したまえ、絶えず、念じて下さい。私も覚えて念じよう。明日、また明後日、明々後日も、幾度も、本尊の前途を見届けるまでは、貴方は帰さん、誰にも逢わん。",
"宜しい。"
],
[
"どう、",
"どうした。",
"容子がかわりました。",
"そうか、"
],
[
"だって奥さんがあるんですもの。",
"いえ、もうありません、貴女に生命を救われて、山河内の家へ帰りますよ。"
]
] | 底本:「泉鏡花集成9」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年6月24日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第六卷」岩波書店
1941(昭和16)年11月10日第1刷発行
初出:「大阪毎日新聞」
1906(明治39)年1月1日~1月27日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、以下の個所を除いて大振りにつくっています。
「雑司《ぞうし》ヶ|谷《や》」「熊ヶ谷」「程ヶ谷」「明石ヶ浦」
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2012年5月22日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "048405",
"作品名": "式部小路",
"作品名読み": "しきぶこうじ",
"ソート用読み": "しきふこうし",
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"初出": "「大阪毎日新聞」1906(明治39)年1月1日~1月27日",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2012-06-22T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-16T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card48405.html",
"人物ID": "000050",
"姓": "泉",
"名": "鏡花",
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"名読み": "きょうか",
"姓読みソート用": "いすみ",
"名読みソート用": "きようか",
"姓ローマ字": "Izumi",
"名ローマ字": "Kyoka",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1873-11-04",
"没年月日": "1939-09-07",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "泉鏡花集成9",
"底本出版社名1": "ちくま文庫、筑摩書房",
"底本初版発行年1": "1996(平成8)年6月24日",
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],
[
"あの裏に、旦那、弁慶手植の松があるで――御覧になるかな。",
"いや、帰途にしましょう。"
],
[
"はあ、其処は開けません事になっております。けれども戸棚でございますから。",
"少々ばかり、御免下さい。"
],
[
"失礼な事を、――時に、御案内料は。",
"へい、五銭。",
"では――あとはどうぞお賽銭に。"
],
[
"――拝見をいたしました。",
"はい。"
],
[
"あれは、はあ、駅長様の許へ行くだかな。昨日も一尾上りました。その鱒は停車場前の小河屋で買ったでがすよ。",
"料理屋かね。",
"旅籠屋だ。新築でがしてな、まんずこの辺では彼店だね。まだ、旦那、昨日はその上に、はい鯉を一尾買入れたでなあ。",
"其処へ、つけておくれ、昼食に……"
],
[
"あの、旦那様。",
"何だい。",
"照焼にせいという、お誂ですがなあ。",
"ああ。",
"川鱒は、塩をつけて焼いた方がおいしいで、そうしては不可ないですかな。",
"ああ、結構だよ。"
],
[
"こいつは余計だっけ。",
"でも、あの、四合罎一本、よそから取って上げましたので、なあ。"
]
] | 底本:「鏡花短篇集」岩波文庫、岩波書店
1987(昭和62)年9月16日第1刷発行
2001(平成13)年2月5日第21刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第二十七巻」岩波書店
1942(昭和17)年10月初版発行
初出:「人間」
1921(大正10)年7月号
入力:門田裕志
校正:米田進、鈴木厚司
2003年3月31日作成
青空文庫作成ファイル:
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[
[
"同役(といつも云う、士の果か、仲間の上りらしい。)は番でござりまして、唯今水瓶へ水を汲込んでおりまするが。",
"水を汲込んで、水瓶へ……むむ、この風で。"
],
[
"もう、これ午餉になりまするで、生徒方が湯を呑みに、どやどやと見えますで。湯は沸らせましたが――いや、どの小児衆も性急で、渇かし切ってござって、突然がぶりと喫りまするで、気を着けて進ぜませぬと、直きに火傷を。",
"火傷を…うむ。"
],
[
"一杯沸ったのを注しましょうで、――やがてお弁当でござりましょう。貴下様組は、この時間御休憩で?",
"源助、その事だ。",
"はい。"
],
[
"可い塩梅に、そっちからは吹通さんな。",
"でも、貴方様まるで野原でござります。お児達の歩行いた跡は、平一面の足跡でござりまするが。",
"むむ、まるで野原……"
],
[
"源助、時に、何、今小児を一人、少し都合があって、お前達の何だ、小使溜へ遣ったっけが、何は、……部屋に居るか。",
"居りまするで、しょんぼりとしましてな。はい、……あの、嬢ちゃん坊ちゃんの事でござりましょう、部屋に居りますでございますよ。"
],
[
"しょんぼりしている。小使溜に。",
"時ならぬ時分に、部屋へぼんやりと入って来て、お腹が痛むのかと言うて聞いたでござりますが、雑所先生が小使溜へ行っているように仰有ったとばかりで、悄れ返っておりまする。はてな、他のものなら珍らしゅうござりませぬ。この児に限って、悪戯をして、課業中、席から追出されるような事はあるまいが、どうしたものじゃ。……寒いで、まあ、当りなさいと、炉の縁へ坐らせまして、手前も胡坐を掻いて、火をほじりほじり、仔細を聞きましても、何も言わずに、恍惚したように鬱込みまして、あの可愛げに掻合せた美しい襟に、白う、そのふっくらとした顋を附着けて、頻りとその懐中を覗込みますのを、じろじろ見ますと、浅葱の襦袢が開けまするまで、艶々露も垂れるげな、紅を溶いて玉にしたようなものを、溢れまするほど、な、貴方様。",
"むむそう。"
],
[
"昨日な、……昨夜とは言わん。が、昼寝をしていて見たのじゃない。日の暮れようという、そちこち、暗くなった山道だ。",
"山道の夢でござりまするな。"
],
[
"名代な魔所でござります。",
"何か知らんが。"
],
[
"ものはあるげにござりまして……旧藩頃の先主人が、夜学の端に承わります。昔その唐の都の大道を、一時、その何でござりまして、怪しげな道人が、髪を捌いて、何と、骨だらけな蒼い胸を岸破々々と開けました真中へ、人、人という字を書いたのを掻開けて往来中駆廻ったげでござります。いつかも同役にも話した事でござりまするが、何の事か分りません。唐の都でも、皆なが不思議がっておりますると、その日から三日目に、年代記にもないほどな大火事が起りまして。",
"源助、源助。"
]
] | 底本:「泉鏡花集成4」ちくま文庫、筑摩書房
1995(平成7)年10月24日第1刷発行
2004(平成16)年3月20日第2刷発行
入力:土屋隆
校正:門田裕志
2005年11月24日作成
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "001177",
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"底本名1": "泉鏡花集成4",
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[
[
"お爺さん、お爺さん。",
"はあ、私けえ。"
],
[
"あの家のかね。",
"その二階のさ。",
"いんえ、違います。"
],
[
"何ね、詰らん事さ。",
"はいい?",
"お爺さんが彼家の人ならそう言って行こうと思って、別に貸家を捜しているわけではないのだよ。奥の方で少い婦人の声がしたもの、空家でないのは分ってるが、",
"そうかね、女中衆も二人ばッかいるだから、",
"その女中衆についてさ。私がね、今彼処の横手をこの路へかかって来ると、溝の石垣の処を、ずるずるっと這ってね、一匹いたのさ――長いのが。"
],
[
"へい、",
"余り好物な方じゃないからね、実は、"
],
[
"何でもなかあねえだよ。彼処さ東京の人だからね。この間も一件もので大騒ぎをしたでがす。行って見て進ぜますべい。疾うに、はい、何処かずらかったも知んねえけれど、台所の衆とは心安うするでがすから、",
"じゃあ、そうして上げなさい。しかし心ない邪魔をしたね。",
"なあに、お前様、どうせ日は永えでがす。はあ、お静かにござらっせえまし。"
],
[
"お待遠さまでごぜえます。",
"はあ、お邪魔さまな。",
"御免なせえまし。"
],
[
"真個に、結構な御堂ですな、佳い景色じゃありませんか。",
"や、もう大破でござって。おもりをいたす仏様に、こう申し上げては済まんでありますがな。ははは、私力にもおいそれとは参りませんので、行届かんがちでございますよ。"
],
[
"そうしたもんです。",
"ははは、如何にも、"
],
[
"私? 私は直きその停車場最寄の処に、",
"しばらく、",
"先々月あたりから、",
"いずれ、御旅館で、",
"否、一室借りまして自炊です。"
],
[
"ちょっと、通りがかりでは、こういう処が、こちらにあろうとは思われませんね。真個に佳い御堂ですね、",
"折々御遊歩においで下さい。",
"勿体ない、おまいりに来ましょう。"
],
[
"これは、貴下方の口から、そういうことを承ろうとは思わんでありました。",
"何故ですか、"
],
[
"そう承れば恥入る次第で、恥を申さねば分らんでありますが、うたゝ寐の、この和歌でござる、",
"その歌が、"
],
[
"はあ、あの歌ですか。",
"御覧になったで、",
"先刻、貴下が声をおかけなすった時に、",
"お目に留まったのでありましょう、それは歌の主が分っております。",
"婦人ですね。",
"さようで、最も古歌でありますそうで、小野小町の、",
"多分そうのようです。",
"詠まれたは御自分でありませんが、いや、丁とその詠み主のような美人でありましてな、",
"この玉脇……とか言う婦人が、"
],
[
"いや、しかし恋歌でないといたして見ますると、その死んだ人の方が、これは迷いであったかも知れんでございます。",
"飛んだ話じゃありませんか、それはまたどうした事ですか。"
],
[
"まあ、今時、どんな、男です。",
"丁ど貴下のような方で、"
],
[
"真に御串戯ものでおいでなさる。はははは、",
"真面目ですよ。真面目だけなお串戯のように聞えるんです。あやかりたい人ですね。よくそんなのを見つけましたね。よくそんな、こがれ死をするほどの婦人が見つかりましたね。",
"それは見ることは誰にでも出来ます。美しいと申して、竜宮や天上界へ参らねば見られないのではござらんで、",
"じゃ現在いるんですね。",
"おりますとも。土地の人です。",
"この土地のですかい。",
"しかもこの久能谷でございます。",
"久能谷の、",
"貴下、何んでございましょう、今日此処へお出でなさるには、その家の前を、御通行になりましたろうで、",
"その美人の住居の前をですか。"
],
[
"……じゃ、あの、やっぱり農家の娘で、",
"否々、大財産家の細君でございます。",
"違いました、"
],
[
"そうですか、大財産家の細君ですか、じゃもう主ある花なんですね。",
"さようでございます。それがために、貴下、",
"なるほど、他人のものですね。そうして誰が見ても綺麗ですか、美人なんですかい。",
"はい、夏向は随分何千人という東京からの客人で、目の覚めるような美麗な方もありまするが、なかなかこれほどのはないでございます。",
"じゃ、私が見ても恋煩いをしそうですね、危険、危険。"
],
[
"何故でございますか。",
"帰路には気を注けねばなりません。何処ですか、その財産家の家は。"
],
[
"角の、あの二階家が、",
"ええ?",
"あれがこの歌のかき人の住居でござってな。"
],
[
"尤も彼処へは、去年の秋、細君だけが引越して参ったので。丁ど私がお宿を致したその御仁が……お名は申しますまい。",
"それが可うございます。",
"唯、客人――でお話をいたしましょう。その方が、庵室に逗留中、夜分な、海へ入って亡くなりました。",
"溺れたんですか、",
"と……まあ見えるでございます、亡骸が岩に打揚げられてござったので、怪我か、それとも覚悟の上か、そこは先ず、お聞取りの上の御推察でありますが、私は前申す通り、この歌のためじゃようにな、",
"何しろ、それは飛んだ事です。",
"その客人が亡くなりまして、二月ばかり過ぎてから、彼処へ、"
],
[
"註文通り、金子でござる、",
"なるほど、穿当てましたね。"
],
[
"なるほど、穴のない天保銭。",
"その穴のない天保銭が、当主でございます。多額納税議員、玉脇斉之助、令夫人おみを殿、その歌をかいた美人であります、如何でございます、貴下、"
],
[
"そこは、玉脇がそれ鍬の柄を杖に支いて、ぼろ半纏に引くるめの一件で、ああ遣って大概な華族も及ばん暮しをして、交際にかけては銭金を惜まんでありますが、情ない事には、遣方が遣方ゆえ、身分、名誉ある人は寄つきませんで、悲哉その段は、如何わしい連中ばかり。",
"お待ちなさい、なるほど、そうするとその夫人と言うは、どんな身分の人なんですか。"
],
[
"そこでございます、御新姐はな、年紀は、さて、誰が目にも大略は分ります、先ず二十三、四、それとも五、六かと言う処で、",
"それで三人の母様? 十二、三のが頭ですかい。",
"否、どれも実子ではないでございます。",
"ままッ児ですか。"
],
[
"薄暗い処ですか、",
"藪のようではありません。真蒼な処であります。本でも御覧なさりながらお歩行きには、至極宜しいので、",
"蛇がいましょう、"
],
[
"お嫌いか。",
"何とも、どうも、"
],
[
"心があられてはなお困るじゃありませんか。",
"否、塩気を嫌うと見えまして、その池のまわりには些ともおりません。邸にはこの頃じゃ、その魅するような御新姐も留主なり、穴はすかすかと真黒に、足許に蜂の巣になっておりましても、蟹の住居、落ちるような憂慮もありません。"
],
[
"大分町の方が賑いますな。",
"祭礼でもありますか。"
],
[
"はあ、はあ、",
"薄汚れた帆木綿めいた破穴だらけの幕が開いたて、",
"幕が、"
]
] | 底本:「春昼・春昼後刻」岩波文庫
1987(昭和62)年4月16日第1刷発行
1999(平成11)年7月5日第19刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第十卷」岩波書店
1940(昭和15)年5月
初出:「新小説」
1906(明治39)年11月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:小林繁雄
校正:平野彩子、土屋隆
2006年7月18日作成
2011年2月27日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "002296",
"作品名": "春昼",
"作品名読み": "しゅんちゅう ",
"ソート用読み": "しゆんちゆう",
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"原題": "",
"初出": "「新小説」1906(明治39)年11月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2006-08-26T00:00:00",
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"人物ID": "000050",
"姓": "泉",
"名": "鏡花",
"姓読み": "いずみ",
"名読み": "きょうか",
"姓読みソート用": "いすみ",
"名読みソート用": "きようか",
"姓ローマ字": "Izumi",
"名ローマ字": "Kyoka",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1873-11-04",
"没年月日": "1939-09-07",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "春昼・春昼後刻",
"底本出版社名1": "岩波文庫、岩波書店",
"底本初版発行年1": "1987(昭和62)年4月16日",
"入力に使用した版1": "1999(平成11)年7月5日第19刷",
"校正に使用した版1": "1995(平成7)年2月15日第15刷",
"底本の親本名1": "鏡花全集 第十卷",
"底本の親本出版社名1": "岩波書店",
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} |
[
[
"はあ、もし今帰らせえますかね。",
"や、先刻は。"
],
[
"何んともハイ御しんせつに言わっせえて下せえやして、お庇様で、私、えれえ手柄して礼を聞いたでござりやすよ。",
"別に迷惑にもならなかったかい。"
],
[
"迷惑処ではござりましねえ、かさねがさね礼を言われて、私大くありがたがられました。",
"じゃ、むだにならなかったかい、お前さんが始末をしたんだね。",
"竹ン尖で圧えつけてハイ、山の根っこさ藪の中へ棄てたでごぜえます。女中たちが殺すなと言うけえ。",
"その方が心持が可い、命を取ったんだと、そんなにせずともの事を、私が訴人したんだから、怨みがあれば、こっちへ取付くかも分らずさ。"
],
[
"ほほ、私はもう災難と申します。災難ですわ、貴下。あれが座敷へでも入りますか、知らないでいて御覧なさいまし、当分家を明渡して、何処かへ参らなければなりませんの。真個にそうなりましたら、どうしましょう。お庇様で助りましてございますよ。ありがとう存じます。",
"それにしても、私と極めたのは、"
],
[
"では、あの爺さんにお聞きなすって、",
"否、私ども石垣の前をお通りがかりの時、二階から拝みました。",
"じゃあ、私が青大将を見た時に、",
"貴下のお姿が楯におなり下さいましたから、爾時も、厭なものを見ないで済みました。"
],
[
"貴女は、貴女は気分が悪くって寝ていらっしゃるんだ、というじゃありませんか。",
"あら、こんなに甲羅を干しておりますものを。"
],
[
"真個は、寝ていましたの……",
"何んですッて、"
],
[
"否、寝ていたんじゃなかったんですけども、貴下のお姿を拝みますと、急に心持が悪くなって、それから寝たんです。",
"これは酷い、酷いよ、貴女は。"
],
[
"そういうつもりで申上げたんでござんせんことは、よく分ってますじゃありませんか。",
"はい、",
"ね、貴下、",
"はい、"
],
[
"人の悪いのは貴女でしょう。私は何も言とがめなんぞした覚えはない。心持が悪いとおっしゃるからおっしゃる通りに伺いました。",
"そして、腹をお立てなすったんですもの。",
"否、恐縮をしたまでです。"
],
[
"ええ、",
"御存じの癖に。",
"今お目にかかったばかり、お名も何も存じませんのに、どうしてそんな事が分ります。"
],
[
"緑の油のよう。とろとろと、曇もないのに淀んでいて、夢を見ないかと勧めるようですわ。山の形も柔かな天鵞絨の、ふっくりした括枕に似ています。そちこち陽炎や、糸遊がたきしめた濃いたきもののように靡くでしょう。雲雀は鳴こうとしているんでしょう。鶯が、遠くの方で、低い処で、こちらにも里がある、楽しいよ、と鳴いています。何不足のない、申分のない、目を瞑れば直ぐにうとうとと夢を見ますような、この春の日中なんでございますがね、貴下、これをどうお考えなさいますえ。",
"どうと言って、"
],
[
"貴下は、どんなお心持がなさいますえ、",
"…………",
"お楽みですか。",
"はあ、",
"お嬉しゅうございますか。",
"はあ、",
"お賑かでございますか。",
"貴女は?",
"私は心持が悪いんでございます、丁ど貴下のお姿を拝みました時のように、"
],
[
"で、そこでお休みになって、",
"はあ、",
"夢でも御覧になりましたか。"
],
[
"そういうお心持でうたた寐でもしましたら、どんな夢を見るでしょうな。",
"やっぱり、貴下のお姿を見ますわ。",
"ええ、",
"此処にこうやっておりますような。ほほほほ。"
],
[
"いや、串戯はよして、その貴女、恋しい、慕わしい、そしてどうしても、もう逢えない、とお言いなすった、その方の事を御覧なさるでしょうね。",
"その貴下に肖た、",
"否さ、"
],
[
"ああ、貴下もその(厭な心持)をおっしゃいましたよ。じゃ、もう私もそのお話をいたしましても差支えございませんのね。",
"可うございます。ははははは。"
],
[
"そうですねえ、はじめは、まあ、心持、あの辺からだろうと思うんですわ、声が聞えて来ましたのは、",
"何んの声です?"
],
[
"貴下、真個に未来というものはありますものでございましょうか知ら。",
"…………",
"もしあるものと極りますなら、地獄でも極楽でも構いません。逢いたい人が其処にいるんなら。さっさと其処へ行けば宜しいんですけれども、"
],
[
"歌がお出来なさいましたか。",
"ほほほほ、"
],
[
"絵をお描きになるんですか。",
"ほほほほ。",
"結構ですな、お楽しみですね、些と拝見いたしたいもんです。"
],
[
"何、何んというんです。",
"四角院円々三角居士と、"
],
[
"細いのならありますよ。",
"否、可うござんすよ、さあ、兄や、行って来な。"
],
[
"幾歳なの、",
"八歳でごぜえス。",
"母さんはないの、",
"角兵衛に、そんなものがあるもんか。",
"お前は知らないでもね、母様の方は知ってるかも知れないよ、"
],
[
"唯持って行ってくれれば可いの、何処へッて当はないの。落したら其処でよし、失くしたらそれッきりで可んだから……唯心持だけなんだから……",
"じゃ、唯持って行きゃ可いのかね、奥さん、"
],
[
"馬鹿な奴だ。",
"馬鹿野郎。"
]
] | 底本:「春昼・春昼後刻」岩波文庫
1987(昭和62)年4月16日第1刷発行
1999(平成11)年7月5日第19刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第十卷」岩波書店
1940(昭和15)年5月
初出:「新小説」
1906(明治39)年12月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※章番号は「春昼」から連続しています。
入力:小林繁雄
校正:平野彩子、土屋隆
2006年7月18日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "046532",
"作品名": "春昼後刻",
"作品名読み": "しゅんちゅうごこく",
"ソート用読み": "しゆんちゆうここく",
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"初出": "「新小説」1906(明治39)年12月",
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[
[
"あしたにすると可いやね、勝手へ行つてたら坊ちやんが淋しからう、私は直に出懸けるから。",
"然うねえ。"
],
[
"気をつけて行らつしやいましよ。",
"坊ちやん、緩り遊んでやつて下さい。直ぐ寝つちまつちやあ不可ませんよ、何うも御苦労様なことツたら、"
],
[
"今夜泊ることを知つて居ました?",
"あゝ、整と然う言つたんだもの。"
],
[
"辻ちやん。",
"…………",
"辻ちやんてば、",
"…………",
"よう。"
]
] | 底本:「日本幻想文学集成1 泉鏡花」国書刊行会
1991(平成3)年3月25日初版第1刷発行
1995(平成7)年10月9日初版第5刷発行
底本の親本:「泉鏡花全集」岩波書店
1940(昭和15)年発行
初出:「天地人」
1901(明治34)年1月
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
入力:門田裕志
校正:川山隆
2009年5月10日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "048406",
"作品名": "処方秘箋",
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"姓読み": "いずみ",
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"姓読みソート用": "いすみ",
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"姓ローマ字": "Izumi",
"名ローマ字": "Kyoka",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1873-11-04",
"没年月日": "1939-09-07",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "日本幻想文学集成1 泉鏡花",
"底本出版社名1": "国書刊行会",
"底本初版発行年1": "1991(平成3)年3月25日",
"入力に使用した版1": "1995(平成7)年10月9日初版第5刷",
"校正に使用した版1": "1991(平成3)年3月25日初版第1刷",
"底本の親本名1": "泉鏡花全集",
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} |
[
[
"ああ聖心女学校ではないのかい、それなら有ッじゃね。",
"や、女子の学校?",
"そうですッ。そして聖人ではない、聖心、心ですが。",
"いかさま、そうもござりましょう。実はせんだって通掛りに見ました。聖、何とやらある故に、聖人と覚えました。いや、老人粗忽千万。"
],
[
"御免なさいよ。",
"はいはい、結構なお日和でございます。",
"されば……じゃが、歩行くにはちと陽気過ぎますの。"
],
[
"いやいや、老人の冷水とやら申す、馴れた口です。お茶を下され。",
"はいはい。"
],
[
"ああ、その森の中は通抜けが出来ますかの。",
"これは、余所のお邸様の持地でございまして、はい、いいえ、小児衆は木の実を拾いに入りますのでございますよ。",
"出口に迷いはしませんかの、見受けた処、なかなかどうも、奥が深い。",
"もう口許だけでございます。で、ございますから、榎の実に団栗ぐらい拾いますので、ずっと中へ入りますれば、栗も椎もございますが、よくいたしたもので、そこまでは、可恐がって、お幼いのは、おいたが出来ないのでございます。",
"ははあいかにもの。"
],
[
"これぞ、自然なる要害、樹の根の乱杭、枝葉の逆茂木とある……広大な空地じゃな。",
"隠居さん、一つお買いなすっちゃどうです。"
],
[
"ははは、野原や、山路のような事を言ってなさらあ、ははは。",
"いやいや、まるで方角の知れぬ奥山へでも入ったようじゃ。昼日中提灯でも松明でも点けたらばと思う気がします。"
],
[
"御隠居様は御遠方でいらっしゃるのでございますか。",
"下谷じゃ。",
"そいつあ遠いや、電車でも御大抵じゃねえ。へい、そしてどちらへお越しになるんで。",
"いささかこの辺へ用事があっての。当年たった一度、極暑の砌参ったばかり、一向に覚束ない。その節通りがかりに見ました、大な学校を当にいたした処、唯今立寄って見れば門が違うた。"
],
[
"まったく、足許が悪いんですかい、負って行く事もならねえしと……隠居さん、提灯でも上げてえようだ。",
"夜だとほんとうにお貸し申すんだがねえ。",
"どうですえ、その森ン中の暗い枝に、烏瓜ッてやつが点っていまさあ。真紅なのは提灯みたいだ。ねえ、持っておいでなさらねえか、何かの禁厭になろうも知れませんや。",
"はあ、烏瓜の提灯か。"
],
[
"可い加減な、前例にも禁厭にも、烏瓜の提灯だなんぞと云って、狐が点すようじゃないかね。",
"狐が点す……何。"
],
[
"これは何ともお手を頂く。",
"何の、隠居さん、なあ、おっかあ、今日は父親の命日よ。"
],
[
"大丈夫でございますよ。電信柱の突尖へ腰を掛ける人でございますからね。",
"むむ、侠勇じゃな……杖とも柱とも思うぞ、老人、その狐の提灯で道を照す……",
"可厭ではございませんかね、この真昼間。"
],
[
"でも、狐火か何ぞのようで、薄気味が悪いようでございますね。",
"成程、……狐火、……それは耳より。ふん……かほどの森じゃ、狐も居ろうかの。",
"ええ、で、ございますのでね、……居りますよ。",
"見たか。",
"前には、それは見たこともございますとも。"
],
[
"ああ、たのもしい。",
"ええ……"
],
[
"さて、鳴くか。",
"へい?……",
"やはりその、"
],
[
"これ、これ、いやさ、これ。",
"はあ、お呼びなされたは私の事で。"
],
[
"こン爺い、汝だな、楽書をしやがるのは、八百半の料理がまずいとは何だ、やい。",
"これは早や思いも寄りませぬ。が、何かの、この八百半と云うのは、お身の身内かの。",
"そうよ、まずい八百半の番頭だい、こン爺い。"
],
[
"さては……",
"何が(さては。)だい。"
],
[
"されば、おあねえ様であらっしゃります。",
"姉だか、妹だか、一人居ます。一人娘だよ。いやさ、大事な娘だよ。",
"ははっ、御道理千万な儀で。"
],
[
"何とぞいたして御大人、貴方の思召をもちまして、お娘御、おあねえ様に、でござる、ちょっと、御意を得ますわけには相成りませぬか。",
"ふん、娘にかい。",
"何とも。",
"変だねえ、娘に用があるなら俺に言え、と云うのだが、それは別だ。いやあえて怪しい御仁とも見受けはせんが、まあね、この陽気だから落着くが可うござす。一体、何の用なんだい。"
],
[
"おお、父上、こんな処に。",
"お町か、何だ。"
],
[
"何かい、……この老人を、お町、お前知っとるかい。",
"はい。"
],
[
"の、令嬢。",
"ああ、存じております。"
],
[
"さて、その時の御深切、老人心魂に徹しまして、寝食ともに忘れませぬ。千万忝う存じまするぞ。",
"まあ。"
],
[
"解りました、何、そのくらいな事を。いやさ、しかし、早い話が、お前さん、ああ、何とか云った、与五郎さんかね。その狂言師のお前さんが、内の娘に三光町の地図で道を教えてもらったとこう云うのだ。",
"で、その道を教えて下さったに……就きまして、",
"まあさ、……いやさ、分ったよ。早い話が、その礼を言いに来たんだ、礼を。……何さ、それにも及ぶまいに、下谷御徒士町、遠方だ、御苦労です。早い話が、わざわざおいでなすったんで、茶でも進ぜたい、進ぜたい、が、早い話が、家内に取込みがある、妻が煩うとる。",
"いや、まことに、それは……",
"まあさ、余りお饒舌なさらんが可い。ね、だによって、お構いも申されぬ。で、お引取なさい、これで失礼しよう。",
"あ、もし。さて、また。",
"何だ、また(さて。)さて、(また。)かい。"
],
[
"これ、これ、いやさ、これ。",
"しばらく! さりとても、令嬢様、御年紀、またお髪の様子。"
],
[
"何だい、その言種は、活動写真のかい、おい。",
"違わあ。へッ、違いますでござんやすだ。こりゃあ、雷神坂上の富士見の台の差配のお嬢さんに惚れやあがってね。",
"ああ、あの別嬪さんの。",
"そうよ、でね、其奴が、よぼよぼの爺でね。",
"おや、へい。"
],
[
"そうよ、其奴を、旦が踏潰して怒ってると、そら、俺を追掛けやがる斑犬が、ぱくぱく食やがった、おかしかったい、それが昨日さ。",
"分ったよ、昨日は。",
"その前もね、毎日だ。どこかで見掛ける。いつも雷神坂を下りて、この町内をとぼくさとぼくさ。その癖のん気よ。角の蕎麦屋から一軒々々、きょろりと見ちゃ、毎日おなじような独語を言わあ。"
],
[
"怪我は。",
"吉祥院前の接骨医へ早く……",
"お怪我は?"
],
[
"いえ、母は、よく初手からの事を存じております。煩っておりませんと、もっと以前にどうにもしたいのでございますッて。ほんとうにお爺様、貴老の御心労をお察し申して、母は蔭ながら泣いております。",
"ああ、勿体至極もござらん。その儀もかねてうけたまわり、老人心魂に徹しております。",
"私も一所に泣くんですわ。ほんとうに私の身体で出来ます事でしたら、どうにもしてお上げ申したいんでございますよ。それこそね、あの、貴老が遊ばす、お狂言の罠にかかるために、私の身体を油でいためてでも差上げたいくらいに思うんですが……それはお察しなさいましよ。"
],
[
"そして、別にお触りはございませんの。おとしよりが、こんなに、まあ、御苦労を遊ばして。",
"いや、老人、胸が、むず痒うて、ただ身体の震えまする外、ここに参ってからはまた格別一段の元気じゃ、身体は決してお案じ下さりょう事はない。かえって何かの悟を得ようと心嬉しいばかりでござる。が、御母堂様は。",
"母はね、お爺様、寝ましたきり、食が細って困るんです。",
"南無三宝。",
"今夜は、ちと更けましてから、それでも蕎麦かきをして食べてみよう、とそう言いましてね、ちょうど父の在所から届きました新蕎麦の粉がありましたものですから、私が枕頭で拵えました。父は、あの一晩泊りにその在へ参って留守なのです。母とまた、お爺様、貴老の事をそう申して……きっとお社においでなさるに違いない、内へお迎えをしたいんですけれど、ああ云った父の手前、留守ではなおさら不可ません。",
"おおおお、いかにも。",
"蕎麦かきは暖ると申します。差上げたらば、と母と二人でそう申しましてね、あの、ここへ持って参りました。おかわりを添えてございますわ。お可厭でなくば召上って下さいましな。",
"や、蕎麦掻を……されば匂う。来世は雁に生りょうとも、新蕎麦と河豚は老人、生命に掛けて好きでござる。そればかりは決して御辞儀申さぬぞ。林間に酒こそ暖めませぬが、大宮人の風流。"
],
[
"あれえ。",
"いや、怪いものではありません。",
"老人の夥間ですよ。"
],
[
"では、やっぱりお狂言の?……",
"いや、能楽の方です。――大師匠方に内弟子の私たち。",
"老人の、あの苦心に見倣え、と先生の命令で出向いています。"
],
[
"若先生。",
"おお大沼さん。",
"貴方もかい。"
]
] | 底本:「泉鏡花集成6」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年3月21日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第十六卷」岩波書店
1942(昭和17)年4月20日発行
入力:門田裕志
校正:高柳典子
2007年2月11日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "003656",
"作品名": "白金之絵図",
"作品名読み": "しろがねのえず",
"ソート用読み": "しろかねのえす",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2007-03-09T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-21T00:00:00",
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"人物ID": "000050",
"姓": "泉",
"名": "鏡花",
"姓読み": "いずみ",
"名読み": "きょうか",
"姓読みソート用": "いすみ",
"名読みソート用": "きようか",
"姓ローマ字": "Izumi",
"名ローマ字": "Kyoka",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1873-11-04",
"没年月日": "1939-09-07",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "泉鏡花集成6",
"底本出版社名1": "ちくま文庫、筑摩書房",
"底本初版発行年1": "1996(平成8)年3月21日",
"入力に使用した版1": "1996(平成8)年3月21日第1刷",
"校正に使用した版1": " ",
"底本の親本名1": "鏡花全集 第十六卷",
"底本の親本出版社名1": "岩波書店",
"底本の親本初版発行年1": "1942(昭和17)年4月20日",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
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"入力者": "門田裕志",
"校正者": "高柳典子",
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"XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"いらっしゃいまし、ようこそ。――路之助も一度お伺い申したいと、いいいい、帰京早々稽古にかかって、すぐに、開けたものでございますから、つい失礼を。……今日はまたどうも難有う存じます。",
"御挨拶で恐縮ですよ。津山さん。私こそ、京都で、あんなにお世話になって。――すぐにもお礼かたがたお訪ね申さなければならなかったのですが、ご存じの、貧乏稼ぎにかまけましてね。",
"なぞとおっしゃる。……は、は、は。"
],
[
"まったくですよ。ところでですね。ぶちまけた話ですが、万事、ちっとでも、楽屋の方で御心配を下さらないように――実は売場で切符を買ってと思いましたがね。",
"そんな水臭いことを……ご串戯で。",
"いや、ご馳走は、ご馳走。見物は見物です。実は、この京人形。"
],
[
"たしか、今度の二番目の外題も、京人形。",
"序幕が開いた処でございまして、お土産興行、といった心持でござんしてな。",
"そのお土産をね、津山さん、……本箱の上へ飾ってある処へ……でしょう。……不意でしょう。まるで動いて出たようでしょう。並んでいる木菟にも、ふらふらと魂が入ったから、羽ばたいて飛出したと――お大尽づきあいは馴れていなさるだろうから、一つ、切符で見ようじゃありませんか、というと、……嬉しい、といって賛成は、まことに嬉しい。当方立処に懐中が大きくなった。",
"は、は、は。"
],
[
"木戸へ差しかかると満員、全部売切れ申候だから、とにかく、連中で来て、一二度知ってるので、こちらに世話を掛けたんですが、つれがつれです、快よくあしらってはくれましたけれども、何分にも、ぎっしりで、席は一つもないというんで、止むを得ず……悪く思わないで下さい……まったく止むを得ず、茶屋から、楽屋へ声を掛けてもらったんですから。しかし、大入で、何より結構。",
"お庇様で、ここん処、ずっと売切っております。いえ、お場所は出来ます。いえ、決して無理はいたしません。そのかわり、他様と入込みで、ご不承を願うかも知れません。今日の処は、ほんの場の景気をお慰みだけ、芝居は更めてお見直しを願いとうございますので。……つきましては、いずれ楽屋へもお供をいたしますが、そのおつれ様……その、京人形様。――は、は、は――の処は、何にもおっしゃらず、ご内分に。――いえ、あなた様のおつれでございますから、仔細はないのでございますがな、この役者なかまと申しますものは、何かとそのつきあいがまた……煩いのでして、……京から芸妓はんが路之助を追駈けて逢いに来たわ、それ蕎麦だ……などと申すわけで、そうでもないのに、何かと物騒、は、は、は。"
],
[
"では、ご見物を。",
"心得た。"
],
[
"あんたはんに恥を掻かせた、済まんなあ、……生命の親え。",
"…………",
"二階を下りしなに、何や暗うなって、ふらふらと目がもうて、……まあ、私、ほんに、あの中へ落ちた事なら手足が断れる。"
],
[
"大した勢いでございますのね。",
"ちょっと……出よう。"
],
[
"結構ですわ、ほんとに境さん、ご全盛で。",
"串戯だろう。",
"役者があなた、この大入に、花道で、名前の広告をするんだもの。大したものでなくってさ。"
],
[
"何も私一人というんじゃあなかろう。",
"うんえ、あの台辞で、あなたの桟敷を見て笑ったのを見て、それで気がついた、あなたの来ているのが。……といったわけなんですもの、やすい祝儀じゃでけんでねえ。"
],
[
"馬鹿を言いたまえ、路之助は友だちだぜ。――おかみさん、知ってるじゃないか。",
"それは存じておりますがね、ご全盛には違いませんね。何しろ、しがない待合を、勘定で泣かせようという勢いではありませんです。"
],
[
"一言もない。が、勢いだの全盛なぞは、そっちの誤解さ、お見違えだよ。",
"見違えましたよ、ほんとうに。"
],
[
"大した腕だよ、見上げたあよう。",
"何が。",
"なにがじゃあないじゃないかね、といいたくなるよ。ふんとうに。……新橋柳橋、それとも赤坂……ご同伴は。",
"…………",
"ちょっと見掛けませんね、あのくらいなのは。商売がらお恥かしいんだけれど……三千歳おいらんを素人づくりに……おっと。"
],
[
"何をいってるんだ――同伴はないよ。",
"あら。",
"誰も居やしない。",
"まあ。",
"私一人じゃあないか。",
"おやおやおや。",
"何を見たんだ。",
"ふん、しらじらしい、空ッとぼけもいい加減になさい。あなたがそういう了簡なら、いいから私は居催促をするから、ここへ坐っちまいますから、よござんすか。"
],
[
"仕方がない、じゃあ、ほんとうの事をいおう。",
"いわないでさ。そして、ちょっと顔を貸しますか、それとも膚を……",
"顔にも、膚にも……それは煙だ。",
"またかね、居催促ですよ、坐りますから。",
"あれは霞だ、霧なんだよ。",
"煙草のかねえ。",
"いや芸妓の……幽霊だ。",
"ええ。"
],
[
"行って見たまえ、覗いてごらん、さあ。それが嘘なら、きっとあそこにいやしない。いても、目には見えないから。",
"気味の悪い……いやだねえ。",
"板一枚のなかは、蒸し上るばかりのこの人数だ。幽霊だってどうするものか。行って覗いて見たまえ、というのに。"
],
[
"ここへ来た、幽霊が。",
"ひゃあ。",
"あ、力士の中に芸妓が居る。",
"きゃッ、あれえ、お関取。助けてえ。",
"やあ、何じゃい。"
],
[
"前は、こうではなかったはずです……不良でも入るか知らん。",
"こちらも不良どすな、おほ、ほ。",
"怪しからん、――向う側へ。"
],
[
"ああ、綺麗だ。お絹さん――向い合った不忍の御堂から、天女がきっと覗いておいでだ。",
"おお晴がまし、勿体ないえ。"
],
[
"そこから見えますか、秋色桜。",
"暗うて、よう見えへんけど……先度昼来ておそわった事があるよって、どうやらな、底の方の水もせんせんと聞えるのえ。",
"音羽の滝が響くんでしょうが、秋色は見えないはずだ。そこに立っているんだから。",
"またなぶらはる……発句も知らん、地唄の秋色はんて、どないしょ。"
],
[
"羨しいようですね……串戯じゃない、道理こそ。――来てごらんなさい、こちらの、西側へ俥を廻わしたのが、石段下に、変に遥な谷底で、熊が寝ているようですから。",
"動物園かてあるいうよって、密と出て来やはりしめえんか、おそろしな。"
],
[
"あの俥がひとりでに、石段を、くるくるまいもうて上って来たら、どないしょ、……火の車になっておそろしかろな。",
"お絹さん、そんなことをいうもんじゃあない。帰途に怪我でもあると不可い。",
"それでも、あの段、くるくる舞うてころげた時は、あて、ぱッと帯紐とけて、裸身で落ちるようにあって、土間は血の池、おにが沢山いやはって、大火鉢に火が燃えた。"
],
[
"そんなことをいうから、それ、宙に火が燃えて来た、迎いに来た、それ。",
"ああれ。"
],
[
"へい、わざッとお初穂……若奥様。",
"馬鹿な。",
"ちょっと、手をお貸しなすって。",
"馬鹿な、お初穂もないもんだ。いい加減おみってるじゃないか。",
"へへへ、煮加減の宜い処と、お燗をみて、取のけて置きましたんで、へい、たしかに、その清らかな。",
"馬鹿な、おなじ人間だぜ、くいものは、つッくるみだ。そんな事はかまわないが、大丈夫かい、あとで、俥は?",
"自動車の運転手とは違います、えへへ。駕籠舁と、車夫は、建場で飲むのは仕来りでさ。ご心配なさらねえで、ご緩り。若奥様に、多分にお心付を頂きました。ご冥加でして、へい、どうぞ、お初穂を……"
],
[
"大事ないどすやろえ、お縁の……裏の処には、蜜柑の皮やら、南京豆の袋やら、掃き寄せてあったよってにな。",
"成程、舞台傍の常茶店では、昼間はたしか、うで玉子なぞも売るようです。お定りの菎蒻に、雁もどき、焼豆府と、竹輪などは、玉子より精進の部に入ります。……第一これで安心して、煙草が吹かせる。灰もマッチ殻も、盆へ落すと。……よくない奴だ。――これはどうもお酌は恐縮、重ねては、なお恐縮、よくない奴だ。"
],
[
"あの、これから場所へいうて、二階の上り口へ出ましたやろ。下に大きな人大勢やよって、ちょっと立留まって覗くようにするとな、ああ、灯が点れかけの暗さが来て、逢魔が時や思うたらな、路之助はんの幟が沢山、しんなり揃う青い中から、大き大き顔が出てな。",
"相撲のだね。",
"違います、女子はんの。",
"…………",
"口をばこないにして。"
],
[
"可恐い顔をして睨みはった。それがな、路之助はんのおかみはんえ。",
"路之助?……路之助の……"
],
[
"あんたはんまで、そない言わはる、口惜いえ。",
"が、しかし、つらいでしょう。"
],
[
"そんな時は、これに限る。熱燗をぐっと引っかけて、その勢いで寝るんですな。ナイフの一挺なんざ、太神楽だ。小手しらべの一曲さ。さあ、一つ。",
"やどへ行て。",
"成程。",
"あんたはん、のましてくりゃはりますか。",
"飲ませますとも。",
"嬉しいな、段で、抱いてくれやはった時から、あんたはんは生命の親どす。"
],
[
"私をえ?",
"幽霊にしましたよ。ご免なさいよ。殺した事があるんだから。",
"あんたはんがな。"
],
[
"蛇が、蛇が。",
"何、蛇が。",
"赤い蛇が。"
],
[
"すぐお燗がつきますが。境さん、さきへ冷酒ですか。",
"いや、断ものです。"
],
[
"よく、いすいだかい。",
"綺麗なお銚子。"
],
[
"妻の婚礼道具ですがね、里の父が飲酒家だからですかな。僕は一滴もいけますまい、妻はのまず。……おおん、あの、朝顔以来、内でこれの出たのはそうですなあ、大掃除の時、出入りの車夫に振舞うたばかりですよ。",
"お毒見をいたします。"
],
[
"飲むのかね。",
"大掃除の時の車夫のお銚子ですから。――この方は、あの、雲助も同然の身持だけれど……先生の可愛い弟子です。"
],
[
"間違いがあると、私が、先生に申訳がありません。",
"おおん、何か、私の饒舌った意味を取違えているようだけれど、いいさ、珍らしく飲むのも可かろう……注ぐよ。",
"なみなみと。もう一つ。もっと、もう一度。"
],
[
"境さん、いいでしょう、上げますわ。",
"駕籠屋は建場を急いでいます、早く飲もうと思ってね。",
"おいらんのようにはいきません。お酌は不束ですよ、許して下さい。",
"こっちも駆けつけ三杯と、ごめんを被れ。雲足早き雨空の、おもいがけない、ご馳走ですな。"
],
[
"大分壮になりましたな、おおん。",
"あなた、電燈を捻って下さい。"
],
[
"牛鍋の湯豆府なんか、私の御馳走ではないのですから。……あなたのお頼みなさいました、そのお弟子さんですがね、内へおいでなさるんなら、この覚悟、ね、より以上かも知れませんから。お葱や、豆府はまだしも、糸菎蒻だと思って下さいましね。お腹が冷たくなるんですから……お酒はあります。あ、私にも飲まして頂載。もう一杯もっとさ。",
"いや驚いた、いけますなあ。",
"一生に一度ですもの。",
"え。",
"いいえ、二度です。婚礼の晩、飲みましたの。酔いましたわ。",
"乱暴だなあ。しかし、痛快だ。お酌をするのも頂くのも、ともに光栄です。",
"お兄上。",
"…………",
"おほ、ほ。ああ酔った。私……お兄上にあたる方にお酌をさして罰が当る。……前に、あなたが、まだ、先生のお玄関にいらっしゃる時分、私が時々うかがう毎に、駒下駄を直さして、ああ、勿体ない、そう思う、思う心は、口へは出ず、手も足も固くなるから、突張って、ツンツンして、さぞ高慢に見えたでしょう。髪の毛一筋抜けたって、女は生命にかかわります。置きどころもない身体を、あなたの目に曝すんですもの、形も態もありはしません。文学少女とかいうものだって、鬼神に横道なしですよ。自分で卑下する心から、気がひがんで、あなたの顔が憎らしかった。あなたも私が憎いのね。――ああ、信や(女中)二階で手が鳴る。――虫が煩い。この燈を消して、隣室のを点けておくれな。"
],
[
"何をいってるんです。",
"おいらんは何て方?……十六夜さん、三千歳さん?"
],
[
"媒妁?",
"――名はいいますまい、売ッ子ですよ。私たちのお弟子なかまではありません。別派、学校側の花形で、あなたのお友だちの方に――わかりまして……私を、私をよ、嫁に、妻に世話しようとなすったのは誰方でした。",
"そ、それは、しかし、勿論、何だ。別派、学校側の……可。……その男が、私を通じて、先生まで申出てくれと頼まれたものだから……",
"お料理屋へ私をお呼び下すって……先生が、そのお話を遊ばしたんです。――境が橋わたしの口を、口を利いた、と一言……一言おっしゃるのを聞いた時、私、私……",
"お待ちなさい、待ちたまえ。――だから断ったから差支えないでしょう。",
"ええ、断りましたわ、誰があんな――あんな男に世話しようなんのって、私、あなたが、私あなたが。",
"そりゃ無理だ、そりゃ無理だ、お洲美さん、あなたが、あの男を好きだか、嫌いだか、私がそれを知るもんですか。",
"だって、だって、ちっとでも、私を、私を思って下すったら、怪我にもあんな、あんな奴に。",
"無理だ、そりゃ乱暴だ。",
"ええ、無理です、乱暴です。だから、私、すぐそのあとで、それまで人をかえ、手をかえ、話があるのを断っていた――よござんすか――私も、あなたが大嫌いな、一番嫌いな、何より好かない、此家へ縁付いてしまったんです。ほ、ほ、ほ。"
],
[
"乱暴でしょう。乱暴、乱暴だけど、あの一番嫌いな人を世話しようとした、その口惜さに、世話しようとした人の、あなたですよ、あなたの一番嫌いな男の許へ縁についた。無理です、乱暴です。乱暴ですけど、あなたは、あなただって、そのくらいな著作をなさるじゃありませんか。",
"何にもいわない。――もう、朝顔の、ま、枕の時から、一言もないのです。私は坊主にでもなりたい。"
],
[
"見せますわ、見せましょうね。巡礼を。",
"大賛成です。",
"水木藻蝶さん、うつくしい人の面影ですよ。"
],
[
"や、お洲美さん、失礼ですが、隠して下さい、笠を透して胸が白い、乳が映る。",
"見えますか。",
"申すも憚りだが、袖で隠して。",
"いいえ、いいえ。"
],
[
"嬉しい、胸が見えるんです。さ、遮るものなしに通った、心の記念に、見える胸を、笠を通して捺塗って見て下さい。その幻の消えないうちに。色が白いか何ぞのように、胡粉とはいいませんから、墨ででも、渋ででも。",
"雪が一掴みあればいいと思う。",
"信や……絵の具皿を引攫っておいで。",
"穏かでない、穏かでない、攫うは乱暴だ、私が借りる。"
],
[
"画工でないのが口惜いな。",
"……何ですか蘭竹なんぞ。あなたの目は徹りました、女の乳というものだけでも、これから、きっと立派な文章にかけるんです。"
],
[
"うまいなあ、大野木夫人。",
"知らない。――このくらいな絵は学校で習います。同行二人――あとは、あなた書いて下さいな。",
"御意のままです、畏まった。",
"薄墨だし……字は余りうまくないのね。",
"弘法様じゃあるまいし、巡礼の笠に、名筆が要りますか。",
"頂くわ、頂きますわ。"
],
[
"お、お待ち下さい。――二階が余り静です。気障をいうようだが……その上になお、お髪が乱れる。",
"可厭な、そんな事は、おいらんに。",
"ああ、坊主になります。"
],
[
"――お絹さん、宿へ行って話しましょう。――この笠に、深いわけがあるんですから。",
"そしたら、泊っておくれやすえ、可恐いよって。",
"大きに。"
],
[
"ほんに。",
"いや、一台は、そのまま。幌は掛けたまま頼むよ。"
],
[
"――そうですか、いずれ明日。――お供を……",
"いや、待たせてあります。"
],
[
"は、は、は、どうぞしっかり。",
"さようなら。",
"お静かに。",
"ああ、お洲美さん。"
],
[
"お洲美さん、全く、お庇だ。お洲美さん。",
"旦那、どうか、なさいましたか、旦那。",
"うむ。"
],
[
"婦の友だちだよ。",
"旦那。"
],
[
"うつくしい、儚い人だよ。私の傍に居るようだ。",
"ぎゃあ。",
"ついでにおろしておくれ、山の中を巡礼がしたくなった。",
"降り出しましたぜ、旦那。",
"野宿をするのに、雨なんぞ。……あなたは濡らさない、お洲美さん。",
"わあ、大きな燈籠の中に青い顔が、ぎゃあ。"
]
] | 底本:「泉鏡花集成8」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年5月23日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第二十三卷」岩波書店
1942(昭和17)年6月22日発行
初出:「週刊朝日 第二十一ノ十六号(春季特別號)」
1932(昭和7)年4月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2011年10月21日作成
青空文庫作成ファイル:
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[
[
"や、活きた人間で無うて何でがす……死骸かね、お前様。",
"死骸は酷い。……勿論、魔物に突返されて、火葬に成つた奴だから、死骸も同然なものだらう。ものだらうが、私の気ぢや死骸ではなかつた。生命のある、価値のある、活きたものゝ積りだつた。老爺さん、今のは、彼は、木像だ、製作つた木彫の婦なんだ。",
"木彫の? はて、"
],
[
"で、老爺さん、何か、君は活きた人間で無いから安堵したと言つたね、今の船には係合でもある人か。",
"係合にも何にも、私船の持主でがすよ。",
"此の、魔物。"
],
[
"もの、此処さ城趾の、お天守へ上らつしやりは為ねえかの。",
"為ねえかぢや無からう。昨夜貴様に何処で逢つた?",
"先づ、むゝ、其で分つた。",
"分つたか。いや昨夜は失礼したよ、魔物の隊長。",
"はて、迷惑な、私う魔物だと思はつしやる。",
"魔物で無くて、魔物で無くて、汝、五位鷺が漕出して、濠の中で自然に焼ける……不思議な船の持主が有るものか。",
"成程、何も仔細を知らつしやらぬお前様は、様子を見ても、此処等の人ではござらつしやらぬ。",
"那様な事を言つて何うする、貴様は奪つて行つた俺の女房の、町処まで知つてるでは無いか。",
"急かつしやるな。此の山裾の、双六温泉へ、湯治に来さつせえた人だんべいの。",
"知れた事を、貴様がお浦を掴出した、……あの旅籠屋に逗留して居る。",
"そんなら、はい、無理はねえだ。"
],
[
"あの……木葉船はの、丁と自然に動くでがすよ……土地のものは知つとります。で、鷺の船頭と渾名するだ。それ、見さしつた通り、五位鷺が漕ぐべいがね。",
"漕ぐのは鷺でも鳶でも構はん。漕がせるのは人間ぢや無いのだらう。"
],
[
"えゝ、拵へる、而して魔物では無いと言ふのか。",
"随意にさつしやりませ。すつとこ被りをした天狗様があつて成ろかい。気を静めさつしやるが可い。嘘だ思ふなら、退屈せずに四日五日、私が小屋へ来て対向ひに座つてござれ、ごし〳〵こつ〳〵と打敲いて、同一船を、主が目の前で拵へて見せるだ。"
],
[
"何うして作る。",
"何うして作る? ……つひ一寸くら手真似で話されるもんではねえ。此の胸に、機関を知つとります。",
"機関か。",
"危険な機関だで、小さく拵へて、小児の玩弄にも成りましねえ。が、親譲りの秘伝ものだ、はツはツはツ、"
],
[
"何も、家伝の秘法の言ふて、勿体を附けるでねえがね……祖父の代から為た事を、見やう見真似に遣るでがすよ。",
"其ぢや、三代船大工か。"
],
[
"旦那、はて、お前様、何言はつしやる。何うさつしやる……気を静めてくらつせえよ。",
"否、何うぞ、失礼ながらお名告り下さい。御覧の通り、私は何うかして居る。……夢なんだか、現なんだか、自分だか他人だか、宛然弁別が無いほどです――前刻からお話し被為つた事も、其方では唯あはあは笑つて居らつしやるのが、種々な言に成つて、私の耳に聞こえるのかも分りません。が、其に為てもお聞かせ下さい。お名が此の耳へ入れば、私は私だけで、承つたことゝ了見します。香村雪枝つて言ふんです。先生、真個は靱負と言つて、昔の侍のやうな名なんですが、其を其のまゝ雪の枝と書いて、号にして居る若輩ものです。",
"えゝ〳〵、困つたな、これは。名を言へなら、言ふだけれど、改つては面目ねえ。"
],
[
"へい、些と爺には似合ひましねえ、村の衆も笑ふでがすが、八才ぐれえな小児だね、へい、菊松つて言ふでがすよ。",
"菊松先生、貴下は凡人では居らつしやらない。",
"勘弁して下らつせえ。うゝとも、すうとも返答打つ術もねえだ…私、先生と言はれるは、臍の緒切つては最初だでね。",
"何とも御謙遜で、申上げやうもありません。大先生、貴下で無くつて、何うして、彼の五位鷺が刻めます。あの船が動かせます。而して、其の秘密を人に知らせまいために、天の火で焚くと見せて、船をお秘しなさるんでせう。",
"お前様もの、祖父殿の真似をするだ、で、私が自由には成んねえだ。間違へて先生だ、師匠だ言はつしやるなら、祖父殿を然う呼ばらつせえ。"
],
[
"え、貴下かも分らん、貴下かも知れません。先生、仰有つて下さい、一生のお願ひです。",
"若え旦那、祖父殿が事は私も知らんで、何か言はつしやりますやうな悪戯を為たかも分らねえ。私は早や、獅子鼻や団栗目、御神酒徳利の口なら真似も遣るが、弁天様は手に負えねえ……まあ、そんな事は措かつしやい。ぢやが、お前様は山が先生、水が師匠と言ふわけ合で、私等が気にや天上界のやうな東京から、遥々と……飛騨の山家までござつたかね。"
],
[
"あゝ、お知己の店なんですか。",
"昔の恋でがす。彼でもの、お前様、新造盛りの事も有つけ。人形を欲しがる時分ぢや。なんぼ山鳥のおろのかゞみで、頤髯さ撫でた処で、木の枝で、鋸を使ひ〳〵、猿の脚と並んだ尻を、下から見せては落つこちねえ。其処で、人形やら、おかめの面やら、御機嫌取に拵へて持つて行つては、莞爾させて他愛なく見惚れて居たものでがす。はゝゝ、はじめの内は納戸の押入へ飾つての、見るな見るな、と云ふ。恐ろしい、男を食つて骨を秘す、と村のものが嬲つたつけの……真個の孤屋の鬼に成つて、狸婆が、旧の色仕掛けで私に強請つて、今では銭にするでがすが、旦那、何か買はしつたか、沢山直切らつしやれば可かつけな。"
],
[
"鼻の円い、額の広い、口の大い、……其の顔を、然も厭な色の火が燃えたので、暗夜に見ました。……坊主は狐火だ、と言つたんです。",
"それ〳〵、其の坊様なら、宵の口に私が頼んで四手場に居て貰ふたのぢや……、はあ、其処へお前様が行逢はしつたの。はて、どうも、妙智力、旦那様と私は縁が有るだね。",
"確に師弟の縁が有ると思ひます、"
],
[
"聞けば聞くほど、へい、何とも言ひやうはねえ。けんども、お前様、お少えに、其の位の事に、然う気い落さつしやるもんでねえ。たかゞあれだ、昨夜持つて行かしつた其の形代の像が、お天守の…何様か腑に落ちねえ処があるで、約束の通り奥様を返さねえもんでがんしよ。だで、最う一ツ拵えさつせえ。美い婦の木像さ又遣直すだね。えゝ、お前様、対手が七六ヶしいだけに張合がある……案山子ぢや成んねえ。素袍でも着た徒が玉の輿持つて、へい、お迎、と下座するのを作らつせえ。えゝ! と元気を出さつしやりまし。",
"其処です、老爺さん、"
],
[
"お助けを遣はされ、さあ、少い人、願へ。",
"姫様、"
],
[
"そんなら、私が勝ちましたら、奥様をお返しなさいますね。",
"御念に及ばぬ、城ヶ沼の底に湧く……霊泉に浴させて、傷もなく疲労もなく苦悩もなく、健かにしてお返し申す。"
],
[
"天守のお方。どちらの駒を……",
"赫耀として日に輝く、黄金の花は勝色、鼓草を私が方へ。"
],
[
"ざ! 上﨟、",
"お客なれば貴僧から、"
],
[
"お姫様、それ〳〵、星が一つで、梅が五ぢや。瞬する間に、十度も目が出る。早く、もし、其で勝負を着けさつせえまし。",
"天下の重宝、私もつひ是に気が着かなんだ。"
],
[
"貴翁がお家重代の、其の小刀を、雪様にお貸し下さいまし。",
"心得ました。"
],
[
"成程、お天守で不足は言ふまい、が、当事もない、滅法界な。",
"雪様、痛くはない。血も出ぬ、眉を顰めるほどもない。突いて、斬つて、さあ、小刀で、此のなりに、……此のなりに、……",
"思切る、断念めた、女房なんぞ汚らはしい。貴女と一所に置いて下さい、お爺さんも頼んで下さい、最う一度手を取つて、"
]
] | 底本:「新編 泉鏡花集 第八巻」岩波書店
2004(平成16)年1月7日第1刷発行
底本の親本:「神鑿」文泉堂書房
1909(明治42)年9月16日
初出:「神鑿」文泉堂書房
1909(明治42)年9月16日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「をんせん」と「おんせん」、「城趾」と「城址」、「鎗《やり》ヶ|嶽《だけ》」と「槍《やり》ヶ|嶽《だけ》」の混在は底本の通りです。
※「魚」に対するルビの「うを」と「いを」、「水底」に対するルビの「みずそこ」と「みづそこ」、「灰」に対するルビの「はひ」と「はい」、「烏帽子」に対するルビの「えばうし」と「えぼうし」の混在は、底本通りです。
※表題は底本では、「神鑿《しんさく》」となっています。
※初出時の署名は「鏡花小史」です。
入力:砂場清隆
校正:門田裕志
2007年8月12日作成
2016年2月22日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "043467",
"作品名": "神鑿",
"作品名読み": "しんさく",
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"初出": "「神鑿」文泉堂書房、1909(明治42)年9月16日",
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"文字遣い種別": "新字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
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} |
[
[
"――万事、その気でござらっしゃれよ。",
"勿論です――"
],
[
"おお。",
"爺ン爺いよう。",
"……爺ン爺い、とこくわ――おおよ。",
"媼ン媼が、なあえ、すぐに帰って、ござれとよう。",
"酒でも餅でもあんめえが、……やあ。",
"知らねえよう。",
"客人と、やい、明神様詣るだと、言うだあよう。",
"何でも帰れ、とよう。媼ン媼が言うだがええ。"
],
[
"小県ですよ、ほんとう以上の小県銑吉です、私です。――ここに居ますがね。……築地の、東京の築地の、お誓さん、きみこそ、いや、あなたこそ、ほんとうのお誓さんですか。",
"ええ、誓ですの、誓ですの、誓の身の果なんですの。",
"あ、危い。"
],
[
"しかし、その薙刀を何とかして下さらないか。どうも、まことに、危いのですよ。",
"いま、そちらへ参りますよ。"
],
[
"両掌でなさい、両掌で……明神様の水でしょう。野郎に見得も何にもいりゃしません。",
"はい、いいえ。"
],
[
"だって、両掌を突込まないじゃ、いけないじゃありませんか。",
"ええ、あの柄杓があるんですけど。",
"柄杓、"
],
[
"ああ、手近です。あげましょう。青い苔だけれどもね、乾いているから安心です、さあ。",
"済みません、小県さん、私知っていましたんですけど、つい、とっちてしまいましたの。",
"ところで……ちょっとお待ちなさい。この水は飲んで差支えないんですかね。",
"ええ、冷い、おいしい、私は毎日のように飲んでいます。"
],
[
"うらやましいなあ。飲んだらこっちへ貸して下さい。",
"私が。"
],
[
"どうしました。",
"髪がこんなですから、毛が落ちているといけませんわ。",
"満々と下さい。ありがたい、これは冷い。一気には舌が縮みますね。"
],
[
"まあ、おきれいですこと。",
"水?……勿論!",
"いいえ、あなたが。",
"あなたが。",
"さっき、絵馬を見ていらっしゃいました時もおきれいだと思ったんですが、清水を一息にめしあがる処が、あの……",
"いや、どうも、そりゃちと違いましょう。牛肉のバタ焼の黒煙を立てて、腐った樽柿の息を吹くのと、明神の清水を汲んで、松風を吸ったのでは、それは、いくらか違わなくっては。"
],
[
"透通るほどなのは、あなたさ。",
"ええ。"
],
[
"その人もわかりました。いまおなじ人が、この明神様に籠ったのもわかったのです。が、お待ちなさいよ。絵馬を、私が視ていた時、お誓さんは、どこに居て……",
"ええ、そして、あの、何をしたんだとおっしゃいましょう。"
],
[
"……わけを言います、小県さん、……言いますが、恥かしいのと、口惜いのとで、息が詰って、声も出なくなりましたら、こんな、私のような、こんな身体に、手をお掛けになるまでもありません。この柄杓の柄を、ただお離しなすって下さい。そのままのめって、人間の青い苔……",
"いや、こうして、あなたと半分持った、柄杓の柄は離しません。",
"あの、そのお優しいお心でしたら、きつけの水を下さいまし……私は、貴方を……おきれいだ、と申しましたわね、ねえ。",
"忘れました、そういう串戯をきいていたくはないのです。",
"いえ、串戯ではないのですが。いま、あの、私は、あの薙刀で、このお腹を引破って、肝も臓腑も……"
],
[
"――そこへ、貴方のお姿が、すっと雲からおさがりなすったように……",
"何、私なら落ちたんでしょう。",
"そして、石段の上口に見えました。まるで誰も来ないのを知って、こちらへ参っているのですし、土地の巧者な、お爺さんに頼みまして、この二三日、来る人も留めてもらうように用意をしていましたんですもの! 思いもよらない、参詣の、それが貴方。格子から熟と覗いていますと、この水へ、影もうつりそうな、小県さんなんですもの、貴方なんですもの。"
],
[
"こんな、こんな処、奥州の山の上で。",
"御同様です。",
"その拝殿を、一旦むこうの隅へ急いで遁げました。正面に奥の院へ通います階段と石段と。……間は、樹も草も蓬々と茂っています。その階段の下へかくれて、またよく見ました。寸分お違いなさらない、東京の小県さん――おきれいなのがなおあやしい、怪しいどころか可恐いんです。――ばけものが来た、ばけて来た、畜生、また、来た。ばけものだ!……と思ったんです。",
"…………"
],
[
"ははあ、たちまち一打……薙刀ですな。",
"明神様のお持料です。それでも持ったのが私です、討てる、切れるとは思いませんが――畜生――叩倒してやろうと思って、",
"切られる分には、まだ、不具です。薙倒されては真二つです、危い、危い。"
],
[
"堪忍して下さいな、貴方をばけものだと思った私は、浅間しい獣です、畜生です、犬です、犬に噛まれたとお思いになって。",
"馬鹿なことを……飛んでもない、犬に咬まれるくらいなら、私はお誓さんの薙刀に掛けられますよ。かすり疵も負わないから、太腹らしく太平楽をいうのではないんだが、怒りも怨みもしやしません。気やすく、落着いてお話しなさい。あなたは少しどうかしている、気を沈めて。……これは、ばけものの手触りかも知れませんよ。"
],
[
"……小県さん、女が、女の不束で、絶家を起す、家を立てたい――",
"絶家を起す、家を起てたい……",
"ええ、その考えは、間違っていますでしょうか。",
"何が、間違いです。誰が間違いだと云いました。とんでもない、天晴れじゃありませんか。",
"私の父は、この土地のものなんです。",
"ああ、成程。"
],
[
"神、仏の目には、何の咎、何の罪もない。あなたのような人間を、かえって悪魔は狙うのですよ。幾年目かに朽ちた牡丹の花が咲いた……それは嘘ではありますまい。人は見て奇瑞とするが、魔が咲かせたかも知れないんです。反対に、お誓さんが故郷へ帰った、その瑞兆が顕われたとして、しかも家の骨に地蔵尊を祭る奇特がある。功徳、恭養、善行、美事、その只中を狙うのが、悪魔の役です。どっちにしろ可恐しい、早くそこを通抜けよう。さ、あなたも目をつむって、観音様の前へおいでなさい。",
"――ある時、和尚さんが、お寺へ紅白の切を、何ほどか寄進をして欲しいものじゃ、とおっしゃるんです。寺の用でない、諸人の施行のためじゃけれど、この通りの貧乏寺。……ええ、私の方から、おやくに立ちますならお願い申したいほどですわ。三反持って参りますと、六尺ずつに切りたいが、鋏というものもなし……庖丁ではどうであろう。まあ、手で裂いても間に合いますわ。和尚さんに手伝って三方の上へ重ねました時、つい、それまでは不信心な、何にも知らずにおりました。子育ての慈愛をなさいます、五月帯のわけを聞きまして、時も時、折も折ですし、……観音様。"
],
[
"つい女気で、紅い切を上へ積んだものですから、真上のを、内証で、そっと、頂いたんです。",
"それは、めでたい。――結構ではないか、お誓さん。"
],
[
"そんな、あの、大それた、高望みはしませんけれど、女の子かも知れないと思いました。五日、七日、二夜、三夜、観音様の前に静としていますうちに、そういえば、今時、天狗も※(けものへん+非)々も居まいし、第一獣の臭気がしません。くされたというは心持で、何ですか、水に棲むもののような気がするし、森の香の、時々峰からおろす松風と一所に通って来るのも、水神、山の神に魅入られたのかも分らない。ええ、因果と業。不具でも、虫でもいい。鳶鴉でも、鮒、鰌でも構わない。その子を連れて、勧進比丘尼で、諸国を廻って親子の見世ものになったらそれまで、どうなるものか。……そうすると、気が易くなりました。",
"ああ、観音の利益だなあ。"
],
[
"その御利益を、小県さん、頂いてだけいればよかったんですけれど――早くから、関屋からこの辺かけて、鳥の学者、博士が居ます。",
"…………",
"鳥の巣に近づくため、撃つために、いろいろな……あんな形もする、こうもする。……頭に樹の枝をかぶったり、かずらや枯葉を腰へ巻いたり……何の気もなしに、孫八ッて……その飴屋の爺さんが夜話するのを、一言……"
],
[
"お誓さん、お誓さん。――その辺に、綺麗な虫が一つ居はしませんか、虫が。",
"ええ。",
"居る?",
"ええ。居ますわ。"
],
[
"大変な毒虫だよ。――支度はいいね、お誓さん、お堂の下へおりて下さい。さあ……その櫛……指を、唇へ触りはしまいね。",
"櫛は峰の方を啣えました。でも、指はあの、鬢の毛を撫でつけます時、水がなかったもんですから、つい……いいえ、毒にあたれば、神様のおぼしめしです。こんな身体を、構わんですわ。"
],
[
"大沼の方へ飛びました。明神様の導きです。あすこへ行きます、行って……",
"行って、どうします? 行って。",
"もうこんな気になりましては、腹の子をお守り遊ばす、観音様の腹帯を、肌につけてはいられません。解きます処、棄てます処、流す処がなかったのです。女の肌につけたものが一度は人目に触れるんですもの。抽斗にしまって封をすれば、仏様の情を仇の女の邪念で、蛇、蛭に、のびちぢみ、ちぎれて、蜘蛛になるかも知れない。やり場がなかったんですのに、導びきと一所に、お諭しなんです。小県さん。あの沼は、真中が渦を巻いて底知れず水を巻込むんですって、爺さんに聞いています……"
]
] | 底本:「泉鏡花集成9」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年6月24日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第二十三卷」岩波書店
1942(昭和17)年6月22日発行
入力:門田裕志
校正:土屋隆
2006年3月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
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[
[
"爺や、この茸は毒なんか。",
"え、お前様、そいつあ、うっかりしようもんなら殺られますぜ。紅茸といってね、見ると綺麗でさ。それ、表は紅を流したようで、裏はハア真白で、茸の中じゃあ一番うつくしいんだけんど、食べられましねえ。あぶれた手合が欲しそうに見ちゃあ指をくわえるやつでね、そいつばッかりゃ塩を浴びせたって埒明きませぬじゃ、おッぽり出してしまわっせえよ。はい、"
],
[
"食べやしないんだよ。爺や、ただ玩弄にするんだから。",
"それならば可うごすが。"
],
[
"一杯呑ましておくれな。咽喉が渇いて、しようがないんだから。",
"さあさあ、いまお寺から汲んで来たお初穂だ、あがんなさい。"
],
[
"柄杓がないな、爺や、お前ン処まで一所に行こう。",
"何が、仏様へお茶を煮てあげるんだけんど、お前様のきれいなお手だ、ようごす、つッこんで呑まっしゃいさ。"
],
[
"千ちゃん。",
"え。"
],
[
"どうもこれじゃあ密通をしようという顔じゃあないね。",
"何をいうんだ。",
"何をもないもんですよ。千ちゃん! お前様は。"
],
[
"一体お前様まあ、どうしたというんですね、驚いたじゃアありませんか。",
"何をいうんだ。"
],
[
"摩耶さんが知っておいでだよ、私は何にも分らないんだ。",
"え、分らない。お前さん、まあ、だって御自分のことが御自分に。"
],
[
"お前、それが分る位なら、何もこんなにゃなりやしない。",
"ああれ、またここでもこうだもの。"
],
[
"別にどうってことはないんだ。",
"まあ。",
"別に、",
"まあさ、御飯をたいて。",
"詰らないことを。",
"まあさ、御飯をたいて、食べて、それから、",
"話をしてるよ。",
"話をして、それから。",
"知らない。",
"まあ、それから。",
"寝っちまうさ。",
"串戯じゃあないよ。そしてお前様、いつまでそうしているつもりなの。",
"死ぬまで。"
],
[
"何がさ。",
"何がじゃあないよ、お前さん出来たのなら出来たで可いじゃあないか、いっておしまいよ。",
"だって、出来たって分らないもの。"
],
[
"摩耶さんは、何とおいいだったえ。",
"御新造さんは、なかよしの朋達だって。"
],
[
"だって、何も自分じゃあ気がつかなかったんだから、どういうわけだか知りやしないよ。",
"知らないたって、どうもおかしいじゃアありませんか。",
"摩耶さんに聞くさ。",
"御新造様に聞きゃ、やっぱり千ちゃんにお聞き、とそうおっしゃるんだもの。何が何だか私たちにゃあちっとも訳がわかりやしない。"
],
[
"お前も知っておいでだね、母上は身を投げてお亡くなんなすったのを。",
"ああ。",
"ありゃね、尼様が殺したんだ。",
"何ですと。"
]
] | 底本:「泉鏡花集成3」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年1月24日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第三卷」岩波書店
1941(昭和16)年12月25日第1刷発行
初出:「新著月刊」
1897(明治30)年7月
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2009年3月25日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "048393",
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"初出": "「新著月刊」1897(明治30)年7月",
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"没年月日": "1939-09-07",
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[
[
"時に旦那様。",
"むむ、",
"まあ可哀そうだと思召しまし、この間お休み遊ばしました時、ちょっと参りましたあの女でございますが、御串戯ではございましょうが、旦那様も佳い女だな、とおっしゃって下さいましたあのことでございますがね、"
],
[
"おお、どうかしたか、本当に容子の佳い女だよ。",
"はい、容子の可い女で。旦那様は都でいらっしゃいます、別にお目にも留りますまいが、私どもの目からはまるでもう弁天様か小町かと見えますほどです。それに深切で優しいおとなしい女でございまして、あれで一枚着飾らせますれば、上つ方のお姫様と申しても宜い位。"
],
[
"串戯をいっては不可ん、私は学生だよ。",
"あら、あんなことをおっしゃって、貴方は何ぞの先生様でいらっしゃいますよ。"
],
[
"煩っておりますので、",
"何、煩って、",
"はい、煩っておりますのでございますが。……"
],
[
"鼻、何鼻の大きい老人、",
"御覧じゃりましたかね。",
"むむ、過日来る時奇代な人間が居ると思ったが、それか。",
"それでございますとも。"
],
[
"あの藪を出て、少し行った路傍の日当の可い処に植木屋の木戸とも思うのがある。",
"はい、植吉でございます。"
],
[
"でございましょうね、旦那様。",
"高いんじゃあないな、あれは希代だ。一体馬面で顔も胴位あろう、白い髯が針を刻んでなすりつけたように生えている、頤といったら臍の下に届いて、その腮の処まで垂下って、口へ押冠さった鼻の尖はぜんまいのように巻いているじゃあないか。薄紅く色がついてその癖筋が通っちゃあいないな。目はしょぼしょぼして眉が薄い、腰が曲って大儀そうに、船頭が持つ櫂のような握太な、短い杖をな、唇へあてて手をその上へ重ねて、あれじゃあ持重りがするだろう、鼻を乗せて、気だるそうな、退屈らしい、呼吸づかいも切なそうで、病後り見たような、およそ何だ、身体中の精分が不残集って熟したような鼻ッつきだ。そして背を屈めて立った処は、鴻の鳥が寝ているとしか思われぬ。",
"ええ、もう傘のお化がとんぼを切った形なんでございますよ。",
"芬とえた村へ入ったような臭がする、その爺、余り日南ぼッこを仕過ぎて逆上せたと思われる、大きな真鍮の耳掻を持って、片手で鼻に杖をついたなり、馬面を据えておいて、耳の穴を掻きはじめた。",
"あれは癖でございまして、どんな時でも耳掻を放しましたことはないのでございます。"
],
[
"まずあれは易者なんで、佐助めが奥様に勧めましたのでございます、鼻は卜をいたします。",
"卜を。",
"はい、卜をいたしますが、旦那様、あの筮竹を読んで算木を並べます、ああいうのではございません。二三度何とかいう新聞にも大騒ぎを遣って書きました。耶蘇の方でむずかしい、予言者とか何とか申しますとのこと、やっぱり活如来様が千年のあとまでお見通しで、あれはああ、これはこうと御存じでいらっしゃるといったようなものでございますとさ。"
],
[
"お可煩くはいらっしゃいませんか、",
"悉しく聞こうよ。"
],
[
"一年、やっぱりその五月雨の晩に破風から鼻を出した処で、(何ぞお望のものを)と申上げますと、(ただ据えておけば可い、女房を一人、)とそういったそうでございます。",
"ふむ、"
],
[
"厭よう、つかまえられるよう。",
"誰に、誰につかまえられるんだよ。",
"厭ですよ、あれ、巡査さん。"
]
] | 底本:「泉鏡花集成2」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年4月24日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第六卷」岩波書店
1941(昭和16)年11月10日発行
入力:門田裕志
校正:土屋隆
2007年2月18日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "004559",
"作品名": "政談十二社",
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"名読み": "きょうか",
"姓読みソート用": "いすみ",
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"姓ローマ字": "Izumi",
"名ローマ字": "Kyoka",
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"没年月日": "1939-09-07",
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"昨夜はどちらでお泊り。",
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],
[
"蔦屋さんのお嬢さんに、お目にかかりたくて参りました。",
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],
[
"貴女は?",
"私は一つ上……",
"四緑のう。"
]
] | 底本:「泉鏡花集成7」ちくま文庫、筑摩書房
1995(平成7)年12月4日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第二十一卷」岩波書店
1941(昭和16)年9月30日
入力:門田裕志
校正:土屋隆
2005年11月1日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "043224",
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} |
[
[
"昨夜は何方でお泊り。",
"武生でございます。",
"蔦屋ですな、綺麗な娘さんが居ます。勿論、御覽でせう。"
],
[
"蔦屋さんのお孃さんに、お目にかゝりたくて參りました。",
"米は私でございます。"
],
[
"貴女は?",
"私は一つ上……",
"四緑なう。"
]
] | 底本:「鏡花全集 卷二十一」岩波書店
1941(昭和16)年9月30日第1刷発行
1975(昭和50)年7月2日第2刷発行
入力:土屋隆
校正:門田裕志
2005年11月1日作成
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "001184",
"作品名": "雪霊記事",
"作品名読み": "せつれいきじ",
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"姓ローマ字": "Izumi",
"名ローマ字": "Kyoka",
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"底本名1": "鏡花全集 卷二十一",
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} |
[
[
"奴、入れ、さあ、何が熱い、何が熱いんだい。べらぼうめ、弱い音を吐くねえ、此の小僧、何うだ。",
"うむ、入るよ。"
]
] | 底本:「鏡花全集 巻二十七」岩波書店
1942(昭和17)年10月20日第1刷発行
1988(昭和63)年11月2日第3刷発行
※題名の下にあった年代の注を、最後に移しました。
※表題は底本では、「錢湯《せんたう》」とルビがついています。
入力:門田裕志
校正:川山隆
2011年8月6日作成
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "004594",
"作品名": "銭湯",
"作品名読み": "せんとう",
"ソート用読み": "せんとう",
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"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "旧字旧仮名",
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"公開日": "2011-09-20T00:00:00",
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"人物ID": "000050",
"姓": "泉",
"名": "鏡花",
"姓読み": "いずみ",
"名読み": "きょうか",
"姓読みソート用": "いすみ",
"名読みソート用": "きようか",
"姓ローマ字": "Izumi",
"名ローマ字": "Kyoka",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1873-11-04",
"没年月日": "1939-09-07",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "鏡花全集 巻二十七",
"底本出版社名1": "岩波書店",
"底本初版発行年1": "1942(昭和17)年10月20日",
"入力に使用した版1": "1988(昭和63)年11月2日第3刷",
"校正に使用した版1": "1976(昭和51)年1月6日第2刷 ",
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} |
[
[
"御当家でも――実に……",
"全くでございます。"
],
[
"あちらの御都合で、お線香を。",
"一寸、御挨拶を。"
],
[
"困りました。",
"…………",
"なくなられては困りましたなあ。"
],
[
"唯々、お察し申上げます。",
"は。"
],
[
"私も困ります。",
"…………",
"寂くつて、世間が暗いやうです。――衣絵さんはおなくなりなさいました。",
"…………",
"香川さん。――しかし、今では、衣絵さんを、衣絵さんを、",
"…………",
"私が、思、思つても! ……"
],
[
"何ですか。",
"失礼ですが、私の目は何うかなつては居ないでせうか。",
"貴方――何うかして居ますね。……確乎なさらなくつちやあ不可いぢやあゝりませんか。"
],
[
"船でなけりや、富山と言ふのへ上るだね。はい、其処だと、松島が残らず一目に見えますだ。",
"ださうだね。何しろ、船で巡るか、富山へ上らないぢやあ、松島の景色は論ずべからずと、ちやんと戒められて居るんだよ。",
"何うでがすね、此から、富山へおのぼりに成つては、はい、一里たらずだ、一息だで。",
"いや、それよりも、早く帰つて、墓参がしたくなつた。",
"へい。"
],
[
"降りやう、――降りやう。",
"何、旦那、大丈夫で、昨日も此処を通つたゞね、馴れてるだよ。",
"いや、昨日も、はら〳〵したつけが、まだ濡れて居たから、輪をくつて、お前さんが挽きにくいまでも、まだ可かつた。泥濘が薬研のやうに乾いたんぢやあ、大変だ。転んだ処で怪我もしまいが、……此の咲いてる花に極が悪い。"
],
[
"東京から来らつしやる方は、誰方も花がお好きだアなあ。",
"いろんな可愛いのが、路傍に咲いて居るんだ。誰だつて悪くはあるまい。",
"此人方等は、実の成る奴か、食へるんでなくつては、黄色いのも、青いのも、小こいものを、何にすべいよ。"
],
[
"然うだ、然うだ、思ひつけた。旦那、あなた様、とこなつと言ふ草は知つてるだかね。",
"常夏。",
"それよ。",
"撫子の事ぢやあないか。",
"それよ――矢張り……然うだ――忘れもしねえ。……矢張り同じやうな事を言はしつけが、私等にや其の撫子が早や分んねえだ。――何ね、今から、二三年、然うだねえ、彼れこれ四年には成るづらか。東京から来なさつたな、そりや、何うも容子たら、容色たら、そりや何うも美い若い奥様がな。",
"一人かい。",
"へゝい、お二人づれで。――旦那様は、洋服で、それ、絵を描く方が、こゝへぶら下げておいでなさる、あの器械を持つて居らしつけえ。――忘れもしねえだ、若奥様は、綺麗な縫の肩掛を手に持つてよ。紫がゝつた黒い処へ、一面に、はい、桜の花びらのちら〳〵かゝつた、コートをめしてな。"
],
[
"へ、へ、転ぶと、そこらの花に恥かしい。……うつ、へ、へ。御尢もだで。旦那は目が早いだやあ。",
"何だ。",
"へ、へ、私あまた。真個の草葉の花かと思つたゞ、",
"何だよ……",
"なんだよつて、へ、へ、へ。そこな、酸模、蚊帳釣草の彼方に、きれいな花が、へ、へ、花が、うつむいて、草を摘んで居なさるだ。",
"え。",
"や――旦那、――旦那でがせう。其方を見ながら。招かつしやるは。",
"これ。",
"や、私で、――へい、私で。"
],
[
"旦那、旦那、旦那……",
"何。",
"あなた様にも、御覧なせえと……若奥様が。"
]
] | 底本:「新編 泉鏡花集 第十巻」岩波書店
2004(平成16)年4月23日第1刷発行
底本の親本:「新柳集」春陽堂
1922(大正11)年1月1日
初出:「国本 第一巻第八号」国本社
1921(大正10)年8月1日
※表題は底本では、「続銀鼎《ぞくぎんかなえ》」となっています。
※初出時の署名は「泉鏡花」です。
※「灯《ひ》」と「燈《ひ》」の混在は、底本通りです。
※「触」に対するルビの「さわ」と「さは」の混在は、底本通りです。
※「藤」に対するルビの「ふじ」と「ふぢ」の混在は、底本通りです。
※「藤紫」に対するルビの「ふじむらさき」と「ふぢむらさき」の混在は、底本通りです。
※「入」に対するルビの「はひ」と「はい」の混在は、底本通りです。
※「香」に対するルビの「かほり」と「かをり」の混在は、底本通りです。
入力:日根敏晶
校正:門田裕志
2016年9月2日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "057488",
"作品名": "続銀鼎",
"作品名読み": "ぞくぎんかなえ",
"ソート用読み": "そくきんかなえ",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「国本 第一巻第八号」国本社、1921(大正10)年8月1日",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2016-09-07T00:00:00",
"最終更新日": "2016-09-02T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card57488.html",
"人物ID": "000050",
"姓": "泉",
"名": "鏡花",
"姓読み": "いずみ",
"名読み": "きょうか",
"姓読みソート用": "いすみ",
"名読みソート用": "きようか",
"姓ローマ字": "Izumi",
"名ローマ字": "Kyoka",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1873-11-04",
"没年月日": "1939-09-07",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "新編 泉鏡花集 第十巻",
"底本出版社名1": "岩波書店",
"底本初版発行年1": "2004(平成16)年4月23日",
"入力に使用した版1": "2004(平成16)年4月23日第1刷",
"校正に使用した版1": "2004(平成16)年4月23日第1刷",
"底本の親本名1": "新柳集",
"底本の親本出版社名1": "春陽堂",
"底本の親本初版発行年1": "1922(大正11)年1月1日",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "日根敏晶",
"校正者": "門田裕志",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/57488_ruby_59585.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2016-09-02T00:00:00",
"テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"テキストファイル文字集合": "JIS X 0208",
"テキストファイル修正回数": "0",
"XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/57488_59627.html",
"XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2016-09-02T00:00:00",
"XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"この最好というのは。",
"当人が何より、いい事、嬉しい事、好な事を引くるめてちょっと金麩羅にして頬張るんだ。"
],
[
"吉岡さん、お宅からお使でございます。",
"内から……",
"へい、女中さんがお見えなさいました。",
"何てって?",
"ちょっと、お顔をッて、お玄関にお待ちでございます。"
],
[
"入れよ、こっちへ。",
"傘も何も、あの、雪で一杯でございますから。皆様のお穿ものが、"
],
[
"誰だ。",
"あの、宮本様とおっしゃいます。",
"宮本……どんな男だ。"
],
[
"いいえ、御婦人の方でいらっしゃいます。",
"婦が?",
"はい。",
"婦だ……待ってるのか。",
"ええ、是非お目にかかりとうございますって。",
"はてな、……"
],
[
"それに、あの、お出先へお迎いに行くのなら、御朋輩の方に、御自分の事をお知らせ申さないように、内証でと、くれぐれも、お託けでございましたものですから。",
"変だな、おかしいな、どこのものだか言ったかい。",
"ええ、御遠方。",
"遠い処か。",
"深川からとおっしゃいました。",
"ああ、襟巻なんか取らんでも可い。……お帰り。"
],
[
"どういたしましょう。",
"……可し、直ぐ帰る。"
],
[
"今晩は。",
"はい、今晩は。"
],
[
"今晩は。誰方様で?",
"お宅に染次ってのは居りますか。",
"はい居りますでございますが。"
],
[
"それじゃまた来ましょう。",
"まあ、貴方。"
],
[
"直きに帰りますから、まあ、お上んなさいまし。",
"いや、途中で困ったから傘を借りたいと思ったんですが、もう雨も上りましたよ。",
"あら、貴方、串戯じゃありません。私が染ちゃんに叱られますわ、お帰し申すもんですかよ。"
],
[
"可厭な媽々だな。",
"まだ聞えますよ。"
],
[
"邪慳だねえ。",
"泣いてるのか、何だな、大な姉さんが。",
"……お前さん、可懐しい、恋しいに、年齢に加減はありませんわね。",
"何しろ、お前、……こんな路地端に立ってちゃ、しょうがない。",
"ああ、早く行きましょう。"
],
[
"なぜだい。",
"悟られやしないかと思ってさ。",
"何を?……",
"だって、何をッて、お前さん、どこか、お茶屋か、待合からかけてくれれば可いじゃありませんか、唐突に内へなんぞ来るんだもの。"
],
[
"何にも言わないで、いきなり噛りつきたかったんだけれど、澄し返って、悠々と髪を撫着けたりなんかして。",
"行場がないから、熟々拝見をしましたよ、……眩しい事でございました。"
],
[
"いいえ、結構でございました、湯あがりの水髪で、薄化粧を颯と直したのに、別してはまた緋縮緬のお襦袢を召した処と来た日にゃ。",
"あれさ、止して頂戴……火鉢の処は横町から見通しでしょう、脱ぐにも着るにも、あの、鏡台の前しかないんだもの。……だから、お前さんに壁の方を向いてて下さいと云ったじゃありませんか。",
"だって、以前は着ものを着たより、その方が多かった人じゃないか、私はちっとも恐れやしないよ。",
"ねえ……ほほほ。……"
],
[
"ですがね、こうなると、自分ながら気が変って、お前さんの前だと花嫁も同じことよ。……何でしたっけね、そら、川柳とかに、下に居て嫁は着てからすっと立ち……",
"お前は学者だよ。",
"似てさ、お前さんに。",
"大きにお世話だ、学者に帯を〆めさせる奴があるもんか、おい、……まだ一人じゃ結べないかい。",
"人、……芸者の方が、ああするんだわ。",
"勝手にしやがれ。",
"あれ。",
"ちっとやけらあねえ。",
"溝へ落っこちるわねえ。",
"えへん!"
],
[
"どこだ。",
"一直の塀の処だわ。"
],
[
"その後は。どうしたい。",
"お話にならないの。"
],
[
"汚点になりましょうねえ。",
"まあ、ねえ、どうも。"
],
[
"大丈夫よ……大丈夫よ。",
"飛んだ、飛んだ事を……お前、主人にどうするえ。",
"まさか、取って食おうともしませんから、そんな事より。"
],
[
"お近い内に。",
"…………",
"きっと?",
"むむ。",
"きっとですよ。"
],
[
"きっとよ。",
"分ったよ。",
"可ござんすか。"
],
[
"車夫さん、はい――……あの車賃は払いましたよ。",
"有るよ。",
"威張ってさ、それから少しですが御祝儀。気をつけて上げて下さいよ、よくねえ、気をつけて、可ござんすか。"
],
[
"でも遠いんですもの、道は悪し、それに暗いでしょう。",
"承合ましたよ。",
"それじゃ、お近いうち。"
],
[
"上州のお客にはちょうど可いわね。",
"嫌味を云うなよ。……でも、お前は先から麺類を断ってる事を知ってるから、てんのぬきを誂えたぜ。",
"まあ、嬉しい。"
],
[
"願が叶ったわ、私。……一生に一度、お前さん、とそうして、お酒が飲みたかった。ああ、嬉しい。余り嬉しさに、わなわな震えて、野暮なお酌をすると口惜い。稽古をするわ、私。……ちょっとその小さな掛花活を取って頂戴。",
"何にする。",
"お銚子を持つ稽古するの。",
"狂人染みた、何だな、お前。",
"よう、後生だから、一度だって私のいいなり次第になった事はないじゃありませんか。",
"はいはい、今夜の処は御意次第。"
],
[
"まあ、お染。",
"だって、ここが苦しいんですもの、"
],
[
"お染。",
"短刀で、こ、こことここを、あっちこっち、ぎらぎら引かれて身体一面に血が流れた時は、……私、その、たらたら流れて胸から乳から伝うのが、渇きの留るほど嬉しかった。莞爾莞爾したわ。何とも言えない可い心持だったんですよ。お前さんに、お前さんに、……あの時、――一面に染まった事を思出して何とも言えない、いい心持だったの。この襦袢です。斬られたのは、ここだの、ここだの、"
],
[
"旦那様、旦那様。",
"あ。"
]
] | 底本:「泉鏡花集成6」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年3月21日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第十五卷」岩波書店
1940(昭和15)年9月20日発行
※誤植箇所の確認には底本の親本を用いました。
入力:門田裕志
校正:高柳典子
2007年2月11日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "003655",
"作品名": "第二菎蒻本",
"作品名読み": "だいにこんにゃくぼん",
"ソート用読み": "たいにこんにやくほん",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2007-03-28T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-21T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card3655.html",
"人物ID": "000050",
"姓": "泉",
"名": "鏡花",
"姓読み": "いずみ",
"名読み": "きょうか",
"姓読みソート用": "いすみ",
"名読みソート用": "きようか",
"姓ローマ字": "Izumi",
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[
[
"そりや、誰だつて知つてまさ、私は唯急に天氣模樣が變つて、風でも吹きやしまいかと、其をお聞き申すんでさあ。",
"那樣事は知らぬな。私は目下の空模樣さへお前さんに聞かれたので、やつと氣が着いたくらゐぢやもの。いや又雨が降らうが、風が吹かうが、そりや何もお天氣次第ぢや、此方の構ふこツちや無いてな。",
"飛んだ事を。風が吹いて耐るもんか。船だ、もし、私等御同樣に船に乘つて居るんですぜ。"
],
[
"成程、船に居て暴風雨に逢へば、船が覆るとでも謂ふ事かの。",
"知れたこツたわ。馬鹿々々しい。"
]
] | 底本:「鏡花全集 卷二」岩波書店
1942(昭和17)年9月30日第1刷発行
1973(昭和48)年12月3日第2刷発行
入力:土屋隆
校正:門田裕志
2005年10月28日作成
2011年3月23日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
[
"それでも、私は血を咯きました、上杉さんの飲ませたもの、白い水です。",
"いいえ、いいえ、血じゃありませんよ。あなた血を咯いたんだと思って心配していらっしゃいますけれど血だもんですか。神経ですよ。あれはね、あなた、新さんの飲ませた水に着ていらっしゃった襦袢のね、真紅なのが映ったんですよ。",
"こじつけるねえ、酷いねえ。",
"何のこじつけなもんですか。ほんとうですわねえ。ミリヤアドさん。"
],
[
"どうですか。ほほほ。",
"あら、片贔屓を遊ばしてからに。"
],
[
"何だってそう僕をいじめるんだ。あの時だって散々酷いめにあわせたじゃないか。乱暴なものを食べさせるんだもの、綿の餡なんか食べさせられたのだから、それで煩うんだ。",
"おやおや飛んだ処でね、だってもう三月も過ぎましたじゃありませんか。疾くにこなれてそうなものですね。",
"何、綿が消化れるもんか。"
],
[
"喧嘩してはいけません。また動悸を高くします。",
"ほんとに串戯は止して新さん、きづかうほどのことはないのでしょうね。",
"いいえ、わけやないんだそうだけれど、転地しなけりゃ不可ッていうんです。何、症が知れてるの。転地さえすりゃ何でもないって。",
"そんならようござんすけれど、そして何時の汽車だッけね。",
"え、もうそろそろ。"
],
[
"高津さん。",
"はい、じゃ、まあいっていらっしゃいまし、もうねえ、こんなにおなんなすったんですから、ミリヤアドのことはおきづかいなさらないで、大丈夫でござんすから。",
"それでは。"
],
[
"たッたこれだけ、百滴吸ったらなくなるでしょう。",
"いえ、また取りに参ります……"
],
[
"あんまり何だものだから、僕はつい、高津さん気にかけちゃ不可い。",
"いいえ、何にもそんなことを気にかけるような、新さん、容体ならいいけれど。",
"どうすりゃ可いのかなあ。"
],
[
"それがどうすりゃいいんだか。",
"さあ、母様のことも大抵いい出しはなさらないし、他に、別に、こうといって、お心懸りもおあんなさらないようですがね、ただね、始終心配していらっしゃるのは、新さん、あなたの事ですよ。",
"僕を。",
"ですからどうにかして気の休まるようにしてあげて下さいな。心配をかけるのは、新さんあなたが、悪いんですよ。",
"え。",
"あのね、始終そういっていらっしゃるの。(私が居る内は可いけれど、居なくなると、上杉さんがどんなことをしようも知れない)ッて。",
"何を僕が。"
],
[
"分りましたか、上杉さん、ね、ミリヤアド。",
"上杉さん。"
],
[
"耳が少し遠くなっていらっしゃいますから、そのおつもりで、新さん。",
"切のうござんすか。"
],
[
"高津さん。",
"少し休みましたようです。",
"そう。"
],
[
"何を、ミリヤアド。",
"私なくなりますと、あなたどうします。"
],
[
"そんなことを、僕は知りません。",
"知らない、いけません、みんな知っている。かわいそうで、眠られません。眠られません。上杉さん、私、頼みます、秀、秀。"
],
[
"ミリヤアド。",
"ミリヤアド。"
]
] | 底本:「泉鏡花集成3」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年1月24日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第二卷」岩波書店
1942(昭和17)年9月30日発行
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2008年10月23日作成
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "048331",
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"生年月日": "1873-11-04",
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"底本出版社名1": "ちくま文庫、筑摩書房",
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[
[
"寒いじゃあねえか、",
"いやあ、お寒う。",
"やっぱりそれだけは感じますかい、"
],
[
"ははははは、",
"暢気じゃあ困るぜ、ちっと精を出しねえな。",
"一言もござりませんね、ははははは。",
"見や、それだから困るてんじゃあねえか。ぼんやり往来を見ていたって、何も落して行く奴アありやしねえよ。しかも今時分、よしんば落して行った処にしろ、お前何だ、拾って店へ並べておきゃ札をつけて軒下へぶら下げておくと同一で、たちまち鳶トーローローだい。"
],
[
"紺屋じゃあねえから明後日とは謂わせねえよ。楼の妓衆たちから三挺ばかり来てる筈だ、もう疾くに出来てるだろう、大急ぎだ。",
"へいへい。いやまた家業の方は真面目でございス、捨さん。",
"うむ、"
],
[
"これだ、",
"どれ、"
],
[
"こりゃ青柳さんと、可し、梅の香さんと、それから、や、こりゃ名がねえが間違やしないか。",
"大丈夫、",
"確かね。",
"千本ごッたになったって私が受取ったら安心だ、お持ちなせえ、したが捨さん、",
"なあに、間違ったって剃刀だあ。",
"これ、剃刀だあじゃあねえよ、お前さん。今日は十九日だぜ。",
"ええ、驚かしちゃあ不可え、張店の遊女に時刻を聞くのと、十五日過に日をいうなあ、大の禁物だ。年代記にも野暮の骨頂としてございますな。しかも今年は閏がねえ。"
],
[
"どうしたい。そうさ、",
"お前さん楼じゃあ構わなかったっけか。",
"何を、",
"剃刀をさ。"
],
[
"剃刀を? おかしいな。",
"おかしくはねえよ。この頃じゃあ大抵何楼でも承知の筈だに、どうまた気が揃ったか知らねえが、三人が三人取りに寄越したのはちっと変だ、こりゃお気をつけなさらねえと危えよ。"
],
[
"何も変なこたアありやしないんだがね、別に遊女たちが気を揃えてというわけでもなしさ。しかしあたろうというのは三人や四人じゃあねえ、遣れるもんなら楼に居るだけ残らずというのよ。",
"皆かい、",
"ああ、",
"いよいよ悪かろう。",
"だってお前、床屋が居続けをしていると思や、不思議はあるめえ。"
],
[
"どうのこうのって、真面目なんだ。いけ年を仕って何も万八を極めるにゃ当りません。",
"だからさ、",
"大概御存じだろうと思うが、じゃあ知らねえのかね。この十九日というのは厄日でさ。別に船頭衆が大晦日の船出をしねえというような極ったんじゃアありません。他の同商売にはそんなことは無えようだが、廓中のを、こうやって引受けてる、私許ばかりだから忌じゃあねえか。",
"はて――ふうむ。",
"見なさる通りこうやって、二百三百と預ってありましょう。殊にこれなんざあ御銘々使い込んだ手加減があろうというもんだから。そうでなくッたって粗末にゃあ扱いません。またその癖誰もこれを一挺どうしようと云うのも無えてッた勘定だけれど、数のあるこッたから、念にゃあ念を入れて毎日一度ずつは調べるがね。紛失するなんてえ馬鹿げたことはない筈だが、聞きなせえ、今日だ、十九日というと不思議に一挺ずつ失くなります。"
],
[
"何がッたって、預ってる中のさ。",
"おお、"
],
[
"何だ、",
"はい、もしお寒いこッてござります。",
"北風のせいだな、こちとらの知ったこッちゃあねえよ。"
],
[
"唯今。",
"帰んなすったかい、"
],
[
"もうそんな時分かな。",
"いいえ、いつもより小一時間遅いんですよ、"
],
[
"少し立込んだもんですからね、",
"いや、御苦労様、これから緩りとおひけに相成ます?",
"ところが不可ないの、手が足りなくッて二度の勤と相成ります。"
],
[
"何だ、一文も無え癖に、",
"汝じゃアあるまいし。",
"や、",
"どうした。",
"へい、",
"近頃はどうだ、ちったあ当りでもついたか、汝、桐島のお消に大分執心だというじゃあないか。",
"どういたしまして、",
"少しも御遠慮には及ばぬよ。",
"いえ、先方へでございます、旦那にじゃあございません。"
],
[
"旦那御一所に。",
"おお、これからの、"
],
[
"や、爺さん、こりゃ姉さん、",
"ああ、今日はちっとの、内証に芝居者のお客があっての、実は寮の方で一杯と思って、下拵に来てみると、困るじゃあねえか、お前。",
"へい、へい成程。",
"お若が例のやんちゃんをはじめての、騒々しいから厭だと謂うわ。じゃあ一晩だけ店の方へ行っていろと謂ったけれど、それをうむという奴かい。また眩暈をされたり、虫でも発されちゃあ叶わねえ。その上お前、ここいらの者に似合わねえ、俳優というと目の敵にして嫌うから、そこで何だ。客は向へ廻すことにして、部屋の方の手伝に爺やとこのお辻をな、",
"へい、へい、へい、成程、そりゃお前さん方御苦労様。",
"はははは、別荘に穴籠の爺めが、土用干でございますてや。"
],
[
"もうお出懸けだ、いや、よく老実に廻ることだ。はははは作平さん、まあ、話しなせえ、誰も居ねえ、何ならこっちへ上って炬燵に当ってよ、その障子を開けりゃ可い、はらんばいになって休んで行きねえ。",
"そうもしてはいられぬがの、通りがかりにあれじゃ、お前さんの話が耳に入って、少し附かぬことを聞くようじゃけれど、今のその剃刀の失せるという日は、確か十九日とかいわしった、"
],
[
"日切の仕事かい。",
"何、急ぐのじゃあねえけれど、今日中に一挺私が気で研いで進ぜたいのがあったのよ、つい話にかまけて忘りょうとしたい、まあ、",
"それは邪魔をして気の毒な。",
"飛んでもねえ、緩りしてくんねえ。何さ、実はお前、聞いていなすったか、その今日だ。この十九日にゃあ一日仕事を休むんだが、休むについてよ、こう水を更めて、砥石を洗って、ここで一挺念入というのがあるのさ、",
"気に入ったあつらえかの。",
"むむ、今そこへ行きなすった、あの二上屋の寮が、"
],
[
"じゃがお前、東京と代が替って、こちとらはまるで死んだ江戸のお位牌の姿じゃわ、羅宇屋の方はまだ開けたのが出来たけれど、もう貍穴の狸、梅暮里の鰌などと同一じゃて。その癖職人絵合せの一枚刷にゃ、烏帽子素袍を着て出ようというのじゃ。",
"それだけになお罪が重いわ。",
"まんざらその祟に因縁のないことも無いのじゃ、時に十九日の。",
"何か剃刀の失せるに就いてか、"
],
[
"うう、そして真赤か。",
"黒味がちじゃ、鮪の腸のようなのが、たらたらたら。",
"止しねえ、何だなお前、それから口惜いッて歯を噛んで、"
],
[
"そしてお前、死骸を見たのか。",
"何を謂わっしゃる、私は話を聞いただけじゃ。遊女の名も知りはせぬが。"
],
[
"だってお前が、おかしくもない、血が赤いかの、指をぶるぶるだの、と謂うからじゃ。",
"目に見えるようだ。",
"私もやっぱり。",
"見えるか、ええ?",
"まずの。"
],
[
"話せるな、酒と聞いては足腰が立たぬけれども、このままお輿を据えては例のお花主に相済まぬて。",
"それを言うなというに。無縁塚をお花主だなぞと、とかく魔の物を知己にするから悪いや、で、どうする。",
"もう遅いから廓廻は見合せて直ぐに箕の輪へ行って来ます。",
"むむ、それもそうさの。私も信心をすみが、お前もよく拝んで御免蒙って来ねえ。廓どころか、浄閑寺の方も一走が可いぜ。とても独じゃ遣切れねえ、荷物は確に預ったい。"
],
[
"こんなに人通があるじゃないかい。",
"うんや、ここいらを歩行くのに怨霊を得脱させそうな頼母しい道徳は一人も居ねえ。それに一しきり一しきりひッそりすらあ、またその時の寂しさというものは、まるで時雨が留むようだ。"
],
[
"可かったら開けて下さい、こっちにお知己の者じゃあないんです、",
"…………",
"この突当の家で聞いて来たんですが、紅梅屋敷とかいうのでしょう。",
"はい、あの誰方様で、",
"いえ、御存じの者じゃアありませんが、すこし頼まれて来たんです、構いません、ここで言いますから、あのね。",
"お開けよ。",
"…………",
"こっちへさあ。可いわ、"
],
[
"直ぐにお暇を。",
"それでも吹込みまして大変でございますもの。"
],
[
"消炭を取っておいで、",
"唯今何します、どうも、貴下御免なさいましよ。主人が留守だもんですから、少姐さんのお部屋でついお心易立にお炬燵を拝借して、続物を読んで頂いておりました処が、"
],
[
"それでも今夜のように、ふらふら睡気のさすったらないのでございますもの。",
"お極だわ。",
"可哀相に、いいえ、それでも、全く、貴下が戸をお叩き遊ばしたのは、現でございましたの。"
],
[
"私は、そんな処へ行ったんじゃあないんです。",
"お隠し遊ばすだけ罪が深うございますわ、"
],
[
"私が。",
"確か左の衣兜へ、"
],
[
"杉、",
"ええ、"
],
[
"とうとうお前、旗本の遊女が惚れた男の血筋を、一人紅梅屋敷へ引込んだ、同一理窟で、お若さんが、さ、さ、先刻取り上げられた剃刀でやっぱり、お前、とても身分違いで思が叶わぬとッて、そ、その男を殺すというのだい。今行水を遣ってら、",
"何をいわっしゃる、ははははは、風邪を引くぞ、うむ、夢じゃわ夢じゃわ。"
],
[
"待てよ、こうだによってと、誰か先刻ここの前へ来て二上屋の寮を聞いたものはねえか。",
"おお、"
]
] | 底本:「泉鏡花集成3」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年1月24日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第六卷」岩波書店
1941(昭和16)年11月10日第1刷発行
入力:門田裕志
校正:染川隆俊
2009年5月10日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "048408",
"作品名": "註文帳",
"作品名読み": "ちゅうもんちょう",
"ソート用読み": "ちゆうもんちよう",
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"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2009-06-10T00:00:00",
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"姓読み": "いずみ",
"名読み": "きょうか",
"姓読みソート用": "いすみ",
"名読みソート用": "きようか",
"姓ローマ字": "Izumi",
"名ローマ字": "Kyoka",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1873-11-04",
"没年月日": "1939-09-07",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "泉鏡花集成3",
"底本出版社名1": "ちくま文庫、筑摩書房",
"底本初版発行年1": "1996(平成8)年1月24日",
"入力に使用した版1": "1996(平成8)年1月24日第1刷",
"校正に使用した版1": "1996(平成8)年1月24日第1刷",
"底本の親本名1": "鏡花全集 第六卷",
"底本の親本出版社名1": "岩波書店",
"底本の親本初版発行年1": "1941(昭和16)年11月10日",
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} |
[
[
"これは槙さん入らっしゃい。",
"今晩は――大した景気ですね。",
"お化に景気も妙ですが、おもいのほか人が集りましたよ。"
],
[
"……尤も、行儀よく一人ずつ行くのではありません。いずれ乱脈でしょうから、いまのうち凄い処――ははは、凄くもありますまいが、ひとつ御覧なすって、何うぞまた、何かと御注意、御助言を下さいまし。",
"御注意も何もありませんが、拝見をさして頂きましょう",
"さ、何うぞ此方へ。"
],
[
"では、此処から庭へ――",
"あれですか。"
],
[
"下駄があります、薄暗うございますから。",
"やあ、きみじゃったな、……先刻のは。――"
],
[
"ええ、先刻は……彼処に、一寸した、つくりものがあるんだそうです。",
"うむ、御趣向かい。見ものだろう。見ぶつするかな。……わい。"
],
[
"苔が、辷る。庭下駄の端緒が切れていやあがる。危えじゃねえか。や、ほかに履きものはがあせんな。はてね。",
"お気をつけなさいまし。"
],
[
"気をつけねえじゃいられねえや――もし、徽章を着けていなさるからには世話人だね、肝煎だね。この百二三十も頭数のある処へ、庭へ上り下りをするなり、その拵えものを見に行くなりに、お前さんたちが穿いて二足、緒の切れた奴が一足、たった三足。……何、二足片足しかねえと云うのは何う云う理合のもんだね。",
"何うも相済みません。ですが、唯今は、ほんのこれは内々の下見なので。……後に御披露の上、皆さんにおいでを願う筈に成っています。しかし、それとても、五人十人御一所では……甚だ幼稚な考えかも知れませんが、何の凄味も、おもしろみもありません。……お一人、せいぜいお二人ぐらいずつと思いまして、はきものの数は用意をしません。庭を御散歩なさいますなら、下足をお取りに成って……御自由に。――",
"あら、一人ずつで行くの、可恐いわね。"
],
[
"我ながら気味が悪かろうと言ったつもりなんで。……真夜中の事ですからね。――その窓際の机に向って署名となると、是非ここが気に成るように斜違に立てました。――帳面がございます。葬礼の控のように逆とじなどと言う悪はしてありませんから、何なら、初筆を一つ……",
"いや、いずれ。"
],
[
"仕掛ものですよ。",
"蒟蒻。",
"いえ、生烏賊で。"
],
[
"古さと言い、煤け工合、鼠の巣のようなぼろぼろの破れ加減を御覧下さい。……四谷怪談にも使うのを、そのままで小道具から借出しました。浅草でしてね。俳優の男衆が運んだんですが、市電にも省線にも、まさか此奴は持込めません。――ずうと俥で通しですよ。",
"自動車も大袈裟となりますと、持ものに依っては、電車では気がさしますし、そうなると俥です。……"
],
[
"私も、――昨年ですが、塔婆を持って、遠道を乗った事があるんです。……",
"へい、貴方が塔婆を……"
],
[
"白粉だ。――誰か悪戯に塗ったと見えます。ちょッ馬鹿な……御覧なさい、薄化粧ですぜ。この様子じゃ、――信女……とある処へ、紅をさしたかも知れません。",
"はあ、この塔婆は、婦人のですか。"
],
[
"尤も、無縁なのを、……それに、成りたけ、折れたか、損じたかしたのをと誂えたんです。――見ましたがね、この塔婆は、随分雨露に曝されたと見えて、半分に折れていました。……",
"で、婦人だと分りましたか。",
"確です、(信女――)尤も、ささくれてはいましたが。――何か、貴方?……",
"いいえ。"
],
[
"何でもありません……唯、此処へ来ます道に、線路の踏切がありましょう。……停車場から此方は、途中真暗でした。あの踏切のさきの処に、一軒氷屋がまだ寝ないでいましたが、水提灯が一つ、暗くついただけ、暖簾は掛ばなしで、誰も人は居ないのです。檐下に、白と茶の大きな斑犬が一頭、ぐたりと寝ていました。――あの大坊主と道づれでしたが。……彼奴、あの調子だから、遠慮なしに店口で喚いて、寝惚声をした女に方角をききましたっけ。――出かかると、寝ていた犬がのそりと起きて、来かかる先へ、のすんです。――私は大嫌ですがね――(犬が道案内をするぞ、大先達の威力はどうだ。)ッて坊主は得意でいました。踏切がこんもりと、草の中に乾いた川のように、こう高く土手を築いた処で、その、不性たらしい斑が、急に背筋に畝を打って狂って飛上るんです。何だか銜えて、がりがり噛りながら狂うんですよ。越すのに邪魔だから、畜生畜生!……呶鳴ると、急にのろりとして、のさのさと伸びた草の中へ潜りました。あとにその銜えたものが落ちています。――(宝ものかと思えば、何だ、塔婆の折端を。)一度拾ったのを、そう言って、坊主が投出す――ああ、草の中へでも隠したら、と私が思ううちに、向うへ投ったもんですから、斑犬がぬいと出て、引銜えると、ふッと駈けて、踏切むこうへ。……もう氷屋の灯の届かない処へ消えたんですが。(何の塔婆ぐらい。……犬に骨を食わせるも悟だぜ。――また説いて聞かせよう。……だが、見ねえな、よみじ見たいな暗がりの路を、塔婆の折を銜えた処は犬の身骸が半分人間に成ったようだ。三世相じゃあねえ、よく地獄の絵にある奴だ。白斑の四足で、面が人間よ。中でも婦のは変な気味合だ。轆轤首は処女だが、畜生道は、得て眉毛をおとしたのっぺりした年増だもんだな、業曬しな。)……私は可厭な心持で、聞かない振をして黙りこくって連立って来たんですが――この塔婆も、折れたんだとお話しですから、ふと……何だか、踏切の、あの半分じゃあないかと云うような気がするんです。",
"怪談怪談。"
],
[
"ええ、飛んでもない。",
"何、そのかわり楽屋では何でもない事――幾らもあります事です。第一この塔婆だって、束にして、麁朶、枯葉と一所に、位牌堂うらの壁際に突込んであったなかから、(信女)をあてに引抜いて来たッてね、下足の若い衆が言っていました。折れたのも挫げたのも、いくらも散らかっているんですよ。"
],
[
"――(釈玉――)とだけ、あとは、白い撫子を含んだように友染の襟にかくれていますが、あなたは、そのあとを御存じでしょうかしら。",
"……見ました、下は、……香――です。――(釈玉香信女)です。確に、……何ですか、一つまくってお目にかかるとしますかね。"
],
[
"ああ、よくお留め下さいました。――決してこの蒲団はまくりますまい。――が、何か、貴方、お気になさる事があるんですか。",
"さあ、いいえ。",
"が、それでも。",
"戒名に、一寸似たのがあるんでしてね。",
"いや、それは。それならお気になさいますな、なさらぬが可うございます。この宗門の戒名には、おなじのがふんだんですよ。……特に女のは、こう云う処で申しては如何だけれど、現に私の家内の母と祖母とは戒名がおなじです。坊さん何を慌てたんだか、おまけにそれが、……式亭三馬の浮世床の中にあります。八百屋のお柚の(釈縁応信女。)――喧嘩にもならず、こまっちまいます。"
],
[
"さ、その気であちらへ参りましょうか。",
"いずれ悉しいお話を。",
"あ、蚊帳から何か出ましたかね。"
],
[
"……小さな影法師のようなものが。",
"私たちの影でしょう。"
],
[
"槙さん。",
"は、",
"あなたは、おはぐろの煮える音は御存じでありますまいね。お互に時代が違いますが、何ですか、それ、じ、じ、じ……",
"虫ですかしら……油が煮えるのでしょう。"
],
[
"いえ、行燈の灯は動きません。……はてな、おはぐろを嘗める音かしらん。",
"…………",
"それもお互に知りませんな――ああ、ひたひたと、何の音だか。",
"ああ。",
"あれだ。"
],
[
"……広間が暗くなっていますね、……最う会をはじめました。お気をつけなすって。……おお、光る……",
"いなびかり。",
"いいえ、樹の枝にぶらりぶらりと、女の乳を釣したように――可厭にあだ白く、それ、お頭の傍にも。",
"ええ。",
"あちらが暗くなると、ぽかりぽかり光り出すと言って、……此家の料理方の才覚でしてね。矢張り生烏賊を、沢山にぶら下げましたよ。"
],
[
"女小児は騒ぐなよ。如何なるものが顕われようとも、涼しい顔で澄しておれ。が、俺がこう構えたからには、芋虫くさい屁ぴり虫も顕われて出はすめえ。恐れをなすな。うむ、恐れをなすな、棍元教の伝沢だ。",
"……もしもし。",
"大先達の伝沢だぞ。",
"もし、お先達。"
],
[
"あなた。",
"…………",
"槙さん。",
"あ、"
],
[
"今夜はよく入らっしゃいました。",
"は。"
],
[
"失礼ですが、つい……誰方ですか――暗いので。",
"暗い方が結構です。お恥かしいんですもの。……あなたには、まことにお心づけを頂きまして、一度、しみじみお礼を申しとう存じました。",
"……失礼ですが、全く何うも……",
"ええ、あの、私の方は、よく存じておりますんですよ。……"
],
[
"坊主も可厭ですわ。",
"何処に居ます。いま……",
"あ、あれ、かねつけ蜻蛉が飛びますの。"
],
[
"…………",
"坊主が可厭で……可厭で……私……",
"坊主、さ、何処に居ます。"
],
[
"何をなさるんです。",
"行力を顕わすのよ。"
],
[
"いや、拵え事では決してないのです。墓所にはまだ折れたのがそのままでありましたから、外のと違って、そう言った事情で、犬にも猫にも汚させるのが可厭でしたから、俥ではるばると菩提寺へ持って来て、住職にわけを言って、新に塔婆を一本古卒塔婆の方は些少ですが心づけをして、寺へ預けて、往かえり、日の短い時の事です。夜に入ってから青山の墓へかわりのその新しいのを手向けたんです――(釈玉香信女。)――施主は小玉氏です、――忘れもしません。……誓ってそう云った因縁があるのですから、私に免じて、何うか、この塔婆は嬲らないで下さい。",
"嬲る。――嬲るとは何だ。",
"これは申過ぎました。何うか、お触りに成らないでおくんなさいまし。",
"触るよ、触る処か、抱いて寝るんだ。何、玉香が、香玉でも、女亡じゃは大抵似寄りだ、心配しなさんな。その女じゃああるめえよ、――また、それだって、構わねえ。俺が済度して浮ばして遣る。……な、昨今だが、満更知らねえ中じゃねえから、こんなものでも触るなと頼めば、頼まれねえものでもねえが、……誰だと思う、ただ人と違うぜ。大棍元教の大先達が百ものがたりの、はなれ屋の破行燈で、塔婆を抱いて寝たと言えば、可恐さを恐れぬ、不気味さにひるまない、行力法力の功徳として一代記にかき込まれるんだ。先ず此奴は見せ場じゃあねえか。",
"ですから、手をついて頼むから。",
"頼まれねえ。ただ人とは違うよ。好色からとばかりなら、みょうだいを買った気で、一晩ぐらい我慢もしようが、俺のは宗旨だ、宗旨だよ。宗門がえをしろと言って誰が肯くやつがあるものか。昔のきりしたんばてれんでさえ、殺されたって宗門は変えなかったぜ。",
"私の親類だと思って。",
"不可え。",
"姉だと思って。……妹だと思って。",
"不可え!",
"じゃあ、己の家内なら何うするんだ。"
],
[
"矢張り抱くのよ。",
"坊さん、――酔ってるな。",
"何を、……むしゃくしゃするから、台所へ掛合って枡で飲んだ、飲んだが、何うだ。会費じゃあねえぜ。二升や三升で酔うような行力じゃねえ、酔やしねえが、な、見ねえ。……玉に白粉で、かもじと来ちゃあ堪らねえ。あいよ、姐さん。",
"止さないか。"
]
] | 底本:「文豪怪談傑作選・特別篇 鏡花百物語集」ちくま文庫、筑摩書房
2009(平成21)年7月10日第1刷発行
初出:「女性」
1924(大正13)年10月号
入力:門田裕志
校正:砂場清隆
2018年8月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"金魚は、あの内に居るかい。",
"居ますとも、なぜ今朝ッからいらっしゃらないッて、待ってるわ、貢さん。",
"そう。",
"あら、そう、じゃアありません、お入りなさいよ、ちょいと。",
"だって開かないもの、この戸は重いねえ。"
],
[
"うむ。",
"うむ、じゃアありません。そんなことをお言いだと私ゃ金魚を怨みますよ。そして貢さんのお見えなさらない時に、焼火箸を押着けて、ひどい目に逢わせてやるよ。",
"厭だ。",
"それじゃ、まあお坐んなさい。そしてまた手鞠歌を唄ってお聞かせな。あの後が覚えたいからさ。何というんだっけね。……二両で帯を買うて、三両で絎けて、二両で帯を買うて、それから、三両で絎けて、そうしてどうするの、三両で絎けて……",
"今年はじめて花見に出たら、寺の和尚に抱き留められて。"
],
[
"恐かったよ、染ちゃん恐かったよ。",
"そう、恐かったの、貢さんはあれが恐いのかい。",
"見ていたの。",
"ああ見ていたとも、私が禁厭をしてあげたから何とも無かったんですわ。危ないことね。",
"恐かったよ。染ちゃん、顔をね、包んでしまったから呼吸が出なかったの。そうして酷いの、あの頬ぺたを吸ったんだ。チュッてそう云ったよ、痛いよ、染ちゃん。"
],
[
"嫌だ、嫌だ、痛いや、治りやしないや。",
"困るね。"
],
[
"小母さん、恐かったよ。あのね、野衾が血を吸ったの。恐かったよ。",
"え、どうしたって云うの、大変だ、あの野衾がね。"
],
[
"不可いよ。貢さんは何でもほんとにするから欺されるんだよ。この賑かなのに、何だってまた野衾なんかが出るものかね。嘘だよ、綺麗な野衾だから結構さ。",
"あら姉さん。",
"お止しよ。そんなこと謂って威すのは虫の毒さ、私も懲りたことが有るんだからね、欺しッこなし。貢さん、なに血なもんかね、御覧よ。"
],
[
"紅さ。野衾でも何でも可いやね。貢さんを可愛がるんだもの、恐くはないから行って御覧、折角、気晴に行くのものを、ねえ。此奴が、",
"あれ。"
],
[
"坊ちゃん、まあ、あなた、まあどう遊ばしたんですよ。どこへいらっしゃるのさ。え、何かお気に入らない事があったんですか。お怒りなすって、まあ、飛んだ御機嫌が悪いのねえ。堪忍して頂戴な。よう、いらっしゃいよ。さあ、私と一所においでなさいましなね。何です、そんな顔をなさるもんじゃありません。",
"嫌だ。",
"あれ、そんなこと有仰らないでさ。あのね、あのね、小親さんがお獅子を舞いますッて、ね、可いでしょう、さあ、いらっしゃい。"
],
[
"何だ、小六さん、小六さんの人気おこしたあ何だ。",
"へい。",
"へいじゃあない、小六さんたあ何だ。客の前を何と心得てるんだ。獣め、乞食芸人の癖に様づけに呼ぶ奴があるもんか。汝あ何だい、馬鹿め!"
],
[
"私これ頂いときますよ。ね、頂戴。可うござんすか。",
"ああ。"
],
[
"木戸のがね、お気に入りませんだったら叱ッてもらってあげますから、腹を立てないで毎晩、毎晩、いらっしゃいましな、ね。ちゃんとここを取って、私のこのお蒲団敷いてあげますわ。そうしてお前さんの好きなことをして見せましょう。何が可いの、狂言がおもしろいの。",
"いいえ。",
"じゃあ、お能の方なの。",
"牛若が可いんだ、刀持って立派で可いんだ。"
],
[
"だって皆帰るじゃあないか。一人ぼッちで何しに残るんだ。",
"だって、まだ、何だもの。"
],
[
"可いじゃあないか、一所に帰ったって可いじゃあないか。",
"だって何だから……どうしたんだなあ。"
],
[
"用があるんか。誰か待ってるか、おい。",
"誰も待ってやしないんだ。",
"嘘を吐け。いまに誰か来るんだろう。云ったって可いじゃないか。",
"誰も来るんじゃあないや。そうだけれど……困るなあ。",
"何を困るんだ。え、どうしたんだ。",
"どうもしないさ。",
"じゃあ困る事はないじゃあないか。な、一所に帰ろうと云うに。"
],
[
"疾くしないかい、おい。",
"だって何だから。",
"何が何だ、おかしいじゃあないか。",
"この座蒲団が……"
],
[
"や、すばらしい蒲団だなあ。すばらしいものだな、どうしたんだ。この蒲団はどうしたんだ。",
"敷いてくれたの。",
"誰が、と聞くんだ、敷いてくれたのは分ってらい。",
"お能のね、お能の女。",
"ふむ、あんな奴の敷いたものに乗っかる奴が有るもんか。彼奴等、おい、皆乞食だぜ。踊ってな、謡唄ってな、人に銭よウ貰ってる乞食なんだ。内の父様なんかな、能も演るぜ。む、謡も唄わあ。そうして上手なんだ。そうしてそういってるんだ。ほんとのな、お能というのは男がするもんだ。男の能はほんとうの能だけれど、女のは乞食だ。そんなものが敷いて寄越した蒲団に乗るとな、汚れるぜ。身が汚れらあ。しちりけっぱいだ、退け!"
],
[
"何をする。",
"何でえ、おりゃ士族だぜ。退け!"
],
[
"汝平民じゃあないか、平民の癖に、何だ。",
"平民だって可いや。",
"ふむ、豪勢なことを言わあ。平民も平民、汝の内ゃ芸妓屋じゃあないか。芸妓も乞食も同一だい。だから乞食の蒲団になんか坐るんだ。"
],
[
"可いよ乞食、乞食だから乞食の蒲団に坐るんだ。",
"何でえ。"
],
[
"何でえ、乞食だな、汝乞食だな、む、乞食がそんな、そんな縮緬の蒲団に坐るもんか。",
"可いよ、可いよ、私、私はね、こんなうつくしい蒲団に坐る乞食なの。国ちゃん、お菰敷いてるんじゃないや。うつくしい蒲団に坐る乞食だからね。"
],
[
"皆知ってるぜ、おい、皆見ていたぜ。汝婦人とばかり仲好くして、先刻もおれを見て知らない顔して談話してたじゃあないか。そうするが可いや、うむ、たんとそうするさ。",
"国ちゃん、堪忍おし。",
"へ、あやまるかい。うむ、あやまるなら可いや。じゃあ可いから、な、その座蒲団にちょっと己をのッけてくれないか、そこを退いて。さあ、"
],
[
"いけないよ。",
"何だ……"
],
[
"よく敷かせないで下さいました。お前さん、どこも何ともないかい。酷いよ、乱暴ッちゃあない。よくねえ、よく庇って下すッたのね。楽屋で皆がせりあって、ようよう私が、あの私のを上げたんですもの。他人に敷かれて堪るものかね、お帰りよ、お帰り遊ばせよ。あなた!",
"何でえ、乞食の癖に、失敬な、失敬じゃあないか。お客に向ッて帰れたあ何だい。",
"おからだの汚になります。ねえ。"
],
[
"馬鹿、年増の癖に、ふむ、赤ン坊に惚れやがったい。",
"え、"
],
[
"何ですねえ、存じません。何の、贔屓になすって下さるお客様を大事にしたって、何が、何が、おかしゅうござんすえ。",
"おかしいや、そんな小ッぽけなお客様があるもんか。"
],
[
"貢!",
"牛若だねえ。"
],
[
"済まなかったね、みつぎさん、お前さん、貢さんて言うの?",
"ああ。",
"楽屋に少し取込みが有ったものだから、一人にしておいて飛んだめに逢わせたこと。気が着いて、悪いことをしたと思って、急いで来て見るとああだもの。よくねえ、そして、あの方はお友達?",
"友達になれッていうのよ。",
"おや、そう。しない方が可いよ。可厭な人っちゃあない。それでもよく蒲団を敷かせないで下すッた。それは私ゃ嬉しいけれど、もしお前さん疵でも着けられちゃ大変だのに、どうして、なぜ敷かせてやらなかったの。",
"だッて、あんな汚い足をつけられると、この蒲団が可哀そうだもの。きれいだね、きれいな座蒲団、可愛んだねえ。"
],
[
"こうやって、お守にしておくの。そうしちゃ暖めておいて、いらっしゃる時敷かせますからね、きっとよ。",
"ああ。",
"ほんとうかい。",
"きっと!"
],
[
"母様じゃあないの。伯母さんなの。",
"おや、母様ないの。",
"亡くなったの、またいらっしゃるんだッて、皆そう云うけれど、嘘なの。もうお帰りじゃない、亡くなってしまったんだ。"
],
[
"じゃあその伯母さんがお案じだろうから、私が送って行ってあげましょう、ね。鳥居前ッて言うのはどこ? 待伏をしてると不可いから。",
"直、そこだよ。"
],
[
"わけ無しだね。ちょいと衣物を着替えて来るから待っていらっしゃいよ。小稲さん、遊ばしてあげておくれ。",
"はい。"
],
[
"ちょいと、何がおめでたいのさ。",
"おや、迂濶だねえ。知らないのかい。",
"はあ、何ですか。",
"何ですか存じませんが、小稲さんのいいますとおり、若お師匠様、おめでとうございます。"
],
[
"私もお祝い申しますわ。",
"それでは私も。あの、若お師匠様おめでとう存じます。"
],
[
"お前達は何をいうのだ。",
"何でも、おめでたいに違いませんもの。",
"姉さん、何なの、どうしたの。"
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"お秘し遊ばしても不可ません。そうして若お師匠様、あなたもうお児様が出来ましたではございませんか。",
"へい。",
"何を言うのだね。",
"争われませんものね。もうおなかが大きくおなり遊ばしたよ。"
],
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"ほんにね。おやおや!",
"だから、お芽出たかろうではないの。",
"そして旦那様はどなたでございます。",
"馬鹿だねえ、嘘だよ。",
"それでは何でございます、どうしてそんなにおなり遊ばしたの。",
"何でもないのさ、知らないッて言うのに。",
"いえ、御存じないでは済みません。あなた私たちにお隠し遊ばしては水臭いじゃアありませんか。是非どうぞ、どなたでございますか聞かして下さいましな。",
"若お師匠様、どうぞ私にも。",
"私にも。",
"うるさいね、いまちょいと出懸けるんだから。",
"いえ、お身持で夜あるきを遊ばすのはお毒でございます。それはお出し申されません。ねえ?",
"お身体に障りましては大変ですとも。どうして、どうして、お出し申すことではございませんよ。",
"うるさいよ。詰らない。",
"じゃあお見せ遊ばせ、ちょいとそのお腹ン処を、お見せ遊ばせ。",
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"私では不可ませんか。",
"遊ばなくッてもいい。",
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"言わない。",
"うまくおっしゃるのよ、可愛い坊ちゃんだッて、そういったでしょう。",
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"そんなこと、言やあしないや。",
"あら、お隠し遊ばすと擽りますよ。",
"ほんとう、そんなこと聞きやしない。",
"それじゃ堪忍してあげますから、今度は秘さないで有仰いよ。あのね、坊ちゃんは毎晩いらっしゃいますが、何が第一お気に入ったの。",
"牛若が可いんだ。そしてお獅子も可いんだ。",
"じゃあ小親さんが可いんですね。うつくしいからお気に入ったんでしょう。え、坊ちゃん。",
"立派で可いんだ。刀さげて、立派で可いんだ。",
"うそをおっしゃい。綺麗だから可いんですわ。",
"いいえ。",
"だって、それではお能の装束しないでいる時はお気にゃ入りませんか。今なんざ、あんな、しだらない装をしていたじゃありませんか。"
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"惚れやしない、惚れるもんか。",
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"ああ。"
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"じゃあ惚れたもおんなじだわ。",
"あらあら、惚れたの、おかしいなあ。"
],
[
"あそこ、あの樹のある内。",
"近いのね。"
],
[
"大分晩くなったね、伯母さんがさぞお案じだろうに、悪いことをしたよ。貢さん、直送ってあげれば可かったのに、早いと人だかりがして煩いので、つい。",
"いいえ、案じてやしないよ。遊びに出ていると伯母さんは喜ぶよ。",
"どうして? まあ。"
],
[
"それはね、貢さんが睡がるせいでしょう。",
"そうじゃあなくッて、私床ン中に入ってからね、母様が居なくッて寂しくッて寝られないんだ。伯母さんも、染ちゃんも、余所の人も皆おもしろそうだよ。賑かなの。私一人寂しいんだ。",
"そうかい。",
"鼠が出て騒ぐよ。がたがたッて、……恐いよ。",
"まあ。",
"恐かったよ、それでね、私、貰っといたお菓子だの、お煎餅だの、ソッと袂ン中へしまッとくの、そしてね、紙の上へ乗せて枕頭へ置いとくの。そして鼠にね、お前、私を苛めるんじゃアありません。お菓子を遣るからね、おとなしくして食べるんだッて、そう云ったよ。",
"利口だねえ。",
"そうするとね、床ン中で聞いて、ソッと考えているとね、コトコトッてっちゃ喰べるよ。そうしてちっとも恐くなくなったの。毎晩やるんだ。いつでも来ちゃあ食べて行くよ。もう恐くはなくッて、可愛らしいよ。寝るとね、鼠が来ないか来ないかと思って目を塞いじゃあ待ってるの。そうすると寝てしまうの。目を覚すとね、皆食べて行ってあったよ。"
],
[
"ねえ。",
"あいよ。",
"ねえ、鼠は可愛いんだねえ。",
"じゃあ貢さん家に猫は居ないのかい。",
"居るよ、三毛猫なの。この間ね、四ツ児を産んだよ、伯母さんが可愛がるよ。",
"貢さんも可愛がっておくれかい。"
],
[
"いけない、危いから。",
"可いんだ。",
"可いじゃアありません。お止し、危ないわね。あんながむしゃらの向うさき見ずは、どんな事をしようも知れない。怪我をさしちゃあ、大変だから……あれさ!",
"構うもんか、厭だ! 厭だ。",
"厭だって、危いもの。返りましょう。あとへ返りましょう。大人でないから恐いよ。"
],
[
"ざまあ見ろ、女の懐を出られやしまい、牛若も何もあるもんか。",
"厭だ、厭だ、女と一所にゃ厭だ。放して、放してい。",
"堪忍おし、堪忍おし、堪忍して頂戴、私が悪いんだから堪忍おしよ。"
],
[
"それじゃあ来るか。",
"恐かあないや。",
"む、来るなら来い! 女郎の懐から出て来て見ろ。"
],
[
"牛若だ、牛若だ、牛若だ。",
"安宅の関だい。",
"何するもんか、突かれるもんか。",
"突くよ、突くよ。芸妓屋の乞食なんか突ついて刎ね飛ばさあ。"
],
[
"あれ!",
"危い。"
],
[
"え、おい、胸でも突かれたら、おい貢、どうするつもりだ。気が短いや、うったぜ。乱暴な。どこだ、どこだ、むむ。",
"痛かあない、痛かあない。",
"む、泣くな、泣いちゃあ不可んぜ。ああ、何、袂ッ草を着けときゃあわけなしだ。"
],
[
"そんなじゃあないんだけれど、掠ったんでしょうけれど。",
"じゃあ、何、袂ッ草で治ッちまあ。"
],
[
"ちょいと、痛むかい。痛むだろうね、可哀相に。",
"何ともない。痛かあない。",
"大した事もないけれど、私ゃもうハッと思った。あの児をつかまえて喧嘩もならず、お前さんがまた肯かないんだもの、はらはらと思ってる内、もう、どうしたら可いだろう。折角送って来ながら申訳がないね。",
"可いよ、痛かあないもの。",
"だって疵がつきました。かすり疵でも、あら、こんなに血が出るもの。"
],
[
"もう可い。",
"可かアありませんよ、このまんまにして、帰しちゃあ、私が貢さんのお内へ済まないもの。"
],
[
"じゃあこうしようね、一所に私の家へ来て今夜お泊りでないか。そうして、翌日になったら一所に行って言訳をしましょうよ。私でも、それでなきゃ誰か若い衆でも着けてあげてね、そして伯母さんにお詫をしたら可いでしょう。",
"可いよ、そんなにしなくッても、一人で帰るよ。",
"だって……困ること。",
"何ともないじゃあないか。"
],
[
"そんなら、まあ可いとして門まで送りましょう。だがねえ、可かったらそうおしな。お嫌!",
"嫌じゃあないけれど、だって、あの、待ってるから。",
"そう、伯母さんがさぞ、どんなにかね。",
"いいえ、伯母さんじゃあない、姉さんなの。",
"おや、貢さん、姉さんがいらっしゃるのかい。",
"宅にじゃあないの。むかいのね、広岡の姉さんなの。",
"広岡ッて?",
"継母の内なの。継母が居てね、姉さんが可哀相だよ、"
],
[
"あのウ、",
"何。",
"何てそういおうなあ、何て言うの。あの、お能の姉さん?",
"嫌ですね、お能の姉さんッて、おかしいね、嫌だよ。",
"じゃあ何ていうの。え、どういうの。"
],
[
"私はね、……親。",
"親ちゃん!",
"あい。おほほ。",
"親ちゃん、継母じゃあないの。え、継母は居ないのかい。"
],
[
"私には何にもないよ。ただね、親方が有るの。",
"そう、じゃあ可いや、継母だと不可いよ。酷いよ。広岡の姉さんは泣いている……"
],
[
"それは気の毒だね。皆そうだよ、継母は情ないもんだとね。貢さんなんざ、まだまあ、伯母さんだから結構だよ。何でも言うことを肯いて可愛がられるようになさいよ。おお、そういやあほんとうに晩くなって叱られやしないかね。",
"もう来たんだ。ちょいと。"
],
[
"お帰ですか。",
"唯今。",
"遅かったから姉さんは先へ寝ていたがね。"
],
[
"それは、好うございましたけれど、風邪をひくと不可ません。あんまり晩くならないうちに、今度からお帰りなさいよ。",
"はい。"
],
[
"そして、まだ内へはお入りでないのでしょうね。",
"まだ。"
],
[
"どうしたの、私の内はどうしたの。",
"いえどうもしませんけれど、少し何んですから、まあ、潜と行って見ていらっしゃい。"
],
[
"嫌だ、恐いもの。",
"ちっとも恐いことはない。私がここに見ていますよ。"
],
[
"小稲ですか。",
"小……稲、いや、違うた。稲じゃない、稲じゃない、はて、何とか言う。"
],
[
"違いますか、小親。",
"うむ、それそれ、それそれその小親と言うのじゃ。小親じゃ。ははははは。"
],
[
"その小親、と言うのは、あんた、中が好いのかな。",
"何ですね、小母さん。"
],
[
"そしてその小親と云うのは幾歳におなりだ。はははは、別嬪盛じゃと言えば、十七かな、八ぐらい?",
"いいえ、二十二。",
"む、二十二はちょうどいい。二十二は好い年じゃ。ちょうどその位な時が好いものじゃ。何でもその時分が盛じゃ。あんたも佳い別嬪に可愛がられて羨ましいの。いんえ、隠しなさるな、書いてある、書いてある。",
"小母さん、何ですね。"
],
[
"はい、生きてはいます。死にはせいで、ああ、息のある内に、も一度貢さんの顔が見たいと云うての。",
"え!",
"それが、そういう事口へ出しては謂われぬ女じゃで、言いはせぬ。けれど、そこは小母さんちゃんと見通し。ま、この大きくおなりの処を見たら、どんなにか喜ぶであろ。それこそ死なずにいた効があると、喜びますじゃろ。ああ、ほんとうに。",
"小母さん、逢いたい。",
"む、逢いたい、いや、それは小母さんちゃんと見通し。",
"お目にかかりたい、小母さん。",
"道理じゃ。",
"逢わして下さいな。"
],
[
"私の事じゃないよ。",
"おや他人のことで苦労してるの、お前さんは生意気だね。"
],
[
"だって何も心配をするのは、我身の事ばかりなものではない。他人のだッて、しなきゃならない心配ならしようじゃないか。お前さんだって、私のことを心配おしだから、それで聞くんじゃないか、どうしたッて?",
"はい、はい。沢山心配をしておあげなさいまし。御道理なことだねえ、ほほほ。",
"また、そんな、もう言うまいよ、詰らない。",
"ま、承りましょう。可いからお話しなさい。大方、また広岡のお雪さんのこッたろう。",
"え、知ってるの。",
"紅花染だね。お前さんの心配はというと、いつでもお極りだよ。またどうかしたのかい。",
"ああ、養子が大変だと、酷いんだとさ。あの、恐しい継母が、姉さん、涙を流して、密と話した位だもの。大抵ではないと、そうお思い。お雪さんが可哀相っちゃない。ようよう命が有るばかりだと言うんだもの。姉さん、真面目になって聞いておくれ。いやに笑うねえ。",
"ちっと妬けますもの。",
"詰らない、じゃあ言うまい。",
"いいえ承りましょう。酷いかね、養子にゃ可いのはないものだと云うけれど、そっちが酷くッて、こっちが苛められるのは珍しいね。そして、あの継母が着いてるじゃあないか。貢さんに聞いたようでは。養子に我儘なんかさせそうにも思われないがね。"
],
[
"それがね、姉さん、皆金子のせいですとさ。洪水が出て、家が流れた時、旧あった財産も家も皆なくなってしまってね、仕方が無い時にその養子を貰ったんだッて。",
"持参金かね。",
"ええ、大分の高だというよ。初ッからお雪さんは嫌っていた男だってね。私も知ってる奴だよ。万吉てッて、通の金持の息子なの。ねえ、姉さん、どういうものか万の字の着いたのに利口なものは居ないよ。馬鹿万と云うのがあるしね、刎万だの、それから鼻万だのッて、皆嫌な奴さ。ありゃ名でもって同じような申分のあるのが出来るのは、土地に因るんだとね。かえって利口なのも有るんだって。",
"また、詰らないことを言出したよ。幾歳だねえ、お前さんは。そんなこと云っていて、人の心配も何も出来るものじゃない。"
],
[
"そりゃ、変るね。貢さんだって考えて御覧なさい、大そう異ったじゃあないか。",
"私は何、大きくなったばかりだね。",
"いいえ、ちっと憎らしくもおなりだよ。",
"そうかね。",
"その口だよ、憎らしい。",
"じゃ沢山憎んでおくれ。可いよ、どうせ憎まれッ児だ、構やあしない。"
],
[
"いいえ、可愛がるよ。",
"そんな事いうからだ。今でも皆でなぶって不可い。いろんな事をいうもんだから、人の前でうっかりした口も利けまいじゃないか。一所に居て、そうして、何も私は姉さんにものを云うのに、遠慮をすることは要らないわけだと思うけれど、皆がなぶるから、つい、何でも考えてしたり、考えてものを云ったりしなけりゃならないよ。窮屈で弱ってしまう。皆がどうしてああだろう。"
],
[
"さようでございますね。",
"ほんとうにお聞き、真面目でさ。",
"畏まりました。",
"そら、そうだから不可いよ。姉さん、姉さんというものはね、年のいかない弟に、そんなことをするもんじゃあないよ。ちゃんと姉顔をして澄していなくっちゃあ。妙にお客あしらいで、私をばお大事のもののようにして、その癖ふざけるから、皆が種々なこと云うんじゃアあるまいかね。立派に姉さんの顔をして、貢、はい、というようにして御覧。おかしなことは無くなるに違いないから。そうしてなかよくして、ね、可愛がっておくれ。私も心細いんだもの。"
],
[
"そして。",
"私、考えた。"
],
[
"でね、継母がそういったよ。貢さん、あんたは小親という人に可愛がられているんだろうッて。",
"お前さんは、何と言ったの。",
"黙っていました。",
"そうかい。"
],
[
"どうしたの、姉さん。",
"何、可いよ。",
"だっておかしいもの、ね、そりゃ私を可愛がっておくれだけれど……何だか、おかしいなあ。"
],
[
"何も気をまわすことはないよ、真面目じゃあ困るわね。私あ何とも思やしない、串戯さ。なぜね、そういうことを聞いたら、そりゃ可愛がってくれますとも、とこうお言いじゃないッて云うのさ。串戯だよ、串戯だけれどもねえ、その位にさばけておくれだと、それこそお前さんの言草じゃあないが、誰も冷かしたり、なぶったりなんぞしないようになっちまうわね。え、貢さん、そうじゃないか。しかし不可いかい。",
"だって極が悪いもの。",
"なぜさ。",
"なぜッて、そう云うとね、他人は何だもの、姉弟だと思わないで、おかしく聞くんだからね。",
"何と聞えるんだね。",
"何だか、おかしい。",
"まあさ、何と聞えるんだねえ、貢さん。",
"それはね、あの……",
"何だね。",
"お能の姉さん。",
"厭だよ!"
],
[
"しかし御察しの可いことね、継母もどうして洒落てるよ。そう云ってくれたのなら、私ゃその人に礼を言おうや。貢さん、逢ったら宜しくと申しておくれ。",
"むこうでもそう云ったよ。小親によろしくッて。",
"何のこッたね。",
"それが、何だって、その養子がね、大層姉さんのことを、美い女だってね、云ってるそうだ。"
],
[
"貢さん、もう大抵分ったよ。道理でお前さんは妙な顔をしちゃあ、こないだッから私を見ていたんだわ。ああ、そしてお前さんはどう思います。",
"何をさ。",
"何をって、継母はお前さんに私となかが好いかッて聞いたろう。",
"そりゃ聞いたよ。今も話したように。",
"道理で。"
],
[
"貢さん、そして何だろう、お前さんの口から、ものを私に頼んでくれと言やあしないかい。",
"ええ。",
"云ったろうね、ほほほ、解ってるよ、解ってるよ。"
],
[
"独で承知をしてるのね、姉さん。",
"うっかりじゃあないわね、可いよ、まんざら知らない方じゃあなし、私も一度お目に懸って、優しそうな可い方だと思ってるもの。お雪さんがそんな酷いめに逢っていなさるんなら、可いよ、貢さん、お前さんにつけて、その位なことならばしてあげようや。"
],
[
"じゃあ、姉さん、あの養子を、だましてくれるの。",
"ま、しようがないわね。",
"だって、酷い奴だというよ。",
"たかが田舎者さ。",
"そして、どうして? 姉さん。",
"狸を御覧よ、ほほ、ほほほ。",
"ああ、一人助かった。"
],
[
"あら、起しますよ。",
"可いよ。"
],
[
"いいえ、猫にも驚いたけれど、りゅうまちじゃあないかい、え、僂麻質じゃあないかい。",
"ちょいとだよ。何でもないんだよ、何をそんなに。たかがりゅうまちだもの、生命を取られるほどのことは無いから。",
"でも、私はもう、僂麻質と聞いても悚然するよ。何より恐いんだ。なぜッてまた小六さんのように。",
"磔!"
],
[
"姉さん、ほんとうに気を付けておくれ、またこの上お前が病気にでもなったらどうしよう。",
"案じずとも可いよ、ちょいとだわ。しかし小六さんもどうしているんだろう。始終気に懸けちゃあいるけれど、まだどうにもしようがないが、もうこの節じゃあ、どこに居なさるんだかそれさえ知れない位だもの、ねえ、貢さん。"
],
[
"姉さんは何ともありゃあしないだろうね。",
"え。",
"姉さんは何ともなかろうね。",
"誰? え、お雪さんかえ。",
"いいえ。",
"私?"
],
[
"私、私なんざあ、どうせやっぱり磔にでもなるんだろうさ。親方持ちだもの、そりゃこうして動いてる内ゃ可いけれど、病気にでもなった上、永く煩いでもしようもんなら、大概さきが分ってるわね。",
"詰らない、そんなことが。"
],
[
"ひがむんだね、ああ、つい、ああもしてあげよう、こうもしてあげて、お前さんの喜ぶ顔が見たいと思うことが山ほどにあるけれど、一ツも思うようにならないので、それでつい僻むのだよ。分りました。さ、分ったら、ね、貢さん、可いかい、可いかい。",
"だってあんまりだから。",
"ほんとはお前さんが何てったって、朝夕顔が見ていたいの。そうすりゃもう私ゃ死んだって怨はないよ。",
"まあ!",
"いいえ、何の、死んだって、売られたって、観世物になったって、どうしたって構うものかね。私ゃ、一晩でもお前さんとこうしていられさえすりゃ。",
"そんなこと云っちゃあ厭だ。"
],
[
"甘えさしておくれ。可いかい。ちょいとでもお前さんに甘えさしてもらいさえすりゃ、あとはどうなったって、構うものか。したいようにするが可いや。もうもう、取越苦労なんざしないでおこうね。",
"ああ。",
"極めた!"
],
[
"変だよ、ちょいとお前さんも見たろうね、何だか私ゃ茫然してたが、たしかあの猫が鳩をくわえて飛込んだっけね。変な気がするよ、つい今しがたの事だった。",
"ああ、私はまた、またいうと何だろうけれど、お雪さんの(あれッ)てった声が聞えたようでね。",
"気のせいだよ、そりゃ気のせいだろうけれど、はてな、一体どこから飛込んだろうね。",
"井戸の処さ。",
"井戸だえ……"
],
[
"可いよ、どうせ心配をさせないと言ったこッた。貢さん、ついでにその心配もさせないから、もう案じないが可いよ。",
"何の心配さ。",
"お雪さんのことさ。",
"その事なら、もう。",
"いいえ、そうじゃあないよ、一旦は何、私だって、先刻のように云ったけれど、お前さんの心配をすることだもの、それに、どうせ、こんなからだだから、お前さんさえ愛想をお尽しでないことなら、もうどんなにでも私ゃなろうわね。構うものかね、なに構やあしない。"
],
[
"そんなに云っておくれだと、なお私は立つ瀬がない。お雪さんも何だけれど、姊さんが何だもの。",
"何だえ、貢さん。",
"何でもいいよ。",
"可かアありません。",
"可かアありませんたって、何もわるいこっちゃあない。",
"じゃあまあそうさ。しかしどうにかするよ、私ゃ、そのまんまにしちゃあおかないから。",
"あすのこと……そして姉さん冷えちゃあまた悪いだろう。"
],
[
"また心配をさしちゃあ悪いね。",
"だからさ。",
"あい、じゃあ、お前さんもおやすみだと可い。"
],
[
"貢さん、床は私が取ってあげよう。",
"なに、構わないよ。あとで敷かせるから。"
],
[
"邪魔だったら、あっちへおいで、稲ちゃんと一所に寝ましょう。",
"のちほど。",
"それじゃあ……"
],
[
"また、鼠とでも話すのかね。",
"考えてるの。",
"そんなこと云わないで、鼠とたんとお楽しみ。ほほほ、私は夢でも見ましょうや。"
]
] | 底本:「泉鏡花集成3」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年1月24日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第二卷」岩波書店
1942(昭和17)年9月30日発行
※誤植の確認には、底本の親本を参照しました。
入力:門田裕志
校正:酔いどれ狸
2013年5月16日作成
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このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
[
"やあ、やまかがしや蝮が居るぞう、あっけえやつだ、気をつけさっせえ。",
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],
[
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"お爺さん、おい、お爺さん。",
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],
[
"その何だ。……上の寺の人だと、悪いんだが、まったく、これは荒れているね。卵塔場へ、深入りはしないからよかったけれど、今のを聞いては、足がすくんで動かれないよ。",
"ははははは。"
],
[
"弱え人だあ。",
"頼むよ――こっちは名僧でも何でもないが、爺さん、爺さんを……導きの山の神と思うから。",
"はて、勿体もねえ、とんだことを言うなっす。"
],
[
"ようござらっせえました、御参詣でがすかな。",
"さあ……"
],
[
"は、は、修行者のように言わっしゃる、御遠方からでがんすかの、東京からなす。",
"いや、今朝は松島から。"
],
[
"御風流でがんす、お楽みでや。",
"いや、とんでもない……波は荒れるし。",
"おお。",
"雨は降るし。",
"ほう。",
"やっと、お天気になったのが、仙台からこっちでね、いや、馬鹿々々しく、皈って来た途中ですよ。"
],
[
"ねえさん。",
"へい。",
"片原に、おっこち……こいつ、棚から牡丹餅ときこえるか。――恋人でもあったら言伝を頼まれようかね。",
"いやだ、知りましねえよ、そんげなこと。",
"ああ、自動車屋さん、御苦労です。ところで、料金だが、間違はあるまいね。",
"はい。"
],
[
"ええ、大割引で勉強をしとるです。で、その、ちょっとあらかじめ御諒解を得ておきたいのですが、お客様が小人数で、車台が透いております場合は、途中、田舎道、あるいは農家から、便宜上、その同乗を求めらるる客人がありますと、御迷惑を願う事になっているのでありますが。",
"ははあ、そんな事だろうと思った。どうもお値段の塩梅がね。"
],
[
"多分の料金をお支払いの上、お客様がですな、一人で買切っておいでになりましても、途中、その同乗を求むるものをたって謝絶いたしますと、独占的ブルジョアの横暴ででもありますかのように、階級意識を刺戟しまして――土地が狭いもんですから――われわれをはじめ、お客様にも、敵意を持たれますというと、何かにつけて、不便宜、不利益であります処から。……は。",
"分りました、ごもっともです。",
"ですが、沿道は、全く人通りが少いのでして、乗合といってもめったにはありません。からして、お客様には、事実、御利益になっておりますのでして。",
"いや、損をしても構いません。妙齢の娘か、年増の別嬪だと、かえってこっちから願いたいよ。",
"……運転手さん、こちらはね、片原へ恋人に逢いにいらっしゃったんだそうですから。"
],
[
"烏がなくなあ。",
"群れておるです。"
],
[
"どちらですか。",
"ええ処で降りるんじゃ。"
],
[
"きみ、きみ、まだなかなかかい。",
"屋根が見えるでしょう――白壁が見えました。",
"留まれ。"
],
[
"やーい。",
"おーい。"
],
[
"――お爺さん、何だろうね。",
"…………",
"私も、運転手も、現に見たんだが。",
"さればなす……"
],
[
"沼は、あの奥に当るのかね。",
"えへい、まあ、その辺の見当ずら。"
],
[
"何かね、その赤い化もの……",
"赤いのが化けものじゃあない――お爺さん。",
"はあ、そうけえ。"
],
[
"……だから、私が――じゃあ、その阿武沼、逢魔沼か。そこへ、あの連中は行ったんだろうか、沼には変った……何か、可恐い、可怪い事でもあるのかね。饂飩酒場の女房が、いいえ、沼には牛鬼が居るとも、大蛇が出るとも、そんな風説は近頃では聞きませんが、いやな事は、このさきの街道――畷の中にあった、というんだよ。寺の前を通る道は、古い水戸街道なんだそうだね。",
"はあ、そうでなす。",
"ぬかるみを目の前にして……さあ、出掛けよう。で、ここへ私が来る道だ。何が出ようとこの真昼間、気にはしないが、もの好きに、どんな可恐い事があったと聞くと、女給と顔を見合わせてね、旦那、殿方には何でもないよ。アハハハと笑って、陽気に怯かす……その、その辺を女が通ると、ひとりでに押孕む……",
"馬鹿あこけ、あいつ等。"
],
[
"お前様の前だがの、女が通ると、ひとりで孕むなぞと、うそにも女の身になったらどうだんべいなす、聞かねえ分で居さっせえまし。優しげな、情合の深い、旦那、お前様だ。",
"いや、恥かしい、情があるの、何のと言って。墓詣りは、誰でもする。",
"いや、そればかりではねえ。――知っとるだ。お前様は人間扱いに、畜類にものを言わしったろ。",
"畜類に。",
"おお、鷺によ。",
"鷺に。",
"白鷺に。畷さ来る途中でよ。",
"ああ、知ってるのかい、それはどうも。"
],
[
"何と、はあ、おっかねえもんだ、なす。知らねえ虫じゃねえでがすが、……もっとも、あの、みちおしえは、誰も触らねえ事にしてあるにはあるだよ。",
"だから、つい、声も掛けようではないか。",
"鷺の鳥はどうしただね。",
"お爺さん、それは見ていなかったかい。",
"なまけもんだ、陽気のよさに、あとはすぐとろとろだ。あの潰屋の陰に寝ころばっておったもんだでの。"
],
[
"うんや、鳥は悧巧だで。",
"悧巧な鳥でも、殺生石には斃るじゃないか。",
"うんや、大丈夫でがすべよ。",
"が、見る見るあの白い咽喉の赤くなったのが可恐いよ。",
"とろりと旨いと酔うがなす。"
],
[
"麦こがしでは駄目だがなす。",
"しかし……",
"お前様、それにの、鷺はの、明神様のおつかわしめだよ、白鷺明神というだでね。",
"ああ、そうか、あの向うの山のお堂だね。",
"余り人の行く処でねえでね。道も大儀だ。"
],
[
"――時に、和尚さんは、まだなかなか帰りそうに見えないね。とすると、位牌も過去帳も分らない。……",
"何しろ、この荒寺だ、和尚は出がちだよって、大切な物だけは、はい、町の在家の確かな蔵に預けてあるで。",
"また帰途に寄るとしよう。"
],
[
"おだいこくがおいでかね。",
"は、とんでもねえ、それどころか、檀那がねえで、亡者も居ねえ。だがな、またこの和尚が世棄人過ぎた、あんまり悟りすぎた。参詣の女衆が、忘れたればとって、預けたればとって、あんだ、あれは。"
],
[
"南無普門品第二十五。",
"普門品第二十五。"
],
[
"この寺に観世音。",
"ああ居らっしゃるとも、難有い、ありがたい……",
"その本堂に。",
"いや、あちらの棟だ。――ああ、参らっしゃるか。",
"参ろうとも。",
"おお、いい事だ、さあ、ござい、ござい。"
],
[
"南無普門品第二十五。",
"失礼だけれど、准胝観音でいらっしゃるね。",
"はあい、そうでがすべ。和尚どのが、覚えにくい名を称えさっしゃる。南無普門品第二十五。"
],
[
"お爺さん、ああ、それに、生意気をいうようだけれど、これは素晴らしい名作です。私は知らないが、友達に大分出来る彫刻家があるので、門前の小僧だ。少し分る……それに、よっぽど時代が古い。",
"和尚に聞かして下っせえ、どないにか喜びますべい、もっとも前藩主が、石州からお守りしてござったとは聞いとりますがの。"
],
[
"……一生の願に、見たいものですな。",
"お見せしましょうか。",
"恐らく不老長寿の薬になる――近頃はやる、性の補強剤に効能の増ること万々だろう。",
"そうでしょうか。"
],
[
"小県の惚れ方は大変だよ。",
"…………",
"嬉しいだろう。",
"ええ。"
],
[
"お誓さん。",
"誓ちゃん。",
"よう、誓の字。"
],
[
"お誓さんに是非というのだ、この人に酌をしておあげなさい。",
"はい。"
],
[
"はい、お酌……",
"感謝します、本懐であります。"
],
[
"上へのっけられたより、扇で木魚を伏せた方が、女が勝ったようで嬉しいよ。",
"勝つも負けるも、女は受身だ。隠すにも隠されましねえ。"
]
] | 底本:「泉鏡花集成9」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年6月24日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第二十三卷」岩波書店
1942(昭和17)年6月22日発行
入力:門田裕志
校正:土屋隆
2006年3月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
[
"あるきもしない、不精だ不精だと云ふけれど、居ながらにして知つてるぜ。かはせみさ、それは。",
"あゝ。",
"字に顯はすと、些と畫が多い、翡翠とかいてね、お前たち……たちぢやあ他樣へ失禮だ……お前なぞが欲しがる珠とおんなじだ。"
]
] | 底本:「鏡花全集 巻二十七」岩波書店
1942(昭和17)年10月20日第1刷発行
1988(昭和63)年11月2日第3刷発行
※題名の下にあった年代の注を、最後に移しました。
※表題は底本では、「鳥影《とりかげ》」とルビがついています。
入力:門田裕志
校正:川山隆
2011年8月6日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "050789",
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[
[
"はい、はい。不自由で、もう難儀をいたします。",
"いや、そりゃ困るだろう。どれ僕が案内してあげよう。さあ、さあ、手を出した。",
"はい、はい。それはどうも、何ともはや、勿体もない、お難有う存じます。ああ、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。"
],
[
"爺様、まあここにお坐り。下じゃ耐らない、まるで釜烹だ。どうだい、涼しかろ。",
"はい、はい、難有うございます。これは結構で。"
],
[
"こんな時にでも用わなくッちゃ、君なんざ生涯用う時は有りゃしない。",
"と先言ッて置くさ。"
],
[
"はい、もうお蔭様で老夫め助かりまする。こうして眼も見えません癖に、大胆な、単独で船なんぞに乗りまして、他様に御迷惑を掛けまする。",
"まったくだよ、爺様。"
],
[
"君の吹くぜもお株だ。実際ださ、実際僕の見た話だ。",
"へん、躄の人力挽、唖の演説家に雀盲の巡査、いずれも御採用にはならんから、そう思い給え。",
"失敬な! うそだと思うなら聞き給うな。僕は単独で話をする。",
"単独で話をするとは、覚悟を極めたね。その志に免じて一條聞いてやろう。その代り莨を一本。……"
],
[
"うむ、それから。",
"うむ、それからもないもんだ。",
"まあそう言わずに折角話したまえ。謹聴々々。",
"その謹聴のきんの字は現金のきんの字だろう。"
],
[
"謹聴の約束じゃないか。まあ聴き給えよ。見ると赤飯だ。",
"おや。二個貰ッたのか。だから近来はどこでも切符を出すのだ。"
],
[
"謝ッた謝ッた。これから真面目に聴く。よし、見ると赤飯だ。それは解ッた。",
"そこで……",
"食ったのか。",
"何を?",
"いや、よし、それから。",
"これはどういう事実だと聞くと、長年この渡をやッていた船頭が、もう年を取ッたから、今度息子に艪を譲ッて、いよいよ隠居をしようという、この日が老船頭、一世一代の漕納だというんだ。面白かろう。"
],
[
"赤飯を貰ッたと思ってひどく面白がるぜ。",
"こりゃ怪しからん! 僕が赤飯のために面白がるなら、君なんぞは難有がッていいのだ。"
],
[
"その葉巻はどうした。",
"うむ、なるほど。面白い、面白い、面白い話だ。"
],
[
"君は何を祝った。",
"僕か、僕は例の敷島の道さ。",
"ふふふ、むしろ一つの癖だろう。",
"何か知らんが、名歌だッたよ。",
"しかし伺おう。何と言うのだ。"
]
] | 底本:「新潟県文学全集 第1巻 明治編」郷土出版社
1995(平成7)年10月26日発行
底本の親本:「泉鏡花全集1」岩波書店
初出:「太陽 創刊号」
入力:高田農業高校生産技術科流通経済コース
校正:小林繁雄
2006年9月18日作成
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "045755",
"作品名": "取舵",
"作品名読み": "とりかじ",
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"初出": "「太陽 創刊号」",
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"名": "鏡花",
"姓読み": "いずみ",
"名読み": "きょうか",
"姓読みソート用": "いすみ",
"名読みソート用": "きようか",
"姓ローマ字": "Izumi",
"名ローマ字": "Kyoka",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1873-11-04",
"没年月日": "1939-09-07",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "新潟県文学全集 第1巻 明治編",
"底本出版社名1": "郷土出版社",
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[
[
"はあ。……",
"えゝ、しかし何は御不足でも医学博士、三角康正さんが、この一行にお加はり下すつて、篤志とまでも恩に着せず、少い徳本の膝栗毛漫遊の趣で、村々で御診察をなすつたのは、御地に取つて、何よりの事と存じます。",
"はあ、勿論であります。",
"それに、洋画家の梶原さんが、雨を凌ぎ、波を浴びて、船でも、巌でも、名勝の実写をなすつたのも、御双方、御会心の事と存じます。尚ほ、社の写真班の英雄、三浦さんが、自籠巌を駆け上り、御占場の鉄階子を飛下り、到る処、手練のシヤターを絞つたのも、保勝会の皆様はじめ、……十和田の神……"
],
[
"戴いて置け。礼を言へい。",
"それ、急げ。"
],
[
"さあ〳〵さあ、そろ〳〵怪しくなりましたな。",
"怪談ですか。",
"それ処ですか、暗く成つて来ましたなあ、鳴りさうですね。鳴りさうですね。"
],
[
"小笠原さん、降つたんですね。",
"いや、昨日の雨ですわい。"
],
[
"凄い婆さんに逢ひましたよ。",
"大雨、大雨。"
],
[
"はい?",
"鍋に何を煮なさいますか。",
"小豆でございます。"
],
[
"御馳走は?",
"洋燈。"
],
[
"ホツキ貝でなくつてよかつたわね。",
"精進のホツキ貝ですよ。それにジヤガ芋の煮たの。……しかしお好み別誂で以て、鳥のブツ切と、玉葱と、凍豆腐を大皿に積んだのを鉄鍋でね、湯を沸立たせて、砂糖と醤油をかき交ぜて、私が一寸お塩梅をして",
"おや、気味の悪い。",
"可、と打込んで、ぐら〳〵と煮える処を、めい〳〵盛に、フツフと吹いて、",
"山賊々々。"
],
[
"食べられるの。",
"そいつが天麩羅のあげたてだ。ほか〳〵だ。"
],
[
"あら、いゝ事ねえ、行きたくなつた。",
"私……今からでも。"
]
] | 底本:「新編 泉鏡花集 第十巻」岩波書店
2004(平成16)年4月23日第1刷発行
底本の親本:「日本八景」鉄道省
1928(昭和3)年8月1日
初出:「東京日日新聞 朝刊第一八三五一号~第一八三五九号」東京日日新聞社
1927(昭和2)年10月1日~9日
「大阪毎日新聞 夕刊第一五九五〇号~第一五九五三号、第一五九五五号~第一五九五九号」大阪毎日新聞社
1927(昭和2)年10月13日~16日、18日~22日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※表題は底本では、「十和田湖《とわだこ》」となっています。
※初出時の署名は「泉鏡花」です。
入力:日根敏晶
校正:門田裕志
2016年8月31日作成
2016年9月2日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "057489",
"作品名": "十和田湖",
"作品名読み": "とわだこ",
"ソート用読み": "とわたこ",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「東京日日新聞 朝刊第一八三五一号〜第一八三五九号」東京日日新聞社、1927(昭和2)年10月1日〜9日<br>「大阪毎日新聞 夕刊第一五九五〇号〜第一五九五三号、第一五九五五号〜第一五九五九号」大阪毎日新聞社、1927(昭和2)年10月13日〜16日、18日〜22日",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2016-09-01T00:00:00",
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"姓読み": "いずみ",
"名読み": "きょうか",
"姓読みソート用": "いすみ",
"名読みソート用": "きようか",
"姓ローマ字": "Izumi",
"名ローマ字": "Kyoka",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1873-11-04",
"没年月日": "1939-09-07",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "新編 泉鏡花集 第十巻",
"底本出版社名1": "岩波書店",
"底本初版発行年1": "2004(平成16)年4月23日",
"入力に使用した版1": "2004(平成16)年4月23日第1刷",
"校正に使用した版1": "2004(平成16)年4月23日第1刷",
"底本の親本名1": "日本八景",
"底本の親本出版社名1": "鉄道省",
"底本の親本初版発行年1": "1928(昭和3)年8月1日",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
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"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "日根敏晶",
"校正者": "門田裕志",
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"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "1"
} |
[
[
"今のは?",
"大阪城でございますさ。"
],
[
"まさか、天満の橋の上から、淀川を控えて、城を見て――当人寝が足りない処へ、こう照つけられて、道頓堀から千日前、この辺の沸くり返る町の中を見物だから、茫となって、夢を見たようだけれど、それだって、大阪に居る事は確に承知の上です――言わなくっても大阪城だけは分ろうじゃないか。",
"御道理で、ふふふ、"
],
[
"大丈夫だろうかね。",
"雷様ですか。"
],
[
"串戯じゃありませんぜ。何の今時……",
"そんなら可いが、"
],
[
"時に、それについて、",
"あの、別嬪の事でしょう。私たちが立停まって、お城を見ていました。四五間さきの所に、美しく立って、同じ方を視めていた、あれでしょう。……貴方が(今のは!)ッて一件は。それ、奴を一人、お供に連れて、",
"奴を……十五六の小間使だぜ。"
],
[
"人が悪いな、この人は。それまで心得ていて、はぐらかすんだから。(大阪城でございます、)はちと癪だろうじゃないか。",
"はははは。"
],
[
"ですとも。それを知らん顔で、しらばっくれて、唯今一見という顔をなさるから、はぐらかして上げましたんでさ。",
"だって、住吉、天王寺も見ない前から、大阪へ着いて早々、あの婦は? でもあるまいと思う。それじゃ慌て過ぎて、振袖に躓いて転ぶようだから、痩我慢で黙然でいたんだ。"
],
[
"阪地は風流だね、洒落に芸者に出すなんざ、悟ったもんですぜ、根こぎで手活にした花を、人助けのため拝ませる、という寸法だろう。私なんぞも、お庇で土産にありついたという訳だ。",
"いいえ、隣桟敷の緋の毛氈に頬杖や、橋の欄干袖振掛けて、という姿ぐらいではありません。貴方、もっと立派なお土産を御覧なさいましょうよ。御覧なさいまし、明日、翌々日の晩は、唯今のお珊の方が、千日前から道頓堀、新地をかけて宝市の練に出て、下げ髪、緋の袴という扮装で、八年ぶりで練りますから。"
],
[
"立すくみは大袈裟だね、人聞きが悪いじゃないか。",
"だって、今でさえ、悚然なすったじゃありませんかね。"
],
[
"へい、何がございました。やたらに何か食べたんですかい。",
"何、詰らんことを……そうじゃない。余りと言えば見苦しいほど、大入芝居の桟敷だというのに、旦那かね、その連の男に、好三昧にされてたからさ。"
],
[
"執念の深いもんだから、あやかる気で、生命がけの膚に絡ったというわけだ。",
"それもあります。ですがね、心願も懸けたんですとさ。何でも願が叶うと云います……咒詛も、恋も、情も、慾も、意地張も同じ事。……その時鳩尾に巻いていたのは、高津辺の蛇屋で売ります……大瓶の中にぞろぞろ、という一件もので、貴方御存じですか。"
],
[
"何を御覧なさる。",
"いいえね、今擦違った、それ、"
],
[
"それ、あの、忠兵衛の養母といった隠居さんが、紙袋を提げているから、",
"串戯じゃありません。",
"私は例のかと思った、……",
"ありゃ天満の亀の子煎餅、……成程亀屋の隠居でしょう。誰が、貴方、あんな婆さんが禁厭の蛇なんぞを、",
"ははあ、少いものでなくっちゃ、利かないかね。"
],
[
"まったくかも知れません、何しろ、この誓文払の前後に、何千条ですかね、黒焼屋の瓶が空虚になった事があるって言いますから。慾は可恐しい。悪くすると、ぶら提げてるのに打撞らないとも限りませんよ。",
"それ! だから云わない事じゃない。"
],
[
"時に、どうしたと云うんですえ、お珊さんが、その旦那と?……",
"まあ、お聞き――隣合った私の桟敷に、髪を桃割に結って、緋の半襟で、黒繻子の襟を掛けた、黄の勝った八丈といった柄の着もの、紬か何か、絣の羽織をふっくりと着た。ふさふさの簪を前のめりに挿して、それは人柄な、目の涼しい、眉の優しい、口許の柔順な、まだ肩揚げをした、十六七の娘が、一人入っていたろう。……出来るだけおつくりをしたろうが、着ものも帯も、余りいい家の娘じゃないらしいのが、"
],
[
"そう、餅屋の姉さんかい……そして何だぜ、あの芝居の厠に番をしている、爺さんね、大どんつくを着た逞しい親仁だが、影法師のように見える、太く、よぼけた、",
"ええ、駕籠伝、駕籠屋の伝五郎ッて、新地の駕籠屋で、ありゃその昔鳴らした男です。もう年紀の上に、身体を投げた無理が出て、便所の番をしています。その伝が?",
"娘の、爺さんか父親なんだ。"
],
[
"へい、",
"知らないのかい。",
"そうかも知れません、私あ御存じの土地児じゃないんですから、見たり、聞いたり、透切だらけで。へい、どうして、貴方?",
"ところが分った事がある。……何しろ、私が、昨夜、あの桟敷へ入った時、空いていた場所は、その私の処と、隣りに一間、",
"そうですよ。"
],
[
"一件と……おっしゃると?",
"長いの、長いの。",
"その娘が、蛇を……嘘でしょう。"
],
[
"聞きゃ、道成寺を舞った時、腹巻の下へ蛇を緊めた姉さんだと云うじゃないか。……その扱帯が鎌首を擡げりゃ可かったのにさ。",
"まったくですよ。それがために、貴方ね、舞の師匠から、その道成寺、葵の上などという執着の深いものは、立方禁制と言渡されて、破門だけは免れたッて、奥行きのある婦ですが……金子の力で、旦那にゃ自由にならないじゃなりますまいよ。",
"気の毒だね。",
"とおっしゃると、筋も骨も抜けたように聞えますけれど、その癖、随分、したい三昧、我儘を、するのを、旦那の方で制し切れないッて、評判をしますがね。",
"金子でその我ままをさせてもらうだけに、また旦那にも桟敷で帯を解かれるような我儘をされるんです。身体を売って栄耀栄華さ、それが浅ましいと云うんじゃないか。",
"ですがね、"
],
[
"音に聞いた天満の市へ、突然入ったから驚いたんです。",
"そうでしょう。"
],
[
"おでんや、おでん!",
"饂飩あがんなはらんか、饂飩。",
"煎餅買いなはれ、買いなはれ。"
],
[
"蛙だと青柳硯と云うんです。",
"まったくさ。"
],
[
"執念深いもんですね。",
"あれ迄にしたんだ、揚げてやりたい。が、もう弱ったかな。"
],
[
"ははあ、考えた。",
"あいつを力に取って伸上るんです、や、や、どッこい。やれ情ない。"
],
[
"もう二時半です、これから中の島を廻るんですから、徐々帰りましょう。",
"しかし、何だか、揚るのを見ないじゃ気が残るようだね。",
"え、私も気になりますがね、だって、日が暮れるまで掛るかも知れませんから。",
"妙に残惜いようだよ。"
],
[
"串戯じゃありませんぜ。ね、それ、何だか薄りと美しい五色の霧が、冷々と掛るようです。……変に凄いようですぜ。亀が昇天するのかも知れません。板に上ると、その機会に、黒雲を捲起して、震動雷電……",
"さあ、出掛けよう。"
],
[
"丸官はんに、柿の核吹かけられたり、口車に綱つけて廊下を引摺廻されたり、羅宇のポッキリ折れたまで、そないに打擲されやして、死身になって堪えなはったも、誰にした辛抱でもない、皆、美津さんのためやろな。",
"…………",
"なあ、貴方、",
"…………",
"ええ、多一さん、新枕の初言葉と、私もここでちゃんと聞く。……女子は女子同士やよって、美津さんの味方して、私が聞きたい。貴方はそうはなかろうけど、男は浮気な……"
],
[
"……ものやさかい、美津さんの後の手券に、貴方の心を取っておく。ああまで堪えやした辛抱は、皆女子へ、",
"ええ、",
"あの、美津さんへの心中だてかえ。"
],
[
"どうしやはったえ。",
"御寮人様、一生に一度の事でござります。とてもの事に、ものが逆になりませんよう、やっぱり美津から……"
],
[
"女から、お盞を頂かして下さりまし。",
"そやかて、含羞でいて取んなはらん。……何や、貴方がた、おかしなえ。"
],
[
"御寮人様。",
"お珊様。",
"女紅場では、屋台の組も乗込みました。",
"貴女ばかりを待兼ねてござります。"
],
[
"はッ、",
"き様、逢阪のあんころ餅へ、使者に、後押で駈着けて、今帰った処じゃな。",
"御意にござります、へい。",
"何か、直ぐに連れてここへ来る手筈じゃった、猿は、留木から落ちて縁の下へ半分身体を突込んで、斃死ていたげに云う……嘘でないな。",
"実説正銘にござりまして、へい。餅屋店では、爺の伝五めに、今夜、貴方様、お珊の方様、"
]
] | 底本:「泉鏡花集成6」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年3月21日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第十四卷」岩波書店
1942(昭和17)年3月10日発行
※誤植の確認には底本の親本を参照しました。
入力:門田裕志
校正:土屋隆
2006年11月2日作成
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[
[
"へいへい、山雀の宿にござります。",
"ああ、風情なものじゃの。"
],
[
"催促てるよ、催促てるよ。",
"せわしないのね。……煩いよ。"
],
[
"あれに沢山ございます、あの、茂りました処に。",
"滝でも落ちそうな崖です――こんな町中に、あろうとは思われません。御閑静で実に結構です。霧が湧いたように見えますのは。",
"烏瓜でございます。下闇で暗がりでありますから、日中から、一杯咲きます。――あすこは、いくらでも、ごんごんごまがございますでな。貴方は何とかおっしゃいましたな、スズメの蝋燭。"
],
[
"これを御縁に。",
"勿論かさねまして、頃日に。――では、失礼。",
"ああ、しばらく。……これは、貴方、おめしものが。"
],
[
"ここもとは茅屋でも、田舎道ではありませんじゃ。尻端折……飛んでもない。……ああ、あんた、ちょっと繕っておあげ申せ。",
"はい。"
],
[
"あなた……",
"ああ、これ、紅い糸で縫えるものかな。",
"あれ――おほほほ。"
],
[
"恐縮です、何ともどうも。",
"こう三人と言うもの附着いたのでは、第一私がこの肥体じゃ。お暑さが堪らんわい。衣服をお脱ぎなさって。……ささ、それが早い。――御遠慮があってはならぬ――が、お身に合いそうな着替はなしじゃ。……これは、一つ、亭主が素裸に相成りましょう。それならばお心安い。"
]
] | 底本:「鏡花短篇集」川村二郎編、岩波文庫、岩波書店
1987(昭和62)年9月16日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第二七卷」岩波書店
1942(昭和17)年10月
入力:砂場清隆
校正:松永正敏
2000年8月30日公開
2005年12月2日修正
青空文庫作成ファイル:
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[
[
"他に通るかとは、何がでござるの。",
"否、今謂つたぢやないか、人の通る路は廻り〳〵蜒つて居るつて。だから聞くんですが、他に何か歩行きますか。"
],
[
"むかうへむく〳〵と霧が出て、そつとして居る時は天気ぢやがの、此方の方から雲が出て、そろ〳〵両方から歩行びよつて、一所になる時が此の雨ぢや。びしよ〳〵降ると寒うござるで、老寄には何より恐しうござるわいの。",
"あゝ、私も雨には弱りました、じと〳〵其処等中へ染込んで、この気味の悪さと云つたらない、お媼さん。",
"はい、御難儀でござつたろ。",
"お邪魔ですが此処を借ります。"
],
[
"あゝ、腹が空いた。最う〳〵降るのと溜つたので濡れ徹つて、帽子から雫が垂れた時は、色も慾も無くなつて、筵が一枚ありや極楽、其処で寝たいと思つたけれど、恁うしてお世話になつて雨露が凌げると、今度は虫が合点しない、何ぞ食べるものはありませんか。",
"然ればなう、恐し気な音をさせて、汽車とやらが向うの草の中を走つた時分には、客も少々はござつたで、瓜なと剥いて進ぜたけれど、見さつしやる通りぢやでなう。私が食る分ばかり、其も黍を焚いたのぢやほどに、迚もお口には合ふまいぞ。",
"否、飯は持つてます、何うせ、人里のないを承知だつたから、竹包にして兵糧は持参ですが、お菜にするものがないんです、何か些と分けて貰ひたいと思ふんだがね。"
],
[
"それならば待たしやませ、塩ツぱいが味噌漬の香の物がござるわいなう。",
"待ちたまへ、味噌漬なら敢てお手数に及ぶまいと思ひます。"
],
[
"あのまた霧の毒といふものは恐しいものでなう、お前様、今日は彼が雨になつたればこそ可うござつた、ものの半日も冥土のやうな煙の中に包まれて居て見やしやれ、生命を取られいでから三月四月煩うげな、此処の霧は又格別ぢやと言ふわいなう。",
"あの、霧が、",
"お客様、お前さま、はじめて此処を歩行かつしやるや?"
],
[
"だつてお媼さん、此の野原は滅多に人の通らない処だつて聞いたからさ。",
"そりや最う眺望というても池一つあるぢやござらぬ、纔ばかりの違でなう、三島はお富士山の名所ぢやに、此処は恁う一目千里の原なれど、何が邪魔をするか見えませぬ、其れぢやもの、ものずきに来る人は無いのぢやわいなう。",
"否さ、景色がよくないから遊山に来ぬの、便利が悪いから旅の者が通行せぬのと、そんなつい通りのことぢやなくさ、私たちが聞いたのでは、此の野中へ入ることを、俗に身を投げると言ひ伝へて、無事にや帰られないんださうではないか。",
"それはお客様、此処といふ限はござるまいがなう、躓けば転びもせず、転びやうが悪ければ怪我もせうず、打処が悪ければ死にもせうず、野でも山でも海でも川でも同じことでござるわなう、其につけても、然う又人のいふ処へ、お前様は何をしに来さつしやつた。"
],
[
"第一まあ、先刻から恁うやつて鉄砲を持つた者が入つて来たのに、糸を繰る手を下にも置かない、茶を一つ汲んで呉れず、焚火だつて私の方でして居るもの、変にも思はうぢやないか、えゝ、お媼さん。",
"これは〳〵、お前様は、何と、働きもの、愛想のないものを、変化ぢやと思はつしやるか。",
"むゝ。",
"それも愛想がないのぢやないわいなう、お前様は可愛らしいお方ぢやでの、私も内端のもてなしぢや、茶も汲んで飲らうぞ、火も焚いて当らつしやらうぞ。何とそれでも怪しいかいなう"
],
[
"最う何うでも可うございます、私はふら〳〵して堪らない、殺されても可いから少時爰で横になりたい、構はないかね、御免なさいよ。",
"おう〳〵可いともなう、安心して一休み休まつしやれ、ちツとも憂慮をさつしやることはないに、私が山猫の化けたのでも。",
"え。",
"はて魔の者にした処が、鬼神に横道はないといふ、さあ〳〵かたげて寝まつしやれいの〳〵。"
],
[
"お前様一枚脱いでなり、濡れたあとで寒うござろ。",
"震へるやうです、全く。"
],
[
"お媼さん。",
"おゝ、其ぢや、何と丁どよからうがの、取つて掻巻にさつしやれいなう。"
],
[
"遁すな。",
"女!",
"男!"
],
[
"男は、",
"男は、"
],
[
"何処へ遁げた。",
"今此処に、",
"其処で見た。"
],
[
"さあ、言へ、言へ。",
"殿様の御意だ、男を何処へ秘した。",
"さあ、言つちまへ。"
],
[
"打て!",
"殺して、殺して下さいよ、殺して下さいよ。",
"いづれ殺す、活けては置かぬが、男の居所を謂ふまでは、活さぬ、殺さぬ。やあ、手ぬるい、打て。笞の音が長く続いて在所を語る声になるまで。",
"はツ。"
],
[
"殿、不実な男であります、婦人は覚悟をしましたに、生命を助かりたいとは、あきれ果てた未練者、目の前でずた〳〵に婦人を殺して見せつけてくれませう。",
"待て。",
"は。",
"客人が、世を果敢んで居るうちは、我々の自由であるが、一度心を入交へて、恁る処へ来るなどといふ、無分別さへ出さぬに於ては、神仏おはします、父君、母君おはします洛陽の貴公子、むざとしては却つて冥罰が恐しい。婦人は斬れ! 然し客人は丁寧にお帰し申せ。"
]
] | 底本:「日本幻想文学集成1 泉鏡花」国書刊行会
1991(平成3)年3月25日初版第1刷発行
1995(平成7)年10月9日初版第5刷発行
底本の親本:「泉鏡花全集」岩波書店
1940(昭和15)年発行
初出:「新小説」
1903(明治36)年1月
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
入力:門田裕志
校正:川山隆
2009年5月10日作成
青空文庫作成ファイル:
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| {
"作品ID": "048409",
"作品名": "二世の契",
"作品名読み": "にせのちぎり",
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[
[
"お客に舐めさせるんだとよ。",
"何を。",
"その飴をよ。"
],
[
"煮てかい、焼いてかい。",
"何、口からよ。"
],
[
"矮小やい、舌を出せ。",
"出せよ、畜生。",
"ううん、ううん、そう号令を掛けちゃ出せやしませんさ。"
],
[
"可厭、また……大な声をして。",
"大な声がどうしたんでえ。"
],
[
"やあ、謝罪るぜ、ぐうたらやい。",
"不見手よりか心太だい。"
],
[
"内証なのよ、ねえ、後生よ。姉さんに聞えると腹を立ちますわ。",
"何を云ってやんでえ。",
"分るもんか。"
],
[
"お前ン許の姉さんは、町内の狂人じゃねえかよ。",
"其奴も怪しいんだぜ、お夥間だい。"
],
[
"何が嫌だい。",
"生意気云うない。"
],
[
"嘘よ、お前さんじゃないのよ。その大高源吾とか云う、ずんぐりむっくりした人がね、笹を担いで浪花節で歩行いては、大事な土地が汚れるって。……橋は台なし、堪らないって、姉さんが云うんだわ。",
"知ってらい!"
],
[
"忠臣、義士の罰が当らあ。",
"勿論よ。"
],
[
"疾に罰が当って、気の違った奴なんか構わねえや。……此奴に笹葉を頂かせろ。",
"嚔をさしたれ。"
],
[
"一所においでよ、皆。",
"おい。"
],
[
"ええ、そうです。",
"こなたはな。"
],
[
"僕は赤鞘の安兵衛てんです。",
"ははあ、堀部氏でおいでなさる。",
"千崎弥五郎だよ。"
],
[
"坊さんは誰なんです。",
"怜悧だな。何、天晴御会釈。いかさま、御姓名を承りますに、こなたから先へ氏素姓を申上げぬという作法はありませなんだ。しかし御覧の通り、木の端同然のものでありますので、別に名告りますほどの苗字とてもありませぬ。愚僧は泉岳寺の味噌摺坊主でござる。"
],
[
"お出掛け、姉さん。どちらへか。",
"いいえ、帰途なの。ちょっと浅草へお参りをしたんです。――今ね、通りがかりに見たんだけれど、お前さん、飛んだ目にお逢いだったわね。",
"ええ。",
"でも、可かったこと。私ね、見ていてどうしようかしら、と思ったのよ。――お千世さん。",
"は、"
],
[
"そして……あの坊さんは知った方。何なの、内へ勧化にでも来たことのある人なの。",
"いいえ、ちっとも知りませんわ。",
"そう。",
"笠を被っておいでなすって、顔はちっとも見えなかったんですもの……でも、そうでなくッても、まるッきり、心当りはありませんよ。",
"そうね、それはそうだともね。"
],
[
"飴屋の小父さんは、鶯が壊れたから、代りを拵えて、そして持って行けッて云ったんですよ。………私、それどころじゃないんですもの。帰って姉さんにそう云って、あの西河岸のお地蔵様へお参りに行くか、でなけりゃ、直ぐ、あの、お仏壇へお燈明をあげて拝みましょうと思って駆出して来た処なんですわ。",
"まあ、お千世さん。お前さん、大な態度をして飴なのかね。私は蜜豆屋かと思ったよ。"
],
[
"あら……清葉姉さん酷いこと、何ぼ私かって蜜豆を。立って、往来で。",
"ほほほ、申過しました、御免なさいよ。いえね、実はね、……小児衆が、通せん坊をして、わやわや囃しているから、気になってね、密と様子を見て案じていたの。……あの、もっとこっちへお寄んなさいよ。"
],
[
"お前さんの姉さんに聞かせたら、さぞ気が利かないってお笑いだろう。",
"いいえ、姉さん。"
],
[
"困るわねえ、病気をして。",
"ええ。"
],
[
"そして、どんななの、やっぱりお孝さんは相不変?",
"ええ、困るのよ。二日に一度、三日に一度ぐらい、ちょっと気がつくんですけれど、直に夢のようになってしまいますわ。",
"そうだってねえ。",
"時々、嬰児のようなことなんか。今しがたも、ぶっきり飴と鳥が欲しいって、そう云って、………"
],
[
"お千世さん、今の、あの、味方をして下すった坊さんね、……",
"ええ。",
"お前さん誰かに肖ていたとは思わなくって、",
"肖ていて。誰に、ええ?……姉さん。",
"ちょっとあの……それだと、お前さんも、お孝さんも、私も知っている方なんだがね。",
"そうでしょう、ですから、私もきっとそうでしょうと思いましたわ。",
"まあ、やっぱり、そうかねえ。気の迷いじゃなかったかねえ。"
],
[
"では、あの、姉さんはお顔を見たことがあるんですか。",
"私は、ここで遠いもの。顔なんてどうして?……お前さんは見たんじゃない? もっとも笠を被っていなすったけれどもさ。"
],
[
"いいえ、気の迷いじゃありません。私はまったく。",
"そうね、……折があったら、お千世さん、一所におまいりをしようねえ。"
],
[
"いらっしゃいまし、……唯今お坊ちゃんがお見えになりましたよ。",
"おや、そうですか、小婢がついて。"
],
[
"飛んでもない、女房さん、何ですか、小娘までが、そんなに心安だてを申しますか、御迷惑でございますこと。",
"勿体ない、お蔭さまで人気が立って大景気でございますよ。",
"お世辞が可いのねえ、お千世さん。",
"はあ、ほんとうに評判よ。",
"いいえ、滅相な、お世辞ではございませんが、貴女方に誉められます処を、亡くなった亭主に聞かしてやりとうございます。そういたしましたら、生きてるうち邪慳にしましたのをさぞ後悔することでございましょう。しかしまた未練が出て、化けてでも出ると大変でございますね。"
],
[
"松蔵どんやあ。",
"わい。"
],
[
"女房さん!",
"ああ、驚いた。何だい。"
],
[
"いいえ、すぐにお暇を。――お千世さん、何が可かろうねえ。",
"済みません、姉さん。"
],
[
"あの、極りが悪いんですがね、お前さんのために使おうと思ったのを、使わないで済んだんです。お金子だと思わないで、お千世さん。",
"まあ、なぜ?",
"小児に苛められたお見舞に。"
],
[
"途中で我ままな馴染に逢って無理に連れられたとそうお云いな。目と鼻の前だって、一旦家へ帰ってからだと、河岸の鮨は立食しても、座敷にはきちょうめんな、極りの堅いお孝さん。お化粧だの、着換だので、ついそのままではお出しであるまい。……私も五時からお約束が一つある。早いが可いわね。ちょっとこの自働電話で、内へ電話をお掛けなさい。一所に行って御飯を食べよう。",
"姉さん。"
],
[
"どうして、ねえ。",
"お孝姉さんはあんなでしょう。私は滅多に御座敷はありませんし、あの……"
],
[
"まあ、お孝さんが廻れと云って?",
"いいえ。"
],
[
"滝の家で。",
"たきの家?",
"へい、清葉姉さんの家でげすよ。"
],
[
"ああ。",
"危いわ、姉さん。"
],
[
"ははあ、葛木ですかね、姓じゃね、苗字であるですね。名は何と云わるるですか。",
"晋三です。"
],
[
"新はどう書くですかね、……通例新の新ですか? あるいは。",
"晋と云う字です。"
],
[
"すすむ、いわゆる、進歩ですかね。",
"いや――高杉晋作の晋なのです。"
],
[
"維新創業の名士、長州第一の英傑じゃね。ああ、豪い名前でありますな。ふん。",
"親がつけたんです。"
],
[
"で、晋三の蔵の字は?……いや、名刺をお持ちじゃろう、と考えるですがね。",
"確か……有りました。"
],
[
"差上げますので?",
"何、拝見をしますので、はあ、ああ。"
],
[
"深くその、嚢底に秘して置くですね。",
"何、そういう次第ではないんです。いけ粗雑なんです。",
"粗略に扱うですか。わざとですかね、名刺を。",
"わざと、と云うのじゃありません。皮肉じゃありませんか。",
"あえてそうでないです。が、貴下の言語が前後不揃であるからじゃね。"
],
[
"早く願いたいのです。",
"順序があります。――一体この名刺はですな、……更めて尋ねるですが、確に、これは貴下のですな。",
"名が書いてありましょう、葛木晋三と。",
"本郷駒込が住所で。",
"相違ありません。",
"すると……皺だらけになった、この一枚のみではありますまい。他に幾枚か持合せがありましょう、有る筈じゃがね。"
],
[
"それをお見せにならんけりゃ不可んね。",
"あいにく、持合せがありません。",
"無いと云う法は無い。有るべきですね。"
],
[
"まったく、一枚になっていたのです。",
"成程……非常に交際がお広いですね。"
],
[
"お職掌がら、特に御交際の狭いと云うのは、……ですな。なぜですかね。",
"開業はしておらんのです。"
],
[
"どこへお帰りですな。",
"学校へ。",
"何、",
"……その寄宿へ帰ります。",
"ははあ、学士の寄宿舎が。それは唯今ありますか。",
"医局に居ります。",
"今時分。",
"そこに寝泊りをするんです。",
"すると、この駒込千駄木は?",
"籍が有るんです。",
"なぜですか、籍だけお置きになるは、……ですね。",
"妹の縁附いた家なんです。",
"御令妹の、ふん。"
],
[
"で、唯今まで、どこにおいでで有ったのかね。",
"この辺に、ちょっと飲んでおりました。"
],
[
"何屋です、何屋ですかね。",
"……それは言わなければならないでしょうか。勿論、是非となら申すんです。",
"いや、それは先ず。……しかし御愉快でしたな。",
"何、苦痛です。"
],
[
"蒼青ですか。……そうですか。客が野暮だから、化物に逢った帰途でしょうよ。",
"それは、唯今のそれは、いやしくも行政官の一員たる、すなわち本職に向っての言語であるのですね。",
"いや、実は性分です。"
],
[
"お待ちなさい、お待ちなさい。待たんか、おい。",
"何です。",
"ずかずか行っちゃ不可んじゃないか。尋問はこれからなんだ。"
],
[
"さよう、当方の都合に因っては住所へもお尋ね出来ます、また……都合によっては、本署へ御同行も出来得るですでなあ。",
"ええ。"
],
[
"けれども、御答弁に依って、そこまでに立到らない事を、紳士のために、本職は欲するでしてな、はあ、ああ。",
"早くお尋ねを願います。何です、とにかく、困りました。僕は不安に堪えません。",
"すると、むしろここで埒を明ける事を御希望になるのですね。",
"勿論、是が非でも連れて行こうと思えば、それが出来ない貴下じゃないんだから。",
"さよう。しからば反抗をなさらんで、柔順にお答えをなさるが可い。"
],
[
"貴下は太くその顔色が悪いですね。",
"……寒いのです。",
"寒い! 化物に逢ったのが、性分になって、そして今は寒い。いろいろに変化しますな。"
],
[
"御都合で署へ御同行を願っても可いのです、が、御答弁によって、それまでに立到らない事を、紳士のために希望しますでなあ。",
"…………"
],
[
"川の中へ放棄し込んだ、……確に、新聞紙に包んだ可なり重量の有るものは、あれは何ですか。",
"ああ。"
],
[
"その事ですか。",
"先ずそれを聞かんとならんですね。",
"あれは栄螺と蛤ですよ。"
],
[
"貝類の……です。",
"いや、それはいや、それはしかしながら初めは妖怪の符牒ででもあるかに聞いたですが、再度繰返して説明をされたで、貝類である事は分ったです。分ったですが、……貴下は妙なものを棄てましたなあ。",
"放したのです、私は、",
"成程、でそれは禁厭にでもなるですかね。",
"……雛に、雛壇に供えたのを、可哀相だから放したんですよ"
],
[
"生のままですとも。",
"何等の目的ですかね。",
"目的は有りません。",
"人間が、紳士が、いやしくも学士の名称御所有の貴下が、目的なしに、目的なしに事を行うという理由はあるまいかに考えるですね。"
],
[
"根、根掘り葉掘り。",
"御都合に因ればです、本署へ御同行を願うことも出来るです。が、紳士として、御名誉の為にですな。",
"分った。……分りました。が、別に目的と云っては無い。可哀相だからそれでなんです。",
"……蓋し非常な慈善家でおありですな。成程、いわゆる、医は仁術であるですかね。",
"私はあえて、あえて仁者とは言いますまい。妹の、姉の。"
],
[
"姉さんの志です。",
"姉さんの志。ははあ、君は姉のために、嬰児を棄てたんじゃね。",
"何!"
],
[
"前刻には御令妹であったかに、ああ、本職は記憶するですな。",
"そうです、そうなんです。",
"何か、年上の妹かね。",
"いや、姉です。",
"答が明瞭を欠いてて不可んねえ。……為にならんぞ、君。",
"ですから僕の妹です。",
"ははは、駄目じゃね、君、どうも変じゃね。",
"何が変ですか。",
"都合に因っては本署へ、ですな。",
"馬鹿を仰有い!",
"けれども、紳士のために、あえてそれは望まんのですなあ。",
"実に、貴下は。",
"誰が雛を飾ったのですか。"
],
[
"しっかり答弁をせんと不可んねえ。君は、今しがた、……某大学ですかね、病院に寄宿をすると言ったではなかったか。……大学、病院の宿舎内で、雛を飾って遊ぶのですな。栄螺、蛤を供うるですな。",
"いかにも。",
"事実は、……本職が、貴下を疑うよりも、むしろ奇怪じゃないですか。",
"それが姉の志ですから。",
"御令妹は、",
"妹は縁附いて、千駄木に居るのです。",
"分りました。"
],
[
"姉と云うのは、ですな。",
"それまで、そんなことまですべて言わなければならんのですか。……詮方がない、災難と思う……御都合に因っては、それはどこへでもお供をする。が、打明けてお聞かせ下さい。一体、何から起ったお疑いなんですか。",
"聞かせましょう。川へお棄てになったものを、明かにお話しが願いたい?……",
"それは、",
"ははは、やはり(栄螺と蛤)か、そいつは困りましたな。",
"お信じ下さらない。",
"強いて信じたくないとは願わんのです、紳士のために。なぜ、そんなら貴下は、その新聞包みを棄つるに際して、きょろきょろ四辺を眗したり、胡乱々々往来をしたんじゃね。",
"そりゃ何です、人が怪みはしまいかと思ったからです。",
"ははあ、人が怪むという事を。それじゃ……御承知であったですな。"
],
[
"何も貝類を川に棄つるに、世間を憚る事は無いように思われる……ですね。",
"ですが、……また……貴下のような。",
"すると、本職がです、警官がそれを怪む事は御承知の上ですか。",
"僕には分らん。",
"本職はです、貴下のために御答弁の拙劣なのを惜むです。",
"……勝手にしたまえ。どうしようてんだ。",
"……紳士のために望まない事ですな。",
"煩い、勝手になさいよ。",
"為にならんぞ!",
"旦那。"
],
[
"何が故に、ああ、出チ来たかい、うむ?",
"はいはい、御意にござりまする。"
],
[
"お検べが済みませんと、後が支えますのでござんすわいな。",
"何が支える、何が。"
],
[
"お前の名も?……何と云うかい。",
"おなじく妻、とかいて頂戴。"
],
[
"お庇さまで助かったんだよ。",
"恐入ります、御慇懃で。"
],
[
"でも、驚いたでしょう、貴方。",
"驚いたって、はじめは串戯だと思ったし、半頃じゃ、わざと意地悪くするんだと思って癪にも障りましたがね、段々真面目なのに気が付いたんです。確に嬰児でも沈めたと思ったらしい。先方が職務に忠実なんだと気がつくほど、一度は警察か、と覚悟をしてね――まあ、しかしそれでも活きた証拠に、同じものの放生会があって、僕が放生会に逢ったようだ。で、ほんとうに不思議な位だ。",
"私は毎年放すんですわ。",
"それにした処で、ちょうど機会よく、……私は姉の引合せか、と思う。",
"御馳走様。"
],
[
"清葉姉さんの、でしょうちょいと。",
"ええ?",
"お驕んなさいよ、葛木さん。",
"驕る。……そりゃきっとお礼をするがね、どうしてお前さん、私の名を。",
"知っていますよ。"
],
[
"止してくれ、先方が迷惑をするんだから。",
"酷く御謙遜ね。"
],
[
"それじゃ風説の通りだよ。",
"や、専ら風説をするのかい。",
"評判さ。お前さん。",
"それはいささか情ない。",
"意気地なし……"
],
[
"男の癖に。",
"これは手酷い?"
],
[
"だけども、可い気味ねえ。",
"何の怨みだね。",
"可いもの好みをするからさ。",
"相済みません。"
],
[
"猛烈なる事巡査以上だ。",
"処へ……私でなく、清葉さんに出て貰いたかったわね。",
"その人でさえ、可いかね、都合のいい時でないと、容易に顔を見せちゃくれない……"
],
[
"いや、見得も外聞も無しにさ。分けて、お前さんは全盛だ。名だけは評判で聞いている。……この頃に一度挨拶、と思うけれど、呼んでも……ちょっとじゃ見えんのだろうな。",
"見えるも見えないも、葛木さん、御挨拶なんて要るものですか。",
"きっとそう云うだろうと思った。勿論、たかだか更めて、口で云う礼ぐらい。",
"かえって迷惑。"
],
[
"ええ、真平。",
"それじゃ時節を待って下さい。",
"可厭です。"
],
[
"女と二人逢いながら、すたすた(かねやす。)の向うまで、江戸を離れる男ッてのがお前さん江戸にありますか。人目にそうは見えないでも、花のような微酔で、ここに一本咲いたのは、稲葉家のお孝ですよ。清葉さんとは違いますわ。",
"違うから、それだから、"
],
[
"なおの事、忙しくって、逢ってはくれまいと言うんじゃないか。",
"ええそうよ、……違いますとも。……清葉さんと違うのはね、今時分から一人じゃ貴方を帰さない事なのよ。",
"お孝さん。",
"葛木さん、もう遅いわ。……電車も無し……巡査に咎められたりなんかして、こんな時はつけが悪い、山の手の夜道だもの、無理をすると追剥が出ますよ。",
"もっとも、直ぐにも、挨拶もしたいんだけれど、遅い、ね、何しろ遅いからどこと云って……私は働が無いのでね。",
"附いてるのが私です。――箱を出たお嬢さんだわ。お座敷はどこにでも。……ちょっと……一所にいらっしゃいな。"
],
[
"だって、姉さん。",
"姉さんじゃないよ、……唐突に何だねえ、お前、今しがた河岸の角から駆出したじゃないか。"
],
[
"緩り歩行いても追着いて来ないから、内へ帰ったろうと思ったのに。",
"だって、姉さんが威すんですもの。私吃驚して遁出しましたけれど、(お竹蔵。)の前でしょう、一人じゃ露地へ入れませんもの、可恐くって、私……",
"煙草屋の小母さんに見てお貰いなら可いものを。",
"もう閉りましたの。"
],
[
"……覗いたけれども、真暗で、もう寝たんですもの。",
"それで何かい、また出掛けて来たのかい。",
"ええ、一人じゃ可恐いんですもの、……でもこっちがまだしもですわ。",
"なんて、お前、お約束だもんだから、帰りに縁日へ廻って、何か買わせようと思ってさ。さあ、行こうよ……ねえ、貴方一所に――千世ちゃん御挨拶をおしでないか。",
"――失礼。……お初に、",
"お初じゃないよ。……貴方、この妓は御存じだわね。",
"両三度――千世ちゃんだっけ。",
"あら、済みません、……誰方。"
],
[
"まあ、清葉姉さんに岡惚れの、",
"謝まる。"
],
[
"何とも面目次第も無い!",
"……清葉命……と顔に書いてあるようだわね、口惜いね、明い処でよく見てやろうや。",
"どこへ行く気なんです。",
"縁結びに……西河岸のお地蔵様へ。"
],
[
"分ったでしょう、貴方、この妓には遠慮は要らない。千世ちゃん、御覧、似合ったかい。",
"あら、姉さんは?",
"お孝さん。",
"(同じく妻。)だわ。……雛の節句のあくる晩、春で、朧で、御縁日、同じ栄螺と蛤を放して、巡査の帳面に、名を並べて、女房と名告って、一所に詣る西河岸の、お地蔵様が縁結び。……これで出来なきゃ、日本は暗夜だわ。"
],
[
"可厭、姉さん。",
"それ、兄さんにおつかまり。"
],
[
"今晩は……清葉姉さん。",
"清葉姉さん、今晩は。"
],
[
"千世ちゃん、お放しでないよ、……葛木さん、横町へなんか躱しては卑怯だことよ。……",
"何が可恐くって遁げるものかね、悪い事をした覚は無い。",
"ただ、口説いて見たばっかりだってね。",
"そしてだ、見事に刎ねられたから可いじゃないか。",
"嘘ばっかり、口説けもしないんじゃありませんか。",
"それも、評判かい。",
"まずね。",
"いや、破れかぶれ、何を隠そう。言出すまいとは思ったけれども、凡夫の浅間しさに、つい、酔った紛れに。",
"おや。"
],
[
"今晩は、",
"おお、千世ちゃん。"
],
[
"御参詣ですか、清葉姉さん。",
"は……"
],
[
"千世ちゃん、清葉さんの長襦袢を見たかい。",
"ええ、可いわねえ。",
"色が白くて、髪が黒い処へ、細りしてるから、よく似合うねえ。年紀よりは派手なんだけれど、娘らしく色気が有って、まことに可い。葛木さん、ちょいと、あすこへ惚れたんじゃないこと。",
"馬鹿な。",
"でも可いでしょう。",
"長襦袢なんか、……ちっとも知らない。",
"まあ、長襦袢を見ないで芸者を口説く。……それじゃ暗夜の礫だわ。だから不可いんじゃありませんか。今度、私が着て見せたいけれど、座敷で踊るんでないとちょっと着憎い。……口惜いから、この妓に拵えて着せましょうよ。"
],
[
"阿爺どの、阿爺どの。",
"はい、私かねえ。"
],
[
"おい、帰るのかあ。",
"家へかね。"
],
[
"道寄りとおっしゃりますと?……",
"何よ、あれだ、お前、今あすこで。"
],
[
"阿爺どのは、どうやら大分懇意らしい様子ですな。",
"ええ、いいえ、些少の。何、お前さま。何かその、私に用事で。",
"火を一つ貸してくれ。"
],
[
"ええ、ええ、さような事もござりましたよ。",
"秘さずとも可い。な、阿爺どの。お前は何だ、内の千世の奴の親身でしょうが。孫娘に用が有って逢いに来たことが二三度あるです、で、俺は知っとるですわい。お前は何か、しかし俺の顔は知らんですか。"
],
[
"な、阿爺どの、だから俺には何も秘すことは要らんのですわい。",
"ええ、ええ、別に秘すではござりません、(これからお茶屋へ行って一口飲むから、待ってるからきっとおいで。)と、はい、そのきっとでござりますが、何の、貴下様、こんな爺に御一座が出来ますもので。姉さんがただ御串戯におっしゃったのでござりますよ。",
"串戯ではなかったがい。俺はな、あの、了いかけた見世物小屋の裏口に蹲んで聞いとったんだ。"
],
[
"それは、もし、万ヶ一ほんとうに仰有って遣わされたにしました処で、私は始めからその気では聞きませなんだよ。",
"どうでも可い。それは構わんが、俺が聞きたいのは、お前んに後から来い、と云うて、先へ行ったその家の名ですわい。自分の内でない事は知れておる。……そりゃどこですかい、阿爺どの。",
"…………",
"ああん、阿爺い。"
],
[
"さあ、何か存じません、待合さんかも、それは分りませんが、てんで私の方で伺う気はござりませなんで、頭字も覚えませぬよ、はい。",
"で、何か。"
],
[
"あの、野郎は何かい、あれは、ついぞ見掛けぬ奴だが、阿爺は知っとるのですかい、奴をですがい。",
"ええ、私も今までお見掛け申しはしませんので、はい、いずれお客人でござりましょう。",
"客には違わんで、それゃ違わんで。どっちの客だ知っとるだろうが。",
"それは、もし、お尋ねまでもござりません、孫めがお附き申しておりましたよ。で、(旦那様、お初に。どうぞ何分。)と私御挨拶をしました処で、爺の口から旦那様が嬉しい、飲ましてやろう、と姉さんが申されたのでござりましたよ。"
],
[
"お年寄を、こんなこと、何て乱暴なんだろう。",
"はいはい。"
],
[
"恐入りましてござります、はい。",
"音がしましたわ、串戯ではありません。さぞお痛かったでしょうねえ。怪我をしたんじゃありませんか。"
],
[
"どうした、",
"どうしたんだえ。――やあ、姉さん。",
"頭たち、御苦労です。……今、そこへ駆出して行った大な男なんだよ。",
"膃肭臍。"
],
[
"姉さん、こりゃ何かい、お前さんお係合なんですかい。",
"いいえ、私はただ通りかかったばかりなんです。でもまあ遁げてくれて可かったけれど、抵って来たらどうしようかと思ったよ。……可哀相に、綺麗な植木の花が。"
],
[
"御心配にゃ及びません。見てやりますとも。",
"では、お爺さん、お大事になさいまし。お気をつけなさいましよ。",
"はいはい、あなた方の御志、孫も幸福。それが嬉しゅうござります。"
],
[
"サの字。",
"考えるに及ばないよ、そんな字は一つも無い。ところが、松坂屋の前を越して、あすこは、黒門町を曲ろうとする処だ。……ふっと! 心から胸へ、衣ものの襟へ突通るような妙な事を思ったのが、その(サ)の字、左の手に持っていた切符を視て、そこにサの字が一字あったら、それから行って逢うつもりの。"
],
[
"だって、今、(行って逢うつもり。)と、こちらがお言いなすった時は、直ぐに清葉さんとお思いだろう。",
"ええ、そりゃ思ってよ。",
"そら御覧、思ったって饒舌ったって、罪は同じくらいだよ。それに、謝罪るには、お前さんの方が役者が上だからさ、よう、ちょいと。",
"貴方、御免なさいまし、ほほほ。"
],
[
"口惜いねえ、……(清葉が来るもんか。)呼んで下すった、それが私で、お孝が、こんな家へと云って貰いたかった。……私はそこへ手水鉢なんぞじゃない、摺鉢と采配を両手に持って、肌脱ぎになって駆込んで驚かしてやったものを。",
"でも、何だ、お前さんとは、今しがた逢ったばかりじゃないか。",
"ですから、今度っから、楠の正成で、梅ヶ枝をお呼びなさいよ、……その手水鉢へ、私なら三百円入れてやりたい、とこっちでも思うばかりだから、先方さまでも、お孝がこんな家へ来るもんか、とは言わないわね。……貴方お盃を下さいな、……チョッ口惜いねえ、清葉さんは。……"
],
[
"ただ、貯るばかり。",
"まあ、堪忍したまえ。猪口は唇へ点けるくらいに過ぎますまい、朝顔の花を噛むように、",
"敗軍の鬱憤ばらしに、そのくらいな事は言っても可いのね。",
"堪忍したまえ。酒を飲まない芸妓ぐらい口説き憎いものは無い。",
"じゃ、そっちこっち、当って見たの。",
"いや、人はどうだか私一人としてはなんだ。ところで今夜だ――御飯は済んだと云う、御粥を食べたんだとさ。",
"御養生でおいで遊ばすのね。……それから、",
"お鹿の女房も、暖るものが可かろうと云うんで、桶饂飩。"
],
[
"どうした、お爺さんは遅いじゃないか。",
"あら、姉さん、来るもんですか。",
"私は来るつもりで待っていたのに――そこの襖を開けて御覧よ、居るかも知れない。"
],
[
"もし、その吸口はどう遊ばしたえ?……後学の為に承り置きたい……ものでござるな。……よ。ほんとうに、",
"路傍では踏つけよう、溝も気になる……一石橋から流したよ。",
"ああ、祟りますねえ。そんな男を、私も因果だ。",
"恐入ります、が聞いて下さい。"
],
[
"弱った……",
"私を口説く気で、可うござんすか。まったくは、あの御守殿より、私の方が口説くには煩いんだから、その積で、しっかりして。",
"破れかぶれは初手からだ。構うもんか!……更って(清葉さん)。……",
"黙って顔を見ましたかい。"
],
[
"姉さん、私、帯を解いてよ。",
"生意気お言いでないよ、当も無しに。可いから持っといで。",
"うまい装をして、"
],
[
"姉さん、枕よ……",
"不作法だわ、二人で居る処へたった一ツ。",
"知らない、姉さんは。",
"持ってお帰り。",
"はい。"
],
[
"…………",
"話が前後になったんだがね、……夢を見たのは、姉がもう行方知れずになってからです。"
],
[
"清葉は、すっと横を向いて、襦袢の袖口をキリキリと噛んだ。",
"一件だね。",
"私は胸が迫ったよ。……清葉が、声を霞ませて言った。……(お察し申します。)",
"へえ。",
"(貴方の姉さんが私でしたら、貴方に何とおっしゃるでしょう。貴方は姉さんにお聞き下さいまし。私には母があります。養母です。)と俯向いたが、起直って、(母に聞かなければなりません。ト……また私には子があるんです。その子の父があるんです。一人極った人があれば、果敢ないながら芸者でも操を立てねばなりません。芸者の操、貴方お笑いなさいまし。私は泣いて、そのお別れの杯を頂きましょう。)……"
],
[
"いや、もう、人様の事をお案じ申すという効性もござりません。……お助けを被りました御礼を先へ申さねばなりませんのでござりました。はい、先刻は何とも早や、お庇で助かりました。とんと生命拾いでござります。それにまた、お情深い貴女様、種々と若衆たちまで、お優しいお心附を下さいまして、お礼の申上げようもござりません。",
"ああ、植木屋さん。"
],
[
"でも、お年寄が、危いじゃありませんかね、喧嘩はただ当座のものですよ。一晩明かしてお帰りなさると可かったのにねえ。",
"はい、それに実は何でござります、……大分年数も経ちました事ゆえ、一時半時では、誰方もお心付の憂慮はござりませんが。……貴女には、何をお秘し申しましょう。私はその、はい、以前はやはりこの土地に住いましたもので。",
"まあ、",
"ええ……忰が相場ごとに掛りまして分散、と申すほど初手からさしたる身上でもござりませぬが、幽には、御覚えがあろうも知れませぬ、……元数寄屋町の中程の、もし、へへへ、煎餅屋の、はい、その時分からの爺でござりますよ。",
"あら、お店の前の袖垣に、朝顔の咲いた、撫子の綺麗だった、千草煎餅の、知っていますとも――まあ、お見それ申して済まないことねえ。"
],
[
"滅相な、何の貴女。お忘れ下さるのが功徳でござりますよ、はい、でも私はざっとお見覚え申しております、たしか……滝の家さんのお妹御……",
"ええ、小女い方よ、お爺さん、こんなになって……お可懐いのね。"
],
[
"御主婦さんは、",
"養母ですか。息災ですよ。でも、めっきり弱りました。",
"私、陰ながら承って存じております。姉さんが、お亡くなりになりましたそうで、あの方はお丈夫で。……貴女はお小さい時から悪戯もなさらず、いつもお弱くっておいでなさりましたが、しかし、まあ、御機嫌よう、御全盛で。",
"いいえ、全盛どころではござんせん。姉が達者でいてくれますと、養母も力になるんですけど、私がこんなですからね。――何ですよ、いつも身体が弱くって困りますの。",
"お見受け申しました処でも、ちっと蒲柳なさり過ぎますて。"
],
[
"そのお弱い貴女が、また……何で、今時分、こんな処に夜風は毒の、橋は冷えます。私なんぞ出過ぎましたようでござりますが、お案じ申すのでござりますよ。",
"難有う、……身投げじゃないの、お爺さん。",
"滅法界な、はッはッ。"
],
[
"お孫さん?……",
"ええ、女の子でござりまして。",
"まあ、私はちっとも知りません。",
"御尤でござりますとも。……まだ胎内に居ります内に、唯今の場末へ引込みましてな。",
"では、私の静岡と同じだわね。それは、まあ、お楽み。",
"いえ、ところがどうして、ところがどうして。"
],
[
"大苦みなわけでござりまして、貴女方と同一と申すと口幅ったい、その数でもござりませんが、……稲葉家さんに、お世話になっておりますので、はい。",
"まあ、お孝さんの許に、……ちっとも私知らなかった。",
"はい、あちらの姉さんも、あの御気象で、よく可愛がって下さいます、が、願えますものならば、貴女のお手許に、とその時も思った事でござります。いいえ、不足を言うではござりません。芸者と一概に口では云い条、貴女は、それこそれっきとした奥方様も同じ事。一人の旦那様にちゃんと操をお守りなされば、こりゃ天下一本筋の正しい道をお通りなさる、女の手本でござります。彼娘にもな、あやからせとう存じますので。",
"飛んでもない、お孝さんこそ可い姉さん。ああでなくては不可ません。私は何も、曲んだり拗ねたりして、こう云うのではないんです。お爺さん、色でも恋でもない人に、立てる操は操でないのよ。……一人に買われる玩弄品です。大人の手に遊ばれる姉さま人形も同じ事。"
],
[
"あの、時分の事を思いますと、夢のようでござります。この頃でも、御近所だと時々聞かれますのでござりましょうがな。",
"可い塩梅。"
],
[
"吹奏まし、吹奏まし。何の貴女、誰、誰が咎めるもので。こんな時。……不忍の池あたりでお聞き遊ばすばかりでございます。",
"勿体ないこと。……"
],
[
"まあじゃないじゃありませんか。立派に断られたに違いない。",
"そりゃ違いない。",
"振られたのね。",
"ふられました。",
"ポーンと。",
"何もそうまで凹ますには当るまい。",
"嬉しいねえ。"
],
[
"それだがね……",
"まだ負惜み?",
"ただ話さ。"
],
[
"卑怯な、男のようでもない。",
"いや、そんな意味じゃ決してないんだ。恥を秘して貰ったようでさ。不出来をして女に振られた、恋の奴の、醜体を人目から包んでくれた気がしたから。"
],
[
"清葉さんがお庇い遊ばして――まことに、お豪い芸者衆でいらっしゃいます。",
"まったく、私は、しかし、",
"しかしどうしたのさ。",
"姉に、姉の袖で抱かれた気がした。",
"葛木さん。"
],
[
"そんなに姉さんが恋しいの。人形のお話は、私も聞いて泣いていました。ほんとうに貴下、そんなじゃ情婦は出来ない。口説くのは下拙だし、お金子は無さそうだし、",
"謝罪る。",
"口説かれるのも下拙だし、気は利かないし、跋は合わず、機会は知らず、言う事は拙し、意気地は無し、",
"堪忍したまえ。",
"から、だらしは無いけれど、ただ一つ感心なのは惚れる事。お前さん、惚れ方は巧いのね。",
"…………",
"情婦が無くって、寂しくって、行方の知れない姉さんを尋ねるッてさ、坊主になんかならないように、私が姉さんになって上げましょう。",
"…………",
"御不足? 清葉さんでなくっては。",
"そ……そんな事は。……ああ、息が塞るよ。",
"死んでおしまいよ。こんな男は国土の費だ",
"酷い。"
],
[
"ちょいと、(サの字。)が見えなくって? サの字よ、私、葛木さん。",
"お孝さん。"
],
[
"暗い中でも、姉さんに見えませんか、姉さんにしてくれませんか。自惚れてて? ちょいと自惚れだ、と思いますか。清葉さんでなくっては――不可いの、不可いの。",
"真暗だ。私は、真暗だ。……",
"まだ、まだまだあんな事を。清葉さんでなくっちゃ、不可いの、不可いかい。",
"顔が見たい、お孝さん。",
"贅沢だよう。"
],
[
"葛木さん。",
"…………",
"人形が寂しい事よ。"
],
[
"姉さんは内じゃろうで。",
"はあ、あの……",
"是非、直接に逢いたいんじゃ……取次を頼むです。"
],
[
"失礼をいたしました。",
"は、あんた覚えておらるるかね。"
],
[
"ちょっと分りますまい、じゃろうがね、………先達て、三月四日の午後十二時の頃に逢うたのですが。",
"ああ、一石橋の、あの時の。"
],
[
"多日でした、いや、その節は失敬じゃった。",
"いいえ、私こそ失礼を。"
],
[
"お茶をよ、誰か。",
"そういう心配をされては困る。……官服の手前もある。お宅などで余り世話になっては不可んのです。……けれども、ちょっとここを拝借します。",
"さあどうぞ、……貴官お上り遊ばしては。",
"ここで結構です。"
],
[
"誰方……でございますか。",
"何は、大学の国手は?"
],
[
"それは何と云う髪の結びかたですかね。",
"潰……"
],
[
"あの、潰島田でございます、お人形さんの方は結構でしょうけれども、これはまことにその潰しの利きませんお恥しいんですよ。",
"いいえ、潰しなんかきかんで可えです。貴方はすでに葛木さんの。"
],
[
"貴方、大抵の事は、ここで饒舌って可えですか。ある種の談話は憚らんでも構わんですかい。",
"ええええ、"
],
[
"ちっとも……お気に入りましたら、私をすぐ、お口説きなすっても構いませんの。",
"きゃッきゃッきゃッ。葛木さんの奥さん。どないしてかい?……",
"まあ、そんな事こそ、先方さまが御迷惑です。",
"いや、しかし、その積りで出向いて来たで。",
"羽織を。寒い。……そして私にも煙草をおくれな。"
],
[
"さあ……何の話じゃったかね、そこで。",
"貴方、その潰島田に結ったお人形さんですわ。"
],
[
"…………",
"言うても構いませんな、奥さん。",
"嬉しいんですよ。"
],
[
"一生に一度ですわ。",
"葛木の奥さん、……学位年齢姓名と並べて、(同じく妻。)と認めた手帳の一枚です、お受取り下さい。"
],
[
"お稽古ですの。",
"春子さん、夏次さん、千鳥さん、萩代さん、居なさるかい。皆ちょいと来ておくれと、そうお言い。……私、話したい事がある。"
],
[
"どうかしたの、姉さん。",
"いいえ、どうもしやしないがね、私ね、どうしようかと思っているんだよ。千世ちゃん、ちょっとここへ来て御覧。"
],
[
"静によ、誰か目を覚すと面倒だから。",
"あい……何、姉さん。",
"ちょっと、木戸のこの柱に、こんなものが貼って有るだろう。"
],
[
"国手はね、それから仲通まで買いに行ったんだとさ。……そしてねえ、一本喫かしながら入って来ると、見たばかりで、もう忘れていたくらいだったのが、またふっと気が付いて、ああ、ここに有ったっけと、お思いの、それがお前、前の処には無くってさ。同じ羽目板だけれども、足数七八つ、二間ばかり奥へ入った処に、仇白くなって字が見える、………紙が歩行いた勘定だわねえ。",
"姉さん。",
"可恐くはないんだってばさ、この娘は。"
],
[
"国手がね、(何だ、浄土か真宗にも、救世軍が出来たんじゃないか、)って笑ったけれどね、……私はドキリとしたんだよ。仮名の形を一目見ると分った。お念仏を(唱えろ唱えろ。)――覚悟をしろ――ッて謎じゃないか。こりゃ、お前、赤熊の為業だあね、あの、鰊野郎の。",
"まあ、熊兄さん。",
"止しておくれ。"
],
[
"縁起棚へお燈明をあげて、そしてお祈をしましょうよ。私も拝みますわ。",
"嬉しい娘だね。"
],
[
"直訴であります。国手。",
"直訴とは……?",
"直訴とは、……直訴とは、切、切羽詰ったですで、生命がけで、歎願をするですで。貴方を将軍家だ思うて、橋から青竹を差出します。俺は佐倉宗五ですのだで、ええ。この願を聞届け遣わされりゃ、殺されても、俺、礫になっても可えのですだで。国手。",
"何です。……唐突に、と云うんだけれども、私はお前さんを知っています。また、お前さんも知らないとは言わせますまい。そしてお頼みと云うのは何です。",
"国手、御診察が願いてえだな。"
],
[
"お前さん、診察が頼みたい?……そうすりゃ死んでも可い。そんな解らない謎見たいな事を言わないで、判然と、石か、瓦か、当って砕けたら可いじゃないか。私も診察なら病院へ来たまえなどと廻りくどいことは言わないから。",
"実際、願いたい次第でして。就てはで、御覧の通り、着のみ着のままだ云ううちにも、擦切れた獣の皮一枚だ、国手。雨露凌ぐ軒はまだしも、堂社の縁の下、石材や、材木と一所にのたっている宿なし同然な身の上だで、御挨拶も手続も何も出来ねえですで、そこでもって直訴だでね、生命がけで願えてえだな。",
"本当の診察なら、私は不可い。まるで脈を一つ採ったことの無い、自分の風邪をひいたのには葛根湯を飲んで、それで治る医者なんだ。こっちも謎のようなことを云うんじゃない。事実だよ。診察は、から駄目なんだよ。",
"決してそれは脈を取って貰うには当らんです。で、ただ国手の口一つだなあ。",
"口一つかね。",
"そうですわ。",
"どうするんですか。",
"四の五の無いで、ただ一言、(お孝に切れる。)云うて下さりゃ可いですのだい。",
"大方そんな事だろうと思ったよ、……この診察は当ったな。"
],
[
"折角だ、が、君、頼まれないよ。",
"何で頼まれん、何で。ありゃ俺の生命ですが。",
"私の生命かも分らんのだ。",
"俺の女房だ事、知らんのかい。",
"私は芸者だと思っているがね。",
"何でも可い。"
],
[
"すっぱり切れてくれ、頼むだでな。",
"女に言え、女に、……先方で切れればそれ迄よ。人に掛合われて、自分の情婦を、退くも引くもあるものか。"
],
[
"私も同じことを言いたいな。女が肯かないほどのものを、男が掛合われて引退る奴がありそうな事だと思うのかい。",
"俺を人間だと思うか、国手。"
],
[
"悪魔だ、鬼だ、狂人だ、虎だ、狼だ。……為にならんぞ!",
"ああ、その上にまた熊でも可いよ。",
"汝!"
],
[
"刃物を持ってるか。",
"むむ、持たんことがあるもんだか。",
"二口あるか、二挺持ってるか。",
"どうするだい。",
"一口渡せ、一挺貸せ。――持たんのか。一本しかない刃物なら、暗撃にしろ。離れて狙え。遠くから打て。前に廻って、名告掛けて、生命の与奪をすると云うに、敵の得ものを用意しない奴があるものか、はははは、馬鹿だな。"
],
[
"二歳になった小児は棄てる。",
"…………"
],
[
"ただ聞いてはいられない、……お互に人の児だよ。お前、小児を捨ちまったと云うのは? 構いつけない、打棄ってあるという意味なのかい。",
"そうでねえです。",
"人に遣ったという事かね。"
],
[
"ちょっと、小児も小児だし、……前刻から、気になるが、とにかく、色事の達引中だ、なあ、まあ。……それに、そんな事をしてくれては不可いじゃないか。見ていられない、……何を食うんだ。",
"はあ、これかね。"
],
[
"虱だと思ったかね、へへ、違うですが。大丈夫だで、国手。脂の抜きようが足りんだった処へ、寝るにも起きるにも脱がねえもんで、こりゃ、雨な、埃な、日向な、汗な、膏で熊の皮に湧いた蛆だよ。",
"え。",
"虫ですがい。豪く精分の強い、補剤になるやつで、なあ。"
],
[
"や、国手ですか。",
"おお貴官で。",
"この橋は妙な橋ですな。"
],
[
"こちらは、",
"旧友です。ふとここで出会ったんです。",
"お話しなさい……失礼しました。",
"ああ、貴官、いつぞやは――一度、更めてお目に掛りたいと思っています。",
"難有う。機会を待ちます。"
],
[
"夜が更ける……おい、そして、そして小児は。",
"国手、臓腑から餌を吐くまで何事も打まけたで、小児を棄てた処を言うですれど、これだけは内分に願いたいでね、極ねえ。……巡査にでも知れるとならんですだ。",
"余り、巡査に遠慮する風でもあるまいじゃないか。",
"そうでねえです。河岸の腸拾いや、立ん坊は大事無いですれど、棄子が分ると引っぱられるでね、獄へ入れられる。それも可えですが、ただ、そうなると、縁の下からも、お孝の声が聞かれんですだよ。"
],
[
"無論言いはせん。",
"なら話すだがね、小児を棄てたのは、清葉の門だで。",
"何、清葉の。じゃ、あの滝の家で拾って、可愛がってると云う小児は、お前のかい。",
"小児は幸福ですだ。",
"むむ、幸福だ。"
],
[
"そう言ったら、お前はどうする、私を殺すか。",
"…………",
"お孝を殺すか。",
"ええ、あれを殺せますほどならですだ、お前んに、手向いするだい。殺したい、殺したい、殺して死にたい思うても、傍へ行きゃ、ぼっと佳い香のするばかりで、筋も骨も萎々と、身体がはや、湿った粘のようになりますだで。"
],
[
"ちょっと待て、車夫。",
"へいへい。",
"忘れものをして来た、帰ってくれないか。",
"唯今、乗した処へ。",
"ああ。"
],
[
"済まないがね、――人形を忘れたから。",
"はい。"
],
[
"蔵じゃない、蔵の事なんかじゃないんだよ。",
"箪笥は出したい。出来るだけ出した。"
],
[
"乳母は、湯に入っていた処だ、裸体で遁げた。",
"娘さんも小婢も遁がした。下女どんは一所に手伝った。",
"何しろ火が疾い。しかも火元が裏家の二階だ。"
],
[
"その二階におっかさんが。",
"何、阿母が。",
"坊やが、坊やが。放して、放して。"
],
[
"筒先ウ向けろ。",
"手向の水だい。"
],
[
"助かった。",
"助けた。"
],
[
"お孝さん。",
"先生。"
],
[
"葛木……更めてお目にかかります。……見苦しくなく支度をさせます。この女の内までお見免しが願いたい。",
"諸君。"
],
[
"姉さん、遺言を聞いて下さい。",
"はい。"
],
[
"お千世さんは、",
"ああ、お千世。"
],
[
"姉さん、遺言を聞いて下さいな。",
"生命に掛けます、お孝さん。"
]
] | 底本:「泉鏡花集成12」ちくま文庫、筑摩書房
1997(平成9)年1月23日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第十五卷」岩波書店
1940(昭和15)年9月20日第1刷発行
初出:「日本橋」千章館
1914(大正3)年9月
※「千世」に対するルビの「ちせ」と「ちい」、「三昧」に対するルビの「さんまい」と「ざんまい」の混在は、底本通りです。
※誤植の確認には底本の親本を参照しました。
※編者による注釈は削除しました。
入力:門田裕志
校正:酔いどれ狸
2015年10月17日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"いまの、あの婦人が抱いて居た嬰兒ですが、鯉か、鼈ででも有りさうでならないんですがね。",
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] | 底本:「鏡花全集 巻十六」岩波書店
1942(昭和17)年4月20日第1刷発行
1987(昭和62)年12月3日第3刷発行
入力:馬野哲一
校正:鈴木厚司
2000年12月13日公開
2005年11月24日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"お店の方。",
"はツ。",
"實は何です。私の主人と言ひますのが、身分柄にも似合はない、せゝツこましい人でしてね。恁うして買つて參ります品物が氣に入らないと、甚いんですぜ、そりや、踏んだり、蹴つたり、ポカ〳〵でさ。我又不善擇人參可否。此の通り、お銀に間違は無いんですから、何うでせう、一ツ人參を澤山持つて、一所に宿まで來て下さいませんか。主人に選らせりや、いさくさなし、私を助けるんです、何うでせう。"
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"お手代、大儀ぢや。",
"はツ、初めましてお目通りを仕ります。へえ、今度はまた格別の御註文仰せつけられまして、難有い仕合せにござります。へえ、へえ、早速これへ持參いたしました人參、一應御覽下さりまするやう、へえ。"
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[
"これ、何が來た。それ、な、病氣ぢやに因つてお目には懸られぬと言ふのぢや。",
"畏りました。"
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[
"尊頭が堪りますまい。何故屋根へお上んなすつてお帽子をお取りなさいません。",
"ぢやてて、貴方はん、梯子がおへんよつて、どないにもあきまへん。"
]
] | 底本:「鏡花全集 巻二十七」岩波書店
1942(昭和17)年10月20日第1刷発行
1988(昭和63)年11月2日第3刷発行
※題名の下にあった年代の注を、最後に移しました。
※表題は底本では、「人參《にんじん》」とルビがついています。
入力:門田裕志
校正:川山隆
2011年8月6日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
"や、そりゃ、酒田さん驚いたでしょう。幾ら商売道具でも暗やみで打撞っちゃ大変だ。",
"ですから、お気を注けなさいまし。夫とは違って、貴下はお人柄でいらっしゃるから、またそうでもない、骸骨さんの方から夜中に出掛けますとなりません。……婦のだって、言いますから。"
],
[
"蚊に城を破られたかよ。",
"そこどころか。"
],
[
"この中は大変だ。",
"大変だ?",
"何か来たんだ。",
"何、入って来たか、"
],
[
"見たまえ、いまだにこの動悸を、",
"色は白くっても、野郎の癪を圧えたってはじまらない。は、はは、いや、しかし弱い男だ。",
"ふ、ふ、"
],
[
"男らしくもない、そんな事を言って梅雨期はどうします、まさか蓑笠を着て坐ってやしまい。",
"うむ、何、それがただのじとじとなら可いけれど、今云う泥水の一件だ、轟と来た洪水か何かで、一思に流されるならまだしもです――灯の消えた、あの診察処のような真暗な夜、降るともつかず、降らないでもない、糠雨の中に、ぐしゃりと水のついた畔道に打坐って、足の裏を水田のじょろじょろ流に擽ぐられて、裙からじめじめ濡通って、それで動くことも出来ないような思いを一度して見たまえ。"
],
[
"どこで野宿をした時だ、今度の旅でか。",
"ううむ。"
],
[
"何だい、いつかの一件とは?",
"面目次第も無い件さ。三年前だ、やっぱりこの土地で、鉄道往生をし損なった、その時なんです。",
"ああ、そんな事があったってな、危いじゃないか。"
],
[
"承わろう。今更その条道を話して聞かせる……惚気なら受賃を出してからにしてもらおうし、愚痴なら男らしくもない、止したまえ――だが、私たちが誤解をしているんなら、大に弁じて聞かせてくれ、今まで疑っていたから私にも責任がある。",
"そう、きっぱりとなられては、どうもまた言出しにくい。",
"可いじゃないか、その容体を聞かせたまえ、医師には秘密を打開けて可いもんだ。",
"…………"
],
[
"土下坐をしたというわけでもないが、やっぱり坐っていたんだよ。",
"またどうしてだい。"
],
[
"はじめは何でもない事だった。――何の気なしに、あの人を、そこいらへ散歩に誘ったんです。",
"あの人ッて?",
"…………",
"ははあ、対手の貴婦人だね。",
"そんな事を言わないで、"
],
[
"可いじゃないか、何も貴婦人と云ったって、直ぐに浮気だ、という意味ではないから。",
"何、貴婦人に違いはないが、その対手が悪い。",
"可し、可し、黙って聞こう。そうまた一々気にしないでお話しなさい。そこで。"
],
[
"…………",
"成程、そこで魘されたんだ。その令夫人に魘されたのは、かえって望む処かも知れんが、あとの泥水は厭だったろう、全く気の精だな。遁出したも道理だ。よく、あの板廊下が鉄道の線路に化けなかった。",
"時に、"
],
[
"大丈夫、その令夫人の骨じゃない。",
"骨じゃない、"
],
[
"そうさな。まさか私だって、縁日の売薬みたいに、あれを看板に懸けちゃ置かん、骨を拾った気なんだから、何も品物を惜みはせんが、打棄っておきたまえ。そんな事を気にするのは宜くないから止したが可かろう。",
"貴郎、"
],
[
"何だ、起きていたのか。",
"はい、つい、あのお話しに聞惚れまして、"
],
[
"聞いたのは構わんよ、沢山泣いて上げろ。だが、そこらへ溢しちゃ不可んぜ、水が出ると大変だ。",
"あれ、可厭な。",
"馬鹿だな、臆病。",
"だって、"
],
[
"いいえ、ですがね、あの御骨……",
"ちょっと待て、御骨は気になる。はははは。",
"御免なさいましよ。"
],
[
"あの御骨だって、水に縁があるんですもの。",
"婦女子の言です。"
],
[
"水に縁と……仰有ると?",
"あれは貴下、何ですわ、つい近い頃、夫が拾って来て、あすこへ飾ったんですがね。その何ですよ、旧あった処は沼なんですって。",
"沼!",
"おっと直ぐに、そう目の色を変えるから困る。鯰に網を打ちはしまいし、誰が沼の中から、掬上げるもんか。"
],
[
"貴郎……",
"うむ、"
],
[
"誰か居ますか。",
"おお……"
],
[
"私はここに居ますんですよ。",
"誰だ、今のは?"
],
[
"あ、",
"あれか、"
],
[
"酒田……先刻のも、",
"むむ、診察処だ。",
"あれえ。",
"開けて見ると何にも居ないのだ。が、待てよ。"
],
[
"危い、貴郎、",
"大丈夫だ。",
"いいえ、"
],
[
"どうした。",
"鼈だ。",
"え。",
"鼈が三個よ。",
"どこに、ですえ。"
],
[
"場所はちと悪い、白いものの前だ。",
"あれ。",
"さぞまた蒼沼から、迎に来たと言うだろうなあ。"
],
[
"どこで拾ったね。",
"やあ、それだがね……先刻から気い付けるだか、どうも勝手が違ったぞよ。たしか、そこだっけと勘考します、それ、その隅っこの、こんもり高な処さ、見さっせいまし、己あ押魂消ただ。その節あんな芭蕉はなかっけ。"
]
] | 底本:「泉鏡花集成5」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年2月22日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第十一卷」岩波書店
1941(昭和16)年8月15日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2011年3月10日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "004742",
"作品名": "沼夫人",
"作品名読み": "ぬまふじん",
"ソート用読み": "ぬまふしん",
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"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2011-04-29T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-16T00:00:00",
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"姓": "泉",
"名": "鏡花",
"姓読み": "いずみ",
"名読み": "きょうか",
"姓読みソート用": "いすみ",
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"姓ローマ字": "Izumi",
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} |
[
[
"へッ! 上りは停電。",
"下りは故障だ。"
],
[
"ああ、ああ、",
"堪らねえなあ。",
"よく出来てら。"
],
[
"熊沢はここに居るぞう。",
"まあ。",
"随分ですこと、ほほほ。"
],
[
"余り色気がなさ過ぎるわ。",
"そこが御婦人の毒でげす。"
],
[
"お千さんは大将のあすこン処へ落ッこちたんだ。",
"あら、随分……酷いじゃありませんか、甘谷さん、余りだよ。"
],
[
"さあ、君、ここへ顔を出したり、一つ手際を御覧に入れないじゃ、奥さん御信用下さらない。",
"いいえ、そうじゃありませんけれどもね、私まだ、そんなでもないんですから。",
"何、御遠慮にゃあ及びません。間違った処でたかが小僧の顔でさ。……ちょうど、ほら、むく毛が生えて、饀子の撮食をしたようだ。"
],
[
"仰向いて、ぐっと。そら、どうです、つるつるのつるつると、鮮かなもんでげしょう。",
"何だか危ッかしいわね。"
],
[
"大丈夫、それこの通り、ちょいちょいの、ちょいちょいと、",
"あれ、止して頂戴、止してよ。"
],
[
"なぜですてば。",
"危いわ、危いわ。おとなしい、その優しい眉毛を、落したらどうしましょう。",
"その事ですかい。"
],
[
"構やしません。",
"あれ、目の縁はまだしもよ、上は止して、後生だから。",
"貴女の襟脚を剃ろうてんだ。何、こんなものぐらい。",
"ああ、ああああ、ああーッ。"
],
[
"笑っちゃあ……不可い不可い。",
"ははははは、笑ったって泣いたって、何、こんな小僧ッ子の眉毛なんか。",
"厭、厭、厭。"
],
[
"うはははは、うふふ、うふふ。うふふ。えッ、いや、あ、あ、チ、あははははは、はッはッはッはッ、テ、ウ、えッ、えッ、えッ、えへへ、うふふ、あはあはあは、あは、あはははははは、あはははは。",
"馬鹿な。"
],
[
"どうしたの。",
"おほほ、や、お尋ねでは恐入るが、あはは、テ、えッ。えへ、えへへ、う、う、ちえッ、堪らない。あッはッはッはッ。",
"魔が魅したようだ。"
],
[
"あれ。",
"おい、気の毒だがちょっと用事だ。"
],
[
"……この人は……",
"いや、小僧に用はない。すぐおいで。",
"宗ちゃん、……朝の御飯はね、煮豆が買って蓋ものに、……紅生薑と……紙の蔽がしてありますよ。"
],
[
"さあ、来ました。",
"自動車ですか。"
]
] | 底本:「泉鏡花集成7」ちくま文庫、筑摩書房
1995(平成7)年12月4日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第二十巻」岩波書店
1941(昭和16)年5月20日第1刷発行
入力:門田裕志
校正:今井忠夫
2003年8月31日作成
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| {
"作品ID": "003543",
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"作品名読み": "ばいしょくかもなんばん",
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} |
[
[
"観音様、お手が汚れます。",
"けがれ不浄のものでござい。",
"不浄のものでござい。"
]
] | 底本:「日本幻想文学集成1 泉鏡花」国書刊行会
1991(平成3)年3月25日初版第1刷発行
1995(平成7)年10月9日初版第5刷発行
底本の親本:「泉鏡花全集」岩波書店
1940(昭和15)年発行
初出:「文芸界」
1901(明治34)年6月
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
※初出時の表題は「部屋の弟」です。
入力:門田裕志
校正:川山隆
2009年5月10日作成
青空文庫作成ファイル:
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| {
"作品ID": "048410",
"作品名": "蠅を憎む記",
"作品名読み": "はえをにくむき",
"ソート用読み": "はえをにくむき",
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"初出": "「文芸界」1901(明治34)年6月",
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"文字遣い種別": "新字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
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"最終更新日": "2014-09-21T00:00:00",
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} |
[
[
"ちょっと……何をしているの。",
"水が欲しいの。"
],
[
"娘さん、町から、この坂を上る処に、お宮がありますわね。",
"はい。",
"何と言う、お社です。"
],
[
"…………",
"お願でござります。……お慈悲じゃ、お慈悲、お慈悲。"
],
[
"あら、お嬢様。",
"お師匠さーん。"
],
[
"不思議な処で、と言いたいわね。見ぶつかい。",
"ええ、観光団。",
"何を悪戯をしているの、お前さんたち。"
],
[
"でも何だか。",
"あら、なぜですえ。",
"御幣まで立って警戒をした処があっちゃあ、遠くを離れて漕ぐにしても、船頭が船頭だから気味が悪いもの。",
"いいえ、あの御幣は、そんなおどかしじゃありませんの。不断は何にもないんだそうですけれど、二三日前、誰だか雨乞だと言って立てたんだそうですの、この旱ですから。"
],
[
"お嬢様、船を少し廻しますわ。",
"だって、こんな池で助船でも呼んでみたが可い、飛んだお笑い草で末代までの恥辱じゃあないか、あれお止しよ。"
],
[
"お嬢様!",
"鯉、鯉、あら、鯉だ。"
],
[
"まあ、そんな処から。",
"そうだねえ。"
],
[
"あら、お嬢様。",
"可厭ですよ。"
],
[
"太夫様。",
"太夫様。"
],
[
"御坊様、貴方は?",
"ああ、山国の門附芸人、誇れば、魔法つかいと言いたいが、いかな、さまでの事もない。昨日から御目に掛けた、あれは手品じゃ。"
],
[
"それで通るか、いや、さて、都は気が広い。――われらの手品はどうじゃろう。",
"ええ、"
]
] | 底本:「泉鏡花集成7」ちくま文庫、筑摩書房
1995(平成7)年12月4日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第二十巻」岩波書店
1941(昭和16)年5月20日第1刷発行
※疑問点の確認にあたっては、底本の親本を参照しました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:今井忠夫
2003年8月30日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "003542",
"作品名": "伯爵の釵",
"作品名読み": "はくしゃくのかんざし",
"ソート用読み": "はくしやくのかんさし",
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"分類番号": "NDC 913",
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"名": "鏡花",
"姓読み": "いずみ",
"名読み": "きょうか",
"姓読みソート用": "いすみ",
"名読みソート用": "きようか",
"姓ローマ字": "Izumi",
"名ローマ字": "Kyoka",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1873-11-04",
"没年月日": "1939-09-07",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "泉鏡花集成7",
"底本出版社名1": "ちくま文庫、筑摩書房",
"底本初版発行年1": "1995(平成7)年12月4日",
"入力に使用した版1": "1995(平成7)年12月4日第1刷",
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"底本の親本名1": "鏡花全集 第二十巻",
"底本の親本出版社名1": "岩波書店",
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"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"一寸……何をして居るの。",
"水が欲しいの。"
],
[
"娘さん、町から、此の坂を上る処に、お宮がありますわね。",
"はい。",
"何と言ふ、お社です。"
],
[
"…………",
"お願でござります。……お慈悲ぢや、お慈悲、お慈悲。"
],
[
"あら、お嬢様。",
"お師匠さーん。"
],
[
"不思議な処で、と言ひたいわね。見ぶつかい。",
"えゝ、観光団。",
"何を悪戯をして居るの、お前さんたち。"
],
[
"でも何だか。",
"あら、何故ですえ。",
"御幣まで立つて警戒をした処があつちやあ、遠くを離れて漕ぐにしても、船頭が船頭だから気味が悪いもの。",
"否、あの御幣は、そんなおどかしぢやありませんの。不断は何にもないんださうですけれど、二三日前、誰だか雨乞だと言つて立てたんださうですの、此の旱ですから。"
],
[
"お嬢様、船を少し廻しますわ。",
"だつて、こんな池で助船でも呼んで覧たが可い、飛んだお笑ひ草で末代までの恥辱ぢやあないか。あれお止しよ。"
],
[
"お嬢様!",
"鯉、鯉、あら、鯉だ。"
],
[
"まあ、そんな処から。",
"然うだねえ。"
],
[
"あら、お嬢様。",
"可厭ですよ。"
],
[
"太夫様。",
"太夫様。"
],
[
"御坊様、貴方は?",
"あゝ、山国の門附芸人、誇れば、魔法つかひと言ひたいが、いかな、然までの事もない。昨日から御目に掛けた、あれは手品ぢや。"
],
[
"其で通るか、いや、さて、都は気が広い。――われらの手品は何うぢやらう。",
"えゝ、"
]
] | 底本:「日本幻想文学集成1 泉鏡花」国書刊行会
1991(平成3)年3月25日初版第1刷発行
1995(平成7)年10月9日初版第5刷発行
底本の親本:「泉鏡花全集」岩波書店
1940(昭和15)年発行
初出:「婦女界」
1920(大正9)年1月
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:川山隆
2009年5月10日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "048411",
"作品名": "伯爵の釵",
"作品名読み": "はくしゃくのかんざし",
"ソート用読み": "はくしやくのかんさし",
"副題": "",
"副題読み": "",
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"初出": "「婦女界」1920(大正9)年1月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2009-05-31T00:00:00",
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"姓読み": "いずみ",
"名読み": "きょうか",
"姓読みソート用": "いすみ",
"名読みソート用": "きようか",
"姓ローマ字": "Izumi",
"名ローマ字": "Kyoka",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1873-11-04",
"没年月日": "1939-09-07",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "日本幻想文学集成1 泉鏡花",
"底本出版社名1": "国書刊行会",
"底本初版発行年1": "1991(平成3)年3月25日",
"入力に使用した版1": "1995(平成7)年10月9日初版第5刷",
"校正に使用した版1": "1991(平成3)年3月25日初版第1刷",
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[
[
"芳さんかえ。",
"奥様、ただいま。"
],
[
"大層、おめかしだね。",
"ふむ。"
],
[
"芳ちゃん!",
"何?"
],
[
"まあ、ここへ来て、ちっとお話しなね。お祖母様はいま昼寝をしていらっしゃるよ。騒々しいねえ。",
"そうかい。"
],
[
"まあ、芳さんお坐ンな、そうしてなぜ人を、奥様々々ッて呼ぶの、嫌なこッた。",
"だって、円髷に結ってるもの、銀杏返の時は姉様だけれど、円髷の時ゃ奥様だ。"
],
[
"堪忍おしよ、それはもう芳さんが言わないでも、私はこの通り髪も濃くないもんだから、自分でも束ねていたいと思うがね、旦那が不可ッて言うから仕様がないのよ。",
"だからやっぱり奥様じゃあないか。"
],
[
"何だか友達のように聞えるねえ。",
"だからやっぱり、姉さんが可いじゃあないかえ。",
"でも円髷に結ってるもの、銀杏返だと亡なった姉様にそっくりだから、姉様だと思うけれど、円髷じゃあ僕は嫌だ。"
],
[
"じゃあまるであかの他人なの?",
"なにそうでもないけれど。……"
],
[
"憎らしいねえ。人の気も知らないで、お友達とトランプも無いもんだね。気が違やあしないかと、私ゃ自分でそう思った位だのにさ。",
"でも僕あ帰った時、(芳さん!)てって奥から出て来た、あの時の顔にゃ吃驚したよ。暮合ではあるし、亡なった姉さんの幽霊かと思った。",
"いやな! 芳さんだ。恐いことね。"
],
[
"何だ、臆病な。昼じゃあないか。",
"でもそんなことをお言いだと、晩に手水に行かれやしないや。",
"そんなに臆病な癖にして、昨夜も髯と二人連で、怪談を聞きに行ったじゃあないか。"
],
[
"はい、ですから切前に帰りました。切前は茶番だの、落語だの、そりゃどんなにかおもしろいよ。",
"それじゃもう髯の御機嫌は直ったんだね。"
],
[
"他にね、こうといって、まだ此家へ来て、そんなに間もないこったから、どこにどうという取留めたこともないけれど、ただね、髯の様子がね、亡なった姉様の亭主に肖ているからね、そのせいだろうと思うんだ。",
"そうして、不可いお方だったの。"
],
[
"酷い人ね、何だッてまた姉様を殺したんだろうね。芳さんのお姉様なら、どんなにか優しい、佳い人だったろうにさ。",
"そりゃ、真実に僕を可愛がってくれたッちゃあないよ。今着ている衣服なんか、台なしになってるけれど、姉様がわざと縫って寄来したもんだから、大事にして着ているんだ。",
"そのせいで似合うのかねえ。"
],
[
"そんな事っちゃアあるもんでない。何だって優しくされて、それで嫌だというがあるものか。",
"まあさ、お聞きなね。深切だといえば深切だが、どちらかといえば執着いのだわ。かいつまんで話すがね、ちょいと聞賃をあげるから。"
],
[
"十五の違だね。もっとも晩学だとかいうので、大抵なら二十五六で、学士になるのが多いってね。",
"無論さ。"
],
[
"衛生髯だとさ、おほほ。分るかえ? 芳さん。",
"何のこッた、衛生髯ッたって分らないよ。",
"それはね。"
],
[
"何の、蔭でいうくらいなら優しいけれど、髯がね、あの学校の雇になって、はじめて教場へ出た時に、誰だっけか、(先生、先生の御姓名は?)と聞いたんだって。するとね、ちょうど、後れて溜から入って来た、遠藤ッて、そら知ってるだろう。僕の処へもよく遊びに来る、肩のあがった、武者修行のような男。",
"ああ、ああ、鉄扇でものをいう人かえ。",
"うむ、彼奴さ、彼奴がさ。髯の傍へずいと出て、席から名を尋ねた学生に向って、(おい、君、この先生か。この先生ならそうだ、名は⦅チョイトコサ⦆だ。)と謂ったので、組一統がわッといって笑ッたって、里見がいつか話したっけ。"
],
[
"芳さん、何が陰弁慶だね。",
"だってそんなに決心をしていながら、一体僕の分らないというのはね、人ががらりと戸を明けると、眼に着くほどびっくりして、どきり! する様子が確に見えるのは、どういうものだろう。髯の留守に僕と談話でもしている処へ唐突に戸外があけば、いま姉様がいった世間の何とかで、吃驚しないにも限らないが、こうしてみるに、なにもその時にゃ限らないようだ。いつでもそうだから可笑いじゃないか。それに姉様のは口でいうと反対で、髯の前じゃおどおどして、何だか無暗に小さくなって、一言ものをいわれても、はッと呼吸のつまるように、おびえ切っている癖に。今僕に話すようじゃ、酸いも、甘いも、知っていて、旦那を三銭とも思ってやしない。僕が二厘の湯銭の剰銭で、(ちょいとこさ)を追返したよりは、なお酷く安くしてるんだ。その癖、世間じゃ、(西村の奥様は感心だ。今時の人のようでない。まるで嫁にきたてのように、旦那様を大事にする。婦人はああ行かなければ嘘だ。貞女の鑑だ。しかし西村には惜いものだ。)なんとそう言ってるぞ。そうすりゃ世間も恐しくはなかろうに、何だって、あんなにびくびくするのかなあ。だから姉様は陰弁慶だ。"
],
[
"芳や、帰ったの。",
"あれ、おばあさんが。",
"はい、唯今。"
],
[
"もう、奥様、何時です。",
"は。"
],
[
"五十九分前六時です。",
"憚様。"
],
[
"お前、このごろから茶を断ッたな。",
"いえ、何も貴下、そんなことを。"
],
[
"あかりが暗い、掻立てるが可い。お前が酷く瘠せッこけて、そうしょんぼりとしてる処は、どう見ても幽霊のようじゃ、行燈が暗いせいだろう。な。",
"はい。"
],
[
"よく御存じでございます。",
"むむ、お前のすることは一々吾ゃ知っとるぞ。",
"え。"
]
] | 底本:「泉鏡花集成2」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年4月24日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第二卷」岩波書店
1942(昭和17)年9月30日発行
初出:「文芸倶楽部」
1896(明治29)年2月
入力:門田裕志
校正:土屋隆
2006年7月3日作成
2012年9月29日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "004264",
"作品名": "化銀杏",
"作品名読み": "ばけいちょう",
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"原題": "",
"初出": "「文芸倶楽部」1896(明治29)年2月",
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[
[
"これは憚り……",
"いいえ。"
],
[
"あれ、貴方……お手拭をと思いましたけれど、唯今お湯へ入りました、私のだものですから。――それに濡れてはおりますし……",
"それは……そいつは是非拝借しましょう。貸して下さい。",
"でも、貴方。",
"いや、結構、是非願います。"
],
[
"まあ。",
"ばけもののする事だと思って下さい。丑満時で、刻限が刻限だから。"
],
[
"ほんとうに胆が潰れたね。今思ってもぞッとする……別嬪なのと、不意討で……",
"お巧言ばっかり。"
],
[
"あなた、お寒くはございませんの。",
"今度は赫々とほてるんだがね。――腰が抜けて立てません。",
"まあ……"
],
[
"だけど……お澄さんあともう十五分か、二十分で隣座敷へ行ってしまわれるんだと思うと、情ない気がするね。",
"いいえ。――まあ、お重ねなさいまし、すぐにまたまいります。",
"何、あっちで放すものかね。――電報一本で、遠くから魔術のように、旅館の大戸をがらがらと開けさせて、お澄さんに、夜中に湯をつかわせて、髪を結わせて、薄化粧で待たせるほどの大したお客なんだもの。",
"まあ、……だって貴方、さばき髪でお迎えは出来ないではございませんか。――それに、手順で私が承りましたばかりですもの。何も私に用があっていらっしゃるのではありません。唯今は、ちょうど季節だものでございますから、この潟へ水鳥を撃ちに。",
"ああ、銃猟に――鴫かい、鴨かい。",
"はあ、鴫も鴨も居ますんですが、おもに鷭をお撃ちになります。――この間おいでになりました時などは、お二人で鷭が、一百二三十も取れましてね、猟袋に一杯、七つも持ってお帰りになりましたんですよ。このまだ陽が上りません、霜のしらしらあけが一番よく取れますって、それで、いま時分お着になります。",
"どこから来るんだね、遠方ッて。",
"名古屋の方でございますの。おともの人と、犬が三頭、今夜も大方そうなんでございましょうよ。ここでお支度をなさる中に、馴れました船頭が参りますと、小船二艘でお出かけなさるんでございますわ。"
],
[
"ええ、何ですか、貸座敷の御主人なんでございます。",
"貸座敷――女郎屋の亭主かい。おともはざっと幇間だな。",
"あ、当りました、旦那。"
],
[
"ほんに、辻占がよくって、猟のお客様はお喜びでございましょう。",
"お喜びかね。ふう成程――ああ大した勢いだね。おお、この静寂な霜の湖を船で乱して、谺が白山へドーンと響くと、寝ぬくまった目を覚して、蘆の間から美しい紅玉の陽の影を、黒水晶のような羽に鏤めようとする鷭が、一羽ばたりと落ちるんだ。血が、ぽたぽたと流れよう。犬の口へぐたりとはまって、水しぶきの中を、船へ倒れると、ニタニタと笑う貸座敷の亭主の袋へ納まるんだな。"
],
[
"何にもございません。――料理番がちょと休みましたものですから。",
"奈良漬、結構。……お弁当もこれが関でげすぜ、旦那。"
],
[
"天気は極上、大猟でげすぜ、旦那。",
"首途に、くそ忌々しい事があるんだ。どうだかなあ。さらけ留めて、一番新地で飲んだろうかと思うんだ。"
],
[
"私は懺悔をする、皆嘘だ。――画工は画工で、上野の美術展覧会に出しは出したが、まったくの処は落第したんだ。自棄まぎれに飛出したんで、両親には勘当はされても、位牌に面目のあるような男じゃない。――その大革鞄も借ものです。樊噲の盾だと言って、貸した友だちは笑ったが、しかし、破りも裂きも出来ないので、そのなかにたたき込んである、鷭を画いたのは事実です。女郎屋の亭主が名古屋くんだりから、電報で、片山津の戸を真夜中にあけさせた上に、お澄さんほどの女に、髪を結わせ、化粧をさせて、給仕につかせて、供をつれて船を漕がせて、湖の鷭を狙撃に撃って廻る。犬が三頭――三疋とも言わないで、姐さんが奴等の口うつしに言うらしい、その三頭も癪に障った。なにしろ、私の画が突刎ねられたように口惜かった。嫉妬だ、そねみだ、自棄なんです。――私は鷭になったんだ。――鷭が命乞いに来た、と思って堪えてくれ、お澄さん、堪忍してくれたまえ。いまは、勘定があるばかりだ、ここの勘定に心配はないが、そのほかは何にもない。――無論、私が志を得たら……",
"貴方。"
],
[
"身を切られるより、貴方の前で、お恥かしい事ですが、親兄弟を養いますために、私はとうから、あの旦那のお世話になっておりますんです。それも棄て、身も棄てて、死ぬほどの思いをして、あなたのお言葉を貫きました。……あなたはここをお立ちになると、もうその時から、私なぞは、山の鳥です、野の薊です。路傍の塵なんです。見返りもなさいますまい。――いいえ、いいえ……それを承知で、……覚悟の上でしました事です。私は女が一生に一度と思う事をしました。貴方、私に御褒美を下さいまし。",
"その、その、その事だよ……実は。",
"いいえ、ほかのものは要りません。ただ一品。",
"ただ一品。",
"貴方の小指を切って下さい。",
"…………",
"澄に、小指を下さいまし。"
],
[
"親が、両親があるんだよ。",
"私にもございますわ。"
],
[
"お澄さん、剃刀を持っているか。",
"はい。",
"いや、――食切ってくれ、その皓歯で。……潔くあなたに上げます。"
]
] | 底本:「泉鏡花集成7」ちくま文庫、筑摩書房
1995(平成7)年12月4日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第二十二巻」岩波書店
1940(昭和15)年11月20日第1刷発行
入力:門田裕志
校正:今井忠夫
2003年8月31日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "003545",
"作品名": "鷭狩",
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"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
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[
[
"お宅の庭の流にかかった、橋廊下の欄干より低いくらいで、……すぐ、富士山の裾を引いた波なんですな。よく風で打つけませんね。",
"大丈夫でございますよ。後方が長浜、あれが弁天島。――自動車は後眺望がよく利きませんな、むこうに山が一ツ浮いていましょう。淡島です。あの島々と、上の鷲頭山に包まれて、この海岸は、これから先、小海、重寺、口野などとなりますと、御覧の通り不穏な駿河湾が、山の根を奥へ奥へと深く入込んでおりますから、風波の恐怖といってはほとんどありません――そのかわり、山の麓の隅の隅が、山扁の嵎といった僻地で……以前は、里からではようやく木樵が通いますくらい、まるで人跡絶えたといった交通の不便な処でございましてな、地図をちょっと御覧なすっても分りますが、絶所、悪路の記号という、あのパチパチッとした線香花火が、つい頭の上の山々を飛び廻っているのですから。……手前、幼少の頃など、学校を怠けて、船で淡島へ渡って、鳥居前、あの頂辺で弁当を食べるなぞはお茶の子だったものですが、さて、この三津、重寺、口野一帯と来ますと、行軍の扮装でもむずかしい冒険だとしたものでしてな。――沖からこの辺の浦を一目に眺めますと、弁天島に尾を曳いて、二里三里に余る大竜が一条、白浪の鱗、青い巌の膚を横えたように見える、鷲頭山を冠にして、多比の、就中入窪んだあたりは、腕を張って竜が、爪に珠を掴んだ形だと言います。まったく見えますのでな。",
"乗ってるんですね! その上にいま……何だか足が擽ったいようですね。"
],
[
"ははは、一つばなし。……ですが事実にも何にも――手前も隣郡のお附合、……これで徽章などを附けて立会いました。爺様の慌てたのを、現にそこに居て、存じております。が、別に不思議はありません。申したほどの嶮道で、駕籠は無理にもどうでしょうかな――その時七十に近い村長が、生れてから、いまだかつて馬というものの村へ入ったのを見たことがなかったのでございますよ。",
"馬を見て鼠……何だか故事がありそうで変ですが――はあ、そうすると、同時に、鼠が馬に見えないとも限りませんかしら。",
"は?",
"鼠が馬に見えるかも知れませんが、どうでしょう。",
"いや、おっしゃると。"
],
[
"ただ、それだけの話で、……深く考えた事もありませんが、成程、ちょっと似ているかも知れません、もっとも黒い奴ですがな。",
"御主人――差当りだけでも、そう肯定をなさるんなら、私が是非話したい事があるのです。現在、しかもこの土地で、私が実見した事実ですがね。余り突拍子がないようですから――実はまだ、誰にも饒舌りません。――近い処が以前からお宅をひいきの里見、中戸川さん、近頃では芥川さん。絵の方だと横山、安田氏などですか。私も知合ではありますが、たとえば、その人たちにも話をしません。芥川さんなどは、話上手で、聞上手で、痩せていても懐中が広いから、嬉しそうに聞いてはくれるでしょうが、苦笑ものだろうと思うから、それにさえ遠慮をしているんですがね。――御主人。",
"ははあ、はあ……で、それは。",
"いや、そんなに大した事ではありません。実は昨年、ちょうど今頃……もう七八日あとでした。……やっぱりお宅でお世話になって、その帰途がけ、大仁からの電車でしたよ。この月二十日の修善寺の、あの大師講の時ですがね、――お宅の傍の虎渓橋正面の寺の石段の真中へ――夥多い参詣だから、上下の仕切がつきましょう。",
"いかにも。",
"あれを青竹一本で渡したんですが、丈といい、その見事さ、かこみの太さといっちゃあない。――俗に、豆狸は竹の子の根に籠るの、くだ狐は竹筒の中で持運ぶのと言うんですが、燈心で釣をするような、嘘ばっかり。出も、入りも出来るものか、と思っていましたけれども、あの太さなら、犬の子はすぽんと納まる。……修善寺は竹が名物だろうか、そういえば、随分立派なのがすくすくある。路ばたでも竹の子のずらりと明るく行列をした処を見掛けるが、ふんだんらしい、誰も折りそうな様子も見えない。若竹や――何とか云う句で宗匠を驚したと按摩にまで聞かされた――確に竹の楽土だと思いました。ですがね、これはお宅の風呂番が説破しました。何、竹にして売る方がお銭になるから、竹の子は掘らないのだと……少く幻滅を感じましたが。"
],
[
"すなわち、化粧の水ですな。",
"お待ちなさい。そんな流の末じゃあ決してない。朝日でとけた白雪を、そのまま見たかったのに相違ないのです。三島で下りると言うと、居士が一所に参って、三島の水案内をしようと言います。辞退をしましたが、いや、是非ひとつ、で、私は恐縮をしたんですがね。実は余り恐縮をしなくても可さそうでしたよ。御隠居様、御機嫌よう、と乗合わせた近まわりの人らしいのが、お婆さんも、娘も、どこかの商人らしいのも、三人まで、小さな荷ですが一つ一つ手伝いましてね、なかなかどうして礼拝されます。が、この人たちの前、ちと三島で下りるのが擽ったかったらしい。いいかこつけで、私は風流の道づれにされた次第だ。停車場前の茶店も馴染と見えて、そこで、私のも一所に荷を預けて、それから出掛けたんですが――これがずッとそれ、昔の東海道、箱根のお関所を成りたけ早めに越して、臼ころばしから向う阪をさがりに、見ると、河原前の橋を掛けてこの三島の両側に、ちらちら灯が見えようというのでと――どこか、壁張りの古い絵ほどに俤の見える、真昼で、ひっそりした町を指さされたあたりから、両側の家の、こう冷い湿ぽい裡から、暗い白粉だの、赤い油だのが、何となく匂って来ると――昔を偲ぶ、――いや、宿のなごりとは申す条、通り筋に、あらわな売色のかかる体裁は大に風俗を害しますわい、と言う。その右斜な二階の廊下に、欄干に白い手を掛けて立っていた、媚かしい女があります。切組の板で半身です、が、少し伸上るようにしたから、帯腰がすらりと見える。……水浅葱の手絡で円髷に艶々と結ったのが、こう、三島の宿を通りかかる私たちの上から覗くように少し乗出したと思うと、――えへん!……居士が大な咳をしました。女がひょいと顔をそらして廂へうつむくと、猫が隣りから屋根づたいに、伝うのです。どうも割合に暑うごすと、居士は土耳古帽を取って、きちんと畳んだ手拭で、汗を拭きましたっけ。……"
],
[
"はあ――",
"ものの三間とは離れません。宮裏に、この地境らしい、水が窪み入った淀みに、朽ちた欄干ぐるみ、池の橋の一部が落込んで、流とすれすれに見えて、上へ落椿が溜りました。うつろに、もの寂しくただ一人で、いまそれを見た時に、花がむくむくと動くと、真黒な面を出した、――尖った馬です。",
"や。",
"鼠です。大鼠がずぶずぶと水を刎ねて、鯰がギリシャ製の尖兜を頂いたごとく――のそりと立って、黄色い目で、この方をじろりと。",
"…………"
],
[
"思わず畜生! と言ったが夢中で遁げました。水車のあたりは、何にもありません、流がせんせんと響くばかり静まり返ったものです。ですが――お谷さん――もう分ったでしょう。欄干に凭れて東海道を覗いた三島宿の代表者。……これが生得絵を見ても毛穴が立つほど鼠が嫌なんだと言います。ここにおいて、居士が、騎士に鬢髪を染めた次第です。宿のその二階家の前は、一杯の人だかりで……欄干の二階の雨戸も、軒の大戸も、ぴったりと閉まっていました。口々に雑談をするのを聞くと、お谷さんが、朝化粧の上に、七つ道具で今しがた、湯へ行こうと、門の小橋を跨ぎかけて、あッと言った、赤い鼠! と、あ、と声を内へ引いて遁込んで、けたたましい足音で、階子壇を駆上がると、あれえあれえと二階を飛廻って欄干へ出た。赤い鼠がそこまで追廻したものらしい。キャッとそこで悲鳴を立てると、女は、宙へ、飛上った。粂の仙人を倒だ、その白さったら、と消防夫らしい若い奴は怪しからん事を。――そこへ、両手で空を掴んで煙を掻分けるように、火事じゃ、と駆つけた居士が、(やあ、お谷、軒をそれ火が嘗めるわ、ええ何をしとる)と太鼓ぬけに上って、二階へ出て、縁に倒れたのを、――その時やっと女中も手伝って、抱込んだと言います。これじゃ戸をしめずにはおられますまい。",
"驚きました、実に驚きましたな……三島一と言いながら、海道一の、したたかな鼠ですな。"
],
[
"鼠。",
"いや、お待ち下さい、人間で。……親子は顔を見合わせたそうですが、助け上げると、ぐしょ濡れの坊主です。――仔細を聞いても、何にも言わない。雫の垂る細い手で、ただ、陸を指して、上げてくれ、と言うのでしてな。",
"可厭だなあ。"
],
[
"ええ、あの出口へ自動車が。",
"おおそうか。……ええ、むやみに動かしては危いぞ。",
"むこうで、かわしたようです。"
],
[
"何だか、口の尖がった、色の黒い奴が乗っていたようですぜ。",
"隧道の中へ押立った耳が映ったようだね。"
],
[
"巳の時さん――それ、女像の寄り神を祭ったというのは、もっと先方だっけね。",
"旦那、通越しました。",
"おや、はてな、獅子浜へ出る処だと思ったが。",
"いいえ、多比の奥へ引込んだ、がけの処です。",
"ああ、竜が、爪で珠をつかんでいようという肝心の処だ。……成程。",
"引返しましょうよ。",
"車はかわります。"
]
] | 底本:「泉鏡花集成8」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年5月23日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集」岩波書店
1942(昭和17)年7月刊行開始
入力:門田裕志
校正:林 幸雄
2001年9月17日公開
2005年9月26日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
[
"ああ、竜胆が咲いている。",
"まあ、ここにも。"
],
[
"茸はありますか。",
"はあ、いや松露でな。"
],
[
"……松露がありますか、こんな処に。……",
"ありますかって、貴方、ほれ、これでがす。"
],
[
"私も貴方に逢いに来たの。",
"嘘を吐け。",
"あら、ほんとだわ。"
],
[
"連の人は?",
"松露を捜して、谷の中へ分れて下りたの。……私はお精進の女で、殺生には向かないんですって。……魚でも、茸でも、いきもの……"
],
[
"あら、可厭だ。――知らないわ。",
"何をさ。",
"いいえ、いきものをね、分って?……取るのは、うまれつき拙なんですって。ですから松露を捜す気もなかった処へ、火事だって騒ぎでしょう。煙が見えたわ。あの丘へ駆上ると、もう、その煙は私の立った背より低くなって、火も見えないで消えたんですもの。小火なんですね。",
"いや、悪戯だよ。",
"まあ、放火。",
"違うよ。……魔の火と云ってね、この山の天狗が、人を驚かす悪戯だそうだ。",
"そう、面白いわね。"
],
[
"じゃあ、今しがた、ここに居た、あの、天狗様の悪戯かも知れないわね。",
"ここに居た、天狗、どこに、いつ。"
],
[
"そこにさ。貴方の。",
"ええ。",
"腰を掛けていらっしゃる、松の根を枕にして。"
],
[
"その鶏は?",
"ええ、まったくよ。"
],
[
"天狗様が拵えて、供えたんですがね。よく、烏が啣えて行かなかったこと。――そこいらの墓では、まだ火の点れた、蝋燭を、真黒な嘴で啣えて風のように飛ぶと、中途で、青い煙になって消えたんですのに。",
"烏にしてみれば――烏にしてみれば、は可訝いけれども。"
],
[
"燃えさしの蝋燭より、緋の鳥冠の鶏は、ちょっと扱いにくいかも知れない。――嘘のようだけれど、まったく真に迫っている。姉さん、ほんとうの事を聞かしてくれないかね。この鶴の子饅頭は。",
"あら、ほんとうですってば。"
],
[
"だって、自分でそう云ったんですもの。……(俺は天狗だぞ。)ッて。……先刻、落こちてるお客をひろいに――御免なさい、貴方もお客様ですわね――私たち、離れ離れに、あっちこっち、ぶらつきますうちに、のん気らしく、ここに寝転んでる人がありますから、こっちから……脚の方から入りましてね、いま、貴方が掛けておいでなすったその松の坊主頭――坊主じゃないんですけれど、薄毛がもやもやとして、べろ兀の大い円いの。……挫げたって惜くはないわ、薄黒くなった麦稈帽子を枕にして、黒い洋服でさ。",
"妙な天狗だね。",
"お聞きなさいよ。何とかウイスキイてんでしょう。壜をさ、――余り清潔じゃあない手巾に載せたまんまで、……仰向いてその鼻が、鼻が、ほほほ。",
"鼻が。"
],
[
"図々しいじゃあないの、(狐、さあ、夥間づきあいに一つ酌をしてくれ。本来は、ここのこの塚は、白い幽霊の出る処だ。)親仁様、まだ驚かすつもりでいるのかしら。",
"何、白い幽霊?"
],
[
"紅い鳥冠の鶏の――と云うのかね。",
"いいえ、それはそれは美しい婦の方の。",
"………………",
"そして、白いのはお衣ものも、ですけど、降り積る雪なんですって。",
"その天狗が話したのかね。"
],
[
"いやだ、……鶴子饅頭が食べたそうだ、ほほほ。",
"むむ。"
],
[
"ああ、錺職――じゃあ男だね。",
"そうよ、ええ、もう随分のお年でしたって。",
"待ちたまえ。……骨の入っているのが、いい年の錺職さん、近常か――それにしては、雪の中の美しい、……何だっけね、婦人の白い幽霊と云ったのはおかしいね。",
"まあ、お聞きなさいよ。――貴方は、妙に、沈んで落着いて、考え事をしているように見える癖に、性急だね、――ちょっと年をお言いなさい、星を占てあげますから。"
],
[
"星の性なら構わないけれど、そうでなくッて、そんな様子だと怪我をする事よ。路に山坂がありますから、お気をつけなさいなね。",
"怪我ぐらいはするだろうよ。……知己でもない君のような別嬪と、こんな処で対向いで話をするようなまわり合せじゃあ。……",
"まあ、とんだ御迷惑ね。",
"いや覚悟をしている。……本望だよ。",
"嬉しい事、そんなにおっしゃって下さるんですもの、私かって、……お宿までもついて送って行くわ。……途中で怪我なんかさせませんわ。生命に掛けても。……"
],
[
"同伴はどうなんだね、串戯にも、そんな事を云って、お前さん。",
"谷へ下りたから、あのまんま田畝へ出て、木賃へ引取りましょうよ。もう晩方で、山に稼ぎはなし、方角がそうなんですもの。",
"だって、一座の花形を、一人置いて行きっこはなかろうではないか。",
"そこは放し飼よ。外に塒がないんですもの、もとの巣へ戻ると思うから平気なもの。それとも直ぐ帰れなんのって、つれに来れば、ちょっと、隠形の術を使うわ。――一座の花形ですもの。火遁だって、土遁どろどろどろ、すいとんだって、焼鳥だってお茶の子だわ。",
"しかし、それにしてもだね。",
"苦労性ね、そんな星かしら。",
"きみの星は! 年は?",
"年は狐……星は狼。……",
"凄いもんだなあ。――そこで、今の話だが。"
],
[
"……お亡くなんなすってから、あと、直ぐに大層な値になって、近常さんの品は、そうなると、お国自慢よ。煙管一つも他国へ取られるな、と皆蔵込むから、余計値が出るでしょう。贋もの沢山になって、鑑定が大切だが、その鑑定を頼まれて確かなのが自分だって、按摩、(掌に据えて、貫目を計って、釣合を取って、撫でてかぐ。)……とそう云うんですッて、大変だわね。毛彫浮彫の花鳥草木……まあ私のお取次ぎは粗雑ですよ。(匂がする、)と言うくらいだから、按摩、それから、それへ聞伝え、思い込んで、(近常の事は余程悉いようだ。)と天狗様が、私にさ、貴方、おじぎの仕方から、もっ立尻の様子まで……その昨夜宿で聞いたっていう按摩の遣った通り――按摩は這いましたとさ、話しながら。――私は時々お酌をしながら聞いていて、その天狗様に這われたらどうしよう、と思ったんですよ。いかに私だって気味が悪い。",
"まさか、昼這う奴があるものか。"
],
[
"だって、そこが魔ものじゃあなくって?……それに酔ってるんでしょう。ウイで沢山な処へ、だんだんスキッて来てるんですもの。",
"何の事だい、スキッて来るとは。",
"私にも分らない、ほほほ。"
],
[
"お待ちないよ、この振袖。失礼ですが、……色はさめました、模様も薄くなりました。でも、それだけに、どんな事で、これがその御新造さんのお記念かも知れません。……この土地へ来ましてから、つい思いつきで、古着屋から買ったんですから。",
"ちょっと。",
"あら、なぜ、袖を引張らないの、持たないんです。"
],
[
"せめて、移り香を。",
"厭味たらしい、およしなさい、柄にもない。……じゃあ私も気障をしてよ。"
],
[
"しばらくそうしていらっしゃい。――離れないお禁厭よ。",
"竜胆以上に嬉しいなあ。"
],
[
"待って下さい、形は似ていますけれどもね、いま玉子を言っては不可い。ここへ、またお使者が飛んで来て、鶏の因縁になるんですから。",
"…………"
],
[
"貴方なんぞも遣りそうな柄だわね、髪を長く……ほほほ、遣った事があるんでしょう。似合うかも知れない事よ。",
"まあ、可い。……その髪の長いのは。"
],
[
"頭の顱じゃあないけれど、額の椀の蓋は所作真盛り。――(蟷螂や、ちょうらいや、蠅を取って見さいな)――裸で踊っているのを誰だと思って?……ちょっと?",
"あ。"
],
[
"ざぶり、ざぶりと、横瀬を打って気味が悪い。下り口の大きな石へ、その茶碗を据えなさいますとね、うつむいて、しばらく拝みなすった。肩つきが寂しいでしょう。そんなに煽切ったのに、職人も蕎麦の行燈で見た、その近常さんの顔が土気色だというんですもの。駆寄ろうとする一息さきに、蕎麦屋がうしろから抱留めました。",
"難有い。ああ、可かった。",
"だから、貴方は慌てものだと、云うんですよ……蕎麦屋も慌てものだわね。爺の癖に。近常さんが、(身投と間違えられましたか。)……そうではない。――(よそ様のお情で、書生をして、いま東京で修行をしている伜めが、十四五で、この土地に居ますうち、このさきの英語の塾へ、朝稽古に通いました。夏は三時起、冬は四時起。その夏の三時起に、眠り眠りここを歩行いて、ドンと躓いたのがこの石で、転ぶと、胸を打って、しばらく、息を留めた事がござりました。田舎寺のお小僧さんで、やっぱり朝稽古に通う、おなじ年頃の仲よしの友だちが来かかって、抱起したので助って、胸を痛めもしませんだが、もう一息で、睡りながら川へ流れます処。すればこの石は大恩人。これがあったために躓いたのでござりませぬ。石は好い心持でいる処を、ぶつかったのは小児めの不調法。通りがかりには挨拶をしましたが、仔細あって、しばらく、ここへ参るまいと存ずるので、会釈に一献進ぜました。……いや思出せば、なおその昔、伜が腹に居ります頃、女房と二人で、鬼子母神様へ参詣をするのに、ここを通ると、供えものの、石榴を、私が包から転がして、女房が拾いまして、こぼれた実を懐紙につつみながら、身体の弱い女でな、ここへ休んだ事もあります。御祝儀なしじゃ、蕎麦屋さん、御免なされ。は、は、は。)と、寂しそうに笑って、……雪道を――(ああ、ふったる雪かな、いかに世にある人の面白う候らん、それ雪は鵞毛に似て、)――と聞きながら、職人が、もうちっとと思うのに、その謡が、あれなの、あれ……",
"ええ。"
],
[
"伜……成程。",
"それは、から、のらくらしていて、何だか今もって、だらしのない人だって。……(それほどの近常さん宗旨の按摩に、さっぱりひいきがないんだから、もって知るべしだ。)とそう云ってね、天狗様も苦り切っていたわ。",
"大きにもっともだ。もって知るべしだ。成程。",
"ひどく、感心するんだわね。",
"いや、何しろもっともだから。",
"まったくだわね。",
"――そこで、どうなったんだろう。それから。",
"お察しなさいよ……どうなる、とお思いなさるの? あなた、なまじっか、御先祖のお位牌へも面目、と思いなすっただけに、消した蝋燭にも恥かしい。お年よりに愚痴を聞かせれば、なお不孝。ろくでなしの伜には言ったって分らないし、それに東京へ行っているし、情なさの遣場のない、……そんな時、世の中に、ただ一人、つらい胸を聞かせたし、聞いて欲し、慰めてももらいたいのは、御新造さんばかりでしょう。近常さんは、御自分の町を隔てた、雪の小路を、遠廻りして、あの川。"
],
[
"ですから、火も皆白いんです。鉄瓶もやっぱり白い。――その下に、焚いてありました松の枝が、煙も立たずに白い炎で、小さな卍に燃えていて、そこに、ただ御新造の黒髪ばかり、お顔ばかり、お姿ばかり、お顔はもとより、衣紋も、肩も、袖も、膝も真白な……幽霊さん……",
"ああ。"
],
[
"それから。",
"まあ、その銅壺に、ちゃんとお銚子がついているんじゃありませんか。踊のお師匠さんだったといいますから、お銚子をお持ちの御容子も嬉しい事。――近常さんは、娑婆も苦患も忘れてしまって、ありしむかしは、夜延仕事のあとといえば、そうやって、お若い御新造さんのお酌で、いつも一杯の時の心持で。……どんなお酒だったでしょうね、熱い甘露でしょう、……二三杯あがったと思うと、凍った骨、枯れた筋にも、一斉に、くらくらと血が湧いて、積った雪を引かけた蒲団の気で、大胡坐。……(運八が銀の鶏……ではあれども、職人頭は兄弟分、……まず出来た。この形。)と雪を、あの一塊……鳥冠を捻り、頸を据え、翼を形どり、尾を扱いて、丹念に、でも、あらづもりの形を。――それを、おなじ雪の根の松の下へお置きなさると、鏨はほんとうのを懐中から、鉄鎚を取って、御新造さんと熟と顔を見合って、(目はこう入れたわ。)丁!(左は)丁と打込む冴に、ありありとお美しい御新造さんの鬢のほつれをかけて、雪の羽がさらさらと動いて、散って、翼を両方へ羽搏くと思うと、――けけこッこう――鶏の声がしたんですって。"
],
[
"姓がおあんなすったんですがね……近常さん。",
"勿論、それは、ここで、きみが天狗から聞いたんだね。",
"はあ。",
"あいにく、いまだ石碑がない。"
],
[
"名のりは、きみが幾たびも言ってくれたので、まざまざと、その顔も容子も、眉毛まで見えるように思われてならないよ。",
"どうして思出せないんでしょう。いいえね、あの、近常さんの方は、――一字、私の名が入っていたので、余り覚えよかったもんですから……",
"ああ、お近さん。",
"常で沢山。……近目のようで可厭ですわ、殿方と違いますもの――貴方は?",
"いや、それがね、申しおくれた処へ、今のような真剣の話の中へは、……やくざ過ぎて、言憎い。が、まあ、更めて挨拶しよう。――話をして、それから、その天狗はどうしたね。",
"この山は、どういうものか、雑木林なり、草の中なり、谷陰なり、男がただひとりで居ると、優しい、朗かな声がしたり、衣摺れが聞こえたり、どこからともなく、女が出て来る。円髷もあろうし、島田もあろうし、桃の枝を提げたのも、藤山吹を手折ったのも、また草籠を背負ったのも、茸狩の姉さんかぶりも、それは種々、時々だというけれど、いつも声がして、近づいて姿が見える――とそういうのが、近国にも響いた名所だ。町に別嬪が多くて、山遊びが好な土地柄だろう。果して寝転んでいて、振袖を生捉った。……場所をかえて、もう二三人捉えよう。――(旅のものだ、いつでもというわけには行かない。夜を掛けても女を稼ごう。)――厚かましいわ。蟒に呑まれたそうに、兀頭をさきへ振って、ひょろひょろ丘の奥へ入りました。",
"ただものでない、はてな。"
],
[
"天狗が気になる。うっかり触ると消えはしないか。",
"消えれば口の中ですわ。……祝儀をくれない天狗なんか。"
],
[
"まあ、貴方、なぜおじぎをなさらないの。さっきは、法界屋にも、丁寧に御挨拶をなすったのに、貴いお上人さんの前にさ――",
"おちかさん。"
],
[
"姓は郡です……職人近常の。……私はその伜の多津吉というんだよ。",
"ああ多津吉さん。"
],
[
"……橋の上、大通りの辻……高台の見霽と、一々数えないでも、城下一帯、この銅像の見えることは、ここから、町を見下ろすとおんなじで……またその位置を撰んで据えたのだそうだから、土地の人は御来迎、御来迎と云うんだね。高山の大霧に、三丈、五丈に人の影の映るのが大仏になって見えるというのにたとえてだよ。勿論、運八父子は、一度聞けば誰も知らぬもののない、昔の大上人としてこれを鋳たんだ。――不思議に、きみはまだ知らないようだけれど、五つ七つの小児に聞いても、誰も知らぬものはなかろうね。",
"蓮如さん、",
"さあ、",
"親鸞上人。",
"さあ、",
"弘法大師。",
"さあ、それが誰だって、何だって、私は失礼をする気は決してないんだ。ただ運八父子の手に成った……",
"勿論ですわ。――法界屋にお辞儀をなすった方が、この木菟入道に……"
],
[
"なかなか、おいしい。天狗の雛児。――あなたも一つめしあがれ。",
"…………",
"あら、卑怯だことね、お毒味は済んでるのに。"
],
[
"毒でも構わん、一所に食べよう。",
"あいつつ。"
],
[
"噛みはしない、噛んだか。いや噛んだかも知れない。きみに詫びる。謝罪する。……失礼だがきみの、身分を思って……生半可の横啣えで、償いの多少に依りさえすればこんな事はきっと出来ると……二度目にあの塚へ、きみが姿を見せた時から、そう思った。悪心でそう思った。――ここへ連れて来て、銅像の鼻前で、きみの唇を買って、精進坊主を軽蔑してやろうと思ったんだ。慈悲にも忍辱にも、目の前で、この光景を視せられて、侮辱を感じないものは断じてないから。――うむ、そうだ。坊主を軽蔑する本心にも手段にも、いささかもかわりはない。が、きみに対して、今は誓って悪心でない、真心だ。真実だ。許してくれ。そして軽蔑さしてくれ。",
"はなして……よ。"
],
[
"あ。",
"痛い、刺って、",
"や、刺か。"
],
[
"あら、大きな針……まあ釘よ。……",
"釘?"
],
[
"父親の鏨だ。",
"ええ、近常さんの……",
"見てくれたまえ――この尖へ、きみの口の裡の血がついて。"
],
[
"もとの処に、これ、細い葉を二筋と、五弁の小さな花が彫ってある。……父親は法華宗のかたまり家だったが、仕事には、天満宮を信心して、年を取っても、月々の二十五日には、きっと一日断食していた。梅の紋を、そのままは勿体ないという遠慮から、高山に咲く……この山にも時には見つかる、梅鉢草なんだよ。この印は。――もっとも、一心を籠めた大切な鏨にだけ記したのだから。――これは、きみの口から聞かしてくれた……無論私も知っている……運八のために、その一期の無念の時、白い幽霊に暖められながら、雪を掴んで鶏の目を彫込んで、暁に息が凍った。その時のものかも知れないと……知れないと、私は、私は思うんだ。",
"違いありませんよ、きっと、きっとそうに。――ですもの、活きてるような白い饅頭が、それも、あとの一つの方は、口へ入れると、ひなひなと血が流れるように動いたんですの。……天狗のなす業だわね。お父さんのその鏨で、どうしたら可いでしょう、私凄いわ。何ですか、震えて来た。ぞくぞくして。",
"笑ってくれたもうなよ、私には一人の父親だ。"
],
[
"解いてあげましょうか。",
"いや、大丈夫。……きみたちは知るまいなあ。――むかしここいらで、小学校へ通うのに、いまのように洒落た舶来ものは影もないから、石盤、手習草紙という処を一絡めにして……武者修行然として、肩から斜っかけ、そいつはまだ可いがね、追々寒さに向って羽織を着るようになるとこの態裁です。――しかし膚に着けるにはこれが一等だ。震災以後は、東京じゃ臆病な女連は今でも遣ってる。"
],
[
"……玩弄品?",
"怪しからんことを――由緒は正しく、深く、暗く、むしろ恐るべきほどのものだよ。"
],
[
"銅像の目を射るんだ――ちかさん。",
"あら、"
],
[
"ここを狙え、と教えたんだ。",
"あ。",
"御免よ。うっかり……",
"ああ、元結が切れそうだった。可厭ね、力を入れてさ。"
],
[
"気味が悪かろうとは、きみだから言わない――私が未熟だから、危いから、少し、そちらへ。",
"着ものを脱いで、的にも立ちかねないんですがね。"
],
[
"あなたの柄だと、私は矢取の女のようだよ。",
"馬鹿な事を――真剣だ。",
"あなた。"
],
[
"…………",
"一つは射てますわね。……魔のお姫様の直伝ですから。……でも、音がするでしょう、拳銃は。お嬢さんが耶蘇の目を射た場所は、世界を掛けての事だから、野も山もちっとこことは違うようです。目の下が、すぐ町で、まだその辺に、人は散り切りません。天狗が一二枚もみじの葉を取ったって、すぐ山巡吏の監督が出て来るんじゃアありませんか。――この静さじゃ、音は城下一杯に谺します。――私にその鏨をお貸しなさいな。"
],
[
"拳銃をお見せなさいな。",
"……拳銃を。成程、引続けて二度狙うのは、自信がない、連発だけれども、"
],
[
"門附芸人です、僕の女房です。",
"う、う、おお、似合うたな、おなじように。",
"ああ、お父さん――郡は拳銃を持っていますから。"
],
[
"危い、お父さん。――早く警察へ。",
"何をし得るものだ。――いや、時にいずれも、立合わるる、いずれも。"
],
[
"俺と伜の、この製作の名誉を嫉んで。",
"そうですそうです。"
],
[
"大銅像の目を傷けたんだね、両眼を――潰すと斉しく霊像の目が活きて光って開いた、虫の投落されたのをよく視て下さい。",
"柴山運八。",
"運五郎、苦心の製作に対して。"
],
[
"は、は、は、違う、違う、まるで違う。この大入道の団栗目は、はじめ死んでおった。それが鏨で活きたのじゃ。すなわち潰されたために、開いたのじゃ。",
"何。",
"あ、先生。"
],
[
"柴山君、しばらくじゃ。",
"お父さん、お父さん、榊原――俊明先生です。"
],
[
"別嬪。",
"あれ、天……狗……さん。",
"しかり、天狗が承合うた、きっと治るぞ。"
]
] | 底本:「泉鏡花集成8」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年5月23日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第二十三卷」岩波書店
1942(昭和17)年6月22日第1刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、以下の箇所を除いて、大振りにつくっています。
「三ヶの庄を」
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2011年5月7日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "048416",
"作品名": "ピストルの使い方",
"作品名読み": "ピストルのつかいかた",
"ソート用読み": "ひすとるのつかいかた",
"副題": "――(前題――楊弓)",
"副題読み": "――(ぜんだい――ようきゅう)",
"原題": "",
"初出": "",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2011-06-29T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-16T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card48416.html",
"人物ID": "000050",
"姓": "泉",
"名": "鏡花",
"姓読み": "いずみ",
"名読み": "きょうか",
"姓読みソート用": "いすみ",
"名読みソート用": "きようか",
"姓ローマ字": "Izumi",
"名ローマ字": "Kyoka",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1873-11-04",
"没年月日": "1939-09-07",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "泉鏡花集成8",
"底本出版社名1": "ちくま文庫、筑摩書房",
"底本初版発行年1": "1996(平成8)年5月23日",
"入力に使用した版1": "1996(平成8)年5月23日第1刷",
"校正に使用した版1": "1996(平成8)年5月23日第1刷",
"底本の親本名1": "鏡花全集 第二十三卷",
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"入力者": "門田裕志",
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"テキストファイル最終更新日": "2011-05-07T00:00:00",
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[
[
"おい、謙三郎はどうした。",
"息災で居ります。",
"よく、汝、別れることが出来たな。",
"詮方がないからです。",
"なぜ、詮方がない。うむ。"
],
[
"可いかい、先刻謂ったことは違えやしまいね。",
"何ですか。お通さんに逢って行けとおっしゃった、あのことですか。"
],
[
"ああ、そのこととも、お前、軍に行くという人に他に願があるものかね。",
"それは困りましたな。あすこまでは五里あります。今朝だと腕車で駈けて行ったんですが、とても逢わせないといいますから行こうという気もありませんでした。今ッからじゃ、もう時間がございません。三十分間、兵営までさえ大急でございます。飛んだ長座をいたしました。"
],
[
"そうおっしゃるも無理ではございませんが、もう今から逢いますには、脱営しなければなりません。",
"は、脱営でも何でもおし。通が私ゃ可哀そうだから、よう、後生だから。"
],
[
"何が欠けようとも構わないよ。何が何でも可いんだから、これたった一目、後生だ。頼む。逢って行ってやっておくれ。",
"でもそれだけは。"
],
[
"お前、可いのかい。何ともありゃしないかね。",
"いや、お憂慮には及びません。"
],
[
"お放し、私がちょっと戸外へ出ようとするのを、何のお前がお構いでない、お放しよ、ええ! お放してば。",
"なりましねえ。麻畑の中へ行って逢おうたッて、そうは行かねえ。素直にこっちへござれッていに。"
],
[
"お前、主人をどうするんだえ。ちっと出過ぎやしないかね。",
"主人も糸瓜もあるものか、吾は、何でも重隆様のいいつけ通りにきっと勤めりゃそれで可いのだ。お前様が何と謂ったって耳にも入れるものじゃねえ。",
"邪険も大抵にするものだよ。お前あんまりじゃないかね。"
],
[
"さ、さ、そのことは聞えたけれど……ああ、何といって頼みようもない。一層お前、わ、私の眼を潰しておくれ、そうしたら顔を見る憂慮もあるまいから。",
"そりゃ不可えだ。何でも、は、お前様に気を着けて、蚤にもささせるなという、おっしゃりつけだアもの。眼を潰すなんてあてごともない。飛んだことをいわっしゃる。それにしてもお前様眼が見えねえでも、口が利くだ。何でも、はあ、一切、男と逢わせることと、話談をさせることがならねえという、旦那様のおっしゃりつけだ。断念めてしまわっしゃい。何といっても駄目でござる。"
],
[
"これ、またあんな無理を謂うだ。蚤にも喰わすことのならねえものを、何として、は、殺せるこんだ。さ駄々を捏ねねえでこちらへござれ。ひどい蚊だがのう。お前様アくわねえか。",
"ええ、蚊がくうどころのことじゃないわね。お前もあんまり因業だ、因業だ、因業だ。",
"なにその、いわっしゃるほど因業でもねえ。この家をめざしてからに、何遍も探偵が遣って来るだ。はい、麻畑と謂ってやりゃ、即座に捕まえられて、吾も、はあ、夜の目も合わさねえで、お前様を見張るにも及ばずかい、御褒美も貰えるだ。けンどもが、何も旦那様あ、訴人をしろという、いいつけはしなさらねえだから、吾知らねえで、押通しやさ。そンかわりにゃあまた、いいつけられたことはハイ一寸もずらさねえだ。何でも戸外へ出すことはなりましねえ。腕ずくでも逢わせねえから、そう思ってくれさっしゃい。"
],
[
"ええ、肯分がなくッても可いよ、お放し、放しなってば、放しなよう。",
"是非とも肯かなけりゃ、うぬ、ふン縛って、動かさねえぞ。"
]
] | 底本:「泉鏡花集成2」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年4月24日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 別卷」岩波書店
1976(昭和51)年3月26日発行
初出:「国民之友」
1896(明治29)年1月
入力:門田裕志
校正:土屋隆
2006年7月3日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
[
"もう可い、起きな。何という不景気な顔色だよ。",
"笑いごっちゃアありませんぜ。根っから儲からねえ役廻だ。"
],
[
"あんまり好かあねえ。何しろ対手が四足二疋だ。",
"踏まれたら因果よ。白馬を飲む祟りだわな。"
],
[
"姉様、用は相済かね。",
"あいよ、折角お稼ぎなさい。"
],
[
"そないなことは謂わずとも知っちょるわい。",
"でも御訊き遊ばしたからさ。"
],
[
"そんならなぜそのように神妙に御慈悲を願わない。",
"はい、貧乏人に式作法はございません。",
"汝、言いたい三昧なことをいやあがる。何しろ家宅侵入だ。処分するぞ。"
],
[
"何もたって拘引するとは言わん。",
"いいえ、御遠慮には及びません、どうぞお拘引なすって。"
],
[
"それでは、非を蔽うのです、それにあの新聞も、在原の夫人が屠犬児に御恵みなすったことなどは、大層誉めたではございませんか。今停止をさせたでは卑怯に当りますよ。",
"さようじゃの。"
],
[
"綾。",
"は。"
],
[
"だって時々出張って来らあ。",
"そりゃそうと此家の姫様は何の妖たのだろう。"
],
[
"降りませんうちに、じゃあこうなさいまし、そこらで車夫を呼んで参りますから、御前様は一足お先へ、私はお後から奥様を引張って帰ります。",
"よきように計え。"
]
] | 底本:「泉鏡花集成2」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年4月24日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第二卷」岩波書店
1942(昭和17)年9月30日発行
初出:「北海道毎日新聞」
1895(明治28)年7月
※「究竟」と「屈竟」、「お謂《い》いで」と「お謂《いい》で」、「わづかに」と「わずかに」、「瘠」と「痩」、「踏込」と「蹈込」の混在は、底本通りです。
※底本の編者による脚注は省略しました。
入力:門田裕志
校正:染川隆俊
2020年10月28日作成
2022年9月10日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "050108",
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"姓読み": "いずみ",
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"姓読みソート用": "いすみ",
"名読みソート用": "きようか",
"姓ローマ字": "Izumi",
"名ローマ字": "Kyoka",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1873-11-04",
"没年月日": "1939-09-07",
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[
[
"變りましたなあ。",
"變りましたは尤もだが……この道は行留りぢやあないのかね。",
"案内者がついてゐます。御串戲ばかり。……洲崎の土手へ突き當つたつて、一つ船を押せば上總澪で、長崎、函館へ渡り放題。どんな拔け裏でも汐が通つてゐますから、深川に行留りといふのはありませんや。",
"えらいよ!"
],
[
"仙臺堀だ。",
"だから、それだから、行留りかなぞと外聞の惡い事をいふんです。――そも〳〵、大川からここへ流れ口が、下之橋で、こゝが即ち油堀……",
"あゝ、然うか。",
"間に中之橋があつて、一つ上に、上之橋を流れるのが仙臺堀川ぢやあありませんか。……斷つて置きますが、その川筋に松永橋、相生橋、海邊橋と段々に架つてゐます。……あゝ、家らしい家が皆取拂はれましたから、見通しに仙臺堀も見えさうです。すぐ向うに、煙だか、雲だか、灰汁のやうな空にたゞ一ヶ處、樹がこんもりと、青々して見えませう――岩崎公園。大川の方へその出つ端に、お湯屋の煙突が見えませう、何ういたして、あれが、霧もやの深い夜は、人をおびえさせたセメント會社の大煙突だから驚きますな。中洲と、箱崎を向うに見て、隅田川も漫々渺々たる處だから、あなた驚いてはいけません。",
"驚きません。わかつたよ。",
"いや念のために――はゝゝ。も一つ上が萬年橋、即ち小名木川、千筋萬筋の鰻が勢揃をしたやうに流れてゐます。あの利根川圖志の中に、……えゝと――安政二年乙卯十月、江戸には地震の騷ぎありて心靜かならず、訪來る人も稀なれば、なか〳〵に暇ある心地して云々と……吾が本所の崩れたる家を後に見て、深川高橋の東、海邊大工町なるサイカチといふ處より小名木川に舟うけて……",
"また、地震かい。",
"あゝ、默り默り。――あの高橋を出る汽船は大變な混雜ですとさ。――この四五年浦安の釣がさかつて、沙魚がわいた、鰈が入つたと、乘出すのが、押合、へし合。朝の一番なんぞは、汽船の屋根まで、眞黒に人で埋まつて、川筋を次第に下ると、下の大富橋、新高橋には、欄干外から、足を宙に、水の上へぶら下つて待つてゐて、それ、尋常ぢや乘切れないもんですから、そのまんま……そツとでせうと思ひますがね、――それとも下敷は潰れても構はない、どかりとだか何うですか、汽船の屋根へ、頭をまたいで、肩を踏んで落ちて來ますツて。……こ奴が踏みはづして川へはまると、(浦安へ行かう、浦安へ行かう)と鳴きます。",
"串戲ぢやあない。",
"お船藏がつい近くつて、安宅丸の古跡ですからな。いや、然ういへば、遠目鏡を持つた氣で……あれ、ご覽じろ――と、河童の兒が囘向院の墓原で惡戲をしてゐます。",
"これ、芥川さんに聞こえるよ。"
],
[
"口ぢやあ兩國まで飛んだやうだが、向うへ何うして渡るのさ、橋といふものがないぢやあないか。",
"ありません。"
],
[
"確にこゝにあつたんですが、町内持の分だから、まだ、架からないでゐるんでせうな。尤もかうどろ〳〵に埋まつては、油堀とはいへませんや、鬢付堀も、黒鬢つけです。",
"塗りたくはありませんかな。",
"私はもう歸ります。"
],
[
"いま見棄てられて成るものか、待ちたまへ、あやまるよ。しかしね、仙臺堀にしろ、こゝにしろ、殘らず、川といふ名がついてゐるのに、何しろひどくなつたね。大分以前には以前だが……やつぱり今頃の時候に此の川筋をぶらついた事がある。八幡樣の裏の渡し場へ出ようと思つて、見當を取違へて、あちらこちら拔け裏を通るうちに、ざんざ降りに降つて來た、ところがね、格子さきへ立つて、雨宿りをして、出窓から、紫ぎれのてんじんに聲をかけられようといふ柄ぢやあなし……",
"勿論。",
"たゝつたな――裏川岸の土藏の腰にくつ付いて、しよんぼりと立つたつけ。晩方ぢやああつたが、あたりがもう〳〵として、向う岸も、ぼつと暗い。折から一杯の上汐さ。……近い處に、柳の枝はじやぶ〳〵と浸つてゐながら、渡し船は影もない。何も、油堀だつて、そこにづらりと並んだ藏が――中には破壁に草の生えたのも交つて――油藏とも限るまいが、妙に油壺、油瓶でも積んであるやうで、一倍陰氣で、……穴から燈心が出さうな氣がする。手長蝦だか、足長蟲だか、びちや〳〵と川面ではねたと思ふと、岸へすれ〳〵の濁つた中から、尖つた、黒い面をヌイと出した……"
],
[
"河、河、河童ですか。",
"はげてる癖に、いやに臆病だね――何、泥龜だつたがね、のさ〳〵と岸へ上つて來ると、雨と一所に、どつと足もとが川になつたから、泳ぐ形で獨りでにげたつけ。夢のやうだ。このびんつけに日が當つちやあ船蟲もはへまいよ。――おんなじ川に行當つても大した違ひだ。",
"眞個ですな、いまお話のその邊らしい。……私の友だちは泥龜のお化どころか、紺蛇目傘をさした女郎の幽靈に逢ひました。……おなじく雨の夜で、水だか路だか分らなく成りましてね。手をひかれたさうですが、よく川へ陷らないで、橋へ出て助かりましたよ。",
"それが、自分だといふのだらう。……幽靈でもいゝ、橋へ連出してくれないか。",
"――娑婆へ引返す事にいたしませうかね。"
],
[
"えゝ、一寸懺悔を。……",
"何だい、いま時分。",
"ですが、閻魔樣の前では、氣が怯けたものですから。――實は此寺の墓地に、洲崎の女郎が埋まつてるんです。へ、へ、へ。長い突通しの笄で、薄化粧だつた時分の、えゝ、何にもかにも、未の刻の傾きて、――元服をしたんですがね――富川町うまれの深川ツ娘だからでもありますまいが、年のあるうちから、流れ出して、途に泡沫の儚さです。人づてに聞いたばかりですけれども、野に、山に、雨となり、露となり、雪や、氷で、もとの水へ返つた果は、妓夫上りと世帶を持つて、土手で、おでん屋をしてゐたのが、氣が變になつてなくなつたといひます――上州安中で旅藝者をしてゐた時、親知らずでもらつた女の子が方便ぢやありませんか、もう妙齡で……抱へぢやあありましたが、仲で藝者をしてゐて、何うにかそれが見送つたんです。……心行寺と確いひましたつけ。おまゐりをして下さいなと、何かの時に、不思議にめぐり合つて、その養女からいはれたんですが、ついそれなりに不沙汰でゐますうちに、あの震災で……養女の方も、まるきし行衞が分りません。いづれ迷つてゐると思ひますとね、閻魔堂で、羽目の影がちらり〳〵と青鬼赤鬼のまはりへうつるのが、何ですか、ひよろ〳〵と白い女が。……"
],
[
"お顏を、ご覽に成りますか。",
"いや何ういたして。……",
"こゝで拜をして參ります。"
],
[
"あなたが、泥龜に遁げたのは――然うすると、あの邊ですね。",
"さあ、あの渡船場に迷つたのだから、よくは分らないが、彼の邊だらうね。何しろ、もつと家藏が立込んで居たんだよ。",
"從つても變ですが、……友だちが、女郎の幽靈に手を曳かれたのは、工場の向裏あたりに成るかも知れません。――然う言へば、いま見た、……特選、稀も、ふつと消えたやうで、何んだか怪しうございますよ。",
"御堂前で、何をいふんだ。",
"こりや何うも……景色に見惚れて、また鳥居際に立つてゐました。――あゝ八幡樣の大銀杏が、遠見の橋のむかうに、對に青々として手に取るやうです。涼しさうにしと〳〵と濡れてゐます。……震災に燒けたんですが、神田の明神樣のでも、何所のでも、銀杏は偉うございますな。しかし苦勞をしましたね、彼所へ行つたら、敬意を表して挨拶をしませうよ。石碑がないと、くツつけて夫婦にして見たいんですが、あの眞中の横綱が邪魔ですな。",
"馬鹿な事を――相撲贔屓が聞くと撲るからおよし。おや、馬が通る。……"
],
[
"それから思ふと……いまの娘さんの飛乘は、人間業ぢやあないんだよ。",
"些と大袈裟ですなあ、何、あれ式の事を。……これから先、その蓬莱町、平野町の河岸へ行つて、船の棟割といつた處をご覽なさい。阿媽が小舷から蟹ぢやあありませんが、釜を出して、斜かひに米を磨いでるわきを、あの位な娘が、袖なしの肌襦袢から、むつちりとした乳をのぞかせて、……それでも女氣でござんせうな、紅入模樣のめりんすを長めに腰へ卷いたなりで、その泥船、埃船を棹で突ツ張つてゐますから。――氣の毒な事は、汗ぐつしよりですがね、勞働で肌がしまつて、手足のすらりとしてゐる處は、女郎花に一雨かゝつた形ですよ。",
"雨は、お誂にしと〳〵と降つてゐるし、眞個にそれが、凡夫の目に見えるのかね。",
"ご串談ばかり、凡夫だから見えるんでさあね。――いえまだ、もつと凡夫なのは、近頃島が湧いた樣に開けました、疝氣稻荷樣近くの或工場へ用があつて、私の知り合が三人連れ圓タクで乘込んだのが、歸りがけに、洲崎橋の正面見當へ打突ると、……凡夫ですな。まだ、あなた、四時だといふのに、一寸見物だけで、道普請や、小屋掛でごつた返して、こんがらかつてゐる中を、ブン〳〵獨樂のやうにぐる〳〵𢌞りで、その癖乘込む……疾いんです。引手茶屋か、見番か、左は?……右は、といふうちに、――豫め御案内申しましたつけ、仲の町正面の波除へ突き當つたと思召せ。――忽ち蒼海漫々たり。あれが房州鋸山だ、と指さすのが、府下品川だつたり何かして、地理には全く暗い連中ですが、蒸風呂から飛上つた同然に、それは涼しいには涼しいんですとさ。……偏に風を賞めるばかり、凡夫ですな。卷煙草をふかす外に所在がないから、やゝあつて下に待たした圓タクへ下りて來ると、素裸の女郎が三人――この友だち意地が惡くつて、西だか東だか方角は教へませんがね、虚空へ魔が現れた樣に、簾を拂つた裏二階の窓際へ立並ぶと、腕も肩も、胸も腹も、くな〳〵と緋の切を卷いた、乳房の眉間尺といつた形で揉み合つて、まだそれだけなら、何、女郎だつて涼みます、不思議はありませんがね。招いたり、頬邊をたゝいて見せたり、肱でまいたり、これがまさしく、府下と房州を見違へた凡夫の目にもあり〳〵と見えたんですつて。再び説く、天の一方に當つて、遙にですな。惜しいかな、方角が分りません。",
"宙に迷つてる形だね、きみが手をひかれた幽靈なぞも、或はその連中ではないのかね。",
"わあ、泥龜が、泥龜が。",
"あ、凡夫を驚かしては不可い。……何だか、陰々として來た。――丁ど此處だ、此處だが、しかし、油倉だと思ふ處は、機械びきの工場となつた。冬木で見た、あの工場も、これと同じものらしい。"
],
[
"何だつけ、その裲襠を屏風へ掛けて、白い切の潰島田なのが……いや、大丈夫――惜しいかな、これが心中をしたのでも、殺されたのでも、斬られたのでもない。のり血更になしだよ。(まだ學生さんでせう、當樓の内證は穩かだから、臺のかはりに、お辨當を持つて入らつしやい。……私に客人があつて、退屈だつたら、晝間、その間裏の土手へ出て釣をしておいでなさいまし。……海津がかゝります。私だつて釣つたから。……)時候は暑いが、春風が吹いてゐる。人ごとだけれども、眉間尺と較べると嘘のやうだ。",
"風葉さん、春葉さん、い、いづれですか、言はれた、その御當人は?",
"それは、想像にまかせよう。"
],
[
"手を曳いてたべ……幽靈どの。",
"あら、怨めしや。"
],
[
"旦那さ――ん。",
"あ。"
],
[
"水の音が聞こえまするなう。何處となくなう。",
"…………",
"旦那さ――ん、今のほどは汐見橋の上でや、水の上るのをば、嬉しげに見てござつた。……濁り濁つた、この、なう、溝川も、堀も、入江も、淨めるには、まだ〳〵汐が足りませぬよ、足りませぬによつて、なう、眞夜中に來て見なされまし。――月にも、星にも、美しい、氣高い、お姫樣が、なう、勿體ない、賤の業ぢや、今時の女子の通り、目に立たぬお姿でなう、船を浮べ、筏に乘つて、大海の水を、さら〳〵と、この上、この上に灌がつしやります事よ。……あゝ、有難うござります。おまゐりをなされまし、……おゝ、お連れがござりましたの。――おさきへ、ごゆるされや、はい、はい。"
],
[
"饂飩を誂へても叱られまいかね。",
"何、あなた。品がきが貼出してある以上は、月見でも、とぢでも何でも。",
"成程。"
],
[
"へい、おかげ樣で。……",
"蕎麥は手打ちで、まつたく感心に食はせるからな。",
"お住居は兜町の方だとおつしやいますが、よく、此の邊が明るくつておいでなさいますね。",
"町内づきあひと同じ事さ、そりやお前、女が住んでる處だからよ。あはゝはゝ。",
"えゝ、何うもお樂みで。",
"對手が、素地で、初と來てるから、そこは却つて苦しみさな。情で苦勞を求めるんだ。洒落れた處はいくらもあるのに――だが、手打だから、つゆ加減がたまらねえや。"
],
[
"何しろ、お前、俺が顏を見せると、白い頸首が、島田のおくれ毛で、うつむくと、もう忽ち耳朶までポツとならうツて女が、お人形さんに着せるのだ、といつて、小さな紋着を縫つてゐるんだからよ。ふびんが加はらうぢやねえか、えへツへツ。人形のきものだとよ。てめえが好い玩弄の癖にしやあがつて。",
"また、旦那、滅法界な掘出しものをなすつたもんだね。一町越せば、蛤も、蜆も、山と積んぢやあありますが、問屋にも、おろし屋にも。……おまけに素人に、そんな光つたのは見た事もありやしません。",
"光るつたつて硝子ぢやあねえぜ。……底に艷があつて、ほんのり霞んでゐる珠だよ。こいつを、掌でうつむけたり、仰向けたり、一といへば一が出る、五といへば五が出る。龍宮から授かつた賽ころのやうな珠だから、えへツえへツへツ。",
"あ、旦那、猪口から。"
],
[
"あゝ、不可え、旦那、私がこんな柄でいつちや、をかしいやうですがね、うつかり風説はいけません。時々貴女のお姿が人目に見えて、然もお前さん。……髮をお洗ひなさる事さへあるツて言ひますから。……や、話をしても、裸體の脇の下が擽つてえ。",
"それだよ〳〵、その通り、却つて結構ぢやねえか。本所の一ツ目を見ねえな……盲目が見つけたのからして、もうすぐに辨天だ。俺の方でいはうと思つた。――いつか、連をごまかす都合でな、隙潰しに開帳さして、其處等の辨天の顏を見たと思ひねえ、俺の玩弄品に、その、肖如さツたら。一寸驚いた。……おまけに、俺が熟と見てゐるうちに、瞼がぽツと來たぜ。……ウ。"
],
[
"あ、衄血だ。",
"ウーム。"
],
[
"泳いでゐます、鰺ですよ。",
"鱚だぜ。"
],
[
"お任せ申す。",
"心得たり。"
],
[
"濱通り……",
"はま通り?……"
]
] | 底本:「鏡花全集 巻二十七」岩波書店
1942(昭和17)年10月20日第1刷発行
1988(昭和63)年11月2日第3刷発行
初出:「東京日日新聞 第一八二七五号~第一八二九六号」東京日日新聞社
1927(昭和2)年7月17日~8月7日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「串戲」と「串談」、「燈《ひ》」と「灯《ひ》」の混在は、底本通りです。
※「女房」に対するルビの「にようぼう」と「かみさん」、「工場」に対するルビの「こうば」と「こうぢやう」、「兄哥」に対するルビの「あにき」と「あにい」、「旦那」に対するルビの「だんな」と「だな」の混在は、底本通りです。
※表題は底本では、「深川《ふかがは》浅景《せんけい》」となっています。
※題名の下にあった年代の注を、最後に移しました。
入力:門田裕志
校正:岡村和彦
2018年1月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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| {
"作品ID": "050780",
"作品名": "深川浅景",
"作品名読み": "ふかがわせんけい",
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"初出": "「東京日日新聞 第一八二七五号~第一八二九六号」東京日日新聞社、1927(昭和2)年7月17日~8月7日",
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[
[
"まだ、へい、何にもござりましねえね、いんま蕨のお汁がたけるだが、お飯は昨日の冷飯だ、それでよくば上げますがね。",
"結構だ、一膳出しておくんなさい、いや、どつこいしよ。"
],
[
"さあ、遣らつせえまし、蕨は自慢だよ。これでもへい家で食ふではねえ。お客樣に賣るだで、澤山沙魚の頭をだしに入れて炊くだアからね。",
"あゝ、あゝ、そりや飛だ御馳走だ。"
],
[
"あい、お代は置いたよ。",
"ゆつくらしてござらつせえ。",
"さて、出掛けよう。"
],
[
"えゝ、御新造樣、續きまして結構なお天氣にござります。",
"おや、元二かい、お精が出ます。今度は又格別お忙しからう。御苦勞だね。",
"何う仕りまして、數なりませぬものも蔭ながらお喜び申して居ります。",
"あゝ、おめでたいね、お客さまが濟むと、毎年ね、お前がたも夜あかしで遊ぶんだよ。まあ、其を樂にしてお働きよ。"
],
[
"何とも恐多い事ではござりますが、御新造樣に一つお願があつて罷出ましてござります、へい。外の事でもござりませんが、手前は當年はじめての御奉公にござりますが、承りますれば、大殿樣御誕生の御祝儀の晩、お客樣がお立歸りに成りますると、手前ども一統にも部屋で御酒を下さりまするとか。",
"あゝ、無禮講と申すのだよ、たんとお遊び、そしてお前、屹と何かおありだらう、隱藝でもお出しだと可いね。"
],
[
"私にもよくは分らないけれど、あの、何う云ふ事を申すのだえ、歌の心はえ。",
"へい、話の次第でござりまして、其が其の戀でござります。"
],
[
"戀の心はどんなのだえ。思うて逢ふとか、逢はないとか、忍ぶ、待つ、怨む、いろ〳〵あるわね。",
"えゝ、申兼ねましたが、其が其が、些と道なりませぬ、目上のお方に、もう心もくらんで迷ひましたと云ふのは、對手が庄屋どのの、其の。"
]
] | 底本:「鏡花全集 巻十五」岩波書店
1940(昭和15)年9月20日第1刷発行
1987(昭和62)年11月2日第3刷発行
入力:門田裕志
校正:川山隆
2011年9月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "004585",
"作品名": "二た面",
"作品名読み": "ふたおもて",
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} |
[
[
"おお、いま立っていさっしゃるのが、それじゃがの。",
"御不沙汰をいたして済みません。"
],
[
"お志の御回向はの。",
"一同にどうぞ。",
"先祖代々の諸精霊……願以此功徳無量壇波羅蜜。具足円満、平等利益――南無妙……此経難持、若暫持、我即歓喜……一切天人皆応供養。――"
],
[
"ありがとう存じます。",
"はいはい。",
"御苦労様でございました。",
"はい。"
],
[
"多くは故人になられたり、他国をなすったり、久しく、御墓参の方もありませぬ。……あんたは御縁辺であらっしゃるかの。",
"お上人様。"
],
[
"これは樹島の御子息かい。――それとなくおたよりは聞いております。何よりも御機嫌での。",
"御僧様こそ。",
"いや、もう年を取りました。知人は皆二代、また孫の代じゃ。……しかし立派に御成人じゃな。",
"お恥かしゅう存じます。",
"久しぶりじゃ、ちと庫裡へ。――渋茶なと進ぜよう。",
"かさねまして、いずれ伺いますが、旅さきの事でございますし、それに御近所に参詣をしたい処もございますから。",
"ああ、まだお娘御のように見えた、若い母さんに手を曳かれてお参りなさった、――あの、摩耶夫人の御寺へかの。"
],
[
"失礼ですが、ちょっと伺います――旅のものですが。",
"は、",
"蓮行寺と申しますのは?",
"摩耶夫人様のお寺でございますね。"
],
[
"その坂をなぞえにお上りなさいますと、――戸がしまっておりますが、二階家が見えましょう。――ね、その奥に、あの黒く茂りましたのが、虚空蔵様のお寺でございます。ちょうどその前の処が、青く明くなって、ちらちらもみじが見えますわね……あすこが摩耶夫人様でございます。",
"どうもありがとう――尋ねたいにも人通りがないので困っていました。――お庇様で……",
"いいえ……まあ。",
"御免なさい。",
"お静におまいりをなさいまし……御利益がございますわ。"
],
[
"あなた、仏様に御丹精は、それは実に結構ですが、お礼がお礼なんですから、お骨折ではかえって恐縮です。……それに、……唯今も申しました通り、然るべき仏壇の用意もありません。勿体なくありません限り、床の間か、戸袋の上へでもお据え申そうと思いますから、かたがた草双紙風俗にとお願い申したほどなんです。――本式ではありません。忉利天のお姿では勿体ないと思うのですから。……お心安く願います。",
"はい、一応は心得ましてござります。なお念のために伺いますが、それでは、むかし御殿のお姫様、奥方のお姿でござりますな。",
"草双紙の絵ですよ。本があると都合がいいな。"
],
[
"倭文庫。……",
"え、え、釈迦八相――師匠の家にございまして、私よく見まして存じております。いや、どうも。……"
],
[
"小僧から仕立てられました、……その師匠に、三年あとになくなられましてな。杖とも柱とも頼みましたものを、とんと途方に暮れております。やっと昨年、真似方の細工場を持ちました。ほんの新店でござります。",
"もし、"
],
[
"端本になりましたけれど、五六冊ございましたよ。",
"おお、そうか。",
"いや、いまお捜しには及びません。"
],
[
"は、つい。",
"お乳。"
],
[
"めめ、覚めて。はい……お乳あげましょうね。",
"のの様、おっぱい。……のの様、おっぱい。",
"まあ、のの様ではありません、母ちゃんよ。",
"ううん、欲くないの、坊、のんだの、のの様のおっぱい。――お雛様のような、のの様のおっぱい。",
"おや、夢を御覧だね。"
],
[
"嬢ちゃんですか。",
"ええ、もう、年弱の三歳になりますが、ええ、もう、はや――ああ、何、お茶一つ上げんかい。"
],
[
"先刻は。",
"まあ、あなた。",
"お目にかかったか。",
"ええ、梅鉢寺の清水の処で、――あの、摩耶夫人様のお寺をおききなさいました。"
],
[
"それは御縁じゃ――ますます、丹、丹精を抽んでますで。",
"ああ、こちらの御新姐ですか。"
],
[
"いや、ええ、その……師、師匠の娘でござりまして。",
"何ですね、――ねえ、……坊や。"
],
[
"ま、ま、摩……耶の字?……ああ、分りました。",
"御主人。"
],
[
"夫人のお名は、金員の下でなく、並べてか、……上の方へ願います。",
"あ、あ、あい分りました。",
"御丁寧に。……では、どうぞ。……決して口を出すのではありませんが、お顔をどうぞ、なりたけ、お綺麗になすって下さい。……お仕事の法にかなわないかは分りませんが。",
"ああ、いえ。――何よりも御容貌が大切でございます。――赤門寺のお上人は、よく店へお立寄り下さいますが、てまえどもの方の事にも、それはお悉しゅうございましてな。……お言には――相好説法――と申して、それぞれの備ったおん方は、ただお顔を見たばかりで、心も、身も、命も、信心が起るのじゃと申されます。――わけて、御女体、それはもう、端麗微妙の御面相でなければあいなりません。――……てまいただ、力、力が、腕、腕がござりましょうか、いかがかと存じまするのみでして、は、はい。"
]
] | 底本:「泉鏡花集成8」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年5月23日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第二十二卷」岩波書店
1940(昭和15)年11月20日発行
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2008年10月23日作成
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "048333",
"作品名": "夫人利生記",
"作品名読み": "ぶにんりしょうき",
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"底本出版社名1": "ちくま文庫、筑摩書房",
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"底本の親本名1": "鏡花全集 第二十二卷",
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[
[
"十貫、百と糶上げるのに、尾を下にして、頭を上へ上へと上げる。……景気もよし、見ているうちに値が出来たが、よう、と云うと、それ、その鯛を目の上へ差上げて、人の頭越しに飜然と投げる。――処をすかさず受取るんだ、よう、と云って後の方で。……威勢がいい。それでいて、腰の矢立はここのも同じだが、紺の鯉口に、仲仕とかのするような広い前掛を捲いて、お花見手拭のように新しいのを頸に掛けた処なぞは、お国がら、まことに大どかなものだったよ。",
"陽気ね、それは。……でも、ここは近頃の新開ですもの。お魚はほんのつけたりで、おもに精進ものの取引をするんですよ。そういっては、十貫十ウの、いまの親仁に叱られるかも知れないけれど、皆が蓮根市場というくらいなんですわ。",
"成程、大きに。――しかもその実、お前さんと……むかしの蓮池を見に、寄道をしたんだっけ。"
],
[
"陽気も陽気だし、それに、山に包まれているんじゃない、その市場のすぐ見通しが、大きな湖だよ、あの、有名な宍道湖さ。",
"あら、山の中だって、おじさん、こちらにも、海も、湖も、大きなのがありますわ。"
],
[
"あれ、温泉よ。",
"温泉?",
"いま通って来たじゃありませんか、おじさん。",
"ああ、あの紺屋の物干場と向い合った……蟋蟀がないていた……"
],
[
"その紺屋だって、あったのは昔ですわ。垣も何にもなくなって、いまは草場でしたわね。",
"そうだっけな――実は、あのならびに一人、おなじ小学校の組の友だちが居てね。……八田なにがし……",
"そのお飯粒で蛙を釣って遊んだって、御執心の、蓮池の邸の方とは違うんですか。"
],
[
"そうかい、温泉かい……こんな処に。",
"沸すんですよ……ただの水を。",
"ただの水はよかった、成程。",
"でも、温泉といった方が景気がいいからですわ。そしてね、おじさん、いまの、あれ、狢の湯っていうんですよ。",
"狢の湯?……"
],
[
"皆その御眷属が売っているようだ。",
"何? おじさん。",
"いえね、その狢の湯の。",
"あら聞こえると悪ござんすわ。"
],
[
"決して悪く云ったのじゃない。……これで地口行燈が五つ六つあってごらん。――横露地の初午じゃないか。お祭のようだと祝ったんだよ。",
"そんな事……お祭だなんのといって、一口飲みたくなったんじゃあ、ありません? おっかさん(外套氏の従姉をいう)ならですけど、可厭よ、私、こんな処で、腰掛けて一杯なんぞ。",
"大丈夫。いくら好きだって、蕃椒では飲めないよ。"
],
[
"そうか、私はまた狐の糸工場かと思った。雨あしの白いのが、天井の車麩から、ずらずらと降って来るようじゃあないか。",
"可厭、おじさん。"
],
[
"気味が悪い。",
"じゃあ、言直そう。ここは蓮池のあとらしいし、この糸で曼陀羅が織れよう。",
"ええ、だって、極楽でも、地獄でも、その糸がいけないの。",
"糸が不可いとは。",
"……だって、椎の木婆さんが、糸車を廻す処ですもの、小豆洗ともいうんですわ。"
],
[
"あれえ。",
"…………",
"可厭、おじさんは。",
"あやまった、あやまった。"
],
[
"そんな事に驚く奴があるものか。",
"だって、……でも、もう大丈夫だわ、ここへ来れば人間の狸が居るから。"
],
[
"町子嬢、町子嬢。",
"は。"
],
[
"気取ったな。",
"はあ。",
"一体こりゃどういう事になるんだい。",
"慈姑の田楽、ほほほ。"
],
[
"おじさんは、小児の時、お寺へ小僧さんにやられる処だったんだって……何も悪たれ坊ッてわけじゃない、賢くって、おとなしかったから。――そうすりゃきっと名僧知識になれたんだ。――お母さんがそういって話すんだわ。",
"悪かったよ。その方がよかったんだよ。相済まなかったよ。"
],
[
"ほほほほ、そのせいだか、精進男で、慈姑の焼いたのが大好きで、よく内へ来て頬張ったんだって……お母さんたら。",
"ああ、情ない。慈姑とは何事です。おなじ発心をしたにしても、これが鰌だと引導を渡す処だが、これじゃ、お念仏を唱えるばかりだ。――ああ、お町ちゃん。"
],
[
"……そういえば、一昨日の晩……途中で泊った、鹿落の温泉でね。",
"ええ。",
"実際、お念仏を唱えたよ、真夜半さ。",
"夜半。"
],
[
"……何、考えて見れば、くだらない事なんだが、鹿落は寂しい処だよ。そこを狙ったわけでもないが、来がけに一晩保養をしたがね。真北の海に向って山の中腹にあるんだから、長い板廊下を九十九折とった形に通るんだ。――知っているかも知れないが。――座敷は三階だったけれど、下からは四階ぐらいに当るだろう。晩飯の烏賊と蝦は結構だったし、赤蜻蛉に海の夕霧で、景色もよかったが、もう時節で、しんしんと夜の寒さが身に沁みる。あすこいら一帯に、袖のない夜具だから、四布の綿の厚いのがごつごつ重くって、肩がぞくぞくする。枕許へ熱燗を貰って、硝子盃酒の勢で、それでもぐっすり疲れて寝た。さあ何時頃だったろう。何しろ真夜半だ。厠へ行くのに、裏階子を下りると、これが、頑丈な事は、巨巌を斫開いたようです。下りると、片側に座敷が五つばかり並んで、向うの端だけ客が泊ったらしい。ところが、次の間つきで、奥だけ幽にともれていて、あとが暗い。一方が洗面所で、傍に大きな石の手水鉢がある、跼んで手を洗うように出来ていて、筧で谿河の水を引くらしい……しょろ、しょろ、ちゃぶりと、これはね、座敷で枕にまで響いたんだが、風の声も聞こえない。",
"まあ……",
"すぐの、だだッ広い、黒い板の間の向うが便所なんだが、その洗面所に一つ電燈が点いているきりだから、いとどさえ夜ふけの山気に圧されて、薄暗かったと思っておくれ。",
"可厭あね。"
],
[
"三階の裏階子を下りた処だわね、三つ並んだ。",
"どうかしたかい。",
"どうして……それから。"
],
[
"その真中の戸が、バタン……と。",
"あら……",
"いいえさ、怯かすんじゃあない。そこで、いきなり開いたんだと、余計驚いたろうが――開いていたんだよ。ただし、開いていた、その黒い戸の、裏桟に、白いものが一条、うねうねと伝っている。",
"…………",
"どこからか、細目に灯が透くのかしら?……その端の、ふわりと薄匾ったい処へ、指が立って、白く刎ねて、動いたと思うと、すッと扉が閉った。招いたような形だが、串戯じゃあない、人が行ったので閉めたのさ。あとで思ってもまったく色が白かった、うつくしい女の手だよ――あ、どうした。"
],
[
"――そういえば真中のはなかったよ、……朝になると。……じゃあ何か仔細があるのかい。",
"おじさん――それじゃ、おじさんは、幽霊を、見たんですね。",
"幽霊を。",
"もう私……気味が悪いの、可厭だなぞって、そんな押退けるようなこと言えませんわ。あんまり可哀想な方ですもの。それはね、あの、うぐい(鯎)亭――ずッと河上の、川魚料理……ご存じでしょう。",
"知ってるとも。――現在、昨日の午餉はあすこで食べたよ。閑静で、落着いて、しんみりして佳い家だが、そんな幽霊じみた事はいささかもなかったぜ。",
"いいえ、あすこの、女中さんが、鹿落の温泉でなくなったんです。お藻代さんという、しとやかな、優しい人でした。……おじさん、その白い、細いのは、そのお藻代さんの手なんですよ。"
],
[
"――みんな、いい女らしいね。見た処。中でも、俵のなぞは嬉しいよ。ここに雪形に、もよ、というのは。",
"飛んだ、おそまつでございます。"
],
[
"厠からすぐだろうか。",
"さあね、それがね、恥かしさと死ぬ気の、一念で、突き破ったんでしょうか。細い身体なら抜けられるくらい古壁は落ちていたそうですけれど、手も浄めずに出たなんぞって、そんなのは、お藻代さんの身に取って私は可厭。……それだとどこで遺書が出来ます。――轢かれたのは、やっと夜の白みかかった時だっていうんですもの。もっとも(幽なお月様の影をたよりに)そうかいてもあるんですけれども。一旦座敷へ帰ったんです。一生懸命、一大事、何かの時、魂も心も消えるといえば、姿だって、消えますわ。――三枚目の大男の目をまわしているまわりへ集まった連中の前は、霧のように、スッと通って、悠然と筧で手水をしたでしょう。",
"もの凄い。",
"でも、分らないのは、――新聞にも出ましたけれど、ちゃんと裾腰のたしなみはしてあるのに、衣ものは、肌まで通って、ぐっしょり、ずぶ濡れだったんですって。……水ごりでも取りましたか、それとも途中の小川へでも落ちたんでしょうか。",
"ああ、縁台が濡れる。"
],
[
"……あすこに人が一人立っているね、縁台を少し離れて、手摺に寄掛って。",
"ええ、どしゃ降りの時、気がつきましたわ。私、おじさんの影法師かと思ったわ。――まだ麦酒があったでしょう。あとで一口めしあがるなぞは、洒落てるわね。"
],
[
"その向の方なら、大概私が顔見知りよ。……いいえ、盗賊や風俗の方ばかりじゃありません。",
"いや、大きに――それじゃ違ったろう。……安心した。――時に……実は椎の樹を通ってもらおうと思ったが、お藻代さんの話のいまだ。今度にしようか。",
"ええ、どちらでも。……ですが、もうこの軒を一つ廻った塀外が、じきその椎の樹ですよ。棟に蔭がさすでしょう。路地の暗いのもそのせいですわ。",
"大きな店らしいのに、寂寞している。何屋だろう。",
"有名な、湯葉屋です。",
"湯葉屋――坊主になり損った奴の、慈姑と一所に、大好きなものだよ。豆府の湯へ箱形の波を打って、皮が伸びて浮く処をすくい上げる。よく、東の市場で覗いたっけ。……あれは、面白い。",
"入ってみましょう。",
"障子は開いている――ははあ、大きな湯の字か。こん度は映画と間違えなかった。しかし、誰も居ないが、……可いかい。",
"何かいったら、挨拶をしますわ。ちょっと参観に、何といいましょう、――見学に、ほほほ。"
],
[
"いずれ、それは……その、如是我聞という処ですがね。と時に、見附を出て、美佐古(鮨屋)はいかがです。",
"いや。",
"これは御挨拶。"
],
[
"そこを見込んで誘いましたよ。",
"私もそうだろうと思ってさ。"
],
[
"いい女ね。見ましたか。",
"まったく。",
"しっとりとした、いい容子ね、目許に恐ろしく情のある、口許の優しい、少し寂しい。"
],
[
"そっくりね。",
"気味が悪いようですね。"
]
] | 底本:「泉鏡花集成8」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年5月23日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集」岩波書店
1942(昭和17)年7月刊行開始
入力:門田裕志
校正:林 幸雄
2001年9月17日公開
2005年9月27日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
[
"お掛けやす。",
"お休みやーす。"
],
[
"この人はや。",
"おいの。"
],
[
"どこの人ずら。",
"さればいの。"
],
[
"お驚きでございましたろうで、恐縮でござります。",
"はあ、"
],
[
"生命にも別条はありません。",
"重畳でござる。"
],
[
"しかし大丈夫、立派な処を御目に懸けました。何ですか、貴下は、これから、",
"さよう、竹の橋をさして下山いたすでございます、貴辺はな。"
],
[
"赫と気ばかり上って、ざっと一日、好な煙草もよう喫みません。世に推事というは出来ぬもので、これがな、腹に底があってした事じゃと、うむと堪えるでござりましょうが、好事半分の生兵法、豪く汗を掻きました。",
"峠に何事があったんですか。",
"されば。"
],
[
"――ございました。",
"どんな事ですか。"
],
[
"その替り村里から、この山へ登るものは、ばったり絶えたでありましてな。",
"それで、"
],
[
"猿ヶ馬場へ、",
"さようで、立場の焼跡へ、",
"はあ成程。"
],
[
"何ですか、その一軒家というのは、以前の茶屋なんでしょう、左側の……右側のですか。",
"御存じかな。",
"たびたび通って知っています。",
"ならば御承知じゃ。右側の二軒目で、鍵屋と申したのが焼残っておりますが。",
"鍵屋、――二軒目の。"
],
[
"ええ、鍵屋なら、お上りになりますかな。",
"別に、鍵屋ならばというのじゃありませんが。これから越します。"
],
[
"しかし、御重宝、",
"いや、御役に立てば本懐であります。"
],
[
"御無事で、",
"さようなら。"
],
[
"御免。",
"ほう……"
],
[
"それは峠までは来ませんでした。風呂敷包みがあったので、途中見懸けたのを、頼んで、そこまで持たして来たのだそうで。……やっぱりその婆さんは、路傍に二人で立っていた一人らしく思われます。その居た処は、貴下にお目にかかりました、あの縄張をした処、……",
"さよう。",
"あすこよりは、ずっと麓の方です。"
],
[
"金沢から、",
"ですから汽車へいらっしゃる、貴下と逢違う筈はありません。",
"旅をかけて働きますかな。",
"ええ、",
"いや、盗賊も便利になった。汽車に乗って横行じゃ。倶利伽羅峠に立籠って――御時節がら怪しからん……いずれその風呂敷包みも、たんまりいたした金目のものでございましょうで。"
],
[
"お先達。",
"はい、"
],
[
"風呂敷の中は、綺麗な蒔絵の重箱でしたよ。",
"どこのか、什物、",
"いいえ、その婦人の台所の。",
"はてな、",
"中に入ったのは鮎の鮨でした。",
"鮎の鮨とは、",
"荘河の名産ですって、"
],
[
"どうもならん。こりゃ眉毛に唾じゃ。貴辺も一ツ穴の貉ではないか。怪物かと思えば美人で、人面瘡で天人じゃ、地獄、極楽、円髷で、山賊か、と思えば重箱。……宝物が鮎の鮨で、荘河の名物となった。……待たっせえ、腰を円くそう坐られた体裁も、森の中だけ狸に見える。何と、この囲炉裏の灰に、手形を一つお圧しなさい、ちょぼりと落雁の形でござろう。",
"怪しからん、"
],
[
"誰も山賊の棲家だとも、万引の隠場所だとも言わないのに、貴下が聞違えたんではありませんか。ええ、お先達?",
"はい、"
],
[
"御馳走は……しかも、ああ、何とか云う、ちょっと屠蘇の香のする青い色の酒に添えて――その時は、筧の水に埃も流して、袖の長い、振の開いた、柔かな浴衣に着換えなどして、舌鼓を打ちましたよ。",
"いずれお酌で、いや、承っても、はっと酔う。"
],
[
"しかし、その倒れていた婦人ですが、",
"はあ、それがお酌を参ったか。",
"いいえ、世話をしてくれましたのは、年上の方ですよ。その倒れていた女は――ですね。",
"そうそうそう、またこれは面被りじゃ。どうもならん、我ながら慌てて不可ん。成程、それはまだ一言も口を利かずに、貴辺の膝に抱かれていたて。何をこう先走るぞ。が、お話の不思議さ、気が気でないで急立ちますよ、貴辺は余り落着いておいでなさる。"
],
[
"やあやあ、",
"それに、貴下が打棄っておいでなすったと聞きました、その金剛杖まで、一揃、驚いたものの目には、何か面当らしく飾りつけたもののように置いてある。……"
],
[
"そこでその、白い乳房でも露したでござるか。",
"いいえ。",
"いずれ、鳩尾に鱗が三枚……"
],
[
"全体蛇体でござるかな。",
"いいえ。",
"しからば一面の黒子かな、何にいたせ、その膚を、その場でもって……",
"見ました、見ましたが、それは寝てからです。",
"寝て……からはなお怪しからん。これは大変。"
],
[
"はッはッ、それまで承っては、山伏も恐入る。あのその羅を透くと聞きましただけでも美しさが思い遣られる。寝てから膚を見たは慄然とする……もう目前へちらつく、独の時なら鐸を振って怨敵退散と念ずる処じゃ。",
"聞きようが悪い、お先達。私が一ツ部屋にでも臥ったように、",
"違いますか。",
"飛んだ事を!"
],
[
"はてな。",
"婦たちは母屋に寝て、私は浅芽生の背戸を離れた、その座敷に泊ったんです。別々にも、何にも、まるで長土間が半町あります。",
"またそれで、どうして貴辺は?",
"そうです……お聞苦しかろうが、覗いたんです。",
"お覗きなすった?いずれから。"
],
[
"山伏でも寝にくいで、御無理はない、迷いじゃな。",
"迷……迷いは迷いでしょうが、色の、恋のというのじゃありません。これは言訳でも何でもない、色恋ならまだしもですが、まったくは、何とも気味の悪い恐しい事が出来たんです。",
"はあ、蚊帳を抱く大入道、夜中に山霧が這込んでも、目をまわすほど怯かされる、よくあるやつじゃ。"
],
[
"やあやあ、どちらの御婦人で。",
"いや、男の声。不思議にも怪しいにも、婦人なら母屋の方に縁はあるが、まさしく男なんですものね。",
"男の声かな、ええ、それは大変。生血を吸われる夥間らしい、南無三、そこで?",
"何しろどこだ知らん。薄気味悪さに、頭を擡げて、熟と聞くと……やっぱり、ウーと呻吟る、それが枕許のその本箱の中らしい。",
"本箱の?"
],
[
"その痣を、貴婦人が細い指で、柔かにそろそろと撫でましたっけ。それさえ気味が悪いのに、十度ばかり擦っておいて、円髷を何と、少い女の耳許から潜らして、あの鼻筋の通った、愛嬌のない細面の緊った口で、その痣を、チュッと吸う、",
"うーむ、"
]
] | 底本:「泉鏡花集成5」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年2月22日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第十一卷」岩波書店
1941(昭和16)年8月15日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:高柳典子
2007年7月13日作成
青空文庫作成ファイル:
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[
[
"いかがなものでございましょうか、飛んだお邪魔になりましょうが。",
"何、お前さん、お互様です。",
"では一ツ御不省なすって、",
"ええ可うございますともね。だが何ですよ。成たけ両方をゆっくり取るようにしておかないと、当節は喧しいんだからね。距離をその八尺ずつというお達しでさ、御承知でもございましょうがね。",
"ですからなお恐入りますんで、",
"そこにまたお目こぼしがあろうッてもんですよ、まあ、口明をなさいまし。",
"難有う存じます。"
],
[
"石油が待てしばしもなく、※(火+發)と燃え移るから起るのであります。御覧なさいまし、大阪の大火、青森の大火、御承知でありましょう、失火の原因は、皆この洋燈の墜落から転動(と妙な対句で)を起しまする。その危険な事は、硝子壺も真鍮壺も決して差別はありません。と申すが、唯今もお話しました通り、火が消えないからであります。そこで、手前商いまするのは、ラジーンと申して、金山鉱山におきまして金を溶かしまする処の、炉壺にいたしまするのを使って製造いたしました、口金の保助器は内務省お届済みの専売特許品、御使用の方法は唯今お目に懸けまするが、安全口金、一名火事知らずと申しまして、",
"何だ、何だ。"
],
[
"踊っとるは誰じゃ、何しとるかい。",
"へい、面白ずくに踊ってるじゃござりません。唯今、鼻紙で切りました骸骨を踊らせておりますんで、へい、",
"何じゃ、骸骨が、踊を踊る。"
],
[
"手品か、うむ、手品を売りよるじゃな。",
"へい、八通りばかり認めてござりやす、へい。"
],
[
"どうじゃ五厘も投げてやるか。",
"ええ、投銭、お手の内は頂きやせん、材あかしの本を売るのでげす、お求め下さいやし。",
"ふむ……投銭は謝絶する、見識じゃな、本は幾干だ。",
"五銭、",
"何、",
"へい、お立合にも申しておりやす。へい、ええ、ことの外音声を痛めておりやすんで、お聞苦しゅう、……へい、お極りは五銅の処、御愛嬌に割引をいたしやす、三銭でございやす。",
"高い!"
],
[
"手品屋、負けろ。",
"毛頭、お掛値はございやせん。宜しくばお求め下さいやし、三銭でごぜいやす。",
"一銭にせい、一銭じゃ。"
],
[
"何とも譬えようがありません。ただ一分間、一口含みまして、二三度、口中を漱ぎますと、歯磨楊枝を持ちまして、ものの三十分使いまするより、遥かに快くなるのであります。口中には限りません。精神の清く爽かになりますに従うて、頭痛などもたちどころに治ります。どうぞ、お試し下さい、口は禍の門、諸病は口からと申すではありませんか、歯は大事にして下さい、口は綺麗にして下さいまし、ねえ、私が願います、どうぞ諸君。",
"この砥石が一挺ありましたらあ、今までのよに、盥じゃあ、湯水じゃあとウ、騒ぐにはア及びませぬウ。お座敷のウ真中でもウ、お机、卓子台の上エでなりとウ、ただ、こいに遣って、すぅいすぅいと擦りますウばかりイイイ。菜切庖丁、刺身庖丁ウ、向ウへ向ウへとウ、十一二度、十二三度、裏を返しまして、黒い色のウ細い砥ウ持イましてエ、柔こう、すいと一二度ウ、二三度ウ、撫るウ撫るウばかりイ、このウ菜切庖丁が、面白いようにイ切まあすウる、切れまあすウる。こいに、こいに、さッくりさッくり横紙が切れますようなら、当分のウ内イ、誰方様のウお邸でもウ、切ものに御不自由はございませぬウ。このウ細い方一挺がア、定価は五銭のウ処ウ、特別のウ割引イでエ、粗のと二ツ一所に、名倉の欠を添えまして、三銭、三銭でエ差上げますウ、剪刀、剃刀磨にイ、一度ウ磨がせましても、二銭とウ三銭とは右から左イ……"
],
[
"相変らず不可ますまい、そう云っちゃ失礼ですが。",
"いえ、思ったより、昨夜よりはちっと増ですよ。",
"また私どもと来た日にゃ、お話になりません。",
"御多分には漏れませんな。",
"もう休もうかと思いますがね、それでも出つけますとね、一晩でも何だか皆さんの顔を見ないじゃ気寂しくって寝られません。……無駄と知りながら出て来ます、へい、油費えでさ。"
],
[
"どうですか、膃肭臍屋さん。",
"いや、"
],
[
"昨夜は、飛んだ事でしたな……",
"お話になりません。",
"一体何の事ですか、"
]
] | 底本:「泉鏡花集成4」ちくま文庫、筑摩書房
1995(平成7)年10月24日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第十三卷」岩波書店
1941(昭和16)年6月30日発行
入力:門田裕志
校正:土屋隆
2006年1月30日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"名読みソート用": "きようか",
"姓ローマ字": "Izumi",
"名ローマ字": "Kyoka",
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"没年月日": "1939-09-07",
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"底本出版社名1": "ちくま文庫、筑摩書房",
"底本初版発行年1": "1995(平成7)年10月24日",
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[
[
"何處か其處等へ連れて行つて見たらば何うだね。",
"まあ、もうちつと斯うやつとかう、いまに尋ねに來ようと思ふから。",
"それも左樣か。おい、泣かんでも可い、泣かないで、大人しくして居るとな、直ぐ母樣が連れに來るんぢや。"
]
] | 底本:「鏡花全集 巻二十七」岩波書店
1942(昭和17)年10月20日第1刷発行
1988(昭和63)年11月2日第3刷発行
※表題は底本では、「迷子《まひご》」となっています。
※表題の下にあった年代の注を、最後に移しました。
入力:門田裕志
校正:米田進
2002年4月24日作成
2016年2月2日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "004247",
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"姓読みソート用": "いすみ",
"名読みソート用": "きようか",
"姓ローマ字": "Izumi",
"名ローマ字": "Kyoka",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1873-11-04",
"没年月日": "1939-09-07",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "鏡花全集 巻二十七",
"底本出版社名1": "岩波書店",
"底本初版発行年1": "1942(昭和17)年10月20日",
"入力に使用した版1": "1988(昭和63)年11月2日第3刷",
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"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
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"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "門田裕志",
"校正者": "米田進",
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"XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS",
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"XHTML/HTMLファイル修正回数": "2"
} |
[
[
"お婆さん、相坂へ行くのは、",
"直き其の突當りを曲つた處でございますよ。"
],
[
"饀子のは――お手間が取れますツ。",
"ぢや、待たうよ。"
],
[
"餌子のはお手間が取れますツ。",
"然う、"
],
[
"二十錢のを一ツ、十五錢のと、十錢のと都合三包だよ。",
"饀子ならお手間が取れますツ。"
],
[
"皆附燒の方さ。",
"へーい。",
"ぢや、分つたかね。"
],
[
"五錢頂戴。",
"へーい。",
"さあ、"
],
[
"饀子ならお手間が取れますツ。",
"あら、燒いたのだわよ、兄さん。"
],
[
"十錢のを二包、二包ですよ――可いかい。其から、十五錢のを一包、皆燒いたのをね。",
"へーい、唯今。",
"否、歸途で可いのよ。",
"へーいツ"
],
[
"然う……では其の十五錢のなかへ、饀のを交ぜて、――些とで可いの。",
"些と、"
],
[
"へーい。",
"さあ、それぢやおまゐりをして來ようね。",
"あい、"
]
] | 底本:「鏡花全集 巻二十七」岩波書店
1942(昭和17)年10月20日第1刷発行
1988(昭和63)年11月2日第3刷発行
※題名の下にあった年代の注を、最後に移しました。
※表題は底本では、「松《まつ》の葉《は》」とルビがついています。
入力:門田裕志
校正:川山隆
2011年9月4日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "004595",
"作品名": "松の葉",
"作品名読み": "まつのは",
"ソート用読み": "まつのは",
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"分類番号": "NDC 913",
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"姓": "泉",
"名": "鏡花",
"姓読み": "いずみ",
"名読み": "きょうか",
"姓読みソート用": "いすみ",
"名読みソート用": "きようか",
"姓ローマ字": "Izumi",
"名ローマ字": "Kyoka",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1873-11-04",
"没年月日": "1939-09-07",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "鏡花全集 巻二十七",
"底本出版社名1": "岩波書店",
"底本初版発行年1": "1942(昭和17)年10月20日",
"入力に使用した版1": "1988(昭和63)年11月2日第3刷",
"校正に使用した版1": "1976(昭和51)年1月6日第2刷 ",
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} |
[
[
"今日のお菜は?",
"車麩。"
],
[
"また婆の股だぜ。",
"恐れるなあ。"
],
[
"飛でもない――誰にお聞きに成りました。",
"ぢき、横町の……何の、車夫に――"
],
[
"お、お、周南よ。汝旬日にして當に死ぬべきぞ。",
"あゝ、然やうか。"
],
[
"お、お、周南よ。汝、今日の中に、當に死ぬべきぞ。",
"あゝ、然やうか。"
],
[
"お、お、周南、汝、日中、午にして當に死ぬべきぞ。",
"あゝ、然やうか。"
],
[
"周南、汝、死なん。",
"あゝ、然やうか。",
"周南、周南、いま死ぬぞ。",
"然やうか。"
],
[
"氣味が惡くて手がつけられません。",
"地震以來、ひとを馬鹿にして居るんですな。"
]
] | 底本:「鏡花全集 巻二十七」岩波書店
1942(昭和17)年10月20日第1刷発行
1988(昭和63)年11月2日第3刷発行
※題名の下にあった年代の注を、最後に移しました。
※表題は底本では、「間引菜《まびきな》」とルビがついています。
入力:門田裕志
校正:川山隆
2011年8月14日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "050784",
"作品名": "間引菜",
"作品名読み": "まびきな",
"ソート用読み": "まひきな",
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"初出": "",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "旧字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2011-11-04T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-16T00:00:00",
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"人物ID": "000050",
"姓": "泉",
"名": "鏡花",
"姓読み": "いずみ",
"名読み": "きょうか",
"姓読みソート用": "いすみ",
"名読みソート用": "きようか",
"姓ローマ字": "Izumi",
"名ローマ字": "Kyoka",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1873-11-04",
"没年月日": "1939-09-07",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "鏡花全集 巻二十七",
"底本出版社名1": "岩波書店",
"底本初版発行年1": "1942(昭和17)年10月20日",
"入力に使用した版1": "1988(昭和63)年11月2日第3刷",
"校正に使用した版1": "1976(昭和51)年1月6日第2刷 ",
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"入力者": "門田裕志",
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} |
[
[
"失禮、此處は一體何處なんですか。",
"姨捨です。"
],
[
"姨捨です。",
"成程。"
],
[
"雜と十日ばかり後れて居ますです。最う雪ですからな。風によつては今夜にも眞白に成りますものな。……尤も出盛りの旬だと云つても、月の頃ほどには來ないのでしてな。",
"あゝ、其の姨捨山と云ふのは孰れでございます。",
"裏の此の山一體を然う云ふんださうです。"
],
[
"伊那へは、此の驛から何里ですな。",
"六里半、峠越しで、七里でせう。",
"しますと、次の驛からだと如何なものでせう。",
"然やう……おい〳〵。"
],
[
"……驛からだと伊那まで何里かね。",
"山路六里……彼是七里でございます。"
],
[
"俥はありませうか。",
"ございます。"
],
[
"次の驛には、",
"多分ございませう、一臺ぐらゐは。",
"否、此處で下ります。"
],
[
"些とも小鳥が居ないやうだな。",
"搜すと居ります。……昨日も鐵砲打の旦那に、私がへい、お供で、御案内でへい、立派に打たせましたので。"
],
[
"一寸、菊屋の迎かい。",
"然うで。"
],
[
"おい、其處へ行くんだ、俥はないかね。",
"今ので出拂つたで、",
"出拂つた……然うか。……餘程あるかい。",
"何、ぢき其處だよ。旦那、毛布預ろかい。"
],
[
"荷もつも寄越すが可いよ。",
"追剥のやうだな。"
],
[
"これは可いよ。",
"然うかね、では、早く來さつせいよ。寒いから。"
],
[
"お召しかへなさいまして、お湯へ入らつしやいまし。",
"然うだ、飛込まう。"
]
] | 底本:「鏡花全集 巻十五」岩波書店
1940(昭和15)年9月20日第1刷発行
1987(昭和62)年11月2日第3刷発行
入力:門田裕志
校正:川山隆
2011年9月4日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "004586",
"作品名": "魔法罎",
"作品名読み": "まほうびん",
"ソート用読み": "まほうひん",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "旧字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2011-10-09T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-16T00:00:00",
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"姓": "泉",
"名": "鏡花",
"姓読み": "いずみ",
"名読み": "きょうか",
"姓読みソート用": "いすみ",
"名読みソート用": "きようか",
"姓ローマ字": "Izumi",
"名ローマ字": "Kyoka",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1873-11-04",
"没年月日": "1939-09-07",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "鏡花全集 巻十五",
"底本出版社名1": "岩波書店",
"底本初版発行年1": "1940(昭和15)年9月20日",
"入力に使用した版1": "1987(昭和62)年11月2日第3刷",
"校正に使用した版1": "1975(昭和50)年 1月6日第2刷",
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